毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・26・知床国立公園」
1995.6――入稿原稿


■国立公園物語…知床

●自然と人との接近・遭遇地点

 私が知床を訪れたのは2月でした。オホーツク海側には流氷が押し寄せていて、斜里からウトロへ行く手前、有名なオシンコシンの滝のもうちょっと手前のオンネベツ川の河口から、流氷上にオオワシかオジロワシかを19羽まで数えました。
 羅臼側にはまだ流氷は接近していませんでしたが、たった1度だけ、それもほんの一瞬、岸近くを泳ぐアザラシを見ました。種類などはまったく分かりませんが、昔アラスカのユーコン川河口でアザラシ猟のボートの操縦役をやったことがありますから、海面にちょこんと頭を出した泳ぎ方はなつかしいアザラシのものでした。
 おそらくこれは真冬の知床を訪れた旅行者に与えられるごく普通の体験ではないかと思うのですが、これだけでも「さすがに知床」と思うのは、すでに26の国立公園を見てきた私の正直な感想です。知床がナマな自然との接点として、行きずりの旅行者を向かい入れるだけの野生をいまだに持ち続けているということに関して、太鼓判を押していいと思うのです。
 実は30年前の夏に、このオンネベツ川をさかのぼって遠音別岳(1,331m) の稜線に1週間ほど滞在したことがあります。大学の探検部の新人部員として「知床全山縦走」のサポート(荷揚げ) 班のひとつに配置されたのでした。遠音別岳のあとは岬に近い知床岳(1,254m) にまわって、池の畔で1週間、縦走隊の到着を待ちました。
 遠音別岳の稜線近くのハイマツはちょうど胸のあたりに幹が浮いていて、スプリングのようにしなやかなその幹の下をくぐろうとすれば大きなザックがひっかかり、乗り越えようとすると今度はザックは緑の天井となっている枝先のどこかにひっかかります。幹の上に上がった状態でバランスを崩そうものなら、ハイマツの海につかまって、宙ぶらりんのままもがくことになるのでした。
 翌年も知床の山に入り、ラウス側の海岸を岬まで歩いてもみました。そういう体験の中で、私の虚弱な体質ががらりと変わったという副産物もありました。知床は、ですから、私にとっては青春の出発点ともいうべきものであったといえます。
 以来再訪のチャンスがないまま知床とはほとんど無縁の30年が経ってしまったのですが、そこには私のような人間に突き刺さってくる次のような言葉がありました。ジャーナリスト・本多勝一さんの文章です。
 ――編集した各収録文を改めて読んだ末の思いは、美しく豊かな自然に恵まれた日本列島に住む人間が、いかに自然を冒涜しているかという「なさけなさ」です。国立公園をこれほどひどく扱う国は、いわゆる“後進国”を含めても世界に類がないでしょう。私は知床問題を記事に書くとき、「知床の国有林伐採」とは書かず、「知床国立公園の伐採」と書いてきました。一般の国有林とは話が違う。そこを竣別しなければなりません。日本人が伝統的に自然を詩歌にうたい、あるいは文学に描写してきたことは事実としても、それは果して本当に自然をたたえたものだったでしょうか。「西洋人は自然と対決するが日本人は自然を友とし、あるいは抱かれる」といった類の俗信には、根本的な間違いがあるのではないかと思うようになりました。「知床」は日本文化の根底に疑問を投げつけるものではないか。本書の題を当初『知床と日本人』と考えていたのはそんな動機からでした。
 実際、たとえば自然を描く多くの画家たちのなかで、どれほどの人々が自然保護に具体的にかかわっているでしょうか。自然から大きな恩を直接的に受けて生活する人が、その“恩人”の危機にさいしてどれだけ恩返しをしているでしよう。自然をうたう俳人・歌人、森や山にかかわる小説家、自然を舞台にする探検者・登山者・つり人・旅行者・探鳥者・狩猟者・博物学徒……。むろん熱心な一部はいるものの、忘恩が多すぎるのではないか。知床に限ってみても、かつてここを舞台にした映画や流行歌でかせいだ人々のどれほどが、今度の危機に具体的な恩返しをしたのでしょうか。――
 これは本多勝一さんが編者となっている『知床を考える』(1987年、晩聲社) のあとがきの部分です。本多さんは京都大学山岳部から探検部を派生的に誕生させた中心人物で、それが日本の大学に「探検」という名のクラブが登場した最初ですから、私など他大学の学生にとっても大先輩です。
 その大先輩のいう「恩知らず」に当たるなあと思いながら、昔、本多さんの文章で知った言葉を思い出しました。「定向進化」という概念です。生物が一定の方向性をもって進化していくという考え方で、進化の方向が外部環境の違いによってあっちこっちに変わるという力より、生物自体の内部に、ある方向に進化しようとする原因なり動機なり、契機なりが内在しているという力のほうを大きく見る立場をいうようです。おそらく本多さんが日本人の精神的貧困を叫ぶのは、「外圧」などの表面的な環境変化で日本が変わっても、それだけでは日本人は変わらないという考えがあるからでしょう。
 論理的に厳密ではないかもしれませんが京大のいわゆる「探検学派」の祖というべき今西錦司さんの今西進化論では、個体の突然変異より群としての突然変異が進化の大きな力となるという点に特徴があるようですから、定向進化のプログラムというものが存在するとしたなら、私たち日本人はまさに存亡の崖っぷちに立っているのかもしれません。
 そのようなとき、本多さんが憂える日本人の定向進化の道筋に「知床」は大きな問題として登場してきたということのようです。それは日本の国立公園の問題であり、国有林の問題であり、当然のことながら環境問題であり、必然的な結果として日本人のヒトとしての存否に関わる問題であるということになります。
 巨大で複雑な複合体として存在する野生と、それをいとも簡単に圧迫する人間の行為とが知床を舞台にどのように展開されてきたかを、ここでは2冊の本を軸にして見ていきたいと思います。
 1冊は知床国立公園の原生林伐採問題の高まりの中で緊急出版された本多さん編集の『知床を考える』です。あとがきの中に次のような説明があります。
 ――当初は朝日新聞出版局から出すつもりでしたが、伐採凍結期限の(1987年) 2月末までに出版するためには編集者の人手不足で不可能となったため、晩聲社から出ることになりました。――
 この本は問題の本質を理解するための資料として、新聞・雑誌などに発表されたさまざまな立場の人々の見解を採録したものとなっています。
 2冊目は1988年9月に札幌の共同文化社から発売になった野生生物情報センター編の『知床からの出発・伐採問題の教訓をどう生かすか』です。これは強行伐採後の出版で、あとがきに次のように書いてあります。
 ――出版の話が持ち上ったのは、1986年11月のこと。知床伐採間題があれほど沸騰したのに、話題になればなるほど、本来の議論から遠ざかってしまったというのが、われわれの共通した受け止め方であった。どういう訳か、林業の専門家ではないわれわれが中心となって、まず編集委員会を作った。
 当初の企画では、知床伐採の当事者、関係者に直接当たって、核心に迫る議論をしてもらう座談会またはインタビュー形式を採用することにした。この方がマスコミには乗りづらいテーマをじっくり掘り下げられるとともに、臨場感あふれる内容が期待できたからである。さっそく翌年(1987年) 早々からこの線でスタートさせた。ところが数回分をこなしたところで、同年4月に至って伐採が強行され、企画そのものを練り直さざるを得なくなった。
 結局、知床問題に関心をもっている人に、それぞれのテーマで執筆を依頼することに落ちついた。「知床からの出発」という題名が示す通り、この問題をきっかけに全国の森林でも通用しうる問題提起をしてもらいたい、というのが唯一の条件で、伐採の賛否そのものにはこだわらなかった。――
 そのほかに、佐藤眞佐美さんがお父さんの日記や原稿を元に描いた『文ちゃんのはるかな知床』(1992年、北海道新聞社) を地元の本屋で見つけました。この本は文ちゃんこと佐藤文一郎さんが4歳から8歳までを過ごした岩尾別の開拓のドラマです。その土地こそが、日本の環境保全運動の本質にかかわるという「知床100平方メートル運動」の対象地であり、国立公園内の国有地として強行伐採された原生林の隣接地に当たるのです。この本に描かれているのは、その60年前の情景なのです。
 ほかに、次の本からの引用もすると思います。
『知床の未来に向けて……しれとこ100平方メートル運動10周年記念シンポジウムの記録』(1989年、斜里町役場自治振興課)
 オジロワシ・オオワシ合同調査グループ事務局『オジロワシ・オオワシ一斉調査報告書=第3報』(1988年、根北郷土研究会)
 ここではまず、最後に名前を挙げた本を開いてみます。その報告によるとオオワシの個体数は1985年の2月17日(午前9〜10時) に日本(北海道と本州の34地区) で、2,183羽を数えています。ちなみに1986年(2月23日) の調査では2,111羽、1987年(2月22日) は1,227羽となっています。
 それに対してオジロワシは同じ調査で1985年が562羽、1986年が701羽、1987年が391羽となっています。
 これは同時に観察された天然記念物の数としては半端なものではありません。私がオホーツク海側で6倍の双眼鏡で19羽を数えただけでも流氷上に点々と巨大なワシが並んでいるという印象でした。ところがこのレポートの「集計表」によると1985年の場合、羅臼の手前の陸志別川河口付近で1,614羽(オオワシが88%) をカウントしているのです。調査の全体数が2,745羽(オオワシが80%) ですから、その59%が1地点で見られたというのです。
 この地点の調査は2人で行なったとありますが、上空を飛んでいたのはオオワシ13羽とオジロワシ4羽だけ、残りはすべて氷上にいたというのです。それが羅臼行きのバスの窓からでも普通に見えるのですから、行きあわせた旅行者には衝撃的な光景だったに違いありません。おそらく、巨大なワシがスズメの群れのように流氷を埋め尽くしていたのでしょう。
 その調査は、日本の34地区で同時に展開されましたが、羅臼地区(知床半島の羅臼側) では13の地点に分けて、それぞれを調査しています。その1地点、陸志別川からタッカリウス川までの区間について今のような数字が記録されているのです。そこで羅臼地区の13地点全部を合計してみると2,375羽(オオワシが84%) となりますから、その日日本で観察された総数の実に87%が知床半島の羅臼側の海岸道路(植別川〜ルサ川) でカウントされたということになります。
 もっとも、この圧倒的な数のオオワシは流氷にしたがって知床の海岸にまでやってくるということを覚えておかなければいけません。知床半島そのものというより、知床半島を取り巻く海の生き物と理解しておいたほうが誤解が少ないのではないかと思います。

●国立公園になった知床

 話はまず1961年にまでさかのぼらなければいけません。この年の末に「南アルプス」「白山」「山陰海岸」と並んで「知床半島」が国立公園の候補として公にされたのです。
 そのときの様子を専修大学北海道短期大学の俵浩三さんが書いています(『知床からの出発』収録の「国立公園としての知床の自然保護のあり方」)。
 ――そのころ私は北海道林務部林政課で国立公園を担当する技師だった。しかし「知床が国立公園候補地になった」というのは、私にとって寝耳に水のことだった。私ばかりでなく、当時の課長以下、多少とも国立公園に関係するスタッフにとっては、衝撃的なニュースだったにちがいない。というのは道庁や知床の地元町村は、知床を国立公園に指定してほしい、という陳情など、ただの1回も行ったことがなかったからである。
 そのころ、ある地域を国立公園候補地にとりあげてもらうには、関係する地元は県知事を先頭にして、厚生省(当時は厚生省が国立公園を所管) と、自然公園審議会の委員に対し、陳情に次ぐ陳情を重ねるのが普通の姿だった。――
 俵さんは厚生省の国立公園部で研修を受けていることから、中央官庁における動きの解説にも当事者に準ずる具体性があります。
 ――昭和30年代始めから半ばにかけては、「戦後」が終わり、高度経済成長期にさしかかるころで、観光ブームのきざしも見えていた。全国各地から国立公園候補地の名乗りをあげる所が続出した。それぞれが観光開発を期待したのである。
 そのため自然公園審議会では、全国から新たな国立公園候補地を適正に選定するため、昭和36年に「国立公園体系の整備」について検討をはじめた。当然のこととして全国から陳情の出ている“候補地の候補地”が次々と検討され、ふるいにかけられた。その時、委員の一部から、「地元から陳情がなくても、真に国立公園にふさわしい所はとりあげよう」という意見が出て、知床半島も注目されるようになった。
 当時の知床半島は、まだ交通が不便なへき地で、あまり知る人も多くない“秘境”だった。それが自然公園審議会で急浮上した背景には2つの見逃せない重要な事実があった。
 その1つは昭和30年(1955) ころ、網走が国定公園となるに際し、その学術調査を指揮した当時の舘脇操北大教授(植物学) が、自然公園審議会の委員を網走のほか知床にも案内し、将来への布石を敷いていたことである。舘脇教授は、厚生省国立公園部の幹部だった石神甲子郎氏と横浜の中学校(旧制) の同級生だったこともあり、審議会で実権をにぎる田村剛先生などと知音の仲だった。
 もう1つは、そのころ本州の某大手観光会社が知床の観光開発にのりだそうとしていたことである。その企業は知床半島の先端にホテルなどを計画していた。そのことを知った自然公園審議会委員は、知床の原始的価値を舘脇教授から聞かされていたので、ここが観光開発の波にさらされる前に国立公園に指定してしまえば、その開発を阻止し、自然が保護できるとの観点から、急きょ国立公園候補地としたのである。
 当時の審議会の記録には、「候補地の検討は調査をまって行うべきであるとの意見もでましたが、当部会としては、この原始的な景観の保護のため、速やかに国立公園に指定することが必要であると認め、候補地として取りあげることにしたのであります」(「国立公園」1962年1・2月号) とある。――
 ――当時、国立公園に寄せる地元の主な期待は自然保護ではなく観光開発だった。そのことは昭和30年代の北海道以外の都府県の国立公園担当課の多くが「観光課」だったことに如実に現われている(北海道は林政課。なお現在はほとんどが自然保護課または環境保全課)。そうした中で、知床国立公園は、陳情もなく地元の意志が反映されなかったとはいうものの、「原始的な自然環境の保護」が明確に打ち出されて、国立公園に指定されたのである。
 このことは日本の国立公園の歴史の中にあって、きわめて異例のことである。しかし同時にこのことに知床国立公園の基本的性格が良く現われている。この知床国立公園指定の「原点」は、今後の知床のあり方を考える場合、常に念頭におかなければならないことである。――

●自然保護運動の始まり

 国立公園指定後に知床半島に起きた最初の大きな出来事は半島中央部で羅臼とウトロを結ぶ知床横断道路の着工(1963)、および開通(1980年) です。
 これは同時に自然保護運動の発生もうながしました。北海道新聞社会部の川人正善さんが知床の自然保護運動の足跡をたどっています(『知床からの出発』収録の「知床コミュニケーション」)。
 ――知床自然保護協会は昭和49年(1974) に「青い海と緑を守る会」の名で発足。初代の会長・午来昌さん(昭和11年生まれ) は斜里町ウトロの農家で、中学を出た後、農作業をしながら知床の山々を歩き回っていた。横断道路の工事を「しょうがねえなあ」としばらく横目で見ていたが、斜里町の自然保護条例制定(1973年) などを機に、保護団体を組織した。町内の農家、教師、役場職員、僧侶など50人が結集。以前から知床をフィールドに鳥などの研究、写真撮影などを重ねて来た人も仲間に加わった。
 一方、根室自然保護教育研究会は昭和48年(1973) のスタート。会長の三浦二郎さん(大正14年生まれ) は発足当時、小中併置校の校長先生で戦前からの日本野鳥の会の会員。乱脈な農地開発、ゴルフ場計画などに腹を立てて声をあげた。大雪縦貫道路反対運動の盛り上がりも契機だった。周囲の教師、主婦、獣医、環境庁の職員、カメラマンなど約200人が集まって来た。
 両グループによる知床横断道路調査の方法は簡単だ。二手に分かれて、ウトロ側と羅臼側から横断道路をゆっくり歩いて登り、知床峠で合流、それまでの間に目や耳でつかまえた自然の様子を報告し合ってレポートにまとめるというやり方。目や耳の数が多いほど、集まる素材は豊富だ。自然観察の専門家はまとめ役として数人いれば済み、経験の浅い主婦や子供が活躍できる場面が多い。
 新聞はこの調査を毎回、ニュースにし、テレビもほぼ欠かさず放映している。いまでは知床の夏の恒例行事、地元の人たちにもすっかりおなじみになった。――
 国立公園は第1級の観光資源ですからその中の民有地は観光資本にとって魅力的な存在です。知床国有林の中にもそういう土地があったのです。それは大正時代から何波かにわたって入植した開拓農民が原野に切り開いたもので、その跡地が別荘用地として原野商法の対象となって売買され、あるいは観光施設用地として大資本によって買い集められるという動きが見えてきたのです。斜里町でそれに対抗するために生まれた新しい運動についても川人さんの解説が簡潔です。
 ――「知床で夢を買いませんか」。斜里町主催・知床100平方メートル運動(1977年スタート) のこのキャッチフレーズは運動の対象が、実際に買い取る離農跡地120へクタールだけではなく、それを取り囲む知床半島全体であることを明確に示している。運動を発案した元斜里町長、藤谷豊さん(大正2年生まれ) が、この運動に魂を吹き込み、大衆的動員力をつけようとひねり出した文句だった。
 町政を引き継いだ前町長の船津英雄さん(大正14年生まれ) はこの文句に悩まされた。木材会社の経営者で、伐採容認の船津さんは、「運動地と伐採地はかなり離れているし……」としのごうとしたが、無理があった。知床全体の保護を信託した全国の参加者が怒って「約束が違う、金を返せ」と町に求めたのは当然だった。行政が明確なスローガンを打ち出して始めた事業が、重い継続責任を持つことは当然だった。藤谷さんの読みが、ドタン場で威力を発揮し、船津さんの手腕に勝った。――
 その「前町長」が現役町長、「現町長」が反対派リーダーとして斜里町内で真正面から対決したのが知床国立公園における国有林伐採問題でした。
 ここでは全体の見取り図として、『知床からの出発』にまとめられた「年表・知床の動き」から抜き書きさせていただきたいと思います。これをまとめた深沢博さんは朝日新聞北海道支社報道部の記者だそうです。ここでは年表項目はその一部を選択する代わりに、各項目の記述は端折りません。
 まずは発端の部分。
●昭和56年(1981)
――4月。北見営林支局、第4次網走地域施業計画(昭和56〜65年度) で知床国有林の伐採を計画する(国立公園内の1,100ヘクタールから約53,000立方メートルを択伐)。――
●昭和57年(1982)
――9月。斜里町、知床100平方メートル運動関係者、自然保護団体などの強い反対で北見営林支局は「伐採を60年度まで見合わせ、再検討する」と発表。――
 いよいよ問題の伐採計画の登場です。これは法律上はまったく問題がない事業です。
●昭和60年(1985)
――第5次網走地域施業計画(昭和61〜70年度) 案で伐採計画再浮上(1,700ヘクタールから約20,000立方メートルを択伐、ヘリ集材)。地元自然保護団体、青い海と緑を守る会(午来昌代表)、強く反発。――
●昭和61年(1986)
――2〜3月。北海道、環境庁も伐採計画に同意。――
――7月10日。北見営林支局、地元の知床自然保護協会(青い海と緑を守る会が4月に改称) のメンバーや地元の人たちを招いて現地説明会を開く。――
 この夏から秋にかけて伐採反対運動が大きく盛り上がっていきます。
――7月11日。北海道自然保護協会(八木健三会長)、林野庁、北見営林支局に対し、(1) 対象地はシマフクロウ、オジロワシなどの生息地。その保護上懸念大きい。(2) 100平方メートル運動隣接地での伐採は国民的運動に逆行する、などを理由に「伐採の凍結」を要請するとともに「計画の抜本的な再検討を求める」との質問状を提出。――
――8月15日。北見営林支局、道自然保護協会の質問状に答えるかたちで「森の活性化に択伐は必要。計画通り9月初旬に伐採に着手する」と表明。――
――8月18日。午来昌・知床自然保護協会長、寺島一男・道自然保護団体連合代表代行ら道内自然保護団体関係者11人が北見営林支局を訪れ「白紙撤回」申し入れ、話し合いを持つが、支局側は「あくまで着手」。――
 伐採計画の「実力阻止」と「あくまで実施」とが激しくぶつかりあいます。
――9月1日。北見営林支局と、作家の畑正憲さん、自然保護団体代表ら5人が話し合い(同支局で)。支局側は伐採を前堤にしながらも、(1) 知床100平方メートル運動地に隣接する国有林に100メートル幅で約100ヘクタールの禁伐地区を新設する。(2) 伐採計画個所も含め約1,000ヘクタールの森林(2・3種保護地区) の施業を見合わせ、保存林として保護する。(3) 野生鳥獣と森林との関わりの本格的調査を行う……の3点からなる修正案を提示。あくまで「伐採反対」を唱える自然保護側は即答をせずこれを持ちかえる。――
――9月11日。道自然保護協会、緊急理事会を開き北見営林支局の修正案受け入れを決める(採択で賛成多数)。伐採を前堤とした修正案の受け入れに他の自然保護団体は猛反発。――
――9月15日。道自然保護団体連合の代表者会議(斜里町ウトロ) で道自然保護協会「修正案受け入れ」を撒回、「伐採を凍結し、野生鳥獣の生態調査を先行させる」で足並みをそろえることを確認。――
 斜里町の船津町長の動きが「調停者」という看板の陰に隠れて不透明になりました。
――9月17日。北見営林支局と自然保護団体との4回目の話し合いが同支局で行われたが、保護側は一致して「修正案」を拒否。話し合いは10分間で物別れに終わり、交渉は水面下の動きに。「伐採の1年凍結」を要請することを内々に約束していた船津町長は欠席。――
――9月20日。船津町長、北見営林支局に対し「伐採の一時保留」を要請(午前10時)、支局がこれを拒否(午後1時すぎ)。町長、4項目からなる調停案……(1) 知床の天然林を維持するよう努力する。(2) ただちに伐採区域の動物生息調査を開始し、来年度以降の施業はその結果に基づいて計面する。(3) 今年度の伐採量は知床100平方メートル運動地に隣接する100メートル幅を残し、できる限り削減する。(4) 国道334号(知床横断道) 以東の伐採については十分な調査結果に基づき斜里町と十分協議する……を支局と知床自然保護協会の午来会長に提示(午後2時すぎ)。支局側はこれを受け入れることを町長に伝える(午後4時15分)。――
――9月21日。午来会長、船津町長と話し合い、「調停案は伐採を前提にしており受け入れられぬ」と回答。この日は「知床100平方メートル運動記念植樹祭」(約220人参加)。参加者から町長調停案に不満が続出。参加者は「伐採中止」を求めるアピールを採択。植樹祭は騒然。――
 問題は中央政治の舞台でも取り上げられるに至ります。
――10月6日。参院予算委で中曽根首相、「あくまで慎重に、地元の意見も十分聞いて進めたい」と発言。――
――10月9日。稲村環境庁長官、加藤農水相に「凍結」要請、加藤農水相も伐採着手の延期を示唆。――
 「天然記念物のシマフクロウを守るため」という反対派の主張を逆手に取って、シマフクロウがいるかいないかという調査を伐採側が実施します。
――10月17日。加藤農水相、「動物調査を2月まで行い、伐採はそれ以降にする」と発表。北見営林支局、調査スタッフの一部と調査内容を発表。――
●昭和62年(1987)
――3月12日。北見支局の動物現地調査終了、シマフクロウの営巣は確認できず。――
 そして伐採。
――4月10日。稲村長官、加藤農水相に「知床の自然の重要性を考慮して慎重に対処してほしい」と要望。一方、林野庁は「来週中(13〜18日) にも伐採着手」を表明。――
――4月11日。道自然保護協会、林野庁や北見営林支局などに抗議電報打電、道自然保護団体連合、“非常事態宣言”を出し、12日から現地に抗議テントを張ろうと全国に呼びかけ。――
――4月14日。北見営林支局、道警の警戒体制の中で伐採に着手。反対派の約15人が未明からヤマに入り巨木に抗議のハンカチをしばりつけ、木に抱きつく「チプコ運動」を展開。支局側は抱きついた木には手をつけず初日80本を伐採。――
――4月16日。予定の530本の伐採完了、17日からヘリ集材作業開始(23日終了)。――
 そしてその後。
――4月18日。林野庁、62年度の伐採は実施しない方針固める。――
――4月26日。斜里町長選で伐採反対の先頭に立ってきた午来昌さん(立候補にあたって知床自然保護協会会長は辞任) が「伐採容認」の現職、船津氏を破り当選(午来5,342票、船津4,622票)。――
――10月23日。林野庁、斜里営林署(職員109人) を63年春までで廃止することを通告。全林野労組は同日午後、営林署前で抗議の時限スト。――
●昭和63年(1988)
――4月7日。北見営林支局の動物調査団、63年度以降の伐採予定地の調査報告書を北見営林支局に提出。「クマゲラ一つがいの生息を確認したがシマフクロウ、オジロワシは確認されず。昭和24年ごろに択伐が実施された跡の樹木の世代交代は順調。エゾシカ、キタキツネ、ヒグマの生息状況は道内他地区の森林とほば同じで特殊性はない」。――
――6月14日。北見営林支局、伐採跡地を報道陣に公開。「択伐による森林の活性化」を力説。――

●「平行線」の根っこ

 年表項目というのは並べ方によってまったく違う主張を支えることになるのはいうまでもありません。深沢さんの年表は非常に公平だと感じさせるものであるだけに、2つの点について明らかにしておかなければいけないと思います。まず第一は伐採側の行動に法的な問題はないということです。それにもかかわらず伐採反対運動が全国的な盛り上がりを見せたのにも具体的な理由があるということです。
 木を切るということと自然を破壊するということの正しい相関関係において林野庁は大きな罪を犯そうとしているということです。法に触れないからといって国民の財産たる国有林を「時価で叩き売って」済ましていられるものかという反論です。議論の細部の駆け引きにまで触れる余裕はここにはありませんから重要なポイントだけを取り上げていきたいと思います。
 まずは伐採側の立場ですが、『知床を考える』に収録されている北海道林業会館理事長・湊武さんの「森林施行を捨てるのか」という主張(北海道新聞1986年8月18日) が「伐採派」の総論として整っているように思われます。誤解を生じないように全文を引用しておきます。
 ――最近、知床国有林の森林伐採についての是非論というよりも、主として野生鳥獣保護の観点から、北海道自然保護協会など多くの保護団体が林野庁や北見営林支局に伐採の中止もしくは禁止の強い要請を繰りかえし、さらに北海道ばかりでなく全国規模で反対運動を展開しようとしている。
 知床国立公園は、昭和39年(1964) に指定されて以来、日本に残された最後のさいはての原始の秘境として国民の関心は高く、森繁久弥の「知床旅情」はさらにこれを助長した。しかし、こればかりでない。日本列島全体で自然が失われつつある中で、国民一人ひとりが自然を、森を、野生動物を守ろうという盛り上がりが、知床の価値をさらに高めていると思う。
 日本は経済大国にのしあがって、必要なものは何でも買えばよい。木材もまたしかりである。しかし、子々孫々に残すべき、買えない貴重な自然は絶対に残さなければいけないという強い願望が、今度の反対運動となったのであろう。新聞やテレビでこれらが報ぜられる度に、一般市民からも数多くの投書がなされているが、そのほとんどは伐採反対である。中身は、鳥のことも、けもののことも、景観のこともふれていない。ひたすら森を残せ……である。
 原始の森は少なくなったとはいえ、森林はまだまだ豊かな緑に覆われている。本道はわずか100年余で急激な開発が進み、この間、現在の蓄積に匹敵する5億立方メートルという膨大な木材を供給してきた。森林の保護は願いだけではできない。技術と費用が伴っているのである。切って育て、また切って育てる。これが林業である。
 営林局側が伐採するという知床の国有林は、昭和39年指定時において、多方面からの論議の末に第3種特別地域と定められたものである。この地域は、風致の維持を考慮すれば、特に森林施業上の制限を受けていない施業対象林である。今回の計画案は、林道開設を中止し、ごく弱度の択伐を行うなど第1種特別地域なみの施業を行いたいとしており、すでに地元の了解と環境庁の同意を得たものである。従って、法的な根拠の変更のない限り、反対があるからといって軽々に森林施業を放棄すべきでないし、営林局側は放棄しないであろう。
 現在国有林は累積赤字1兆円を超えている。そうした中で、実際のところ、知床で1,000立方メートルや2,000立方メートル切っても赤字対策にはならない。次元も違うし、ケタも違う。根本の問題は、森林施業の場を放棄するのかしないのか……である。このことは、単に国有林だけの間題でなく、地元林業者にとって死活の問題でもある。このため、ナショナルトラスト運動の先駆地である地元斜里町さえ微妙な立場にある。
 このままでは、営林局側は国有林について立場を堅持するであろうし、自然保護団体はますますエスカレートするであろう。話し合いはどこまでいっても平行線である。
 そこで、解決の道は地種区分の再検討しかない。これは環境庁所管である。指定後二十数年を経た今日、新たな観点から見直すことも必要かもしれない。それにしても、森林伐採と野生鳥獣生息の因果関係や、シマフクロウ、オジロワシなどの生息実態も明らかにしなければならない。これまた容易なことではないが、環境庁が中に立つ以外解決の道はないと思う。
 ところで、つい最近、知床の特別保護区が山火事になった。テレビ、新聞等はこの事実を報道しただけで終わっている。落雷による自然発火とは考えられないから人為のなせるわざである。自然を愛し、山を楽しむ人々の注意と地元の埋解と協力が自然を守る基本ではなかろうか。――
 この林業家を代表する意見は言うべきことがらをひととおり網羅していることから、相当の論客のものであるということが分かります。しかも結論まで先回りして提案しています。「解決の道は地種区分の再検討しかない」というのがそれであり、現在は「指定時において、多方面からの論議の末に第3種特別地域と定められたものである」から林業経営を怠ってはならないというのです。
 国有林の経営に関してまったくの正論ですが、伐採地の樹木が建築材料としての木材価格とは異なる価値を持っているかどうかという疑いには目が向けられていません。植えて育てた木の価値は計算できても、ほとんど原生状態の環境、すなわち人工的に再現するとなるととてつもなく高価で複雑な装置を必要とする「自然環境」のなかで育てられた自然木を、単純な市場価値で処分していいのかという点については巧妙に避けています。かくして伐採派は全部売っても高級乗用車何台分という商売のために巨大な敵と闘うことになったのです。

●ムツゴロウさんの叫び

 それに対する反対派の代表として、ここではムツゴロウさんこと畑正憲さんに登場していただこうと思います。今度だけはどうしても表面に出なければならなかったというムツゴロウさんの、あまり理論的には聞こえない叫びをここでは読んでいただきますが、そこからどの程度の「価値」を感じるか……がここでは大きな意味を持ってくるのだと思います。『知床を考える』に収録されている「滅亡前夜の宴はやめよう(鼎談) 」(雑誌『公明』1987年1月号+2月号) の集中的な発言の部分です。
 ――私が北海道へ移りまして、シマフクロウを見たいと思いまして、暇を見ては山野を歩きました。姿を見るまでに5年かかりました。そして、姿を見てから、京都大学の大学院で鳥を7年勉強した男を自分の手元に呼びまして、私費で山を歩いてもらいました。それで4年かかりました。9年の歳月をかけまして、東北海道のシマフクロウを調べてまいりました。
 ほかのところにもいるんです。今、北海道の地図をちょっとかかせていただきますが、北海道はひし形をしており、私のフィールドは東北海道で、こう切ります。ここに森林帯があります。知床半島がここにあります。こういうぐあいでございました。シマフクロウはここに点在しております。その個体を全部チェックいたしました。5年前まで繁殖を確認したのはここでございます。これをなぜ発表できないかと申しますと、現在はアマチュアカメラマンが功名心に燃えて、場所を言いますと、巣をめちゃくちゃにしてしまいます。営巣地を荒らします。ですから、私は、場所、調べた論文を一切発表しておりません。手元に極秘事項として持っております。
 ところが、ここと、ここと、択伐をしてしまったんです。今度の知床と同じで、大きな木を切ったんですね。そして、ここで唯一繁殖していた木は台風のせいで倒れて、営巣をやめました。ですから、いないんです。ですけれども、いるんです。私の場合は、見る技術を持っているんです。ですけれども、営巣をしていない。(北海道全体で) 40羽いると申していますけれども、現実に営巣をしているシマフクロウは、私は20羽だと思っています。――
 ――10つがいです。これは動物学的に見ますと、もう「絶滅」です。と申しますのは、血族結婚をしたものは、卵が無精卵になるんですね。ですから、どうして鳥類学会は「絶滅宣言」をしないかと、僕はいつも胸が痛い思いをしておりました。
 唯一健全に繁殖をしておりますのはあの知床半島なんです。「できるだけ近づかないように」、「入るなよ」と言っておりましたけれども、ここではひなの姿も確認しておりますし、ひなの声も確認しています。――
 ――そして、知床といってもずいぶん切っちゃったんです。この何百倍も何千倍も、もうお切りになったんです。ご利用になっている。ですから、そこをもう少し育てて、もう少し森にして、それを人間が利用するように営林署は使うべきであって、飛行機で飛ぶとほんの少しなんですよ。知床半島がこうありまして、こちら側はもう無残なんです。そして、ここにこうありまして、ここのひどさは言語に絶します。大きい木を全部切っています。まわりから見ると緑なんですけれども、空から飛ぶともう廃山ですよ。そういうことをやっているわけですね。
 そして、国立公園の何万平方メートルは完全に保護してあるとおっしやるんですけれども、このように沢があります。先端は、グリーンベルトがほんのわずかなんです。そして、今度切るところは大きいんですね。
 ここからはハイマツ帯なんです。ハイマツ帯には動物はすまない。心臓部はこの原生林なんですね。これを切っちやうと言うんです。ですから、これは、もう生き物にすむなと言うことなんです。――

●天然林というウソ

 この鼎談には自然保護運動の中心人物の一人である工藤父母道さんも登場し、畑さんのこの発言を受けて基本的な問題を語っています。
 ――今、畑先生が本当に怒りを持って知床のお話をなさいました。実は知床で起きていることは全国で起きていることなのです。日本で最大、世界でも例のない面的スケールのブナ原生林の広がっている青森と秋田の県境にある白神山地も全く同じです。さらにノグチゲラがいる沖縄本島北部にあるイタジイ原生林も、屋久杉で有名な屋久島も、全く同じ状態。九州では、祖母傾山系の原生林も、稜線近くまで刈り上げたように乱伐され本当に無残な姿になっているんです。神代の昔から受け継いできた自然の森が、何でここまで追い詰められて切られ続けなければいけないのか。その理由は一体何なんだということです。
 まさに今度の知床国立公園の伐採問題が堤起しているように、つまり、自然林は、国立公園、国定公園、県立自然公園といった自然公園以外では、この国ではかなり切り尽くしてしまったんです。また、自然公園内のまったく伐採規制のない普通地城にある自然林も同様にほぼ切りつくされています。そうすると、これからこの国で起きてくる自然林の伐採問題は、ほとんどが自然公園内の伐採規制のゆるい第2種、第3種特別地域の話になるんです。
 外国であれば、ナショナルパークの代表的な森林景観が、日本のようにいともこんなに簡単に切られることはありえないわけです。ナショナルパークでありながら…畑先生が今くしくもおっしゃったように、知床国立公園について言いますと、完全に禁伐の特別保護地区、それから蓄材積の10パーセントの択伐を認めている第1種特別地域、この2つの地城はほとんど手をつけられない場所です。これが知床国立公園の60パーセント近くある。そこで林野庁は「60パーセント近くも残しているんだ。残りの40パーセントの中から1へクタールに4〜5本を切らせてもらうのに、何で皆さん、そうやって騒ぐのか」とおっしゃる。ところが、畑さんがおっしゃったように、知床の絶対切りませんという60パーセントの場所に、まともな森はないんです。――
 ――はい。風衝地もしくは高山帯、あるいは亜高山帯の上部で、つまり林野庁は、そういう場所しか国立公園の特別保護地区、第1種特別地域として渡していないんですよ。当時の厚生省国立公園部にですね。つまり、もともと森林資源としてお金にならない場所だから上げましょうと……。
 北海道から沖縄まで、それぞれの国立公園の代表的な景観は森林ですね。昔からの自然林、北海道であれば、エゾマツ・トドマツなどの針葉樹林、あるいはそれに広葉樹のまじった針広混交林。東日本ではブナ・ミズナラなどの夏緑広葉樹林。西日本ではシイ・カシなどの照葉樹林(常緑広葉樹林)。沖縄諸島南端では亜熱帯林。ところがいずれの国立公園でも代表的景観である自然林が一番多いところは第2種、第3種、普通地域なんです。この普通地城は規制をしない。第3種特別地城は景観に影響を与えなければ自由に切っていい。第2種特別地域は20パーセントの択伐までできる。こういう取り決めを昭和34年(1959)、当時の厚生省の国立公園部長と林野庁の長官の間でしたんです。――
 ――また、最近の“緑”論議は各界各方面で非常に盛んになってきて、大変好ましいことだと思うんですけれども、実は非常に大きな落とし穴があります。緑の問題を論議するときに、実はきちっと交通整理して議論しなきゃいけないんですね。つまり、4つの要素をちゃんと押さえなきゃいけない。そこが(公有林も含めていいですが) 国有林であるのか、私有林であるのか。それが自然林であるのか、人工林であるのか。その4つがどう結びつくかによって、起きてくる森林問題の話は全部違うんです。――
 ――ある意味で人工林は畑と同じです。収穫がたくさんあるように、肥科をやり、手入れをして愛情をこめて育てる。これは当たり前ですね。田んぼの稲だって同じです。同様に人工林は人間のためにつくり上げた林ですから育林保育をし林業効率を高めて、人間のことを考えていけばいいんです。けれども、自然林は人間をも含めた、そこに生きるすべての生きもののことを考えなければいけない。それなのに人工林も自然林も同じ尺度、フィルターで見ているから、話が非常におかしくなってくる。
 森には、大きくわけて自然林と人工林があるのですが、林野庁は、自然林と言わないで、天然林と言うんですよ。林野庁が言う天然林は、木が生えていなくても天然林なんです。
「工藤さんこの国に40万へクタールもまだブナの天然林があるのに、何であなたはそんなに大騒ぎして問題にするんだ」と林野庁の人は言う。「ばかなことを言いなさんな」と私はいつも言うんです。日本で最大のブナ原生林である白神山地でさえ1万6000へクタールしかないんですよ。そうすると、この国に白神山地級のブナ林が、あれだけのスケールを持ったものが二十数倍はなければならない。この国のどこにそんなブナ林があるんだと。それは言葉の詐術なんです。林野庁の言う天然林は、自然林を切りますね。そこへスギ、ヒノキなど、いわゆる人工の木を植えなければすべて天然林です。だから、天然更新と言って天然林を切って放り投げて草ぼうぼうになっても、ろくに木が生えていなくても、それは林野庁にとっては天然林なんです。――

●利用と保護

 斜里町役場がまとめた『しれとこ100平方メートル運動10周年記念シンポジウムの記録・知床の未来に向けて』(1989年) には斜里町の自然保護行政の専門家で「自然トピアしれとこ」管理財団事務局長の大瀬昇さんの講演録が載っています。地元の担当者による背景説明として的確なものではないかと思います。
 ――まず自然公園の対策についてですけれども、国立公園ということで指定されますと、公園計画というのが定められるのです。その中には保護する計画と利用する計画の2つがあります。新しい将来の知床対策の検討の第1の課題は、保護の計画の面で、保護にはいろいろランクがあるのですが、その格上げについて検討いたします。一番厳しい保護のランクは特別保護地区と言われるところです。知床ではハイマツ地帯である山岳地帯と断崖の岩場が特別保護地区になっております。これは原生自然環境保全地域並みに人手を加えることが制限されているところです。
 次の保護ランクとしては特別地域がありまして、それもその自然度に応して1種から3種に区分けがされているわけです。ちょうどl00平方メートル運動地は、開拓によって自然が改変された場所ということで、その付近の国有林とあわせて第3種の特別地域となっております。通常の産業活動や生活上の行為が認められる一番下位の保護ランクだったわけです。
 もともとの保護計画が今述べた状態でしたので、町では第3種の今の運動地、つまり開拓跡地とその付近の国有林を第1種に格上げしようと考えました。その町の改訂案に対しまして、昭和49年(1974) 当時、林野庁は難色を示しております。つまり既に今日問題になっている国有林の伐採問題について、当初から林野庁の姿勢として内にあったと言えます。
 また町の内部では、開拓地の保護ランクの引き上げ案をめぐって、昭和47年(1972) 12月に、格上げもさることながら、開拓跡地を公有地化すべきだという声が、最初、議会の委員会から上がったように記録されています。町は対象地を1種以上にして、国や道への買取を求めました。これは100平方メートル運動の経過ですから皆さん十分に承知だと思うのですけれども、しかし、一旦人手が加わったところについては1種にはできません。したがって国や道の買取制度の対象にはならないという答えによりまして断念をして、御承知のように昭和52年(1977) にナショナルトラスト方式による買取運動へとつながったわけです。このような経過を辿り、保護計画の改訂計画は59年(1984)、開拓地の全域と国有林については、道路沿線について3種から2種へと格上げになりました。それが保護計画の経過です。――
 その100平方メートル運動の具体的な方法について、斜里町役場環境保全対策室が発行する正規のパンフレットには次のように書かれています。
――(1) みなさんからの寄付金で私有地を買い上げ、土地保全をはかります。(2) 植林をして緑を回復し、森を永久に保全してゆきます。(3) 寄付金は100平方メートル単位で8,000円です。土地は町保有地として管理します。(4) 8,000円未満の場合は領収書の発行のみで6〜9は該当しません。(5) 個人、団体、年齢などは問いません。(6) 登録台帳を整備し、寄付者名、金額、その他必要事項を記載し、登録証を発行。(7) 寄付者自身の手による植樹の機会(年1回、秋)を設けます。(8) 寄付者のお名前は、現地(100平方メール運動ハウス内) に標示します。(9) 運動の推移など「しれとこ通信」(年1回)でご報告します。(l0) 寄付金の一部を事務費に使用させていただきます。――

●開拓者

 ――対象の土地は国立公園内にあり、大正時代・戦前・戦後と過去3度にわたって開拓の鍬がふるわれたところですが、土地や気候などの自然条件が厳しく昭和40年代までに全員が離農した跡地です。――
 と100平方メートル運動のパンフレットにはありますが、その最初の入植者の中に4歳の「文ちゃん」がいたのです。
 『文ちゃんのはるかな知床』によると、大正8年(1919) 満6歳になった文ちゃんは、その年ウトロに開設された尋常小学校に通い始めます。
 ――入学式だけ父さんと一緒で、イワウペツ(岩尾別) の子はつぎの日から互いに誘いあい、11人がひと塊になって学校へ通った。
 家を出るのは午前6時。
「童らだけでだいじょうぶだべか」
 朝学校へ出かける時間になると、母さんは決まって心配そうに顔を曇らせた。
 イワウペツ川を渡っての16キロは、おとなでもおぞけをふるう危険な道だった。幅1メートルほどの山道で、途中に丸太の一本橋が数か所ある。下は落ちれば助からない谷川だ。湯気のたつクマの糞がそこいらじゅうに落ちている。道ばたの松の木には、クマが登った生なましい爪あとが残っている。ウトロの近くで道は海のふちになる。はるか下に白い牙をむくオホーツク海を眺めながら、目のくらむような崖道を通らなければならない。
 文ちゃんはちっとも気にならなかった。学校へ行くことが楽しくてしょうがない。ときどき父さんが、そっとあとをつけて見ていることは知らなかった。
 今年からイワウペツにも造材人夫が入り、丸太の伐採作業が始まっていた。
 学校へ行く途中文ちゃんたちは、切り出した丸太を川に落とし、海まで運ぶ流送の光景を何度か見た。川をせき止めて丸太を落とし、集まったところでせきをはずす。丸太は鉄砲水に押されて河口まで一気に突っ走る。その眺めは勇ましく荒あらしかった。
 河口に流れついた丸太は筏に組まれ、ハシケで沖にいる本船まで引かれていく。
 山で切り倒された丸太を川へ落としたり、河口で筏を組んだりする流送人夫は、トビやガンタを使って自由自在に丸太を動かす。人夫たちは丸太を動かすとき、トビを揃えてかけ声をかける。そのときの木遣音頭が文ちゃんたちには面白く、また珍しかった。――
 これが岩尾別での「開拓」と「択伐林業」の最初の光景です。しかし残念なことに、この開拓は失敗に終わります。
 ――大正10年(1921) の4月下旬。
 小作を嫌って故郷を離れ、新天地を求めてシレトコへ渡った山形開拓団は、血のにじむようなおもいで切り開いた数十ヘクタールの土地を、泣くなく捨てた。あと1年、もうほんの少し働けば、すべて自分のものになったのに……。
 故郷を出発したときの14家族は7家族にへっていた。7家族とはいっても、独身の若いものはそうそうに姿を消していたから、家族構成は夫婦と子どもばかり。
 いよいよイワウペツを離れる日、団長がうかぬ表情で文ちゃんの家を訪れ、
「あの衆は故郷へ帰るそうです」
 何家族かの名を告げた。
 団長はウトロに残ることに決まっていたから、結局三井農場(斜里) へ移るのは5家族、総勢29人だけだった。
「あー、おらもけえりてな……」
 故郷へ帰る衆を羨ましがりながら、溜め息をはきつつ母さんは荷造りをした。荷造りといっても、ぼろくず同然の布団類と食器、それにいくらかの農具だけだ。
 家とは名ばかりの掘っ立て小屋だが、4年間住みなれた住居を捨てるときは、さすがにこみあげてくるものがあった。
「もう2度とくることあんめえな」
 あれほどイワウペツを出たがっていた母さんが、吹けば飛ぶようなぼろ小屋にすがってほろほろと泣いた。
 食糧も家財道具もなにもない、裸どうぜんの5家族は、麦の握り飯とタクアン、ぼろ布団と鍋だけ背負い、わが家を振り返りふりかえり、イワウペツの浜まで下った。
 帰郷する予定の数家族は、ひっそりと面目なげに見送った。
 早朝に家を出た。
 雪はまだすねまであった。谷間にかかる一本橋は、4年前の5月に来たときのままで、丸太にこびりついた雪がズラズラに凍り、危険このうえない。子どもたちにとっては学校へ通いなれた道だが、女たちはふたたび夫の背に身をあずけて渡らねばならなかった。
 サクラもコブシも、まだ蕾すらたくわえていない。風はさすように冷たく、シレトコの春はまだまだ先のようだった。海には割れた氷の塊がただよっている。まだ流氷が去りきっていないのだ。
 岸にこわれかけた番屋があるきりで、いまだに家一軒ない無人の浜。
「さいならイワウペツ」
 万感のおもいをこめて開拓者たちは、イワウペツの浜に別れを告げた。――

伊藤幸司(ジャーナリスト)


★トップページに戻ります