毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・12・西海国立公園」
1994.2――入稿原稿


■国立公園物語…西海

 日本の国立公園を順々に見ていくにあたって、私は3日間と期間を決めて、概観だけの取材をしています。探検的ジェネラルサーベイというつもりです。
 ふつうは国立公園の玄関口となる駅か空港でレンタカーを借りてひたすら走るのですが、島だとそうはいきません。今回は長崎から飛行機で福江島に入り、レンタカーで3時間ほどで島を1周。翌朝船で中通*ナカドウリ島に渡ってふたたびレンタカーを借り、4時間ほどのドライブ。若松大橋を渡って若松島にも渡りました。
 その日のうちに船で佐世保に出てまたレンタカーを借り、平戸まで走って泊まるというぐあい。最終日は平戸島と生月*イキツキ島、それに九十九島*クジュウクシマの沿岸を走って佐世保に戻りました。
 ほんのいちべつにすぎないのですが、それでも国立公園というエリアをできるかぎり縦横に走り回ってみたいため、そのエリアの縦断、横断、一周など、できるだけ素朴な行動目標を定めているわけです。
 ところが今回は、島の中を走りながらどうにも満足できない気持ちがつのってきました。それは西海国立公園は本来、海から見るべきものではないかということです。車で走るのではなく、船で深い入り江に分け入りながら島を1周してみたら、世界はまったく違うはずです。陸から垣間見るみごとなリアス海岸は、海から訪れたひとにだけ見せる別の表情をもっているにちがいないと思えてならないのです。
 そして実際、太古の昔から人々は船からこの島々を見、この海をのぞいてきたのです。深い入り江のどこかにひそんで身を隠した人々もどれほどの数にのぼることでしょう。
 今回はいつもと同じ方法で取材しながら、なにも見なかったのではないかという思いが大きなものになりました。そこで帰ってから、もう一度初心に帰って百科事典を読んでみました。本棚でもジェネラルサーベイをやってみたのです。
 それから、現地の書店で見つけた何冊かの本を「海の国立公園」という興味で読んでみました。
 1冊は平戸島の東に寄り添うように浮かぶ生月島のお医者さん、近藤儀左エ門さんの『生月史稿――かくれキリシタンの島』(1977年初版、1990年改訂) です。これは佐世保市の芸文堂という出版社の肥前歴史叢書の第2巻となっています。京都帝国大学法学部教授となった著者の叔父・近藤英吉さんが収集した史料を散逸させまいと考えてまとめた、とまえがきにあります。
 もう1冊は福江島の平山徳一さんがまとめた『五島史と民俗』(1989年、自費出版) です。

●百科辞典の散歩

 私の手元には、古い百科事典が2セットあります。日本語のものと英語のもので、どちらも傑作百科事典といわれるものです。いまのものはコンピューターを使って編集されていますから、もっと使い勝手がいいと思います。
 最初は平凡社の『世界大百科事典』で1968年(昭和43) の初版です。その第24巻が索引になっています。まずは「西海国立公園」という項目がないかどうか調べてみます。
 索引には次のように出ていました。
 ――西海国立公園 9-265c, 8-633S ――
 9巻の265ページには「西海国立公園」がありました。「c」というのは3段組みの本文のうち、左段=a、中段=b、右段=c という意味です。
 8巻の633ページにあったのは「西海国立公園」というタイトルの写真でした。「s」の記号は別刷り図版という意味です(煩雑なため、以下、アルファベットの記号は省略します)。その写真ページは「国立公園」という項目に対応していて、その本文は4ページにまたがるほどの重要項目になっています。
 まずは「西海国立公園」を読んでみます。
 ――長崎県の西部を占める五島列島、平戸島、九十九島などをあわせた地域に成立した国立公園。1955年3月指定。面積243.24平方km。――
 概要のつぎに特徴が述べられています。段落に分けて列記するかたちで引用してみます。
 ――A…かつては要塞地帯のベールにとざされていたが、第二次世界大戦後にわかに学術上注目をあびた。
 B…自然景観上の特色は塩基性火山群を伴う沈降性多島海景観と言うべきもので、とくに火山地形・海岸地形には学術上貴重なものが少なくない。
 C…気候も温暖であり、ためにアコウ、ビロウ、リュウビンタイ、ソテツ、ヘゴ、オオタニワタリなどの亜熱帯植物景観が見られる。
 D…こうした自然景観とともに階段耕作、放牧などの土地利用景観をはじめ、人文景観の多彩なことも特徴であって、
 E…南蛮貿易やキリシタンにまつわる異国情緒豊かな史跡や豊富な文化財とともに観光価値が高く評価され、いわばイギリス式の国立公園である。
 F…〈五島地区〉は南部の福江島周辺、中部の若松瀬戸、北部の小値賀(おぢか) 島周辺が中心をなしている。
 G…福江島には鬼岳火山群をはじめ塩基性火山が多く、これらが形成しているホマーテ(臼状火山)、アスピーテ(楯状火山)、トロイデ(鐘状火山)、溶岩原などの地形は小形ながら日本の代表的なものである。巨大な火山弾や微小な火山涙も各地で採集される。
 H…また嵯峨ノ島では海食によって火山体の縦断面がそっくり現われ、世界的にもまれな例とされている。
 I…玉之浦湾は若松瀬戸とともに、日本における代表的なリアス海岸で、外洋に面する美しい海食崖は延々約20kmに及ぶ。
 J…小値賀島周辺は21座の小形ホマーテからなる島群で、あたかも月世界を見るような景観である。その一つの斑*マダラ島では深さ3m、直径1mに達する大甌穴*オウケツが発見され、1958年天然記念物に指定された。
 K…〈平戸地区〉は第三紀層を基盤とする玄武岩・安山岩・集塊岩からなり、低平なメーサや険しい開析火山地形をかたちづくっている。
 L…この地区はとくに史跡に名高く、また南は五島列島より北は対馬に及ぶ広大な多島海の展望地として、さらに五島地区と九十九島地区とを結ぶ中継地、釣魚の基地としてすぐれている。
 M…〈九十九島地区〉である江迎*エムカエ湾より佐世保湾にいたる南北25kmの沿岸には200あまりの小島が散在し、日本第1の島の分布密度を誇っている。これが九十九島で、侵食平たん面が開析され、さらに海中に沈殿して生じたものである。
 N…日本の多島海では一般にマツなどの針葉樹が多いが、この九十九島はおもに常緑広葉樹林でおおわれ、他に例のない植物景観を呈している。本土側には冷水*ヒヤミズ岳などのメーサが発達し、展望所として好適である。――
 この記事の署名は浅野芳正となっています。索引の執筆者一覧には欠落しているのですが、いかにも百科事典的な、要点をつらねた解説になっています。
 百科事典を出発点とする知的散策では、しかし、本文は単なる踏切板ぐらいに構えて、索引をこまかくひいてみるのがいいと思います。関連分野がシリトリゲームのようにひろがっていくなかで、自分の関心をかきたてるものに出会うことが多いからです。
 いま読んだ「西海国立公園」に出てくる固有名詞や事項を索引で調べてみます。なお〈〉内は私が調べて記入した該当見出しです。
五島列島=9-7
平戸島=18-823
 平戸島という索引項目の周囲には次のようなものもありました。
平戸瀬戸……18-823〈平戸島〉
平戸藩……18-625〈肥前国〉
平戸松浦氏……21-53〈松浦党〉
 つぎは九十九島。能登の九十九湾は「つくもわん」ですがこちらは「くじゅうくしま」です
九十九島=6-563……8-633〈西海国立公園=写真〉……9-266〈西海国立公園〉
 国立公園についてはつぎのものがありました。
国立公園=8-613……8-623〈国立公園=写真〉……10-233〈自然公園法〉
国立公園法……8-616〈国立公園〉……10-233〈自然公園法〉
 Bの段落で関連しそうな項目もあります。
塩基性岩=3-217
沈降海岸……3-747〈海岸〉
 Cの段落の植物名も必要なら詳しく調べられるようです。
アコウ(植物) =1-118
ビロウ(蒲葵) =19-36……19-67〈びんろう〉
リュウビンタイ=23-91
ソテツ(蘇鉄) =14-8……22-612〈裸子植物〉
ヘゴ=20-84
オオタニワタリ=3-344
 Eの段落は追いかけると際限なく広がりそうです。まずは南蛮貿易に関連して、南蛮という言葉のつくものだけでつぎのようになります。
ナンバン(植物) ……16-371〈とうもろこし〉
なんばん(はさみ) ……18-52〈はさみ〉
南蛮=17-111……2-121〈夷狄〉……4-4〈華夷思想〉……17-77〈南海〉
南蛮意匠……17-120s〈南蛮美術=図版〉
南蛮菓子……4-386〈菓子〉
ナンバンカンゾウ……23-723〈わすれぐさ〉
ナンバンギセル=17-111
南蛮具足=17-111
《南蛮外科秘伝書》……19-154〈フェレイラ=沢野忠庵〉
南蛮寺=17-111
《南蛮寺荒廃記》……17-111〈南蛮寺〉
南蛮絞……17-112〈南蛮吹〉
《南蛮寺門前》……5-686〈木下杢太郎〉
南蛮人渡来図屏風……17-112〈南蛮屏風〉
南蛮誓詞……9-171〈ころび証文〉
南蛮船……17-111〈南蛮〉
南蛮鳥……1-79
南蛮胴……4-601〈甲冑〉……16-303〈当世具足〉……17-111〈南蛮具足〉
ナンバンハコベ=17-111
南蛮美術=17-111……17-119〈南蛮美術=図版〉
南蛮屏風=17-112……19-126〈桃山時代の風俗画=図版〉
南蛮品……17-111〈南蛮〉
南蛮吹=17-112
南蛮貿易=17-112
南蛮料理……13-120〈西洋料理〉
 キリシタンも重要項目となっているようです。
キリシタン(切支丹、吉利支丹) =6-307……9-479〈鎖国〉
キリシタン大名=6-310
キリシタン灯籠=6-310
キリシタンの復活……6-310〈キリシタン〉
キリシタン版=6-310……1-308〈天草版〉……2-295〈印刷〉……17-112〈南蛮美術〉
キリシタン美術……6-315〈キリシタン〉
キリシタン文化=6-310……6-313〈キリシタン文化=図版〉
キリシタン屋敷=6-315
 段落Fから後の段落では、五島列島、平戸島、九十九島のローカルな地名がいろいろ出てきます。
福江〔市〕=19-202
福江県……18-625〈肥前国〉
福江島=19-202……9-266〈西海国立公園〉
福江藩……18-625〈肥前国〉
 若松瀬戸という地名項目もあります。
若松〔町〕=23-689
若松瀬戸=23-690
 小値賀島も項目が立っています。
小値賀〔町〕=3-450
小値賀島=3-450
 嵯峨ノ島も索引にありましたが、調べてみると、つまりこういうことになるのです。
嵯峨ノ島……9-266〈西海国立公園〉
玉之浦湾……9-266〈西海国立公園〉……14-485〈玉之浦町〉
 これらは「西海国立公園」の項目で触れられた以上のものではなさそう、ということになります。
 そして佐世保湾。
佐世保〔市〕=9-505
佐世保炭田(北松炭田) =9-505……16-771〈長崎県〉
佐世保湾=9-505
 かくして「西海国立公園」の本文からざっと拾ってみただけでもこれくらいの広がりになります。それぞれの項目を読めばさらにまた関連項目は広がっていくはずです。

●世界からの目

 いま列記してみたように索引項目だけを拾ってみても、興味の的を絞れるだけの手がかりは得られます。そこで私の手元にあるもう1セット、『エンサイクロペディア・ブリタニカ』(1966年版) を見てみます。英米文化圏を対象にした百科事典ですから、もちろん日本に関する項目はあまり細かくありません。
 五島列島はありました。
GOTO-RETTO, isls., Jap. 10-609d
  Japan 12-878
 ゴト-レット諸島(日本) という見出しが10巻の609ページのdブロック(右下4分の1) にあるという意味です(以下アルファベットの記号は省略)。関連記事にJapan があります。
 ここではまず、その GOTO-RETTO を読んでみますが、本文の見出しにはちゃんと長音記号がついてゴトー・レットーとなっています。
 ――日本の群島で、文字どおりにいえば5つの島の列島。九州の西海岸にあって、行政上は長崎県に所属する。島数は100以上あって、そのうち34島にひとが住んでいる。合計面積は266平方マイル、列島は北東から南西へ約62マイルの連なりである。
 大きな島でよく開かれているのは、南から順に、Fukue=福江島、Hisaka=久賀島、Naru=奈留島、Wakamatsu=若松島、Nakadori=中通島。列島は主に火山活動で生じたため、火山性の岩石によってかたちづくられている。
 ここでは乾燥地型の農業が段丘面や斜面で行なわれており、灌漑による稲作は海岸のわずかな平地にすぎない。福江や奈良尾(中通島) のような大きな港から、その他多くの小さな港までが基本的には漁港である。
 厳密に言えば列島の北半分では漁業が主で農業が従、佐世保の経済圏につながっている。対して列島南部は農業に重きが置かれ、経済的には長崎との関係が緊密である。――
 この記事の執筆者はノースキャロライナ大学の地理学の教授で John Douglas Eyre となっています。
 平戸島もありました。
Hirado, Jap. 11-521
HIRADO-SHIMA, isl., Jap. 11-521
Hiradoyaki (Jap. porcelain) 11-521
 これはどうも、平戸島という見出しの本文中で、平戸と平戸焼に触れているということのようです。読んでみます。
 ――日本の長崎県に属し、九州の西海岸に横たわっている島。面積は66平方マイルで、1960年の人口は40,879人。
 平戸の町は外国貿易のために最初に開かれた港で、17世紀に、ここに初めてオランダの在外商館と「イングリッシュ・ハウス」が建てられたことで知られている。この平戸と長崎の港には中国船の往来もあり、キリスト教迫害の期間には外国貿易の唯一の拠点とされた。
 また平戸は、17世紀から18世紀にかけて、日本で最も美しい青磁(平戸焼) を産したところでもある。――
 執筆したのは Robert Burnett Hall という人で、第2次世界大戦では中国で戦略研究に従事した地理学者で陸軍大佐、戦後ミシガン大学の日本研究センターの所長となったとあります。
 九十九島という項目は見えませんが、福江島はありました。
Fukue, isl., Jap. 10-609
 すなわち、先に読んだGOTO-RETTOの中に福江島が記述されているということになります。
 もちろん佐世保は独立した項目としてあります。
SASEBO, Jap. 20-2
 ――日本の九州・長崎県の港町で人口は262,484人(1960年)。大村湾の入り口近くにあって天然の良港であったところから1896年(明治29) から第2次世界大戦終了まで軍港であった。
 佐世保は明治維新(1868年) までは小さな村落にすぎなかったが、日清・日露戦争に勝って以来急速に拡大した。第2次世界大戦では被害をこうむったが、港湾・造船関係の施設は残ったので商港および漁港として復興した。なお港湾施設は日本における米軍基地としても使用されている。――
 署名はHIRADO-SHIMAと同じ Robert Burnett Hall となっています。
 ブリタニカの索引らしい展開が見られるのはもっと大きな項目のようですから、念のために「日本」を見てみます。
JAPAN (Nihon, Nippon), country, Asia
 General 12-876; 2-577 fol.
 この「日本全般」のところにはつぎのように41の関連項目が列記されています。実際は1項目ごとに巻数とページが示されていますが、ここでは日本語訳をつけながら一気につらねてしまいます。
 abacus〈計算器〉、Air forces〈空軍〉、alcohlic consumption〈アルコール消費量〉、Antarctic exploration〈南極探検〉、archae.〈考古学〉、archives〈公文書〉、armour〈よろいかぶと〉、baths〈温泉〉、boats〈小型船舶〉、climate〈気候〉、coinage〈貨幣〉、contract labour〈北米への強制労働移民〉、cookery, national〈各国料理法〉、daimyo〈大名〉、fire research〈火災研究〉、flags〈国旗〉、forced labor〈賦役労働〉、geology〈地質学〉、geopolitics〈地政学〉、hotels〈旅館〉、Jackstones〈お手玉〉、ju-jitsu〈柔道〉、learned societies〈学会〉、libraries〈図書館〉、medical care〈医療〉、motion pictures〈映画〉、museums〈博物館〉、national anthem〈国歌〉、national parks〈国立公園〉、newspapers〈新聞〉、orders of merit〈勲章〉、Pac.O.〈太平洋〉、printing〈印刷〉、prostitution〈売春〉、radar〈レーダー〉、shogi〈将棋〉、sumptuary laws〈倹約令〉、sword〈刀剣〉、table tennis〈卓球〉、theatre〈劇場〉、Tokyo〈東京〉、women〈女性〉。
 ここで関連するのはどうも「国立公園」という項目だけのようです。
 いまのは日本のGeneral(全般) 項目ですが、並んで次のような分野もあります。
Agricultur〈農業〉=13項目、Army〈陸軍〉=10項目、Commerce and Industries〈商工業〉=20項目、Communications and Transportation〈運輸・通信〉=2項目、Economics〈経済〉=3項目、Education〈教育〉=9項目、Fauna and Flora〈動植物〉=1項目、Finance〈財政〉=6項目、Government〈政府〉=7項目、History〈歴史〉=45項目、Learned Societies〈学会〉=2項目、Manners and Customs〈風俗習慣〉=14項目、Minerals〈鉱物〉=1項目、Mythology〈神話〉=1項目、Navy〈海軍〉=12項目、Population〈人口〉=12項目、Religion and Philosophy〈信仰と哲学〉=8項目
 これらの分野に関連する記事は合計143項目にものぼります。
「Japanese 〜」という項目もたくさんあります。Japanese aconites〈トリカブト〉、Japanese alder〈カワラハンノキ〉、Japanese allspice〈ピーマン〉、Japanese Alps〈日本アルプス〉、Japanese anemone〈アネモネ〉、Japanese angelica〈アンゼリカ〉、Japanese Arabia Oil company〈アラビア石油〉と続きますが、きりがないので大項目だけをひろってみます。
 JAPANESE ARCHITECTURE〈建築〉、JAPANESE BEETLE〈マメコガネ〉、JAPANESE GARDEN〈庭園〉、JAPANESE LANGUAGE〈言葉〉、JAPANESE LITERATURE〈文学〉、JAPANESE MUSIC〈音楽〉、JAPANESE MYTHOLOGY〈神話〉、JAPANESE PAINTING AND PRINTS〈絵画と版画〉、JAPANESE PHILOSOPHY〈哲学〉、JAPANESE SCULPTURE〈彫刻〉。
 やはり日本全体では大きすぎるかもしれないので九州で見てみます。
KYUSYU, isl. and div., Jap. 13-528; 12-876
 div. 12-882; 12-937
 13巻の528ページを開いてみると、KYUSYUがありました。
 ――日本の4つの大きな島のうち最も南に位置して本州とは下関海峡(関門海峡) によって分けられている。面積は13,768平方マイル、人口は12,903,515人(1960年で、福岡・佐賀・長崎・大分・熊本・宮崎・鹿児島各県合計)。日本で最大級の活火山・阿蘇山があり、阿蘇、霧島、雲仙・天草などの国立公園がある。有名な温泉郷に別府がある。主な都市には福岡と長崎があって、いずれも日本では非常に古くから開かれた港である。――
 もう一段絞って、長崎県を見てみます。
NAGASAKI, preft., Jap. 15-1148
 Japan 12-882
  area and pop. table 12-919
  hist. 12-899
NAGASAKI, Jap. 15-114
 atom bomb 23-792; 23-793
  destruction 2-719
  fire 9-309
  Stimson 21-410
  surrender 1-471
 長崎県についてはつぎのようになっています。
 ――九州の北西にある日本の県のひとつで、対馬、壱岐、平戸島、五島列島などを含んでいる。大変でこぼこした形をしていて、まるっこい島原半島が南東に張り出し、大村湾を囲む西彼杵*ニシソノギ半島と、野母(長崎) 半島とが県の南西にあたる。山地が多いために農地を開くには制約が大きく、米、サツマイモ、ミカンなどの集約的な農業がおこなわれてきた。漁業が盛んなため海産品の加工業が発達している。石炭を産するが一般に工業は小規模で、特筆できるのは長崎の造船と軍港としての佐世保。また長崎市は日本でもっとも大きなキリスト教圏をかたちづくっている。長崎県の面積は1,578平方マイル、人口は1,760,421人(1960年)。――
 長崎の街についても、同じ NAGASAKI という見出しが立っています。
 ――日本の西九州にある長崎県の県庁所在地で県内最大の都市、政治・経済・文化の中心となっている。第2次世界大戦中の1945年8月9日に米軍によって2発目の原子爆弾が落とされて、市街の中心部が破壊され、39,000人が死亡、25,000人が負傷した。
 港街としての長崎は野母半島と西彼杵半島の根元、狭く深い湾の奥にある。街は古代ローマの円形劇場を思わせ、曲がりくねったみちと段々になった家が、湾を取り囲む斜面にへばりついている。岸辺の干拓地と湾奥の浦上川流域にはわずかながら平地がある。
 長崎の街の成長は海外との接触によるもの。1571年に初めてポルトガル船が入港していらい、外国船が寄港する主要な港となっていった。ローマンカトリックの聖職者たちによってもたらされたキリスト教は、悲しむべき迫害を受けたが、長崎において強固な足がかりを築いていた。
 日本の鎖国政策の実施によって、長崎は1636年以後、残された唯一残の海外との接触点となった。オランダ人だけが出島という小さな島に居留を許されたのである(出島はいまは埋立によって陸地化してしまった)。その小さな拠点から、わずかな書物や情報がしたたる一条の水のように流されて、西欧の発展が日本の支配者に伝えられた。学者たちがやってきて、オランダ語を学び、外国の科学や文化を学んだ。
 19世紀の後半、日本が過去の封建制を絶ち切ると、長崎は近くに炭坑をもっていたこともあって、東アジア有数の寄港地となる。1903年以前にはロシア・極東艦隊の冬の拠点となっていた。しかし船が重油をたくようになり、また北九州の炭坑や港との競争が激しくなってくると、後背地が限られ九州の工業地帯に遠いという点でしだいにその重要度を低下させていったのだった。
 限界があるとはいえ、長崎の工業都市としての発展は湾の西岸から最奥にかけてつらなる大規模な造船施設やその下請け工場群によっている。人口は1960年の調べで344,153人。――
 長崎について書いたのは、五島列島とおなじくノースキャロライナ大学の地理学の John Douglas Eyre 教授となっています。

●長崎以前に平戸ありき

 イエズス会の創立にかかわった宣教師フランシスコ・ザビエルが日本での布教活動の中で平戸に現われたのは1550年のことでした。
 『生月史稿』ではつぎのように書いています。
 ――その時、平戸にはポルトガル船が入港していたが、聖人ザビエルに敬意を表するため、万艦飾*マンカンショクを施し、幔幕*マンマクを張りめぐらし、礼砲殷々*インインたるうちにラッパを吹奏してこの貴人を迎えた。平戸藩主松浦道可公隆信は快く彼ら一行を引見し、教理を聴取してその弘布を許可した。隆信もまた島津と同じく、新宗教への憧憬ではなく、貿易のためであり、新兵器獲得のためであった。
 平戸は、遠く遣唐船の頃から良港とうたわれ、和冦*ワコウ華やかなりし頃の根拠地であり、また大渡長者の寄留地であった。今また、かの五峯王直*ゴホウオウチョクが五島より居を平戸白狐山麓に移し、配下3,000と呼号して貿易船は頻繁に往来するし、ポルトガル船また天文18年(1549) の頃初めて平戸港に入港し、かくて平戸はまことに国際貿易港としての燦々*サンサンたる脚光を浴びるに至った。
 ザビエルは布教の公許を得たので、トルレスを平戸にとどめ、他の者を引具して、10月27日船で博多に渡り、さらに山口に至り、領主大内義隆に見参して教義を説き、さらに堺を経て京都に上った。しかるに京都は細川晴元が将軍足利義輝に叛し、物情騒然たるさなかだったので、朝廷伺候の念願もむなしく、天文20年(1551) 4月頃平戸に帰着した。その間、平戸にとどまったトルレスは、宿主谷口某をはじめ信者約100名を得た。またポルトガル商人の手で小教会をさえ建立した。――
 ポルトガル船を寄港させようと努力した平戸は、それ以前には中国船にさまざまな恩恵を与えていたようです。
 五峯王直という人物について『生月史稿』はつぎのように解説しています。
 ――王直は明の安徽*アンホイの出身で罪を逃れ、広東*カントンに出て船を仕立て、日本、呂宗*ルソン、安南*アンナン、マラッカなどに往来し、貿易や海賊を営むこと5、6年、ついにわが八幡船の党類に信頼され、あるいはその首領ともなった。彼はことに潮流に通暁し、航海に長じ、ついには部下1,000名を率いて五島・福江の勘次の城に拠り、天文11年(1542) には地の利よき平戸に来たり、五峯王直とうたわれ、勝尾岳麓すなわち印山屋敷に居を構えた。
 自ら徽王と号し、旌旗(はたじるし) 服色王者を擬し、居館風習また王候に模し、汝賢、王教を腹心とし、徐海、陳東、門太郎、次郎四郎を股肱(補佐) とし、艦隊を編成し、部署を定め、もって貿易にあるいは海賊行為に出て、天文23年(1554) には中国、西海36カ所の海賊を誘導し、大挙して江蘇*チャンスー(揚子江下流)、派江の沿岸を侵略するなど、彼の威力は四隣を圧するものがあった。したがって藩主等は彼を利用して、貿易の巨利を得んと彼を優遇した。
 もっとも、この頃は戦国時代の後を受けて、群雄割拠の時代であり、富国強兵は彼らの最大のモットーであった。鬱勃*ウツボツたる野望を抱いたわが平戸領主・道可公隆信は、王直一派に根拠地を提供し、彼は居館上に城を構えて、平戸港に出入りする唐船のへんぽんたる旗の波に随喜の涙をたたえつつ、巨万の富を握ることが出来た。しかも彼の野望は、好機至らば八幡船に梶の葉の家紋をつけて、一挙に天下をねらわんとさえ思っていた。王直が「倭人万人我にくみせんか、大明を滅するいとやすやすたり」と豪語せるほどの威力をもってすれば、松浦隆信の野望もはかなき夢ではなかったろう。
 大曲記に「平戸へ大唐より五峯(王直) と申す人まかりつき、今の印山屋敷に唐用の屋敷を建て居申しければ、大唐の商船絶えず、あまつさえ南蛮の黒船とて初めて平戸にまかり着きければ、唐南蛮の珍物年々満々と参り候あいだ、京・堺の商人、諸国の者集まり、西の都とぞ申しける」とある。――
 平戸を拠点とする中国の海賊はつぎつぎに代が変わっていきます。
 ――王直は15年間勝尾岳に居を構えていたが、弘治2年(1556) 明の将(征倭総督) 胡宗霊により誘殺された。次いで揚天主、天正年間(1573〜1591) には顔思斉*ガンシサイがその後継者となった。顔思斉はアンドレアゲチーとして勇名をはせ、次いで老一官*ロウイッカンと呼ばれる鄭芝竜*テイシリュウ(慶長年間) が後を継いだ。彼はすなわち鄭成功*テイセイコウの父である。成功はまた国姓爺*コクセンヤとして有名で、支那、台湾にその威名をとどろかせた。――
 平戸で日本人を母として生まれた鄭成功は、明末の中国で高等教育を受け、最後まで清に反抗して東シナ海から南シナ海までを支配し、台湾をオランダの支配から独立に導いた英雄です。明皇帝から賜った国姓爺という称号は日本では近松門左衛門の浄瑠璃戯曲『国性(姓) 爺合戦*コクセンヤカッセン』でポピュラーになっています。
 この父子の波乱の人生を描いた歴史小説『海冦*ウミノゾク』(上下2巻、1991年、福岡・葦書房) は平戸出身の和田武久さんの作品で、まさに息もつかせぬ男のドラマとなっています。ここでは引用しませんが、あとがきに次のような一節があります。
 ――芝竜の活躍当時、日本国内は激動の時代から、安定の時期に向かう時でもあったが、それは地方の大名の活躍が制約され、江戸幕府の組織の中に組み込まれていく時代でもあった。日本は西の果ての平戸松浦家にも、その波は押し寄せ、長崎の町が繁栄へと向かうと比例して、平戸の港が寂れていく過程にあった。
 また芝竜の子鄭成功の活躍する時代は、明国から清国へと移る動乱の中にあり、父と子の生き方、性格にも大きな影響を与えた。父は無頼の徒から海賊の頭領にのし上がり、子は儒教の教えを受けての成長と、色で言えば黒と白のように、はっきりした色分けが出来る親子でもあったといえよう。――
 生月島が歴史の1ページに登場するのはこういう時代です。平戸から見れば島の裏側にあたる生月島の山田を領する平戸松浦藩の家老・籠手田左衛門定経という人物が登場します。『生月史稿』はいよいよ核心に入っていきます。
 ――英邁なる藩主(松浦) 隆信と英才筆頭家老たるわが山田の領主・籠手田左衛門定経とは、すでに大局を達観し、貿易はすなわち最上の富国であり、ハラカンは今や最良の強兵策なりと考え、キリスト教の布教を許可したのである。――
 藩主の名代として入門洗礼を受けることになった籠手田定経は熱心な信者になってしまいます。平戸では、信者の数はたちまち500人を超えるのです。
 ――籠手田、一部両領主の要請により、ガーゴとヴィレラは弘治3年(1557) 初めて度島および生月に渡り布教したが、両領主の所領地だけに、度島で600人、生月で800人の入門者があった。領主等は徹底布教を目途として、寺院仏堂を破壊し、仏像、仏具を焼却しあるいは海に投じた。当時の龍向庵、耕空庵および鷹寿庵はこの時ことごとく取り壊されたのである。舘浦には3教堂が建立され、1つは救い主キリストに、1つは教法に、1つは聖母マリアに敬供され、祝日や日曜日には、小児を教導し、老人に説教し、祈祷の声は日も夜も止まなかった。いま「堂の山、堂の坂」というのは、すなわち教堂の跡であろうか。
 さて、弘治3年(1557) 初めて生月に布教されてから、慶長4年(1599) 藩主鎮信の禁教令が公布されるまで約40年間こそ、生月切支丹の黄金時代であって、将来多数の殉教悲話をつくり、幾多の残酷なる弾圧のもとになおかつ納戸神*ナンドカミとしてその信仰の灯をともしつづけたのは、実にこの40年間のうちに心魂に徹したキリストの教義の力強さを証明するものである。
 キリスト教は生月、渡島にとどまらず、さらに両領主の所領たる春日、獅子、根獅子、飯良、糸屋、納島など平戸南西部にも普及し、それらの丘や島には、十字架がさん然として輝き、賛美歌や、祈祷が、津々浦々に聞こえた。――
 しかし、時代はしだいにキリシタンの人々につらい方向に動いていきます。
 ――(藩主) 松浦鎮信は朝鮮役後、伏見の豊臣秀頼に拝謁*ハイエツし、その地から平戸に向かって禁教の徹底指令を発した。元来鎮信は大の耶蘇教嫌いであり、かつその嗣子久信の妻松東院(大村藩主の妹) および重臣の筆頭籠手田、一部両氏が熱心な信者であることが国外にまで相当喧伝されていたので、中央の思惑を慮ってもいた。なお朝鮮役において鎮信と不和だった小西行長が耶蘇教を通して籠手田と好誼*コウギを厚くしていることを常に苦にしていた。
 鎮信の上阪中、その父道可公隆信が薨*コウじたが鎮信は平戸の久信に書を送り「父道可公の葬儀は仏式により盛大に執行すること、しかしてこれには切支丹衆といえども参列せしむること、若し拒否するものある時はこれを国外に放逐すべきこと」と厳達した。
 久信はまず妻松東院にこの厳命を伝え、速やかに転宗するように迫ったが、彼女の信仰心は微動だにしなかった。たとえ愛しい3人の子どもたちに別るるとも、決して信仰を捨てはしない、と彼女の決心は固かった。
 信者等は予期していたこととはいえ、事ここに至っては、潔く鮮血をもって教えに殉ぜんと叫び、ある者は籠手田を奉じて藩主に叛旗を翻えさんと力説した。しかし籠手田は、信者の激昴に対してあくまでも冷静な態度をもってのぞみ、しかも藩主に対する家臣としてのとるべき道を進まねばならなかった。それはただ領外退去あるのみである。彼は親族の者6人とひそかに島を去ろうとした。しかし領民等は彼の邸宅を取り囲んで随行を要求し、いかなる説得にも動かなかった。やがて600人の信者たちは、6人の籠手田、一部、両家の人々とともに懐しい生月島を後にした。――
 この人々はいまでいう政治難民として長崎に向かったようです。その後禁教令はさらに厳しくなり、多くの切支丹は殉教か転宗かの二者択一を迫られます。そしてわずかな人々は「隠れ切支丹」として密かに信仰を持ち続けたのです。
 そして日本からキリシタンの姿がすっかり消えてしまったはずの時代、キリシタンたちの大規模な移住があったことを『五島史と民俗』は伝えています。
 ――「寛政9年(1797) 五島藩主盛運、大村の農民108人を五島に移し田畑を開墾せしむ。五島は地広くして人少なく山林の未だ開けざるもの多きを盛運公、常に憂いたまい、此の度、大村候に乞うてその民を此の地に移し給う。これより後、大村の民、この由緒をもって、五島へ移り住むものその数知らず」(公譜別録拾遺による)
 五島藩から要請を受けた大村藩では、西彼杵*ニシソノギ半島の外海*ソトメのキリシタンたちを移住の対象として着目したのである。――
 平戸を窓口にした平戸藩のキリシタンに対して、長崎を拠点としたのが大村藩のキリシタンでした。
 ――大村領では外海にある三重村と外海町にキリシタンが潜伏しつづけた。
 この地は旧佐賀領の飛地が点在していたが、ともに大村純忠時代にキリシタンになった人びとの子孫である。
 大村領内でこの地方だけにキリシタンが生き残ることができたのは、内海が大村城下であって藩の掌握を強く受ける位置にあったのに対して、外海は西彼杵丘陵地帯の外側にあって城下から遠いこと、また山の斜面が急傾斜していて土地はやせて狭く、交通も不便なため藩の監視も厳しくなかったからであろう。
 さらにもっとも大きな要因としては、バスチャンというすぐれた日本人伝道者が活動していたからだろうと片岡弥吉氏はいっている。
 この大村領の外海のキリシタンたちが、五島のキリシタンを復活させたのである。――
 ――この人たちが五島への移民を決意したのは、生活が苦しく、また大村藩のキリシタン検索もさることながら、人口をおさえて領民の細民化を防ぎ、藩の財政を安定させるため長男だけ残して他の子供は口減らしのため強制的に間引きするようにとの、教義に反する人口抑制策に耐えきれなかったからともいわれている。
 第1回の輸送は、大村藩の家老片山波江の指揮する黒崎村と、三重村の住民108人で、すべてのひとがキリシタンであった。――
 五島藩が彼らをかくまうかたちになったのです。
 ――この信者たちの歩みについて何ひとつ記録は残っていないが、おそらく毎日が追われるように生き、死んだように生き、また一息ついては生きるという、死と背中合わせの生活だったにちがいない。
 そのためにキリシタンたちは、集落の形成はつとめて避け、山奥に点在して住んだ方が弾圧と迫害から隠蔽し、信仰するための隠れ処になったものと思われる。
 山奥に点在して住んだのは、その理由だけではなかった。五島藩では、土地が余っている山間地方や離島は誰も手をつけてさえなければ、自由に開墾することを許しており、また畑地は水田の開墾とちがって人手も要らず、手軽にできたことも点在を許した要因であったものと思われる。しかし、この人たちは地元の人たちとの交渉をほとんど持たないまま過ぎた日の久しかったことは事実である。
 彼らは末子相続を主として隠居分家をしながら、根気づよく山肌を切りひらいて頂上まで耕地を拡大し、明治14年には信者の数は7,000人に達し、昭和25年には40,000人を超えるにいたった。
 かくれキリシタンたちは、表面は神道祭や真宗の壇徒のようにカムフラージュしていたが、内面は隠れて依然として信仰生活を続け、洗礼を施したり、祝日の儀式などを行なっていた。点在して暮らしていても今もなお、滅ぶどころか、ますます拡大していったのは相互間に往来があって励まし合ったからである。――

●イワシからクジラまで

 五島列島といえば釣り人の垂涎の地、いまはレジャーとしての釣りに訪れる人が多いのですが、五島の海を開いたのは日本各地から豊漁の海を求めてやってきた漁師たちでした。
 最初に大きな足跡を残したのは大阪湾岸の泉佐野の漁師たちでした。室町時代の末になると近畿地方では農業が大きく変わります。アブラナ、タバコ、ワタなどの商品作物を栽培するようになるのです。そこで肥料としての「ほしか」(イワシをゆでて干したもの) が求められるようになり、泉佐野の漁民は船団を組んで漁場開拓していくのです。彼らはその漁場を北九州から対馬にまで広げていき、五島列島にも進出ます。
 泉佐野の船団が使用したのは地引網ですが、それ以前に五島にあったのは建切網であったようだと『五島史と民俗』には書かれています。
 ――建切網は湾内深く回遊している魚を、地形を利用して湾口を網で建てきり、湾内で逃げまどう魚を弾き網によって一網打尽にするという漁法であった。
 それだけに海流と地形が漁を支配した。そのため沖合の黒潮が東北方向に流れ、沿岸の潮はその逆に流れるという、東北に深く入れ込んだ網代を選ばねばならなかった。
 また沿岸の流れに伴って進入する漁群は、半島や岬の山陰などに集まる習性も知らなければならない。――
 泉佐野の船団は企業的な経営によってイワシ漁を行ないますが、しかし、技術革新の波は安定を許さないのです。
 ――佐野船の地曳網に大きな打撃を与えたのが、大敷網の進出であった。
 この大敷網は浦底まで回遊しようとする漁群を岬角でとってしまうのである。享保年間(1716〜35) になると佐野船はほとんど衰微のやむなきにいたり、それに取ってかわったのが長門、壱岐方面から入ってきた大敷網と、平戸方面から入った建網であった。
 大敷網は岬の魚道を見つけて網を敷いたが、それがすべて成功したわけではなく、途中で領主に返上願を出す網代もあった。
 しかし失敗した網代は一部で、ほとんどが成功して佐野の地曳網の企業的経営を困難にし、佐野船はその名を残しながらも権利を他に委譲するようになった。――
 技術競争は、いったん始まればとどまるところを知りません。
 ――大規模な網として建敷網がある。この網は海岸から沖合へ垣網をいれ、その先に身網をつけて魚が垣網にそって身網に入ると、身網を引き上げて魚をとるのである。
 この形式の網は長門、越中、陸奥、陸中が発祥の地といわれ、そこから全国にひろがっていったという。
 この建敷網は、新屋長兵衞という人が五島では玉の浦ではじめてマグロ大敷網の操業を行なったといわれている。また別説によれば明暦2年(1656) 山本惣左衛門が、大敷網を考案したともいわれ、その惣左衛門が万治2年(1659) その子勘兵衛と一緒に暴風雨にあい、五島玉の浦に漂着したので、そこで大敷を営んだという説もあるがいずれが正しいのか定かではない。――
 大敷網によってマグロやブリがとられるようになります。
 ――冬から春にかけて低気圧が五島を通過するときは、海潮流も急変して岸に突っ込んでくる。これを急潮と呼んでいる。急潮が起こると沿岸の水温は急に1〜3度上昇する。
 また時化で波が激動すると海底が「ぬた地」である場合、有機物や体積泥が波に巻き上げられ周辺の海は白く濁る。それを見て寒ブリの大群が沖合から沿岸へ押し寄せ、定置網に入るという。
 そこで初冬に寒冷前線に伴って起こる寒雷を五島では「ぶり起し」といっている。――
 この大敷網の登場によって五島のブリはブランド化されたようです。
 とったマグロ、ブリは夏は近くの筑前、肥後方面に輸送し、冬は生のまま西風に帆を張って九州北岸から瀬戸内海をぬけ、紀伊半島の南をまわって一気に江戸まで輸送し、日本橋の河岸に荷揚げしたという。
 江戸で五島シビ、五島ブリといって賞味されたのは、このころからだったという。
 当時小型帆船で江戸まで一気に輸送することは、全く冒険のきわみであったが、その冒険をおかしてひと冬には何十艘もの船が江戸に入港している。――
 クジラもまた五島列島の周囲にやってきました。各地に鯨組ができますが、江戸時代の代表的大企業となった捕鯨では生月島の増冨氏の鯨突組が大きな成功をおさめます。
『生月史縞』にはこの鯨突組のことがまとめられています。
 ――寛永2年の冬、播州の横山五郎兵衛は大島および小値賀*オヂカに鯨突組を設け、同3年、紀州の人庄助が五島に突組を組織した。宇久*ウクでは山田茂兵衛、小値賀では小田伝次兵衛、井元弥七左衛門、生月では磯辺弥太郎(最初は壱岐) 等がそれぞれ突組を編成し、寛文年間(1661〜1672) にはかなりの漁獲があった。
 やがて享保10年(1725)、益冨又左衛門は義兄田中長太夫とともに、船12艘の編成による突組を起こし、また磯辺弥太郎の孫外山太左衛門も、祖父の初志を継いで野崎島に捕鯨業を開始した。――
 ここでも大きな技術革新が起こります。
 ――益冨組は、その後8年間に毎年十数頭の漁獲はあったが、又左衛門の大望を果たすに至らなかった。やがて不況のため義兄田中長太夫が協同より離脱したので、又左衛門は決然と鯨網を採用し、これに独特の操法を考案し、規模を拡大したので、左記のような成績をおさめたのである。――
 享保から明治初年に至る益冨氏の捕鯨業の漁獲は以下のように記録されているのだそうです。
◎享保10年(1725) から元文5年(1740) の16年間
  鯨217本(年平均約14本)
  代32,250両(年平均約2,000両)
◎寛保元年(1741) から弘化元年(1844) の104年間
  鯨20,020本(年平均約190本)
  代3,180,000両(年平均約30,000両)
◎弘化2年(1845) より万延2年(1861) までの17年間
  鯨339本(年平均約20本)
  代67,800両(年平均約4,000両)
◎明治2年(1869) より明治6年(1873) の5年間
  鯨44本(年平均約9本)
  代44,500両(年平均約5,000両)
 以上約150年間に捕獲したクジラの総数は21,790頭にもおよんでいます。
 江戸の洋画家・司馬江漢が天明8年(1788) に益冨家に招かれています。『生月史稿』では『江漢西遊記』を読み下しながら捕鯨の光景を紹介しています。いまならさしずめ有名画家の体験レポートといった感じです。
 ――4月16日の朝食事をしていると、クジラがきたと知らせて来た。そこで見にいくことにして、飯に水かけ1椀食い、舟に乗る。のるが早いか、櫓を押すが早いか、まるで矢のようである。それから、こなたかなたと1日中こぐがクジラは見えない。そこで生月にかえろうとすると、沖の方で旗を振る船がある。船はかえるのをやめて、その方へと漕いでいく。もう夕方である。
 江漢はすっかり弱りきったが、加子たちはいっこうに平気である。こうしてやっと、クジラまで追いついた。すでにすっかり暮れて、海の上に満月がのぼった。ずっと沖合なので、網どりではない。四方から寄っていって、銛を打ち込む。船をクジラの2、3間のところまでこぎよせ、刃刺(羽指) が舳に立って銛を打つのであるが、17そうの船から17本の銛が投げかけられ、クジラは17隻の船をひいていく。ようやく弱ってきたとき、一人がクジラの頭の潮吹きのところへあがって、刃で穴をあけて綱を通す。すると次の一人は綱を持って海にもぐり、クジラの下側をまわって向こう側へぬける。全く命がけである。
 さて綱を下にまわすと、大きい船2隻がクジラの両側にぴたりと寄り添い、丸太を2本横にわたし、それにクジラをつり上げてくくりつける。クジラはまだ生きていて尻尾は動いている。月はこうこうとさえて、中天にかかっている。生月の浜についたときには、夜も1時をすぎていた。
 クジラを解くのは明朝ということになったが、江漢はまだ全身を見ていない。夜中に見ておこうと思って納屋にとまることにし、起こしてくれとたのんでおいた。ひと寝いりすると、起こす声がするので、外へ出て見ると、師走の月はさえきって、空は透明な青白い冷たさである。
 渚は潮がひいて、そこはまっ黒な、すばらしく大きいクジラがよこたわっている。長さ15間もあるセミクジラである。江漢は亦之助とともにクジラの背にのぼって感慨無量であった。
 17日は早朝からクジラ解きがはじまる。数十人が長刀をもってクジラの背にのぼり、切っていく。まず両あごを切りおとし、頭の上を切る。それから尾を切り、背を切り、両脇を切る。そしてろくろでその肉塊をひく。人は切った肉を納屋にはこぶ。納屋には肉納屋、骨納屋、腸納屋があり、納屋の中で骨肉をこまかに切り、17の大釜にいれて煮る。油は桶で土蔵におくる。油は200樽で400両になる。――
 島々が海から開かれたという証拠のひとつを『五島史と民俗』では次のように紹介しています。
 ――多くの島嶼でなりたっている五島は海岸線は限りなく続き、泊、津、浦、浜など共通した地名が多い。泊は遠浅になっていて満潮時には入江になるが、干潮時には一面に干潟になる。
 泊は本来船のとまる所であって、日本の船は底が平らなため干潮時にはそのまま据えておくことができ、また波のために痛めつけられることもなかった。
 また干潮ともなれば船底を乾かすこともできたし、古い時代は遠浅の泊の方がむしろ港としては発達していた。
 やがて12世紀の終わり頃になると造船技術が発達し、喫水の深い船が出現するようになると泊では間に合わず、常時、海水を湛えているところに投錨するようになった。そのようなところを津という。
 浦は漁業を主とする集落を意味し、浜は砂があるところである。――

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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