毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・17・支笏洞爺国立公園」
1994.7――入稿原稿
■国立公園物語…支笏洞爺
●札幌の奥庭
この「国立公園物語」の取材に、ちょっとした異変がありました。前回の秩父多摩国立公園の取材中にスピード違反をしてしまい、運転免許証を召し上げられてしまったのです。おかげでレンタカーを借りられません。そこで支笏洞爺国立公園の取材は、現地交通網を頼りの1人旅という感じでやってみることにしたのです。
これまで私が方法として決めてきたのは、つぎのようなことでした。
1――下調べをせずに現地にでかける
2――サラッと素通り。人を訪ねる取材はしない
3――2泊3日を原則とする
仕事としてはずいぶんいいかげんかもしれません。しかしこの「ジェネラルサーベイ」は大学時代に探検部というクラブに所属した私にはかなりなじみのいい「偵察」方法なのです。
自分流の好奇心で対象とする空間の大きさや色合いなどを見ていくうちに、何かが見えてくるのです。その「見えてくる」というまでの最低条件として、私は一周や縦横断など、単純明快な行動を試みます。自分の体験によって国立公園の大きさを測ってみるということかもしれません。
それは専門的な知識をもった人の観察とはまったくちがうレベルのものです。ただひたすら走り回っているうちに、やっぱりどこかで何か考えているというようなもののようです。「雲をつかむ」ような気持ちのまま、ただひたすら車を走らせつづけるということが、(私には) すばらしく刺激的で気持ちいいということを発見してしまったのです。
それと同時に、道筋の書店にできるだけ立ち寄ってみます。新刊本のふつうの書店ですから、郷土の本のコーナーもたいていは小さく、ないということもあります。あってもほとんどは同じ本です。が、こちらに探す意志さえあれば、ドキッとするような出会いがあります。
考えてみれば当然のことで、こちらはいま走り回っている地域にかかわる本なら何でも読んでみようという状態です。本を書いた人は、この地域との深いかかわりの末にまとめた1冊を、こころざしを同じくする人の手に渡ることを祈って世に出したにちがいないのです。私に同じこころざしはないにしても、そのこころざしに啓発される状態にはなっています。どんな小さなとっかかりでも、本を通じて人と出会いたいという気持ちなのです。
もっとも本は帰ってから読み始めるので旅の方向を変えることはありません。「人を訪ねる取材はしない」という原則を立てているのは、足を止めて個別のテーマに踏み込んでいくことはしないという意味なのです。
今回も同じ気持ちでやってみようと思いながら千歳空港に降り立ったのは6月初旬のある日、午前8時半過ぎでした。バスの停留所をひとつずつ見ていくと、支笏湖行きのバスが8時33分に出たばかり、次は9時28分とのことです。
大判の全国時刻表から破ってきたページにもそのバスは出ています。使ったのは日本交通公社の「JTB時刻表」の1994年6月号。破ってきたのは749〜750ページの表裏2ページで、今回の旅に必要な路線バスの欄は次の3つだけのようでした。
p.749-B――洞爺*トウヤ湖温泉・壮瞥*ソウベツ温泉・昭和新山
p.749-C――登別温泉・カルルス温泉
p.750-A――支笏湖
その支笏湖欄にあるのは3路線でした。
1.札幌駅前ターミナル〜恵庭登山口〜支笏湖畔――1時間20分ほど
2.新千歳空港〜千歳駅〜支笏湖畔――50分ほど
3.苫小牧駅〜モーラップスキー場入口〜支笏湖畔――40分ほど
ちなみに洞爺湖についてはJRの主要駅からの路線が4つありましたが、ここではまず3つ。
1.札幌駅〜定山渓〜中山峠〜ルスツ高原〜洞爺湖温泉――2時間40分ほど
2.室蘭駅〜伊達網代町〜有珠駅または壮瞥駅〜壮瞥温泉〜洞爺湖温泉――1時間55分ほど
3.洞爺駅〜洞爺湖温泉――15分ほど
登別温泉へは次のようになっています。
1.登別駅〜登別温泉――20分ほど
2.室蘭駅〜登別温泉――1時間15分ほど
3.新千歳空港〜登別温泉――1時間ほど
最後の新千歳空港〜登別温泉という線はじつはさらに〜カルルス温泉〜壮瞥温泉〜洞爺湖温泉とつなぐ温泉めぐり路線で、通しで乗ると2時間25分になり、札幌駅から中山峠経由のコースを北回りとすれば、こちらが南回りの洞爺湖温泉行きということになります。
シトシトと降り出した雨のせいかひじょうに寒く、だれもいないバス停で待つのはつらくて、空港ビルに逃げ込みました。この新千歳空港にはJRの快速「エアポート」が乗り入れていることもあってバスに乗る乗客はあまり多くないように見えます。観光シーズンの到来までまだしばらく間のある北海道だから静かなのでしょうか。私はたった1人の乗客となって支笏湖に向かったのでした。
その後どのバスも貸切同然のぜいたくでしたから、旅はなかなか快適でした。バス路線のネットワークに乗っていると、効率よく移動し、かつ多くの観光ポイントに触れることができます。
そこで今度は周囲をグルッとまわってみます。JRの函館本線と室蘭本線があるのですが、北回りで札幌〜小樽〜余市〜倶知安〜長万部となる函館本線は小樽から先は鈍行のみというのが基本らしく176kmを4時間ほど。しかも小樽〜倶知安が1日10本、倶知安〜長万部は1日5本ですから鉄道を使ったら1日に仕事ひとつという感じです。
じつは札幌からこの線を利用した日、私は倶知安で下りるべきであったのに、左に蝦夷富士の羊蹄山、右手にニセコアンヌプリを見てつい下りるのをためらってニセコ駅まで行ってしまい、出口なしの状態になってしまいました。(タクシーを使えば、もちろんなんとでもなることではあったのですが) 午後に予定したものを見るために、次の列車で札幌まですごすごと引き返すしかありませんでした。
それと対照的に南回りの室蘭本線側では特急列車がつぎつぎに通ります。特急北斗なら札幌〜長万部の206kmが2時間15分ほど。私はその特急北斗に登別から札幌まで乗りましたが、どうせガラガラだろうというおもわくが完全にはずれて、デッキに押し出されていました。6月に入ると観光客は、いるところにはいるのです。
洞爺湖温泉に泊まった夜、名物の花火があるというので私も観光客の気分で出てみると、人々が湖畔にあふれています。これだけの人々がいったいなんで移動してきたのか。路線バスの旅人には想像できないにぎわいでした。
夜明けから日没までレンタカーで走り回る従来の行動と比べると、今回はあっさり味の旅になってしまいましたが、本との出会いも少なかったのです。
どうしてだろうかと考えてみるのですが、それはこの地域がいま、札幌の奥庭としてあまりにも安定した文化的環境になってしまって、知られていることと知られていないこととの境界あたりからエネルギーが噴き出してくるという状態ではないのかもしれません。
そういう意味では「湖」でも「火山」でも同様です。新刊書で見るかぎり、1993年の北海道南西沖地震に関するものは何冊かありましたが、洞爺湖温泉を壊滅状態にさせた有珠山の噴火(1977年) はすでに過去のものになっているようです。
有珠山の火山活動の一環として生まれた昭和新山の活動を詳しく記録し、この火山を個人の力で保存してきた三松正夫さんの著書も書棚にはなく、むすめむこの三松三朗さんによる『火山一代――昭和新山と三松正夫』(北海道新聞社、1990年) があるだけでした。
支笏湖、洞爺湖、倶多楽湖に関するローカルな本も見つかりませんでした。しかたがないので湖沼学の全体を見通せそうな入門書を1冊買いました。鈴木静夫さんの『日本の湖沼――湖沼学入門』(内田老鶴圃、1963年初版、1992年第6版) です。
これを読むと、湖沼学においてもこれらの湖はちょっと時代に取り残されてしまった感じがしてくるのです。湖沼学の戦後の流れを、鈴木さんはつぎのように書いています。
――戦争が終わって平和にもどったが、戦災で物を失ってしまった人もあろうし、湖沼の研究などしているゆとりなどとてもなかった。そんなわけで昭和16年頃からかれこれ10年もの間、日本の湖沼研究の空白時代があった。
戦後まず湧いてきた考え方は、湖での物質の生産ということである。これは湖水中の植物プランクトンの同化作用の結果できて来る澱粉の量を測定することであった。その後しばらくの間は、この考え方がもっぱら湖沼の研究を支配してきたように思う。
ところが戦争の災いもしだいにいえて平和産業が発展し、特に石油科学やその他の化学工業が著しく発展した。そうすると、これらの化学工場が排出する工業廃液のために河川が汚れ、あちこちで魚が死んだり、川の悪臭がひどくなったりしてきたのである。こういった問題がついには社会問題にまで広がり、毎日の新聞をにぎわせるようになると、腰の重いお役所ももう放ってはおけなかった。このようなわけで公共用水汚濁防止に関する研究なるものが、あちらこちらの湖沼学者によって手がけられるようになった。――
いまや北海道の美しい湖の時代ではないようなのです。
●湖の学術探検時代
そこで鈴木さんの本で「湖沼学の歴史」という項目を読むと、時代は一気に半世紀もさかのぼってしまいます。
――たくさんの湖沼学者が出て、さかんに湖の研究をした昭和の初めから10年頃にかけては、地方湖沼学といって日本の未知の湖沼がどんな性質の湖であるか、或いはどのくらい栄養に富んでいる湖であるかということが興味の中心であった。そして湖沼はそれぞれ富栄養湖とか、貧栄養湖などと名前をつけられていた時代でもあった。その範囲は千島列島から遠く台湾にまでもおよび、わが国の湖沼の研究の黄金時代でもあった。――
時代をさらに20年ほどさかのぼらせます。
――大正時代にはいると、川村多実二の水棲動物の研究があり、湖の生物の研究が必要なことが痛感された。その後、宮地伝三郎、上野益三、菊地健三、小久保清治らによって、プランクトン、底棲動物、水棲昆虫などがつぎつぎに研究されていった、水生植物の研究では根来健一郎、三木茂、中野治房らが活躍した、なかでも根来健一郎、吉村信吉、田村正らが行なった無機酸性湖の研究は、世界の湖沼学でも確固たる位置をきずいたのである。――
昭和の初期が湖沼研究の黄金期なら、大正時代はその揺籃期というべきでしょうか。そして歴史はもう一段さかのぼります。
――日本の湖沼研究の第1歩として忘れてならないのは、明治32年(1899) 8月1日にヨーロッパ留学から帰ってきた田中阿歌麿が山中湖の調査をしたことである。この日こそ、日本の湖がはじめて科学的に調査された最初の日だったのである。
その後さらに研究を進めて、富士五湖の河口湖、精進湖、本栖湖などが次々と調査されて行ったのである。当時はまだ湖水の科学的な研究をするまでには進んでおらず、誰もが持った疑問、「いったいこの湖はどのくらい深いのか?」という単純なことであった。山中湖をはじめとする富士五湖の湖がたんねんに調べられて、湖の深さを示す深度図ができあがった。そして山中湖では湖底の1カ所にロートのように深くなっている部分を発見し、ここから地下水が湧き出ていることなども明らかになった。――
「湖沼学」という分野を確立したのはスイス人フォーレルですが、第1級の古典といわれる『レマン湖』(3巻。1894〜1904年) や『湖沼学教科書』(1901年) の発行と比べるとき、1899年という時期に日本に湖沼学を紹介した田中阿歌麿さんの業績には大きなものがあるといわざるをえないようです。田中さんは1911年に『湖沼の研究』という本を書いてヨーロッパの湖沼学を紹介しています。また博士論文となったという『日本アルプスの湖沼の研究』などの論文のほか、一般読者向きの湖沼紀行もたくさん書いていたらしく、鈴木さんは先駆者・田中阿歌麿の著書を4冊「通俗書」という区分でリストアップしています。
『湖沼めぐり』博文社、大正7年(1918)
『趣味の湖沼学』実業之日本社、大正11年(1922)
『湖沼巡礼』国本社、昭和2年(1927)
『湖』岡倉書房、昭和15年(1940)
このうち昭和2年の『湖沼巡礼』では北海道では倶多楽湖、洞爺湖、北海道大沼、支笏湖の4つが選ばれているのです。まず「はしがき」のところを読んでおきたいと思います。
*なお、引用にあたっては旧字体・旧かなづかいのところを常用漢字・現代かなづかいに変え、一部の漢字をひらがなに変えました。
――私が湖沼の研究を始めて本年で29年になる。この間に調査した湖沼は約170にも達し、本邦はもちろん遠く海外のものも数湖を数える事が出来る。またこれらのうちのものは数十回、数百回の多大なる錐鉛を下ろし、すでに研究を完了して発表したものもあるが、あるもののごときは僅々一両回(わずか1〜2回) の踏査に過ぎないものもある。
湖沼の研究は度重なるにともないますます複雑となりついにその際限を知らないのである。さればいずれの湖沼もこれをことごとくきわめることは人間の一生において能う(できる) ところではない。が、私は生命のあらんかぎりこの研究を継続し、湖沼に対する知識の没却された社会に提供する覚悟である。
しかしながらその複雑なる湖沼学上の記述は後日に譲り、本書においては主として旅行者の伴侶となるべき記述にとどめた。これは近年著しく旅行するものの多くなり、湖畔のごときは昔日の寂寥に引き換え、今日は湖上の遊覧、水泳、氷滑りその他湖畔の避暑など湖を訪れるもの日に多くなって来た。また学生の暑中休暇を利用しての勉学地として湖畔を選ぶものも著しく増加してきた。すなわちこれら人士(教養ある人々) が湖畔に立ったとき、ひととおりその湖沼についての知識を持っているということはたしかに有意義なことと思う、これが本書を著した主意である。――
つまりおよそ70年前の、心ある旅行者に読んでおいてもらいたい湖沼の知識、というわけです。
まずはこの本のトップバッターとなっている倶多楽湖です。
――室蘭から汽車で約1時間半で登別駅がある。駅から電車で登別川に沿って倶多楽湖火山の裾野を約5km上ると、途中に「茶屋」という宿場がある。ここから徒歩で少し横へ入れば木陰より清冽な水のコンコンと湧いている泉がある。氷のように冷たい水で、ひとすくいでたちまち神気爽快を覚える。地元民はこれをカムイワッカ、すなわち「神の水」と唱え、かつ倶多楽湖は大きい火口湖で排水口がないからその水が絞られてこの泉に噴き出すのであると言っている。あたかも富士の裾野の猪の頭や大宮や、または三島、それから北側の吉田の月光寺の池なんぞの湧水と同じように、この裾野に降った雨が疏鬆(粗乱) な火山灰の中にいったんしみこみついに湧水となって出るのであって、必ずしもこれを湖から絞られて出るものとは断じられまい。
「神の水」から東に約30町ほど進むと道はしだいに上りとなりその頂上に峠がある。峠の上から見下ろせば、傾斜きわめて急で、その底部窪處(底の深いところ) に大きなまん円い湖が忽焉(忽然) として目に入る。これがすなわち倶多楽湖である。本名クッタラウシと言って「窪めるところ」または「水沼」の義である。火口壁をやや下れば小高いところに美しい洋風別荘が見える。これは目下北海道帝国大学農学部中尾講師(節蔵) 1人で経営せる養魚場である。湖縁に孵化場があり、その設備一切整っている。
登別温泉に近く、時に浴客が訪ね来るので、番人は内職に缶詰や飲料を売っている。また賃船の設備もあって浴客にとってはあつらえ向きの遊び所になっている。気温は夏の最高すなわち7月においてわずかに28度、8月中の平均において23度であるから気候は涼しい方で、温泉浴客の散策には好適地である。
湖をはじめて峠から見下ろしたときはちょうどイタリアでアルパノ火山湖を見たときと同じ感じがする。ほとんど完全な円形に近く、周囲ことごとくうっそうたる樹木で宛然(さながら) 立派なすり鉢である。試みに船で湖岸をまわれば、どこも同じようなので身は、いま湖のいずれの部分にいるかがほとんどわからない。ただ先へ先へとまわっているうちにいつしか出発点に戻るのである。従って景色も単調に失するきらいがある。――
湖沼学者によるガイドですから、湖の基本的な紹介はまだこれからです。
――火口壁の最高部は西北にあって海抜550mに達し、火口壁の内部には、すなわち円形の倶多楽湖が海抜250メートルにおいて4.34平方キロの静かなる紺碧の水をたたえているのである。火口の内壁は急斜して湖面に下り、ただ西北にあたって1つの陥没地形であることを語っている。湖の成因はむろん火口湖であるが、火山付近に大爆発によって生じた岩屑のないことと、火口盆地の急斜せる、しかも単調なる地形を持っていることより察すれば、おそらく火山の頂部は火山活動の最後に陥没したものらしい。――
――湖岸線の長さは7.80kmでほとんど円に近く、その肢節量はわずかに1.05ですなわち本邦最小中の1つである。湖盆形態については大正5年(1916) 中錐測した田中館理学士の深度図がある。これによると岸より急に深く一般に岸を去る20mで深度2m、50mで10m、100mで20mなれども、また湖岸を去る20mで15m以深を測るところも少なくない。
湖底の大部分は120m等深圏に囲まれ、傾斜すでにきわめてゆるやかとなり、中央部よりいちじるしく東部に偏して、やや大なる区域を占めている。145m等深圏の中央に146.5mの最深点があるがおそらくは本邦の火口湖として最も大きく、かつ最も深いものであろうと今日のところでは考えられるのである。
次に底質は主に白色の浮石よりなり、沿岸では砂礫を見るところあり、またこの湖にはさらに島がない。これ陥落火口盆地にしばしば見る反応噴火の跡がない一例である。
湖の氷は1月末か2月初めから5月初めまである。厚さ約1尺5寸ぐらい、全湖面に氷の張り詰めぬ部分が2〜3カ所あるが、そのひとつは温泉が湧出するので水温高く、硫黄もおびただしく、かつガスを発散している。水温は概して気温より高い。このあたりに遊ぶ人は真に湖中に温泉が湧くというが、水温の気温より高いはかならずしも温泉のためばかりではない。水温は孵化場において観測したものによると大正4年(1915) における水温観測の成績は、冬の最低が1月で平均2.3度で、夏季の最高は8月の平均13度である。次に予(私) が大正5年8月29日に施行した観測によると、表面の水温は23.5度、82mの深度にいたって4度に達し、それより以深はむろん4度である。温度のにわかに低下するのは5mより10m付近で、この間約10度の差がある。
次に冬季の水温については、大正6年2月24日、田中館氏が湖面の結氷を破砕して錐測したとき、表面は0.6度で深度73m以深4度である。さればこの湖の夏季において正列、冬季において逆正列、しかも深層の水温は常に4度であるから、この湖は純温帯湖の標式に属するものである。――
ここに登場する田中館*タナカダテ秀三さんは明治17年(1884) の生まれですから明治2年(1869) 生まれの田中阿歌麿さんより15歳年下になります。田中さんはベルギーに留学していますが、田中館さんは東京帝国大学で地質学を学んだのち、ドイツのベルリン大学で地理学と水文学を学び、イタリアのナポリ大学では火山学の研究で助手から講師となっています。大正4年(1915) の末に約6年におよぶ海外留学を終えて北海道帝国大学助教授となったのです。
新進気鋭の火山学者として北海道における火山研究を開始した時期に、日本の湖沼学の創始者田中阿歌麿さんを迎えたということになります。
田中館さんのこの研究活動は大正14年(1925) に北海道庁の報告書『北海道火山湖研究概報』としてまとまります。
*この本でも引用にあたっては旧字体・旧かなづかいのところを常用漢字・現代かなづかいに変え、一部の漢字をひらがなに変えました。
「序論」にこう書いてあります。
――本報告は北海道本島のおもなる火山湖につきて調査せるものなり。いま本編において記載せるもの次のごとし。
1――屈斜路湖・摩周湖(屈斜路火山群)
2――阿寒湖・パンケ沼(阿寒火山群)
3――然別沼(然別火山群)
4――支笏湖(恵庭樽前火山地方)
5――倶多楽湖・カルルス湖(登別火山地方)
6――洞爺湖(有珠火山地方)
7――半月湖・岩雄登・大沼・長沼・狐狗狸湖(マツカリヌプリ火山および雷電火山脈)
8――大沼・小沼・蓴菜沼(駒ヶ岳火山地方)
これら湖沼の湖沼学研究の基礎として余(私) は大正5年7月以来その形態を主として測定せり。しかして大正11年夏期、北海道庁嘱託として再びこれらのあるものを調査するを得たり。調査中、水温の分布および湖の色、透明度などを観測し、なお浮遊生物の採集を定性または定量的に行いたれどもいまだ内業完結せず。
上記調査にもちいたる器具機械のおもなるもの次のごとし。
1.測深器――深き湖水にはルーカス測深器を用いたり。測深器は鋼鉄の針金なるがゆえに伸縮なし。示深器は尋(ひろ。水深では6尺=1.818m) を与えるをもって、これを米突(メートル) に改算し、米突以下を四捨五入せり。なお山上の小なる沼においては伸張少なき縄を巻き上げ器に付して用いたり。また浅きものには間縄*ケンナワ(測量用の芯入りロープで1間目盛)を使用せり。
2.寒暖計――水温に対してはネグレッチ・ザンブラ式転倒寒暖計を用いたり。気温、水温とも常に摂氏にて示す。
3.透視度測定――セーキ式白色板径25cmのものを用いたるも、ときには同大の種々の色のものを使用せることあり。
4.水色計――フォーレルのスケールを用いたり。
5.浮遊生物採集網――農商務省所定の計1尺1寸のものを用いたり。
6.採泥器および採水器――前者にはカップリートを使用し、後者には農商務省式のものを使用せしも、また特種なる採水器を準備せしことあり。
7.このほかある湖の測定にあたりては定常波観測器すなわちリムニメーター、感光測定装置等を特別に準備せり。
8.湖水中の酸素含有量測定はウインクレル氏の方法によれり。
人煙まれなる山地においては小舟の製作をなさしめざるべからざりき。この困難あるがため、ある湖沼は今次調査をなすことあたわざりき。すなわち雄阿寒山の南方および東麓の小沼、および恵庭火山のオコタンベ沼、そのほかなり。――
●支笏湖と洞爺湖
田中阿歌麿さんによる支笏湖の記述では、学術探検の最先端の光景が語られます。
――湖の深度は今日では全く神秘的である。「日本一の深さ」とは何人もほんとうに錐測したものではないからである。北海道水産試験場千歳支場の古記録には350尋(約636m) でいまだ湖底に達しなかった。また明治44年(1911) ごろ王子製紙株式会社の工学士浜田東稲氏の300尋(約545m) というもみな、これは過大に失した報告である。余は大正5年(1916) 夏、田中館理学士、小久保清治氏とともに、ことに正確を期すためルーカス式深測器を使用して深度錐測をしたその結果はまずもってはなはだしく誤りはないつもりである。湖面がもとより広いのであるから1週間の観測でも錐測点を極めて多くすることの出来なかったのが遺憾であったが、それでも合計91カ所、すなわち1平方キロにつき0.85の割合で測ったのであるから、湖盆の形態は十分これを知ることが出来たと思う。ことに幸いにも湖盆の形態が非常に簡単であったので測点の少ないにもかかわらず深度図が正確であることを信じて疑わない。すなわち湖底の大部分は深さ350m線をもって限られた一大湖底平原で、しかもその区域内は湖面積のほとんど2.6割を占め、この部分においてはわずか2〜3mの差があるに過ぎない。最大深度は中央部より少しく南に寄り363mを示している。――
アプローチルートについては田中館さんの『北海道火山湖研究概報』のほうに要領よく書かれています。大正末年の状況です。
――この湖に至るには、胆振国苫小牧町より王子製紙会社専用軽便鉄道によれば1時間半にして湖畔に達すべし。また札幌より陸路千歳村に至るか、または室蘭線早来または遠浅駅より陸路千歳村に至り、さらに千歳村より陸路7里、千歳孵化場を経て湖畔に至る。湖畔には千歳孵化場分場あり、また王子会社事務所あり。湖上には発動機船および小舟などあり。――
火山学者ならではの地形観察は、もちろんあります。 ――湖を涵養する川流のうち、最大なるはピプイ川にして、これに次ぎてニナルシユトマナイ川なり。これらの川の支流は湖盆に対し同心円の流路をとるはすこぶる注目すべきものなり。また湖水の排水口たる千歳川につきて見るに、これ湖盆生成当時よりその流路をとりしや。または湖の東南角モウラツプ付近にもと排水口ありしが、樽前火山の噴出物にてせき止められたるをもって新たにここに生ぜしものなるや、今後の研究に待つ。
湖の東北紋別岳はその西側の山頂部より急崖直下して湖岸に下る。その傾斜は35度ないし40度なり。またこの急崖は西北に向かって一直線を画せり。これら地形上の特徴はこの部は断層崖なるを意味するなり。
湖の西南に白老の高台あり。海岸に向かって数度の緩斜をなせども、湖にむかいては急斜をもって下れり。これまた断層崖なり。この地形を湖上より望めばその頂上一直線をなし、あたかも卓子(テーブル) を見るがごとし。しかして高台上に峙立(そびえ立つ) せるタプコプほか2〜3の小峰はこの卓子面の単調を破りてその上に突起せり。――
田中館さんの学術報告は項目そのものからして膨大です。ちなみに見出しだけ拾っておくと、位置および交通、地図、付近の地形、湖付近の地質、湖水成因、湖岸、湖盆形態、支笏湖セイシュ、受水および水位、水温・水色および透明度、生物、動物性浮遊生物、植物性浮遊生物、底質、利用、付録として測深図と水位・気温・水温の観測表がついています。70〜80年前に、このあたりの湖は最先端科学者の熱いフィールドであったのです。
洞爺湖ものぞいてみます。こちらも最初は田中阿歌麿さんの案内から。
――洞爺湖に行くには室蘭から輪西東線で伊達紋別におもむき、ここより自動車か馬車で有珠火山の裾野を通っていくのが最も便利な方法である。紋別はすなわち伊達家の経営にかかわる農業地で北海道中もっとも発達した開墾地である。この町のはずれで長流*オサル川を渡ると道は2つに分かれる。その左の方は有珠港へ行く道で、我らの行くのはその右の方である。すなわち川に沿うて北に美しく開墾された畑の中を進むのであるが、亜麻の収穫時にはかなたこなたに大農場式の機械でこれを刈り、車で運ぶさまを見ていくと、あたかもヨーロッパにいる心地がする。畑の中をおよそ8kmも進むと有珠火山の東の裾野にあたって孵化場というところがある。
この孵化場はかつて北海道庁でヒメマスの孵化場を設置したのでそれがついに地名となったのである。しかるに大正元年(1926) 11月、川水がにわかに変質してせっかく孵化中のヒメマスの子はことごとく死滅した。その後2〜3回こんなことが繰り返されてから、大正2年(1927) 11月末にその水がまったく湯になってしまったので孵化場はにわかに温泉場と化し、翌3年3月から大きい湯滝の設備などもできたり、旅館も新設されたりした。
これは明治43年(1910) 7月の有珠火山の爆発のために起こったのであるが、その火山力のようやく衰えるに伴われて温泉もだんだんに生温かくなり、大正4年(1915) にはだいぶ冷たくなり、今日ではよほど温度が低下したので客も減りだしてきた。それより約4km行くと壮瞥*ソウベツというところに着く。これから長流川の上流にさかのぼり左に折れて湖から流出する壮瞥川に沿うて山に登るのであるが、なお約600m行くと洞爺湖に出る。
ここは壮瞥川の流出するところで、運送業を営んでいる家が1軒あって、石油発動機を動力とした船が1隻つないでいた。これは湖の北岸なる向洞爺との間を往復するもので、旅客や貨物を運ぶ船の曳船をするのである。旅客よりも主に貨物であるが、このころも亜麻の収穫時なので各地で刈ったものを盛んに運搬していた。――
当時すでにこのあたりが札幌の奥庭となっていたらしいことも書かれています。
――室蘭を朝早く出発すると午後早く向洞爺に入ることができる。このほかに函館・札幌間の鉄道で倶知安駅に下車し、それから馬車でここへ来られる。すなわち札幌方面の人々は多くこの道によって避暑などに来る。気候涼しく北海道としてはきわめて明るい気持ちの良いところで、周囲の山々はさほど高くはないが周囲には丘陵がめぐって、しかも湖を去るにしたがってしだいに高くなり、しかしてその斜面には畑地開け、その間に人家点々として散在し、じつにえもいわれぬ快活な風景を呈している。――
田中館さんの文章は、もちろん火山学者としての視野からです。洞爺湖を支笏湖や噴火湾といっしょに語ることからはじまります。
――後志火山群には比較的大なる陥没盆地とみなさるるもの多し。支笏高、洞爺湖、噴火湾などこれなり。いまこれらに共通なる特徴を次にあぐ。
1――盆地はほぼ円形なること。
2――その中または周囲に比較的新しき火山あり、そのあるものは今なお活動せり。
これら2つの特徴は盆地生成の火山性なるを証す。
3――盆地は著しく大規模なり。
4――環壁と称すべきものなく、ほぼ平坦なる高原またはデコボコ多き山地の上に陥没せり。
これら特徴は他の火山盆地のごとく火山の頂部が局部的に陥没せるにあらずして、火山地方が大規模に陥没せるを証す。
5――盆地の底面がほぼ同一の水準にあり、すなわち支笏湖の湖底は海面下115m、洞爺湖の湖底は海面下100m、噴火湾の最深は海面下約107mなり。
この事実はこの地方の地下に共通する岩獎槽(マグマ溜まり) あり、それと通ずる各大火口管中の圧力が平衡せるを意味するにあらざるべきか。
洞爺湖盆は東西17km、南北12kmあり、その南西縁は噴火湾岸を隔てることわずかに3kmに過ぎず、また、かの蝦夷富士の称ある円錐火山マツカリヌプリ(または羊蹄山ともいう) の頂上と盆地の中心との距離は26kmなり。
洞爺湖付近は第3紀凝灰岩よりなる一高原なり。洞爺湖の北マツカリヌプリとの間、湖の北部においてはこの高原海抜約300mにして広き平面をなせり。この高原面は漸次(しだいしだいに) 南方に向かって低下せり。すなわち湖の西部においては約200m、東南部においては170mとなる。またこの高原地上には洞爺湖生成以前の噴出と思わるる溶岩の高き山塊あり。すなわち高原の西に昆布岳(1045m)、東に貫別岳(994m) あり、また湖の西側にはポロモイ岳(620m)、東に倶知安別岳(880m) などあり。
洞爺湖盆地はかくのごとき火山をいただく高原地が深く陥没して生ぜるなり。しかしてその盆地の内壁には大陥没にともなう山崩れおよび断層などあり、種々の流紋岩層および安山岩層は湖の東岸および西北岸に不規則なる階段的の地形を形成せり。
盆地陥没後その補足噴火として生ぜるものは有珠火山および中島火山群なりとす。有珠火山は盆地の南縁にあり、その火口の中には大有珠、小有珠の円頂丘そばだてり。なかんずく大有珠の頂点は海抜725mにして有珠山の最高点をなせり。火山の北山腹すなわち洞爺湖の何岸には金毘羅山、トコタンの円山、東円山などあり、また明治43年以来の活動によりて生ぜる新山はトコタンの円山と西円山の間にあり、ひとつのクリプトドームなるは人の知るところなり。
湖中の島は陥没後押し上がりたる有珠式および樽前式円頂丘の集群にして、中島、観音島および饅頭島の3つよりなる。なかんずく中島は7個以上の円錐丘の集群にしてその最高海抜455mあり。また観音島は2湖の円頂丘の連続せるものなり。これらはみな複輝石安山岩および石英安山岩よりなる。
以上に述べたるところを総括して余は洞爺湖生成の歴史を次のごとくたどる。
第3紀の末、この地方はおそらく海底なりし時代、火山の噴出および凝灰岩の沈積あり。次にこの地方は隆起して陸となるや凝灰岩よりなる平面上に島状をなして火山岩塊の突起せしなるべし。その後漸次そのうえに水系発達せり。当時かのポロベツ川は現今洞爺湖が占むる地方を貫きて南下し、有珠山のそばだてる地を過ぎてさらに南し、海に注げるものなるべし。これ現今、台地面は有珠火山付近においてもっとも低きをもって推せらるべし。――
●2つの新山
明治43年(1910) に有珠山が噴火して明治新山(四十三山*ヨソミヤマ) が誕生したとき、田中館さんは海外留学中でした。しかし年譜によれば、大学を出てすぐに北海道に赴任すると支笏湖畔の樽前山でドーム誕生の噴火が起こり、これが火山研究に進む大きなきっかけになったようです。
帰国後も北海道で火山学者としての活動を続けます。そのとき洞爺湖畔で出会ったのが地元の青年郵便局長・三松正夫さんでした。三松さんは1975年に刊行された『田中舘秀三――業績と追憶』(世界文庫) に長い追悼文を寄せています。
――明治43年(1909)、当時私は22歳、壮瞥村の小さな郵便局の局長代理をしていた頃でした。それ迄、私にとっては明鏡洞爺湖に影をおとす美しい山、兎、狐、リス、山鳥(エゾ雷鳥) が沢山いる良い猟場、山菜、茸を好きなだけとれる畑のような山、そして山上にお伽話の中に登場する古城のような奇怪な形の溶岩塊をのせて、子供の頃から何となく空想の世界へ導いてくれる夢のお山と思っていた有珠山が、突然活動をはじめたのでした。勿論この火山が、昔から度々活動してきた火山である事は知っていたのですが、大人も子供も、1度もこの山の怒りの姿に接していないのですから、火山の足下に生活していた事をケロッと忘れていたのでした。
激しい地震の連続、人々の目には分からないが刻々休みなく進行している大地の隆起、そして1爆発1火口形成とえんえん1.5kmにわたって、爆発が点々と移動し、各火口から黙々と噴く白煙・黒煙。降灰。泥流の溢出。海抜220mの新山の誕生。それ迄が余りにも静かに、のどかな日々であっただけに、地元民の度肝を抜く大事件で、この事があって、にわかに火山に対する認識、興味、そして不安(多くの人々は、これにのみ取り付かれたのですが) が沸きおこりました。
その日が何年何月であったか、ともかく明治活動の後で、そうした地元民の動揺がまだ残っている頃でした。洞爺湖村の三樹園三橋*サンジュエンミツハシという旅館に、現地調査に来られた田中館先生(当時北海道大学助教授) がお泊まりになったのでした。地元では、これを機会にとお話を願い出た所、心よく引き受けられ、宿の広間で有珠火山についての講演会が催される事になりました。勿論、私も出席したのですが、その噛んで含めるようなわかりやすいお話振りと同時に、私の認識していた有珠山と学者の眼で見た学問的な有珠山との違いにガーンと頭を叩かれたようなショックを受け、同時に訳もわからず、唯混乱していた私たちに反し、活動の諸現象を、平易に、関連付けて説明出来る「学」に深い感銘を受けたのでした。
散会後も、活動中に(地震学者) 大森房吉先生の漏らされた「将来、再びこのような寄生火山が誕生する可能性もある」というお言葉を中心に、先生といろいろ話し合ったのでした。先生は私の素人的愚問にも、平易にそしてどんどん話題をひろげて時間の経つのも忘れて説明して下さるのでした。なかなかとけない私の疑問に対しては「この次に来る時に参考書を届けて上げるよ」とお約束して下さるほどでした。私はその人柄にうたれて、俗にいうファン心理に近いかもしれませんが、その場で誠に自分勝手な話ですが、心の中で師弟の契りを結んだのでした。
この日を契機として昭和新山の誕生の日までの35年、先生は調査に来られる度に声をかけて下さり、参考書を届けて下さったり、同行の学生に対する現地講義に「わかっても解からなくても聞いておきなさい」と加えて下さり、私も努めてガイド役を買って、次第次第に火山学の知識を深めていったのでした。――
この師弟関係が三松正夫という特異な火山研究家を生みだしたといえそうです。昭和新山は戦時下に突如出現したため、専門家の調査を求めてもそれに応じてもらえません。近くに重要軍需工場が密集する室蘭があるために軍はこの火山活動を軍事機密として、むしろ封鎖という方向で動いたのです。そのような場に郵便局長としていた三松さんは自分でやれることをやると決意したのです。
三松正夫さんの『昭和新山生成日記』(1962年、自費出版) には昭和18年12月28日から20年12月25日までの観察日記がみごとに整理されています。ここではその第1日目の全文を読んでみます。
――昭和18年12月28日 曇後雪 無風
朝からどんよりとした雪空である。夕方から雪となった。戦争に明け暮れした今年も暮れ、新年を祝うため町の人はわずかな配給米で、心ばかりの餅つきなどをしていた。午後7時ころ突然異様の地震を感じた。初震の短い上下動である。気にもとめなかったが、10分〜20分毎に次々に起こった。私の住まいは有珠火山から東方4kmほど離れた200戸ほどの滝の町である。私は有珠火山の明治活動にも逢ったので、これはこの火山が活動を始めたと知り、騒ぐ町人を静め、経過を見て行動するようにすすめた。時の過ぎるにつれやや強いのが交じり鳴音を伴ってきた。しかし強いのでも時計の振り子が止まる程度で家外に飛び出すほどでない。午後10時ころ火山の北麓洞爺湖温泉町から、当地の地震鳴動は烈しく町民は先を争って退避中と電話があった。すぐ観察のために降雪中6kmの道に馬を駆った。途中多くの避難民に逢い町の入り口にある西丸山に達するころから、かなり強い鳴動があって馬は進まない。同町は明治活動で湧いた新しい温泉の町である。
鳴動ごとに家鳴りが強いので、残った町人は屋外に出て持ち出した家財の間で震えていた。間もなく警察署長は町長らと協議して、全町民に退避命令が出た。時を移さずバス、トラック、馬車、馬橇とあらゆるものが動員され、午後12時には警備員と郵便局員を残して町はがらあきとなった。明治活動の時は火山周囲の町村民は、全部3里以上の遠くに退避させたが、これはくらべものにならないほど微弱な鳴動だし、局部的であるのに騒ぎは大きすぎた。――
このような日記に多数のスケッチ、それと精密な地盤変動記録となる定点観察スケッチが加えられていきます。むすめむこの三松三朗さんの『火山一代――昭和新山と三松正夫』はその具体的な活動をこう解説しています。 ――地震を調べるといっても、当然の事ながら地震計などある訳もなかった。時はまさに戦時下、それも配色濃くなりつつある時で、食糧をはじめ日常生活物資にさえ事欠く状況で、必要な観測機器の調達は望む術もなかった。記録に留め置くための写真機、フィルムは勿論、紙・鉛筆さえ入手難であった。
彼は身近な所に小皿と数種類の豆を用意した。これが「三松式地震回数記録装置」の全てである。24時間に発生する地震を1回、2回……101回、102回と記憶に頼り、連続して頭のなかで数える事の難しさは、彼の長い人生経験から十分承知していた。
出来る事なら地震の強度、種類(上下動、水平動、鳴音の有無) なども分類して記録に残したいと考えていた。越冬用として手もとにあった大豆、小豆、数種類のハナ豆を用意し、例えば強い上下動の地震は大豆、弱ければ小豆などと約束事を取り決め、地震の都度1粒の豆を小皿に移し、毎日定時に個数を数えて本日の地震回数○○回と記録に留めたのである。原始的な方法の採用、この単純明快さ故に、自分の不在時にはこの作業を家人や局職員に託せる、と彼は考えていたのである。
筆者が『昭和新山生成日記』に記されている地震回数をどのようにして計測したのか、本人の口から初めてこの方法を聞いた時、正直のところ「これはマユツバものだ」と思い、以来長らくこれの信頼性に強い疑問を持ち続けたものである。というのは、夜間睡眠中はどうしたのだろうかという疑問が払拭出来なかったからである。夜間の地震が欠如しているのであれば、このデータは全く無意味なものである。
私の不審を読み取ってか、彼は「寝ていても、グラッと来れば無意識にも枕元の小皿に豆は移せるものよ、ホッ、ホッ、ホッ」と笑いながらいとも簡単に言ってのけた。これは不審を増幅こそすれ、にわかには信じ難い思いであった。
ところがである。昭和52年(1977) 8月から5カ年におよぶ有珠山の活動を、私自身その山麓(私の家はこの山の裾にあたる壮瞥温泉にある) で肌で体験して、三松正夫のいっていたことが、その気になれば案外容易に可能な事がわかった。
直下型の地震はじつに異様で不愉快なものだ。昼間忙しく立ち働いている時はまだしも、夜ベッドに横になっている時は嫌である。それが微小な地震であれば、底知れぬ地底から何か囁きかけるような異音を眠りの中に感じ、強い地震ではそれこそ「ドツキ上げられた」ようなもので、瞬間身体が浮いたように感じて、これにやられると余程鈍感な者でもまずはっきりと覚醒する筈だ。
時の経過とともに地震慣れして次第に熟睡するようになったかというと、これが全く逆で、むしろ地震に敏感になり、寝ている自分が地震を意識しているという自分を感じているという不可思議な状態になった。――
――不完全さという意味では、最初の噴火をする直前の6月21日、22日の日記には地震2回と記録され、本文中には「活動の中心となっているフカバ部落の水上博士設置の地震計は230回、250回を記録している」と記述しているがごとく大変な差異である。であれば三松正夫の地震回数記録が全く無意味なものであったかというとそうとも言えない。確かに1日単位で見れば不正確さの誹りは免れないが、同じ誤差係数と仮定して全体の流れを見た時、完全な観測資料に比べれば信頼レベルが低いというものの、地震の消長経過は1つの傾向を我々に示したのであった。
後に、三松正夫は彼の得た諸資料の中から、諸現象の相関関係を1表に纏め上げたのであるが、それにより地震と主要現象、例えば大地の隆起、大噴火、溶岩塔推上に先行して必ず地震が激増していることが読み取れたのである。――
のちに田中館さんの尽力によって「ミマツダイヤグラム」なる昭和新山生成の一覧図が国際火山学会で絶賛されるのですが、その定点観測法こそ三松さんの真骨頂というべきでしょう。『火山一代』はこう続けます。
――彼はない物ねだりのトランジット代用の手法から脱して、風景の消去法を採用する事に思い至ったのである。幸いにも、ここから変動地域を望むとその遥か前方に「建部観音堂」とカラ松防風林、右手には「ドンコロ山」そして背景として大有珠溶岩円頂丘と外輪山、そこから伸びる東南支稜があった。この前景と背景の間に新山が出来て行けば、今見る景色の一部が隠されて行くであろうから隠される物を事前に調べ、書き残しておけば良いと考えたのである。
まず、何時そこに立っても視点を一定にする事の出来る装置を作った。装置と言っては大袈裟に過ぎるが、局舎裏の角柱に30cm角の厚い板を水平に固定した。その前方の柱と物置の間に、前景の対象物となる建部観音堂の屋根のヒサシの横の線と一致するように、風雪に耐えて伸び縮みの少ない魚釣用のテグス糸をピーンと注意深く張り渡した。次に自分は顎を板に載せ、頬を局舎の角柱に押しつけるように固定して、妻や孫娘を使って、先ほど張ったテグス糸のさらに前方に、自分の視点から見て完全に1本の糸に見えるような位置にもう1本のテグス糸を固定させた。そのほか観測の比較対照に便利なように幾本かのテグス糸を水平に張っておいた。
次に、彼はこの装置を使って目標地一帯の不動と思われる地上物を丹念に、詳細に写し取った。これを原図として、謄写版印刷をしておいた。このほか目標となり易い場所7点を当面の観測点と定め、望遠鏡を使って目標点周辺を細密にスケッチした。立木の枝振りから、岩石の位置関係まで。
定点観測点からも隆起が分かるようになった5月1日をスタートに、新山の成長が停止する翌年9月20日まで可能な限りここに立ち、大地の変化を追い求めた。――
こうして後に昭和新山と名付けられる有珠山の寄生火山は明治43年(1910) に地震学者大森房吉さんが予想したとおりの場所に姿を現わしたのです。のちに横綱北の海が生まれるはずだった小畑さん宅をはじめとして、8戸合計100町歩ほどの農地がそのまま持ち上げられ、ついには7つの火口から火が吹いたのです。そして4カ月の噴火活動の後、溶岩塔がそびえ立ってきたのです。
昭和20年9月20日に火山活動が終焉したと判断した三松正夫さんは、翌年3月までに元の麦畑の持ち主たちから土地(火山) を買い取ってしまうのです。父親から残された田畑・山林のすべてを手放して昭和新山の主要部分18万坪(約60町歩) を手に入れたのです。
師と仰ぐ田中館先生が当時GHQの仕事をしていたことから、
――あくまで筆者の勘繰りであるが、占領軍の戦後処理の1つとして不在地主、不耕作地主から土地を収用して小作人に解放するという施策があった。三松正夫が早くにこの動きを察知し、そういう事であれば、いっそう人類の宝であるこの山の保護に賭けようと決断したという事もなきにしもあらずである。今となっては、その真相は本人の書き記した事によるより仕方がない。――
というむすめむこの「勘繰り」が当たっているように思われます。
続いて三松さんはこれを天然記念物に申請します。田中館先生の奔走もあって、昭和25年(1950) に次のような決定がなされます。
――昭和25年4月2日天然記念物仮指定(北海道教育委員会 社第94号)
指定理由(1) 指定基準 天然記念物(史跡名勝天然記念物保存法第1条第2項に基づくもの)
(2) 説明 昭和18年から20年にかけて噴火活動を繰り返し溶岩円頂丘を形作り世界的に稀な火山であり、その保護およびその活動経過記録は「ミマツダイヤグラム」として世界的に認められ、昭和新山は生きた火山資料として貴重である――
三松さんは1個の火山の所有者となり、個人所有の天然記念物が誕生するのですが、昭和新山周辺に出現した観光施設は三松さんとは関係がないために経済的な面ではほとんど恩恵がないうえに、天然記念物であるばかりに観光客による破壊をふせぐための柵の設置も長い間認められないなど腹の立つことが多かったようです。
――彼は山を保護するという日常的な重荷に疲れ果て、晩年は観光ブームのなかで心ない人々に荒らされる山を見たくない、行けば不愉快な思いをするだけだと、昭和新山へ行くことを厭うようになった――
『火山一代』にはこう書かれています。
伊藤幸司(ジャーナリスト)
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