毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・27・陸中海岸国立公園」
1995.7――入稿原稿
■国立公園物語…陸中海岸
●津波の矢面
陸中海岸といえば、断崖絶壁の男性的な海岸風景と、一集落全滅というような災害を繰り返し引き起こしてきた津波が代表的なイメージとなっています。素人の目でも沖から津波がやってきたら防ぐすべがなかったろうな、と思う小さな集落ばかりなのでさもありなん、と思っていたら、いやいやどうして、陸中の人から見れば津波がこわいところは日本中にいくらでもあるらしいのです。他人事のように腑に落としてはいけないと反省させられました。
もっとも、津波の場合には三陸沿岸というくくりになるのが一般的で、陸奥、陸中、陸前にまたがってひろがります。もうすこし限定的にいうと、青森県の八戸から宮城県の牡鹿半島までを指すのが一般的なようで、陸中海岸というと、そのうち久慈から気仙沼まで。南端に宮城県がわずかに含まれるものの、名の通り陸中(岩手県)の海岸線ということになります。
陸中海岸の南部にあたる大船渡の市立博物館で『三陸沿岸地震・津波年表』というレポートを販売していました。サブタイトルは「大船渡市立博物館研究報告―東北地方太平洋側における歴史地震・歴史津波」で、平安時代から江戸時代の終わりまでの地震・津波の記述をおよそ1,200項目集めてあるという力作です。その序文はいかにも控えめで好感がもてました。
――三陸沿岸に生きるものにとって、津波は厳然として存在する潜在的かつ恒常的脅威である。そして、直観的に津波を想起させるものが、地震である。
岩手県、或は三陸沿岸部に関する基本的な地震史料集はない。その作成は、当館では困難であった。次善のものを期して、大船渡を含む気仙地域に襲来したと思われる津波と、気仙地域が震動した可能性のある地震の年表作成を試みた。もとより、古記録に関しても、また地震学に対しても門外の手によるものとなったが過去の地震活動の状況を、僅かでも伺う手立てとなるのなら、良としたい。――
頭から4つめに大きな津波が記録されています。参考のためにその全文を引用してみます。罫線で仕切られた表組のひとつひとつを順に並べてみます。
――(西暦)869年7月13日――
――(和暦)貞観11年5月26日――
――(地震・津波に関する記事の概要)夜、陸奥大地震。家屋、城郭、門櫨などの崩壊と倒壊無数。人々が倒れて起きあがれないほどの揺れ。津波襲来し、城下(多賀城?)まで海水流入。溺死者約1,000名。最古の発光現象を記録。――
――(文献。<1>『増訂大日本地震史料』収録史・資料、<2>『新収日本地震史料』収録史・資料、<3>その他の史・資料)
<1>三代實録(岩手県災異年表・宮城県海嘯誌・宮城県気象災異年表・日本災異志・日本震災凶饉攷・宮城県昭和震嘯誌による)
<2>越後年代記/大日本史
<3>日本付近の地域海域別の被害地震津波地震の表及震度の分布図/津波概報(異常気象報告6002)/青森県の地震津波/気仙郡海嘯誌/地理地震津波調査報告/釜石市誌/資料日本被害地震総覧/新編日本被害地震総覧/宮城県史/鵜住居小史資料編/山田町津波誌/東北地方とその近海における地震活動/日本被害津波総覧/震浪災害土木誌/岩手県昭和震災誌/三陸沿岸津波読本/宮古のあゆみ/岩手災害関係行政資料/気仙沼市史――
――『新編日本被害地震総覧』による震源要素
(震源の位置)三陸沿岸、(震源の緯度)λ=143〜145°E、(震源の経度)φ=37.5〜39.5°N、(震源の規模)M=8.3±1/4、(地震被害等級)IV、(津波規模)4――
この表によると、たとえば1611年(慶長16)に起きた大津波は1933年(昭和8)の三陸地震とほとんど同じ震源をもつ地震によってもたらせたらしい、ということもわかります。
この報告書の巻末には文献一覧がありますが、これも控えめで適切なものです。これは三陸地方の地震・津波関係図書を「明治29年三陸地震津波」「昭和8年三陸地震津波」「昭和5年チリ地震津波」を中心にまとめたもので、ざっと見て500冊ほどがリストアップされていますが、地域の図書館の蔵書目録を兼ねているということが専門書にある本格的な参考文献リストとは異なる点です。図書の収集には大きな予算が必要ですが、このような要領のいいまとめは担当者個人の努力でかたちになります。とくにこれからパソコンネットでさまざまな情報が交換されるような時代になると、このような現実的なインデックス資料が有用でしょう。
約1,200項目の地震・津波の年表も、電子データになっていれば、特定の町名だけを検索機能を使って拾い読みしていくことも可能になります。B5判、130ページほどのありふれた報告書ながら、力作だと思ったのはそういうところでした。
三陸海岸の津波に関しては陸中海岸国立公園の南のはずれに「津波体験館」というのがあります。そこで私は津波災害の警告者として活躍している山下文男さんという人の本を何冊か買うことができました。書店の棚にはなくても、地元の博物館などで買える本というのも旅行者にはありがたい情報サービスといえます。山下さんは『防災講座・津波の心得』(1985年、青磁社)という本で、その津波体験館設立についてこうかいています。
――今年(1984)7月にオープンした宮城県の唐桑半島ビジターセンター、津波体験館は、自治体の努力として評価できるだけでなく、津波防災知識の普及上もたいへん大きな意味をもっていると考えますのでここで紹介します。
唐桑半島というのは、宮城県唐桑町のあるところで、気仙沼からバスで行くのですが、すぐ隣は岩手県の陸前高田市。陸中海岸国立公園の一角だけあって、たいへん美しい自然にかこまれたところです。海岸の景色など絶景です。やはり津波の被害はいつも大きくて、明治29年(1896)の三陸大津波では死者836人で、人口の21パーセント、昭和8年(1933)の大津波でも59人死亡しています。世帯の70パーセント近くが漁業従事者という典型的な漁師町ですが、町として宮城県に再三請願し、このビジターセンターの誘致に成功したわけです。――
――ここには宮城県できめられている「津波への心がまえ」や津波が岸に押し寄せる状況がわかるような水槽もある。これは、ビジターセンターの中ですが「津波体験館」は、ちょうど小さい映画館のような一室で、椅子にかけるとまずシートベルトをしめます。間もなく暗くなって正面に映像が出、実際に地震を感じるように椅子が下から動きだす。こうして津波の歴史や防災知識が語られます。クライマックスになると、両わきのカーテンが自動的に引かれ、天井と左右の壁面いっぱいの鏡に正面の画像が反映する。轟音とともに津波が来ると、あたかも自分が頭から津波をかぶっているような錯覚になる。東京の私の友人が10人ばかりでわざわざ行って見て来ましたが、みんなその迫力にびっくりしていました。大衆的な津波防災教育にとって最高の施設ができたといえます。――
岩手県の三陸町出身の山下さんが津波の恐ろしさを訴え続けているのは1896年(明治29)、1933年(昭和8)、1960年(昭和35)とたてつづけに3つの大津波を体験した三陸沿岸から見ると、日本列島はどこもかしこも明日大津波が起こってもおかしくない、というふうに見えるからです。
――三陸沿岸を襲った明治29年(1896)の大津波こそ、明和8年(1771)の沖縄、八重山群島大津波と共に、史上第一級のとてつもない大きな津波でした。なにせ、岩手県、宮城県、青森県の太平洋岸で死んだ人、約2万2000人、被害地人口に対する死亡率は、関東大震災よりもはるかに高かったのです。
なぜそんな大被害になったのか。まずあげられるのは津波そのものの規模が大きかったことです。津波の規模をはかる基準の一つとして波高……つまり、普通の水位よりどれだけ高い所まで津波が押し寄せたかということですが、その波高が、低い地域でも、5メートル前後、高い地域では、20メートル以上もありました。私の生まれたいまの三陸町、旧綾里村の白浜というところなどは、38.2メートルの波高だったとの調査があります。いまのビルの高さにすると10階建を越える大波です。そのために隣の湾との間にある32メートルの小峠を越えて、2つの湾の水が結ぶ形になったと記録されています。――
――津波被害を大きくしたもう一つの原因ですが、みなさん、常識として、津波の前には地震があることをご存知でしょう。このときも地震はあったのです。しかし、その地震の震度というのは、沿岸でせいぜい2〜3、しかも、ゆーら、ゆーらとゆっくり揺れるような地震で、地震そのものに気づかない人もたくさんいました。これは、当時の岩手県知事の被害報告の中でも、不意を突かれた重大な原因の一つとしてあげられています。一体そういうことがありうるのか。つまり、震度が小さかった、あまり大きな地震とは思わなかったのに、大津波が押し寄せた、みなさん、そう不思議に思うかもしれません。しかし、ここが一つの大切なところ。そういうことが実際あるのです。――
――要するに海底の地殻変動はゆっくりでも、その規模が大きい場合には、伝わる震度が小さい割にそれによって起こる津波が大きい。北海道、渡島の大津波(1741年)もまた明治29年三陸大津波もこの種の津波であったということです。こういうこともありますから、地震の震度が小さい、だから津波は来ない、大丈夫だと頭からきめてかかってはなりません。――
三陸海岸の人々の体験によると、津波というのは、いったんそれに巻き込まれたらほとんど死を覚悟しなければならないもののようです。1分でも1秒でも早く、1メートルでも高いところに逃れなくてはいけないのです。どうも津波を水としてイメージしてはいけないのであって、海底の砂を巻き上げ、陸の構造物をこなごなに飲み込んだ凶暴さは、むしろ雪崩の破壊力に近いようです。
そして37年後に再び大津波が襲ってきました。山下さんが直接体験した昭和8年の津波です。
――この大津波と前の大津波を比較してみますと、前の津波のときは、震度が小さくて、地震だと気づかない人もいたくらいでしたが、この大津波の前ぶれになった地震の震度はとても大きく、5でした。東北の3月3日ですからまだ寒い季節ですが、この朝はまた格別の寒さで零下10度ぐらい。小雪も積もっていました。そんな中での大きな地震でした。みんな飛び起きましたし、大人たちは、「あるいは津波が……」と警戒しました。
津波は地震後30分ぐらいでやって来たのですが、地震が大きくて寝つけない人が多かったこと、大人たちが津波を警戒したこと……前の大津波の7分の1強の約3,000人と人命の被害が比較的すくなかったのは、こういうことが大きく幸いしたと思います。もっとも津波そのものの規模も前のものより全体として小さかった。それでも、綾里村の白浜の20メートル以上をはじめ、重茂村の姉吉、小本村の小本等々10メートル以上もの波高を記録した村むらが方々にみられました。流されたり倒れたりした家の戸数も前の約8,200戸に対して約6,000戸とあまり大きな違いはありませんでした。それなのに死亡者がうんとすくなかったのです。これは不意を突かれた度合いが小さく、あるいは来るかもしれない、と、多少なりとも心の準備ができていたからです。村、部落、個々の家や人によっても違いますが、大船渡(岩手県)のように夜回りの消防が鐘を鳴らして避難を促したり、大槌、釜石、山田などでは、郵便局の交換手が加入者に手あたりしだい電話して、いわば、津波警報を出したというようなこともあります。――
昭和35年のチリ津波では、前の2回の津波ではあまり被害の出なかったところに大きな被害が出たといいます。それについては津波の構造解説のところでうまく説明されています。
――津波はよく引き波で始まるといわれていますが必ずそうだとは限りません。沈降域に面した海岸では引き波で始まりますが、隆起域に面したところでは、いきなり押し波でやって来ます。つまり海底変動のあり方、状況によります。
遠い洋上の船や近海でも闇夜に浮上している船では、その下を津波が通過していても、ほとんどわかりません。津波の山と山の間の長さ=波長は、普通100キロメートル以上もあってたいへん長く、その波の高さも洋上ではせいぜい2〜3メートルですから、陸の目じるしなどもないし、特別な揺れを感じにくいのです。津(港)に帰って、はじめて大波が押し寄せていたことに気づき、唖然としたなどの不思議な話の謎解きはこういうことです。
津波の波は、深海では時速700〜800キロメートルと、まるでジエット機のような速さで走ります。しかし沿岸に近づき海底が浅くなるにつれて、新幹線ぐらいの速さ、市内を走る自動車ぐらいの速さと、急速にそのスピードが落ちます。上陸した津波の速度はさらに落ちますが、それでもかなりのスピードですから全力疾走でないとこの波に追いつかれることがあります。
津波は岸に近づき、海が浅くなるにつれて、前の波に後からの波が追いつき折り重なり合う形となり、急速に高くなります。そのうえラッパのように沖に向かって開いている湾(V字型湾ともいう)などに入ると、波は両脇からも圧縮されていよいよ高くなります。こうして、ついには岸を駆け上って海辺にある低地の集落を襲い、家屋の流失、倒壊、人間の死傷などの災害になります。防波堤や防潮堤はその波の勢いをそぎ、喰い止めようとするものです。波高とは平均水位より波がどれだけ高くなったかをいうことです。
近海からの津波はラッパ状あるいはそれに類似した湾の奥ほど波高が高く、被害も一般的に甚大です。岩手県の綾里湾、唐丹湾、三重県の尾鷲湾、徳島県の浅川湾、静岡県の伊豆半島・下田湾などです。
それならラッパ状と逆の袋状の湾ではいつも波高が低いかといえば、必ずしもそうではありません。1万7,000キロメートル余の距離を、わずか22時間半で走り、日本沿岸まで到達したチリ津波は、そういう形の湾奥でかえって波高が高く、被害も甚大でした。岩手県の大船渡湾がその典型といえます。反対に大船渡湾のとなりの綾里湾などは、ラッパ状の湾で近海津波ではいつも大被害をうけているのに、チリ津波では波高も低く、被害もほとんどありませんでした。これはセイシュといわれる湾の形と大きさできまる波の定常振動の周期と、その津波の周期との関係によるものといわれます。
湾になっていない海岸線では津波が小さいかといえば、これも必ずしもそうとは限りません。元禄の関東大地震のとき、九十九里浜は大津波に襲われました。――
著者の山下文男さんには『哀史三陸大津波』(1982年初版、1990年普及版、青磁社)という本もあります。こちらは明治29年と昭和8年の大津波の現場の情景をさまざまな史資料によって再現しようとしています。
そしていまや、山下さんは日本のどこにでもそういう津波が襲っておかしくないということを訴え続けているのです。
●陸中海岸を南下した空前絶後の大一揆
陸中海岸国立公園は海岸とその地先の海だけを指定して北端の久慈市から、ひたすら南へと伸びていきます。そこに連なる市町村を順に並べてみると野田村、普代村、田野畑村、岩泉町、田老町、宮古市、山田町、大槌町、釜石市、三陸町、大船渡市、陸前高田市、そして宮城県に入って唐桑町、気仙沼市となるのですが、この海岸線を南下して盛岡藩の悪政を正そうとした農民一揆がありました。弘化4年(1847)の第1次三閉伊一揆と、嘉永6年(1853)の第2次三閉伊一揆でした。
一揆の出発点ともいえる岩泉町出身の郷土史家佐々木京一さんの三部作『一揆の激流――南部三閉伊一揆に先行するもの』(1993年、民衆社)、『一揆の奔流――南部三閉伊一揆の民間伝承』(1984年、民衆社)、『一揆の奔涛』(嘉永6年三閉伊一揆、執筆中)は土地カンのないものにはとまどうことの多い猛スピードで巨大な民衆のパワーをあますところなく書き留めようとしています。年々消えていく「民間伝承」から故郷の英雄たちを掘り起こしてきた地道な作業の開花のときがきているのです。旅先で、ふと、こういう重い仕事と出会うというのはうれしいことです。
まずは三閉伊一揆に17年先行して起きた天保8年(1837)の仙台藩への越境強訴事件のところに見えてくる一揆のバックボーン。
――最も驚くべきことは、二子通(北上市)・万丁目通(花巻市)惣御百姓共、八幡・寺林通(石鳥谷町)村々署名の願書と黒沢尻通(北上市)惣御百姓署名の願書の両方に、それぞれ「御当国之御預地ニ」という文言があることである。「仙台藩の預かり地にしていただきたい」と言って盛岡藩の支配を拒否しているのである。鬼柳通(北上市)惣御百姓共署名の願書では「御公儀様よりの御預地ニ被成下候」とあって「幕府の直轄地にしていただきたい」と、これまた盛岡藩の支配を拒否している。この時点まで235年も続いた幕藩体制の中で、これだけの要求を突きつけるということは、大変なことである。体制変革の具体的な萌芽はすでに民衆の中から起こっていたのである。
17年後の嘉永6年(1853)6月、第2次三閉伊一揆が、仙台領唐丹(釜石市)にて仙台藩に差し出した願書のうち「乍恐奉願上候事」の一条に「三閉伊通公儀御領に被仰付被下度、此義御成兼に侯はゞ、仙台様御領に被成下候様、奉願上候事」(『内史略』后十四)とあって、この度は三閉伊通、岩手県太平洋沿岸部で、現在の北は久慈市宇部から南は釜石市平田まで、盛岡領の3分の1にも及ぶ広大な士地を、幕府直轄地にするか、もしそれが出来なければ仙台領にしていただきたい、と要求しているのである。民衆の要求は轟音となって250年続いた幕藩体制に風穴を開け始めていた。大仏次郎が『天皇の世紀』の「野火」の章に「ペリー提督の黒船に人の注意が奪われている時期に、東北の一隅で、もしかすると黒船以上に大きな事件が起っていた。かなり長期間にわたって、外部に対して事実を伏せていたので、地方的の事件であり、一般には知られずにいた」と三閉伊一揆を紹介した。その洞察の深さ見識の高さに、私は万感の思いを込めて拍手を送り、未だ世に伝えられていない戦いの真の姿を掘り起こし、民衆の反権力闘争の不屈な姿、高貴な心、歴史を変革する激しいエネルギー、民衆の知恵と力を、そして何よりも民衆の反権力闘争の正当性を訴えたい。――
この一揆の真のリーダーは、革命家ともいうべき大きなビジョンをもって強力なネットワークを構築した田野畑村切牛の弥五兵衛という人物だそうです。
愚昧な藩主による過酷な支配から立ち上がろうとした民衆の間をまわり、反権力のエネルギーを一点に集中させようとした弥五郎とみごとなチームワークを発揮したのは各村の異才、秀才たち。日本には珍しいみごとな市民革命運動が展開されたようです。
その展開を順を追ってたどってみるというような余裕はここにはありません。弥五兵衛が直接指揮をとった第1次三閉伊一揆が陸中海岸を南下する部分だけを拾い読みしてみます。
一揆は、今は岩泉町に含まれる安家村から始まります。ここには弥五兵衛と並んで一揆の最高責任者となる安家村淀屋敷の忠太郎がおり、同い年の38歳で、極めて高い学識を備えて運動の書記役として活躍する安家村の俊作がいました。
――俊作が営んだ酒屋の弘化3年、4年の貸付帳に、弘化4年三閉伊一揆源流の立役者たちの名前が見られる。大鳥の甚右術門(辰之助)、松ヶ沢の与助、淀屋敷の定助(忠太郎の父)、川口の茂右衛門(俊作の弟)などである。一味同心、茶席で同じ茶碗の茶を味わい合って同志の誓いを固めたというこの成語の「一味」は寄合い酒だった。この不敵な人々は茂右衛門屋敷の「俊作茶屋」の酒を味わいつつ、盛岡藩政を指弾して、各地と連絡を取りながら、歴史的な行動に立上がろうとしていた。
しかし、元村の上手、奥座敷に位置する林の下の茂右衛門屋敷は余りに人の目につく場所である。村内には有力な反対勢力も多い。おまけに安家川の川向うには、野田峠を越えて来る代官所常番が休息し、宿泊する清水の善右衛門の屋敷が見えている場所である。俊作が一揆激発以前から淀屋敷に移ったのは、そのような事情があった。
淀屋敷は元村から3キロほど南に位置し、岩泉村や田野畑村から入って来る情報や連絡は安家村の中心部に入ることなく、南の入口とも言える淀屋敷で検討され指示が出る。このようにして本格的な作戦本部がここに成立する。
淀屋敷の当主定助は「俊作茶屋」の定連の1人であったこと、切牛の弥五兵衛と共に一揆の最高指導者である忠太郎の実父であること、忠大郎の幼友達の俊作を子供の頃から可愛がっていたであろうこと、後に「狼狩の事として数大勢押寄の事道中通の覚」という三閉伊一揆研究にはかけがえのない記録を残してくれた人であること、等々で忘れてはならない人である。
安家村の名家・旧家としての淀屋敷、鉄山支配の番頭を勤めた筆の立つ定助、その子にして正義感に溢れ、諸国の状況をつぶさに見聞して来て生気凛々たる忠太郎、そして牛馬の宿。どの条件を取っても、大勢の人が集まる条件は出来ている。集まってもとり立てて不思議は無い。――
旧暦の11月19日、一揆はスタートします。
――狼狩りに出かけるという理由で弘化4年三閉伊一挨の幕は切って落とされる。これなら鳶口のついた長柄の棒も携行できるし、山刀や槍も持つことが出来る。鳶は山仕事で切り出した丸太を引き、ころがす道具で山地の農家にはどこにでもある代物である。まさかこんな日常的な道具が石尊真石流という武術の得物になろうとは、前衛でない一揆衆では思いも及ばなかったのではなかろうか。それから、当然山仕事にかかせないマキリを腰にした。マキリはアイヌ語で小刀の意味である。当地方では山刀の意味に使っている。
狼による被害が多かったことを書いたが、うまい口実を使ったものである。大芦野場(田野畑村)の横沢に狼狩りに行く、と言っているが、勿論横沢という場所は無く、新経済政策を揚げて意気軒昂たる盛岡藩家老横沢兵庫を誹謗しているものである。もう一つ分かることは、集結地点を浜岩泉村大芦野場に決定していたことである。――
――淀屋敷に勢揃いした22人は、脚絆・爪子(雪路用のわらじ)で足ごしらえをして得物を持ち千福叺を背負った。叺というのは藁で編んだ大きな袋のことで、穀類などを入れて置いた。背負うと尻の下の方まで隠れてしまうほど大きなものだが千福叺というのは小ぶりの叺である。鉄山の砂鉄を入れるもので、砂鉄が重いため小さな叺に入れて運んだものだそうだ。砂鉄産業でもうかったこの地帯では、砂鉄は祝儀物である。だから千福叺という。実際、どこまで行くかわからない遠い戦いの身支度としては、千福叺に優るものは無い。安家でも田野畑でもそう呼んでいた。叺には最小限度の衣類、それに食糧としてそば餅、コーセンの粉(麦を煎って粉にしたもの)を入れた。忠太郎の妻ミワや7歳になった長女シゲはたくさんのそば餅を作って忙しく立ち働いた、と昭和12年97歳で亡くなったシゲは語っている。――
内陸の安家村からの流れのほかに、海岸を南下してくる勢力もありました。
――(後に)指名手配された一揆の頭人たちの出身地を北から順序に並べてみると、一揆が代官所の足元の野田村中心街から静かなスタートを切ったことは明らかである。野田村、玉川村、普代村と狼狩りは雪だるまのように人数を増しながら、普代川をやや内陸部に遡行して、オマルぺを越えて来た安家勢や地元の沼袋勢の歓呼に迎えられて合流したことであろう。300人ほどの集団にはなっていたはずである。
野田代官所があわて出したのはこの辺りからであろう。或いはあわてた振りを始めたのはこの時点からと思われる。時の当番野田代官猪川多継は百姓にはたいへん人気のあった侍だったらしく、弘化一揆のあとで責任を取らされて免職になったことについて、留任運動が起こり、留任嘆願書が堤出されている。――
11月20日、一揆はこうして田野畑村へと入っていきます。
――和野、菅の窪の高原部を南に過ぎれば、田野畑村最大の峡谷の縁に達する。松前沢という。現在、この峡谷に架橋工事が進んでいる。今年(1982)10月完成予定のこの橋は「田野畑大橋」と名付けられた。全長315メートル、高さ120メートルという規模から、フィヨルド特有のV字谷の険しさは想像がつくと思う。
田野畑段丘はいたる所、海へ向かう深い谷々によってずたずたに切り裂かれ、不気味な割れ目が、次から次へと姿を現わしている。すでに一揆衆の中には女子供まで含まれて、家も土地も捨てた決死の様を伝えている。女子供を引き連れてこの険峻をよじ、真逆さまに底も知れない渓谷に下り、薄暗い谷を渡り、再び天を仰ぐ断崖に取り付かねばならなかった。平地を旗を振って行ったのでは決してない。菅笠をかぶり、叺を背負い、鉄鉢椀(外黒塗り内朱塗りの木製のお椀のこと)の縁の近くに小さな穴を明け紐を通して帯に下げ、得物を手に女房・子供を引き連れて、泣き声とも怒号ともつかぬ奇声を上げて死を睹して雪や汗に濡れて行った。鍋釜を背負っている者もいたそうだ。
すでに500は越えていたと思われる群衆が松前沢を登り切ると、浜岩泉台地の北端に立つ。振り向くと目も眩む遠い谷底に後続の人々の姿が点となって動いて来る。海辺からは島の越衆が続々と近道の崖をよじ登って来る。ここに立つと、草原や林の向う、西南の山の手に浜岩泉村の中心部大芦の家々が見え隠れする。――
――広々とした浜岩泉台地、大芦野場の枯れ草に降りた雪の上に500人は各所に焚火をして野宿をする。ここから指呼の間に望む切牛の佐々木幸吉さんは「女子供も行ったそうでござんす。宮古の閉伊川で代官所に船をとられて、渡ることが出来ず、女子供はそこから帰されたそうでござんす」と語る。
21日、浜岩泉台地を突っ切った500の一揆衆は槙木沢の崖上に立ちすくんでしまう。現在、国道45号線にかかる長さ200メートル高さ105メートルの槙木沢橋は、つい最近まで日本一高い橋として観光名所となっていた。谷も深いが開けた松前沢と違って、この槙木沢は切り立つ断崖が、両壁相寄って女子供連れで渡ることはとうてい不可能である。足腰の強い若者数名を先遣隊として渡して、大牛内高原をまっ直ぐ南へ走らせ、下って海辺の村、小本村へ入らせる。本隊は野田代官所と宮古代官所を結ぶ、北街道と呼ばれた旧本街道に従って内陸部へ迂回しコイノウシ峠を越えて深い沢へ下り、佐兵衛の村猿山、彦右衛門・滝の万吉兄弟の村、年呂部へかかる。この深山の奥で石尊真石流の武術に鍛練を積んできた牛方・猟師たちが時こそ来たれと振い立ったであろうことは、盛岡藩の役人たちとの死闘の章でおわかりいただけると思う。――
700人にふくれあがった一揆勢はおそらく川舟に分乗して岩泉から流れてくる小本川を渡り、小本村(岩泉町)に入りました。
――この夜、大雨になっているのである。川を渡って小本村に入ると、代表14〜15人がやって来て「何の用でこんなに大勢やって来たか」と質問する。
「われわれは狼狩りに来たのだが、狼は1匹も獲れず、このまゝ村に庚るのも残念である。ちょうど、お上からの重税で皆迷惑をしているので、このまゝ出稼ぎに行こうと思う」と集団行動の理由を表立って変更している。このことは宮古代官所領内の乙茂村に入った頃から盛んに言い出していたらしい様子が、猿沢武田文書などに見えている。
野出代官所領を北から南に縦断する時には、最南端の地で狼狩りをする、という表立った理由を掲げ、宮古代官所内に入った途端、出稼ぎに行くと理由変更する。巧妙な戦術が練りに練って組まれていた。当時、出稼ぎに仙台領に行くことは、盛岡藩の疲弊、仙台藩の宮裕の極端なアンバランスから随分大目に見られていたようである。天保8年(1837)の黒沢尻(北上市)の一揆が「仙台様へ手間取りに行く」と言って鬼柳番所を破って越境したことなども、この一揆は十分計算に入れていた。弥五兵衛が鬼柳番所突破の一揆に関係していたらしいことは「弥五兵衛斬られ」で述べる。仙台領に詳しい忠太郎、親戚の多い野田代官所を通じて盛岡藩の中枢部の事情を知る俊作、代官所の下働きや、鉄山、牛方で見聞の広い田野畑村「柾屋」のグループたちによって、綿密に立てられた集団行動理由変更のプログラムである。
小本村代表団もまた、肝入門兵衛不在とはいえ、随分あっさりと「左様でございますか。私共もこの度の重税には迷惑しておりましたので一緒に参りましょう」と言っている。何かもう決められていたことが、すらすら運んでいるように思われ、弥五兵衛の強力な説得に村衆はすでに覚悟を決めていた節が感じられる。――
宮古代官所領に入ると一揆勢は急激に膨らんでいきます。田老村(田老町)に入るときに1,500人、宮古町(宮古市)に入るときには5,000人の大群衆となっていました。
――宮古町へ入った5,000の一揆衆は、各家々に宿割りをしてもらい大混雑を呈する。沼袋村(田野畑村)と安家村(岩泉町)の勢300人は、本町「東屋」長七方で手厚く歓待されここに足を休めた。店の前に酒樽が並べられ手柄杓で飲み放題、米、草鞋の供給もされるという厚遇振りである。これは同族である岩泉「東屋」とその親戚から、一揆の動静が遂一伝えられ、抵抗するな饗応せよと連絡を受けていたからである。二升石村葬式一揆が山も崩れるような喊声を揚げて店先きを通過して行き、参加を拒んだ小本川下の村々の家の打ち壊わしの状況は、宮古「東屋」に遂一伝えられていた。岩泉「東屋」の親戚である私共一族はそう語り伝えている。
「東屋」に一息つくと、鉄山で散々酷使されてきた田野畑・安家・二升石勢を中心に数千の群衆が、鉄山支配門村儀助の出店若狭屋を襲った。一揆は最初形どおり、店先きで一宿願いたい旨を叫び、爪子草鞋(雪用の草鞋)をいただきたいと申し込んだが返事がない。すでに若狭屋徳兵衛を初めとする家人は一人残らず逃げ去っていた。しかし、代官所役人たちが周辺に入り込んでいたことも事実だったようである。
おそらく1,000を越える群衆による凄じい破壊が始まった。若狭屋の蔵には珍しい賛沢品が山と積まれていた。「もったいないから持って行こう」と言う者もあったが「いや、それでは泥棒でねえが?!」と言って忠太郎は許さなかった、と淀屋敷の長十郎氏は語る。――
宮古を出たときが7,000人、山田町それがたちまち1万人にふくれあがったといいます。ここで藩の正規軍を正面から突破します。
――27日、宮古代官所管内を縦断しきった凡そ1万人の一揆は、磯を覆い山を覆って怒涛のように大槌代官所領内へ侵入する。野山に鎌と山刀を描いた大蓆旗が二流、野田通と宮古通の名をそれぞれ印し、各村ごとに趣向をこらした小旗が林立する。
すでに前日深夜12時頃、いや当日午前零時と言った方が分かり易い。宮古に到着した盛岡藩正規軍は似鳥隣の指揮のもとに、夜通し一揆の後を追い、追い越して山田町の入ロ、荒浜木(北浜町)の近くに陣を敷いて待ち構える。ここ山田町には前日26日に盛岡から派遺された目付平山郡司の率いる一隊が、大槌代官宮手仁左衛門らの代官所役人と共に厳重な讐護に当たっていた。――
――目付の平山軍司、似鳥隣の指図に従って陣幕を張り槍を立て並べて300人、手を組み1人も通すまいとする気迫に、其先に進んで来た20〜30人は恐れをなして突っ込むことが出来ない。忠太郎大暴れとその実見談というのは多分この時のことであろう。
酒の力でも借りていたのだろうか、関所の近くで無謀にも1人突っ込んだ一揆の中の浪人者が、藩の侍と刀を合わせたとたんに、浪人者の首が血を吹いて落ちた。「藩の侍は強いものだ」と忠太郎は語っている。――
――忠太郎は、盛岡藩の精鋭部隊の強さに初めて舌を巻いた。しかし、忠太郎はそれに怖気づくような人間ではない。相手が強ければ強い程、自分の肉弾を叩きつけて勝負に出て来た半生である。
ひるむ一揆の先駆けとなって、藩兵の中に太い唐竹を振り廻して飛び込んだ。一揆も後詰めが続々と到着し喊声を揚げて、先棒が突入して来る。この者たちは今日あることを期して、石尊真石流棒術を深山幽谷で、あるいは深夜、人里離れた大きな百姓家の奥座敷で、汗まみれ血まみれになって鍛えに鍛え抜いて来た百姓・牛方・猟師たちである。数を頼んで来る烏合の衆とばかり思っていた正規軍も、こんなに強いしかも統制のとれた相手とは、得物を合わせるまで気付いていない。――
28日には一揆勢は大槌の手前、吉里吉里村(大槌町)に入ります。
――主流部隊は海岸沿いに本街道を南下して吉里吉里村泊り。大槌川の上流、金沢などからの追い出しにかかる。この日、当地の豪商前川善兵衛こと吉里吉里善兵衛から爪子草鞋が全員に1足ずつ配られる。雪路の長旅には心憎い贈り物である。『大南部野田領誌』によると、当代善兵衛の曽祖父ぐらいに当たる前川善兵衛富昌は、野田村中野氏の出である。例の江戸の豪商紀ノ国屋文左衛門と張り合ったという伝説を持つ吉里吉里善兵衛の養子となった人間であるから、野田(城内)衆の中には当代善兵衛と縁故のある人々がいて不思議はない。善兵衛が父祖の地の一揆衆に厚意を見せる裏には、矢張り豪商への藩の苛酷な収奪があったからではないか。
若い読者は井上ひさし著『吉里吉里人』の名前をご存知だろう。
この時すでに御算方福田金太夫は、仙台藩境平田番所(釜石市)の警護の命を受け、「境を犯す者があれば切り捨ててもかまわない」という目付の意を確認して、現地に馳せ向かっている。この日、盛岡から目付長山蔵五郎、川口弥兵術を初めとして先手、徒目付など盛岡藩本隊が続々と遠野へ到着して、遠野は刻々と臨戦態勢に入っていた。――
――一揆の先陣より常に先行して若者1人を連れ、役人の目をくらましつつ命がけのオルグを続けて来た弥五兵衛は、先陣が大槌に入って代官所役人を追い散らす頃に本隊に合流したらしい。弥五兵衛は並(閉伊)坂の野原に主力を集めて演説を打っている。
「この度の御用金、諸願ヶ条を遠野に持って行っても弥六郎様(盛岡藩主席家老で遠野藩主)がお聞き屈けにならなければ、仙台領気仙、気仙沼までも突破して行き、仙台藩の重役様方にお願いして、盛岡藩と交渉してもらおう」と。
海岸沿いに藩境を突破して仙台領に入ろうとする本意と、内陸部の遠野へ曲がらなければならない弥五兵衛の無念さをこの頃ようやく私は読めるようになった。この演説を繰り返し読んでいると、彼が斬殺された6年後に起こる嘉永6年三閉伊一揆そのまゝのプログラムを持っていたことが分かり、この老人の端倪すべからざる先見性に驚かされる。
弥五兵衛の廻りには田野畑村「柾屋」の喜蔵、弟のムッケ太次郎、その子の太助、与市等剽悍な一族が「金壷眼」を光らしていたろうし、和野の倉治や若い滝の万吉もいたに違いない。一揆の中には公儀隠密や仙台藩、盛岡藩などの密偵が入り混っていたというから。
弥五兵衛の演説に耳を傾ける田野畑勢は、この6年後、みごとにその思想と闘いを継承する核となっている。嘉永6年三閉伊一揆こそ弥五兵衛が夢に描いた大闘争であった。
闘いの源流の諸要求と南海岸の農漁民や商人たちの諸要求が統一出来なかった今、藩境武力突破の不可能を計算したこのしたたかな老人は、遠野早瀬川原に万分の一の夢をかけ、それが失敗するなら、再度の一揆を起こそうと計画していたことは、願書筆墨料紙料として1人1文の差出しを要求し、差出さない場合は帰村の際、各村々を廻って取り立てることを宣言し、村々の結束の靭帯が切れないように配慮していることに現われている。彼は遠野での団体交渉の失敗を早くも見通していた。
万余の一揆は、大槌の入口に控えていた盛岡藩目付、大槌代官の指揮する100人ほどの役人衆を苦もなく追い散らして大槌に入り、大槌泊り。別動隊500人は藩境の釜石村へ向かう。釜石は海辺に平田番所を控えた、盛岡藩最南端部に当たる。当然この500名の別動隊に当局の目は光る。当時、小本村(岩泉町)に住んでいた「小本の祖父弥五兵衛」はこの部隊の中にいないか。この部隊は仙台領へ越境する先遺隊ではないか。公然と一揆に付き添って説諭する役人衆の陽動作戦の外に、一揆衆になりすまして探索をつづけるスパイたち、あるいは一揆衆に心理的動揺を起こす流言蜚語をそれとなく放つ忍びの者、陰に陽に様々な闘いが繰り広げられて、一揆は絶頂へ向かって駆け登って行く。暗い海辺があり、吠える海があり、空もまた激しい霙まじりの大雪の気配を迎えていた。――
●気仙気質
三閉伊一揆の閉伊というのは現在の上閉伊郡・下閉伊郡の範囲を示すようですが、北から野田・宮古・大槌代官所の管轄になっていることから、北から順に下閉伊、中閉伊、上閉伊と称したようです。
そのさらに南は気仙郡になります。気仙沼市は宮城県ですがその北側は岩手県の気仙郡。しかしここは藩政時代には伊達藩領でした。従って嘉永6年の第2次三閉伊一揆は釜石で国境を越えて、唐丹(釜石市)で越訴に成功しています。
佐々木京一さんは、ここでずっと引用してきた『一揆の奔流』のなかで閉伊という地名について次のように書いています。
――往古、閉伊とは岩手県北海岸の久慈市から県中部海岸釜石市までの、北上山系北部を指すものと思う。久慈市に閉伊口があり、田野畑村に閉伊坂があり、大槌町附近に並(閉伊)坂があり、釜石市に盛岡藩・仙台藩境の平(閉伊)田御番所があるからである。
「閉伊」の「伊」は句調を整える助字であるから、「閉」だけの意味を持つ。「とじる、とざす、閉塞、隠れる」地帯だった。古代、和人の北進もこの地域はまゝならなかったらしく、田野畑村ではアイヌ伝説が生々しく語られている。田野畑・岩泉地方の地名を見ると純然たるアイヌ語のものも多く、長い混血アイヌの時代に成立したと思われるアイヌ語と和語の混合のものも、相当多く見られる。この北上山系北部、閉伊地方は野生動物の天国であり、混血アイヌ・落武者・アウトローの隠れ里でもあった。――
そのような「閉伊」から「気仙」へと入ると、今でも明るさが増すような感じがします。南国にきたという感じがするのは、水田が増えるからでしょうか。町も南に下るほど賑やかに感じられます。
そしてこの気仙地方には気仙大工とよばれる技能集団が古くからあったようです。大船渡市の元大工で古書店主、20年来「気仙大工研究所」の看板を掲げてきたという平山憲治さんが『気仙大工雑纂』(1992年、気仙沼市・耕風社)という本を書いています。
――岩手県沿岸の南端は、気仙地方と呼ばれる。北に五葉山を配し、その稜線が釜石市や遠野市との天水を分ける。南は気仙沼市であるが、しばしば気仙郡と混同される。現在、旧気仙郡は、大船渡市・陸前高田市・三陸町・住田町の二市二町に分かれている。
手っとり早く云えば、純朴を絵に描いたような歌手新沼謙治君は、大船渡市生まれの「壁屋」(左官屋)出身である。実業家としての、二足の草鞋を履く千昌夫君は、陸前高田市出身の、これまた壁屋の息子なのである。
この気仙地方には、江戸時代から「気仙大工」とか「気仙壁」と呼ばれる農民の出稼ぎ集団があって、宮城県地方に働きに行くことを、「南行き」と称していた。出稼ぎといっても恒常的なもので、正月が明ければ出かけ、お盆か年越しでなければ帰らない。
彼等は家大工でありながら、神社仏閣をも働く墨矩(規矩準縄。ぶんまわし、さしがね、みずもり、すみなわ)の技術を会得していた。屋渡り(高所作業)が上手で、建具・指物・器用な者は彫刻までやってのけたので、施行主から調法がられた。
これら、堂宮の技術が民家にも取り入れられ、雄大な「船〓(*編集注…木ヘンに世)造」や「箕甲返しの入母屋造り」となって声望を高めている。特に、神社や寺院にかける彼等の熱意は、並々ならぬものがあって「生涯に一度でもいいから堂宮建築に参加したいもの…」と、その日のために墨矩の稽古に励んだものという。そこでは、採算を度外視した腕の競い合いや数々のエピソードを残した。今でも、大工職の間で囁やかれる「あいつは拝むような仕事をする奴だ」とは、並の大工ではないとの尊称を示している。
今のところ、気仙大工の出稼ぎの文書的初見は、伊達政宗が仙台城を築き、その城下町を形成する元和4年(1618)であるが、当然それ以前から技術は継承されていたであろう。
伝承的ではあるが、平泉中尊寺の堂宇建設の際、浜田村の重倉山(陸前高田市)から砂金や萩の柱(実は萩桂)を献上したといわれているから、その時、建築に参加した人達によって技術が習得されていたのかもしれない。
中世については不明だが、藩政期には幕府が伊達家に課した修築工事に参加して見分を広めていた。福島県の信夫文字摺観音の多宝塔や、山形県高畠町の阿久津八幡宮の三重塔などが散見できる。
関東・北海道への本格的進出は、東北本線が開通する明治43年(1910)以後であるが、大正12年(1923)の関東大震災の復興期には、大工、左官のみならず、人夫などとして5,000人もの人々が出かけており、どこの現場に行っても気仙大工が働いていたという。――
――大工職にかぎらず、社会的な需要と供給の関係は、水の流れと反対に、賃金の高い方へと流れる。北海道・樺太の開発期に景気がいいといえば、花輪喜久蔵のような名匠が活躍する場を与えられる。金華山のある鮎川町が鯨で好景気になれば「東京より手間賃が高いぞ」と、そちらに流れる。都島工業学校の教員となった小島淳吉、彼はブルーノ・タウト博士と親交があったと聞く。また、金沢の兼六園に五重塔建設に参加した金音三郎氏は、「敵機の攻撃目標になる」と、完成したばかりの塔を棄却されたことを無念がり、自宅の庭にミニ五重塔を建てている。東京の歌舞伎座の仮枠の棟梁、脇棟梁も気仙大工たちだった。――
1985年(昭和60)に「気仙大工・左官シンポジウム」というのが開かれたのだそうです。そのときの平山さんの講演録もこの本に載っています。気仙大工のトップスターがじつに要領よく語られています。
――気仙名工の第一人者は花輪喜久蔵であります。この人のことだけでも1時間はかかりますので簡単に述べますと、生涯に100の堂宮を建ててみせるとの悲願をたて、それを成しとげた人といわれます。その代表的なものが宮城県定義山西方寺の本堂・山門です。
仙台の名彫刻家石井寅正の彫物と調和して見事な多宝六角塔の出来ばえです。また、本吉郡柳津町の横山不動尊も彼の仕事で、盛町の新沼幾之助が棟梁でございます。よく考えてみますと、花輪翁は、単に立派な建造物を残しただけではなく、そこで働いた職人達に堂宮建築への自信と技術を培かわせた人でなかったかと思われます。日本的名工である彼の波乱に富んだ花輪喜久蔵一代記をぜひ書いておくべきであると思うのであります。
三番の松山の五郎吉について申し上げます。江戸時代の気仙における代表作は、長安寺山門であります。この山門については色々のエピソードがございますが、私の『気仙大工』や『匠達への誘い』に書いておりますので読んでいただきたいと思います。この人も生涯に30ヶ所もの堂宮を働いた人といわれます。
小友村の正徳寺には詰桝の美しい本堂、世田米・浄福寺大殿堂を働いております。また高田町浄土寺本堂建築時には彫刻師として参加し、本堂縁縁などに、すばらしいデザインの彫物を残しております。大体10ヶ所ぐらいわかっておりますので、あと20ヶ所探さねばなりません。今後もこの五郎吉の作品が判明することを期待している訳でございます。
次に普門寺の三重塔について申し上げます。気仙地方の建造物で、唯一の県指定有形文化財で、時は文化6年(1809)、だが、これだけの仕事をした人の名前が残っていないのはどうした訳でしょう。寺の本堂、楼門が慶応3年(1867)に焼失しているからかとも思われますが、それにしても、子孫に云い伝えがあってもいいはずです。この塔についてのもう一つの不思議なのは、木割りを無視していることです。
塔は上に行くほど建物が小さくなっているのですが、その差があまりにも極端すぎます。
また特徴的なのは軒裏天井が、1層は繁垂木、2層は動物に波と雲の彫刻、3層めは扇垂木になっている。そして木鼻が獅子と象が交互に使用されている。ところが、これと良く似た多宝塔が福島の信夫文字摺の安洞院にあることを知りました。こちらの方は名前が判っている。日光東照宮の造営に参加した奥州の大工が福島に定住し、陽明門の美しさを再現しようとしたとの伝承があり、名は山口村宇源治藤原義高と名乗り官位のある大工である。年は文化9年(1812)で、1層正面の屋根を軒唐破風にしているのだが、そんな多宝塔は全国をさがしてもここだけのこと。軒裏天井は1・2層とも波と雲の彫刻で、普門寺三重塔と同じ発想である。また、木鼻も唐獅子と象が交互に使ってある。この人の作品が数ヶ所ありましたが、その中で弟子の建てた常円寺という寺は、福島地方ではめずらしいといわれておりましたが、実に気仙地方の寺の造りと同じでありました。そこにも私は気仙大工であるとの確証を持つわけであります。ところが、さらに、この宇源治さんは、山形県高畠町の安久津八幡宮に三重塔を建てていることが判りました。高畠町とは仙台をすぎ、自石市から七ヶ宿を越えて、赤湯温泉の近くであります。この塔は堂々とした本物の塔です。スライドを用意しなかったので、写真で御寛に入れます。廻わして見て下さい。普門寺三重塔のようにミニチュアではなく、人が昇り降りすることが出来るようになっており、寛政3年(1791)から9年(1797)まで6年間もかかって完成したとのことです。ここでは気仙大工の名は知られている訳もなく、福島の大工が建てたといわれておりましたが、まさしく藤原字源治の作と書かれています。――
気仙文化に関するもう1冊の力作についても簡単ながらぜひ紹介しておきたいと思います。山浦玄嗣さんは大船渡市のお医者さんですが、東北大学では抗酸菌研究所放射線医学部で助手、講師、助教授と研究活動を続けながら、ひとりコツコツと「ケセン語」の研究も続けてきたというユニークな人です。その著書『ケセン語入門』(1986年初版、1989年改訂版、大船渡市・共和印刷企画センター)の前書きは文化人類学などに興味をお持ちの方にはおすすめです。井上ひさしの小説『吉里吉里人』では登場する三文小説家に茶化させてしまうところを、山浦さんは正面から押し切っていきます。
――さて、この本を読む人はきっと次のような疑問を持つと思います。『何だ。ケセン語と言うからにはどこの国のどんな言語かと思ったら、要するにこれは岩手県の片田舎の方言ではないか。世に言うところのズーズー弁の一種ではないか。何でまたこの方言にわざわざ<ケセン語>などという大仰な名前をつけることがあろうか。馬鹿らしい』そこで私は、この疑問に対して真剣に答えてみたいと思います。
○○語と言うのと、○○方言と言うのとではどこが違うでしょう。誰しも感じるようにケセン語と言うのと、ケセン方言と言うのとでは、この言語に対する尊敬の格が違います。ケセン方言と言えば、それは標準語と言うものが別にあって、その『正しい文法』や『正しい発音』から崩れ訛ったことばとしてのケセン方言であります。ですから方言の話者は『訛りことばの矯正』をほどこされ、『標準語にたちかえる』ことを要求されてきました。ケセン語は、ケセン方言と呼ばれている間は、まちがった文法、崩れた言いまわし、醜い発音を持つ訛りことばのひとつなのであります。日本語の方言ということばには、確かにこのような差別的な意味が色濃くつきまとっております。
こういうケセン方言も、ケセン語という呼び方をして見なおしますと、方言と呼ばれていた頃とは見違えるように堂々たる格式が与えられるから不思議です。『ケセン語』という表現は、この言語が自分自身の中に価値の基準と体系を有することばであることを自ら宣言しているものであります。実際、中国語、朝鮮語、英語、ドイツ語、アラビア語などというのと同格の待遇になり、日本語に対してさえ独立した対等の立場を主張することになります。
英語をアラビア語からの『ずれ』で規定しようとするのが無理・無意味であるように、ケセン語を日本語からの『ずれ』で規定するのはやめよう、というのです。お互いに対等の言語としての立場を考える『言語的民主主義』を我々はケセン人の誇りにかけて主張したいのであります。
そもそも日本人は、言語というものをひとつの国家に所属するもののように誤解ししているふしがあります。ところが実際には言語と国家というものは決してそのような関係を持つとは限りません。ベルギーにはフランス語を話す人々とオランダ語を話す人々がいて、しょっちゅう『言語戦争』と呼ばれるいざこざがおこります。ここにはベルギー語というものがありません。スイスにもスイス語がありません。スイス人はドイツ語とフランス語とイタリア語とロマンシュ語を話す人々の国です。スペインとフランスの国境にまたがって住むバスク人たちはバスク語ということばを話します。しかし、バスク国という国はありません。日本のアイヌ人たちもアイヌ語という立派な言語を持っていますが、アイヌ国という『国家』は存在しません。このように国家と言語とは本来別々のものです。
ケセンの国は、日本という国家から政治的に独立していません。ですから、ケセンという国は実際には何の形もない架空のものであります。しかしケセン人に自分がケセン人であるという認識と誇りと郷土愛がある限り、その愛の力によってケセンはケセン人の国であります。その山川草木はケセンの領土であります。そこに話される言語は、ケセン人にとってかけがえのない『母のことば』であり、<ケセン語>なのであります。断じて、ケセン方言などという見さげた呼ばれ方をされるべきものではないのであります。――
もうすこしきちんと引用したいところではありますが、そうすると前書きを全部写し書きするはめになりかねません。ここでは、山浦さんの前書きの書き出しの部分を、最後に。
――皆さんは、あの美しい国ケセンKesenを御存知ですか。どこまでも統く青い青い海が、そそりたつ岩壁に白く砕け、静かな入江の砂浜にゆったりと打ち寄せる、ケセンの国。明るい空の下で、地をゆるがす太鼓と、風を引き裂く笛の音が、祭の興奮を盛り上げ、人々の歓びの声が満ちるケセンの国。朝もやの東の海から、漁師たちの歌声と舷側を打つ拍子の音が近付き、浜では女たちの歌がそれに応える、あかつきのケセンの国。風の音と潮騒がわびしく窓をうつ晩秋の夕暮れに、囲炉裏をかこむ子供らの瞳が、老婆の語る妖しい幻想の世界に酔う、夕焼けの赤い、ケセンの国。ケセン、この魅惑的な響きをもつ名前は、どんなにか強く私の胸をうち、どんなにか激しく、私の魂を揺り動かすことか。
皆さん、皆さんはあのケセンの国を知っていますか。御存知ない。そうかもしれません。殆どの日本人にとって、この小さな国の存在は全く目にとまらず、関心をひかず、従って事実上存在すらしていません。しかし、ケセンはあるのです。私を含むすべてのケセン人の胸の中に、ケセンの旗がひるがえっています。ケセンを知らないあなたの胸の中にも、実は別の、あなただけのケセンがあります。では『日本』の皆さん、私と一緒にどうぞケセン国へおいでください。――
伊藤幸司(ジャーナリスト)
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