毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・24・南アルプス国立公園」
1995.4――入稿原稿
■国立公園物語…南アルプス
●そば切りの本家本元
信州は「出版王国」を自負する文化県として知られています。信州人が起こした出版社が東京にいくつもあるだけでなく、地元で出版活動をつづけるローカルな出版社も「長野県出版協会」の会員だけで28社といいますから尋常ではありません。
そのような出版文化のレベルの高さをそれぞれの地元で支えている郷土出版物のひとつに出会いました。書店の片隅にバックナンバーごと置いてあった「伊那路」という雑誌で、発行は伊那市の上伊那郷土研究会。すでに通刊450号を超えています。本文48ページという薄いものですが、地元の筆者ならではの魅力的なレポートが散見されます。
その第444号(1994年1月号) に高遠*タカトウ高校3年A組の「高遠はそば切りの発祥地か」というのがありました。私はソバについてはまったくの素人ですからこのレポートが内容的にどの程度のレベルのものか判断できませんが、郷土誌を飾るにふさわしい記事であることは読んでみればすぐにわかります。まずは「はじめに」と題したところから。
――ソバは、うどんと違って固まる力が弱いので、そばがきにするか焼き餅で食べていました。今のように細く切って食べる食べ方は「そば切り」と言います。現存の文献をもとに言うと、「そば切り」は1600年(関ヶ原の戦いのあった年) 頃には確実に存在せず、1640年頃にはかなり広まっていたと言わざるを得ないのです。文献だけで言っても40年、実際には20〜30年かも知れない、わずかな間に普及した食べ方なのです。
では、その「そば切り」の発祥地はどこか? 諸説ありますが、長野県塩尻市本山宿(中山道の宿場) だというのが通説です。ところが最近、「高遠がそば切りの発祥の地なのではないか」と言う説があることを知りました。
私達は、今年の文化祭で手作りのそば粉を使って手打ちそばを作り販売することにしました。長谷村の休耕田を借りて自分達でソバの種を蒔きました。ソバの研究発表もしたいと考えているときに「高遠そば切り発祥地説」を知り、この説を研究してみることにしました。――
全文を紹介しないとルーツ探しのスリルまでは伝わらないかもしれませんが、ここでは要所だけを拾い読みさせてもらいます。
まずは第1節「そばについての予備知識」。ここはそば切りについての解説部分です。
――そば切りの食べ方。
(1) 高遠の「からつゆ」…辛い大根をおろして絞った汁に、焼いて風味を出した味噌を溶く。それにソバをつけて食べる。
(2) 会津若松の「たかとお」つゆ…醤油に大根おろし。
(3) 江戸時代初期、江戸でのそば切りの作り方(1643年刊行の料理専門書「料理物語」)
1…100%そば粉である。ぬる湯を使ってこねる。
2…伸ばして切る。(そば切りのゆえん)
3…熱湯でゆでる。
4…ぬる湯で洗う。
5…筏に乗せ、熱湯をかけて蒸す。(この名残で今もざるソバは筏に乗っている)
6…温かいうちにたれをつけて食べる。
(4) 江戸初期のたれ
1…生垂(ナマダレ) …味噌を水で溶いて袋に入れ垂れてきた汁(たれの語源)
2…垂味噌(タレミソ) …焼いた味噌を水で溶いて袋に入れ垂れてきた汁
3…煮貫(ニヌキ) …1、2をだし汁に溶かす。――
そば切りが1600年以前にはなく、1640年には幕府がその販売を禁じるほどに普及していたことは歴史的に明らかなのだそうです。問題はそのわずか40年の間にまたたくまに江戸に広がった「そば切り」の発信源はどこだったかという探索です。3年A組の諸君は伝えられている発祥地を比較検討していきます。第3節は「そば切りの発祥地は本山か?」というタイトルです。
――ではそば切りの発祥地はどこか。それぞれの説とその論拠です。
(1) 朝鮮の僧元珍説…寛永年間(1624〜44) に東大寺へ来ていた元珍が、小麦粉をつなぎに使うことを教えたので、ソバ麺ができた。その後木曽を経て江戸へ広まった。
(2) 信州説…1645年刊行の「毛吹草」に、「信濃の国の名物にそば切りがあり、信濃より始まる」と書いてある。
(3) 本山説…芭蕉の門人森川許六が1706年に出版した「風俗文選」のなかに、「そば切りは信濃の本山宿より出て、国中に広がった」と書いてある。その後に本山宿でソバを食べたことを示す文献はかなり多い。
(4) 山梨天目山説…国学者・天野信景が1705年頃書いた雑録「塩尻」のなかに、「塩尻のソバの元は、甲州の天目山で、そこからそば切りが始まった、と信州人が言った」と書いてある。――
そして各説の検討……。
――(1) 僧元珍説は、江戸初期のそば切りは、100%そば粉でつなぎを使っていない事実から誤っています。また、来日した寛永年間は、1624年に始まるので、そば切り発祥説としては年代が遅すぎると考えられます。
(2) 信濃説…1645年は、そば切りの誕生期の直後ですから信憑性が高いと言えます。
(3) 本山と天目山の比較です。信濃説が有利だとすると、信濃の本山が有利となります。巷間「蕎麦切り発祥の地は本山」と言われるゆえんです。――
これら既存の発祥説に対して第5節では「そば切り発祥の地、高遠説」が紹介されます。
――近年、会津に残るソバ文化と保科正之の移封の年代に着目して、高遠がそば切りの発祥の地かも知れないとする説が提唱されました。伊那市の小林文麿氏によるもので、次のような内容です。
(1) 会津若松には「たかとお」と呼ばれるソバ切りの食べ方が今も残っている。高遠の殿様が持ってきたと言われている。
(2) 高遠の殿様、保科正之が高遠から東北に移封されたのは1636年である。
(3) このことは、1636年以前に高遠にはそば切りがあったことを示す。
(4) 本山の本陣には、「本山で寛文10年(1670) に初めてそば切りを作った」記録が残されているとある文書がある。
(5) よって高遠は本山より早くからそば切りが作られていた。――
本宿と高遠の関連までは明らかになっていないようですが、会津若松に今も残る「高遠そば」と元祖高遠のそばの関係については、すでに第4節「高遠、長谷のそば文化」で語られています。
――(1) ソバの名産地だった…高遠・長谷の谷は、江戸時代から焼き畑農業が行われており、ソバも栽培されていました。
高遠は、当時から良質のソバの産地として有名で、「暑中信州寒晒蕎麦」という名で将軍家に献上していました。長谷村には今でも「オソバ沢」とか「オソバ平」という地名が残っています。明治7年(1874) 頃「土は赤色七分癖地にして蕎麦、粟等に極*キワメテ宜*ヨロし」と自己紹介しています。
(2) ソバは常食とされていました…明治7年頃の高遠地区の記録によれば、米・麦・大豆・小豆・粟・ソバ・稗*ヒエ等が採れるが、自家用分だけだと書いてあります。高遠は米が余りできず、できた米は藩財政のため金に替えたので、ソバなどの雑穀が常食であったと言われていますが、明治初年の河合村のソバの収穫量は人口1人当り約3升です。ソバは思ったより少ないのです。しかし山懐深くなるにつれてソバへの依存度は高まり、浦地区になると主食でした。
(3) 浦地区にみるソバ打ち…浦地区のおばあさんは、今でも皆ソバを打ち、ソバ粉100%でも打ちます。100%ソバ粉で打つときは、客の顔を見てから一気に打ち上げます。お湯でこねます。ところが8年前(第1回のそば祭) に呼ばれてきた江戸前ソバ職人が、水だけで「こねる」のを見て、水でも出来ることを初めて知ったとびっくりしたそうです。ソバ切りが発祥した江戸初期も、100%のソバ粉を「つなぎ」なしにお湯でこねました。
(4) 高遠大根とからつゆ…辛い特殊な山大根のおろし汁と焼き味噌を混ぜたしるを、からつゆといいます。保科氏会津移封後、新潟県東蒲原郡にも伝えられました。今の我々にとってはうまいものではないようだが、からつゆで育った人にとっては懐かしい味であるようで、ふるさとを離れた人にとっては、特にその思いは強かったといいます。
(5) 謡曲「蕎麦」…江戸時代、平安時代の短歌を元に長谷のソバを謡った謡曲が長谷村にありました。――
第6節の「会津と高遠そば」ではそのそば切りの具体的な中身が検証されます。
――三代将軍家光の弟である保科正之は、6歳から25歳までの19年間を高遠で過ごしましたが、1636年山形藩に20万石の大名として転封することになりました。4,000人の家臣が必要でしたが、500人しかいなかったので、藩の人々を武士に取り立てて連れて行ったので、高遠の文化も移りました。その後1643年に、23万石の大名として会津に移りました。会津には高遠の伝統が残っています。
保科氏によって会津に高遠からそば切りが伝わったと云ってよいのでしょうか。
「たかとお」という食ベ方があります。大根と醤油の汁で食べる食べ方で、この汁が高遠から伝わったことはまず確実です。では、肝心の「そば切り」も高遠から伝わったといえるのでしょうか。「たかとお」汁は、「そばがきの汁」として新しく受け入れられて今に残ったというより、「ソバ切りの汁」だったから今に残ったといえます。また「高遠そば」も残っていて、そばを大根のおろし汁に味噌を入れたつけ汁で食ベます。この「高遠そば」は、保科正之公が幼少時を過ごした信州伊那から伝えられたと云われているそうです。会津のそば切りは高遠から伝わったと云えそうです。――
●そば打ちの名人
南アルプスの山並みの北端に位置するのが長野県の高遠町であり、長谷村なのですが、最北端にはもうひとつ、南アルプスと八ヶ岳の両山麓にまたがって広がる富士見町があります。この富士見町で古くから伝わるそば切りを味わった話を書いているのは伊那谷のお医者さんで無類のそば好きの宇治正美さん。長野市の銀河書房から『世間ばなし そば仕込帳』(1986年) を出しています。高遠のそばと同じではないにしても、読んでいるとそれがいかにも本場の作り方、食べ方という感じがします。
――東方に甲斐駒*カイコマ(甲斐駒ヶ岳) の山脈が望見される。途中で道を尋ねた。
「三井さんの家どこ?」
「ここいら辺はベッタリ三井の姓だぞえ」
「そば打ちおばさんの」
「そばか、わかった。ああ行ってこう曲がって……」
その三井康弘さんと名人奥さんの家はごく当たりまえの農家だ。
「すぐにゆでていいだかね?」
奥さんは事もなげに仕事にかかる。われわれが座敷のテーブルに着いて居ずまいをととのえるころには、もうそばが運ばれてきた。
切り溜めと呼ばれる長方形の木箱に、引き揚げそばがいっぱい盛られていかにもピンとしているのだ。
「あっ!」
私は息をのんだ。その荒けずりの素朴さ。そばの香りがプンと鼻を突く。期せずして4人の男が唾を飲む気配である。そして4人の箸が一斉に箱へと延びる。
この切り溜めは縦60cm・幅30cmほどの広さだから4人の箸がもつれ合うようなことはない。誰も無言でひたすら、そばをすする。
私がヒョッと顔を上げると名人と目が合った。名人おばさんは、私たちの食べっぷりを観察してお代わりの判断をしていたのだ。
私が首を縦に振ると名人は合点して台所へ消えた。そして1枚目が終ろうとする寸前に2枚目が運ばれてきた。このタイミングのよさ、これぞ名人の気働きというものだ。
名人おばさんと語った。
「私の叔父で小池新次というお爺がおりまして、先年85歳で亡くなりましたが……」
新次お爺は“そば名人”と呼ばれたほどのそば打ちの上手だった。名声を聞いて都会からも好き者が訪ねてきては“新次そば”を賞味した。また都会のしかるべき所から招かれてそば打ち実演を披露するなど、なかなか知られた人だった。
このお爺から、三井の名人おばさんはそば打ちを仕込まれた。
「昔は、ここら一帯は日常食事にそばを食べることが多かったでね」
別に誰から習うということなしに、娘時代からそば打ちに馴染んでいたのだったが、結婚して数年たったころ、新次叔父さんから頼まれてはそば打ちを手伝っていた。そうした経過の中でそば打ちを本格的に仕込まれたのだった。
「息をしている蕎麦粉を使い、生きている蕎麦を打つ独特の流れと調子を厳密に守っている」
下諏訪町の“自然と文化の会”の市川一雄さんは、新次老のそば打ちをこう位置付ける。
新次そばのノーハウを名人おばさんは、まさに伝承する人だ。だからそば打ちの秘技について根掘り葉堀り尋ねることはつつしまねばならね。それでも教えてもらったことは、挽きたての粉を使って、なるべく客の現れる直前に打ってゆでるという手順についてだ。
「地粉?」
「ええ、わしどもで使う分量くらいは自分の畑からとりますんね」
「やっぱし、つなぎは入れる?」
「つなぎ入れます。そば粉だけでも打てますがゆでてから切れるでダメ」
「お宅のそば、ずいぶんはやくゆで上がりますネ。打つときのコッがあるのかな」
「自分にはよくわからんがね。いつか東京から見えてくれた偉い先生が、打ち方にコツがあるからだってほめてくれただが」
「やっぱしなあ」
「わしらにゃ何のことやら、むずかしいことはわからんで」
こともなげに名人おばさんは言った。――
●三角のくさび
中央自動車道を東京方面から行くと、甲府盆地から前方に見える山なみは、右手が八ヶ岳、左手が南アルプスです。道は甲府まではおおよそ西に向かっていますが、そのあたりから北西に向いて、2つの山群のせまいすき間に入り込んで行くのです。そして諏訪湖が終わったあたりで中央自動車道は(そのまま北上する長野自動車道と分かれて) 南西に向きを変えます。
これを地図で見ると、東京から西に向かう交通路は、いくぶん南に垂れ下がった太平洋岸のコースより、JR中央本線や中央自動車道のほうが最短ルートに見えます。ただし甲府から諏訪まで上がって飯田に下るという小さな三角形の迂回をしなければならないのです。
そこで甲府と飯田を直線で結んでみると、これがほぼ東西方向の線となり、諏訪湖を頂点とする一辺60kmほどの正三角形が見えてきます。中央自動車道は南アルプスの核心部をまっすぐにくぐり抜ければ60kmのところを、迂回して120km走っているというわけです。
その中央自動車道が諏訪湖のところで反転して南西に向かい、道が伊那谷の広がりに出ると、右に中央アルプス、左に南アルプスという、さらに大仕掛けの山岳風景が楽しめます。
伊那の市街を過ぎると右の車窓に堂々とそびえ立つのが中央アルプスの盟主・木曽駒ヶ岳(2958m) ですが、左手には甲斐駒ヶ岳*カイコマガタケ(2967m。伊那の人はこれを「東駒」という) があって、それから南に仙丈ヶ岳*センジョウガタケ(3033m) 、北岳*キタダケ(3192m) 、塩見岳シオミダケ(3047m) 、赤石岳*アカイシダケ(3120m) 、聖岳*ヒジリダケ(3013m) と巨峰が連なっています。そしてその南の光岳*テカリダケ(2591m) までの山稜部分が国立公園の領域となっています。
それは伊那(上伊那) から飯田(下伊那) までの伊那谷から東に見える稜線のあたりといっていいでしょう。つまり中央自動車道の三角の迂回部分が、まさに南アルプスの主要部分となっているのです。
しかしさらに南に下っても、広義の南アルプスはまだ続きます。その南北の大きさを語っている随筆があります。白籏史朗*シラハタシロウさんの写真集『南アルプス』(1970年、朝日新聞) に画家で登山家の上田哲農*ウエダテツノウさんが寄稿している「南アルプス彷徨」です。ここで引用したのは山歩きの8つの追想のまえがきの部分です。
――私は、ここ1週間早春のフォッサ・マグナの旅をつづけてきた。
フォッサ・マグナなどというと、いささか気障にきこえもしようが、そこがフォッサ・マグナなのだということが旅への心を誘ったのだから、やはり、そう呼びたい。
辞典によれば、フォッサ・マグナとは日本海沿岸の糸魚川から東海の静岡をむすぶ断層線で、日本の地質構造のうえで東北日本と西南日本を大きくわける大陥没地帯のことといわれている。
この断層線の西縁は南アルプスの赤石山脈にそってそれになるのだが、ザック党にはひとりも会わないという気楽な毎日であった。せめて、こんな自由を求めての旅をするときぐらいは、自分と同じ趣味をもつ旅人とはあまり会いたくないものだ。
旅のおわりにあたるきょうは、遠州秋葉山*アキハサンの山麓、坂下に宿をとっている。
することもなければ、地図でもみるより無聊*ブリョウをまぎらわすすべもない。暗い電灯の下で地図をひらいてみる。「高遠」「市野瀬」「大河原」「赤石岳」「時又」「満島」「佐久間」「天竜」「磐田」とつづき、つないでみると畳たて1枚半におよぶ距離となった。
バスも利用はしているけれども、この数日の道順を指先でなぞってみると、ほとんど、真北から真南へ直線をひいている。はるけくも来つるものかな……そんな感慨が胸をうった。
つぎに、地図を1枚ずつとりあげてみる。その1枚、1枚の地図に含まれている山々の記号が目に入る、そして、それらの山々でくらした多くの過ぎさった日々の生活がそれへかさなる。
「高遠」では権兵衛街道の入笠*ニュウガサや守屋山、「市野瀬」では、駒(甲斐駒ヶ岳) 、仙丈、そして北岳、「大河原」ともなれば北岳からつづく間ノ岳*アイノタケ、農鳥(農鳥岳*ノウトリダケ) 、はなれて塩見岳、「赤石岳」ではその名の赤石から荒川岳、東岳*ヒガシダケ(悪沢岳*ワルサワダケ) 、そして大沢岳*オオサワダケ、中盛丸山*ナカモリマルヤマ、兎岳*ウサギダケ、なんといっても大きな聖岳、南へさがれば上河内岳*カミコウチダケから光岳への山稜……鳳凰付近をのぞけば、南アルプスの巨峰群のほとんどはこれらの地図のなかにふくまれているではないか。
それなのに、こんどの旅では山らしい山はいくつもみていない。
天気がわるかったわけでもない。
つまり、フォッサ・マグナの旅は山をみるためには不都合な場所を通っている道だったともいえる。
人はがっかりしたろうというかもしれない。けれども私は、あの巨峰群の裾をぐるぐる回りながら、ロクに山も見えなかったことで南アルプスの大きさ、深さをいまさらのように知って、かえって充分満足した気持をもった。これは負けおしみではない。
茅野―杖突峠*ツエツキトウゲ―高遠―伊那里―分杭峠*ブングイトウゲ―鹿塩―大河原―地蔵峠―遠山郷―青崩峠*アオクズレトウゲ―水窪―西川―秋葉山*アキハサン―遠州森―袋井、これがこんどの行程なのであった。毎日、昼はひとつずつ峠を越え、夜は夜で街道筋の忘れられたわびしい宿にねて、旅をかさねた。――
じつは上田さんはフォッサマグナについて勘違いしているところがあるのですが、文意をさまたげるものではないのでそのまま引用してきました。じつはフォッサマグナ(大地溝帯、中央地溝帯) というのは富士山、八ヶ岳、北信五岳(戸隠山・黒姫山・妙高山など) の地盤そのものを含むような幅の広い地溝帯で、その西側の縁にあたる糸魚川・静岡構造線が北・中央・南アルプスの縁にもあたるために有名です。北アルプス東麓の糸魚川、南アルプスの北麓から東麓にかけての釜無川〜富士川がその目安となっています。
上田さんがたどった南アルプス西麓の、伊那山地と赤石山脈の間の道、現在の国道152号はフォッサマグナではないのです。正しくいうと日本列島の西半分を南北に分ける中央構造線がここから渥美半島〜紀伊半島〜吉野川〜佐賀関半島〜八代へとのびてアジア大陸側の「内帯」と太平洋側の「外帯」とに列島を分けているのです。
このような日本列島全体の成り立ちにかかわる大きな地質構造に最初に注目したのはドイツの地質学者・ナウマンでした。ナウマンはフォッサマグナの命名者であると同時に、南アルプスがこの大地溝帯と中央構造線とにはさまれたクサビ形の特殊な山脈であることに気づいたのでした。
●60年前の南アルプス登山ガイドブック
そのような南アルプスの登山ガイドで新旧の力作を見つけました。1冊は昭和10年(1935) に三省堂から出版された『南アルプス』で、著者のひとり細井吉造さんは甲府出身のジャーナリストで甲斐側から南アルプスのよさを訴え続けたといわれます。
まずは「序」です。北アルプスと堂々と立ち向かおうという気迫に満ちています。
――北に遠ざかりて雪しろき山あり、とへば甲斐の白峯といふ……「平家物語」
雪しろき山が果して現在の白峯*シラネ三山であつたか、或*アルイは赤石岳であつたか、それとも富士山であつたかは知るよしもだにないが、とまれ赤石山系即ち我々山岳宗徒が限りなき思慕の情を寄せてやまぬ南アルプスの一角をさしたものであることは疑ふべくもない。
北に遠ざかりて雪しろき山あり、……雪白き山! 嗚呼*アア何とその語韻の美*ウルはしくその言葉の魅惑的なことよ! 凡*オヨそ南アルプスを愛する人にしてこのロマンチシズムのみをその胸の片隅に懐かぬものがあらうか。
北は諏訪湖のほとり、守屋山より起り南は法燈*ホウトウ映ゆる身延の山、秋葉*アキハの嶺となつて太平洋岸の沃野に迫らんとする延々実に百数十余粁の大山系は、北岳の3,192米を最高に3,000米を超ゆるもの十座を抱き、富士、大井、天竜の3大河をその山懐に育みつゝ共に日本の屋根として北アルプスと相対峙*アイタイジしてゐる。
だが上高地*カミコウチに近代的なホテルが出現し立山*タテヤマには堂々たるドライヴウェーが建設されんとしつつあるまでに北アルプスが大衆化したる今日、南アルプスは一小部分を除けば未だ漸*ヨウヤくその黎明を迎へたに過ぎない。それは南アルプスの地理的諸条件が容易にその神秘の扉を開かず、その大衆化を許さなかつたのみではなく、北アルプスに見るが如き絢爛*ケンラン華麗さが無かつたために一般登山者の興味を惹*ヒかなかつたのかも知れぬ。だが之は南アルプスを識らない人々の云ふことであつて、南アルプスにも北アルプスに優るとも劣らぬ素晴らしさの多々あることを知らねばならぬ。
若し北アルプスをスイスの山岳に譬*タトへることが許されるならば南アルプスは訪*オトナふ人も少ないコウカサスやヒマラヤの山々だといふことが出来ないだらうか。――
総論の最初にある「南アルプスの特質」はこの序文の主旨をさらに徹底させようとしたものです。
――北アルプスが誇る雪と岩との強烈なコントラスト、躍動する美、最も近代的な美は南アルプスに之を求めることが出来ぬかも知れぬ。その代り幽邃な森林、和やかなそして巨大な古生層の山波の重なりはまた南ならでは得られぬ尊き宝であらう。油絵と墨絵の相違とも言へる。
之等の相違は地理的な必然であつて北アルプスが内帯山脈に属し、花崗岩*カコウガン、片麻岩*ヘンマガン、ヒン岩等を主とする火成岩によつて構成されてゐるに反し、南アルプスは花崗岩の迸出*ホウシュツした駒ケ岳と地蔵、鳳凰*ホウオウ山塊を除き殆んど古生層の水成岩より成り、外帯山脈に属してゐる。北アルプスが絢爛、華麗であるにひき代へ南アルプスが地味、重厚たる所以*ユエンである。火成岩の山は明るいが古生層の山は暗い。赤石と穂高を比べて見れば判る。北アルプスでは2,300〜2,400米で森林帯の尽きてゐる山が多いが南アルプスでは2,600〜2,700米近くまで黒々とした森休に蔽*オオはれてゐるところが少くない。それに緯度と地理学的位置の関係から降雪量が非常に違ふ。北アルプスに盛夏の候皚々*ガイガイたる雪渓雪田の驚くべき程多量に残存するに拘*カカワらず、南アルプスには7月以降雪渓らしいものは殆んど残らぬ。加ふるに雪・氷と共に近代的登山形式の一つたる岩登りの対象となる岩峯、岩壁が少い。岩登りのゲレンデにと乏しい。遊戯派の登山者達から拾てて顧*カエリミられなかつた所以であり、大衆化への歩みの遅かりし理由でもある。――
●静岡側からのアプローチ
掘り出し物ガイドのもう1冊は静岡大学理学部の助教授で植物学の近田文弘さんの『南アルプスの自然と人』です。これは静岡市内の株式会社環境アセスメントセンターという会社の中にある「南アルプス研究会」が発行所となっています。1982年の発行ですから三省堂の『南アルプス』からおよそ50年後ということになります。
ところが近田さんのガイドでも南アルプスは「未開」であり「巨大」であるという趣は変わりません。第1章で「南アルプスの概要」という一節は次のように始まります。
――南アルプスは、本州の中央部、富士山の西側に南北に120km以上にわたって延々と連なる我国最大規模の山岳地帯で、標高3,000m以上の高蜂を10以上も有する文字通り日本の屋根である。なかでも、その最高峰北岳は、富士山につぐ我国第2番目の高さ(標高3,192m) を誇っている。
南アルプスの範囲は、人によって異なるが、広く考えれば、長野県の諏訪湖を北の頂点とし、東側を釜無川と富士川の線が境界をつくり、西側を天竜川の流れる伊那谷に面する山々を境界とし、南を静岡県の平野に近い丘陵地を境界とすることができる。こうして見ると南アルプスは、諏訪湖を頂点とする長三角形をしていることに気づく。かつて南アルプスは赤石楔状*ケツジョウ体と呼ばれたが、それは幅の広い部分が南側にあって、北へ向かって急にとがっているくさび(楔状) の形をしているこの山脈の様子を表現したものである。
この広い意味の南アルプスは、東から西へ向かって、4つの独立的な山脈からなっている。それは、名山甲斐駒ケ岳と鳳凰三山を含む鳳凰山脈、北岳を頂点とし、間ノ岳、農鳥岳の白根三山をつくってさらに笊ケ岳*ザルガタケを起こす白根山脈、駒ケ岳から西へ仙丈岳を経て大井川の西に延々と連なり、塩見岳、荒川岳、赤石岳等この山脈の主体をなす赤石山脈(狭義) 、および天竜川の東を走る伊那山地である(なお、南アルプスを広義の赤石山脈とも呼ぶ) 。これらの山脈はいずれも、ほぼ南北に連なっていて、その間を野呂川や大井川などの河川が深い谷を刻んでいる。ただし、伊那山地は地質学上中央構造線と呼ばれる断層を境として、南アルプスの主要部から区別されるので、同じ断層で区別される北部の守屋山とともに、南アルプスの範囲から除外されることもある。
南アルプスは、今まで、北アルプスやその他の山々に比べて比較的未開な山岳地帯といわれてきた。主稜線に登るためには、標高2,000m近い前衛の山を越えねばならず、また山小屋の整備も遅れているために、重装備の山男を除いて登山者をこばみ続けてきたからである。南アルプスの登山といえば、重い荷物にあえぎながら何時間もの急な坂の登りに耐え、食事、寝具持参、というのが常識であった。ごく最近になって林道網が発達し、アプローチの苦労が大幅に短縮されてきた。また山小屋で食事や寝具を提供する所も多くなってきた。しかし、南部の山々を中心に、今なお自炊、寝具持参の登山形態であることを忘れてはいけない。
南アルプスの山々は、ひとつひとつが大きくてどっしりとした重量感に満ちている。たとえば、北、奥、西、前と名のつく北アルプスの中心穂高連峰が、南アルプスの赤石岳ひとつの中に収まってしまうと称されるのは、南アルプスの山々の大きさを表現したいい方である。南アルプスの山々はそれぞれ巨大なだけでなく、尾根が比較的平坦な馬の背状で大きく、深く険しい谷へ向かって急に落ち込む山腹には深々と原生林が繁っている。
北アルプスは英雄で、南アルプスは豪傑だといわれる。鋭く天を突く岩峰を連ねた北アルプスに対して、地味であるが、堂々とした迫力を持つ南アルプスをうまくとらえた言葉である。この地味という特徴づけには、南アルプスの深い森林の存在が大いに関係がある。南アルプスは、我国で最も南に位置する高山であるので、比鮫的高い位置まで森林が発達している。森の山脈ともいえるのである。しかも、亜高山帯のシラビソなど、いわゆる黒木と呼ばれる樹木がその主なものとなっている。黒々と繁る山腹の森林は、地味というより、むしろ陰うつでさえある。南アルプスのこの森林の多くは、我国ではもう残りわずかとなった原生林として国民的な至宝というべきものである。その一部は、このような観点から厳正な自然保護がはかられる「原生自然環境保全地域」として本州でただ1カ所指定されている。――
このガイドブックは静岡市内で発行され、静岡側の情報にとくにくわしいのですが、それには理由があるようです。
1988年に信濃毎日新聞社から出された『南アルプス』は長野県側からの視点でまとめられた新聞連載の単行本化ですが、「再び増加傾向の登山者数」というコラムに静岡側のことが触れられています。
――長野県警外勤課のまとめだと、長野県側から南アルプスへの夏山の入山者はバスが運行している北沢峠など北部と下伊那地方の南部を合わせて59、60年がそれぞれ25,000人。30,000人の昭和54年がピークだったが、それ以後落ち込み、再び増加傾向を見せている。一方、静岡県側は荒川岳以南の南部登山者が主体で59年約5,500人、60年約4,400人。やはり56年が過去最高の7,700人。57、58年は台風で登山道や橋が大被害を受け、登山者はガクッと減ったが、再び増加カーブを描いている。南部だけを見た場合、長野県側に入山者の明確な統計がなく、静岡側との比較が難しいが、静岡側の方が山脈の直下までダム開発が進み、林道も整備されているため、入山しやすい状況。山ろくでは東海パルプの子会社、東海フォレストが手広く観光事業を営んでいることもあって、開発が少ない長野県側と比べ大衆化も顕著になっている。――
この静岡側の特異性について、『南アルプスの自然と人』はもちろん触れています。
――大井川上流遥かにある畑薙*ハタナギ第一ダムを過ぎれば、そこはいよいよ南アルプスの山ふところである。そしてこのダムより上流の大井川流域のほとんどは、東海パルプ株式会社の所有地となっている。
南アルプスの山々で表現すれば、間ノ岳から西へ三峰岳を越え、塩見岳から荒川三山、赤石岳、聖岳と連なる主稜線と、間ノ岳から南へ農鳥岳を経て笊ケ岳を越えて、さらに南走する稜線はこの会社の所有となる。南アルプス南部の登山は、東海パルプの構内を歩くことといってよいくらいなのである。
どうしてこんなことになったのであろうか。この疑問は1人の人物が解いてくれるだろう。
畑薙第一ダムから林道をさかのぼること約20kmで、椹島*サワラジマに着く。ここは近年千枚岳*センマイダケへゆるやかな登りが楽しいワラビ段コースへの基地として、登山者に人気の高い所であるが、南アルプスの盟主赤石岳へ直登する男性的なコースの起点でもある。
この直登するコースは通称大倉尾根と呼ばれる。この尾根の名は、問題の人物大倉喜八郎男爵の赤石登山を記念してつけられたのである。また、椹島に黒々とそびえているサワラの木は、この時記念に植えられたものである。
大倉喜八郎は明治時代に一代で大倉財閥と呼ばれる資産を築いた資本家である。
彼は、1837年、12代将軍家慶の代の天保8年に新潟県新発田*シバタ市の大名主の3男として生まれた。そして17歳の時に上京、30歳で神田に銃砲店を開き、35歳で大倉組商会を興して後大いに事業を発展させて、ついには男爵にまでなった。
大倉喜八郎は、明治の初期のうちに早くも海外貿易に先鞭をつけたほか、40を超える会社や団体を設立し、とくに満州、中国大陸に率先して進出した業績はまさに超人的で、あたかも日本の明治時代の勃興期を象徴するような人物である。
東京商法会議所設置(明治11年) 、帝国ホテル創立(同20年) 、帝国劇場、日清製油、日本皮革、日本化学工業などの会社設立(同40年) など、現在でも彼の業績は社会的意義を失ってはいない。
さて、この大倉喜八郎男爵が明治28年(1895) に、徳川幕府の重臣であった酒井氏より、大井川上流域の南アルプスの山林を、金35,000円也で買い取ったのである(大井川流域の林業、1976) 。――
その山林取得にまつわる疑惑についての近田さんの調べはここでは省略させていただきます。話は飛んで……、
――とにかく、大倉喜八郎は井川山林を手中にした。明治28年(1895) のことである。
井川山林を入手するとすぐに喜八郎は、林業の専門家である右田半四郎に依頼し、井川山林の調査を行った。明治28年8月、10日間に渡って右田半四郎は井川山林を調査し、同年10月「井川山林業管見」と題のついた報告書をまとめた。
この報告書は、毛筆でカタカナ混りで書かれているが、明治時代の文章らしく格調高く、また難しい。
その内容は、井川山林の現状として、急傾斜が多く林業として難しい点のあること、ハイマツ帯をはじめシラビソ帯やツガ帯などの樹林帯があること、木材の運送には大井川の水流が利用されることなどを述べている。
また、井川山林を将来どのように経営するべきか、森林の保護をどうするかなども提言されている。
大倉喜八郎は、明治29年には、自ら「森林の施業」という文章を書いて、日本の森林資源を有効に活用することが、日本の社会にとって大いに大切であり、日本には活用すべき森林資源が存在すると説いた。
喜八郎は、井川山林の資源的価値を十分に理解し、その活用を考えた時代の先覚者であったのである。
大倉喜八郎は井川山林の資源を利用する東海紙料株式会社を明治40年(1907) に設立したが、これが今日の東海パルプ(株) のもととなったのである。
南アルプスに明治の資本力でいどんだ喜八郎のハイライトは、男爵88歳の時の赤石岳登頂であった。大正15年(1926) 8月1日に東京から静岡に着いて、同夜は安倍郡但馬という所に泊まった。
2日にはいよいよ赤石を目指して出発、一行は200人と多勢であった。この日は大日峠を越えて井川に泊まった。3日目は田代に泊まり、4日目は、現在の畑薙ダムより少し上流部にあった沼平に泊まった。
椹島には5日目に到着した。ここまでの道のりは、大井川に沿った細い山道の連続で、男爵はカゴにゆられての大名行列であった。
8月6日、男爵は悪天候を押して午前10時半椹島を出発、この夜は途中で1泊した。
8月7日、雨のあがるのを待って午前7時半いよいよ、赤石岳山頂へ向け出発した。途中は霧が深く、男爵は、お花畑で花束を作らせて楽しんだという。
頂上に近いハイマツ地帯でカゴを降り、そこから椅子に腰かけたまま山男に背負われて雪渓を通り、ついに午前11時半、頂上に着いた。
羽織袴に改めた男爵の音頭で、両陛下と摂政宮殿下の万歳を三唱し、国旗を掲げた(東海パルプ60年、1967) 。
この時男爵は供の者に風呂桶を背負わせて登り、赤石岳の山頂で風呂に入ったと伝えられる。この風呂桶はその後も残り、静岡在住の植物研究家杉本順一翁はその風呂を利用したそうである。
また、この時、豆腐を持参させ、山頂で湯豆腐を食べたとも伝えられるが、どうやってこんなことができたのであろうか。
東海パルプ株式会社に伝わる話として、大倉男爵が入山中は、静岡から毎日現地まで飛脚が新聞や通信物をその日のうちに届けたということである。そのことから考えれば、たとえ豆腐のような傷みやすいものでも自在に入手できたのかもしれない。
しかし、これにはなかなかおもしろい逸話が伝えられている。
男爵のお供の中に、神部*カンベ満之助という人がいた。この人は、後に井川ダムを建設した株式会社間組*ハザマグミ社長をつとめた人で、大倉男爵に勝るとも劣らない大名行列を井川で演じた奇行の多い人であった。
その神部満之助は、白木づくりの組立式便所2組と豆腐をつくる石うすを人夫に背負わせ、大倉男爵のお供をしたのである。1組の便所を、次の宿泊地へ先行させる心にくいサービスであった。
そして、赤石岳山頂に登ると、用意の石うすで豆をひき、豆腐を男爵に食ベさせたのである。
道中、ご馳走ぜめでうんざりしていたとも、またカンヅメばかり食ベていたとも伝えられる大倉翁は、非常に喜んで、後々「あれほどうまいものを生涯食べたことがない」と人に語ったという。――
●文学者の登山記
そのような力ずくの登山と比べると、明治42年(1909) の夏に仲間4人で北岳に登頂した野尻正英という人のささやかにして味わい深い登山は今でも南アルプスにあこがれる登山者の求める気分をよく伝えているのではないかと思います。この野尻さんは早稲田大学の英文科を出て、明治39年(1906) から甲府中学の英語教師。のちに星の研究で広く知られることになる野尻抱影その人ですから山行記録も読みごたえがあります。ここではもちろんそのほんのサワリだけですが、これは登山史研究の第一人者山崎安治さんが責任編集している「日本登山記録大成」の第16巻『南アルプス I』に日本山岳会の機関誌「山岳」の第4年第3号から転載しているものです。
7月25日、4人は身軽な風情で山に向かったようです。道は御勅使*ミダイ川をさかのぼって夜叉神*ヤシャジン峠をめざします。
――郵便脚夫に遇った。1日1度芦安から往復するのだという。待たして置いて、葉書を1本書いて、渡した。川に出会った所から1里余りで、ようやく山畑を見た。危い橋を渡った。ここが芦安だった。芦安とは総称で、字*アザが種々ある。ぽつぽつ大きな家棟が点在しているのを右に見て、川に沿って進む。石は著しく大きさを増してきた。礫岩が多い。雪を噴く渓流の眺めが美しい。山から滝などが懸かっていた。
途中で橋を1つ渡ってだらだらと上ると、古屋敷という一団の字がある。その入口の左に荒壁塗の真新しい水車小屋があってごとごと音が洩れる。それと向い合って小さい蔵の白壁を控えた家が目に付く。郵便切手売捌*ウリサバキ所と札が出て、門に栗の木が茂っていた。この辺で名取家を聞こうと、幾ら声をかけても返事*イラエが無い。今度は水車小屋の主人*アルジの大兵な男を捕えて聞くと、右の家こそ大家で「耕ちやんは居たはずだ」と云う。種々案内の話などを聞いているうちに、「耕ちやん」は昼寝をしていたので2階から下りて来たそうで、改めて面会した。22〜23に見えたが、後で聞けば18だとのことだ。目の細い、温厚らしい青年だ。荒物もひさいでいたらしく硝子戸張りの戸棚の中に、煙草の大箱やら、麦酒*ビールの壜*ビンやら残っていた。「留守でお泊め申すことは出来ないが、案内してあげてもいい、剛力も1人は雇わなけりゃならぬ」と云う。それに定*サダめた。さて宿はと云うと先刻*サッキも水車小屋の主人が、向う山の上の大杉を指して「あの下の湯宿しきゃ泊る所は無え」と云った、その温泉へ案内してくれることになって、背負梯子に例の雑嚢具他を結び付けて先へ立った。
新しい家が多い。小学校も最近に建てたらしく先生の妻君らしいのが、井戸端に佇*タタズんでいた。村役場もその隣りにあったが、これは古くて小さい建物だ。この字を過ぎてから、川を渡って、坂を上って、氷室を左に見た所から、畑の間をまた川縁へ下り切ると、温泉宿がある。清水館という2階建で、明治35年(1902) 以来の開業だという。小新しい。後ろは川を隔てた恐ろしい絶壁で、頂に大杉が小さく見える字大曽利*オオゾウリはこの上にある。もっとも湯宿もこの字に属しているとか聞いた。
いよいよこの家へ泊ることになった。今日午前11時頃この宿へ着いて、人夫1人を雇って白峰へ登った某師範の先生がある、農鳥を越してヒロカウチを経、奈良田の湯へ下りるのだそうで、今年の第1登山者だという。少しの時間の相違で、第2位に落ちた。「岳は草が深かろうぜ」と云う。この辺では白峰を「西の岳」、鳳風一帯を「東の岳」と云う。自分達はこの東、西、南方の岳へ上るつもりで「耕ちゃん」に相談した。いかにも実直に相談に乗る。去年も案内したそうだ。――
野尻さんの一行は、今ではマイカーで一気に乗り入れられる広河原で次の1夜を過ごし、翌日大樺沢から北岳にとりついたのでした。ほとんど道のない森をよじ登って約5時間、とうとうやせた尾根に出ました。
――すぐ足の爪先からは、ここも攀*ヨじ上って来た方と同じように、偃松*ハイマツ帯より始まる千仭*センジンの谷が恐ろしい傾斜をなして栂*ツガか、樺*カンバか、ただ真黒な色が幽かに漠として底を埋めている。そしてその喬木帯が再び頭を持上*モタげる所から、奥仙丈岳が独り悠揚として空を摩している。頂はほぼ3つの峰に分れて、その露出した部分はやや紫がかった色で、所々に小さい雪の班*フを点じている。2つの縦谷も同じ色に迂曲*ウネり下って、その他は一面に濃緑に蔽われる。そして濃淡の縁はやや浅い緑に彩られている。谷底の「鉄砲」まで手に取るように見える。
奥仙丈の裾が東へ伸びてしばらくして、名の如く凹凸の烈しい鋸岳と昂*タカまる、そして甲斐駒ヶ岳の白く崩れた尖峰が怪しい姿を爪立てている、甲府方面から見るほど人を魅する形でない。それからよほどの隔てを置いて、東の岳、鳳凰が聳*ソビえる。地蔵仏の怪岩が白く兀*コツとして空を突いているが駒ヶ岳と同じく周囲*マワリの山容の変化から何時*イツもほどの興趣を覚えなかった。賽*サイの河原、地蔵ヶ岳、薬師、観音、黒い膚に頂のみは白く連なって後ろの方へ顔を捻じ向かせる。駒ヶ岳の向うに八ヶ岳が立派な裾を曳いて落ち着き払って聳えている。最も高いのは赤岳か、余の峰々はその凛たる風貌に一切を任じたというように殊勝らしく蹲*ウズクマっている。左に立科山の円錐が尖っている。八ヶ岳の右肩の向うからは黒い一抹の雲が次ぎ次ぎに湧く。確かに浅間の姻*ケムリだと導者は云う。奥仙丈と鋸岳との間には、幾重の小山脈が、わずかに頭のみを見せて、数知れず走って次第に後へ昂まって行く。そしてその果てを、我が日本アルプスの大連嶺が限っている。絶大な穂高の山塊が、奥仙丈のすぐ肩のはずれから起る。金色*コンジキを含んだ雪の天衣! 尋*ツイで槍ヶ岳の尖鋭! 信州路へ足を踏み入れたことはあっても、槍ヶ岳は名にのみ聞いて、その英姿を望むのは今が初めてだ。それも天の一角と一角、懐かしさは止度*トメドもないが心を通わすには余り隔たりが遠すぎる。とても自分の物にはならない。何なくと胸に空虚を覚える。――
●猟師の話
南アルプスの深い森の中に生きてきた獣たちの姿を、地元の猟師たちから聞いて綴った本がありました。明治43年(1910) 生まれの松山義雄さんは伊那谷に生まれ、高校の先生をしながら民俗学の分野で多くの著作をものにしたようです。昭和28年(1953) に『山国の動物たち』(創元社) として刊行されたものがいま『伊那谷の動物たち』(1994年、同時代社) として復刻されています。サル、シカ、クマ、カモシカ、オオカミ、猟犬、キツネ、タヌキ、ワシ、ヘビ、河童のどれをとっても文章は全然古くありません。ここでは南アルプスの麓で一般に「にく」と呼ばれているというカモシカのところを読んでみたいと思います。
――“にく”の棲*スむ場所は、四方に岩棚がそびえ立つ、馬の背のように嶮*ケワしい、高山の尾根です。そこはまた、寒い風がつねに吹きとおす、乾燥地であるとともに、見はらしのよくきく場所であることを必要としています。しかし“にく”は、これといった特定の巣をもちませんから、害敵から逃れるのに便利な場所に、いつもごろ寝をしています。冬でも、きびしい寒さをかまわず、雪の上に寝ています。雪のべッドから起き上るときは、“みの毛”(背骨の毛) が雪に凍りついて、抜け残っていることがあります。
“にく”の棲息セイソク地は、中央アルプスの南駒ヶ岳では、山の八合目のあたり、南アルプスでは三伏*サンプク峠の付近でして、いずれも、“にく”の棲息地として知られております。終戦直後の、乱獲にわざわいされない以前には、御所平*ゴショダイラから三伏峠に向かって、ものの30分くらい歩けばもう、“にく”の姿を見ることができましたが、その頃の“にく”の数は、三伏峠を中心に、約300頭と推定されていました。しかし、戦後、禁令が無視されたため、現在(昭和28年) では、60頭くらいに減少しているのではないかと、推測されています。
“にく”は、休んでいるとき、何か怪しいものが近づくけはいを感じますと眺望のきく寝所からむっくりと起*タって、じいっとあたりを見まわします。それが、人間や犬である場合には、怒りと驚ろきの表現である。ピイッ、ピイッという鳴き声をあげて、そこをとび出します。この声は、2声ずつつづけて、幾度か発せられますが、ちょうど、たけ(岳) のかしどりの鳴き声にそっくりですので、よくなれた猟師でも、“にく”の声か、“かしどり”の声か、ちょっと判断に迷う場合があるほどです。
害敵に追いたてられた“にく”は、ピイッ、ピイッの声を残すと犬とは反対の方角にある、嶮しい岩場に向って、ガタン、ガタンと蹄の音も荒あらしく、石を蹴*ケちらしながら、全速力で逃げ去ってゆきます。そのとき2本の角は、後頭部に向かって寝てしまいますので、やぶや樹間に、角をからませるおそれはありません。
“にく”は、走るときには、蹄のうしろにある“けづめ”を、土や岩にかけて滑りをとめることができます。嶮しい岩の背から、あわや足をふみ外ハズしたかと見られるときでも、つぎの瞬間には、もう横へとびのいて走ってゆきます。めったには、谷底へ落ちくずれるものではありません。また疾走中、岩が高くて登りにくいところでは、岩に“あご”をかけます。すると、あごの懸垂力*ケンスイリョクで、すうっと後肢が上って、岩に難なく肢がとどきます。全く“にく”は、岩場に棲むようにできている動物です。こんなところから、“いわしか”の名も出たことでありましょう。“にく”は、このような特技とともに、絶壁の“へり”のような、一歩まちがえば命のない岩場でも、平然と、しかも全速力でかけ抜けてゆくことができるものですから、犬の疾走力では、とうてい“にく”に追いつけるものではありません。たちまち“にく”との距離は、大きく開いてしまいます。
“にく”は、それをみてとると、走ることを止め、“こびそ”や“つが”の小暗いやぶかげに立ちどまって、うしろから追いかけて来る犬の様子を、じいっと見まもっております。しかし、犬の姿が目前に迫って来ますと、ふきげんの表情を極度に示しながら、ふたたび全速力の疾走を始めます。この小休止は、1度ならず幾度かくり返されるのですが、しかし“にく”は、長距離レースの走者としては、スマートの割に脚力の弱い動物ですから、やがて疾走をきりあげて、岩帯の“ふくろ”へとびこんでしまいます。“ふくろ”というのは、もうそれから先が無いゆきづまりの断崖のことです。“にく”は、“ふくろ”の“はなど”(突端) に立つと、首を下にひきつけて、前方に突き出した角を左右に振りながら、犬の近づくのを待ちかまえております。その間にも、ときどき角を岩壁で磨きながら、シャッシャッという2連続の鳴き声を、くりかえしたてています。“にく”がこの声を発するのは、怒りに燃えたっているときです。なぜならふだん遊んでいるときは、ピイッとサァの間のような声で、鳴いているものですから。
いよいよ、犬の姿が身辺に迫って来ますと、にくの怒りは、最高頂にたっして来ます。岩場をガタン、ガタンと荒々しく踏みならすのは、その現われであります。そしてまた、日頃はねている顔の毛が、ボォッとさかだって、顔の大きさが、いつもの倍くらいになり、険悪な表情が一面にみなぎって来ます。伊那谷では一般に、憎*ニクにくしい“つらがまえ”のことを「にくづら」といいますが、それはこのときの、にくの恐ろしい形相から出た表現であると、中央アルプスの猟師から、いわれているほどであります。もちろん、この解釈を、そのまま信用することはできませんが、まあ、このことからも、“にく”の表情が、どんなに険悪なものか、想像していただけることでしょう。
やがてのことに、“にく”と犬とは、狭い“ふくろ”を舞台に、たがいに鼻づらを接して、対峙*タイジします。“にく”は、温和な動物ですから、このときも犬がとびかかって来ないかぎりは、にくの方から先制攻撃に出るようなことはありません。犬が一歩進めば、“にく”は一歩退*サガります。“にく”が進めば、犬も退ります。猟師はこのような、一進一退の状態を利して、“にく”を撃つのですが、“にく猟”にふなれな犬は何の見さかいもなく、性急に、“にく”にとびかかってゆきます。その瞬間、“にく”は、地上に低くさげていた頭を、ピンとふり起すと、鋭い2本の角で、犬のからだを突き刺します。たちまち、犬は腹をえぐられて、腸が露出します。あるいはまた、角にかけられて、先仭*センジンの谷底ヘ、まりのようにころげ落ちてゆく犬もあります。こうして猟師が、“にく猟”専門に育てた、大切な“いわしか犬”を一瞬に失うことも珍しくはありません。
しかし、“にく猟”にたくみな犬でしたら、長い時間を充分に、“にく”をあしらうことができますから、猟師によってはこの間を利用して、“八重ひっこくり”にした縄を、長い棒の先につけて、それを“にく”の頚*クビにかけてしまいます。そして、縄を手もとへ引けば、縄はしまって、もう“にく”の首から抜け落ちることはありません。あるいは、カウボーイのように、投げ縄をとばして、“にく”の首に縄をかける猟師もあります。投げ縄の有効距離は、12尺(約3.6m) 以内ですから、猟師は、1mないし2mの距離から、“にく”の頭部をねらって、縄を投げます。東京の上野動物園に飼育されている“にく”は、七久保*ナナクボ村の宮下昌一猟師が、このような要領で、投げ縄をとばして、越百山のノウナシ沢の岩棚で、捕獲したものでした。――
この本の魅力は百戦錬磨の南アルプスの猟師の体験を民俗学者の耳で聞き、動物文学者の目で描いたところだと思います。あとがきを読むと、そのことがよくわかります。
――この本の原本(『山国の動物たち』) は、昭和28年(1953) に創元社から出されたことがありますが、今回、同時代社から、さし絵など加えてよそおいも新たに、より読みやすい形で出版されることになりました。よろこばしいかぎりです。昭和28年といえば、伊那谷の自然界にまだ生態系の異変が起きていない時代で、山の動物たちも造物主から与えられた生存権を充分に全*マットうすることができましたから、そこには人間と野生動物との共存の世界が存在しておりました。
猟師は、動物を捕獲することを究極の目的としてはいますが、一方では野生動物と共存することを忘れてはいない不思議の存在です。たとえば、動物の乱獲など極度にきらいます。3年後、10年後の動物の増殖を考えているからです。そればかりではありません。猟師は動物に対して深い愛情をもっているうえに、神秘感さえもっていますから、野生動物の生態観察についても並々ならぬ熱意をもっています。事実、すぐれた猟人ほど動物の生態について通じています。動物の生態を無視しては、捕獲を目的とする猟師の仕事は成り立たないからです。
本書は、ノンフィクションの動物文学として書かれたものですが、科学性を失わないため、動物の生態を重視して、とりいれております。そのため、動物の生態に詳しい三蜂川谷や小渋谷の猟人を訪ねて、貴重なはなしをきくことにつとめました。この本に出てくる猟人は、すべて実在の人でして、ある時代、南アルプスの谷々で猟人として勇名をはせた人びとです。本書は、これらの猟人や、また幾世代にもわたり動物と共存の生活を営んできた山村の人びとが、動物にいだいてきた愛情の表徴の記録です。そうした面から読んでいただければ幸いと、思います。――
伊藤幸司(ジャーナリスト)
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