毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・20・磐梯朝日国立公園」
1994.10――入稿原稿


■国立公園物語…磐梯朝日

●深い山と深い森

 この「国立公園物語」の原則的な取材方法として、とりあえず車でひとまわりしてみました。福島駅前でレンタカーを借りて米沢から鶴岡へと北上し、鶴岡から南転して村上→新発田*シバタ→会津若松→福島と走り抜けて約1,200km。その間、朝日スーパー林道も通ってみましたし、飯豊*イイデ山地の山深い登山口まで行ってもみました。そして気づいたのですが、国立公園地域をおおよそ反時計周りしながら「いつも左手に国立公園がある」というふうにはどうしても思えないのでした。
 猪苗代*イナワシロ湖をひとめぐりしてみたときにはどんよりとした天気で、磐梯山*バンダイサンの位置がわからないほどでした。そういう天気の善し悪しということもあったでしょう。もしこれが冬であれば、国立公園はもっと大きな白い山の連なりとして、堂々たる大きさを誇示していつも左手にあったのではないかと想像するのです。
 最初に新幹線で福島に近づいたときには、左手にふくよかな山があらわれて期待に胸を高鳴らせたものでした。高村光太郎と智恵子が見た安達太良山*アダタラヤマの大きさにそれは近いものではないかと思いました。ところが山は標高1,700m。そびえ立つ山岳ではないのです。山に近づくとその存在はたちまちあいまいになってしまって、樹林の中に埋没してしまいました。
 山には「○○富士」とか「○○アルプス」に代表されるように、そびえ立って個性的であるものが多く、広く名を知られます。それをゴシック建築の教会にたとえれば、この国立公園では円錐火山の磐梯山がそれにあたります。そしてほかの山々は、いわばイスラームのモスクのドーム建築のように思えたのです。
 今でも中東の古い町を訪れるとすぐに気づきますが、砂漠の道の地平線の向こうから最初にキラリと光るのがモスクの屋根なのです。ところがそれは町に近づくと、忽然と消えてしまいます。つぎに現われるのはバザールの屋並みを抜けてモスクをめぐる広場に1歩踏み込んだときです。かき消えてしまっていたモスクが眼前に大きくやさしく手を広げているのです。
 仕掛けはさらにもう一段あります。いよいよモスクの中に入ると、メッカの方向を示す壁の窪みのほかになにもない空間は外からの喧騒をフッとかき消し、床から伝わってくる心地よい冷気と、まる天井に感じる無限の広がりに包みこんでしまいます。(プラネタリウムのリクライニングシートで昼寝をする快感を思いだしてください)
 家並みから頭ひとつぶんだけ伸び上がっている、というところにその合理性があるのですが、山でいえば「高きがゆえに尊からず」でしょうか。アルプス型の山がゴシック建築なら、この東北南部の山々はイスラーム文化のドーム建築ではないかと思ったものです。
 山並みの北の端にある月山*ガッサンも、遠くから見て大きく、近づくと、とらえどころがなくなってしまう山でした。その大きな緑の空間の中に、たとえば羽黒山神社はありました。包み込んでいる空間が大きいだけに神域は荘厳かつ重厚です。濃い霧に包まれた道を月山の弥陀ヶ原小屋のところまで車で走ってみましたが、道はゆるやかで山に登るという感じはしませんんでした。もちろん周囲の風景が霧でまったく見えないためであったかもしれませんが。
 月山はもとは富士山型の円錐火山であったのが、頭を吹き飛ばされてまるで盾状火山のように、まろやかになったのだそうです。八ヶ岳が円錐形を崩して多くの峰を残したのと対象的に、月山は平たい半月に姿を変えてしまったようです。
 このような月山のイメージをみごとに描き上げた小説が森敦*アツシさんの「月山」であるという地元の評価を知ったのは、山麓の6町村で構成する「月山アルカディア会議」が発行した『月山のうた』(山形放送編、1992年) によってです。まえがきにつぎのように書かれていました。
 ――最近の不朽の名作として、森敦の「月山」がある。
「月山 すべての吹きの 寄するところ これ月山なり」
 即身仏がまつられている朝日村七五三掛にある注蓮寺の境内に、月山そのものを想わせる安山岩の巨石に、森敦の筆のあとをそのまま刻んだ文学碑が建っている。
 この碑は、小説「月山」が、芥川賞を受賞したのを記念して、昭和56年(1981) に建立されたものだが、月山は、森敦によって、新たな生命を得たと言えるかも知れない。
 本誌『月山のうた』が、出羽三山を慕う人々の胸に刻まれ、山岳や自然との一体性を感得し、生きていることの素晴らしさ、生命の尊さを探求する機会を得ることができれば、と思う。
 出羽三山御開山1,400年の歳月が、より意義深いものとして、未来や世界につながっていくことを期待してやまない。――
 この文章を読むかぎり、月山のイメージにはあくまでも出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山) という宗教空間がかぶさっているようです。
 そのあたりの複雑なイメージを地元の人たちが深くうなずけるところまで描ききったというのであれば、ここではどうしても「月山」の一説を読んでおきたいと思います。
 ――ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいうべき肱折*ヒジオリの渓谷にわけ入るまで、月山がなぜ月の山と呼ばれるかを知りませんでした。そのときは、折からの豪雪で、危うく行き倒れになるところを助けられ、からくも目ざす渓谷に辿りついたのですが、彼方に白く輝くまどかな山があり、この世ならぬ月の出を目のあたりにしたようで、かえってこれがあの月山だとは気さえつかずにいたのです。しかも、この渓谷がすでに月山であるのに、月山がなお彼方に月のように見えるのを不思議に思ったばかりではありません。これからも月山は、渓谷の彼方につねにまどかな姿を見せ、いつとはなくまどかに拡がる雪のスロープに導くと言うのをほとんど夢心地で聞いたのです。
 それというのも、庄内平野を見おろして日本海の気流を受けて立つ月山からは、思いも及ばぬ姿だったからでしょう。その月山は、遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へと延びる山々を連亙*レンコウさせて、臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩るごとくその山腹を強く平野へと落としている。すなわち、月山は月山とよばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然*ホンネンの姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。――
 月山は大きな山ではありますが、かならずしも高い山ではありません。深い山というべきでしょう。
 新聞記者の片山正和さん(朝日新聞山形支局) の『ブナの森』(鶴岡市・東北出版企画、1986年) は日本人の「山」と「森」のイメージにかかわるエピソードから書き起こされています。
 ――鶴岡市の山形大学農学部森林経理学研究室で、北村昌美教授は話す。
「日本人にはもともと目的もなくぶらぶらと森の中を歩くという考え方はなかったのです」
 同教室で面白い調査をしたことがある。月山に登る247人からアンケートを取った。羽黒口から月山5〜6合目あたりまで、登山道わきはブナを主とした森林でうっそうと茂っている。
 ところが、登山途中なんと12.7%の人が森林に気付いていない。森林があったと答えた人も、樹種のわかった人は43.5%にすぎなかった。鳥海山の調査でも、25%の人が森林に気付かず山頂を目指していた。
 北村さんはいう。
「日本人には森林の概念が薄いのです。昔から森林、すなわち山なのですよ。山はこの世から隔絶した世界だった。つまり、死者の霊が鎮まる場所なので、一般の人は恐れてめったに近づかなかったのです」
 森の中を散策しながら楽しもうという思想も芽生えなかった。月山のなかで森林が見えないのは、先祖の血を受け継いでいるからなのかもしれない。――
 続いて紹介されているアンケート調査も興味深いものです。森林に対する住民の意識調査(森林環境研究所主催) で日本の6地域とドイツ・フランスの5地域で3,660の回答を得たのだそうです。
 ――まず、生活の中で森林がどのように意識されているかをみた。このため「深い森」「古い寺院」「見晴らしのよい山」「静かな湖」などの場所を示し、回答者に一番行きたいところを1つだけ選ばせた。西ドイツでは60%近い人が「深い森」と答えた。日本では「深い森」に生きたい人は、わずか2〜3%にすぎなかった。鶴岡、櫛引(山形県東田川郡櫛引町。月山の西麓) では、「古い寺院」「見晴らしのよい山」が約24%と一番人気があった。――
 もちろん著者の片山さんは、山形県のブナの森をその「深い森」と認識させるために、巻頭にこのような話をもってきたにちがいありません。
 そのことは磐梯朝日国立公園をぐるりと1周した私にはもっとも共感できることでした。南の端にある磐梯山周辺を除くと、飯豊山地から朝日山地へとつづく山なみはまさにその「深い森」におおわれているのです。
 以前、私は登山教室の講師として飯豊山に登ったことがありますが、本州の山にはめずらしい「深い山」でした。今回何ヵ所かで登山口まで車で入ってみましたが、この山域では登山口から登るべき山がどれなのか見当がつかなくてもあたりまえ。「深い森」を越えないことには登山は始まらないという感じなのです。登山者はそこで「アプローチが長すぎる」と不平をいうのです。

●神の山、山の人

 飯豊・朝日連峰の特徴はまさにその山の深さであり、森の深さなのです。北の端に並ぶ月山がその山の深みに特異な宗教的空間を構築したのに対して、飯豊・朝日連峰の深い森には山の神を素朴に信じる人々「山人*ヤマンド」が住みつづけてきました。
 朝日山地の南西麓、ダムに沈んだ三面*ミオモテ(新潟県岩船郡朝日村) という集落の最後の数年を克明に記録したのが田口洋美さんの『越後三面*ミオモテ山人*ヤマンド記――マタギの自然観に習う』(社団法人農山漁村文化協会、1992年) です。これを読むと、人間が自然と共に生きることによって生まれ、育てられてきた「文化」の消滅が、取り返しのつかないものと思えてきます。
 田口さんは著者紹介のところに「フリーのフィールド・ワーカー」とあって、山とのかかわりが始まったのはこの三面が最初と書かれています。昭和56年(1981) から4年間にわたる民族文化映像研究所の記録制作プロジェクトに参加してさまざまな体験を積んだ後、新潟県の秋山郷や秋田県の阿仁などマタギ集落と呼ばれる山村を訪ね歩き、この『越後三面山人記』をまとめたとあとがきにあります。
 知らない世界に飛び込んで、手足まといながら夢中で体験したことがあり、さらに広く他の山里にまで活動の舞台を広げた後の咀嚼力が重ね合わされることによって、このレポートは普遍性を獲得しています。山村の暮らしに直接の興味をもたない人でも、自然と人間がきちんとつきあうということはどういうことなのかを考えようとするときには、この本の第6章「山人の自然学」が最良の教科書となると思います。この第6章はまるごと引用してしまいたいほどですが、そうもいかないので視点を絞って読んでみたいと思います。
 まずはフィールドワーカーのつぶやきから。
 ――人が去った後の風景は寂しい。
 三面が閉村し、村人が移転してしまうと、かつての耕地はカヤとイバラの繁りになり、雑木も伸び放題になった。村人が自分達の生活の場として、汗を流して守り続けてきた土地は、野生に返り、植物が繁茂し、動物達が闊歩する土地となった。この土地に人が入ってくる前の姿に戻ろうとしているかのようだ。いずれダムが完成すれば、全て水底に没してしまうのだが、とりあえず、今は、野生が生き返りつつある。
 かつて、私は小池善栄さんに尋ねたことがあった。それは、人が山と、あるいは自然と上手く付き合って行くにはどうしたらいいのだろう、三面の人々は山を維持するためにどういう工夫をしてきたのだろう、という素朴な問いであった。善栄さんはいった。
「人間が山で生きていくには、山を半分殺して丁度いい具合になるんだぜ。
 オレ達は、自然に負けたら生きていくことならねぇんが。自然の力を利用していかんばねぇんだぜ。もっともあんたのように都会で暮らしてる衆には“山を半分殺す”なんていったってわからねぇと思うどもな。山も人間もお互い欲を半分殺して、丁度いいっていうことだぜ。自然の力利用するなんていったって、そうそう問屋がおろさねぇごで。そこにはさまざまなことが出てくるぜ。そこ考えねぇとこの意味は飲み込めねぇごで」
 山も人間も欲を半分殺す、とはどういうことなのだろうか?――
 田口さんが気づいたのは山人たちの里と山との空間的な使い分けでした。
 ――村人達の意識では、村の領域が大きく4つに分けられていた。「集落」「耕地」「里山」「奥山」という4つの空間がそれである。
 集落(エダイラ) は、屋敷や寺社、墓地、生活用水路、若干の畑などの耕地によって構成されており、前章でも触れたように村の〈内〉と認識されている人間の住む空間であった。
 耕地は、畑、水田、休耕地、荒れ地やカヤ場(焼畑地)、灌漑用水などからなっており、作物を作るためのきわめて人為的な空間である。
 里山は、耕地の周辺を囲むように広がり、かつてのカノ場(焼畑地) や採草地、カヤ場、薪炭林、クリ林などを含む私有林や部落共有林などからなる2次林(あるいはきわめて人間の手が入り、利用することを前提として意図的に整理された林という意味で、2次的な耕地といい換えてもいい。大半は植林地や雑木林になっている) である。
 さらに里山より外に奥山と呼ばれる狩猟や採集を行なう、ブナを基調とした天然林(自然林といってもいい。また、村人にとっては自然に近い状態であることがこの林の利用度を高めているという意味で、意図的に自然が保たれている林と考えられる) が広がるという具合で、村域はその性格を異にした4つの空間から構成されていたのである。
 村人によれば、集落から歩いて約1時間以上離れた山が〈奥山〉であり、それより手前にある山を〈里山〉と、大まかに区別しているという。耕地は、およそ集落から遠くても30〜40分内外のところにあるのが普通だとされている。もちろんそれぞれの空間には、はっきりとした境界などはない。あくまでも大まかに見ればそうなるということなのだ。つまり、ここで村人の1つの基準になるのは集落からの時間距離(ヒューマン・スケール) とその空間が持つ役割であった。――
 この4つの空間と、4つの季節との組み合わせによって山人の生活は組み立てられているようです。田口さんの「第6章・山人の自然学」は核心に入ります。
 ――村域を構成する4つの異なる空間と村人はどのように関わってきたのだろうか。
 それぞれの4つの空間は、まず利用される時期と目的が違っていた。
 奥山というのは狩猟や採集の場であり、決して農耕をする場ではない。ある時期に仮住まいはするものの家屋敷を構える場でもなかった。
 奥山は村人が積極的に手を加えてどうこうするというところではなかったのである。かといってまるきり手を加えない野放し状態という訳でもなかった。ゼンマイの項でも述べたように採集するためによりよい環境を作ってやらなければならない。森林を刺激してより生産性を高めようとする努力を重ねてきた空間なのである。それは森林の増殖力や回復力を引き出すためである。基本的には山々の数年先の状態を見越したうえで、生み出される余剰の産物を人間が利用させてもらうという考え方であった。
 例えば木の伐り方について、善栄さんはこう語った。
「まず、山の斜面を全部伐ってしまうなんていうのはオラには理解できねぇことだぜ。奥山の木を伐るっていうのは、まぁ間伐みたよに木と木の間を間引く格好で伐るのがいいんだぜ。全部伐ってしまえば元にもどらねぇんが。もっとも全部伐るっていうのは元に戻す気がねぇからやるんだごで。営林署の衆がやる植林なんていうのはこのやり方だどもな。だけども、ここではそういうことはやらねぇぜ。木っていうのは草と同じように競争して強いのが残るもんだぜ。だからその競争に負けるような木を伐ってやれば、強い木はもっと楽に成長できるんが。ここの人間は山を今の状態のままずっと続くようにって考えるもんだが。木の実がずっとなってくれるように、山が衰えねぇようにしてやらねば上手くねぇもんだぜ」
 奥山の天然林(あるいは自然林) というのは、人跡未踏の原生林ではない。人の手の入った、より自然に近い森林のことである。村人は自然林であることに利用価値があるからこそ森林が保たれるように、森林自体が衰えないように手を加えてきたのだ。何もしなければ美しいブナ林は保たれよう筈もなかったのである。本来、山自体が持っている力を活性化するために刺激し、よりよい産物を引き出すためにちょっとだけ人が力を添えてやるのである。そのことを善栄さんは「間引き」といった。山は刺激に応えて余剰の産物を人間に放出する。奥山は自然の増殖力や回復力、つまり〈山の力〉がより自然なかたちで引き出される空間といえる。
 さらに奥山では狩猟の際のオソやゼンマイの採取領域に見られるように、村人がその場所に対して占有的な利用権を持っていた。この場所を利用する権利は、あくまでも村人同士で道義的に定められた利用権でしかなかった。もちろん奥山は国有林であるから私的所有などあり得ないけれども、それ以上に奥山(河川を含む) から生み出される産物は全て山の神様のものであり、それを人間が生きていくために利用させてもらうに過ぎないという考え方である。つまり場所の利用権というのは、山の神様から山の幸(産物) を授かる場、授かる機会を与えられる場の権利という受け止め方なのである。――
「奥山」が大自然の領域にあり、「神」のもとにあるという山人たちの信仰は、出羽三山で成立したものとはまったく違います。平成5年(1993) に開山1,400年を記念して行なわれた大規模なシンポジウムのまとめ『出羽三山と日本人の精神文化――過去、現在、未来……』(松田善幸編、ペリカン社、1993) に、宗教学者の中沢新一さんの次のような講演録がありました。
 ――山の中で行なわれる修行はとても面白いものでした。僕が特に興味を抱いたのは、六道あるいは十界の修行といわれているものです。それは、地獄の生き物や、餓鬼や動物になったり、阿修羅や人間になったりするものです。そういうこの世に表われている生き物の形、意識の形をすべて体験してみなさいという修行です。なぜこれに興味を持ったかというと、山伏の修行に入る前に、僕は長い間ネパールでチベットの仏教の修行をしていて、そのいちばん奥深い密教の、最初の段階の修行で同じようなことをさせられたからです。
 その修行とは、まわりには猿や鹿しかいないような森の中へ入ってゆき、素っ裸になって(本当に一糸まとわぬ素っ裸にならなければいけないのです) 7日間あるいは9日間かけて、地獄の住人からはじまり、動物や餓鬼、そして人間になったりします。そのすべての過程を想像力の中で、自分ひとりの、だれも見ていない演劇をするのです。地獄はたくさんの種類がありますから、たとえば氷に閉ざされた寒冷地獄に行った時には、歯がガチガチしてくるような様子を自分で体験しなければいけない。また動物の世界を体験しなければいけない時には、今朝はミミズになりなさいと先生がいえば、ミミズになって地面をはうのです。ミミズがこの世界をどうやって見ているかを体験しなさいと。餓鬼の日は結構大変でした。何日も断食してから、先生に大都市のレストランに連れていかれ、先生がおいしいものを食べているのを僕はそばで見ていなければいけない。何日も絶食しているのでとても苦しいのですが、それを見ながら餓鬼とはいったいどういうものなのかを体験しろと。
 こんなことを体験させて、チベットの仏教は何をいわんとしていたかというと、人間の心はどんなものにでも姿を変える。地獄の住民の心にも姿を変えるし、餓鬼にも動物にも変えることができる。動物の中で動いている心は、じつは人間の心と同じなんだ。心の本体はいろいろなものに姿を変えていくが、それを理解するためには、心が姿を変えることを知らなければならない。つまり、いろいろなものに自分を変えていかなければいけないというのです。
 それとまったく同じ修行が羽黒山で行なわれていました。人間が生まれる前の状態に入った時、それまでの人生の体験は全部水に流して、これから生まれて体験していくことになる一種の白地のキャンバスのような状態になり、心と呼ばれるものが一体どういう成り立ちをしているかを体験させるようにできています。そしてその心とは、人間の心だけではなくて動物の心になったり、餓鬼になったり阿修羅になったり、いろいろなものに変化していくことができる。人間は人間の心だけを持っていると思いこんでいますが、ここで動いている心とは、もっといろいろなものに姿を変えることができて、いろいろな体験を積み重ねることのできるキャンバスのようなものだということを教えようとしています。
 山伏の修行は「生まれ清まり」の思想にもとづいていますが、その根本にある考え方は、どうもそういうところにあるような気がします。生まれてくる前の、体験を積む前の心の本体。心そのものの状態に帰っていく。そして、心そのものの状態は、母親の母胎の中で成長してくる人間の子どもの体験と重ね合わされ、まわりの自然と非常に滑らかな、なだらかな形でつながりを持っていく。人間は文化をつくると、そのなだらかなつながりを忘れてしまって、人間だけの世界を作り上げてしまいますが、山伏の体験が教えようとしているのは、人間の心が文化や社会やあるいは男性というものにつくり変えられてしまう前の女性的なもの、自然とのなだらかなつながりをもっていた時の状態をもう1回そこで回復して、心を真っ白なキャンバスにつくり変えて、人間をまたもとの生活へ送り戻そうとする。そういう修行の体系であることがわかります。――
 出羽三山の修行は「もとの生活へ送り返そうとする」ものですが、三面の山人は生まれ育ったその山で山の神を信じているのです。しかし、やはり、「動物になる」ことはあるようです。その具体的な例を田口さんは『越後三面山人記』の書き出しのところで取り上げています。
 ――「オラ、ヤマゥドだはでな、山が大好きなんぞぅ」
 ヤマゥド……。耳慣れない響きだ。人によってはヤマンドとかヤマビトということもある。字をあてるなら「山人」と書き、狩人や樵夫など、山に住み、山を巡りながら生業をたてる人々のことを指す。
「山で生まれて育ったんだはでな、狩りなんて大好きで歩いたんだわっ。クマ獲りでも寒中のカモシカ獲りでもなっ、山ですることだば何だって好きだ。
 山さ行って、松の木の根っことか、峰さ上がって座ってると、ヒューッヒューッっていう風の音聞こえるろう。風の唸りなっ。あれ聞いてるとハッ、人間のことも、世間のことも忘れる。何も分からねぐなるんだわっ」
 山人達の村、新潟県岩船郡朝日村三面に通いはじめて4度目の冬のことであった。戸外では2日続きの吹雪が荒れ狂っていた夜、小池政博さんは囲炉裏*イロリ端に座り込み、今まさに山の峰に立ち、松の根方で風を受けているかのように天を仰ぎ目を瞑*ツブる。彼は50代後半の小柄な人だ。でも、肩や胸はがっちりとした筋肉質でたくましい。ひと度、山に入ればどんなに元気のいい若者でもなかなかついて行けやしない。
「オレの体は山が作ったんだわっ」
山で生まれて、生きているうちに体まで山が歩きやすい作りになってしまったのだ、といって彼は笑う。事実、彼の両足の甲、親指の付け根の部分は異常なまでに突出している。急峻な山道を、あるいは道なき薮を重い荷を背負って歩き、狩りで山々を駆け巡って来たために、つま先から甲にかけての骨に負担がかかり変形したに違いなかった。いや、変形したというより、むしろ彼の足こそが人間本来の足の形なのかも知れなかった。彼の体は、山に生きてきた歴史そのもののように思えた。
「オレ達山奥で暮らしてきた者は、山歩くのが商売でやってきたんだものなっ。小さいころから、それこそ人間初めて歩くの覚えた時からな、獣が裸足で歩くのと同じでなっ、何処歩くにもみんな裸足で、山でも川でも歩いたろう。だがら自然と体が山に馴染んで、こういう体になったんでねぇかな。
 狩りで山歩くときなんぞはなっ、ハー自分が人間であることも忘れるんだわっ。オレも1匹の山の獣と同じで、獲物追うんだわっ。何を考えるっていうこともねぇ、夢中で体動かして、必死で追うんだわっ。獣獲るんだものなっ。獣にならねば獲ることできねぇはでな。オラっ山さ入れば、獣と同じだぞうっ。山も谷も翔んで歩くんだわっ」
 政博さんに限らず、山人達は口々に、「狩りになれば皆獣になるのだ」といった。――

●山と人のパワーバランス

 田口さんは「〈山の力〉と〈人の力〉が半ばぶつかり合う、どっちつかずのファジーな空間」が「里山」だといいます。
 ――奥山と耕地の中間に位置するのが里山である。里山は、奥山と違って積極的に村人が手を加え続けてきた、半人為的な空間といっていい。農用林、あるいは薪炭林がこれに当たるけれども、ここでは採草地や焼畑地が放棄されて出来た雑木林、あるいは植林地や前山などのクリ林、河川敷のオニグルミなども含められる。里山はいうなればスギを育てるための畑であり、薪や炭を採取するための畑ともいえるもので、村人の意志が強く反映している林である。
 しかし、里山では山自体の力も十分に発揮されている。クリ林の項で記したように、クリ自身の増殖力をより積極的に引き出すために人が手を加えるのである。薪炭林についても同様で、春先のおばさん達のシバ伐りなどで若シバが伐られる。翌年伸びてきた若シバをまた伐る。これをつづけているとシバ自体が次第に細く痩せてくるので6年から7年のサイクルで場所を移動していき、力の回復を待ってまたシバが伐られるという具合である。焼畑の場合もこれと同様に3〜4年は人が手を加えて耕作し、地力が弱まると山に返して山の力によって地力が回復するまで放置される。
 里山はこうした意味で〈山の力〉と〈人の力〉が半ばぶつかり合う、どっちつかずのファジーな空間としてあるようにみえてくる。また、里山は、耕地と奥山が直接ぶつかり合わないための1つの防御壁、クッションの役割をになっているのではないか、とも思えるのである。
 この里山は、私有林と部落共有林からなっている。私的な所有の場であり、かつ村人共有の林でもあった。村人の話によれば部落共有林というのは、大きく2つに分けることができる。1つはクリ林やシバの採取に見るような、土地もそこに生えている木々も共有のものと、焼畑などのように土地は部落の共有ではあるが、そこを拓いて焼畑をした場合の作物は個人の物となる、いわば借地的に利用されるものとがあった。――
 この「〈山の力〉と〈人の力〉が半ばぶつかり合う、どっちつかずのファジーな空間」は、人間と動物との直接的な関係で説明されるとさらによくわかります。
 ――村人は、耕作の作物を絶対に鳥獣にくれてやらないぞ、という完璧な防御を好まなかった。ある程度取られるのを見越して作付けをしたのである。三面のカノ(焼畑) の場合などは、作物の3割から4割近くは鳥獣が食べる分だと考えられていた。鳥や獣は大切な資源であり、常にある一定の数はいてもらわなければならない、彼らにも生きつづけてもらわなければならないのである。普段作物を荒らされて困るものの、村人は彼らによって生かされてもきたことを自覚していたのである。村人はいう。
「獣を獲るってことは、命取るんだごでな。人間の都合だごでな。それはいけねぇことだけども、それしなければ生きてこれねがったろ。獣も生きることに必死だものな、食う物なくてひもじい思いしてるんださがで、ある程度作物荒らされてもしょうがねぇごで。だから畑の物荒らされても、“いやー山に獣の餌作ってたぜ”って笑うしかねぇろう」――
 耕地が餌場であるという現実がここでは当然のこととされているのです。もちろんお人好しというわけではありません。
 ――耕地を荒らすのは鳥だけではない。ウサギやタヌキ、キツネ、カモシカ、クマ、サルなどもやってくる。地域によっては日本シカやイノシシがこれに加わるが、三面にはこれらは棲息しない。
 三面では、獣用の罠は耕地周辺から外にかけられることが主であった。耕地の作物を狙って進入してくる獣を捕獲するのが目的であったからである。耕地やその周辺にはワッカや捕獣器が主に掛けられてきた。カノ場では畑の周辺をシバなどを使って柵を巡らし、獣の進入を拒む方法が採られたのだが、この柵の所々を明けておきワッカなどを掛けておいた。獣の進入路に罠を掛けて捕獲するのだが、この場合、畑の作物そのものが餌になる。作物を作るという行為は、その周辺に当然動物達を引きつけておくことになる。この作物に引き付けられてきた動物達を誘い込んで捕獲するのである。そういう意味では鳥罠なども同様であった。
 すると、耕地の作物を荒らされるのも嫌だが、鳥獣が獲れないのもまずい。耕地に鳥獣が来ても困るし、来なくても困るという、どっちつかずの曖昧な人間の論理がみえてくるのである。
 耕地の周辺の里山と呼ばれる一帯では、害も及ぼし、食物として、あるいは毛皮などの利用度の高い小中型獣を、ムジナオソやワッカ、捕獣器などをけもの道に掛け、耕地に進入しようとする間際で捕獲した。
 クマやカモシカなどの大型獣用の罠は、その外、つまり奥山に掛けられた。例外的にはクリ林の中にクマ用のオソが掛けられもしたが、圧倒的に奥山に掛けることが主であった。三面のオソ(釣り天井型の大型罠) は、耕地に進入するクマやカモシカを捕獲するというだけでなく、毛皮や肉を得るために積極的に捕獲することを目的に掛けられたものであった。
 つまり、罠の配置をみていくと、集落から遠ざかれば遠ざかるほどその構造は大がかりになり、仕掛けも複雑なものとなっていく。さらに、捕獲しようという意識が強まっていくという傾向がある。逆に、集落に近づけば近づくほど罠は小振りなもの、より単純なものになり、防御的に誘い入れることで捕獲していこうという傾向を持つのである。――
 なんだか先制攻撃と専守防衛の組み合わせを論じられているような記がします。
 ――一般には狩猟圧という言葉が示すように、どうしても狩りはハードで攻撃的な行為として見られがちなものであるが、農耕を営む村では防御的なソフトな意味合いも併せも持っていたことに気づかされるのである。古くから狩猟採集に重きを置いてきた村々というものは自らが持っている力を自覚し、その力を制御、抑制しなければ村が存続し得ないことも認識していたのである。――

●圧迫されるブナ林

 田口さんはダム建設で水中に歿する運命にある三面で、伝統技術を記録し、生活基盤をさぐるという作業を続けたのですから、その視点がいわば過去を現在の中に見るというところに限定されたのは当然のことでした。
 そこで、ここにもうひとり登場していただきたいのが太田威*タケシさん。太田さんはむしろ未来を見るために現在を記録している人といえるでしょう。太田さんについてはすでに一部引用した片山正和さんの『ブナの森』の中で紹介されています。
 ――太田さんは10年ほど前からブナの写真を撮り続けている。
 ブナにみせられてからは、いままで勤めていた会社もやめた。もちろん、ブナの写真だけでは暮らせない。山に入らない時は、アルバイトをし、フィルム代を稼ぎ、また山にわけ入る。
 冬のある日、太田さんと一緒にブナ林を見に出かけた。道すがらブナにとりつかれた話を聞いた。もともとは山が好きで野鳥の写真を専門に撮っていた。ところが、いつごろからか、シャッターチャンスがめっきり減ってきた。その原因がブナの森林破壊によることに気付いた。
 鶴岡市の金峰山のふもとに谷定地区がある。初夏のころ、同地区で採れるタケノコ(孟宋) は、とくに味がよいことで知られている。この谷定にかつて見事なブナ林があった。ブナの木のほこらには仏法僧が住んでいた。仏法僧の北限繁殖地として、県は天然記念物に指定していた。
 このブナ林が、昭和40年すぎ皆伐され、庄内柿の畑になった。当然、背中がルリ色の美しい鳥は姿を消した。太田さんはいなくなった仏法僧をカメラでさがした。もちろん、谷定には2度と現われなかった。県は指定を解除した。
 朝日村大網、周りの山々は深い雪に埋まっている。太田さんは上空を見上げながらいった。「オオタカ、クマタカなどの猛きん類が最近、見えなくなりました。冬になると、エサを求めて人里近くの上空を旋回していたのもですが」。イヌワシ、ハチクマ、ノスリ、ハイタカなども見られた。太田さんはブナによじ登り、体を木にしばり、これらの鳥を撮ったこともある。
 猛きん類がいなくなったのは、補食するエサのウサギ、ヤマドリ、キジ、タヌキ、キツネなどが減ってきたからだ。これらの小動物たちはブナ林の中で木の実や若芽などを食べて生活している。ブナ林の伐採で小動物たちは安住の場所を追われた。このため、オオタカなど猛きん類も次第に姿を消しているのだ。
 野鳥、小動物が減ってきた時、太田さんはいままで意識しなかったブナ林にカメラを向けるようになった。――
 太田さん自身の著書『ブナ林に生きる――山人の四季』(平凡社、1994年) はその最新のレポートということになるようです。まずは朝日山地から日本海へとダイレクトにそそぐ短い川の1本、中継川の最上流に当たる山熊田(新潟県岩船郡山北*サンポク町) でのサクラマス漁の話です。
 ――かつて終戦も間近い昭和19年(1944) から20年頃、村人たちは一足遅い田植えを終わらせたあと、6月の末から初秋にかけて、天気が良くて暖かく、しかも川水の濁らない日を選んで、「マス捕りに行こうぜえ」と誘いあった。少ないときでも5〜6人、多いときでは1軒の家から3〜4人も出て総勢50〜60人にもなったという。参加するのはもちろん男ばかりで、それぞれ持ち場があり、見張り役の古老、青柴でマスを追い出す壮年、川に入ってヤスを突く若者、捕ったマスを集落まで運ぶ子どもで構成されていた。午前中は下*シモのマス捕り場を回り、午後からは主に上*カミの一番マスの多く集まるゲンナイノ滝で、まるでお祭り騒ぎのようにマス捕りに熱中したそうである。
 ゲンナイノ滝は4mもの深さで、若者は腰から首まで水につかりながらガラス箱で水中をのぞき、4〜5mのヤス竿を構えた。ももひきに山さっち(上着) というのが彼らの出で立ちであった。滝のそばには冷えた体を温める火を常に焚き続け、唇がぶし色(紫色) になるまで水に入ってマス捕りをしたのである。中年の男たちは滝壷に隠れているマスを青柴で突き手のほうへ追い出しにかかり、それを古老たちが、あっちへ逃げたとか、こっちさ来たとか、見張りをしながら突き手の若者に知らせて誘導した。
 終戦間際には、今まで見たこともない体長2尺3寸(70cm) から2尺5寸(76cm)、重さ1貫200匁(4.5kg) から1貫400匁(5.25kg) もあるサクラマスの雄の大物が1年に30本ほども続いて捕れた。それらのマスはガラス箱でのぞくととても大きく見え、真っ黒で動作が鈍くて突きやすかったという。毎年遡上してくるサクラマスの雌の体は深い青みを帯びた銀白色で美しく、すばしこい。体重はせいぜい500匁(1.87kg) から600匁(2.25kg) であるから、その大物がいかに大きかったか想像できるだろう。
 このとき大物といっしょに捕られたサクラマスは40数本に及び、子どもたちに背負われて、民家の清水の湧く池に運ばれた。その年は例年になくサクラマスが数多く遡上し、1年に200本以上も捕れて、滅多にマス捕りをしない人でさえ、川に行ってサクラマスを突いてきたほどであったという。
 子どもたちが大人に混じって自由に参加できるマス捕りは、熊狩りと同様、サクラマスの習性や突く場所、捕らえ方などを自然に身につけていく実習の場であり、山で生きていく上で大切な生活技術を学ぶ研修の場でもあった。捕れたサクラマスを、見張り役の古老、青柴でマスがりした人、苦労してマスを捕った人、運んだ子どもたちなど、皆平等に分けるしきたりは、熊狩りでクマの肉を分配するのと同じ昔からのやり方であった。1本ずつの分け前がない場合は、マスを切り身にして分けたのである。――
 しかしそれが激減したのを、山熊田の山人たちは乱獲のためだとは考えていないようです。
 ――山熊田川のサクラマスは、1年に220本も捕れた昭和20年をピークに減り続け、とうとう5〜6年前からは全く姿を消してしまった。近年、川の生態系を無視した護岸工事によりコンクリート化が進み、用水路のようになってしまった河川が多い。山熊田川もこの例にもれず、今まであった柳の木で作った柴堰堤*エンテイなどがどんどん姿を消した。このためサクラマスやサケなどの魚たちが身を隠す場所が奪われてしまった。それにもまして、集落の上流に最近大きな砂防ダムができてからは、全くサクラマスが遡上しなくなったと大滝松男さんは嘆く。
 このダムの下流には遡上を妨げるダムはないが、おそらくダムを作るときに、川底のサクラマスの産卵に必要不可欠な湧き水の出る水脈を根こそぎ断ち切ってしまったらしい。これによってサクラマスの好む川床が消滅したと、大滝さんは見ている。ブナ原生林から流れ出る滋養に富んだ水は、サケやサクラマスのふるさとの水のにおいとなり、山、森、川、海、そして雨、雲とつながって、太古の昔から途切れることなく循環してきた。それが断ち切られたのである。――
 手作りの柴堰堤を砂防ダムに変えたのはそちらのほうが「安全」という専門家の判断があったからでしょう。しかしそのように、専門家が「専門」を任じられているために「木を見て森を見ない」判断を押しつけてしまったという例が片山さんの『ブナの森』にも書かれています。朝日山地の北部、寒河江*サガエ川の上流にある大井沢・中村(山形県西村山郡西川町) で川が荒れたという事例です。
 ――大井沢・中村は狭い谷間にできた集落である。真ん中を寒河江川が流れている。同地区から1.5km上流で、支流の見附川と根子川が合流している。この2つの支流が集中豪雨で氾濫*ハンラン、同地区では浸水家屋が続出、わずかしかない田畑を押し流した。明らかに乱伐によるブナの復讐*フクシュウであった。
 水害を受けたのは昭和51年(1976) 8月6日、209mmの雨が降った。寒河江川は「あっ」という間に増水した。同地区では、これまでも集中豪雨がたびたびあった。最高420mmも降った記録がある。しかし、川は氾濫しなかった。
「朝日連峰のブナを守る会」の会長志田忠儀さんは、次のように証言する。
 見附川流域の山のブナ林は、すでに皆伐されハゲ山になっていた。一方、根子川周辺の山は、見事なブナの原生林であった。このため、これまでは集中豪雨があっても見附川はすぐ出水したが、根子川は見附川が出水してから1時間半後でないと増水しなかった。この時間差が同地区を水害からかろうじて守った。
 ところが、営林署では根子川流域のブナ林も皆伐した。志田さんら「守る会」では、営林署に「川が氾濫するから、伐らないでほしい」と嘆願した。しかし、営林署では「ブナを切っても、伐らなくても、増水量は2%しか違わない」と取り合わなかったという。ブナ林の保水力を甘く見ていたのだ。
 志田さんらの不安は当たった。2つの支流は、周囲の山が同じ状況になったため、時間差がなくなり、同時に出水するようになった。これが洪水が起こった原因だ。志田さんは「これからも、また氾濫するかもしれません」とブナの復讐を恐れている。
 寒河江川上流にはいま、いくつもの砂防ダムがつくられている。つくってもすぐ1年足らずで埋まる。これも乱伐のせいだという。これにも裏付けがある。
 根子川上流にまだブナの残されている「オットノ沢」がある。この沢と背中合わせに皆伐された「名無し沢」があった。先の豪雨で「オットノ沢」は、草木、石の位置も変化がなかった。しかし、「名無し沢」は土砂や乱伐の残骸をどっと押し出した。志田さんは、ブナが自然の砂防ダムの役目も果たしていることを改めて知った。――
 片山さんの『ブナの森』には川がこのようになった結果を語るもうひとつの事例があります。
 ――鶴岡市加茂に、県内唯一の庄内浜加茂水族館がある。いま、夏休みに入って家族連れでにぎわっている。館長村上竜男さんがこのほど1冊の本を出した。「山形の魚類たち」という新書本である。川や海の魚たちが50数匹登場、楽しく紹介されている。
 ページをめくると、最初に紹介されているのがイワナである。
 それもそのはず、村上さんはイワナ釣りの名人として広く知られている。
 村上さんを訪ねると、名人は開口一番、「営林署のブナの切り方には、全く憤慨しているのですよ」という。イワナはブナ林に囲まれた谷川に多く生息しているからだ。憤慨に耳を傾ける前に、村上さんと釣りの触れ合いについてちょっと述べる。
 村上さんは山形大学農学部を卒業すると、東京の商事会社に就職した。
「7階のビルに住んでいた。窓の外には山も川もなかった。土もなかった。横浜に出張し、山の木々をみた時、最高に感動した。人間にとって緑が必要なことをしみじみと知った」
 毎日、ふるさと羽黒町の山や川を思った。そして、子どものころ、家の近くの小川でドジョウ、エビ、ナマズ、カニをつかまえたことが、懐かしく浮かんでくるのだ。「よし、ふるさとに帰ることができたら、ブナ林の中を歩きながら渓流釣りをやるぞ」。心の中に決めた。村上さんはそれまで釣りをしたことがなかった。
 3年後、鶴岡市に帰った。大学での専攻が応用動物だったので、水族館に勤務することができたのである。昭和41年(1966) のことである。そして、東京で夢にまでみた渓流釣りを始めることになった。
 村上さんがイワナを求めて最初に入ったのは笹川。源は月山である。面白いほど釣れた。
 ところが、5〜6年後、川の水に変化が見られるようになった。雨が降るたびに、水が急に増えるようになったのである。それまでは、雨が降っても降らなくても、川の水はあまり変わらず、安定していたのである。
 上流に石倉地区があった。戦後、開拓で10世帯が入植していた。ところが、たびたび洪水にあい、田畑が土砂で埋まった。このため、4〜5年前に10軒が移転した。村上さんは話す。「洪水がひんぱんに起こるようになったのは、月山道路ができ、流域のブナが伐採されたためだと思います」
 川のいたるところに砂防ダムができた。川岸もコンクリートで固められた。最近では洪水も制圧された。しかし、イワナは当然のことながらとれなくなった。――
 ――笹川が砂防ダムで固められると、イワナが姿を消した。このため、村上さんは同じ月山山ろくを源とする今野川で釣りを始めた。当時はまだ釣り人が入っておらず、100匹ぐらいの釣果は珍しくなかった。「本流の流域のブナはすでに切られていた。しかし、支流の竜渡沢の周囲はまだ伐採されていなかった。水のにごる様子をみるとすぐわかる。雪シロ(雪解け水) で本流がにごっていても、支流はきれいな水でした。そのうち、支流がにごり出したので行ってみたら、全くのハゲ山になっていました」。ブナ林は、水の流れを調整する緑のダムでもあるのだ。
 雪シロが始まると、ブナの葉についていた青虫(ブナアオシャチホコ) が川に落ちてくる。青虫はイワナの好物である。青虫に限らず、バッタ、トンボ、コオロギなどの昆虫も食べる。ブナ林が消えると、昆虫の数も少なくなる。したがって、イワナも減ってくるのだ。――

●山は変わる

 山人たちの村では、もっとも身近な狩猟はウサギ捕りであったようです。太田さんが『ブナ林に生きる』で書紹介しているのは、大鳥(山形県東田川郡朝日村) の古老、工藤源吉さんの話です。
 ――「昔、俺がたちっちぇえ(ちいさい) 子どもの頃からおらいの家の近くの山さ、みんな自由にウサギワッカかけて山ウサギ(ノウサギ) 捕*ツカめて食ったもんだ。そして川のそばや堰ばたさもイタチの箱落としをしかけて、イタチの皮取ったもんだ。その頃だば今とちがって、山さウサギ、川ばたや田んぼさイタチが好ましいほどいっぺえ(いっぱい) いたし、山ウサギもイタチもおもしぇえ(おもしろい) ほどかかったもんだ」
「んだのお、ウサギのワッカ20くらいかけて、1日で最高9匹つかめた(つかまえた) ことあるのう。イタチだば秋遅くから冬さかけて、村の家の流しのそばさ箱落としをかけておくと、毎日必ずおもしぇえ(おもしろい) ほどかかって、しめた(つかまえた) のう。山ウサギだばウサギ汁にして食ったあと、むいた皮はイタチの皮といっしょ売ったもんだ。この頃だば物のねえ頃ださげ、ウサギだのムジナ(アナグマ) だのマミ(タヌキ) だの、それからテンやイタチ、キツネ、カモシカなどどげだ(どんな) 毛皮でも売れたもんだ。んださげ、俺がた子どもの頃だば、主に簡単につかめらいる(つかまえられる) 山ウサギとイタチばっかり捕めて小遣え稼ぎしたもんだ。その当時なんぼで売れだか忘れてしまったども、子どもとしてはいい金とったもんだぜ」――
 それがいま、ハクビシンの進出という難問に頭をかかえているというのです。ハクビシンはタヌキに似た、ジャコウネコ科の動物で、保護獣に指定されています。
 ――「んでも、ハクビシンの野郎だば、山ウサギやキジ(ヤマドリのこと)、生き物何でも捕って食うさげ、山の生き物いなぐなってきたなやのう。まんず恐ろしいほど、生き物の足跡が見られなぐなったものう。去年だばテン4つしか捕らねえぜ。このままほったらかしておくと、山さほんと生き物いなぐなってしまうぜ。何とかしねばダメだ。太田さん」
 たしかにこの5〜6年ほど、ブナ林の冬山から早春の低山を歩いていると、サル、テン、キツネ、イタチ、オコジョ、ヤマドリ、カケスなど多くの野生動物たちが活動し、戯れ遊んだ足跡が急速に減って見られなくなったことを実感している。とくにウサギとヤマドリの姿、足跡が著しく減少し、山のブナ林の生態系に異変でも起きたのではないかと思えるほどである。それはウサギ、ヤマドリに限らず、ツキノワグマとカモシカを除いた他の動物たちに共通してみられる現象のようだ。そのかわり、
ハクビシンのものと思われるキツネによく似た足跡が多く見られるようになった気がする。
「あどこれ以上山ウサギとヤマドリどご減らしてはだめださげ、ハクビシンも保護獣からはずして、せめて猟期間だけでも頭数決めて捕らせればいいと思う。太田さんや、おめ県でも国でもいいさげ、このこと話してくれねえがや」と、源吉じいやが私に頼みこんだ。――
 この工藤源吉さんが生まれ育った山形県の朝日村と、山人の里・三面があった新潟県の朝日村とを結んで昭和58年(1983) に開通した朝日スーパー林道は、総延長52.1kmの間、集落は1つもありません。片山さんの『ブナの森』はその開通前後をルポしています。なおスーパー林道は国立公園の範囲からは西に少しはずれたところを走っています。
 ――新潟・朝日村の中山与志夫村長は言う。
「いままで国有林は眠っていた。スーパー林道ができたのでやっと、目を覚ますことになった。これまでは、貴重な森林資源を風倒木で朽ち果てさせていたのですから」
 しかし、山形側の場合は、県境近くに鉱山があったので、すでに道路ができていた。このため、ブナはほとんど伐採されている。ブナ原生林は新潟側に多く残っている。
 国鉄羽越線の村上駅の近くに森林開発公団村上建設事務所がある。スーパー林道に着工してから3代目所長神庭啓久さんは、18日の完工式の準備で忙しそうだった。「起点から15kmほどは人手が入っていますが、あとは県境まで原生林です。ケヤキ、コナラ、ミズナラなどの落葉広葉樹だが、約90%がブナですよ」
 樹齢は150〜200年ぐらいのものが多い、という。神庭所長は意外なことをいった。スーパー林道ができても、林業経営はちょっと、むずかしい、というのだ。
「あの辺の山は瓦礫*ガレキで、地質が悪い。表土が浅いため、ブナを伐採した跡にスギ、ヒノキなどの拡大造林は無理。いまのままの状態で保護しなくてはならぬ山だ」
 積雪も7〜8mもある。
 神庭所長は、朝日スーパー林道は大自然の管理、保護のために使われる、という。しかし、中山朝日村村長は、未踏の大森休の目を覚ましてもよいが、スーパー林道の両側、50m幅のブナは伐採しないでほしい、と申し入れをしている。営林署が、この豊富なブナ資源を伐採、十分に活用したい、と考えていることを知っているからだ。
 朝日スーパー林道は、豊かな森林山岳地帯を抜ける。新潟県側は村上営林署管内。同営林署ではブナ原生林の中に道が通ったことで“仕事”もやりやすくなった。当然、伐採を含めた事業計画の見直しをすることになる。
 同営林署の藤田栄署長は話す。
「各営林署では、10年間の事業計画をつくり、それを5年ごとに見直している。いまの事業計画は昭和57年(1982) に作成されたものだ。スーパー林道ができたので、現地に適応した実施計画を昭和62年(1987) までにつくることになる」
 同営林署の調査によると、ブナは樹齢120年以上たっており、伐採期にきている、という。藤田署長は、原生林のすばらしさを示すため、1枚の写真をみせてくれた。ふた抱えもありそうなケヤキが写っていた。事業計画の見直しで、すでに現地の朝日村と話を始めている。ブナ原生林の伐採に意欲をみせているのだ。
「現地との話し合いの時、中山村長さんから、スーパー林道の両側のブナ林を幅50m残してもらえないか、という申し込みがあった。皆伐されると、原生休の景観が台無しになるとの意見のようでした」
 村ではスーパー林道を観光の目的に利用したい考えをもっている。そのためには、どうしても、目にはいる範囲の原生林は残してもらいたいのだ。藤出署長は率直に認める。
「私のところの台所の事情を考えると、切らせてもらいたいのですが……」
 というのは、林道沿いに形質のよいブナが生えているのだ。尾根近くになると、真っすぐに伸びた形のよい樹木は少ない。
 同常林署では、沢沿いに3本の支線林道をつくり、スーパー林道と結ぶ考えだ。こうして、原生林にオノがはいり、どんどんブナが伐採、連び出される。同一帯は、岩山が多く、生産性の少ない山だ。スギなどの人工造休は期侍できそうもない。
 結局、ブナ山はブナにかえすしか方法がない。このため、同営休署では、皆代方式をとらず、帯状にブナを残すという。保残帯をつくり、ブナの天然下種更新をはかろうというわけだ。
 ブナは根が浅いため、風に弱い。ブナ原生林の中にスーパー林道が通っただけで、そのすき間が風の通り道になり、昨年9月の台風で約100立方メートルのブナがなぎ倒された。代採跡に保残帯をどれくらいの幅で残すのか、ひとつの課題になりそうだ。
 朝日スーパー林道の起点の地名が岩崩。その地名の通り、同一帯の山は崩れやすい。ブナ伐採で当然、治山治水も大きな間題になろう。――
 時が結果を明らかにしてくれるというわけです。

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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