毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・18・中部山岳国立公園」
1994.8――入稿原稿


■国立公園物語…中部山岳

●上高地の2つの拠点

 北アルプスの山小屋を一覧できるガイドブックが2冊あります。金子博文さんの『北アルプス山小屋案内』(1987年、山と溪谷社) は100軒ほどをカラー写真とともに紹介しているいわゆるガイド。それにたいして柳原修一さんの『北アルプス山小屋物語』(1990年、東京新聞出版局) は70軒に満たない数ですが、それぞれの生い立ちをたどります。
 ここではそのほかに山小屋のオヤジさんが書いた本を何冊か紹介します。
 さて、柳原さんの『北アルプス山小屋物語』の目次を見ると、複数の山小屋名をまとめて1項目としているものが各地にあります。合計42軒ですからグループ化された山小屋が半数以上もあるというふうに思えます。もっともすべての山小屋を紹介しているわけではないので、歴史的に見て重要な山小屋にそういうものが多いということかもしれません。しかしそれらの群れぐあいは巨大な資本が北アルプス全体を支配していく……という感じでもないのです。
 そこでこまかく読んでいくと、山小屋の建設が(登山者の勝手な出現による) 避難小屋の必要性を発端とし、1人の意志がその存続や拡大に大きな力となるということ、山小屋が1つあることで山が登山者に開かれるということ、さらに本格的な大衆化のためには山小屋を連ねて登山者の動線を支えるように展開すべきことなど、山と山小屋の基本的な関係がよくわかります。
 山小屋が国有林の借地によって建設されるため、許可を得るのにむずかしいことが多いかと思うと、権利を簡単に譲渡できたり、世襲が簡単に行われたり、いろいろな例が登場します。
 まずは北アルプスの北部から山小屋を拾い見ていきたいと思います。
 北アルプスは乗鞍岳が南のはしにあり、そこから北に穂高連峰が連なり、槍ヶ岳に至ります。この「槍穂」の岩峰群の手前側に位置する活火山・焼岳の中山峠は古くからの、北アルプス越えの街道でした。信州側の松本からだと梓*アズサ川をさかのぼって島々*シマジマから支流・島々谷川に入り、その源流で徳本*トクゴウ峠を越えると上高地。そこから焼岳の中尾峠を越えて飛騨側の蒲田*ガマタ川の流域に下り、蒲田温泉から神通川を下って日本海に出るものでした。
 現在の安曇村(長野県) は乗鞍岳〜焼岳〜穂高連峰〜槍ヶ岳と南北に連なる稜線から東側斜面をその村域としています。そして村境の東端は槍穂の山並みに平行してやはり南北に伸びる常念山脈(大滝山〜蝶ヶ岳〜常念岳〜大天井岳) の稜線ですから、これら2つの山脈の間をまるごと村域にしているのです。そこは梓川の源流であり、山あいの静かな盆地でした。地元ではそこを神河内とも呼んでいたようですが、現在の上高地です。
 このように北アルプスの核心部はまるごとそっくり安曇村に属するため、このあたりに多い姓の「上條*カミジョウさん」の山小屋がいくつもあるのは当然のことです。その中には現在4代目という老舗が2軒あります、それがどちらも歴史的な産物なのです。
 1つは穂高の主・上條嘉門次*カモンジさんの狩猟小屋にはじまる嘉門次小屋、もう1つは地域開発事業としての上高地牧場にはじまる徳沢園です。
 アルプスの主・嘉門次については金子博文さんの『北アルプス山小屋案内』を読んでおきます。嘉門次というと「名猟師」というのがイメージですが、この山岳地帯の林業事業に深くかかわってきたという点に注目しておいていただきたい。ただの猟師なら、好んで山のてっぺんまでいく必要はなかったはずです。
 ――嘉門次は、稲核*イナコキ村明ガ(ヶ) 平(現安曇村) に住む有馬又七の次男として生まれた。生年は弘化4年(1847) といわれる。14歳のとき、杣*ソマ植見習として上高地に入る。当時の上高地は松本藩の藩有林。御用杣*ゴヨウソマが伐採に従事し、その杣小屋が上高地には12カ所あった。嘉門次の最初の仕事はカシキ(飯炊き)。先輩たちの食事の世話をしながら、知識や技術を習得し、一人前の杣職人として成長していったのだろう。
 明治2年(1869)、嘉門次は23歳で島々の上條孫次朗の娘茂と結婚し、婿養子となる。翌3年には長男嘉代吉をもうけている。明治になってから上高地の藩有林は国有林となり、伐採禁止となったが、嘉門次は農商務省山林局の山林取締の手伝いをしながらカモシカ猟やイワナ釣りに明け暮れるようになっていた。嘉門次が明神池畔に小屋を建てたのは明治13年(1880)。間口9尺、奥行2間の堀立小屋だった。それからは、たまに家に帰ることもあったが、1年のほとんどを小屋で暮らし、猟師として生きるようになった。
 明治24年(1891)、ウェストンとの運命的な出会いを迎える。嘉門次45歳、ウェストンは31歳だった。この年の8月、槍ガ(ヶ) 岳登山のため徳本峠を越えて上高地に入ったウェストンは、偶然、嘉門次と出会ったのである。そのときの様子をこう書いている。
「この人里離れた溪谷で見かけた人間と言えば、年とった猟師ただ1人だけだ。彼はこの付近の渓谷で、岩魚を釣っていたのだった。ぼくたちは、この猟師から魚を12匹わけてもらった」(『日本アルプスの登山と探検』黒岩健訳)
 2年後の明治26年(1893)、嘉門次はウェストンの穂高岳登山を案内する。これ以後、彼は岳人たちと接するようになり、大正6年(1917) に亡くなるまで名猟師、名ガイドとして活躍した。――
 いま、嘉門次のひ孫にあたる4代目・上條輝夫さんの嘉門次小屋売店で秀逸なのはイワナの塩焼き。頭からかぶりついてみるとだれにでも、そのちがいがわかります。
 もう1つの上條4代目は徳沢園です。こちらは柳原修一さんの『北アルプス山小屋物語』で読んでみます。
 ――明治維新によって、藩有だった山林は国へ移管された。このことは御用杣の杣仕事に大きく依存していた地元村に、大きな生活の変革をもたらした。藩事業にかわる国有林の払い下げは、仕事量もわずかで不定期であり、村民は自らの活路を開くべく模索していた。ちょうどそんな頃、国の殖産事業の大号令を受けた長野県は山村振興策として馬の育産を奨励した。新たな活路を開かれた村民たちはこれになびき、母屋に厩を増築するなど、次第に飼育頭数は増加していった。また、養蚕をあわせて取り入れ、蚕室を造る家も少なくなかった。
 しかし、増えつづける牛馬に比較し、菜草地や放牧地の面積は限られたものだった。山国ゆえの悲しさ、行きづまった村人は、放牧地を徳本峠を越えた上高地に求めることになる。明治17年(1884) 4月、上條百次良*モモジロウ氏らにより、牧場拝借願が請願され、同年12月に開設許可がおりた。実際に放牧が開始されたのは翌18年からである。
 当初は主として馬を放牧するために開設された牧場も、のちに牛が主力になってゆく。明治37年(1904) には牛40頭、馬20頭で、その後も牛の数が増えつづけていったという。牧場の番人小屋は開設当初、現在の温泉ホテルの下流、庄吉小屋付近にあった。これはのちに明神池の入り口付近に移されて「徳吾の小屋」と呼ばれた。徳本峠*トクゴウトウゲの名の語源となる小屋である。さらに明神、古池付近へ移ってからは水害で流され、最後に今の徳沢の地に建てられた。
 これらの移転は、登山者の増加によって彼らに牛馬が危害を加えるなどの事故が増えたためで、牧場区域は奥地へと追われていった。しかし入牧頭数は年々増えつづけ、大正末期には、400頭を数えるほどになった。うち、7〜8割は牛であったという。
 明治39年(1906)、牧場は資本金1万円の株式会社となり、発起人筆頭の上條百次良が社長となった。牧場業務は手広く、松本平からも入牧する牛馬を集めて、毎年5月半ば頃に岩魚留*イワナドメあたりまで追いあげておく。そこからさらに徳本峠を越え、徳沢へ入牧させたのである。――
 ところが、牧場経営は外圧によってむずかしくなってきます。
 ――大正末期になると、殖産興業策を奨励してきた役所は牧場経営に冷淡になってくる。これは牧場より登山者の便宜を考えるようになったためで、山道の改修、新設などにつれ、登山者向けの施設の必要性を考えはじめたからであった。百次良氏は牧場閉鎖を前に亡くなり、徳沢の全権は(長男の) 喜藤次氏に委ねられる。
 昭和4年(1929)、番小屋を新設・拡張して登山者の便宜をはかる休憩所を併設し、牛馬の世話をつづけてきたが、昭和9年(1934)、ついに牧場としての50年の歴史は徳沢の地を最後に閉じることになった。徳沢園は番小屋の休憩所を母体として、新しい徳沢の時代をスタートした。折しも近代アルピニズムの風潮が高まり、槍・穂高岳登山が隆盛期を迎えようとしていた。――

●穂高の避難小屋

 穂高連峰をはさんで西の飛騨側には蒲田*ガマタ川があります。この流域に住む人々も山の民で、信州側の人々とも深い交流がありました。
 ここには、登山ガイドとして山小屋建設をこころざした好例があります。北アルプスの最高峰・奥穂高岳*オクホタカダケ(3190m) の頂上直下に穂高岳*ホダカダケ山荘を建てた今田重太郎さんです。
 今田さんは『穂高*ホダカ小屋物語』という本を昭和46年(1971) に読売新聞社から出し、2年後の1973年に、それを「増補訂正」して『穂高*ホダカに生きる・50年の回想記』としています。なお、ふりがなをつけたのでお気づきかと思いますが、山名は「ほたか」が正式とされているのに対して、今田さんはそれを「ほだか」と呼び、山荘名も「ほだか」です。
 この今田重太郎さんは明治31年(1898) の生まれ、大正のはじめに山岳ガイドとなり、大正の末に穂高小屋を建設します。『穂高に生きる』にはこう書いてあります。
 ――槍、穂高を1日で縦走するには、よほど熟練した健脚家でなければできないことで、手と足を使っての登攀で手袋など1日でだめになってしまったものである。そのころは槍から北穂へかかり、北穂と唐沢(涸沢) 岳の鞍部からいったん涸沢側に下り、岩小屋に1泊して、翌日は今の穂高岳山荘のある鞍部「白出のコル」へ登り、奥穂から吊尾根を経て前穂に出、一枚岩の険を越して上高地に下ったものである。
 そのころわたしは、殺生小屋の中村喜代三郎さんに頼まれて専属のガイドをやっていた。大正12年(1923) の夏のことだった。穂高縦走のお客様を案内して、槍から北穂に向かったが、途中大変な雷雲に見舞われ、進むことも退くこともできない釘づけの状態になったことがある。何とか涸沢の岩小屋に避難しようと心はあせるが、お客様は寒気と疲労に弱り切っている。わたしも大きな荷物を背負っているのだからつらい。北穂の壁や唐沢(涸沢) 岳の鞍部から、垂直に近い眼下の涸沢まで3人の疲れたお客様を誘導しておりることは、並みたいていの苦労ではなかった。かといってじっとしていたのでは遭難することは必定である。そのうち、わたしのからだまでこわばってくるのが感じられるようになってきた。もうぐずぐずしていられず、手を取って引きずるようにして、ほうほうの態で岩小屋にたどり着いたことだった。
 この時ぐらい、強く避難小屋の必要を感じたことはなかった。幸いお客様も、1夜の休養で元気を取り戻してことなきを得た。無事、縦走を終えて殺生小屋に帰ると、さっそく主人の中村さんに小屋建設の相談をし、快諾を得たので、それから何回か現地調査をした結果、今の場所「白出のコル」に白羽の矢を立てたわけである。
 大正13年(1924) に長野県側に石室を造り、まず穂高の1点に腰をおろした。翌14年には岐阜県側にささやかな穂高小屋を完成し、第2年目を迎えた。その翌15年(1926) の3月になって、ようやく長野県側の建築許可が松本営林署から届いたのであるが、ここで困ったことができた。長野県側に建てる建物については、それに要する用材は長野県側で払い下げねばならないということであった。やむを得ず今度は、松本営林署に払い下げの手続きを取った。しかしこれまた、なかなか調査官にきてもらえず、だんだん時期がはずれそうで困ってしまった。8月下旬となり、たまたま当の松本営林所長が登山してきた。これ幸いといろいろ事情を訴えたところ、まことにキサクな方で「それはわしの担当だ」と大変なご理解をいただき、「わしが調査しましょう」ということでさっそく、涸沢屏風岩の向かい合いの森林へお友して、一気に払い下げを受けることができたのである。地獄に仏とはこのこと、まことにありがたくこのご恩は終生忘れられません。
 それからは仕事もどんどんはかどり、大正15年(1926) のシーズンには間口2間(3.6m) 奥行3間(5.5m) 中段付きの建物ができ上がった。この建物は思い出の深い建物で、その翌年、秩父宮様のご宿泊所となり、その後、夏期は登山者の宿泊所として、冬は冬期小屋として多くの若者の避難に役立ったのである。――
 この穂高岳山荘は2代目の英雄さんによって、いまやミニテレビ局なみの先端技術をそなえていることでプロ筋には知られています。私はこの小屋の「電化思想」を取材したことがあります。東京電力営業開発部のPR誌「WAT」(第7号、1991年) の「3,000mの電化生活…北アルプス・穂高岳山荘の密かな実験」という記事から、そのサワリを紹介します。
 ――強い風が吹き抜ける狭い稜線にへばりつくように建つこの山小屋は、昭和40年代から2代目の今田英雄さんの経営である。ここでは技術開発によって山小屋を変えていこうとする姿勢が強い。
 その中心をなすのが独特の電力供給システムである。その要点だけを最初にまとめてしまうと次のようになる。
1…交流の100Vは必要なときにディーゼル発動発電機をまわして集中的に使う。
2…24時間の電力供給を12V直流でおこない、発電は太陽光と風力。バッテリーに蓄えて使う。
3…直流で使用する機器には24V専用のものもあるので、24V系統の配電も重ねておく。
4…直流電源から必要最小限の100V交流も取り出せるようにし、100V交流発電からバッテリー充電もできるようにしてある。
 まずディーゼル発動発電機だが、ここでは単相交流の100V/60Hzのものを3台入れた、という。もちろん山小屋がふつうに使っているのは3相交流発電機のほうで、これだと価格がずっと安い。
「ところが3相交流で60Hzを出そうとすると、127Vまで上がってしまう。100Vにすると40Hzまで下がってしまう」
 そういうところが今田さんの気に入らないのだ。山小屋で必要な電化製品は家庭用で十分であり、それをだれもが簡単・確実に使えるようにしておきたいのだ。
 発電機は合計で30kWを発生するが、全館を3ブロックに分けた回路に3台をそれぞれつないである。もちろん1台で3カ所に送電することもできれば3台で1カ所にも送れるという完全な多重システムである。発電機をムダ回ししないことと、山小屋という辺境ゆえに、必要なときには、いつでもかならず発電機を回せるフェイルセーフを考えてある。
 100V交流の発電機は、1日4時間の定時運転で冷凍庫を回す。大型冷凍庫をマイナス20度Cに保つために、小型冷凍庫に小出しにするときだけしか扉を開けない。
 掃除機は1kWのものを4、5台同時に使うが、朝のうち掃除のためだけに発電機を回す。夜には調理場で1.2kWの皿洗い機が回る。
 100V交流の大きな需要のひとつである照明も全館で3kW程度だから、10kWのディーゼル発電機が高所ゆえに7割までパワーダウンしていたとしても、1台ですべてをまかなえる。必要なら2台目を動かすが、それでもピークは10kWぐらいだという。
 じつは乾燥室でヒーターを焚くのをやめて水冷式のディーゼル発動発電機の余熱空気を取り入れるようにしたところ、温度が45度C、湿度が25%という絶好の環境が得られるようになった。ヒーターでは温度は上がるが湿度も上がって効率が悪かったのだ。
 沸点が92度Cあたりまで下がるためかオーバーヒートしやすかったディーゼル発電機の調子もすこぶるよくなった。乾燥室用の燃料を発電機にまわすと、電気がオマケでついてきた。瓢箪から駒のコージェネレーション(熱電併給システム) となったのだ。――
 これが電気の配給システムです。問題になるのが、24時間の電化を求めるか否かということです。
 ――北アルプスでは白馬山荘、常念小屋、横尾山荘などが24時間発電をおこなっているが、山小屋では一般に、夕方の5時ごろから消灯時の9時まで発電機を回す。穂高岳山荘でも昭和39年(1964) 以来、ずっとそのような方式をとってきた。
 ところがどうしても電気がほしかったのは常夜灯である。木造の山小屋で一番こわい火事を防ぐには、照明に火を使わないことであった。「裸火厳禁」を徹底するために、どうしても電気がほしかった。それと今田さんの趣味の音楽。山小屋にいるときにステレオを聞けるようにしたかった。
 炊事用の灯油ボイラーも、わずかな電気があるだけで24時間使えるようになる。
 そこでアメリカから手頃な風車型発電機を買ってみたら、石油ショック。標高3,000mでの風力発電は、たちまち新聞の記事になる。
「失敗できなくなって、すぐにスペアとしてもう1セット買いましたよ」
 ところが風車は春と秋にはよく回るが、客の多い夏のシーズンには元気がない。そこで自作の水力発電機を飛騨側の沢につけてみた。水力発電は24時間連続運転してくれるのでエネルギーの質はいい。
 しかし水力の超ミニ発電は、実用にはまだちょっと早かった。本命となったのは、ちょうど量産が可能になってきた太陽光発電であった。
 昭和60年に1枚25万円のパネルを4枚買って、風力の補助としたのだった。いまではそのパネルが屋根の上に32枚並ぶが、価格は1枚5万円を割るまでになっている。
 太陽光発電が合計1.32kW。薄日で半分、雨で1割まで発電量は落ちる。風車発電はいまでは補助にまわったが、スイス製が24Vで1.5kW、国産の2台が12Vでそれぞれ600Wを発電する。
 風車発電機で今田さんが学んだことは、平地で最大効率を上げるように作られたものがあっけなく壊れてしまうことであった。プロペラを小さくして、利用する風を固定、余分な機能はすべて捨ててシンプルに、かつ頑丈にして、ようやっと仕事のできるキカイになった。
 風まかせ、お日様まかせの電気は、けっきょく、余るときは余るし、足りないときは足りない。作った電気をどう使うかは、それとは別の問題だ、ということにも気づいたのだ。
 電気をいったんストックするために自動車用のN200という鉛蓄電池を30個用意した。電気をいったん貯め込んでしまえば、作れる電気の量に変動があっても、補い方はいろいろある。
 それと、貯めた電気をどう使うかにも、選択肢が多くなる。10時間かけて作った電気を24時間途切れないように使うことも、1時間で使い切ってしまうこともできるのである。
 バッテリーからの直流電流は12ボルトを基本にして、まず、半分の部屋の照明をまかなえるようにしてある。これで客の少ない日にはディーゼル発動発電機をムダ回ししなくてもすむ。厨房などの裏方用も、必要なところには12ボルト照明を備えてある。これで授業員の活動が24時間可能になる。トイレをはじめとする常夜灯も12ボルトで供給する。
 直流に24ボルト系統もあるのは、24ボルトでしか使えない電話や気象ファクスがあったためだが、トラック、バス、船舶用の照明機器なども使いやすいため、部屋の照明用にも使っている。
 山小屋のトイレといえば、臭い、汚い、暗くて怖いというのが相場だが、トイレ専用に太陽光発電パネル2枚とバッテリーを用意して換気扇を24時間回している。それだけでも、トイレの快適さは見違えるようになった。
 さらに諸悪の根源となっていた溜まった中身は、晴れた日に戸外に放出して乾燥させ、焼却炉に放り込む。
 焼却炉には蒸気発生器がついており、従業員風呂の天水利用の温水タンクを自動加熱する。じつはこの小屋ではゴミと名のつくもののすべてが従業員のためのお湯沸かしに使われるが、これなどは心理学的なハイテクといっていい。
 来訪者は気づかないが、カード公衆電話が24時間使えるのも、ここならではのことである。もちろん電話は無線。バッテリーで動くのだが、カードを使うには100V交流をつながなくてはならない。だからバッテリーからインバーターを通して供給しているのである。
 この無線カード公衆電話に加えて、山荘の業務用として携帯電話(ファクシミリを接続)、業務無線、遭難対策無線、アマチュア無線、周辺で使用する特定小電力トランシーバー、さらにテレビ放送用パラボナアンテナまでがそろっている。情報化はここでは突出したものになってきている。
 テレビ用送信設備によって、NHKと名古屋テレビに山荘周辺からの生の映像を直接送ることができるのである。加えて山荘にはプロ用のビデオ機材が用意されていて、テレビの取材班が手ブラできても仕事ができるほどなのだ。
 穂高岳山荘はいまや“穂高スタジオ”というべきものになっており、1991年には全国ネットのニュース枠に、穂高からのフレッシュな映像をたくさん送り出したいという野心を燃やしている。
 小さな電気を自分の手で起こしてみることと、全国の茶の間に届く穂高の映像を作ることは、今田さんにとってはひとつながりのことにすぎない。――

●槍ヶ岳山小屋建設競争

 今田重太郎さんが山岳ガイドの見習になったころ、槍ヶ岳登山をした松本市六九*ロック町の若者が山小屋建設の認可をとり、町内に有志を募って「アルプス旅館」なる山小屋を建設します。1口100円で合計2,000円の資金で建ったのは12坪の小屋で、開業初年度の大正7年(1918) には200人の宿泊客を迎えたといいます。その若者・穂苅三寿雄さんは、のちに槍沢小屋となり、槍沢ロッジとなるこの山小屋を経営することによって槍ヶ岳登山ブームに火をつけたのです。
 この「アルプス旅館」への荷揚げは従来の徳本峠〜上高地〜槍沢ではなく、松本からほぼ直線上に位置する常念乗越*ジョウネンノッコシに荷継ぎ小屋を置いて、新しいルートを開いたのです。アルプス旅館出資者の1人で、そのルート開拓の中心になった山田利一さんがのちにこの常念小屋を経営することになりますが、それは松本盆地から見るともっとも美しくそびえ立つ常念岳への学校登山運動の一翼をになうものにもなったのです。
 もっとも、穂苅三寿雄さんはつぎに燕岳の「燕小屋*ツバメノコヤ」(現在の燕山荘*ツバクロサンソウ) の赤沼千尋*アカヌマチヒロさんと手をつなぎます。共同で大正10年(1935) 「大槍小屋」を建設するのです。
 これは槍ヶ岳の山頂に近く、上高地から槍沢を経てくる従来のコースと、燕岳からの稜線コースの両方に対応できる位置でした。ただし当初は雪崩になやまされます。
 その燕岳からの稜線コースが槍ヶ岳登山の新新ルートというべきものになります。常念山麓の名猟師・小林喜作*キサクさんが喜作新道を開くのです。いまでは「アルプス銀座」の名でも知られる、燕岳〜大天井岳〜西岳〜槍ヶ岳とたどる稜線の道です。喜作さんは大正11年(1935) には槍沢の上部に殺生小屋*セッショウゴヤ(現在の槍ヶ岳殺生ヒュッテ) をオープンします。
 大槍小屋を建てたものの、最終的に穂苅三寿雄さんは上に出現した殺生ヒュッテのさらに上、頂上直下に「槍ヶ岳肩の小屋」を建設します。昭和元年(1926) のことです。これが現在の槍岳山荘で、収容人員650人という大型山小屋に成長していくのです。そして「大槍小屋」の方は赤沼家の燕山荘の経営で存続して、現在はヒュッテ大槍となっています。穂苅家も赤沼家も槍ヶ岳直下に駒を進めたというわけです。
 殺生小屋を建設して大成功を収めた小林喜作さんと息子の一男さんは開業したシーズンが終わって冬の猟期に、黒部で狩猟小屋もろとも雪崩に埋められてしまいます。2人の突然の死は状況を大きくかえたのでしょうか。
 殺生小屋については『北アルプス山小屋案内』にはこう書いてあります。
 ――喜作は、当時、槍ガ(ヶ) 岳登山ルートとしては画期的な喜作新道に山小屋を建設し、登山客を一挙に呼び込もうと考えた。こうして建てられたのが殺生小屋(現槍ヶ岳殺生ヒュッテ)。もともと喜作がカモシカやクマを撃つための猟小屋だったものに手を加えた小屋なので、地元の村で猟のことを意味する「殺生」をとって殺生小屋と呼ばれた。
 喜作が黒部の棒小屋沢でなぞに満ちた雪崩事故で亡くなったあと、小屋は他人の手に渡り、やがて中房温泉を経営する百瀬猪松氏の所有となり、――
『北アルプス山小屋物語』では状況がちがってきます。
 ――殺生小屋建設には中房温泉が出資し、建設後の管理、運営は喜作にまかせられていた。建設費は当時の金額でおよそ2,000円ほどであったとは、現・中房温泉経営者、百瀬孝さんの言葉である。――
 いずれにしても小林喜作さんの読みどおりに槍ヶ岳登山者は増加の一途をたどり、大正12年にはひと山手前の西岳直下に荷継ぎ小屋も兼ねた西岳小屋(現在のヒュッテ西岳) と合わせ、中房温泉の百瀬家によって喜作新道は現在に残されているのです。
 槍ヶ岳登山ブームの仕掛け人となった穂苅三寿雄さんは松本市内で写真館も経営していましたが、ライフワークとして江戸時代の文政9年(1826) に槍ヶ岳を開山した播隆上人の研究を続け、2代目の長男・貞雄さんと父子共著で『槍ヶ岳開山 播隆』(1982年、大修館書店。ただし1963年の私家版の改題新版) を刊行しています。貞雄さんは写真館は継がなかったものの、『私の槍が岳』(1985年、朝日新聞社) などの写真集もあります。慶応大学卒のインテリ派小屋主といえるでしょう。
 大槍小屋建設で穂苅さんと組んだのは、現在は穂高町となっている旧有明村の赤沼千尋さんですが、赤沼さんは自著『山の天辺』(1975年、東峰書房) で書いています。
 ――私が燕岳に小屋を作ったとき、周りの者は皆、赤沼のバカ息子が燕に山小屋を作った。あんなもの何になるなどといっていた。でも当時は登山ブームにさしかかったころで、私はこれから槍、穂高連峰の登山にとって山小屋は絶対になくてはならないものだと思っていたし、それなりの成算ももっていた。――
 ――山小屋第1号は、松本市に住んでいた、今は亡き穂苅三寿雄さんを中心とした松本市六九青年会員たちが大正6年(1917) に作った槍沢小屋である。北アで最初に作られたこの山小屋は、大正の終りに対岸からの雪崩でつぶされ、その後火事で焼けて、今では石ガキが積まれ、槍沢のU字谷の中に埋もれている。
 この後、常念岳北側の鞍部に常念小屋ができ、それに続いて大正10年(1921)、燕岳南側の稜線上に燕の小屋を作った。燕の小屋は24坪の広さで50人くらい泊まれるはずだったが、満員になったことなど1度もなかった。小屋は雨水を取りやすいように屋根をトタン張りにしたが、当時としてはハイカラなものだった。――

●立山連峰と後立山連峰

 赤沼千尋さんは明治29年(1896) の生まれですから、山小屋を建てたのは26歳だったはずです。そのころ大町(大町市)には旅館・對山館*タイザンカンの主人で30歳の百瀬慎太郎さんがいました。明治42年に18歳で日本山岳会会員となるほど登山にのめりこんでいたこの百瀬さんは26歳のときに大町に我が国最初の登山案内人組合を創設、組合長となっています。若山牧水の門下の歌人でもあった百瀬さんが赤沼さんとは親友でした。赤沼さんは『山の天辺』でつぎのように書いています。
 ――山を想えば人恋し/人を想えば山恋し
 大町・対山館主人、今は亡き百瀬慎太郎君の言った有名な文句である。
 ほんとうに山の好きな男であった。日本で初めての雪山映画「雪の針の木越え」撮影は、山キチで名古屋有数の資産をつぶした伊藤君が主唱したものであり、あの映画の出来たのは、もちろん伊藤君の打ち込み方の激しさと周到な用意、それに出し惜しみしない金力が要因ではあるけれども、百瀬君がいなかったら或いは完成しなかったかも知れない。――
 ――私は大正10年(1921)、燕岳に小さな山荘を建てることにしたが、当時の山岳会からは異端視された。私はこのため、ついに日本山岳会を脱会したのである。親友の百瀬でさえも、山荘を建てることは山を冒涜するものであるとして、暗に非難していた当時である。その百瀬を私が再三誘惑したので、ついに大正14年(1926) あの気の強い百瀬も針の木に大沢小屋を建てることになったという次第である。――
 たしかに、百瀬慎太郎さんは大正14年(1939) に大沢小屋、昭和5年(1930) には針ノ木小屋を建設、それらは百瀬家によって現在も存続しています。しかし百瀬慎太郎という人物が針ノ木峠にこだわったのは、それが北アルプスの特別な地点であったからです。
 じつは名古屋の資産家伊藤孝一さんが資金を惜しみなく注ぎこんで実現したという「雪の針の木峠越え」は大正12年(1923) のことです。その年、日本山岳会の槇有恒、三田幸夫、板倉勝宣という最強コンビが1月に富山側からアタックし、板倉勝宣が遭難死するという敗退、2月には大町側からの伊藤・百瀬・赤沼3人組のアタックも失敗したという状況なのです。けっきょく伊藤隊はただちに富山側へまわって、3月中に立山〜松尾峠〜室堂〜平〜針ノ木峠〜大沢小屋〜大町と冬の針ノ木峠越えを成功させたのでした。
 針ノ木峠は立山と大町とを結ぶ古くからの街道で、立山連峰を越して黒部の峡谷を渡り、後立山連峰を越えて信濃側に下るのでした。その難路が江戸時代には牛馬も通れる道であったというあたり、南の徳本峠〜中尾峠の道と対照的です。このことを知ると、大町の百瀬慎太郎さんの奮闘の理由が理解できます。
 それでは日本山岳会の最強コンビたちの挑戦はどこにポイントがあったのでしょうか?
 もちろん天正12年(1584) の富山城主・佐々成正の雪の針ノ木峠越えを下敷きにした計画であることは明らかでしょう。それをスキー登山という最先端の登山技術を駆使してたどるというねらいです。それに対して伊藤・百瀬・赤沼隊は本格的な雪山登山映画の撮影という新しい企てをしています。
 これについては立山側の芦峅寺*アシクラジ(立山町) の登山ガイドから剣沢小屋の主となる佐伯文蔵さんの『剣岳の大将・文蔵《立山と剣に生きて60年》』(1974年、実業之日本社) でも触れられています。佐伯文蔵さんは大正3年(1914) 生まれですから自身の見聞ではありませんが。
 ――立山や剣の山々が、近代登山の対象として選ばれはじめたのは大正末期から昭和初期にかけてであって、わたしに微かな記憶のある事件といえば、板倉(勝宣) さん、槇(有恒) さん、三田(幸夫) さんパーティの松尾峠での遭難である。
 やはり、大正12年(1923) のあの遭難は、当時ではたいへんな大事件であった。ことにパーティが槇さんをはじめ一流のメンバーであったし、まだスキー登山が普及されなかった時代の、スキー登山による事故であったからである。当時は芦峅の村でも、スキーのできるガイドはひとりもいなかった。それに、私の知るかぎり最初の遭難であったし、またわが国の、雪山スキー登山の最初の悲劇だっただけに印象が強かったのかもしれない。
 すでにパーティのリーダーの槇さんは、ヨーロッパ・アルプスのアイガー東山稜の初登攀者として時代の寵児であったし、亡くなった板倉さんは北大の雪山のベテランであり、山岳スキーの名手として知られていた。また、もう1人の三田(幸夫) さんも春の剣の初登頂者のひとりとして有名だった。まずこれだけの豪華なパーティを、当時もう1組そろえることは不可能といってよい編成であった。――
 佐伯文蔵さんは、この直後に雪の針ノ木峠を越えたもう1つの隊のことには触れていません。燕山荘のオーナーや、大町登山案内人組合会長の百瀬さんが参加しているそのパーティもたくさんの芦峅ガイドを雇っていたというのにです。このことはまた、百瀬さんがあくまでも大町側からの再挑戦を主張したことと関係があるのではないかと思われます。
 佐伯さんは芦峅ガイドの勢力圏についてこんなふうに書いていいます。
 ――立山周辺の山小屋は、宗教登山が盛んだったために、ずいぶん昔からの歴史があるらしい。まず室堂だが、加賀藩でつくった小屋として最も古いものと思われる。これにつづいては中継小屋としての弘法小屋が古いことになろう。また立山温泉も古くからあった。
 このあと黒部川の平、五色、ブナ、追分、一ノ越、上ノ滝、馬場島などに山小屋ができたわけだが、これらの山小屋のほとんどは、大正末期の松尾峠の槇有恒、板倉勝宣、三田幸夫氏などのパーティの遭難以後に建てられたように記憶している。
 立山温泉は大山村の管理であった。ここで宇治長次郎などの山人が働いており、今日でこそあまり訪れる人もないが、昔は室堂とともに立山登山の根拠地となっていた。
 このほか、黒部川の平ノ小屋のあるところは、昔は「中ノ瀬平」と呼ばれており、黒部川を渡る拠点とされていた。
 かつて戦国時代に佐々成政もここから信州へ、雪の針ノ木峠を越えていったという。つまり平ノ小屋のある地点には越中と信州の近道が通っていたわけで、同時にまた、猟師や釣師、杣夫にとってその付近は獲物の宝庫とされていた。
 こうした理由から、越中と信州の山人は、いきおいこのあたりに蝟集*イシュウしており、もともとは越中領にもかかわらず、信州の大町付近の山人がこのあたりに多くの小屋をもっていた。
 ここに小屋をもつ、もっとも有名な山人に遠山品右衛門がいる。彼は上條嘉門次とともに早期の日本アルプス登山における代表的な山人といえる。品右衛門はガイドはしなかったが、山については詳しかった。わたしは会っていないが、伝説的な山人といえるだろう。
 越中と信州の国境は黒部川を越えた後立山となっているが、この山稜上の山小屋は信州人が管理しており、越中人の芦峅寺関係の山小屋は黒部川ぞいでは平ノ小屋が限界であり、さらに山域でいえば五色から薬師岳あたりまでであろう。そして、剣岳の東北にある池ノ平小屋を除いて剣、立山山域の山小屋のすべては芦峅の人びとによって所有され、管理されている。それだけに信州の山小屋とちがって山小屋についての結束はきわめてかたいものがある。――
 宗教登山の歴史をもつ立山から再び信州側にもどると、「バカ息子」の赤沼さんなどは、山小屋のオヤジというより山荘のオーナー、あるいはマスターという感じです。いま燕山荘の建物を見ると金をかけて本気でつくったという感じがします。本館食堂のあたりは昭和12年(1934) の再建部分ですが、このとき燕山荘は株式会社となり帝国ホテルの資本系列に入ります。のちに再び赤沼千尋さん個人の経営になりますが、そういう都会的な雰囲気をふんだんにふりまいているのです。
 そして、信州側のさらに北には、徹底してビジネスを追及した山小屋群があります。『北アルプス山小屋物語』の目次タイトルで「白馬山荘、白馬大池山荘、栂池ヒュッテ、白馬尻小屋、五竜山荘、キレット小屋、鑓温泉小屋――白馬連峰開拓に寄与した白馬館グループ」がそれです。場所は現在の白馬村。明治22年(1889) 生まれの松沢貞逸さんは15歳で父を失い、家業の旅館を継ぎながら白馬連峰の観光開発事業を独力で進めたのでした。『北アルプス山小屋物語』ではつぎのように紹介しています。
 ――父・直次郎亡き後の山木旅館(現白馬村) 経営に精根を傾けていた松沢貞逸氏が持ち前の事業家肌とその才覚を発揮、(白馬岳の) 頂上石室を買い取って改修し、事業を開始したのは明治38年(1905) のことだった。(陸地測量部の三角点測量作業のために建設されたまま残されていた) 石室は、立てば頭がつかえ、炊事は外で行ったというほど狭い小屋であったが、野営とは比べものにならない居心地なので、その評価は高く、多くの岳人たちに利用された。まさに将来を見越した山小屋建設であり、当を得た発想であったといえよう。
 彼は山小屋開設と山木旅館経営の他にも幅広い分野で活躍し、そのアイディアマンぶりを発揮した。家の横を流れる木流し川の水を利用した精米業、さらにその精米の水力を使って自家発電し「山木の逆さランプ」といわれた電灯をともしたりもした。乗合馬車業や外車フォードを購入しての乗合自動車業、素麺業など、貞逸氏独特の発想と事業展開には村人たちもただただ目をみはるばかりであった。明治40年(1907)、従来の石室に小屋を併設して収容能力の向上が計られた。実質的な白馬山荘の創業年度はこの年であるが、「白馬山荘」という正式名称を名乗るのはもうすこし後のことだ。
 四ツ谷口の山木旅館から白馬岳頂上の小屋という登山コースが確立されると、山木旅館は登山者たちが案内人や歩荷*ボッカ人夫を雇う登山基地として重きをなすようになる。明治44年(1911) の記録によれば、前記コースからの登山者は154人だったという。――
 たしかに松沢貞逸さんに始まる白馬館グループという地元リゾート資本は公共性の高い山小屋経営を基本としていますが、山麓のスキー場開発という大事業も見逃すことができません。『北アルプス山小屋物語』はさらに続けます。
 ――松沢貞逸氏の白馬岳開発のビジョンはたんに山小屋経営と家業拡大だけではなかった。彼の目はもっと広く、未来をみつめていた。明治末に日本に入ってきたスキー術の普及もそのひとつである。白馬岳では大正9年(1920) 3月に慶応大学山岳部の大島亮吉、二木末雄、八木森太郎らが、同10年2月には早稲田大学の舟田三郎一行が大雪渓からの試登を行った。そして同年4月、関温泉の笹川速雄、富山師範学校の内山数雄ら一行が蓮華温泉からスキーによる白馬岳初登頂に成功、大雪渓をクリスチャニアで滑降した。これら先駆者たちの活躍は、間近で見ていた貞逸氏をはじめとする村民たちの間でも、スキーの必要性を痛感させた。――
 白馬山荘は北アルプス全域を見渡して最初の近代的山小屋ということになります。しかもそれを地元の若い実業家がビジネスの核として成功させたのです。そのことが信濃側の、若い実業家たちに与えた影響はきわめて大きなものといえます。現在白馬岳山荘は収容人員1,500人といわれる最大の規模を誇り、非難小屋の機能とともに高級山岳ホテルという面もそなえた野心的な存在です。そして山麓の八方、栂池などがスキー王国長野で先駆的な役割を果たしたのも、松沢貞逸という「村の実業家」の先見の明によるものであることはまちがいありません。

●名猟師たち

 北アルプスの最奥地帯といえば信州(長野県) ・越中(富山県) ・飛騨(岐阜県) の三国国境となる三俣蓮華岳ミツマタレンゲダケ(2841.2m) というのが相場となっています。また、この山は黒部川の源流にあたります。
 第2次世界大戦後の昭和21年(1946) にこの小屋を買い受けたのは松本市の伊藤正一さんでした。伊藤さんが書いた『黒部の山賊―アルプスの怪』(1946年、実業之日本社) によって、上條嘉門次や遠山品衛門(佐伯文蔵さんのいう遠山品右衛門)に代表される北アルプスの猟師たちの姿が浮かび上がってきます。当時、三俣蓮華小屋を占拠して恐れられていた黒部の山賊の棟梁は品衛門の三男富士弥であることが明らかになるのです。
 ――そのころ、三俣小屋も戦争中何年間か番人が入らなかったあいだに、床板や壁板は(燃料がわりに) 全部焚かれて屋根や柱もほとんど無くなっていた。
 前の持ち主は戦死してしまって、子どもはまだ幼かった。前々から私がその方面に関心をもっていたことを知っていた上高地西糸屋の奥原英雄氏や安曇村の村長(ともに故人) らを通じて、私にその小屋の権利を買い取ってやってくれないかという話があったので、私は先方のいう通りの条件で買いとった。
 ずっとあとになって「三俣小屋はライカ1台の値段で買った」という噂を耳にしたことがあるが、じつはそのときの価格は2万円で、それは遺家族が今後生計を立てて行くのに十分な金額として、村長や奥原氏が算定したものである。そのころライカの値段は数百円だったように記憶している。
 私がその小屋を買ったのには、もう1つの理由があった。じつは私は終戦までジェットエンジン(現在のターボプロップとまったく同一の物) の発明に没頭していたが、終戦によって当分その方面の研究も見込が立たなくなった。もともと山好きで科学好きだった私はその空白の期間を、登山と探検によって過ごしてもいいような気持ちもあった。それにアルプス最奥の三俣小屋や、人跡未踏の黒部渓谷は、私の探検への野心をそそるに格好なところでもあった。以来私の人生は思わぬ方向に展開して行くことになったのである。
 そこで私は2人の友人とともに視察かたがた久ぶりに三俣へ行こうとしていた。が、そのころアルプス一帯には概略つぎのようなうわさが流れていた。
 三俣方面に、モーゼル拳銃をもった前科30何犯かの凶悪殺人強盗がいて、黒部渓谷一帯を荒らしまわっている。彼は登山者や猟師をおどしては物を盗っているが、昔から黒部方面での行方不明者はすべて彼の手にかかって死んだものである。また彼は山の地理に精通しており、手下も大勢いて各所で見張っているので、警察が上がって行くと事前に彼らにわかってしまい、絶対に見つかることがない。しかも約30年のあいだ、里へは下っていない。彼は熊、カモシカ、ウサギ、イワナなどをとって食べているが、2人の息子がいてときどき大町から米や塩などを運んでいくという。――
 伊藤さんたちはともかく行ってみることにしました。
 ――いよいよ小屋の見えるところまで行くと、小屋からは山賊が焚く煙が立ち昇っていた。
 近づいてみると、小屋は半分倒壊し、残り半分も傾いて、見る影もなくなっていた。小屋の周囲には、むいたばかりのけものの皮がいくつも張って干してあり、前を流れる清流の中には、けものやイワナのはらわたが散乱していた。これらの情景は、われわれに何かしら不気味な予感をあたえずにはいなかった。
 私たちは山賊の拳銃を警戒して、少し離れたところからおそるおそる声をかけ、かたずをのんだ。緊張した瞬間だった。入口に山賊が現われてわれわれを招じたので、用心しながら小屋の中に入った。私はポケットの中で短刀をにぎりしめていた。
 うわさの通り2人の息子もきていた。うす暗い小屋の天井にはモーゼル拳銃や猟銃が掛かっていて、たくさんのけものの皮や、イワナの燻製などもあった。グロテスクなのは、丸ごと燻製にしたウサギであった。
 山賊は小屋の主になりすましてわれわれを応対した。意外なことに彼の風采は、かっぷくのいい堂々たる紳士で、山にいるのにポマードまでつけていたし、ヒゲはきれいにそっていた。そのうえ、彼は人を信じさせる話術に長けていた。――
 この遠山富士弥さんは最後の名猟師といってもいいようです。
 ――長い山ごもりのあいだ、富士弥は得意の狩猟で命をつないでいた。ところがカモシカなどを獲ることは違法である。営林署はなおさら彼を追い、富士弥はますます山にたてこもった。
 ただでさえ縄張り根性の強いのが猟師たちだが、彼にとって猟場を荒らされることは直接生命にかかわることだった。
 よその猟師に出会うと、彼は古ぼけた富山県の漁業組合の鑑札のようなものをちらつかせながら「お前は何をしにきたか、鑑札があるか」といった。ふつうイワナつりが鑑札をもって黒部にはいることはない。彼は体格はいいし、得意の話術で相手をおどしあげた。そのうえ拳銃をいじりまわしたりし、夜中にナタを研いで見せた。
 これら密漁問題といい、よそ者の猟師をおどしたことといい、山賊の立場に立って考えるならば大いに無理からぬ点があったと思う。
 第1に明治以前から長い間、黒部は遠山一家の猟場であり、すみかでもあった。そしてカモシカを獲ることは彼らにとっては正当な生活手段だった。私は富士弥に「いままでに熊やカモシカを何頭位獲ったか」と聞いたことがある。彼はそんな数はぜんぜん数えられないといった面持ちだったが、それでも「熊は500〜600頭、カモシカは2,000頭は下らないだろう」といった。そして昔は獲ったカモシカを濁からソリにつんでおおっぴらに運び出した時代もあったという。
 その後アルプスは国有林に編入され、自然保護法とか自然公園法などができた。これは彼らから生活手段をとりあげる法律にほかならなかった。生まれながらの山男である彼らから見ると、営林署の方がむしろ彼らの生活をおびやかす侵入者に見えたかもしれない。こんなことも山賊のうわさの広まった1つの要素であったにちがいない。
 もう一つの問題点は、品衛門の時代に一時彼らは山を管理する立場にあったことである。長いあいだ、山にこもっていた富士弥にはそのころの習慣が残っていた。あるいは彼自身は、おどすつもりではなかったかもしれないが、人跡未踏の峻険な黒部の自然の中にあって、そうでなくともおじけづいているよそ者の猟師たちにとって、体格のいい彼の一挙一動はえもいえない恐怖であったろう。――
「富士弥の息子」とされたのはそれぞれが一人前の猟師で、なかでも俊足を誇る鬼窪善一郎という猟師は常人の4日分を1日で歩いたといいます。のちに大町案内人組合の有力メンバーとなり、北アルプス遭難救助隊員としても活躍します。
 また富士弥のいとこの遠山林平という人物はイワナ釣の名人で、ひとつの淵に群れているイワナを、気づかれないように後のほうから1匹ずつ全部釣り上げてしまうという特異技を見せてくれます。
 伊藤正一さんはこのようなスペシャリストたちの協力を得て狩猟小屋の前歴をもつ三俣小屋や水晶小屋を再建し、さらに黒部五郎小舎から黒部の秘境・雲ノ平山荘と黒部の源流地帯への登山コースを開いていきます。
 伊藤さんはまた、山小屋への空輸を最初に実行した人ですが、これは山岳ヘリによる荷揚げが一般的になる以前の話です。
 ――たまたま関西電力が雲ノ平に無線操縦の雨量計を設置することになり、それを収容するために1坪半の鉄筋コンクリートの建物を立てることになったとき、その仕事を立山室堂のSさんが請け負った。彼は「300万円はかかると思うが、なかなか金額が折り合わなくって弱っています」と私に語った。つまり1坪当たり200万円の建物ということになる。
 内訳を聞くと有峰*アリミネから運ぶセメント1袋の運賃が1万円(原価は400円たらず) になるという。これは湯俣経由で運んでいる私の計算と一致する。雲ノ平までの運賃は1貫(3.75kg) が約700円、セメント1袋の目方は14貫というわけだ。こうして運んだセメントも、途中で雨などでぬらすとだめになってしまう。
 山での運賃は直接ボッカに支払う料金のほかに、ボッカの食費がかかる。そのボッカの食料はまたボッカに運賃を支払って運ばせる。すこし雨がつづくとボッカの食料を運ぶだけのために、ボッカを雇っておくようなことになる。
 ボッカたちは「仕事が飯を食うのだ」という。湯俣から持って行った2食分の弁当は途中で食べてしまい、三俣小屋へついてまた食べてすぐ湯俣へ下る。あるときボッカが5人上がってきた。ちょうどそのときに2升5合の米をたいた釜があったので釜のままそっくり彼らに渡し、彼らはそれを食べて下った。
 後で片づけに行ったアルバイトの学生が「あっ!」と声をあげた。釜が空になっていたのだ。彼らは2食分の弁当を食べたあとで、さらに1人平均5合の飯を食べたわけである。
 そのうえ、山では雨の日が多い。荷上げに一番かんじんな6月中ごろから7月中ごろまでは、ほとんど雨が降りつづく。雨が晴れると登山者は待ったなしに登ってくる。比較的に天気のよい8月でも、昭和28年(1953) のように、晴れた日は2日だけということもあった。9月になるとまたほとんど雨が降りつづく。
 こんなわけで輸送距離が長くなると、鼠算的に困難は増大する。雲ノ平まで物資を運ぶにはまず七倉*ナナクラまでトラック、つぎに林鉄にのせるのだが、都合によってはいく日も荷物を七倉のどこかにおかなくてはならない。そのつぎに第5発電所で荷が下ろされるが、これもボッカが湯俣に運び切るまでは、どこかにおかなくてはならない。つぎに三俣へ運び、それから雲ノ平まで運ぶ。
 人工衛星が回り、東京―パリ間を十数時間でとべるこの時代に、山小屋だけが、人の背中で運ぶという、人類の歴史のもっとも原始的な労働手段にたよっている限り、今日の登山界の要求をみたすことはできなくなるであろう。――
 黒部に東山品衛門・富士弥の父子がいれば、上高地には上條嘉門次・嘉代吉の父子がいました。この嘉門次・嘉代吉父子のすばらしい連係プレーが無名の登山家・鵜殿正雄さんの穂高〜槍ヶ岳初縦走を成功させます。塩尻市出身の上條武さんの『孤高の道しるべ・穂高を初縦走した男と日本アルプス測量登山』(1983年、長野市・銀河書房) は日本の登山史で正当に扱われていない登山家・鵜殿正雄の功績を明らかにし、同時に北アルプスの主な稜線を最初に踏査した国有林の山岳測量の事実を示してくれます。
 全体で600ページになろうかという大冊ですから本論の部分はとうてい引用できません。そこでここでは奥穂高岳からいよいよ槍への縦走を開始する1場面だけを紹介します。日本山岳会の機関誌「山岳」(第5年第1号,明治43年3月31日) に発表された鵜殿さんの「穂高岳槍ヶ岳縦走記」の明治42年(1908) 8月15日午後2時30分からの行動を解読するところです。
 ――奥穂高の頂上に去りがたい心を置いて、一行は北に向かって少し下った。方向がまちがっていた。名案内人の名をほしいままにした嘉門次父子の案内だが……。頂上に戻って今度は東北へ、尾根づたいに下る。
 稜線は長野と岐阜の県境である。ところどころに石を積み重ねた測点がある。槍ヶ岳も見える。方向を誤る心配はない。縦走路に点在する測点が、槍まで一行を導いたことは疑いない。登山史類では誰も言及しないこの「石を積み重ねた測点」が、鵜殿・嘉門次という比類ない先駆者に貸した力は、じつに大きかったと思える。
 この測点は、明治35年(1902) から37年にかけて、大林区署(現営林局) の測量員らが、境界査定と同測量のために設置した「石塚」と称するもので、現在、標識がわりに用いられるケルンに似たものである。槍の頂上から焼岳の頂上にかけた穂高連峰の全稜線上には、石塚が111カ所、石標・木標・固定した岩石・樹木などを含め、合計309カ所に測点が設けられていた。
 そして明治37年度には、森林三角測量・境界査定・境界測量の現地作業は、改則を残してすでに完了していた。嘉門次も嘉代吉も、焼岳の三角点から、ここで鵜殿が命名した北穂高岳(現涸沢岳、大林区署と陸地測量部では奥穂高)三角点までの境界査定や測量に従事したことはまちがいない。
 穂高山群の初登頂は、現在の涸沢岳・南岳・西穂高に三角点を設置した明治39年(1906)の陸地測量部員である…というのが定説だが、それが誤りであることは、ここまでの説明で一応の理解は得られよう。
 しかもまた、涸沢岳と西穂高岳の両三角点は、元は大林区署の森林三角測量によって設置されたものである。それが明治39年(1906) に、陸軍の要請にしたがって、三角櫓ともども陸軍陸地測量部へと保管転換(陸地測量部の使用に供するため、所管を移譲する)されている。これについては現在国土地理院が保管する測量記録「点の記」に明白に記録されている。つまり、最初に三角点を設置したのは、山林局営林技手の中川兵弥という人で、測点番号は涸沢岳の場合「中34」であった。これらも含めて、穂高連峰における測量登山の定説は、根本的に改められるべきである。――

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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