毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・22・雲仙天草国立公園」
1995.2――入稿原稿
■国立公園物語…雲仙天草
●内海にふたする火山
九州の地図を見ながら、島原*シマバラ半島と天草諸島がなかったらどうだろうと考えてみます。するといま有明海だの島原湾だの八代海(不知火海) と呼ばれているおだやかな内海は、東シナ海に向いて開いた大きなひとつの湾となるのです。東京湾のように懐の深い湾ではなく、口の大きな浅い湾となってしまいます。
そういうイメージから出発すると、島原半島と天草下島*シモジマと、その他多数の島々でうまいぐあいにふたをしたかっこうになっていることに気づきます。
そのふたは、しかし各所にすき間があります。島原半島と下島の間にあるのが早崎瀬戸。下島と長島の間が長島海峡、長島と九州本土の鹿児島県阿久根市との間が黒之瀬戸。この3つの狭い水道によってかろうじて外海とつながっているのが有明海であり島原湾であり、八代*ヤツシロ海(不知火*シラヌイ海) であるのです。
東シナ海(天草灘) に面しながら裏には複雑な海岸線をもつ内海を隠しているというこの地域の特殊性が、しだいに見えてきます。たとえば天草四郎を旗頭とした天草一揆の島民たちは合計1万2000人といいわれる大軍勢のまま小舟に分乗し、一夜で島原の原城へと押し渡って島原の一揆勢と合流しています。「国境」を越えての自由な交流を可能にしていたのも、その内海でした。
この九州西部の“瀬戸内海”のふたの部分がおおよそ雲仙天草国立公園となっているのですが、「雲仙」は塩原半島の骨格となっている雲仙火山の山体、「天草」は天草諸島の外海・内海の海岸線が国立公園というわけで、火山と海がワンセットという、いかにも日本的な組み合わせになっています。
そこでまず、雲仙といえば、いま激しい火山活動を続けているのは普賢岳ですが、その普賢岳と島原市街との間にそびえる眉山が突然崩壊したのが寛政4年(1792)。このときには島原側で9,000人の死者が出たほか、内海の対岸にあたる肥後・天草地方を津波が襲い、さらに6,000人ほどが亡くなったと記録されています。「島原大変、肥後迷惑」といわれた日本最大の火山災害でした。
それからちょうど200年、今回の普賢岳噴火に関して、火山災害という視点で読み比べることのできる3冊の本が島原市内の書店に並んでいました。
1冊は行政の当事者。ヒゲ市長として有名になった前・島原市長の鐘ヶ江*カネガエ管一さんの『普賢、鳴りやまず』(1993.9、集英社) です。「ヒゲ市長の防災実記763日」というサブタイトルがついています。
もう1冊は火砕流と土石流の被害を受けた深江町の町民で避難勧告域内に建つ自宅からは普賢岳を正面に見ることのできる小林松太郎さんの『雲仙噴火の日々』(1992.8、福岡市・葦書房) です。もっともこちらは長崎市の潮の会というところが発行する「潮」という文芸誌の第9号(1991.5) と第10号(1991.10) に発表されたものを含んでいますから1991年5〜6月の大火砕流・土石流発生と、それに始まる避難生活がまだ生々しい現実である時期に発表されたのです。島原市内に勤めるサラリーマンでもある小林さんは、行政の動きとマスコミの働きぶりを冷めた目で“観戦”しながら、旧かな・新字体のみごとな文章をつづっていきます。
3冊目はフリーランスのジャーナリスト江川紹子さんの『大火災流に消ゆ』(1992.11、文藝春秋) ですが、これは1991年6月3日の大火砕流の犠牲となった死者・行方不明43人のうちの報道関係者、とくにカメラマンに絞って、なぜ彼らが死ななければならなかったのかを追求したドキュメントです。しだいに明らかになってくるマスコミと普賢岳の関係から、カメラマンたちの「死」が意味するものを解きあかしていきます。あとがきによるとこれは「週刊文春」の1992.1.23号と同1.30号に掲載されたものの単行本化だそうです。
さて、『ヒゲ市長の防災実記763日』は、6月3日の大火砕流発生によって、居住者をも含めて誰も立ち入りを許さない「警戒区域」を設定したがゆえに、公的な補償の実現を叫ばなければならなくなった行政責任者の苦闘の日々をまとめています。
――一般的な自然災害では「自主避難」というのが多いはずです。避難勧告地域に指定されていなくても、自主的に避難する場合です。行政としては、そのような避難者にも、避難場所の提供や、避難当日の弁当の支給というような対応はします。しかし、その方々が、われわれも避難したのだから、警戒区域、避難勧告地域の住民と同じように、支援策を適用してくださいと言っても、それはできないのです。たとえば、50万円の無利子の融資とか、避難生活中の食事の供与、また、義援金の配分といった支援策は自主避難者には認定になりません。行政の公平な線引では、自主避難された方は、警戒区域や避難勧告地域の住民のように生活上の不便、不利益を被っていなかったとみなされるからです。
災害発生の当初、島原市と深江町では、避難勧告や警戒区域の設定には、時間的にズレがありました。同じ水無川流域でも、島原市側は避難勧告であっても、深江町側は自主避難だったというようなこともありました。そのような場合、応急救済対策など、行政が行う救済策に、差が生じてくることもあるのです。
考えてみましたら、同じ災害で、島原市と深江町で、行政の対応にばらつきが生じるというのは、法の下の平等の原則からもおかしいですし、緊急時の防災システムとしても不便です。
たとえば、警戒区域が設定されると、道路規制は県警が担当します。ところが、いまから、ここは立入禁止にしますという決定は、島原市長が、または、深江町長が行うわけです。交通規制の実行は警察ですが、道路は、国道、県道、市町村道と道路管理者が分かれますから、何月何日何時より、どの地域を警戒区域にするとなると、互いに連絡協議をしなければなりません。
複数の市町村にまたがるような大規模災害では、とくに、警戒区域の設定を行わないといけないという段階は、災害の危険性がすぐそこまで迫っているという緊急を要する事態ですので、知事の権限で判断できるように法改正されるべきではないかと思います。
それと、さきほども述べましたが、今回の普賢岳噴火災害は、住宅密集地域における初めての警戒区域の設定でした。地域住民と密接な関係にある市町村長にとって、強制退去と個人の経済的損失への非補償を前堤とした、現行の災害基本法第93条の判断は、両刃*モロハの剣です。
住民の生命身体の安全を第一にしたくとも、もし、結果として、その地域の手前で災害がとどまった場合は、必ず住民から経済的損失に対するクレームが提起されます。住民の生命安全と財産保全の間に板挟みになって一人悩むのは市町村長です。島原市の先例を機会に、少なくとも、住宅密集区域での警戒区域設定の発令は、市町村長に決定させるのではなく、都道府県知事、または、国の責任において決定されるようになることを、切に希望いたします。
次に、警戒区域や避難勧告の区域設定の科学的な根拠の問題です。警戒区域や避難勧告地域は、専門家の方々のご意見もお聞きして、被災予想地域を割り出し、市町村長が決定します。洪水、土砂崩れ、山火事といったような災害ですと、その危険性の認定は、市町村独自でも判断がつきます。ところが、火山災害、地震災害などは、専門の研究機関の力をお借りしない限り、市町村で独自に判断することは不可能です。
住民の方に避難勧告に従っていただく、または警戒区域設定という不便を理解していただくには、危険であるという理由に説得性がないといけません。現在の火山活動の状態はこれこれであり、溶岩ドームの状況がこうですから、火砕流発生のおそれがどうであるとか、余震の可能性はどうであるとかいう、危険性の根拠について述べなければならないケースもあります。
ところが、たとえば、
「火山噴火予知連絡会の統一見解によりますと、予知連ではこれこれ危険な状態だと指摘されておりますので、警戒区域を設定します」
というような発表はしてはならないということになっております。
予知連の会長代行が、気象庁の方と島原に1カ月間常駐して警戒観測されたとき、最初に、うちの名前を使ったらいかんですよ、予知連がどうこう発表したから、警戒区域にするとか、避難勧告を解除するというようなことを言ってもらっては困ると、まず釘を刺されました。われわれの名前を使われたら、われわれの責任になってしまいますからとおっしゃるわけです。では、誰が責任を取るのか。現行のシステムでは市町村長が責任を取るしかないわけです。でも、こちらは専門家ではないですね。
眉山崩落のデマの間題でもふれましたが、測候所が出す臨時火山情報や緊急火山情報は、マスコミを通じてニュースとして流されます。危険だ、危険だという予測は無制限に流されておるわけです。
ところが、避難防災の基本ともなる警戒区域や避難勧告地域の設定に際して、火山活動の予知についてもっとも権威ある団体が把握している情報を、行政がそのまま利用してはいけないという矛盾を抱えているのです。――
●普賢岳噴火災害報道の最前線
江川さんの『大火砕流に消ゆ』はその大火砕流で命を落としたカメラマンたちの具体的な足取りを明らかにしつつ、それが犬死ではなかったのかという問いを突きつけながら、市民の「知る権利」のために働くべきマスコミの姿勢を糾*タダしていきます。
――通常は大きな事件があった時、最前線に警官隊、その後ろに報道陣、そして一番安全な所に一般市民がいる。ところが、島原ではその順番が違ってしまった。一番前に住民と自衛隊、それより下がって警察、さらにぐっと後方にマスコミがいるのだ。
こんなことがあった。夜10時過ぎにかなり規模の大きい火砕流が発生し、その流れの方向からみて山火事が起きる心配があった。報道各社から自衛隊広報センターに問い合わせが相次いだ。
「火砕流の先端から民家まで何メートルくらいですか」
「山火事は起きていますか。確認して下さい」――
――現場に出ようとする報道関係者がまったくいないというわけではない。ある時、水無川にかかる橋のたもとで、一人のカメラマンに会った。見るからに報道関係者だと分かった。
「どちらですか」
そう尋ねたが、彼はなかなか素性を明かそうとしない。結局、ある新聞社だと分かったが、
「人に言わないで下さいね。ここに来たことが分かるとまずいもんで」と釘をさされた。
私を赤松谷まで連れていってくれたある住民は言った。
「報道陣の中には、奥まで行きたいという人もいる。俺も連れて行ってやったことがある。なのに、その結果は新聞には出ない。会社が止めてるのか、そのカメラマンが自己規制しちゃうのか知りませんが、せっかく見て、撮ったのに、それが載らないんです」
毎日新聞のあるカメラマンは「私がフリーの立場だったら、自分で状況を判断して、大丈夫だという時に奥の方まで行ってみたい。でも、うちは3人も死んでるでしょう。なかなかそういうわけにはいかんのですよ」と残念がる。
そしてテレビ局のあるデスク。
「私自身は、中の映像を撮ってみたい。でも、部下に行ってみろと言うわけにはいかないし、これ以上犠牲者を出すことはできない」
6.3の後遣症は実に根深い。また、本当に取材する意欲のある者ほど、悩みも深い。
私も警戒区域の中に入ることを是としているわけではないし、ましてややみくもに危険地帯に突入することを勧めているわけでは決してない。ただ、行政の引いた1本のラインを絶対視し、無条件に服従してしまうという今の報道陣の姿勢に不安を感じてしまうのだ。報道関係者一人ひとりが判断することを放棄してしまった現状に疑問を抱くのだ。あるいは、個々の記者がせっかく取材したことを、その自己規制ゆえに報道できないということに、納得がいかないのだ。それにもまして、自分がやらない仕事を成し遂げた他者を、警察の手にゆだねようという根性が私は気に入らない。
そんな中で第2の“ご注進事件”が起きる。今度は朝日新聞だった。
……普賢岳で無許可撮影?「フォーカス」掲載・島原署が調査。〈立ち入りが禁止されている長崎県雲仙・普賢岳の山頂付近に、無許可で入って撮影されたとみられる溶岩ドームなどの写真が、写真週刊誌「フォーカス」(新潮社発行) に掲載されていたことがわかり、長崎県警島原署は災害対策基本法違反の疑いもあるとして、事実関係の調査を始めた。咋年夏には、ルポライターが無許可で警戒区域内を取材して書類送検されている〉(92年4月29日付)
九州地区に配られた版は、なんと社会面のトップという仰々しい扱いだった。
私はすぐに島原署に問い合わせた。次長が応対した。
「いやいや、まだ捜査なんかしていませんよ。事件として捜査するかどうか、これから調査する段階。朝日新聞の記者が来て、『フォーカス』の記事をどう思うかと聞くので、事実関係を調査しますよと答えただけです』
何のことはない。実態は前回の読売の一件と大同小異。朝日の記者が警察を焚きつけているも同然だ。それに見出しからすると、同紙は、取材というものはおカミの「許可」を得てはじめてできるものと考えているらしい。
『フオーカス』に掲載された写真は、真っ黒なドームの割れ目から赤々とした溶岩がのぞいている場面、溶岩ドームの裏側の普賢神社、黒い煙を巻き上げながら流れ落ちる夜の火砕流など、まるで生き物のような普賢岳の素顔を伝えていた。
この写真を撮ったのは、地元の自営業者でアマチュアカメラマンの山宮良男(仮名)。自身も一時は避難生活を送った身でありながら、噴火してからこのかた、山を見、撮り続けてきた。何度か山の頂上に上り、そこから溶岩ドームの状況を撮影したり、半ば崩れそうになっている神社に参拝したりしている。彼が熱心に山を撮り統けるのは、一つはこの普賢神社の氏子だからだ。――
この人物は、県の災害担当者にも頼まれてビデオテープを提供している。写真を見たい人には見せ、撮影ポイントを知りたいカメラマンにはプロとアマチュアとを問わず教えてきている、と江川さんは書いています。
――彼はやみくもに危険区域に突入するわけではない。普賢岳の登山ルートは、自分の庭のように知り尽くしている。そのうえ毎日山を観察し続け、特に天候や風向きには細かく気を配る。警戒区域に入る時も、撮影している最中も、常に風の方向を確かめる。
「火砕流は風に弱いんです。ちょっとでも風が吹くと、風下に流される。だから、風上から撮るのが鉄則です」
かなり山から離れて素人目には安全だと思われる地域でも、そこが風下になれば彼は場所を変える。
「危険だと言われれば危険です。でも危険な場所でどうやって自分の身を守って、安全を確保するか。それは自分で判断する」
本来はプロのマスコミのカメラマンが吐くはずの言葉だろう。そして何より彼は、自分の責任において、山を記録し続けているのだ。――
3冊目は地元の一市民として、行政とマスコミに翻弄されながらも自分のささやかな「生活」を守ろうとする小林松太郎さんの日記です。これを読み合わせることによっても、行政とマスコミの姿が見えてきます。
――7月15日。雨のち曇、夜また雨。山は静かで「表面的には小康状態だが、マグマの供給は依然続き火山活動は活発で、爆発的噴火と大規模火砕流に地元では厳重警戒」とテレビ。「噴火」と「火砕流」の順番が、ときどき入れ替る。キャスター諸氏は毎日繰り返して、滑稽だとも思はないのか。
ドームはまた20m伸びて、昨日で470mになつた。14日「午後4時までの24時間で449回」(朝日新聞) と、今までで最も頻繁な崩落。東斜面を流れる(崩落する) 明るいオレンジ色の溶岩と赤く燃える夜空の朝日の写真(14日午前0時20分から10分間露光、布津*フツ町で) は、縦位置で直下に深江の町の明りも見えて切迫感を煽る。長崎新聞は「数十分間、山の斜面を焦がす」赤い溶岩塊の炎のクローズアップ(13日午後9時半ごろ、深江町で)。「島原市に噴石を降らせた6月11日の爆発的噴火以降、表面的には小康状態を保っている」火山活動がこのまま「収まるのでは」との住民の「希望的な見方」に対して「火山学者間の見方分かれる」といふ記事が長崎新聞にある。「火道が熱せられ、マグマが高温のまま地表に噴出、溶岩流の状態に」なったとして「今後は大火砕流や大爆発の発生は考えにくい。活動は最後のステージに入った」との「見解」を述べる終熄説。片や「マグマの供給は衰えて」ゐないから「活動のレベルは(大火砕流が2回続いた) 6月上旬と全く変」らず「終息の兆候は一切ない」と「力説する」危険説。また「マグマの供給と崩落がほぼ見合う絶妙なバランス状態」だがドームの「亀裂が広がり、大きな崩落が起きると大火砕流になる恐れ」と「指摘する」中庸論。三者三様のご高説には、街頭易者でもあるまいにと、恐れ入るのみ。
朝日新間が7月9日から14日まで6回連載した「火の山を問う/雲仙はいま」でも、各大学の名誉教授、教授、助教授の先生方の揃ひ踏みを熟読し、それぞれ真面目に研究を重ねてをられるのはよく理解できても、各論各説に素人は戸惑ふばかり、結局は何も分らない。自然が相手だから天気予報と同じく厳密には「分らない」のが当然で、それは仕方のないこと、学者の権威で「分つたやうな」論を掲げて住民を迷はせ、あるいは行政の責任回避の道具になる状況は情けない。――
――8月26日。警戒区域は9月5日正午まで、今度は小出しに10日間、5度めの延長と決定。勝手におやんなさい。
午前中に例の詩人から「灰がひどい」と大騒ぎの電話。後でラジオを間くと、昨日に続く北東側の火砕流で深江と布津方面に大量に大量の降灰の模様。(避難勧告地域の) わが家はまた灰だらけか。――
――8月27日。晴。昨日、北東側で断続した火砕流は、火口から2kmの距離を流れ下り、唖ガ谷の途中にある凹地の板底(古記録に東西二町、南北一町許、中窪クシテ、池ノ如ク、草木生ゼズ、土青色ヲ帯プ、寛政地変数年ノ後、樵者死セル事アリと見える処か) で止つたが、温度は200度以上で吸ひ込んだら即死するといふ熱風が、北側の斜面を駈け登り、谷から標高差約50mの垂木*タルキ台地の頂きに達したといふ。地元にゐても普段は馴染みのない地名の続出で、手近にある地図では見当らず、等高線をたどつて見当をつける。
垂木台地から南千本木*ミナミセンブキの民家まで、水平距離で約500m、住民は自主的に避難した。島原市の対策本部は夕方チラシを配って「注意を呼び掛けた」が「現在はまだ避難勧告を出す状態ではない」(長崎新聞)。
6月3日の水無川火砕流に吃驚*キツキヤウたまげて警戒区域設定をしたものの、うかつに出したら引つ込みがつかない法律の化け物の恐ろしさを、島原市長は身にしみて感じてゐる筈だ。しかし中央ドームはどんどん成長を続けてゐるから、崩落が続いて板底の凹地が埋れば、千本木*センブギは上木場*カミコバと同じことになる。一度前例を作つたからには「人命尊重」の立場から、千本木の警戒区域設定も当然の経過とならうが、ここで再度の愚行を重ねることなく、過ちを改めるに憚*ハバカることなく、官僚知事の反対など撥ね除けて、水無川の警戒区域を解除する勇断は、髭面の市長に望むべくもないか。
以後は、時に応じて必要な地域に避難勧告を断続すればいい。避難勧告は「空振りを恐れず」(NHK解説委員が前にさう言つてゐた) 出し、観測態勢を強化して、冷静沈着果敢に、その都度解除することだ。3箇月も警戒区域設定を続けて無人の地を放置してゐる現状は空振りどころか、全くの試合放棄に等しい。――
●「五足の靴」と大江の天主堂
天草で天草についての本をさがすと、かならず名前が出てくるのは大正元年(1912) 生まれの濱名志松*シマツさんです。濱名さんは故郷天草で小中学校の教師になり、教育畑を歩きながら郷土に根ざした作家活動を続けてきた人のようです。『九州キリシタン新風土記』(1989年、福岡市・葦書房) という744ページの大冊で九州全土におよぶキリシタン遺跡の探訪記もありますが、ここではまず『5足の靴と熊本・天草』(1983年、国書刊行会) を取り上げます。これは35歳の与謝野寛(鉄幹) が4人の大学生詩人たち…北原白秋、木下杢太郎、平野万里、吉井勇とともに敢行した約1カ月の九州旅行にかかわる本です。濱名さんはこの5人の天草への旅を、天草の歴史にとっても日本文学史にとっても大きな出来事と受け止めて細部にわたる「発掘」作業を続けてきたようです。
まず、明治40年(1907) の夏に「東京二六新聞」というのに連載されたという「五足の靴」の山場の部分を濱名さんの本から紹介しておきたいと思います。5人は平戸、長崎を見た後、天草下島の富岡に渡り、西海岸を徒歩で大江まで、8里(約32km) を一気に踏破しようと出発したのです。まずは8月20日の掲載分から。
――富岡より八里の道を大江に向ふ。難道だと聞いた。天草島の西海岸を北より南へ、外海の波が噛みつくがりがりの石多き径*コミチに足を悩ましつつ行くのである。土痩*ヤせたる天草の島は稲を作るに適せぬ、山の半腹の余裕なきに余裕を求めて甘藷*カンショを植ゑる。島民は三食とも甘藷を食ふ。
或る処は川が路である、点々たる石を伝ふて辛じて進む。その多くは塁々として砂礫尽くるなき荒磯左に聳*ソバダつ嶮山*ケンザンの裾を伝ふて行く。足早き人K生(与謝野鉄幹)、M生(木下杢太郎) はずんずん先へ行く、目的はパアテルさんを訪*オトナふにある。足遅き人I生(吉井勇)、H生(北原白秋)、B生(平野万里) は休み休みゆっくり後から来る、目的は言ふが如くんば歴史にあらず、考証に非ず、親しく途上に自然人事を見聞するにある。大岩に罅*ヒビが入り象形文字の様に見ゆる断崖のもとを廻る処で紛*ハグれてしまった。顧みれば淡く霞んで富岡半島がまだ見えた。三里か四里は来たらう。
茶屋の婆*ババアに婆さんの言棄はちっとも分らぬと言ふと、あんた方の云はっしゃる事も分かりまっせんと言った。婆さん子供があるかい。ありますとも。幾つだい。幾つだって大勢居るさあ。爺さんは居るのかね、爺さん居らつさんば、一寸楽みも無かとで御座いますたい。とやったので皆吹出してしまった。歯抜け婆さんの愛嬌*アイキョウのある事よ。
暫く行くと先に立ったH生がぴたりと止った。五尺余りの大かがち、紅き地に黒き斑を物凄く染め出した縞蛇が犬の頭程の蟇*ガマを呑みかけてゐる。岸を打つ波の音は自い、山を吹く風は青い、その間を縫う径の中央*マンナカで蛇が蟇を呑む。
三生(I、H、B) 暫くは呆れて恨を見張って突立った。人ありと知るや知らずや、蛇は長き体をうねうねとうねらせて草の中へ引きずり込もうとする、蛙*カエルは弱いが重い、前足の一つを噛ませて固く執って動かぬ、或は既に死んだのか知れん。強者弱者を食ふ比ぶるものなき残忍なる行為だ。自然の一部には眦*マナジリをさいて呪ふべきものがある。
やはか許すべきと路傍の大石を空高く振り翳したるI生は近*チカヅいた。やっと言ふと蛇は砕けた、と思ひの外どうも無い、打たれて痛かったのか暫くは動かぬ、今度は赤い舌をぺろぺろ吐いた、吐いた舌を従順なる蟇の背へ向け食ひついた、くわっと怒ったI生は此時他の石を拾った、今度はと思ったが失策*シクジった。中*アタつたがが死なぬ、するすると伸びて叢へ逃げこんだ、そら来たといってI生は海の方へ逃げ出した、B生もあわてて逃げ出した、H生は後の始末を見屈けて、何れも波打際に転がって居る石を渡って行く事にした。
途に小さい炭坑があった、古ばけたボイラーが破れた家根の下で燻って居る。山を腹に穴を明けて石炭をえぐり出す、奥を見ると真暗な穴の入ロに裸の男が暑さうに寝て居た。
暫*シバラく行くと道は山へ登る、羊歯*シダが青々と一面に繁って暖き南の国の香を送る。脚下の自い波をたどると水平線が大分高まって居る。杉の木立が黒ずんで山麓を飾る、その間から紺碧*コンペキの海が見え、涼しい風が吹く。汗は背、腹を洗ひ、頭から流れるものは眉*マユを溢れて頬*ホホに伝ふ。水あれば水を飲み、茶あれば茶を呼ぶ、今朝から平均一人五升も飲んだか、腹がだぶだぶする、胃はもう沢山だといふ。喉はもっと欲しいと促す、勝は常に喉に帰した。
山の方が道は楽である、峠を越す事二つ三つにして下津深江*シモツフカエといふ湯の出る港へ着いた。午後二時。先着のK生M生が待って居た。農事講習会の災する処となって茶星も宿屋も断られ、大いに困って此処へ頼んだといふ、瀟洒*ショウシャなる物売る家の二階に通る。
老主人来る、頗る慇懃インギンである。一体この辺の言葉はとんと素人には分らぬ、それかあらぬか、老人は気を利かして一切土語*ドゴを語らぬ。「君達は」と口を開いた、これは最上の敬称代名詞の積りと見える。「いづ方へ参られまするか。」又言ふ「道は甚だ険道*ケンドウでありまするとは雖*イヘドも。」又言ふ「必ず以て参られまする、は、は。」その代りよく分った。梅干も奈良漬も皆甘かった。一睡して、大江迄もう四里、訳はないと、三時を過ぐる幾分に出かけた。――
これは5人の匿名連載なので誰が書いているかは明らかになっていません。しかしこのあたりはH生の北原白秋ではないでしょうか。この日の後半分は翌日に掲載されました。
――高浜の町は葡萄*ブドウで掩はれて居る、家毎に棚がある、棚なき家は家根に葡*ハはす、それを見て南の海の島らしい感しがした。豆を豆殻より離さむと、槌*ツチもて筵*ムシロを打つ子がある。三生(I、H、B) は橋に凭*モタれて暮れゆく雲を見る、二生(K、M) は富岡に倣ナラって駐在所を訪*オトナうたが留守だ、昔の大庄屋の家へ出かけ天草の乱の考証中である、此処*ココは面白い、宿*トマらうというH生の提議もパアテルさんには敵*カナはん、H生は詩を作る。
……わかうどなれば黒髪の
香をこそ忍べ、旅にして
わが歴史家のしりうごと、
「パアテルさんは何処に居る。」
……南の海の白鳥の
躯*ムクロうかぶと港みて
舟夫*カコらはうたふ。さりながら、
「パアテルさんは何処に居る。」
……遍路か、門*カドに上眼して
ものものしげにつぶやくは、
「さて村長*ムラオサよ」またしても
「パアテルさんは何処に居る。」
……葡萄の棚と無花果*イチヂクの
熱きくゆりに島少女
牛ひきかよふ窓のそと、
「パアテルさんは何処に居る。」
……かくて街衢*チマタの紅き灯に
三味もこそ鳴れ、さりとては、
天草一揆、天主堂、
「パアテルさんは何処に居る。」
パアテルさんの事は明日誰かが書く。日は沈んだが一里だ、行って仕舞へといふので出かけた。二生は先へ行く、三生は後からぶらぶらと行く。だんだん暗くなる、自然の上に荘厳の色が加はる。醜いものを消してしまひ、常のものをぼかして美しくすると共に、美しいものを愈々*イヨイヨ美しくする。
道は山へ登る、凄く美しいと思って潜った杉の木立も次第に恐ろしくなった、地獄へ入る思ひがする。山腹の段々になった芋畑が蛇の腹の様に見えて怖ろしい、怖ろしいと思ひ乍*ナガら登って行くと先行の二生が待ってゐた。もう少しだ、薄明のある内に早く越えてしまはうと茲*ココで五足の靴が合して、とっぷり暮れた山道を傍眼*ワキメも振らず、労*ツカれた足を乗せて行く。微*カスカに明るい空には夕立の雲が直*スぐ降るぞと表れて居る。振り返ると遥か底の方に高浜の灯が見える。
山の真中だ、人の声はもとより無い、鬼気肌*ハダヘに迫って来る。踏む所は相変らずガリガリの石の上である。躓*ツマズき乍ら、分れ道のあるのに直なる方を取って、づんづん進んで行ったのが抑々*ソモソモ誤りの第一歩であった。道は次第に狭くなる、I生がどうも怪しいと言ひ出した、M生はなに大丈夫、あの山の峰の森が切れて居る、あの切目へ出る筈だといって、先へ立って無二無三*ムニムサンに行く。
暗い暗い、足で探り辛うじて道を求める、道は愈々*イヨイヨ狭い、如何*イカニも怪しい、とうとう道が無くなった。M生も流石*サスガに弱った、道を違へてからもう余程*ヨホド来て居る、方角が全然違ふらしい、夫*ソレも一歩を誤*アヤマらば百尺の谷へ陥りさうな危*アヤフい径であった。体は労*ツカれてゐる。如何*イカガ仕*シようといふ問題が起った、野宿をしようか、元へ戻って高浜へ泊らうか、先の所迄下って左へ曲らうか、この暗さでは何れも容易に行はれさうに無い、パアテルさんの崇りである、どう考へても安全の策は無い、窮した、先立てる者は後れたる者を声もて導く。滑るよ、危いよ、石だよ、急に下るよ、左は崖だよなどと言ふ。それを順に後へ伝へる。蝮*マムシを踏みはせんかといふ心配もある、元気を喚起*ヨビサマさうとM生は独演説を初めた。
人もや有ると万一を期してオオイと呼ぶ、オオイと答へる。山彦らしい。オオイと呼ぶ、答へが無い。人かしら、オオイ、モシモシ、「誰だ」と暗い山がものを言ふ。占めた、人が居る然も畑を挟*ハサんで直ぐ向*ムカヒにいるが、如何やら唯人ではない、夜盗の種類では無からうかと興奮してゐる頭は余計な心配をした。「東京の学生で天草の歴史を調べに来て居るものだが、今日は富岡から来たのだが、道を間違へて」「アアさうですか、私等*ワシラは大江駐在所のものです。」安心した、近づくと平服巡査二人が角燈を後へ向け、「実は犯人捜索の為めに来たので御一所に行き兼ねるが、これより三十米*メートル突先に小屋がある、そこの男に案内させまっせう、これから先は下りだから何でもありまっせん」と親切に言って呉れた。――
そしてその翌日。誰の筆になるのか。調子がちょっと変わります。
――昨日の疲労ツカレで、今朝は飽くまで寝て、夫れから此地の天主教会を訪ねに出掛けた。所謂*イワユル「御堂*ミドウ」はやや小高い所に在って、土地の人が親しげに「パアテルさん、パアテルさん」と呼ぶ敬虔*ケイケンなる仏蘭西*フランスの宣教師が唯一人、炊事男の「茂助*モヲスケ」と共に棲んでゐるのである。
案内を乞ふと「パアテルさん」が出て来て慇懃*インギンに予*ヨ等を迎へた。「パアテルさん」はもう十五年も此村に」ゐるそうで天草言葉が却々*ナカナカ巧*ウマい。「茂助*モヲスケ善*ヨか水を汲んで来なしやれ。」と飯炊男に水を汲んで来させ、それから「上へお上がりまっせ」と懇ろに勧められた。又予等が乞ふに任せて、昔の信徒が秘蔵した聖像を彫むだ小形のメダル、十字架の類を見せて呉れた。夫れに附いてゐた説明の札には、「このさんたくるすは、三百年まへより大江村のきりしたんのうちに、忍びかくして守りつたへたる貴きみくるすなり。これは野中に見出でたり。」云々と書いてあった。此種類のものは上野の博物館にあったやうに覚えてゐるが、却々面自い意匠のものがある。
「パアテルさん」は其他いろいろのことを教へて呉れた。此村は昔は天主教徒の最も多かった所で、島原の乱の後は、大抵の家は幕府から踏絵の「二度踏」を命ぜられた所だ。併し之で以て大抵の人は皆「転んで」仕舞*シマって、唯この山上の二、三十の家のみが、依然として今に至るまで堅く「ディウス」の教へを守ってゐるさうである。是等の人は今尚十字架、聖像の類を秘蔵して容易に人に示さぬ。或は深く柱や棟木の内に封じ込んでゐるものもあるさうだ。それで信者は信者同志でなければ結婚せぬ。縦*ヨし信者以外のものと結婚するとしても、それは一度信者にした上でなければならぬ。いや、今は転んで仏教徒になってゐるものでも家の子の出来た時には洗礼をさせ、又死んだ時にも、表面は一応仏式を採るが、其後更*アラタめて密かに旧教の儀式を行ふさうだ、棺も寝棺で、内服装も当時の信徒の風に従ふのださうだ。
予等は又「パアテルさん」に導かれて礼拝堂を見た。万事瀟洒*ショウシャとして且つ整頓してゐるが、マリア像の後に、赤き旗に、「天使の皇后」「聖祖の皇后」と記されたのは、少々辟易*ヘキエキせねばならぬ。併し此教会に集る人々は、昔の、天草一揆時代の信徒ではなくて、此御堂設立後、二十七年の間に新に帰依したものである。それは、大江村に四百五十三人、それから此の「パアテルさん」が一週間交替にゆく崎津村に四百五十九人あるさうだ。尤*モットも昔の信者の家々も教会に集りこそせざれ、一週一日の礼拝日は堅く守って、その日は肥料運搬等の汚れた仕事は一切為ない。所が何ういう間違か、それは日曜日でなく、昔から土曜目ださうだ。――
この「五足の靴」の文学史上の意味を濱名さんは次のように解説しています。
――『五足の靴』とは明治40年(1907)8月新詩社主幹の与謝野寛と木下杢太郎(本名太田正雄)、北原自秋(本名隆吉)、平野万里、吉井勇の5人が九州のキリシタン遺跡を巡った時の紀行文の題名である。寛に同行した4名は、杢太郎(東大医科1年・23歳)、北原白秋(早稲田大学文科1年・23歳)、平野万里(東大工科1年・23歳)、吉井勇(早稲田大学文科1年・22歳)で、大学の1年を終った直後であった(当時の大学は7月で1学年が終り、9月で次学年に進級)。寛は35歳、明星に拠るこうした俊英を率いてその妻晶子と共に華々しく活動していた。
この九州旅行の行程をたてたのは、柳河出身の北原自秋であるが、それにアドバイスをしたのは、白秋の柳河時代「常盤木」という同人誌を出してその中心であった三池郡上内村の白仁勝衛であった。東京に居た白秋は、この旅行が計画されてから5回も白仁勝衛に書簡を送って意見などを求めている。
この旅行は、明治40年(1907) 7月28日から8月27日まで約1ケ月の長期に亘っている。
東京→厳島→赤間関(下関) →福岡→柳河→唐津→佐世保→平戸→長埼→茂木→天草→三角→島原→長洲→熊本→阿蘇→熊本→柳河→東京
と主として九州西部のキリシタン遺跡を中心としてその異国的な風土とキリシタン道跡を探った旅であった。
この旅行の紀行文を5人が交互に執筆して東京二六新聞に掲載された。
……五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た。彼等は面の皮も厚く無く、大胆でも無い。而も彼等をして少しく重味あり大量あるが如くに見せしむるものは、その厚皮な、形の大きい五足の靴の御蔭だ。
の書き出しで始まっている。第1回の掲載が8月7日で、几そ10日ぐらい遅れて連載され9月10日、29回で終っている。
この旅行が一行5人のその後の文芸活動に画期的な影響を与え、所謂南蛮文学の先駆をなしたことは今は多くの人に知られている。北原白秋を詩人として決定的にした明治42年(1909) 刊の『邪宗門』は、この九州旅行の結晶であった。――
明治40年(1907) に「五足の靴」の面々が訪ねた大江の教会堂は明治12年(1879) に建てられたもので、現在のものは昭和8年(1933) に建て替えられたものです。パーテルさんとよばれていたガルニエ神父は明治25年(1892) に大江教会と崎津教会の司祭として着任し、昭和16年(1941) 年にこの地で満80歳の生涯を閉じました。大江教会に在職50年、とうとう1度も故国フランスに帰ることなく、村人たちの生活を続け、ほとんど自力で現在の教会を建設し、大江教会の信者から5人の聖職者を育てています。
●使命感と殉教と
濱名志松さんの『天草の土となりて―ガルニエ神父の生涯』(1987年、日本基督教団出版局) には神父の故郷を訪ねた竹森敏さんが文を寄せていますが、ガルニエ神父の使命感のバックグラウンドが明らかにされています。
――ヨーロッパ旅行中、私が強く心を打たれたのはパリ外国宣教会本部にある「殉教者の間」である。発展途上の地で殉教した同会宣教師たちの生々しい記念品が数多く陳列されていた。鎖、荒縄、鉛のついた鞭*ムチ、鉄枷*カセ、刺された槍、首斬られた蛮刀、射殺された弓矢や銃、血痕のついた衣類など。壁には拷問*ゴウモンや処刑の場面など鮮血淋漓*リンリ、凄惨そのものとも言える殉教絵図が無数掲げられていた。
ガルニエ青年は此処で4年間、学問を磨き修行を積み、司祭に叙せられた。その間、この部屋に幾度も入っては黙想し、先輩たちの信仰と勇気に感動し励まされ「自分も殉教しよう。日本は殉教者の多い国、そこへ行こう」と覚悟を固めたのではなかろうか。
本部前にとりどりの花咲き香る広い庭園がある。中央の道の奥にはマリア像が立っている。案内者は説明した。「外国へ派遣される宣教師の出発式は誠に感動的です。すでに旅装を整えた若い宣教師たちは、手に手に点火したローソクを持って行列を作り、マリア様の御像の御前に立ってアヴェマリスステルラ(海の星なる聖母) の賛歌を声高らかに歌います。総長の訓辞があって最後に『汝ら地の果てまで往きて万民に教えよ』と祝福を受けるや直ちに玄関に取って返し、荷物を手に、後ろを振り返ることなくマルセイ港へ直行するのです」と。なんと悲壮な出陣式! ガルニエ師もこうして、2度と見ることのない親類と祖国に訣別し、東洋航路の船に乗り込んだのであろう。それは1885年(明治18) 11月4日であった。――
ガルニエ神父は貧しくとも平和な天草で生涯を終えましたが、時代は暗黒に向かって走り出していました。神に仕える身であれ、「大江の聖者」とよばれる人格者であれ、「敵国民」の1語で排斥される時代はもう直前でした。たくさんの村人にみとられながら、おだやかに息を引き取ることができたのは幸運だったとしかいいようがありません。
その同じ大江のもうひとつの光景を郷土作家北野典夫さんは力作『天草キリシタン史―幻のパライゾへ』(1987年、福岡市・葦書房) の中で描いています。
――かさなりあう嶮*ケワしい山々が急傾斜してなだれ落ちる荒磯には、海蝕洞が潜在し奇岩怪礁が乱立、遠くに水平線が果しない孤を描いている。凪ぎの日は、磯辺に寄せる波がささやき、時化*シケの日は、岩を噛む怒濤が自い牙をむいて吠える。
洋中に屹立*キツリツする大ケ瀬の大石柱群は、不揃いな乱杭歯を天に向かって逆立てたようだ。その沖合に、1隻のジャンク船が姿をあらわした。くるめきながら水平線に沈んだ落日の余光が、大ケ瀬より北の海をわずかに黄金色に染め、南の海は、紫の闇をひろげはじめている。
ジャンク船から降ろされた端艇が、水夫と乗客らしい2つの人影を乗せ、大江と高浜の村境めがけて漕ぎ寄せて来た。乗客は、渚に降り立った。端艇は、再び沖に去った。
岸辺に残された孤影は、マカオから派遣されて来たアントニオ・ジャノネ神父その人である。日本の着物を不器用にまとい、金髪をチョンマゲに結って頬かぶりをし、はき物だけは西洋の靴をはいていた。彼の眼前には、北請稲荷*キタウケイナリの断崖絶壁が聳えている。ジャノネ神父は、その登りやすいところを選んでよじのぼりはじめた。
天草灘沿岸は、東シナ海の海の果てである。また、日本列島の地の果てである。しかも、潜伏バテレンにとっては、迷える小羊たちを救うべき、ジュパング国の大地が始まるところである。
はじめて踏んだ日本の土、西海僻遠のこの地にも、キリシタン迫害の嵐が吹きすさんでいるはずである。潜伏神父の眠前に立ちはだかっているのは、天草灘の断崖絶壁だけではなかった。うず巻く不安と恐怖は、しかし、燃えるような使命感によって、潜在心理の奥深く包みこまれ押しかくされている。
燃えるような使命感とは、迫害下の信徒に神の恵みを与えたい……このことであった。神の使徒たるの勇気が、ジャノネ神父をして断崖絶壁をよじのぼらせ、前進させ、すでに月明の夜となった野中の山里を大江の本郷に下って行かせた。寛永6年(1629) 晩春のことである。
と、一軒の家から、ひそやかなつぶやき声がもれてくる。耳をすますと、それは、まぎれもなく「我が南蛮宗」の祈りである。ここは、キリシタンの秘密教会にちがいない。
たてつけの悪いくぐり戸を開けて、ジャノネ神父は家の中に入った。キリスト受難の絵像をかかげ、灯明*トウミョウのゆらぐ座敷で、数人の百姓の男女が鷺いて立ち上がった。――
――ジャノネ神父だけでなく、数多くのバテレンが、迫害下の日本に潜入して来た。彼等は、その土地土地に張りめぐらされた秘密組織コンフラリヤに助けられて、苦しい布教活動を展開した。かつては、篤志家のみで作られていたコンフラリヤ(信心講) であるが、今では、地域の全信徒をその組織の輪の中に抱えこみ、鉄の団結でもって根張りを地中にひろげていたのである。
羊角湾にのぞむ崎津に有馬から渡海上陸したイエズス会の日本管区長マテウス・デ・コーロスは、寛永3年(1626)、潜伏神父としての活動状況をつぎのように報告している。彼は、崎津村の庄屋ドリアノを長老とするコンフラリヤに助けられて、山々を隔てる隣郷の大江にかくまわれていた。
……先日から代官は、捕り方をくり出して片っ端から我々の捜索を行ない、家という家の穴、かこい、小屋の中など一つ残らずさがしあるき、畳から床板まであけて徹底的に調べている。
……宿主が、誰にも知られないように、小屋の地下に穴を掘ってくれた。そこは、日が少しも入らず、光は全くない。夜になって、私は、同宿や召使といっしょにそこへもぐりこんだ。
……昼も夜も、全く闇の中に住み、ただ食事をしたり、ミサを行なったり、手紙をしたためたりする時だけ少し明るくする。食事は、石の大きさほどの大きな隙間から差し入れてもらう。その隙間は、ふだんは藁をかぶせておき、隣で老人が草履つくりなどの仕事をしながら、何事もないかのように装っている。
……3日目ごとに、孔を開いて臭気を出す。食事は、きわめて少量である。我々をかくまっているという嫌疑を役人に起こさせてはいけないので、宿主は、食料品を大量に用意することが出来ないのである。
……この穴の中に35日いて、復活祭を前にした聖週間に、ミサを行なうため外に出た。――
九州の西海岸一体はキリスト教布教の最初の拠点となっただけでなく、最後の最後までその勢力が温存されたところでした。天草では旧小西家の、島原では旧有馬家の時代に構築されたコンフラリア(信心講) がそのまま残されており、キリシタン弾圧の強まりとともに深く地下に潜行して、島原・天草の乱となって残り火を燃やしたのです。
ここでは島原・原城の大虐殺で終わる天草四郎の乱について詳しく語るスペースがないのが残念ですが、弱冠16歳の天草四郎なぜ3万7000人といわれる人々を指揮できたのかという素朴な疑問を解く糸口を濱名志松さんの『九州キリシタン新風土記』の中に見つけました。
――天草西郎は小西浪人益田甚兵衛の息子とされている。これはいろいろの記録から事実であろう。
1638年(寛永15) 1月25日、四郎の母マルタが、取調べを受けた時、
「四郎時貞、年は十六歳、九つ年より手習三年仕り候。学文五、六年程仕り候。四郎長崎へ切々参り、学文仕り候。京・大坂へは参らず候。四郎九月晦日に大矢野(天草・大矢野島) へ参り候て、宿は小左衛門弟の所に罷り有り候。小左衛門弟は四郎姉聟*ムコにて御座候事。」
と、ある。
これは四郎の実母の口から語られたことで、四郎の生育歴を知る唯一の資料のようである。手習とは、いわゆる読み書きのことであり、学文とはキリシタンに関する宗門の学を意味しているのであろう。長崎へ切々参って学文をしたというから、当時にあっては、異常のことである。
かつて天草を訪れた作家の司馬遼太郎氏は「天草四郎をめぐる人たちは、四郎を神父にしようとしていたのではあるまいか」と、私に語られた。『街道をゆく』−「島原・天草の諸道」の中に、
「四郎は5人の牢人から妖しい存在として仕立てられたのではなく、神父*パードレ(伴天連) として教育されつつあったのではないかと思えてくる。」
と、書いていられる。このことは、これまでキリシタン史学者の誰もが指摘していない。私は、司馬氏のこの説は、四郎を考える上で重要なことだと思っている。
四郎は洗礼名をジェロニモと言った。実母が供述した「長崎へ切々参り、学文仕り候。」ということは、そのことを裏書きしている。帰農した浪人の子息が再々長崎まで行って学文をすることは、何か確たる目的があったはずである。宣教師が追放され、あるいは刑死してなくなったあとには、宣教師の役割をする人が必要であった。島原半島の有馬村の有力な百姓角蔵と三吉という者が、(島原半島と天草の間にある)湯島に渡り、そこに滞在していた四郎に会い、教義上の秘伝を伝授されたということは、島原・天草の乱発生前における四郎を考える上で参考になる。――
一揆勢は40人といわれる小西・有馬の旧家臣によって戦闘軍団となりますが、彼らにとって、外海は世界と、内海は仲間と自由に結びあえる道だったようです。天草四郎はそういう内海ですべてのキリシタンに秘蹟を授けることのできる者として擁立されたと考えるの自然だと素人ながら考えます。
一揆によって天草からは1万2,000人といわれる人々が原城に入って全滅しましたから、たちまち全島が「亡所」となったといわれます。いまの天草島民はほとんどがその後九州各地から移住してきた人々の子孫だといわれます。
ところが、どっこい……という感じで、江戸時代も後期の文化2年(1805) に大江村を中心に5,000人という大量のキリシタンが発見されます。この一帯の住民は多くが一揆に参加せずに残っていたからでもあるのですが……。困ったのは幕府の方で、「心得違い」という体面的な処理でコトを収めたということです。
明治6年(1873) にキリスト教が解禁されるとすぐに長崎から布教団が派遣されたのはここが有名な隠れキリシタンの地であったからでした。ところが「キリシタン」はほとんどそのままに、仏教徒から新たに「クリスチャン」になった人々によって、大江、崎津の教会は維持されるようになるのです。ガルニエ神父はその10人目の外国人神父として着任したというわけです。
最後に、『天草キリシタン史』で語られている著者北野典夫さんの歴史観を紹介しておきたいと思います。
――キリシタンの乱は、また、桶狭間、関ケ原、大坂冬夏の陣など著名な合戦より、この日本列島の歴史に大きな影響を及ぼした。
織田信長が勝とうが、今川義元が勝とうが、大局的に見て、日本民族進展の歴史にさしたる変化はなかったであろう。徳川家康が負けようが、石田三成が負けようが、日本民族は、歴史発展の必然的段階を、同じようなパターンでもって歩みつづけたに違いない。しかし、キリシタンの乱は、その後、220年にわたる徹底した鎖国政策となった。この乱を契機に、日本列島は、みずからの意志によって、全世界から、全人類から孤絶する道を選んだ。
日本民族が体験した鎖国の時代、それは勿論、今となっては既成の事実である。既成の事実とは、すでに“あたりまえ”になっていることであるから、その歴史を運命的な背景として生きる現代のわれわれは、鎖国とそれによってもたらされたわが国の近世近代に、何等かの不自然があったとは感じていない。
しかし、キリシタンの乱が起こらず、徳川幕府が、「もうこのあたりで良かろう」と、それまでの鎖国主義を捨てていたとしたらどうであろうか。日欧文化交流はいよいよ活発化し、日本人は、大いに海外へ雄飛しつづけたはずである。その結果、日本は西欧と同じテンポで、物質文明の発達を遂げ、日本人の意識は、早くからグローバルな視座を確保していたことであろう。
アングロサクソン民族の一部が大西洋の彼方にアメリカ合衆国を築いたように、あるいは、日本海を越えてシベリアの沿海州あたりに、日本人共和国を出現させていたかもしれない。南方の諸民族国家群は、シャム国で活躍した山田長政に象徴される移住日本人のエネルギーに応援を得て、自色人種による植民地化をまぬがれていたはずである。
ひょっとしたら、その後の国際地図も大きく塗りかわっていたろうし、あの大東亜戦争などは、起こらずにすんだかとも考えられる。――
これもまた天草から提起される世界観にちがいないと思うのです。
伊藤幸司(ジャーナリスト)
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