毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・15・伊勢志摩国立公園」
1994.5――入稿原稿
■国立公園物語…伊勢志摩
●育てる技術
伊勢志摩国立公園がきわだってユニークなのは私有地が多いということです。一般的にいえば、国立公園はその核心部となっている山岳など、国有地(国有林) に特別な保護加えるというかたちになっています。その周囲に公有地(県有林や市町村林、あるいは林間のリゾートエリア) や民有地(私有林や農地、宅地など) が含まれてくるというわけです。
そこで国有地が90%以上を占める国立公園を見てみます。大雪山=96.9%、知床=93.7%、十和田八幡平=92.9%、支笏洞爺=91.8%、磐梯朝日=91.6%と5つありますが、緑が一段と濃い国立公園という印象は確かでしょう。
今度は逆に国有地の少ない国立公園を見てみると、伊勢志摩=0.3%、瀬戸内海=0.9%、西海=3.3%と並びます。伊勢志摩国立公園が断然1位に輝くわけです。そしてこちらに共通なのは山よりも海が主役となっているということです。
海辺の風景を思い起こしてみると、川が流れ出しているところにはたいてい小さな漁村があり、そこに平地が開けていれば、その村落は広さに応じて大きなものになっていきます。住む人が多ければ、かつては新炭林や屋根ふきのためのカヤ場がそれだけ多く必要で、背後の森林は住民たちの入会地*イリアイチとして共有林となっていた可能性が大きいのです。
国有地がわずか0.9%の山陰海岸国立公園は公有地が32.0%、私有地が67.1%となっていますからそういうイメージにもっとも近いかも知れません。
ところが私有地の割合が際だって多いのが、伊勢志摩=96.1%と西海=89.0%なのです。この数字を見るだけでは両者同じような異端かと思ってしまいますが、実際の風景を見るとずいぶん違います。西海国立公園の五島列島では、緑深い島のあちこちに漁村が点在するだけですが、伊勢志摩国立公園はどこを走っても人家あり、観光ホテルあり、ゴルフ場ありで、その間を照葉樹林の森が埋めているという印象です。
このちがいはどこからくるのでしょうか。伊勢志摩国立公園はその68.5%が「普通地域」で土地の開発や大規模な土木・建築などには都道府県知事に届け出が必要です。それに対して西海国立公園では規制がさらに厳しい「特別地域」が96.1%を占めています。特別地域には「特別保護区」「第一種」「第二種」「第三種」とあり、西海国立公園では第二種=53.9%、第三種=34.3%と緩やかな条件のところが主体になっています。しかしそれでも普通地域と特別地域では風景が大きく違ってくるようです。
このように見てくると、伊勢志摩国立公園は際だってユニークな存在ということになりますが、今回はそのなかで3つのユニークなテーマをみつけました。
最初は「伊勢」の中心たるべき伊勢神宮ですが、ここでは世界にもまれな長期計画の林業技術に注目します。14年前に私が「グリーンパワー」(1980年1月号。森林文化協会) という雑誌に書いた記事と、今年、営林部長の木村政生さんが社団法人・日本林業経営者協会でおこなった講演(「林経協月報」391号(1994年4月号) に掲載) とを重ねてみると一般にはほとんど知られていないユニークな林業の姿が浮かび上がってきます。用材育成と同時に景観保持と水源かん養とを合わせてひとつの林業体系としている長伐期・択伐の針広混交造林方式の林業はもっと広く注目されていいものであるはずです。
目を転じれば、志摩半島の海岸は日本有数の海女*アマ漁業地帯です。その中心はアワビ漁ですが、志摩の海女は夫婦で船に乗って水深10m以上の深いところに潜るフナド(船人) と、乗合船で10m以内の比較的深いところに潜るサッパ(乗合)、それから岸から泳いでいくカチド(徒人) とに分れています。
これに関しては岩田準一という民俗研究家の昭和10年頃の論文を復刻した『志摩の海女』という本がありました。1971年に鳥羽志摩文化研究会の会員に配付されたもののようですが、志摩民俗資料館(近鉄・鵜方駅前) の売店にありました。もう1冊、四日市大学講師の大喜多甫文さんの労作もありました。男女のアマ漁を管理資源型漁業とする立場に立って、日本全国に目配りしながら分析している『潜水漁業と資源管理』(1989年、古今書院) ですが、これを合わせ読むと、アワビ、サザエ、ウニ、テングサなどをとるアマ漁が古くて新しいエコロジカルな漁業であることがわかります。
志摩はいまも海女の国の面影を随所に残していますが、それはおもに外海の漁村の場合です。志摩の海のもうひとつの魅力となっているリアス式の深くて複雑な入江の奥には養殖真珠のイカダが浮かんでいます。世界で初めて真珠の養殖に成功したのがこの志摩の入江なのですが、その養殖技術の発明という観点から3人の研究者にスポットライトを当てているのが三重短期大学講師の大林日出雄さんの『御木本幸吉』(1971年/1988年新装版、吉川弘文館) でこれは日本歴史学会編集の「人物叢書」の1冊となっています。
志摩の各地には真珠御殿とよばれる豪邸が見られますが、地元の人に聞くと真珠を養殖している人というよりは、真珠の仲買人が多いといいます。大林さんは御木本幸吉自身が発明家ではなく、特許を大きな看板として志摩の海に真珠イカダを浮かべていったビジネスマンであったと語ります。御木本幸吉という巨人への手がかりは、作家源氏鶏太の『御木本幸吉伝』(1980年、講談社) から拾ってみます。
●1,000年前の森にもどす200年計画
14年前、私は伊勢神宮の森を営林部技師の木村政生さんに案内していただいて記事を1本書きました。今回ふたたびお訪ねして営林部長となった木村さんにお会いしたところ、14年前に話した内容と変わるものはまったくない、ということでした。そこでまず、14年前の記事を読んでいただきたいと思います。「グリーンパワー」と(1980年1月号) からの引用です。
――伊勢に詣でる人びとにもっとも深い感銘を与えるのは清流五十鈴*イスズ川を宇治橋で渡ってからの内宮*ナイクウ参拝であろう。鎮座は垂仁*スイニン天皇の御代と伝えられている。参詣者は、宇治橋を渡ってから玉砂利の参道をしばらく進む。五十鈴川の岸にもうけられた有名な御手洗場*ミタラシから、いよいよ社殿へと歩を進めるわけである。
この内宮*ナイクウ参拝路は最奥の社殿まで700mあまりの距離にすぎない。しかもこの間、参詣者に媚*コびるような絢爛*ケンラン豪華な仕掛けは何もない。樹齢600〜700年のものもあるという老杉が参道をおおい、その木もれ日が、色相の少ない景観に輝きを加えているだけである。正殿の、神明造*シンメイヅクリとよばれる白木の直裁簡明なデザインにしても、神域のおごそかさは、すべて木の演出によるものと思われた。
それが神域の印象であったが、じつは「神宮の森」は背後の山なみの最奥までひろがり、五十鈴川の水源域をも完全におおっているという。
神宮司庁に営林部長の奈良英二さんをおたずねした。奈良さんはいう。
「平安朝以前は御遷宮のご用材はここから伐り出しておったのだから、ヒノキの生い茂った昼なお暗い山だったのでしょう。しかしそれから、山はだんだん荒れてきた。南北朝時代には武将に横領され、徳川時代になると地元民の入会地*イリアイチのようになって、ほとんどが樹齢30年に満たない薪炭林となっていた。森林の復元が本格的におこなわれるのは明治になってからですね」
神宮の森は1,000年以上にわたって変わらぬ姿を保ってきたというようなものではないらしい。
「明治22年(1889) に宮域林*キュウイキリン5,400haが宮内省管轄の御料林となってからは、神宮の背景としてふさわしい森にしなければいかん、五十鈴川の清流をよみがえらせるため、水源かん養に努めなくてはいかんということになったわけです。そして大正11年(1923) に内務省の神宮司庁に移管されて、ご社殿のご造営用材を供給できる山にもどすべく、本格的な経営が開始されたのです。ですから現在は、平安朝以前の森林の姿にもどし、御杣*ミソマ山として御遷宮用材を供給できるようにするための一過程にある、というべきでしょう」
神宮の森(神宮宮域林) は3つの部分に分けられている。ひとつは内宮*ナイクウ、外宮*ゲクウの社殿を中心とした「神域」の古色蒼然たる森で、それぞれ90haあまりある。これはスギの巨木を交えた針広混交林で、いずれの時代にも禁伐が守られてきた地域である。「もっぱら神宮の森厳を保つ」ために「樹木の生育上必要な場合のほか」は絶対に生木の伐採をおこなわないとされている。
つぎに1,000haほどの「第1宮域林」がある。これは内宮をとりかこむ地域で、宇治橋付近や鉄道沿線から望める(おもに北斜面の) 地域で、「風致林」とされている。「風致の改良および樹木の生育に必要な場合のほか」は禁伐とされ、この地方の標準型とされる暖帯照葉樹林の天然林として保護されることになっている。
そして最後が「第2宮域林」であるが、この4,000haの森林は「御造営用材備林」とされ、ヒノキを主林木とする針広混交林を造林している。ただ、この中には1,000haあまりの特別施行地というのがもうけられ、五十鈴川の川岸から60mの区域、道路沿いの目隠し効果も考えた自然林、あるいは学術的な価値のある部分を、第1宮域林に準じた方法で天然林として保護している。
これが大正12年に当時一流の植物学者、林学者たちが内務省の「神地保護委員会」でまとめた基本方針で、昭和元年(1926) にまとめられる「施行案」(神宮宮域林及神宮宮域附属林・施行案) の骨格でもある。
それから50余年を経て、神宮司庁(現在は宗教法人・神宮に所属) の営林部は、森巌の保持(神域)、風致の増進(第1宮域林)、そして遷宮用材の育成(第2宮域林) を「施行案」にしたがって継続している。――
技師の木村さんの案内で、私はいよいよ、現場を見せてもらいます。
――私たちは五十鈴川の水源の沢のひとつ、千人谷への山道をのぼっていた。そこは第2宮域林である。
「ここは昭和12年(1937) 頃の植栽だと思います。そのとき1haあたり3,000本(坪1本) 植えたわけです。そして成長とともに順次抜き伐りして、いまは1haあたり1,000本ぐらい。これが200年目には100本から200本残されて、御造営用材として伐り出されてゆくわけです。
ヒノキのうえにモコモコした感じで出ているのがクスです。直径60〜70cmはあるでしょう。それから葉がいかにも堅そうな感じで光っているのがカシです。モミはあれで40〜60cmはあるでしょう。みんなヒノキを植えるときに、やはり坪1本の見当で残しておいたものです」
神宮のヒノキ造林は伐採開始を200年後と定めてある。遷宮用材として20年ごとに10,000本以上のヒノキが伐られるのだが、その8割近くは胸高直径60cm前後のものでなければならない。どうしても200年はかかるのである。
「伐期がきてもいっせいに全部伐ってしまうわけではありませんから、間引いてゆくにしたがって広葉樹も出てくるし、ヒノキもまた伸びてきます。ですからこの山は絶対にハゲ山になることはありません」
その奥の千人谷には大正14年(1925) のヒノキ林があった。そして木村さんの「大樹育成試験地」がそこにある。
直径60cm前後のもののほかに、遷宮用材としては直径1m以上のものが30本以上なくてはならない。最大のものは1枚板の扉にする直径140cmのものである。江戸時代からずっと御杣山になっている木曽では、樹齢400〜500年の天然ヒノキが伐られている。
「それくらいの年月をかければ、もちろんこのヒノキも1m以上になるはずです。しかし200年で60cmのヒノキが伐れるようになったとき、同時に1m以上のものもここでまかないたいという期待があるわけです」
つまり木村さんに課せられた任務は、200年で60cmになる木の何本かを400〜500年の老樹なみの太さにできないかということである。もしそれが成功するとすれば、つなぎの200〜300年を育成技術によって手に入れたことになる。
「7〜8本ぶんの生産力を1本の木に集中したとして、どれくらいの割合で吸収してくれるかですね。このヒノキは54年目で直径50cmですが、私が実験をはじめてからの20年間で25cm太っています。
今のところは成功しているわけですが、これが100年後にどうなっているか……。枝の大きさとか形とか、巨木になる条件の分析はまだないんです。40〜50年のヒノキづくりから見ればマラソンですから。結局、すこしでも多く光を当ててやることで成長を早めることだと思うのですが」――
日本の林業ではスギやヒノキを40〜50年かけて育てます。普通の建築用材としてはそれで十分なのですが、伊勢神宮の御遷宮に必要な建築用材の中心は胸の高さで直径60cmというサイズのもの。この200年のヒノキの育成をゼロの状態から開始しようと決めたのが大正12年(1923) であったのです。木村さんは技師として「200年伐期」のヒノキづくりを継承しているほか、直径最大140cmという巨木をいかに早く仕上げるかという難題に挑戦しているというわけです。いずれも木村さん自身がその結果を目にすることのできない仕事です。
●3,000haの造林技術
伊勢神宮のこのような営林事業は、いささか特殊ではあっても、林業の基本的な問題をいろいろ含んでいると思うのです。200年経たないと伐れないと短落的に理解されやすい「200年伐期」という経営スパンもそうですが、全域に散った樹木を必要木と不要木を1本ずつ抜き伐りしていく「択伐」にしても、あるいは広葉樹といっしょにヒノキを育てようという「針広混交造林」にしても、かつて日本でおこなわれていたものでありながら、短期的な採算主義によって切り捨てられたにすぎないのです。
近代日本の林業経営の目からすればぜいたくきわまりない伊勢神宮の林業ですが、尺度をすこし変えると、付加価値の創造という意味においてやはり経済性の追究をはずれていないかもしれないのです。
たとえばいま、全国のスギ山が薄汚く、無残な姿になっています。昔は景観として最もすぐれたもののひとつと感じられたものですが、採算が合わないということで手入れが行われなくなったとたん、じつにみじめな風景に変わり果ててしまったのです。しかも急峻な日本の山地の崩洛を防ぎ、水源を守るという機能において不安が大きくなってもきました。
用材を育てるという仕事のほかに、水源を守り、景観を維持するという仕事を重ね合わせたとき、木材の販売金額だけでは採算が合わないのは当然です。森はそれ以上の仕事をしているわけですから。
もうひとつ、伊勢神宮の森づくりを資金力で持ちこたえなくてはならないのは、この場合、最初の200年間だけのことです。それ以後は間伐による手入れと収穫が平行していきます。200歳以上の木を安易に伐ってしまったということのツケを返すところからの出発だから、大変なだけなのです。
遅まきながらいま、長期ビジョンによる林業経営の、ほぼ理想的な実験が伊勢神宮の森でおこなわれているというふうに理解すると、森の姿はちがったものとして見えてくるはずです。
ここで今度は「林経協月報」(1994年4月号) に掲載された木村政生さんの講演録から、すこし専門的な話を引用しつつ、林業の部分に踏み込んでみたいと思います。
木村さんはそこで、200年後のヒノキの成長予測について語っています。
――200年でご造営用材ができると委員会(大正12年) でいっておりますが、200年で宮域林内では平均胸高直径が60cmぐらいを期待致しています。
これはまず倉田吉雄先生の木曽の調査結果(「神宮備林の法正状態に関する研究」) から見てもできるのではと思います。と申しますのは木曽で調査された中の優勢木では200年で63cm、平均53cmとなっています。
どうして200年で60cmかともうしますと、ご造営用材の直径別本数表を見ていただいてもよくわかりますように、50cmから58cmというところが大体6,000本。これ前後のところに必要本数11,000本の9割ぐらいの本数が必要とされているわけです。ですから200年で60cmぐらいになれば永久にまかなっていけるのではないか。そのように我々も考えております。
しかしこの中で皆さん御存じのように棟持ち柱とか、直径1mを超えるものが少しですが必要であります。これも400年、500年、そのまま成長を続けさせれば、おそらく胸高直径1mを超えることになるでしょう。
平成3年(1991) の19号台風で滝原宮(別宮。三重県渡会郡大宮町) の木が倒れました。その被害木の中で胸高直径1m程度のヒノキの年輪を数えましたところ、298年ありました。ですからあのような土地の良いところでは300年ぐらいで胸高直径1mぐらいになるといえましょう。
いま滝原宮で毎木調査を全部終わったところで集計し終わっておりませんが、胸高直径1m20cmを超えるものが14本あります。神宮はわりあい記録が整っておりまして長官日誌という形でその時その時の日誌があります。その中で元禄時代に山田奉行が滝原宮に植えている事実がございます。それからみるとちょうど300年になります。――
――ですが200年を待たずに胸高直径1m以上のものを作りたい。と申しますのは木曽の旧神宮備林の中に大きいものがだんだんなくなってきました。それと林野庁の計画が変わりますので、いつまでもご造営用材を木曽からということもできないと思います。おそらくこの次、第62回のご遷宮にたいしてはまかなえるとは思いますが、第63回、第64回、つまり40年先、60年先のご遷宮あたりが一番難しいのではないかと我々は考えています。あと80年たてば宮域林内のものが大きくなりますので、胸高直径40cm、30cmのものはご造営用材として残す分の間伐材の中からまかなえるものと考えております。
ご造営用材の直径別本数表の中で胸高直径の立木本数と書いてございますが、これが御造営に必要な丸太の本数「11,635本」。これは倉田先生の論文からそのままここへ写したもので1本の立木から1本の丸太しか採らないという考え方ですから、昭和4年(1929) 頃のこういうぜいたくなご遷宮ご造営用材の調達というわけにはいかないでしょう。
今度のご遷宮でも2玉目(木末側に1段細い材木として採れる部分)、3玉目も樹高30mぐらいのものになれば採れるのはあたりまえでして、余裕を見て2玉目まで採るとすればこの半分くらいでいいのではないかと思います。
そういうことを総合しますといまの3,000haぐらいあれば、永久にまかなっていけるという考え方は、まず正しいのではないかと判断されます。――
木村さんの話は次に、針広混交という造林方法に移ります。いま日本では一定面積を皆伐して、そこにスギかヒノキの苗を一面に植えます。伊勢神宮の造林手法はしたがってそれと正反対の方法ということになります。
――最初に決めております針広混交の五分五分の林を作れという形は今も進めておりますので、これの技術的な確立を急ぎたいということで、今いろいろな方法をとっております。
最初に胸高直径3cm以上の広葉樹を1ha当たり3,000本残しましたところに3,000本の樹下植栽。それで下刈りは軽減されるかというと少しは軽減されますが、後の7年目、10年目までの除伐のときに適当にヒノキと同時に広葉樹の除伐もやっておかないと不良造林地になるということが伊勢湾台風後の手入れの不足でよくわかりましたので、そのあたりは心がけております。
それとちょうど神宮のあたりは森林帯では暖温帯林の照葉樹林帯に入りますのでカシとタブとかが多いのです。その中でカシ類、クス・タブ等の良材を残して一緒に育てるというかたち、それとやはり何百年後とかになりますが、ご造営用材を伐る時点で広葉樹もまた用材として利用するべきだと考えますので、やはり用材として利用できる形質のものも残しながら針広混交の五分五分の林を心がけております。
そういうかたちをとらなければ森林生態系の調和もございますし、長いあいだの長伐期伐採は無理だと思います。――
ここで明らかになるのは、ヒノキを広葉樹といっしょに育てるのは単に景観維持のためではなく、造林技術上の必要からだということです。200年以上かけて太らせたいということの上に、それがまっすぐに育っていなければ用材としての価値は低くなってしまうということです。スクスク育てたヒノキが200年にたった1回の台風で倒れてしまう、というような事故まで予測に組み込んでみると、山の本来の植生である広葉樹林の環境の中で、ヒノキを育てるという考え方ほど現実的なものはありません。木村さんたちはそのとき、環境としての広葉樹林にも目を光らせて、用材としての価値がすこしでも大きくなるものを残していこうというのです。
――ですから残す木は何にするかということははっきりとは決めておりませんが、禁止山として地ごしらえのときに切らずに残したクスとかカシとかヤマザクラとかは残されております。風致木としてはカエデなども含めておりますが、もう少し樹種は多様に考えるべきときにきているものと思います。――
日本の戦後の林業ではかなり軽視されてきた広葉樹も生活の中に占める用材としての価値がないわけではないのです。
――残しておりますクスは正月に神宮で頒布いたします干支*エト守りの材料になっております。これが年間5万個ぐらい頒布されております。この材料が間伐のときに伐ったクスを使っております。クスも杢*モクの出るようなものを残せばこれからの用材として重要ではないかと思います。実際一昨年でしたか外宮で台風で枝が飛びまして、枝といっても1m20cmぐらいありましたが、それに少し杢が出てましたのでその年の銘木市に出しましたら1立方メートル当たり160万円くらいで売れました。
申し遅れましたが滝原宮の5m60cmで胸高直径1m40cmのスギは一昨年の全銘展で1立方メートル170万円で売れました。いまスギは単価は安いですが、19号台風の前の年に内宮で倒れた木がございまして、その木にはちょっと杢がございまして、その年の全銘展にお出ししましたら1立方メートル375万円でした。その当時としては一番良い価格でした。そういうものを残していけば良い形質のものができますので、そういう作り方というのは必要ではないかと思います。――
そしてもうひとつ、特筆しておかなければならないのは、この営林活動によって明治、大正時代に起こった五十鈴川の洪水が完全に抑えられてしまったことです。昭和58年(1983) に建設省が河川の測量をおこなって昭和2年(1927) 年ごろの測量と比べて川床が1m深くなったという結論を出したそうですが、それは水源かん養林の手入れが良すぎて上流から流出してくる土砂がほとんどないため、川床がゆっくりと掘られているということだったそうです。
木村さんたちの仕事は14年前と同じでも、そこに吹く風はずいぶんちがっているようです。たとえば、今年(1994) の4月16日の毎日新聞の社説は「森林国と林業国の両立を」と題したものになっていました。
――日本は森林国ではあるが、林業国ではない。ここに日本の森林と林業が抱える問題が集約されているといっていい。
日本の国土に占める森林面積は67%にも達するが、このような高い森林率を持つ国は世界でも数少ない。しかし、その森林資源は有効には利用されていない。木材自給率は年々低下し、30年前には70%強だったものが、1992年には25%にまで落ちた。
日本の森林率が高いのは急傾斜の山地が多いためだが、そこに造林努力が積み重ねられてきたことも事実だ。人工林率40%という数字が、それを示している。その森林資源が有効利用されずに林業は衰退し、山村の荒廃が進み、森林の維持もままならないというのが、現在の日本の森林と林業の姿である。――
そのような状態をなんとか改善しようという立場に立つとき、次のような論点が、どうしても必要になってくるのです。
――林業と山村の衰退が引き起こす最大の問題は、森林そのものの荒廃である。森林には原生林から完全な人工林までさまざまあり、それぞれに異なった保全の方法が必要だが、人工林は適切な手入れをしなければ健全には維持できない。手入れをしながら、適当な周期で更新して持続的に利用していくのが望ましい。そうしたことがスムーズに行われるためには、林業経営がある程度、成り立つ条件がなければならない。それには、まず林業関係者の自助努力が大切なことはいうまでもないが、森林は「緑と水の源泉」として国民共有の財産であるとの観点から国民的な支援も欠かせない。――
伊勢神宮の森は、森林の維持と林業経営を200年というモノサシによってバランスさせようという注目すべき実験のひとつということができます。
●海女の国
昭和14年(1939) にアチックミュージアム(現在の常民文化研究所) から刊行された岩田準一さんの『志摩の蜑女*アマ』は昭和初期の志摩のようすを記録した民俗学の貴重なレポートとされているものです。復刻版の『志摩の海女』でその書き出しの部分を読んでみると、志摩がまさに海女の国であったということがわかります。
――志摩の海女は、通常14〜15歳からすでに潜水作業を修得し、17〜18歳に到ると略*ホボ1人前の技術を有し、60歳にもなれば老練の極致に達する。海女の住む村では女子にして此*コノ技を習わぬ者は殆ど無く、親のなす事を見よう見まねで、7〜8歳の女児でさえ、夏日遊泳するのにも、小児用の磯シヤツを着込み、磯ナカネ(腰巻) を締め、白木綿の鉢巻、潜水眼鏡を付け、磯桶を手にして潜水の真似をする者が多い。
従って、昔から女子は生産上の主権者であり、「あの村は女が大将やが、此*コノ村は男が大将や」と、男子側の漁夫などからこんな言葉を聞くことがあっても、実際の勢力は常に女子の海女に帰していて、1村の状態からみても男子は女子の補助役を勤めているようにしか考えられない。事実に於て女子の雑多な労役は、男子の共同遠海漁業に比しても遥かに激しいかと思う。
実例を以てすれば、普通の海女は、一家に在っては、やはり温順勤勉な妻であって、未明に起きると直*スぐ飯の支度、大勢の子供の世話、それから半農半漁で資*タスけているのだから畠の見回り、それらを1人でやってのけて、その後浜の仕事に出かける。
たいてい夕刻迄*マデは海や浜辺で暮らして、此間だけは仲間同志の雑談にも花が咲いて随分聞き辛*ヅラいような饒舌*ジョウゼツを弄*ロウするのではあろうけれども、さて家に帰れば夕飯の支度から子供の世話、時には海女仲間の日待*ヒマチなどにも出かけて夜更けまで家を明ける事がある。働き手の女になると、夕方帰ってから畠へ出かけ、日暮れの中で肥料を施して来たりもする。昼間、稀には家に立寄って、食事のほかに哺乳や子守もしなければならぬ。そればかりではない。荒布*アラメ、若布*ワカメ、天草*テングサ等の口明*クチアケの日になれば、男子は無論出かけるが、やはり女子が主となって働く。
こうした女子の働き振りの中にあって、男子は漁と農、それにトマエ役としての海女潜水の補佐を専*モッパらとするのであるけれども、村によっては、男子は朝から長い着物を着込み、頭をポマードで分け固めて菓子屋の店先で新聞を繰拡*クリヒロげたり、碁将棋を弄*モテアソんだりしているのを見かけるが、それでも女子は黙して、これが村の風習だと合点しているような顔付で、男の世界とは全く交渉なく孜孜*シシとして海や田畠の仕事にいそしんでいる。しかしかような風習をつくってしまったその因は、内心女子達の無意識に抱*イダき来*キタった一種の誇*ホコリではないかと思う。
すべて海女の村では、女子は右に挙げたような働きが一と通りできて、そのうえ男(良人) や子供を養って行く事ができなければ1人前の資格が無いと考えられ、またしばしば口にもせられている程だから、こうした気持ちが男子に対する優越感を持たせてしまっているのかも知れない。或*アル村などは、女子が専ら海女作業をして、その収入を以て一家の大部分を支えている家ばかりであるが、其*ソノ村の女子一般は「テー(良人) 1人ぐらいよう養わん者はヤヤ(婦人) の値打が無い」とまで考えている。――
今も志摩の男たちが懐手で暮らしているかどうかくわしく知りませんが、海女さんたちの多くは朝のうち茶を摘んで、夕方畑仕事をするなど、働き者の伝統は消えていないと聞きました。海女小屋にもお邪魔してみましたが、自立したおば(あ) さんたちの秘密のアジトのようでとても楽しかったうえ、囲炉裏で焼いたアワビは絶品でした。(ありがとうございます)
私たちは「あま」というと海女さんをイメージしています。ところが日本では現在、男の「海士」のほうが多いのだそうです。大喜多さんは『潜水漁業と資源管理』につぎのように書いています。
──わが国のアマは専業アマ、非専業アマ合わせて約2万人おり、北は北海道松前から南は沖縄まで35都道府県の岩礁性海岸地域に分布している。都道府県別にみると千葉、三重、長崎が3,00人以上で多く、次いで岩手、和歌山、山口、徳島などが多い。
市町村単位でみると、長崎県から山口県にいたる日本海沿岸地域では連続的に分布している。志摩半島はアマの密度も高く、分布範囲もある程度の広がりがある。久慈市・種市町(岩手県)、牡鹿町(宮城県)、いわき市(福島県)、下田市(静岡県)、輪島市(石川県)、三国町(福井県)、御坊市(和歌山県)、由岐町・牟岐町(徳島県)、三崎町(愛媛県) などでは、アマが局地的に集中している。
アマを男女別にみると、アンケートによる全国合計では男アマ(以下海士と称す) 11,696人、女アマ(以下海女と称す) 8,134人で、海士が海女より3,500人ほど多い。1975年の調査では、海士11,209人、海女10,680人であったから、この10年間で海士は少し増加し、海女が大幅に減少した。
これを都道府県別にみると、海士が海女より多いのは長崎、徳島、山口など27県あり、近畿以西と関東・東北地方に多い。逆に、海女が多いのは北海道、岩手、千葉、静岡、三重、石川、福井、鳥取の8県である。このうち岩手、千葉は海士と海女の数がほぼ拮抗しており、北海道は海女が少数(2名) であることから、海女が圧倒的に多いのは5県のみである。
ところが、従来からアマは海女が圧倒的に多く、海士は少数と見られてきた。これは、
1─従来の調査研究が、志摩(三重)、舳倉島(石川)、小袖(岩手)、白浜(千葉)、下田(静岡)、袖志(京都)、大浦(山口)、曲(長崎) など、海女の圧倒的に多い漁業区を対象にしたものが多かった。
2──海女が圧倒的に多い地区は、専業アマが多く、大規模な海女集落を形成している。
3──マスコミなどもこれらの海女集落の生活や漁業の状況を取り上げた報道が多かったことなどによる。──
志摩は現在もなお、海女の国であるようです。私は、志摩町の越賀という集落で男のアマさんの仕事を1日見せてもらいましたが、アワビ、サザエの漁期は4月1日から半年間、土曜日が休みのほかは海が荒れない限り出漁し、午前と午後にそれぞれ50〜90分間(時期によって時間が異なる) いっせいに潜ります。
越賀漁協にはおよそ90人の海女さんが登録されていて、常時出漁するのは40人程度とか。男のアマアマさんは現在2人で、2人とも従来からの海女小屋のひとつに所属し、年功序列の中で仕事をしています。
漁の期間と作業時間に制限があるほかは、素潜りであれば漁の仕方は自由とのことですが、今も毎年死亡事故が起こるだけに、できるだけ集団行動をとることで安全を高めようとしています。
深く潜って大きなアワビを採りたい人は、船と船頭さん(たいていはご主人) と組んで、重りを付けて一気に海底に沈みます。浮上も自力ではなく、ロープを巻き上げてもらいます。フナド(船人) と呼ばれている方式で、稼ぎも大きければ危険も大きいというものです。
船頭さんにワリ勘で船賃を払って水深4〜5mから8m前後の瀬を選んで潜るのがザッパと呼ばれる海女さんたちで、比較的自由に散りながら潜ります。各人は収穫をいれる網袋(スカリと呼ぶようです) をたらしたブイを水面に浮かべていますから、時間になると船頭さんが拾ってくれます。
カチド(徒人) の人たちはブイに体をあずけながら磯から泳ぎ出して、適当な場所で潜ります。船賃を払う必要がないので、採っただけの収入がそのまま自分のものになります。
努力して深く潜ればそれだけ多くの収穫があるわけですが、無理をせずにコツコツと採るのでもやっていける自由業ですから、平均年齢が60歳を超え、70歳代でも現役という長寿命の仕事になっています。
そのかわり、あとの半年を遊んで暮らせるほどの稼ぎはむずかしいことから、男性の職業としては成立しにくいということです。
この海女さんたちの仕事場は「磯根漁場」と呼ばれ、共同漁業権漁場として漁協が管理しているのが普通です。操業区域、操業期間、漁業の方法などを漁業権行使規則として定めています。たとえば越賀の海女さんたちは木片に刻み目をつけたモノサシを持っていて、一定の大きさ以下のものは海に返してしまいますが、それも漁協ごとの決まりによります。
漁具の規制もアマ漁では重要です。大喜多さんは次のように書いています。
――アマ漁業の漁具のうち資源管理との関わりで問題になったのは、1887年(明治20) 前後から使用され出した潜水用水中眼鏡と、1960年ごろから使用され出されたウェットスーツである。これらの漁具はアマ漁業にとって著しく生産性の向上に寄与するため資源濫獲の危惧があり、導入には慎重であった。――
――志摩の一部の地域では潜水眼鏡の使用を一時期禁止していたが、他の保護策(潜水日数の制限など) の設定ないし強化によって、この規制は撤廃された。したがって、現在ではどの地域でも潜水眼鏡の使用は許可されており、ウェットスーツに関する制限・禁止が漁具制限の主流となっている。
耐寒性に優れたウェットスーツの着用は、作業時間の飛躍的拡大をもたらした。それにともなう濫獲を危惧した漁協やアマ組織は、その効用やアマの希望と資源への影響を検討し、さまざまな規制を講じている。――
――三重県の場合、ウェットスーツ着用の全面禁止地区が7(29%)、部分的規制地区6(25%)、無規制地区11(46%) となっているが、いずれの場合でも1日の潜水時間を4時間以内に規制している地区が多い。しかし、ウェットスーツの着用を無制限に認め、しかも1日の潜水時間も無制限な地区もある。これらの地区はいずれもアマが少なく、アマ漁業への依存度が低い地区である。アマ漁業への依存度が高い地区では、1日の潜水時間を短時間に規制することにより濫獲を防止している。――
つまりアマ漁は、採りすぎないということに慎重に対応できる資源管理型漁業となっているのです。もちろん漁協では資源の増殖という観点からアワビなどの稚貝の放流も積極的におこなっています。回遊する魚の採りっこで沿岸漁業は元気がありませんが、漁協が厳しく管理できるアマ漁場では、計画的な生産・採取を続けることが可能なのです。
●真珠を作った3人の技術者
真珠というものがほとんどきまぐれのようにしか発見されない海の宝石であり、宝石といっても真球のものはこれまた神のいたずらというほどに希少なころ、それをみずからの手の内で作り上げようという野心を抱き、成功したのが日本人・御木本幸吉といわれています。
おそらくその伝記として穏当で読みやすいのは作家の源氏鶏太が昭和55年(1980) に講談社から出した『御木本幸吉伝』ではないかと思います。「この伝記は、御木本幸吉の真珠発明85周年を記念して企画されたものである」とあとがきにありますから、もちろん御木本陣営での仕事ということになります。そこはさすがに作家らしく、あとがきで、続けてこう書いています。
――御木本幸吉については殆ど知るところがなかったが、調べてゆくうちに深い興味をおぼえるようになった。現在は勿論のこと、将来も幸吉のような人物は出てこないだろう。ある意味で巨人である。八方破れに見えて、ちゃんと人生の辻褄*ツジツマを合わせている。その片鱗をどこまで描くことが出来たか。自信がある訳ではない。――
源氏鶏太は豊富な資料を駆使しながら巨人の人間性に切り込んでいきます。その伝記は「ほら」というキーワードから始まります。
――幸吉は、この狂気に近いほらをその生前見事に実行に移した。ほらをほらでなくして、その生涯を終えた。
幸吉のほらは、いつも人よりも20年、30年の先を見越してのことであったので、初めのうちは単なるほら吹きと思われたりした。そのため幸吉という男を誤解した人もあったろう。ある意味で、幸吉は、生涯自分のほらを追い続けた男である。1つのほらが完成したとき、すでに次の20年、30年先のことを考えてほらを吹いていた。それだけスケールの大きい人間であったともいえる。
幸吉を追悼した新聞記事のなかに、
「養殖真珠とか真珠の研究については御木本さん以上の人はあるけれど、真珠を大大的に海外に宣伝し販路を拡張し、現在年間輸出が30億円に上っているという功績は全く御木本さんの力によるものだ。大正年間アメリカに赴*オモムいた時、まず最初に発明王エジソンと会い、エジソンに“御木本は偉い奴だ”といわせたあたり、宣伝にかけては実に抜け目がなかった」
と、京大農学部講師、真珠研究所長松井佳一が語っているが、これは幸吉の一面をよく紹介しているというべきであろう。
幸吉は優れた事業家でもあったが、同時にPRの天才であった。その他に多くの社会事業を成し遂げている。宗教に深い関心を持ち、国民外交にも努めた。通常の人間の数人分をその一代で見事にやってのけた。いってみれば、日本人ばなれのしたスケールの大きな男であった。そのため、ある程度の毀誉褒貶*キヨホウヘンをまぬがれ得なかった。――
一筋縄ではとうていとらえられないこの巨人の陰に隠れた3人の真珠研究者を浮かび上がらせようとしたのが大林日出雄さんの『御木本幸吉』(1971年初版、吉川弘文館) です。ここでは御木本幸吉の「発明」にさえ疑いをさしはさんでいます。
――御木本をはじめとする、当時のひとびとの養殖した真珠は貝付半円真珠、すなわち半球状のものであり、たとえ真珠層で被われていても、それは天然真珠とは似て非なるものである。真珠とは文字通り真球のものでなければならない。真円真珠養殖の強い要求と研究への関心が高まってくるのは当然であるが、明治30年(1897) 代から見瀬*ミセ辰平・西川藤吉・御木本幸吉・桑原乙吉ら数名の先覚者によって、それぞれ研究が開始され、大体同じ時期にその養殖方法が発明されることとなった。
ところで筆者はあえて、これらの先覚者の中から、発明家として世上一般に信じられている御木本幸吉の名を除いて、つぎの3名に焦点をあてることにする。その理由はつぎに明らかにするが、所詮*ショセン研究・発明というようなことは、東奔西走*トウホンセイソウしなければならない実業家や商人の役割ではないのである。――
大林さんは最初に見瀬辰平の名を挙げます。的矢*マトヤ湾の渡鹿野*ワタカノ(磯部町) の見瀬家に養子となり船大工や料理人としての修業をしたというだけで学歴はありませんでしたが、本格的な研究を開始するのです。
――養父弥助が海外の真珠に興味をもち、明治27年(1894) よりオーストラリアの西沿岸において真珠の採取と調査を行ない、29年に帰国した。この養父の帰国談から刺激をうけた辰平は真珠に関心をもち、明治33年(1900) ごろから真珠養殖技術の研究に入った。この場合の彼の関心はあくまで「八面玲瓏*ハチメンレイロウたる」真円真珠の養殖にあった。
ところで彼の場合も幸吉同様、基礎的な生物学的知識の持ち合わせがない。そこで彼はその学問的・技術的指導を、三重県水産試験場に求めている。なお当時の水産試験場は農商務省水産講習所(現東京水産大学) の出身者で占められていた。御木本幸吉が東京帝大の学者の指導を受けたのに対して、見瀬の場合は水産講習所系の指導を受けたということになる。
ところでまず問題は養殖のための漁場である。古くから真珠の適地であった英虞*アゴ湾は、すでに御木本によって独占されていた。そこで見瀬は一応、的矢湾を予定地としたが、この湾では古くから天然真珠を見ることは稀であり、彼もはじめは的矢湾を真珠養殖の適地とは考えていなかったようである。
しかし明治35年(1902) 4月、三重水産試験場の菖蒲*ショウブ治太郎場長、同技手川端重五郎(のち滋賀県水産試験場長となりわが国淡水魚養殖学の権威) などに、同湾の調査をうけ、真珠養殖にとっての適地であるとの報告をうけることができた。そこで早速、同年5月、神明村から真珠貝15,000余個を的矢湾に移植し、実兄の森本寅平、義兄の森本要助より資金および労力の援助を受けて、本格的に真珠母貝養殖と、真円真珠養殖の研究に従事することとなった。
そして翌36年(1903) には渡会郡浜島村より53,000余個、さらに37年には85,000余個の真珠貝を移植した。この段階で彼は本格的に真円真珠養殖の研究に入ったとはいえ、営業的にはやはり、(天然真珠採取のための)真珠母貝養殖を主たる事業としたのである。――
御木本幸吉は、宝石として莫大な価値のある真珠については天然真珠を取り扱う母貝養殖業者兼商人であり、自分で作ったのは貝殻にへばりついた半円真珠まででした。それに対して見瀬という人は最初から真円真珠を作るという1点に目的を絞っていたのです。結果はすぐに出ます。
――見瀬の真円真珠養殖の研究は、明治36年6月に、一応の成功を見ることとなった。彼は研究の結果、真珠貝の外套*ガイトウ膜の組織内に核を挿入することにより、真円真珠が形成されることを発見したのである。
そこで彼は、その方法によって出来た真円真珠をたずさえて、翌37年(1904) に上京し、水産講習所伊谷以知二郎教授と東京帝国大学岸上謙吉博士を訪ね、その意見を求めた。岸上と伊谷は学界・業界ともに、久く待望の問題であっただけに、見瀬に絶大な賛辞をおくるとともに、一層の研究をのぞんだ。とくに伊谷教授は、この機を逃さず特許を獲得することもすすめた。
ただ見瀬のこの時の真珠は、0.5mmの銀製の核を挿入し1年を経過したものであり、その大きさは1.5mmという微小なものであった。ただし質の上から見れば、天然真珠とかわるものではない。しかも0.5mmの核が、1年で1.5mmの真珠になっている。したがって、このまま数カ年養殖すれば、相当な大きさになると考えたのである(ただし、これは数カ年養殖しても、これ以上の大きさにはならなかった)。
そこで翌38年(1905)、見瀬は特許局にその方法の特許を出願した。ところが――
その出願は納得できる理由なしに却下されてしまいます。見瀬はそこでこれに対する抗告審判の請求を続けながら、核の挿入にあたって現在も用いられているのと原理的にまったく同じ「核挿入針」を使用方法とともに特許出願し、許可されます。
2番目に登場する西川藤吉は大阪の富裕な商家に生まれ、兄弟には学者が多いという環境で育ちました。東京帝国大学で水産動物学を専攻、御木本幸吉が師事した箕作*ミヅクリ佳吉博士の愛弟子として真円真珠の養殖とアワビの人工受精の研究を進めていました。農商務省の水産局技師でしたが、明治36年(1903) には御木本幸吉の次女みね(当時19歳) と結婚し、明治38年(1905) 年に赤潮によって御木本の養殖貝が大きな被害を受けたのを機に、農商務省を休職し、新設された御木本研究所で本格的な研究に従事するのです。
――西川はこのとき創設された御木本の研究所において、これからしばらく真円真珠養殖の原理と技術の本格的な研究に従事したのである。ここに御木本は、桑原乙吉と西川の2名の研究家をむかえることにより、真円真珠人工養殖の成功に1歩近づくことができたわけである。
御木本における西川の研究は、はじめ桑原と共同で行われた。そして、この段階では西川・桑原の研究も、見瀬の初期の研究と同じように外套膜組織内に微粒の核を挿入することに終始した。しかし、この方法を研究するうちに不思議なことが発見された。それは核を挿入する技術の未熟な者の施術した貝の中から、かえって真円のものが出ることである。
すなわち、未熟な者が核を挿入すると、外套膜を大きく傷つけて知らず知らずのうちにその外皮細胞が核に付着して、貝体の組織内に挿入していたのである。このような偶然的な失敗の中から、西川はかえってその真珠成因の原理を発見するのである。すなわち、彼はある種の細胞が偶然貝体の組織内に入って真珠袋を形成し、真珠質を分泌して真珠を形成するのであるということを発見したのである。――
この特許は明治40年(1907) に出願されて許可されて現在でも「西川・ピース式」と呼ばれる方法の基礎になっているのですが、じつは見瀬の特許と主要部分が完全に重複して、大きな問題に発展します。
――西川の特許出願の内容と、見瀬の内容とを比較したとき、大体同じような原理と方法によっていることがわかる。すなわち、両者とも外套膜の外皮細胞の一部を核に付着させて貝の組織内に挿入する方法をとっている。そしてこの外皮細胞が真珠質を分泌して核をつつみ、真珠を形成するというのである。
このため、やがて両者の間に特許権抵触事件が起きることとなった。すなわち明治41年(1908) 2月10日付で特許局は、見瀬の出願に対してその内容が、西川のものに抵触するとの査定を下したのである。
ここで、われわれは、同じような内容の出願に特許局が抵触査定を下したのは当然であるが、なぜ先に出願した見瀬のものが、後に出願した西川のものと抵触するとして、見瀬が不利な立場に立たされたのかという疑いを持つ。ところが当時の特許法では、特許許可の基準を出願の日におかず、発明完成の日においており、西川は発明完成を明治32年(1899) 2月20日とし、見瀬は36年(19.3) 8月として出願していたのである。――
またしても不思議なことが起こります。しかしもっと不思議なのは娘婿である西川藤吉が御木本幸吉から離れていき、見瀬との間で和解したあと、この特許は御木本幸吉の独占に反対する日本真珠養殖組合に広く開放されるのです。
3人目の桑原乙吉は鳥羽の小学校で代用教員をしたのち東京に出て歯科医師となって鳥羽で開業していましたが、明治35年(1902) に御木本養殖場に勤務することになります。彼はいっしょに研究を続けた西川藤吉が去った後病気を理由に辞職して歯科医師の仕事に戻っていますが、大正4年(1915) から13年(1924) まで、再び御木本養殖場での研究を行っています。
この時期に御木本幸吉の名で取得した特許はいろいろありますが、とくに歯科医の道具を基本にしたさまざまな用具は桑原の存在無しには考えられないというのが大林さんの立場です。こう書いています。
――筆者は長い間、桑原の研究と発明が、なぜ御木本だけの名義で出願・特許されているのか理解できなかった。
たとえば見瀬辰平の場合は、彼が大正3年に発明したいわゆる「大形真珠形成法」は、共同研究者であった上田元之助を共同発明者・特許権者としている。また西川藤吉の場合も、前にのべたように特許共有権は見瀬と横山(寅一郎。当時見瀬辰平が勤務していた大村湾水産養殖所長) に認めている。
桑原の場合について筆者は、はじめのうちは桑原の無欲な研究家的性格と、事業の独占欲にもえた御木本幸吉の性格の相違から来たものと漠然とした理解しか持っていなかった。ところが、のちに元御木本に勤務していた老人の好意により、当時の従業員が御木本入社の際に提出させられた誓約書の写しを見る機会を与えられ、この間の事情が判明した。
すなわち、その誓約書の第3項に「本人ニ於*オイテ若*モシ真珠養殖ニ関スル発見・考案等を致シ候*ソウロウトキハ、必ス之ヲ貴殿(御木本幸吉) ニ報告シ、其*ソノ特許又ハ実用新案ヲ受クルノ権利若*モシクハ其ノ得タル権利ハ之ヲ貴殿ニ無償譲渡可致*イタスベキコト」とある。このような誓約書が、従業員と保証人2名の連盟で、御木本に提出させられたのである。もっとも、この写しは大正初年のものであるから、桑原入社の当時もこれと同様の誓約書がとられたかどうかは判明しないが、大体の模様は推定できるであろう。
ところで、この誓約書にはまだつぎのような条件がつけられている。それを要約すると「御木本の退職者が真珠養殖業を自営することの禁止」「同じく退職者が他の真珠養殖業者に雇用されることの禁止」とあり、退職後の自由まで拘束しているのである。しかも、この条件を破ったときは、本人はもちろん保証人も「如何*イカナル御処分ニ預*アズカリ候得共*ソウラエドモ異存無之*コレナク……賠償ノ義ヲ履行*リコウ可致候*イタシソウロウベキ」としてしている。現在ならば、さしずめ「職業選択の自由」の制限として、基本的人権侵害事件となるところである。――
いま御木本幸吉が寄付した土地に立っている国立真珠研究所(阿児町賢島) には「真円真珠発明者頌徳*ショウトク碑」がありますが、横書きで上から順に「西川藤吉先生」「御木本幸吉翁」「見瀬辰平先生」と並んでいます。大林さんは『御木本幸吉』において、その真ん中の名前を「桑原乙吉」に差し替えたたいと主張しています。
世界に先んじてエジソンのシャッポも脱がせた日本の養殖真珠はかくして志摩の海で生まれたのです。大林さんは御木本幸吉をここではまったく別の役割に区分しています。
――いままでのべてきたように御木本の技術上の独占は、長束・北村らとの訴訟の結果による半円真珠特許の事実上の無効、また反御木本派の結集、さらに見瀬・西川両特許の実現などによって破られることとなった。このことは御木本の養殖事業にとって、たしかにひとつの大きな障害である。しかし、そのことが彼の事業の全体に、どれほどの影響を与えたであろうか。
そこで結論的にいうならば、それは彼の事業全体から見たとき、大した影響を与えるものではなかったのである。前にものべたように彼の事業は、養殖業だけで維持されていたのではない。その出身が示すように、彼はあくまでも商人である。乙竹岩造著の『伝記御木本幸吉』にも、「天然真珠も相当に多く取扱うようになっていたから……その方の利益で養殖場の経費は健全な歩みを続け」ることができたとのべている。このことは、御木本が単なる養殖業者でなく、天然真珠をはじめ他の業者により養殖された真珠の仲買と販売さらに加工も行う、いわゆる真珠商人でもあったことを示すものである。――
御木本幸吉は、ライバルから真珠を買うという方法によっても、志摩の真珠イカダを増やしていったということになります。
伊藤幸司(ジャーナリスト)
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