キヤノン通信――35号 キヤノンのもうひとつの顔・輸入事業────コンタクトレンズから半導体製造装置まで──1992.5(入稿原稿)
【キヤノン通信 35号 1992.5】
【特集】キヤノンのもうひとつの顔・輸入事業────コンタクトレンズから半導体製造装置まで
●「製品輸入拡大」への大号令
国民一人ひとりが100ドルずつ外国製品を買おう……と呼びかけたのは中曽根首相。1985年(昭和60年)4月のことであった。
時を同じくして通産省は輸出・輸入型企業60社に「製品輸入拡大」を要請、輸入拡大のためのアクションプログラム、すなわち具体的な行動計画を策定し、実行することを求めた。国をあげての「製品輸入拡大」キャンペーンがここに始まった。
指名を受けた60社は、自動車9社、鉄鋼6社、電機・電子14社、機械4社、商社9社、百貨店・スーパー18社。輸出・輸入実績から見て、日本を代表する企業ばかりである。その社長・副社長を一堂に集めての「要請」は、通産省のなみなみならぬ決意を感じさせた。
追いかけるようにして各社ごとのヒアリングが開始された。日本政府の貿易不均衡対策の柱のひとつであるだけに要請は厳しく、社内に役員クラスを責任者とする輸入体制を作り、輸入商品とその輸入見込額などの具体的な実行計画を立て、その実施状況を通産省が点検するということになった。
この強力な「指導」には、もちろん反論もあった。
(1)企業を頼りにする輸入拡大には限界がある
(2)輸出で成り立っている企業に巨額の製品輸入を期待することに構造的な無理がある
(3)商業ベースで買えるものはすでに買っている。性急な輸入拡大は価格、品質、安定供給などのあらゆる面でリスクをともなう
(4)輸入商品を具体的に検討していくと、旧来の関税障壁が立ちはだかってくる
かくしてケンケンゴウゴウたる論議が沸き起こったが、そこはそれ(単一民族の国)ニッポンのこと、輸入額全体に占める製品の割合(製品輸入比率)が戦後ずっと20%前後の水準にあったのが、85年にはたちまち31%にはねあがった。総輸入額1295億ドルのうち製品輸入が401億4000万ドルとなったのだ。
何が買われたかというと、コンピューター、自動車、飛行機、ヘリコプター、精密工作機械、計測・分析機など。この機会に買っておこうという設備投資型大型ショッピングが日本の輸入構造を大きく変えたのだった。
製品輸入は、かつての経済成長期には(素敵だが)悪であった。外貨を節約し、国内産業を育てるために製品の輸入はガマンして、みんながんばってきた。
しかも日本は原材料から燃料まで、資源のほとんどを輸入しなければならないことから、製品輸入率は英・米・独など欧米主要国が60%台であるのにたいしてきわめて低かった。低くて当然だった。
輸出して、かつ輸入する。あるいは輸出を減らさずにすむように輸入のパイをもっと大きくする。1985年は日本経済の大きな転換点として記憶される年となった。
●主要企業300社を中心にして
製品輸入拡大に直接協力したのはその60社だけではない。夏にはさらに60社あまりが選ばれて、同様の要請を受けた。結局、85年は合わせて134社ということになる。
続いて86年の秋には全国の主要企業約300社(首都圏約150社と地方約150社)に要請は拡大された。
この主要企業約300社が日本の輸入の約7割を占めており、製品輸入だけをとってみても日本全体の6割を超えている、というのだ。
そして輸入拡大運動4年目の88年度(昭和63年度)には、日本の輸入総額1874億ドルにおいて、主要300社が占めたのは1345億ドルであった。全体に占める300社の割合はやはり約70%、ところが、そのうち製品輸入は607億ドルで構成比は約45%にも高まっていた。
輸入拡大政策は大成功……といいたいところではあったが、そうは簡単にいかないのが経済の怖さであり、おもしろさである。
年……輸出……………輸入…………通関黒字
1985…1,156億ドル…1,295億ドル…461億ドル
1986…2,092億ドル…1,264億ドル…829億ドル
1987…2,292億ドル…1,495億ドル…797億ドル
1988…2,649億ドル…1,874億ドル…776億ドル
1989…2,752億ドル…2,108億ドル…643億ドル
一生懸命に輸入を増やしてきた。それも輸出を押し上げないように、原材料や燃料ではなく製品の輸入を拡大してきたはずだった。それなのに、輸出が軽々と伸びてしまった。苦労してダイエットしても、太るときには水だけでも太ってしまうという<乙女の悩み型>貿易黒字肥大症にかかってしまっていたのである。
そこでこんどは輸出で突出する企業に対して「輸入拡大・輸出抑制」の計画策定が求められることになった。
輸出額上位50社に対して、1993年までに製品・部品の輸入額を88年度の2倍にする(その間輸出が増えた場合にはその増加分を輸入計画に上乗せする)という具体的な目標を提示した。
これらの上位50社による88年度の輸出額は約1600億ドルであるから、日本の輸出総額の約60%を占めている。そしてこの50社の輸入額約200億ドルは、日本の輸入総額の10%強でしかない。
日本の輸出入のインバランス(不均衡)の元凶とされる50社を、新聞は「トヨタ自動車、日産自動車、松下電器産業、日立製作所、新日本製鉄、三菱重工業、キヤノンなど」(日本経済新聞89年11月20日)と紹介している。
88年度に日本全体の通関貿易黒字(出超)は約780億ドルだったが、自動車・自動車部だけで見ると約500億ドル、電機・電子製品で約400ドル、機械で約200億ドルという出超になっている。昨日までの<お利口さん>が、今日はきつく叱られる……。
輸出の巨人トヨタ自動車、輸入努力の優等生日立製作所、巨大ショッピングに苦悩する松下電器産業……などと並んでキヤノンの名があるのは輸出比率が73%と際立って高い代表的な輸出依存型企業であるためだった。
そこでキヤノンは3〜5年で輸入額を4倍に増やすという計画を考えた。それによって輸入額は2,000〜3,000億円の規模になるとした。
このような輸入拡大への大きなうねりは、その後、92年4月に至って、主要企業約330社が目標額を定めた輸入拡大計画を作成する……というところまで進んできている。
●輸入を支える<うんどう>
通産省が輸入拡大を主要な企業に要請した最初の年、1985年には、まず、物品税の見直しが論議された。大型乗用車や高額の家電製品が買いやすくなったのはその恩恵である。乗用車における高級車ブームは、この輸入拡大政策の果実のひとつであったともいえるだろう。
同じ85年に検討されたのは製品輸入拡大への減税であった。製品を輸入するさいにその輸入額に対して一定の比率の損失準備金を積み立てる「準備金制度」が創設される。積立金は損金として益金から差し引くことができるのである。
さらに即効性のあるものとして、日本輸出入銀行に低利融資制度を創設、民間企業の緊急輸入を側面からサポートすることになった。輸入大国を目指して、周辺制度が急速に整備されていく。
86年には個人輸入を促進するために、製品輸入促進協会に個人輸入相談コーナーを設置、88年には「製品輸入登録センター」を設けて、調査・登録した良質な輸入消費財の品目、価格、品質、安全性などのデータを小売業者や消費者に提供できるようにした。
同じ88年には個人輸入代行業の育成基盤整備事業も実施される。これら一連の措置は、もちろん、85年から88年にかけての大幅な円高によって、個人の輸入品購買意欲が高まったことにもよる。
●輸出保険が貿易保険に
<輸出>大国から<輸出入>大国への転換を制度面で象徴するのが「貿易保険制度」である。1950年に輸出保険として発足したこの制度は、政府(通産省)が直接おこなう事業であって、普通輸出保険、輸出代金保険、輸出手形保険、海外投資保険、為替変動保険、輸出保証保険などがあったが、
(1)対外直接投資を支援するための「海外投資保険」の拡充
(2)製品輸入拡大のための「前払い輸入保険」の創設
(3)発展途上国の輸出を応援するための「仲介貿易保険」の新設
これらが急きょ、「輸出保険法」の改革案として提出され、87年度から「貿易保険法」のもとで実施されるようになる。
貿易にかかわる保険では輸送途中での海難や火災に対する損害保険は古くから活用されているが、輸出相手国での政変、戦役、支払先の倒産などについてまでは民間の保険ではカバーされない。そのため、輸出促進のために政府がみずから運営してきた。
それを、輸入においても積極的に展開できるようにしたものである。とくに経済力の十分でない途上国の企業を相手先とする輸入を促進する役割をになっている。
また89年の秋には、日本に進出している外国企業100社と欧米10カ国の在日商工会議所を通産省が招いて、輸入拡大のための対話集会をおこなった。外資系企業は原材料や製品の輸入額で日本全体の約10%を占め、さらに配当として海外に送金する金額も多い。日本の輸入拡大に大きく貢献するグループのひとつであるとの認識が生まれてきた。もちろん日本側の輸入努力の説明窓口のひとつとしても貴重であることから、対話は以後、継続される。
あるいは輸出振興の旗振りをしてきたJETRO(日本貿易振興会)も「輸入振興」に邁進しはじめた。草の根輸入拡大に貢献しようと、90年度から、日本向け輸出商品を現地で発掘する人材25人を欧米の11カ国に2年間の任期で派遣する。
さらに強力に輸入拡大を支えるために、90年度には「製品輸入促進税制」が導入されることになった。ここでは関税ゼロの輸入促進対象製品(約2300品目)の製品輸入を増やした企業に対して、
(1)製造業者には…輸入増加額の5%の法人税控除…または10%(輸入機械は20%)の割増償還
(2)商社・卸小売業者には…輸入増加額の20%まで無税で積み立てられる輸入準備金を認める
92年に新設されることになったのは「輸入促進クレジットライン制度」で、機械や化学製品などの輸入額を前年比10%以上拡大する計画を公表した企業に対して、増加分の70%までを日本輸出入銀行が低利融資するというもの。
かくして1985年から始まった輸入拡大の運動は、政府主導型で強力に推し進められてきた。
●キヤノンが目指すこと
キヤノン(キヤノングループ)における輸入拡大の努力を新聞報道のレベルでまとめてみると次のようになる。
輸入額は86年に約260億円だったのが、87年には約350億円、88年には約470億円と急増して、89年には約750億円に達した……のだが、それをさらに2000―3000億円にまで拡大するという計画を立てたのだった。
輸入拡大の中心は米国アップル社のパソコン「マッキントッシュ」と、米国ネクスト社のワークステーション「ネクスト」になる。キヤノン販売が世界最大級のマッキントッシュ代理店で、キヤノン株式会社はネクスト社に資本参加すると同時に極東地区の独占販売権を得ている。
半導体は米国のモトローラ社やテキサス・インスツルメンツ社からの輸入が半導体購入額全体の20%に近づき、超える。加えて海外の生産拠点から、たとえば電子タイプライター(米国)、複写機(イタリア)、ビデオ用レンズ(マレーシア)などの製品を逆輸入する。
日本からの輸出を減らすため、海外生産額を約3倍の4500億円規模にまで拡大することも決めている。かくして輸出額から輸入額を引いた貿易黒字を自社内で一定に保ちながら、輸入の拡大を進めていこうというのである。
これをキヤノン株式会社ではグローバル企業への道と考えている。1988年が創立51周年であり、この年を「第二の創業」の年として「世界人類との共生のために真のグローバル企業を目指すキヤノン」という企業ビジョンを掲げた。91年12月に発表した自社の貿易構造改革プランでは、12カ国23社の海外生産拠点を強化して海外生産比率を30%まで引き上げる。また、主要な生産拠点で50%を超している現地部品調達率をさらに60%にまで高めていく、としている。
キヤノンUSA社長の武本秀治氏は92年4月1日付の日経産業新聞のインタビューに答えてこう語っている。
――なぜ輸入拡大に取り組んでいるのか。
「グループ企業の連結ベースの売上高約1兆8700億円のうち、3割弱にあたる約5200億円が北米地域。北米で活躍している以上、輸出に貢献して現地の経済の活性化に役立ちたいと考えるのは当然だ」
――海外事業を進めるうえでそれがメリットになるのか。
「<共生>の理念に基づいて外国企業との協力関係を強め、輸出や技術移転に役立つことが大切だ。せっかく海外で活動しているのに、その国のマイナスになってはいけない。単に海外で生産を増やすだけでなく、米国で開発したものは基本的に米国に帰属し、日本に持ち帰らないという基本方針でやっている。もちろん国際分業を否定するわけではないが、北米という市場のなかでできるだけ開発・生産・販売という一貫した体制を築くことが摩擦を回避するうえで大切だ」
キヤノンはみずからの超輸出型体質を「グローバル企業」として成長する過程においてバランスのとれた姿にしていこうと考えている。
●初めに半導体製造装置ありき
キヤノンUSAが売上高5200億円なら、日本国内の販売を担当するキヤノン販売の売上高は5020億円(92年には5350億円にまで拡大する予定)である。
じつは、キヤノン製品を日本国内で売るだけがキヤノン販売の仕事ではない。1200億円で部門別売上の第2位にまで成長してきたコンピューター機器に、スーパーコンピューターのクレイがある、オフィスコンピューターのキヤノンがある、IBMがある、ワークステーションにはネクストがある、サンがある、ヒューレットパッカードがある、IBMもある。
そしてパソコンにはご存じアップルのマッキントッシュがある、キヤノンのNAVIやAXiがあり、IBMのPS/55がある。ついでにミニコンピューターならDEC(デジタルイクイップメント)がある。必要なコンピューターが1カ所でそろってしまうというデパートになっていて、強力な輸入部門となっている。
キヤノン販売の輸入部長小林浩志さんによれば91年度のキヤノングループ全体の輸入額は1100億円、その4割以上がキヤノン販売分になるという。
「結論からいうと、キヤノン販売には特殊な事情があって、売上比率を上げるために輸入を拡大しているのです」
その回答は後にして、1980年にまでさかのぼっておきたい。その年、小林さんは6年半いたキヤノンUSAから帰国、半年後にキヤノン販売に移って輸入事業を開始するための準備にかかっていた。調査部に輸入課が創設されるのは81年1月である。
「当時は、キヤノン株式会社との間で輸入事業を認知させる努力が必要でした。了解はあったが、理解は薄かったというのが正直なところでしょう。いまでは、どこからでも輸入を増やそうというのですから隔世の感があります」
小林さんの初仕事は光機事業部が必要とする半導体製造装置の輸入であった。
キヤノンでは、高性能レンズによってシリコンウエハー上に集積回路のパターン(フォトマスク)を投影して焼き付けるプロジェクション・プリントカメラを開発した。70年のことである。
それは等倍焼付機であったが、73年には焼付光線にg線、アライメント(位置合わせ)光にe線を用い、そのために開発した高解像度U180mm F1.7(1/2)レンズによって1/2縮小焼付機のファインパターンプロジェクション・マスクアライナーを完成した。
続いて75年に発表したのは0.8μmの分解能をもつU90mm f1.4(1/4)を搭載した超LSI開発用ファインパターンプロジェクション・マスクアライナーであった。
しかし当時のLSI製造現場では高価なレンズ系を必要としない密着焼付機(コンタクトアライナー)が主流で、必要とする分解能も10〜15μm程度だった。そこでキヤノンでは、密着型ではフォトマスクが損傷しやすく、LSIの歩留まりも低下しやすいことから、わずかな隙間をあけて平行光で焼き付ける近接撮影方式の焼付機(パラレルライト・マスクアライナー)を完成させた。そして78年の5インチウエハー用パラレルライト・マスクアライナーは密着(コンタクト)で1μm、近接(プロキシミティ)で2〜4μmの分解能をもつレーザー焼付機として登場した。
このPLA-500シリーズはたちまちベストセラーとなって85年までに生産台数は2000台を超える。
また新たにミラーを使ってスキャニングしようというミラープロジェクション・マスクアライナーも79年には完成、これが64KDRAMから128KDRAMの時代に大活躍することになる。
かくしてキヤノンは半導体製造装置のトップメーカーにのしあがっていくのだが、それを国内で販売するキヤノン販売では、その前後に接続してラインを構成する周辺機器を求めていた。
当時輸出事業を立ち上げていた小林さんは、米国の業界通の会社をさがしてコンサルタント契約を結び、半導体製造装置のメーカーを10社ほど紹介してもらった。そして最終的に数社を選んで輸入契約を交わすに至った。
かくしてキヤノン販売は、キヤノン製の半導体焼付装置を中心とするライン構成を用意してあらゆるカスタムニーズに応えようとしたのである。
●高額商品がズラリ
現在もキヤノン販売の光機営業部は半導体製造ラインに関しての専業商社といったおもむきになっている。
シリコンウエハー(基板)やその一歩手前のマスクに回路パターンを焼き付けるための原画をレチクルというが、レチクル描画装置は米国の ATEQ 社のもの。世界で初めてレーザービームを使い、コストパフォーマンスに優れているため少量・多品種のIC製造に最適な領域を開拓した。最新機種は約5億円。
単結晶基板の上に結晶軸のそろった単結晶薄膜を成長させるエピタキシャル成長装置は米国 A.G.A 社のもので約3億5000万円。米国 Lam Research 社の全自動型で約4億5000万円。
また回路パターンをシリコンウエハー上に何段階にも転写しながら、不必要な部分を除去していくとき、溶液に浸して除去するウエットエッチングと、イオンガスやプラズマガス中にさらしておこなうドライエッチングがある。精密加工性で現在では主流になったドライエッチング方式をフランスのアルカテル社に求めたが、現在はアルカテル社とキヤノン販売の合弁会社アルキヤンテックによって製造されている。約1億円から2億円。
超LSIの製造プロセスでは複雑な回路形成段階で、シリコンウエハーに対して何回もの熱処理をおこなう。そこで高精度の温度管理と、多種類の反応ガスの切り替えを高速におこなえる熱処理装置が必要になってくる。米国 AG Associates 社の最高級機は約1億円。
また、写真における反転(リバーサル)現像と同様にしてシリコンウエハー上に露光したポジ画像をネガタイプに反転させるイメージリバースシステムでは、既存システムの解像能力の向上と、エッチング段階での線幅のバラツキ、シャープネスなどを改善できるという。
検査装置ではシリコンウエハーの表面をレーザー光線で走査して0.15μmの微小な塵まで見逃さないという高感度のウエハー表面欠陥検査装置がある。これは米国の Eastman Technology 社製品で8インチウエハーを1時間に約60枚処理できる最高級機で約4,500万円。
また回路に欠陥の見つかったメモリーチップ(DRAM、SRAM)を救済するために活躍するのがメモリーリペア装置。米国の XRL 社の製品では不良回路をビットごとにヒューズ部で切断して、あらかじめ用意されている冗長回路(予備回路)と接続する。
そのリペア機能に加えて、新しい「レーザープログラミング機能」をそなえている。あらかじめ一部の回路を切断することによって個別のロジック回路を作るというイージーオーダーを可能にする方法である。1秒間に2,000本のリンクカットという高速スキャン性能によってロジックプログラミング用レーザーアジャストシステムとして注目されているもの。価格は約1億3000万円。
じつはキヤノン販売で扱う商品のうち超高額、かつ超大型商品がこれらの半導体製造装置なのである。
「もちろん高額な機械は受注発注が原則です。だから行き先があらかじめわかっている。それなのに機械はまず当社内に据え付けられます」
と、小林輸出部長はいう。キヤノン販売側のテストラインに組み込んで、信頼性の低い部品などは取り替えてしまうという。
「日本のお客さんは注文が厳しいですから、こういう機能をつけてくれないか、といった要望がいろいろ出てきます。アメリカの会社なら<お客さん、いま必要ですか?>というところですが、日本では<とりあえず、付けておきましょう>ということになる。機械モノの輸入は右から左へ売れるというものではないんです」
小林さんによれば、米国の企業は考え方が独創的であったり、姿勢が積極的であったりしていいのだが、製品化では日本の企業に追い付かない。だから「手を加えて売る」ということがだいじになるという。
と同時に、特殊なジャンルの先進的な製品ということになると、米国の場合にはとくにベンチャー企業とのつきあいが多くなる。
「かならずつきまとうのが資金問題です。相手企業にとってそれが最初の製品という場合もありますから。スタートアップカンパニーとのビジネスの、そこがおもしろいところでしょうね」
かくしてキヤノン販売の輸入事業は1980年中に下ごしらえが終わり、1981年の年頭から始まったのである。
●一部上場企業になるための輸入拡大
半導体製造装置の輸入は、キヤノンの製品を補完し、システム化して顧客サービスするための販売活動であった。のちにその精神はキヤノン販売を国内有数のシステムインテグレーターにしていくが、80年代の入り口では、まだそのような土壌はできていなかった。
もちろん、輸入拡大が声高に叫ばれ、輸出企業に輸入目標が課せられる現在を予想できる者もいなかった。なにしろカメラメーカーは敗戦後の日本が必要とする原材料・燃料を外国から買うための、貴重な外貨を獲得する窓口であった。1ドルでも多くの外貨を稼ぎ取ることが使命であった。
それなのになぜ、キヤノン製品の国内販売を担当するキヤノン販売が大胆な輸入事業に手を染め始めたのか。
筆者は外部ライターとしてすでに数年キヤノン販売の広報の仕事にかかわっている。その間、いろいろわかってきたと思うが、やはりなお核心部は高い壁に囲まれているような感じが残った。それが一度に氷解していったのは、社長の滝川精一さんが綴った『起業家スピリット』(日本経営協会総合研究所、1992年3月)という本である。ここには1977年から現在までのキヤノン販売経営の核心のストーリーがいくつも語られている。
結論から先にいうと、キヤノン販売が輸入を拡大したのは上場企業になるという大目標を掲げたからであった。
風が吹けば桶屋……という安直さに誤解されると困るが、簡単にいうと、条件は次のとおり。
(1)赤字会社であった
(2)一部上場企業のキヤノンの営業部門から、非上場会社の子会社に分離されたという社員の不満があった。
滝川新社長はこのとき、「可及的速やかにわが社を一部上場会社にする」と決心したという。
第1次5カ年計画の目標を、期間内に東証第二部上場とし、売上を倍の1,000億円とした。
その目標を達成して、1982年からの第2次5カ年計画では、期間内に東証一部上場達成と、売上をさらに倍増して2,5000億円とした。
この「上場」という目標が、キヤノン販売に輸入事業を起こさせたのである。グループ内の企業が上場する場合には、その企業の売上高の30%程度は独自の事業によるものでなければならない、という審査基準をいかに満たすかということから、キヤノン販売は3つの新規事業を起こすことにしたのである。
(1)既存の販売チャネルでおこなえる外国商品の輸入販売事業
(2)アプリケーションソフトウエアを中心とするソフトウエアの販売・開発事業
(3)顧客情報の把握と、上記の輸入商品、ソフトウエアの直販をおこなうゼロワンショップ事業
かくして、「一気に東証一部上場に駆け登ろう」というスローガンのもとで、既存の販売チャネルで売れる輸入品として、まず、半導体製造装置が浮かび上がってきたのである。それはキヤノン製品を補完し、販売シェアを伸ばし、営業力を高めていく努力のひとつでもあった。
●飛び込んできたアップルコンピュータ
「1983年の秋、アップルコンピュータジャパンの初代社長である福島正也氏が東京銀行の紹介で飛び込んできた」
という一節で始まるストーリーは、キヤノン販売の今を考える上でおもしろい。
「滝川さん、今度アップルコンピュータ社は本格的な日本進出を決め、アップルコンピュータジャパンジャパンを設立して、私が社長に任命されました。私は日本におけるパートナーとしての総代理店を決めるため、日本の企業23社を選んで検討した結果、考えられるいろいろな条件からあなたの会社が最適であるという結論に達して販売提携の申し入れにきました」
「わかりました。お引き受けしましょう。契約の詳細はもちろん検討しなければならないでしょうが、とにかくやりましょう」
ここまでは会話体で書かれている。続いてその情景描写。
「一瞬、福島さんはあっけにとられたようである。察するに福島さんは内心<この社長は気は確かかな>と疑ったのではなかろうか。これだけの申し入れを何の調査検討もせずに即答する一部上場企業の社長もいないであろうし、普通の見方からすれば軽率の謗りを免れまい」
滝川社長の決断は、この本を読むかぎり「軽率の謗り」を免れるかどうかについては五十歩百歩。そこが「起業家」の真骨頂であるわけだ。
そのときの状況解説は次のとおり。
「実は私はこの年の6月、東京証券取引所市場第一部上場を果たしてから、東証からの助言もあった前述の独自事業について考え続けていた。
ちょうどその時に、輸入事業とソフトウエア事業と独立採算アンテナ・ショップ(ゼロワン・ショップ)事業の、3つの事業のすべてに結びつくアップルコンピュータの販売を福島さんが持ち込んできたのである。大袈裟にいうと、福島さんが天からの使いに見えた」
ちなみに、ここに登場する「福島さん」は日本人ではない。日系アメリカ人の医師で、医学用のコンピューターソフトウエアの開発にのめりこんでアップルコンピュータジャパンの初代社長になったという人。
それはともかく、3年間の総代理店契約に調印。この時期にはまだ日本語化が進まないため<売れないアップルコンピューター>の独占販売権であったのだが……。
1986年の契約更改から、キヤノン販売はアップルコンピュータジャパンを総代理店とする一代理店の契約になる。しかし、社内のアップルプロジェクトではマイクロソフト社、アドビ社をはじめとするマッキントッシュ用ソフトウエアの日本語化を進めており、ソフトウエアの日本における販売権の取得が、アップルコンピューター販売における強力な資産となっていった。
●コンピューターのデパートに
上場企業として自立するためにかかげた輸入事業の中心がマッキントシュとなり、それを直販窓口としての主力商品とするゼロワンショップが展開されていった。
いずれはそのどちらをもサポートするはず、との読みから拡充されてきたソフトウエア開発部門は、88年にはキヤノンソフトウエア、キヤノテックという子会社を含めて1,000人規模に育ってきた。
ちょうどこの時期、米国ではコンピューターの適材適所運動であるマルチベンダー化が進みはじめていた。コンピューターと他のデジタル機器とを結ぶマルチメディア化も求められてきた。ネットワークの能力が高いオープンアーキテクチュアが評価を高め、ハードの高性能化、小型化がダウンサイジングの大波となっていた。
「このような変化によって、従来のホストコンピュータと端末パソコンという、ホストと端末の関係は逆転し、クライアント・パソコン(お客さん)とサーバー・コンピュータ(奉仕者)と呼ばれるクライアント・サーバーの時代になってきた。
このような流れに乗って、1980年代の中頃からアメリカにおいて情報産業のなかにシステム・インテグレーションという領域が生まれ、システム・インテグレーターという新しい事業が起きてきたのは周知の通りである」
そこで再び、滝川社長の決断である。
「わが社は幸いなことにデジタル画像機器は豊富に持っている。これを最高度に生かして<映像と情報のシステム・インテグレーターをめざす>ことに腹を決めた」
キヤノン販売には人気のマッキントッシュがある。キヤノン製のパソコンも、オフィスコンピューターもある。ヒューレット・パッカード社やIBM社のオフィスコンピューターも販売できる体勢になっていた。
「1990年代10年間を全力投球すれば、アンダーセン・コンサルティングのような巨大なシステム・インテグレーターは到底無理であるとしても、何か特色のある分野にしぼった中型のシステム・インテグレーターは狙えるのではなかろうかと考えた」
かくしてキヤノン販売は世界のコンピューターの販売権を獲得しはじめる。
すでに販売提携していたのは、
1983.10…アップルコンピュータジャパン────パソコン
1985.4…日本アイ・ビー・エム────オフコン、ワークステーション
1986.11…ヒューレット・パッカード────オフコン
さらに強力なシステム・インテグレーターとなるために、
1989.6…ネクスト・コンピュータ────ワークステーション
1990.5…フローティング・ポイント・システムズ(後にクレイ・リサーチ・スーパー・サーバーズ)────ミニ・スーパーコンピューター
1990.10…日本ディジタルイクイップメント────ミニ・コンピューター
1990.10…日本サン・マイクロシステムズ────ワークステーション
1991.2…クレイ・リサーチ────スーパーコンピューター
一気呵成とはこのことである。世界の代表的なコンピューターを自在に並べる基礎的な準備はできた。社内的には人材の育成を急いでいる、という段階だ。
かくして1990年代への布石がまた、米国から日本への輸入拡大をうながす事業となりつつある。
●輸入では相手ブランドを尊重する
91年度のキヤノングループ全体の輸入額は1100億円、その4割以上がキヤノン販売分になる――という小林輸出部長の話に戻ると、その4割分はほとんどが製品輸入である。メーカーが製品を買うには限度があるが、販売会社なら売れるものを探せばいい。メーカー系列の自動車販売会社が外車のディーラーを兼業するようになったのも、製品輸入拡大の効率のよい方法であるからだ。
しかし、キヤノン販売ではキヤノン製品と競合する商品は買わない。キヤノンが扱わない分野の商品や、キヤノン製品の販売を補完する商品というガイドラインを定めている。
しかも、と小林さんはいう。
「買ったものは、原則として相手ブランドで売っていきます。われわれは世界の一流ブランドを扱うという自負がありますから、相手方のブランドを尊重します」
もっとも、一流ブランドというのは、有名ブランドということではありませんがね、と小林さんは付け加えた。なにしろ海のものとも山のものとも知れぬベンチャー企業が、アップルコンピュータになり、サン・マイクロシステムズになった。小林さんは若き日に、シリコンバレーを通るときにはいつも、アップルコンピュータの前で、こんな会社とビジネスしてみたいと思ったそうである。
米国では企業を「勢いで見る」ことがだいじだと小林さんはいうが、じつは滝川社長こそ、39歳でキヤノンUSAの社長となり、現地の総代理店から販売権をもぎとって直卸直販営業を確立、1970年から76年の6年間強で、20カ所に及ぶ支店、営業所、直販会社、サプライ生産会社などを展開し、売り上げ1億3000万ドル、日本企業現地法人のトップクラスにまで育て上げるという経営手腕を見せている。
国内販売組織であるキヤノン販売の経営を引き継いだとき、滝川社長はキヤノンUSA時代の部下をごっそりと引き抜いた。したがってキヤノン販売の経営センスの底流には米国流のビジネス理論が潜んでいると見なくてはならない。キヤノン販売が一部上場を果たした後、「財務体質を財務指標数値に関する限りは、常にAAAの基準を上回る水準に維持することを基本方針としている」というが、これは無担保社債発行のための格付け基準として極めて重要と考えているためである。
あるいはまた、株主への利益還元を重要視して、株式分割(いわゆる無償交付)からの株主優遇企業として、上場企業中のベストテン内にランクされ続けているという。
そして(筆者にはうとい分野だが)日経産業消費研究所の企業営業力調査において、1989年(第1回調査)で総合1位、91年(第2回調査)で総合2位であったという。
輸入事業はキヤノン販売という一個の会社の、飛躍の夢をかなえさせてくれるものなのだ。
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