毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・14・大山隠岐国立公園」
1994.4――入稿原稿


■国立公園物語…大山隠岐

●海と山

 大山隠岐国立公園に含まれるのは古代出雲の文化圏であるようです。有名な国引きの神話ではヤツカミズオミツヌノミコトが北陸地方や朝鮮半島の新羅の土地に綱をかけて、引き寄せたのが島根半島だといわれます。島根半島をつなぎ止めた杭が東の大山(1729m)、西の三瓶山(1126m)、綱は弓ヶ浜と薗の長浜になったといわれます。そしてそこに登場する北門*キタドは隠岐にあたるとか。
 現在、国立公園の区域に入っているのは北門にあたる隠岐の海と島根半島の日本海側の海岸。それと大山(蒜山を含む) と三瓶山です。残念ながら、出雲文化の中心となった出雲平野や宍道湖、中海などは国立公園の外ですが、島根半島の根っこの部分にあたる出雲大社は含まれます。
 この地域へのもっともすばらしいガイドブックは、おそらくラフカディオ・ハーン(小泉八雲) の『Glimpses of Unfamiliar Japan』(知られぬ日本の面影) ではないでしょうか。とくに平井呈一さんの名訳『日本瞥見*ベッケン記』(1975年、恒文社) によって、100年という時間を潜りぬけてタイムトリップすることができます。
 だれもが比較的簡単にアプローチできる著名な文学作品はできるだけ避けて通るというのが私の基本的な方針ですが、『日本瞥見記』に関してはなんとかしてどこかを引用できないものかと思って読み直してみました。しかし次から次へと話題をつないで筆をすすめていく文章はコマ切れにして取り出しにくく、ここではほんのサワリを選んでみました。
 山陰の海のすばらしさについては山陰中央日報社の『山陰の釣り・隠岐島編』(1978年) という本がありました。まえがきに次のように書かれています。
 ――隠岐島は釣り人の夢の島…。もう使い古されたことばですが、島根半島の北方約40kmの日本海上に位置し、島前*ドウゼン3島、島後*ドウゴ1島を中心に180余の島々からなる“隠岐群島”を、釣り人の目で見たとき、このことばは決して古くはなく、またいいすぎでもありません。島の四方に無数といっていいほどに点在する荒磯と、それに押し寄せる日本海の荒波は、釣り人の血をわきたたせます。
 シーズンともなれば、続々と届く大物のニュース、大漁の知らせ。日本記録ものの大物が出るのも隠岐ならではでしょう。
 山陰中央新報社は、山陰の釣りシリーズ第3部として、この隠岐島の釣り場ガイドを昭和52年(1977) 6月から53年5月まで101回にわたって新聞紙面で紹介して参りましたが、このたびこれを1冊の本にまとめて出版いたしました。本書は、山陰の釣りシリーズ第1部島根半島編、第2部石見海岸編と同様、空撮写真と地図を併用、隠岐島の釣りを得意とするベテラン4氏が執筆した画期的な釣り場ガイドです。――
 中国地方の盟峰・大山については地元の出版物が何冊かありました。
 全般的な解説書で、とくに写真が景観をよくあらわしているという点できわだった成功をおさめているのは山陽新聞社の『大山―その自然と歴史』(1992年) です。
 野草と野鳥のガイドに魅力のあるのは中国新聞社の『大山探訪―自然へ愛をこめて』(1991年) ですが、こちらは新聞連載の単行本化のようです。
 花にポイントを絞ったものでは、米子市在住の伊田弘實さんの写真図鑑に近い『増補改訂・大山花の散歩』(1983、山陰放送) がありました。まえがきによると、これはなかなかのロングセラーであるようです。
 ――著者は昭和40年(1965) から41年にかけて『大山の花』上下巻を上梓し、48年5月、白黒写真をオールカラーに切替えて『大山の花たち』と改題の上、195種の花を上げて刊行したが、大変な人気を博し、再版の結果さえ生んだ。更に51年1月には、402種の花を上げて『大山・花の散歩』としてまとめ、当社において労をとったが、前回同様一般から喜ばれ、翌々53年にはまたまた再版の運びともなり、新日本海新聞社は出版文化賞を贈り賞賛したほどであった。
 この大山の花に対しての著書は、昭和40年以来5万部の発行を見、県下でも類例のない発行部数を見るに至った。この記録を見るにつけ、如何に大衆が大山の花へのあこがれと、探索のよるべとなるものを渇望していたことを物語るものであり、大衆への貢献の大きさを知らされた。
 その後著者は、大山の隅々まで、自分の庭のごとく調査をつづけ、島根大学の杉村喜則教授の指導を仰ぎながら重ねて210種を把握、撮影し、312種を上掲し『増補改訂・大山花の散歩』を上梓することとなった。
 当社も、前著『大山・花の散歩』発行につづいて、このたびも『増補改訂版』を発行し、大山を訪れる皆様方のよりよい伴侶となることを信じて、発行の言葉といたします。――
 発行者、山陰放送社長の挨拶です。
 この本は「どの花」が「いつ」「どこで」見られるかということに徹しているところにロングセラーの秘密が隠されているようです。写真は最近の図鑑のものと比べると素人っぽいように見えますが、ライティングをほどこしながらもなお、花をのぞき込むという観察の目線を捨てないところにリアリティを感じさせます。そこに行けばこんなふうに見える、と思わせるところがあって、きっとそのとおりになるものが多いのではないでしょうか。地元の人に支持されている出版物ならではのよさではないかと思います。
 解説的な要素もほしいという人向きに編集されたのが朝日新聞鳥取支局編『花ごよみ大山』(1993年、米子今井書店) で、こちらは1ページ1種で誌面の半分以上が文字になっています。
 さすがに大山。地元の出版物がそれぞれ魅力を競っています。これらの中から、大山の自然を味わってみたいと思います。

●出雲の風景

 小泉八雲の「八雲」は出雲の枕詞からとったもの。「八雲立つ出雲」に英語教師として赴任した最初の日々に書かれたのが『日本瞥見記』なのですが、訳者・平井呈一さんのあとがき「八雲と民俗学」には重要な指摘があります。
 ――八雲は、日本に渡来する前年、1889年(明治22年) の11月、ニューヨークの書店ハーパー社の美術主任、ウィリアム・パットンに宛てて、日本行きの抱負と企画を箇条書きにしるした手紙を送っています。日本へ来る前後の事情については、いずれ第12巻の伝記のなかで詳しくのべることにしますが、とにかく書店としては、さきにハーンの仏領西インド采訪記の一部を、「ハーパー・マンスリー」という自分の店の雑誌に連載したのが好評だったところから、それに味をしめて、かねがね日本へ行きたがっていたハーンを、漫遊記者として派遣させる企画が熟してきたわけで、それについて熟議検討の結果、書店の方から「日本における新しい文明」という題目が提出されたのに対して、斡旋折衝にあたった同社のパットン美術部長に、ハーンがその具体案を示したのが、この手紙の内容であります。
・第一印象、気候と風光、日本の自然の詩趣
・外国人にとっての都会生活
・日常生活における美術、美術品に対する外国の影響の結果
・新文明
・娯楽
・芸者とその職業
・新しい教育制度…児童の生活…児童の遊技
・家庭生活と一般家庭の宗教
・公の祭…寺院の儀式と礼拝者のつとめ
・珍しい伝説と迷信
・日本婦人の生活
・古い民謡と俗謡
・美術界における昔の名匠が生き残って、あるいは記憶となって与えている感化。日本の自然と生活を反映させたものとしての力
・珍しい一般のことば…日常生活における奇異なことばの習慣
・社会組織…政治上、軍事上の状態
・居留地としての日本、外国人の地位
 一見して、まことに周到な、しかも椽大*テンダイな、悪くいえば、ずいぶん欲ばった企画でありますが、しかし今日になってハーンの日本に関する著作を改めてふりかえって見ますと、この一見欲ばったように見える企画を、かれはその線に沿うてさらに廓大敷衍*カクダイフエンしながら、終始一貫、その第1作である『日本瞥見記』から最後の『神国日本』に至るまで、この素志の研究と采訪に一生を委ねていたことがわかります。
 1つ1つ当たっていきますと、『日本瞥見記』は申すまでもなく、その後の『東の国から』『心』以下の数多くの述作のうち、どんなエッセイ、どんな随想、どんな紀行、どんな小品、どんな研究にも、かならずこれらの項目のどれかが観察され、追究され、意味づけられているのを見ることができます。一々の例は、作品を読まれていくにつれて会得されることと思いますが、もっともこれらの項目は、こんにち、いわゆる民俗学者の立場からいえば、もはや常識以前のものかもしれません。同時に、常識以前のものだけに、確固不動の憲法ともいえるものでもあるのでしょうが、それはそれとして、とにかく今から70〜80年前に、まだ今日のように民俗学というものが学として確立しなかった時代に、こうした方法論をもって日本の習俗と精神史の研究采訪に没頭した八雲の業績は、それだけとして考えても、ほとんど草分けに近い、大きな意味があるのではないかと思うのであります。――
 ハーンは杵築*キヅキの大社、いわゆる出雲大社に詣でます。
 ――もう夜なので、町の家は、おおかた大戸をおろしているから、町は暗く、宿の主人のさげている提灯のあかりが、何よりのたよりである。月はないし、今夜は星も出ていない。大通りを6丁場ほど歩いてから、横に曲ると、大社の並木道へはいる入口の、唐銅の大鳥居の前にひょっくり出る。
 夜は、物の色彩*アイロを消し、距離を抹殺してしまうものであるから、広い場所の状況や、大きな物の感じを、大たいの勘と見当で、途方もなく大きなものにするのが常である。提灯のおぼろなあかりで見ると、大社の社殿まで行く参道は、じつに堂々たる、大したものだ。これをあした、迷夢をさます白日のもとに見ると思っただけでも、何だか惜しいような気がするくらいだ。
 見上げるような大木の立ち並んでいる広い並木道が、つぎつぎと大きな鳥居のいくつも立っている下に、目もはるかにつづいている。大鳥居に張りわたしてある、ものすごく太いシメナワは、それに象徴されている天手力雄命*アマノタヂカラオノミコトが握るのに、ちょうど手ごろな太さである。が、そんな大鳥居や、太いシメナワよりも、この大きな並木道の陰々たる荘厳味を強めているものは、うっそうたる大樹である。大多数は、おそらく樹齢千年におよぶものであろう。瘤だらけな松の木が、たがいに枝と枝とをさしかわした樹頭は、深い闇の中に没している。なかには、太い幹に、藁縄*ワラナワを巻いてあるものもある。これは神木である。八方に這いのびている大きなその根方は、提灯のあかりで見ると、さながら蜿莚*エンエンとして匍匐*ホフクする蛟龍*コウリュウのさまに似ている。
 この大並木は、その長さ、ざっと4分の1マイルは下るまい。そのあいだに、橋が2つかかっており、神苑の深い森を2つ通りぬけている。道の両側の広い地面は、ことごとくみな社有地である。以前は、中の鳥居から先は、外人ははいることを許されなかったそうだ。並木道がつきると、そこに高い土塀があって、寺の境内にある山門に似た、非常にどっしりとした門がある。ここが内苑の入口だ。重い門扉がまだ明いていて、人の影が大ぜい出たりはいったりしている。
 内苑のなかはまっ暗で、その深い闇のなかをうす黄いろい光が、まるで大きなホタルの群がるように、あちらこちらにゆらゆら動いている。これはみな参詣者の提灯だ。太い木材で建てられた、見上げるような建物が、右にも左にもそびえ立っていることだけが、辛うじて見分けられる。われわれの案内者は、その広い境内を横切り、さらに第2の神苑にはいって、堂々たる建物の前に足をとめる。ここの扉も、まだ明いている。その明いている扉の上には、おそらく名匠の手によって、良材に刻まれたものであろう、竜と水を彫ったすばらしい長押*ナゲシ彫りが、提灯のあかりで見える。扉のなかを見ると、左手に脇宮があって、そのなかに御弊が見える。扉のつきあたりには、やはり提灯のあかりで、こんなところにまさかと思われるほどの、広い畳敷きの床が見える。その広い畳敷きから推してみて、わたくしは、社殿だろうと思われるこの建物の大きさを想像してみた。ところが、宿の主人のいうところによると、ここは社殿ではなくて参詣者が参拝する拝殿なのだそうだ。昼間はここの明いている扉口から、社殿が見えるのであるが、夜だから今は見えないし、それにここからなかへはいることを許されるものは、めったにないのだそうだ。「たいていの人は、神苑のなかへさえはいれないのですよ」とアキラが説明してくれる。「みんな遠くの方から参拝するのです。ほら、あれをお聴きなさい!」
 われわれのまわりの深い闇のなかで、水を叩くか、はねかすかするような音が聞こえる。これは、神道の祈祷のさいに打つ、大ぜいの人のかしわ手の音だ。
「しかし、こんなのは何でもございませんよ」と宿の主人がいう。「今夜あたりは、幾人もいやしません。まあ、明日までお待ちなさいまし。明日はお祭り日でございますから」――
 翌朝、ハーンは再び大社に向かいます。
 ――境内からは、もう潮騒のような重々しいひびきが聞こえる。進むにしたがって、その音はいよいよはっきりと手に取るように聞こえてくる。…いっせいに打ち鳴らすかしわ手の音である。例の大きな門をくぐると、昨夜見たあの大きな建物…拝殿のまえに、数千の参詣者がつどうている。そこから内へは、誰もはいることができない。みな、群竜の彫ってある扉口の前に立って、敷居の前に据えてある賽銭箱へ、賽銭を投げ入れている。たいていの参詣者は小銭を投げるが、なかにはごく貧しいもので、ひとつかみの米を箱のなかへ投げ入れるものもある。賽銭を投げてから、みな、敷居の前でかしわ手を打ち、頭を下げて、拝殿の奥にある1段高い神殿に向かって、うやうやしく目礼をしている。参詣者は、誰もみな、そこのところにちょっとしばらく立ち止まって、かしわ手を4つ打つだけなのだが、なにしろ、入れかわり立ちかわり来るもの帰るものが多いから、かしわ手の音がまるで滝の音のようだ。
 おびただしいその参詣者のそばを通って、拝殿のむこうがわに出ると、神殿へのぼる、鉄の帯金を打った広い階*キザハシの下に出る。聞くところによると、西洋人で、この階に近寄ることを許されたものは、いまだかつてひとりもいないということである。その階のいちばん下のところに、斎服*サイフクをつけた神官たちが、われわれを出迎えに出ていた。いずれも背の高い人たちで、それが金糸で竜紋を織り出した紫の袍*ホウを着ている。高い、奇妙な形をした冠、寛潤な美しい装束、さながら古代ギリシャの神僧のような神厳不動の姿勢など、一見して、ただ奇怪な木彫りの像かと思わしめるばかりである。わたしは、ふと子どものころ、いつも驚奇の目で眺めていたフランスの版画で、アッシリアの占星師の一団をあらわした絵を、そのとき、思い出すともなく思い出した。
 われわれが近づいてゆくと、神官たちの目だけが動く。そして、階のところまで行くと、かれらはいっせいに、うやうやしく頭を下げて、礼をした。それは、わたしが、かれらの主人である宮司と、この社殿で面接するという名誉ある特権をあたえられた、最初の外国人参拝者であるからなのだ。日の神の子孫であるここの宮司は、この古い地方の辺陬*ヘンスウに住む数万の素朴な信者たちから、いまでも「生き神」と呼ばれている尊い人である。さて、一礼がすむと、神官たちは、ふたたび木像のような姿勢にもどった。
 わたしが、靴をぬいで、階をのぼろうとすると、さきに外門で、はじめてわれわれを迎えてくれた背の高い神官が、神殿にのぼるには、昔からある神前のしきたりとして、潔斎を行わなければならぬ旨を、かんたんな身ぶりで教えてくれる。わたしが両手をさし出すと、その神官が長柄の竹のひしゃくで、浄水を3度かけてくれて、手をふく浅黄*アサギの小さな手ぬぐいをわたしてくれた。手ぬぐいには、白い文字が染めぬいてある。それから、われわれは昇殿する。その時、わたしは、自分の着ているぶざまな服装をかえりみて、何か無礼な野蛮人に似たものをつくづくと感じた。
 階のいちばん上のところで立ちどまると、神官が、わたしの社会的階級を訊問する。というのは、杵築では、この階級とか、ないし階級的形式とかいうものが、神世におけると同じように、今でも厳重に保たれていて、さまざまな社会的階級の参拝者の対応については、それぞれ特殊な形式と規則があるからである。アキラがわたくしの身がらについて、どんなお世辞を神官に述べたか、それは知らないが、けっきょく、わたくしは普通の平民ということになった。この嘘かくしもない事実のおかげで、わたくしはさいわいにも、どうせやれば面くらうにきまっているさまざまの儀式作法から免れることができた。日本人が世界中で最も得意芸とする、あのややこしい、きれいごとな作法なんぞ、わたくしはまだずぶの素人なのだから。――
 ハーンがこの日訪れた社殿に関して、建築民俗学の川添登さんがすぐれた解説をしてくれています。上田正昭編『古代を考える・出雲』(1993年、吉川弘文館) に寄せている「出雲大社と古代建築」という論文の書き出しから読んでみます。
 ――八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を
『古事記』『日本書紀』は、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治して助けたクシナダ姫と、新婚家庭をいとなむため、須賀*スガの宮を造ったときに詠んだ、としているが、もともとは独立した宮讃*ミヤボめ歌に、神話を仮託したのだと思う。そうみると、これまでとはちがった解釈も考えられてくる。
「八雲立つ」が、出雲を代表する歌とすれば、大和を代表するのは、つぎの歌だろう。
 大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 大和しうるわし
 ここでは「山こもれる」が1つの単語であるから、「青垣山」とつづけてよんではいけないとされる。この歌と「八雲立つ」をくらべてみると「青垣」と「八重垣」、「山こもれる」と「妻ごみに」とがそれぞれ対応している。一方は、長くつらなる「青垣」であり、他方は、いく重にもめぐらされた「八重垣」である。「山こもれる」は、山がこもっているのではなくて、逆に山が青垣となって、こもる場所をつくっているのである。とすれば「妻ごみ」も、新妻を家のなかにこめるのではなく、建物の妻をこめる、というのが本来の意味だったのではないだろうか。
 日本建築の屋根は、切妻*キリヅマと寄棟*ヨセムネに大きく二分され、仏寺や全国の農家のほとんどは寄棟であるのに対して、神社はすべて切妻で、古くは皇居も切妻だった。そして切妻の周囲に庇*ヒサシをめぐらすと入母屋*イリモヤになる。
 古墳時代の埴輪*ハニワ家や家屋文*カオクモン鏡などにみる切妻や入母屋の多くは、妻側の屋根が上部へいくほどとび出している。これを妻がころぶというが、当時の素朴な技術では、妻壁上部の三角形部分を完全にふさぐことは、むつかしかったので、むしろ積極的に開放して煙出しや明かりとりとし、そこから雨が降りこむのを防ぐため、屋根の上部を突出させたのである。しかし、風は容赦なく吹き込んできただろう。
『万葉集』に、持統太上天皇が三河地方へ行幸された際、それにしたがった夫の留守をまもっていた誉謝*ヨサ女王の歌がある。
 ながらうる 妻吹く風の 寒き夜に わが背の君は 独りか寝らぬ(巻1-59)
「ながらうる」は「ながる(流る) 」の継続をあらわす「ながらう」の連体形で「日本古典文学体系」は、上の句を「君の帰りを待って空虚な日々を送っている妻(である私) を吹く風の寒いこの夜に」と説いている。しかし当時の切妻住居の多くは、ちょっとした風でもあれば遠慮なく妻から吹きこんできた。それゆえ「たえまなく流れこんでくる妻を吹く風の寒い夜に」とそのまま素直に読めばよい。その妻は、配偶者である作者自身にも懸かる一種の懸詞*カケコトバであろう。
 もともと「八雲立つ 出雲八重垣」の歌は、妻を張りこめ、八重垣をつくり、なんと堅固で立派な宮殿であることか、とうたった宮讃*ミヤボめ歌である。かつて切妻の住居は、妻から容赦なくつめたい風が吹きこんでいた。しかし、いまやそれは張りこめられ、冬にも寒さにもふるえることのない宮殿がつくられた。それは新しい建築様式の誕生だった。大社*タイシャ造りとよばれる出雲大社の建築様式は、きわだって高い高床の上に、あたかも胸を張って立つかのように、妻壁を正面にして堂々と聳え、その上部三角形の部分は、もっともめだつ個所である。つまり妻が美しく堅固に張りこめられていることを誇らしげにみせた造形といってよい。出雲の人びとは、その新しい建築様式を讃美して「八雲立つ」と、たからかに歌い上げたのである。もしかしたら大社造りの誕生を祝う歌だったかも知れない。
 しかしこの「妻ごみ」が、なぜ、ほかならぬ出雲にあらわれたのであろうか。出雲といえば製鉄で知られる。『出雲国風土記』は飯石*イイシ郡の波多小川、飯石小川のそれぞれに「鉄あり」と注記し、仁多*ニタ郡横田郷の条には「以上の諸郷より出す所の鉄、堅くして、尤*モットも雑の具を造るに堪う」とあり、三処郷、布勢郷、三沢郷、横田郷など斐伊*ヒイ川川上の仁多郡が、古くから製鉄の中心だったことをうかがわせる。そのタタラ(製鉄所) では、高温を発する燃料として、木炭が大量に消費されていたはずである。それが宮殿の暖房にも使われて煙り出しを不要とし、「妻ごみ」を可能にしたのではなかろうか。こうした意味で「妻ごみ」は、出雲にあらわれるべくしてあらわれた技術であった。
 木炭の使用は、宮殿からたきぎの煙りを追放したが、たきぎの煙がなければ萱葺*カヤブきの屋根は長もちしない。その結果、日本家屋を檜皮*ヒワダ葺きの宮殿・神社と、萱葺きの民家へと二分させ、一般の建物と明瞭に区別される建築が生まれた。それは、当時における建築上の技術革新である。
 出雲大社は、遷宮*セングウを前提とした皇居や伊勢神宮とは異なって、はじめから永久建築をめざした、おそらくは日本様式最古の建築である。出雲の工人たちによる妻をこめた大社造りの原型がつくられて、本格的な日本建築の第1歩が踏み出されたのである。
 妻をこめることの重要さは、大社造りにかぎらない。大和朝廷のシンボルとなった切妻造りの宮殿や神社のすべてにあてはまる。たとえば伊勢神宮では、この部分を「鏡形木」とよび、とりわけ重視していた。したがって「妻ごみに」という言葉は、八重垣とともに、すべての宮殿・神社に普遍され「八雲立つ」の歌は、宮讃め歌の代表として、出雲系の奉仕者により絶えず歌いつがれた。そしてその妻が新妻の妻に通じることから、出雲系の神かみの祖神スサノオの聖婚の歌とされたのであろう。――

●隠岐の海

 この隠岐で、国立公園に指定されているのは海岸のほとんどと、その地先の海です。ということは磯釣りの釣り人たちがあこがれる隠岐の海、そのものということになります。釣り人はその海を、いったいどのようにみているのか。『山陰の釣り・隠岐島編』を開いてみます。
 この本のいちばん最初が島前*ドウゼンブロックの西ノ島の「宇賀〜冠島周辺」となっています。島後*ドウゴの西郷から島前の別府に向かう船が、西ノ島と中ノ島の間にすべりこんで行くときに、右手に見える最初の岬のあたりです。ここを例にとって、筆者・米村好治さん(松江市在住) は全体のイメージを語っています。
 ――隠岐のいそは未開拓部分が少なくない。そのためいそ渡しの船長は新しいポイント開発に意欲的だ。
 いそ鏡(箱眼鏡) で海底を見ると、澄んだ海は実に美しい。瀬があり海草が繁茂し、ところどころにキ裂のようなミゾが走っており、その奥の方に目をやると、かすかに白い物が点々と見える。イシダイの口である。イシダイの口は白いので、さながらしり隠して顔隠さずといったところだろう。時としてゆうゆうと大ダイが姿を見せる。まるで龍宮の主か、王者の貫禄十分で、しばし見とれ、上体が浮きそうになる。深海魚と聞いていたが、そうではないらしい。瀬について回遊し、浅くてもミゾを伝わって移動する。1匹か2匹でいることが多いが、時々10匹から20匹の集団で群遊することもある。まきえを追って浮上もし、水面下1mまで浮いてくることもある。このため3点釣りの浮が、着水と同時に竿ごともぎ取られるかのような、すごいあたりに出くわすことがある。ここでも、まきえのやり方が大切なことを教えてくれる。
 マダイは瀬から急に深くなって砂地へ変わるところ、つまり瀬際を通ると、異口同音に漁師達はいう。――
 そこからほんのちょっと北に回ると「済の鼻」という岬があるというのです。釣りにトント縁のない私などには、ほとんどマユツバとさえ思えるような紹介になっています。
 ――物井、倉ノ谷、宇賀いずれの集落からでも山越しで行ける。しかし距離は遠く、土地の人の案内なくては山中で迷い込む心配があり、かつ超一流の釣り場だから帰路は、釣具を置いて魚だけ持ち帰る羽目にもなりかねない。渡し船での釣行をすすめたい。
 西風の微風が最適で、東風は波が立ちやすいから、いそ渡し困難な日は思い切って中止し、他の釣り場へ変更しなければならない。この付近で最も多彩な釣り場はと聞けば、まず「済の鼻」と答えるほど、魚種、量ともに豊富である。海に向かって右側には海が荒れると白波が洗う低いいその「白島」と「黒島」があって、ここもともに3kg前後のイシダイとグレ(メジナ) が大型まじりで数が出る。
「黒島」の西にはグレの2kgから3kgが顔をのぞかす、魅力的な大物場がある。型が大きいばかりでなく数も出る。「済の鼻」の一番西側はイシダイ、マダイ、グレ、イサキなど何でも多く出る最高のポイントだ。
「済の鼻」のいそから10mぐらい沖に瀬があるが、この瀬に至るまでの間はまさにグレの巣というにふさわしく、10月から1月いっぱいは重い釣果で帰路の方法を真剣に考えないと魚に埋まるというほどだ。ナギであれば最適といわれる12月に1.5kg以上の大型(50cmクラス) のグレばかりを3人で300枚、約500kg釣って難儀したという信じられないような話も聞いた。それもそのはずで、この「済みの鼻」は西ノ島町3大ポイントの1つに数えられており、グレのほか、マダイ、イシダイも濃いし、そのうえ島根半島では朗報が聞かれなくなったイサキの本場でもある。イサキも同様に3大ポイントの1つとされていて、良型がそろうので、さおさばきの連続で腕が痛くなるという。――
 こういう話がえんえんとつづくので、隠岐の中心地西郷の深い入江の突堤などで竿を振るっている人たちはどのていどのものを釣っているのかと開いてみると、これまた口をアングリと開けてしまいます。島後ブロックの筆者は西郷町在住の松本一利さんと田坂巌さんですが、まずは島後ブロックのまえがきの部分。
 ――これら(島後) の地区のいずれもが、幾分かの違いはあっても、それぞれに好釣り場をかかえているので、順を追って出来る限り詳しく紹介してみよう。しかし、なにぶんにも地元の釣り人の絶対数が少ないうえ、本土から遠征してくる人々も宿泊と渡船の便利な2〜3のところに集中するため、その地区のポイントは非常に密度のある釣り場となる半面、その他の地区は未開拓の部分が多いか、または粗略なものとなることは否定できない。
 たとえば、西郷湾東間口(湾口) 内側や赤灯台(姫島) は、昭和51年までだれも釣り場とはいわず子供たちの海水浴やサザエ捕りだけの場所であったのが、6月上旬の荒天続きで行き場に困った隠岐汽船乗組員の同好者たちが、やむなく冷凍イワシを持ち込んだのがきっかけで連日、40〜55センチの良型チヌ(クロダイ) の大釣りが続いた。
 町内から目と鼻のところにあるここですら、だれも知らず、また真剣に攻めた者もいなかったの一事をもってしても、いかに未開拓の釣り場が多いかを理解してもらえるものと思う。
 また、この島は津島暖流とリマン寒流の双方の影響を受けるため、暖流系の魚と寒流系の魚が釣れることも、特徴の1つといえよう。暖流系の魚としては、マグロが大敷網にかかったり、いそでカツオとヨコワを40数匹釣った人もあるし、西郷湾の奥の浅瀬でカジキを抱き捕った水産高校生もいる。寒流系では、9.8kgの大ヒラメを釣ったM氏、メバルの代わりにソイがきたり、北海道名物のホッケが網をいっぱいにし処置に困った網元もいる。――
 さて、いよいよ「西郷湾周辺」へと入ってみます。
 ――西郷湾は入口わずか270mでありながら、内奥は東西8kmにもおよび、三方を山で囲まれた日本海きっての天然の良港である。戦前、戦中を通じ数多く渡満した隠岐の人々のうち、旅順へ行った人は、あまりにも港の姿、大きさが西郷湾とそっくりなので、思わず故郷をしのんで涙ぐんだという。
 この西郷湾は、最深部が41m、平均深部35m。この中に12mから20mの浅瀬が数多く点在している。これが絶好の産卵場を各種の魚類に提供し、まことにマダイが豊富で、毎年毎年、内湾しかも自宅の裏庭や駐車場などで大ダイが釣れるところは、全国でも類を見ないだろう。
 たとえば、隠岐汽船フェリー岸壁の駐車場ができた昭和49年(1974) には、5月下旬から6月上旬のわずかな間に、8.6kgを筆頭に5kg以上の物13匹が上がった。それ以外にバラしたものも相当あったから、1度さおにかかった大ダイのうち他の場所へ逃れ去ったものも何割かあったと仮定するなら、この近辺に回遊していた大ダイの数は、20匹や30匹ではなかったかと思われる。――
 いまからすればはや20年前の話ですし、ここにはどうも「釣り算」ともいうべきトリックが潜んでいるように思えるのは、私が釣り人ではないからでしょうか。そういう意地悪な目で読んでいくとやっぱりありました。同じ西郷湾内の話です。
 ――東町半崎に風早*カザハヤというところがある。文字通り風の強いところで、冬季に歩けば、からだ全体がすくみあがるほどだ。
 この風早の秋鹿鉄工所と浜尾倉庫の中間やや沖合に木材運搬船が1隻沈んでいる。
 この半人工魚礁に、チヌやメバルがすみつき、早朝ゾロゾロとパトロールをする。このことを知っていたのはこの近所のほんの一握りの人たちだけだった。
 ある日このことを耳にした釣り人が、ここをぴったりとマークし、虎視タンタンとねらっていた。
 梅雨時のササにごりのある日、その釣り人がサンマと仕掛けと腕を持ち込んだ。
 釣果は2kgから2.5kgのチヌ3匹、翌朝再び出かけて1匹追加。釣果がよかったというニュースが伝わる速さはいかなる猛烈な伝染病をもしのぐ。
 尾がつき、ヒレがついて町中を走り回ったニュースは10数本のさおの放列となって姿を見せた。当分の間チヌラッシュが続き、やがて近所の人が「魚がおらんようになってしまう」という愚痴になった。
 そのうち、1枚バラシ、2枚バラシしているうちに賢いチヌはすっかり仕掛けを覚えてしまい、なまはんかな仕掛けにはのってこなくなった。やがて1人去り、2人去り、3人逃げて、元の静けさをとり戻した。――
 やっぱりね。いるときはいても、いないときはいない、とれるひとはとっても、とれないひとはとれない、という厳然たる現実があるなだな…なんていう気分にもなるのですが、事実はさらに複雑でおもしろい。西郷港漁業センター岸壁の話です。
 ――湾口(地元では間口*マグチという) に向かって右側を石積突堤、左側を観光船しょうぶ岸壁、沖側を一文字波止めでかこまれ、水深もわずか4〜5mそこそこしかないこのなかに、どうして大ダイが入り込むのか理解に苦しむのだが、現実に毎年のように釣れるから不思議だ。
 チヌもかなり濃く、ある料亭の板前さんが、仕事の合間に毎日1枚ずつ上げて8日間連続したり、フェリー「おき」の乗務員が、車両の積み下ろしの時間に6枚上げた記録もある。魚体は中型がほとんどで、2kg前後のものが多い。
 この場所のきわだった特色は大ダイねらいのときはイワシの1尾がけのえさで良いが、チヌの場合には絶対的にといってよいほど、バイ貝のしっぽでしか釣れないことだろう。これは、漁業センター婦人部の人たちが、同センター3階を利用して民宿をしており、その料理に使った残りのしっぽを捨てるのと、荷揚げの際の落ちこぼれなどにえつき、一種の飼いつけの状態になっていると思われる。ポイントは、ドラム缶を利用した焼却炉から、養殖ハマチのイワシミンチ機の間で、30mから40m投げた方が良い。――
 「日石タンク付近」での、ちょっぴりユーモラスな、次のようなエピソードもあります。
 ――故人となられた大ダイ釣りの名人といわれた藤田実氏はこの近くの知人の家の裏庭から毎年、良型の大ダイをものにしていた、6月中旬か10月の下旬には、道具一式をこの知人宅に預け、えさだけを自転車に積み込んで通ったものだ。
 サンマのぶつ切りやイワシをまきえとし、同じものをさしえとして、約1週間もすると大ダイをぶら下げて帰ってくるのが、例年のパターンだった。
 われわれも、時々許可を乞うて、ねらってみたが、彼の執念か自信かに圧されたかのように、いつも見事にしてやられたのも例年のことであった。
 釣り方は、これまでの仕掛けと一緒で、ナマリを抜き、えさの重みだけで投げ込む方法だが、最近のように、釣具店に冷凍設備ができて、オキアミ、生サナギ等と種々なえさの入手が可能になったいま、もう少し違った釣法も出来るのではないかと思う。
 ただひとつ理解に苦しむのは、この家のご主人をはじめ、近所の人たちが、これを横目に見ながら、どうして自分で釣ろうとしないのだろうかということだ。最初から「こんな大物じゃ、手に負えん」と、決めてかかっているのか、まるで興味がないのか?
 その点、山間部の農耕地帯の人が釣りを覚えると、われがちに船を購入し、狂気のごとく熱中するが、あれは釣り上げた獲物を喜んでもらえるからか、または子供のころから潜在的に海に対する憧れがあるせいではないかと思うが、どんなものだろう。
 近年、このすぐ隣に家を建てた、隠岐磯釣クラブのS氏がいるが、わざわざフェリー岸壁までさおをかかえて来ているのは、自宅裏が大ダイの寄り場だということを知らないのではないか。1度話してみたいと思いながら機を失している。――
 この『山陰の釣り・隠岐島編』は白黒の空撮写真を各所にちりばめていますが、最新刊の『空から見た山陰の海釣り』(1993年、山陰中央新報社) は全ページカラーの空撮で隠岐島、島根半島、石見海岸の磯を網羅しています。
 それにしても釣り人たちが求める磯は、荒海に突き出した断崖絶壁の先端など、いかにも落石のありそうなところばかりで、しかも大波がくれば一息に飲み込まれてしまいそうな危うい足場のようです。足元では海が白い泡を吹き、潮は川のように流れている。自然の、もっとも素顔に近い美しさでもあるようです。

●大山の四季

 『大山―その自然と歴史』には要領よく概観が語られています。
 ――大山は日本海に面し、ひときわ高くそびえているため、特有の気象や自然環境が形成され、四季それぞれに異なった姿を見せ、訪れる人を楽しませてくれる。
 大山の春は5月から始まる。長く厳しい冬を耐えてきたブナ林やミズナラ林は、一斉に芽吹き始め、全山緑と化す。1,650haを超え西日本最大規模のブナ林内では、オオルリやキビタキなどの鳥たちがコーラスを奏で、木々の間にはギフチョウやウスバシロチョウなどの蝶が乱舞し、山は急に華やかになる。
 6〜8月は本格的な夏山シーズン。木立の中に入れば蝉しぐれが降りそそぎ、樹間のあちこちには、奈良朝以来の山岳信仰の名残をとどめる史跡が見え隠れし、遥かな昔へと想いを誘ってくれる。
 汗をかきながら登ること約2時間半、頂上付近に広がるお花畑に到達する。ツガザクラやシコクフウロ(イヨフウロ)、ナンゴククガイソウ、シモツケソウ、さらには大山固有のダイセンキスミレ、ダイセンオトギリなどの高山植物が咲き乱れ、登山者を歓迎してくれる。
 9月、ススキの穂が風になびくころ、大山は早々と冬の気配を見せ始める。ブナ林に代表される落葉広葉樹は、10月下旬から11月初旬にかけて一斉に紅葉し、全山一大絵巻を繰り広げ、自然の織りなす芸術を披露してくれる。特に、桝水*マスミズ原や川床、大山環状道路の鍵掛*カギカケ峠からの紅葉は、規模といい美さといい一見すべき景観である。
 11月中旬、いよいよ大山に冬将軍が訪れる。今まで美しく着飾っていたブナやカエデ類は、すっかり衣を脱ぎ捨て、山は寒々とした姿へと変わっていく。12月下旬ともなれば全山雪に覆われ、長い冬眠へと入っていく。しかし、吹雪がおさまった後、雪に覆われた樹氷の美しさは、華やかな紅葉時の姿とは違い、神々しいまでに身の引き締まる思いがする。――
 つづく「大山の植物」の章では、登山道にそって観察するという体裁がとられています。ブナ林についての観察があります。
 ――登るにつれ大きくなる木の幹。その大半がブナだ。4合目〜5合目の林は最高度に発達したブナ林であり、現在の環境が変化しない限り、代を重ねながら未来永劫にこのようなブナ林が続くと考えられている。このような林を極相林という。
 5合目では視野が開け、夏なら深緑、秋には紅葉のじゅうたんをかぶせたような宝珠尾根が眼前に展開する。それは自分の周囲に広がるブナ林と同じような極相林を上から見下ろした姿なのだ。極相林では高木層、亜高木層、低木層、草本層の階層が発達し、それぞれの階層で違った種類の植物(次代のブナの若木も混じっている) が、互いにその位置の環境に適応しながら、社会的なつながりをもって、バランスのとれた植物社会をつくっているのである。
 中でもみんなの目にはっきりわかるのは低木層だ。2〜3mの高さに茂る低木が林床を覆い隠している。高木層と亜高木層の樹木はすべて秋に紅葉する落葉樹であるにもかかわらず、低木層と草本層では冬になっても緑の葉をつけたままの植物が混じっているのも面白い。落葉の植物だけでなく常緑の植物が多いのは、冬の間、多量の積雪に覆われる大山をはじめ日本海側の雪国山地のブナ林の特徴なのである。
 ブナ林があるような位置の冬は厳しく、植物でも冬眠しなければ生きて行けない。厳しく長い冬に適応するために落葉するのだ。それなのに、なぜ雪国のブナ林には常緑の低木や草が多く、それが特徴になるのだろうか。まだ雪に覆われた早春のブナ林の風景が、その疑問を解いてくれる。夏のブナ林では遠くを見通せないくらい低木が茂っているのに対し、早春のブナ林は低木がほとんど見当たらない、低木はすべて雪の下だ。その低木が雪から解放されるのは4月も上旬であろうか。それから葉を広げて光合成を始めるとなると立ち後れてしまう。この点、保温効果のある雪のなかで寒風から保護されながら緑葉を温存しておき、雪から解放されると同時に光合成が営めるのならまことに好都合である。雪国のブナ林に常緑の低木や草本類が多いのは、まさしく長い長い進化の歴史の中で植物達が獲得した適応形態なのだ。低木の中にも落葉樹が少なくないが、それらはどれも背の高い低木である。――
『大山探訪―自然へ愛をこめて』のほうは植物編を大山自然解説員の川上明敏さんが担当しています。実際の観察会でのレクチャーを想像させるような語り口が魅力です。
 まずはダイセンミツバツツジ。
 ――大山の山ろく、標高50mの所で、コバノミツバツツジを見た。4〜5月にかけて紅紫色の花が開く。若枝には、伏した淡褐色の毛が多くつく。葉身は卵形、表裏ともに、淡褐色の毛が一面に生え、長さ3〜6cm。葉柄は3〜7mmで、ここにも伏した淡褐色の毛が多くつく。
 コバノミツバツツジと似てはいるが、相違点の多い木が近くに自生していたので、比べてみた。
 開花期は5月初めから中旬までで、花はコバノミツバツツジより紫色が濃い。若枝は無毛。葉身は広いだ円形、大きいもので長さ8cm。表は白く伏した毛がまばらにつき、裏面には、白く伏した毛が多い。葉柄は長いもので7mmあり、下半分は無毛の例が多い。上半分から裏面主脈下方にかけて、白色の長い毛が伏して多くつく。そうした相違点から、長年はっきりしなかったダイセンミツバツツジとわかった。
 昭和63年の5月、高知県とその周辺の植物同好会の一行20数人が大山植物、とりわけ、ダイセンミツバツツジの観察に訪れた。夏山登山道の両側には次々と開花最中のものがあり、一行は写真撮影やルーペを使って観察を行った。――
 モリアザミについて書かれています。
 ――植物を自然観察する時は、身近な植物から理解することが大切である。
 例えばノアザミ。花は5〜7月に咲き、草丈は30〜70cm。葉は互生し中央の葉脈まで裂ける羽状*ウジョウ深裂で、縁には針状の突起が並ぶ。つぼみを包む総包は、開花期には粘りが出てくる。茎の先端、または先端近くの葉と茎の間から伸びた枝に、タンポポなどキク科の植物と同じ頭花を2〜3個つける。
 ところで10月上旬、大山の桝水*マスミズ原でノアザミと違うモリアザミを何本か見た。草丈30〜70cm。下の葉には長い柄がある。葉は羽状分裂するものの深裂、中裂、浅列がある。花は茎の先、または上の方の葉と茎の間から伸びた枝の先に1個の頭花がついていた。総包片は広い角度で伸びていて、基部は3mmくらい。長さは9〜10mmあり、先は針のようにとがる。総包全体を見ていると、クモの巣に似たクモ毛が見える。
 図鑑には、モリアザミの根を漬物にして、ヤマゴボウなどの呼び名で販売するとあるが、大山の土産物店ではヤマゴボウの名でゴボウの漬物を売っていると聞いた事がある。――
 キセルアザミという項目もあります。
 ――キセルアザミは、低い所から大山900mまでの湿地でよく見られる。秋の鏡ヶ成*カガミガナルの湿地に特に多い。
 春から夏にかけて根生葉が放射線状に広がる。葉は羽のように分裂するが、浅裂、中裂、深列と変異が多い。夏から秋にかけて根生葉が残るままに茎が40〜50cm伸び、その先などに頭花がうつむき加減につく。つぼみを包む総包片は、かわらを重ねたように見える。頭花は赤紫色で管状花だけ。直径2〜3cmある。盛りがすぎると花は上を向く。この時期にそう果を見ると、長さ4〜5mm、幅は先と基部とも同じで1mm。冠毛は21mmくらいの長さで、ルーペで見ると、羽毛のような枝分れが多い。キク科アザミ属。同属の種類にノアザミ、モリアザミなどがある。アザミ属の中で大山の場合はキセルアザミが群生しているのが特徴である。――
 おなじ川上明敏さんが『花ごよみ大山』でマアザミについて書いています。
 ――湿原に育つ多年生草である。春から夏にかけて、根生葉がロゼット状に広がる。葉は羽状裂*ウジョウレツとなるが、その切れこみは深かったり、浅かったりする。葉の両面は無毛。夏から秋にかけて根生葉の残るままに、茎が50cmほど伸び、その先に頭花が斜め下向きにつく。頭花の径は2〜3cm。総包は覆瓦*フクガ状にならぶ。花冠は包状で赤紫色。花期が終了すると上を向く。
 このころから分解すると、果実の上に冠毛が見える。その長さは10mmから15mmと不ぞろいである。この毛から、小さい枝毛が多く出て羽毛を思わせる。冠毛の先端は少しふくらんでいる。
 鏡ヶ成の湿原を代表する秋の花といえば、このマアザミの赤紫の花である。――
 野鳥についても『大山探訪―自然へ愛をこめて』の野鳥編が具体的です。大山自然解説員の安田亘之さんが書いています。まずはその中からホオジロ。
 ――3月中旬、50cmを超す残雪の中を、かんじきをつけてイヌワシの繁殖調査のため歩く。目前で留鳥であるホオジロ(ホオジロ科) が「ツツン、ツツン」と地鳴きをしては何かついばんでいた。
 愛らしい動作に見入っていると、石川啄木の歌を思い出した。
「ちょんちょんと とある小薮に頬白の あそぶを眺む 雪の野の路」
 ホオジロは、平地から大山頂上の草本帯近くの高さまで広く分布している。比較的数が多いせいか、人々に親しまれ、多くの歌人も歌や詩に詠んでいる。
 鳥たちのさえずりを人の言葉に置き換えて聞くことを「ききなし」というが、ホオジロは「チョン・チン・ピーツッ・チョン・チュリーチョン」と耳に入る。
 これを昔の人は「一筆啓上つかまつりそうろう」「源平つつじ白つつじ」と置き換えた。大山の古老はこうも言っている。「弁慶皿持って来い、みそ汁入れたるぞ」。じっと耳を澄ませて聞いていると大山桝水原の鳥は「源平」、大山北側の中の原スキー場の鳥は「一筆」だと聞こえるから不思議である。
 こずえに止まり、空に向かって歌う赤褐色のスズメより少し大きい鳥がいたら、耳を傾けたい。各地のホオジロはなんと鳴いているだろう。――
 文中にイヌワシの繁殖調査とありましたが、安田さんは日本イヌワシ研究会理事だそうです。もちろんイヌワシについての項目もあります。
 ――イヌワシ(ワシタカ科) は、古く世界中で神として、また富と権力の象徴としてあがめられてきた。風格ある姿、豪快な狩と飛行術。しゅん険な生息地。鳥の王者として人々を魅了する秘密はここらにありそうだ。
 上昇気流に乗り、輪を描いて帆翔したり、逆風に向かい、はばたきひとつせず猛スピードで飛行できる。風を巧みに利用して飛ぶさまは「風の精」と呼びたくなる。全長80cm強。翼を広げると2mを超す。日本最強の猛きんである。
 昭和36年(1961)、米子野鳥の会で大山の“鳥の仙人”と呼ばれる大先輩に「昭和28年、大山南壁でイヌワシが繁殖していた」と聞かされた時は、目を丸くして聞いたものだ。
 それ以来、大山でイヌワシの繁殖、姿すら見た人はいない。
「もう永久に見ることができないのか? でもいつかは発見できるかも」
とのわずかな望みに期待をつなぎ、空を仰ぐ日が続いた。
 姿を消して30年。ついに執念が実った。昭和58年(1983) 5月のこと。ブナの深緑に覆われた大山の空を悠然と飛ぶ雌雄のイヌワシを見つけた。その後、営巣場所の確認もできた。その時の心臓の鼓動の高まりは今も忘れられない。
 国内でのイヌワシの生息地には、豊かな自然が残っている。日本ではワシタカの保護はもちろん、研究すら満足にできていない。このような現状ではイヌワシの生息地を明かすことはできない。黄金の翼を広げ、大空を舞うイヌワシが、大山でいつでも読者と一緒に観察できる日がくることを願っている。

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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