キヤノン通信――61号 キヤノン販売とリンゴの話──1996.10(入稿原稿)


【キヤノン通信 61号 1996.10】

【特集】キヤノン販売とリンゴの話


【1】やっぱりリンゴが売れている

 1995年末のあの熱狂的なウインドウズ95(Microsoft Windows 95)のフィーバーから半年、追いつめられたマッキントッシュ(Macintosh。一般にMacと略称)はいったいどうなったのだろうか? どうなっていくのだろうか?
 キヤノン販売は世界最大のアップルコンピュータ・ディーラーであるうえ、アップルコンピュータとアップル関連ビジネスの総責任者である前田達重さん(システム機器販売事業部理事)が情勢をしっかりとにらんでいる。インタビューアーとしてはお粗末ながら、「本当のところ、どうなっているのですか?」と聞いてみた。
     *
 この4〜6月期のマッキントッシュの売り上げは対前年度160%という大きな伸びになっています。わが社の昨年度の販売実績で見るとパーソナルコンピューターは台数ベースで39万台。アップルが23万台でIBMが12万台、その他が4万台ですから、6:3:1という比率になります。
 今年度の販売目標は70万台としていまして、アップル40万台、IBM25万台、その他5万台。予算ベースでは53万台という堅い数字を立てているのですが、どうも目標に届いてしまいそうな気配ですね。日本国内ではおかげさまでマッキントッシュがあいかわらず大きな伸びを示しています。
     *
 マッキントッシュの圧倒的優位を支えていたマックOSのGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)にマイクロソフト社の最新OSであるウインドウズ95がかなり追いついて、本家のアメリカではマッキントッシュはビジネス戦線で惨敗しつつあるという情報もある。彼の地の波が届くのに2〜3年かかる日本では「まだ安泰」ということなのだろうか?
 現状と今後の見通しについて、前田さんにはこのレポートの最後に語っていただくが、前田さん、あるいは前田さんが率いるキヤノン販売のアップル部門では、そういう目先の動きには惑わされないといった雰囲気がある。ビジネス上の大きな目標をようやくひとつクリアしたばかりという認識があるようなのだ。右肩上がりのこのビジネスにいささかの疑問も不安も抱いてはいないようなのだ。
     *
 アップルのビジネスではいろいろなことがありました。「もうやめましょう」「やってられません」と滝川社長(現会長)に直接言ったことが2度あります。
 ひとつはアップルコンピュータの日本での総代理店契約を取り上げられたとき、もうひとつは市場の過半を占めていたビッグディストリビューターのキヤノン販売の発言権を低下させようとするさまざまな作戦が行なわれたときですね。
 私があちらの立場なら当然同じことを画策したかもしれませんが、ビジネス情報が変なところに先に流れてしまうんですね。こちらは大所帯ですから末端まで届くのに1週間はかかるわけです。何かあるごとに、私はアップルジャパンに怒鳴り込みですよ。
 でも、結局、キヤノン販売は基本的な立場を変えなかったのです。アップルとのビジネスを開始するにあたって滝川社長(当時)がスティーブ・ジョブズ(Steven Jobs。創業者にして会長=当時)に宣言したのは「このビジネスを1,000億円にまで育て上げる」ということでした。キヤノン販売という会社が新規事業として立ち上げる以上、1,000億円ビジネスにまで育て上げますということなんです。滝川社長は言ったことに責任をとるということを信条にしてきた人ですから、キヤノン販売の姿勢は以後まったく変わらない。
 それで昨年、本当に1,000億円ビジネスにしてしまった。1983年にゼロから始めて、12年で1,000億円です。
 もっとも売り上げ1,000億円というのはマック本体のほかに周辺機器やソフトウエアがありますが、キヤノン販売がアップルコンピュータから仕入れているのが700億円ぐらい、キヤノン株式会社(Canon Inc.)がプリンターエンジンなどアップルコンピュータに売っているのが500億円ほどですからキヤノングループ全体ではアップルコンピュータに対して明らかな入超なんです。キヤノン販売のキヤノングループ内での輸入努力という点でも理想的な展開になっていると言いたいところなんです。
 ちなみに1995年度のその売り上げをもう少し別の形で言うと、キヤノン販売の売上総額6,300億円のうち、アップル関係が1,050億円という割合です。そしてアップルコンピュータに関する日本でのディーラーシェアはキヤノン販売が40-45%といったところでしょうか。
     *
 このジョブズ会長と滝川社長の「約束」の場面をドラマチックに描いているのがコンピューターゲーム「ザ・タワー」の作者・斎藤由多加さんのノンフィクション作品『林檎の樹の下で』(アスキー出版局、1996年4月発行)。それによると1983年9月にキヤノン販売の滝川社長はアップルコンピュータジャパンの初代社長である福島正也氏(日系アメリカ人)とともにアップル本社(Apple Computer Inc.)を訪れた。その時の情景を少し引用させていただこう。
     *
 キヤノン販売と福島との間では、具体的な条件について綿密なやりとりが交わされた。卸価格や販売数のノルマなど、詳細を除いた大枠の合意事項が確認されたうえで、福島は滝川を伴ってクパティーノにあるアップル本社を訪れた。
 アップルの役員らとの挨拶を済ませた滝川の目の前で、LISAやアップルII、そしてすでに完成しているマッキントッシュという新型パソコンが次々と披露された。
 滝川は、噂に名高い西海岸の新鋭メーカーが開発している製品の新技術に思わず唸った。アップルとキヤノン販売とのお見合いのすべり出しは順調だったが、その間、スティーブ・ジョブスだけは日本企業との独占契約に不満気な表情だった。そもそも福島の獲得したキヤノン販売という大金星に対して、ジョブスだけが反発していることは福島自身も知っていたが、なんとしてでもうまく両者の間を取り持ちたいところである。
 一通りアップル社内の見学が終わり、翌日に具体的な条件交渉の場が持たれた。条件交渉の焦点は、キヤノン販売側の販売ノルマと卸額である。
「いったいどれくらいの台数を販売しようと考えているのでしょうか」
 カーター(アップル本社での福島の上司ジーン・カーター)が滝川にそう問いかけた。
「スタート時は、月にせいぜい100台から200台くらいのものでしょう。時間をかけて、これを徐々に伸ばして行くつもりです」
「100台? そんな数字は、アメリカのディーラー1社のものより少ない」
 ジョブスがそう口を開いた。
「その程度のビジネスに、特別なレートはとても出せない」
 それまでの和んでいた雰囲気は、だが条件交渉の場に至って一気に硬直し始めた。キヤノン販売側が提示していた仕入れ額、製品の小売り価格40パーセントという数字に対し、ジョブスは60パーセントという数字を譲らないのである。マッキントッシュプロジェクトのヘッドでもあるジョブスの意見は、アップルの社内では交渉のゴーサインを出した年上の役員ジーン・カーターよりも強力であった。ましてや、日本の現地法人の社長である福島の言葉に耳を傾ける様子はない。年間売り上げのコミッションや独占条項の解除などの条件で、交渉は暗礁に乗り上げた。ジョブスは強気な態度を崩さず、何時間にもわたる会議の場で、福島は滝川との間で板挟みの格好となった。
 出足でつまずきかけた両社の交渉にようやく光が見えはじめたのは、そんな状況を見かねて、ペプシコから来たばかりの社長ジョン・スカリーが両者の間に割って入ってからである。紳士的な雰囲気のアップルの新社長は、若き創業者よりも数段に交渉慣れしていた。
《この生意気な若造は、本当に日本で商売をしようと思っているのだろうか》
 会議テーブル上でほっと胸をなでおろしながら、福島は頭を抱えて何度もそうつぶやくことになった。
     *
 同じ場面が「フォーチュン」編集委員ルイス・クラーク著の『日本の異端経営者 キヤノンを世界に売った男・滝川精一』(飯田雅美訳、日経BP出版センター、1994年7月発行)にも登場する。登場するのは第II部「滝川精一のビジネス哲学」で滝川会長のインタビューによって書かれたモノローグの部分。
     *
 私は、83年にカリフォルニア州クパチーノのアップル本社でスティーブン・ジョブズ氏とジョン・スカリー氏と初めて会った日のことが忘れられない。ジョブズ氏は当時27歳で、若く魅力的な会長だった。いつも水色のシャツとジーンズ姿だった。彼は真の天才で、私のような会社社長と会う時でさえ、服装を変えることはなかった。スカリー氏は当時、アップルの社長だったが、落ちついた英国紳士のような印象だった。しかし、ジョブズ氏と同じく水色のシャツとジーンズ姿だった。
 彼らの生活様式は、米国のフロンティア精神のたくましさを印象づけた。すべての国に良い点がある。独創性を重視し、力を出し切って新しいものをつくり出して行こうとする優秀な米国人から、日本人が学ぶべき点は多い。
 アップルの経営幹部とは角を突き合わせたこともあった。日本語のソフトが不足していたために、売上に支障が出た。3年の契約が切れる直前になって、ようやくマッキントッシュの日本語版が誕生し、他の日本語ソフトも応用できるようになった。
 今振り返ると、何か新しいものを開発する時にはすべての人がたどらなければならない道だったが、欲求不満の募った日々でもあった。率直に言って、アップルコンピュータとわが社が83年に契約を交わした時には、お互いをあまり理解していなかった。
 最初にジョブズ氏と話をした時、私は、アップルコンピュータを日本市場に確立するためには、ディーラーづくりからわが社のセールスマンの育成まで時間と投資が必要なので、アップルがコンピューターを希望小売価格の40%で販売してくれなければ販売体制は作れない、と説明した。
 ジョブズ氏は怒って、
「それで来年(84年)は月何台日本で売れるのか」と尋ねた。私は、
「日本語版が発売できるまでは、月100台か200台程度だろう」と答えた。
 すると彼は、
「日本では、16ビット以上のパソコンの市場はどのくらいの規模か」と聞いた。
「約100万台くらいだろう」というと、ジョブズ氏は、
「では市場シェアの10%でも、年間10万台は売れるはずではないか。日本語版がないから無理だと言うが、月100台から200台では話にならない。そういう状況であれば、最高でも、米国ディーラーに出しているのと同じ卸売価格程度しか考えられない」と言う。
「日本ではNECのパソコンが圧倒的なシェアを持っており、ソフトの数も膨大なことは、あなたも知っている通りだ。英語版だけのアップル製パソコンでシェアを論じるのは意味がないし、日本語版が出ても、日本語のソフトがある程度そろうまでは、むしろ投資の時代が続くとみるのが当然だ。米国のディーラーに対する卸売価格で輸入して、日本製品と競争できるはずがない」
 このあたりから双方ともだんだん声が大きくなり、話は堂々巡りになってしまった。福島氏が間に立って、日本におけるパソコン業界の説明を繰り返した。
 ジョブズ氏は賢明な人ではあったが、日本における販売網を確立するために2〜3年多額の投資をして、その後ようやく利益が生まれる、ということが理解できなかったのである。欧州では英語版アップルが相当売れ始めていたこともあって、なかなか共通の理解に達しなかった。
 ようやくスカリー氏がまとめ役になって、私が希望した価格とジョブズ氏が当初考えていた価格の妥協点を見出してくれた。私は、3年以内に少なくとも1億ドル相当のアップル製コンピューターを日本で販売する、と約束した。
 アップルとの3年契約が切れる86年の終わり頃、アップルは総代理店の権利を返して欲しいと申し込んできた。アップルの代表は、世界中で第三者の総代理店を置いているのは日本だけであり、他国ではアップルの現地法人が総代理店になっている。今後のアップルの世界戦略上、日本でもアップルジャパンを総代理店として統一したい、と言った。そして、キヤノン販売は引き続き最有力の代理店だ、と保証した。
 私は不満だった。
「やっとマッキントッシュが日本でも売れるようになってきた今になって、総代理店をやめるというのはアンフェアだ。これまでは投資一方で、利益は出ていない。これから投資を回収させてもらう時期だ。やっと基礎づくりができた段階になって、わが社と競争関係を持つ他の代理店を作るというのは、あまりにも勝手すぎる」と言った。
 アップルの代表は私に、あなたもキヤノンUSAの社長だった時に、総代理店に対して同じことをした、と指摘した。
「だからあなたなら分かってもらえるはずだ」と、彼は言う。
 これには参ってしまった。
     *
 アップルコンピュータとキヤノン販売の関係はこのように始まったのだった。そして今年、アップルとキヤノン販売の関係者が集まって一種のごくろうさんパーティをやったという。
 キヤノン販売側は当時の滝川社長が現在も会長として現役であり、現場の指揮官、前田さんもアップルの担当からまだはずれていない。ところがアップル社のほうではアジアパシフィックのトップがすでに10人目とか。その下のアップルジャパンのトップも7人変わっているという。本社のトップもスティーブ・ジョブズ → ジョン・スカリー → マイケル・スピンドラー → ギルバート・アメリオと劇的に交代している。
     *
 悪い点もありますけど、人がどんどん入れ替わっていくというのが、アップルのカルチャーということもできるんです。絶えずビビッドでアクティブなんです。
 いろいろありましたが、我々もアップルに育てられたというのが正直な感想でした。
     *
 前田さんはそう言う。同じようなことを、キヤノン販売側でアップル部門を体験した人の多くが語る。それはアップルが動かす世界に直接関わることができたという思いにつながっていくようだ。キヤノン販売とアップル社とのパートナーシップは、外部の者には想像できないほど深いところでつながっているようなのだ。

【2】リンゴは10年先の味がした

 アップル関連の販売指揮官・前田さんは、1983年10月11日にアップルジャパンとキヤノン販売が販売提携を発表したときには、まだキヤノン販売の社員ではなかった。日本NCRで日本製のMS-DOSパソコンを開発していた。日本NCRに入社して21年間、大型の汎用コンピューターからだんだんとダウンサイジングしてパーソナルコンピューターにたどりついたところだった。
 前田さんはその翌日の10月12日、従来のアップルコンピュータ総代理店ESDラボラトリーがアップルジャパンと共同で帝国ホテルで開催したディーラー向け展示会に若い部下を派遣していた。
     *
 帰ってくると部下は「ウインドウズがすごい」というんですね。
 たしかそのとき、「なんだ、こんなオモチャ」って言ったことを覚えています。小さなディスプレイの中にさらに小さな窓をつくって、わざわざその中で見なきゃならないのか、ってね。
 ところが見てきた人間は「あのOSはすごい」っていう。
「何がすごいの?」
「グラフィックスをハンドリングできるところがすごいです」
 その当時すでに、汎用機のOSよりパソコンのOSのほうがある意味じゃ進んでいると言われていたんです。汎用機の端末っていうのはあくまでもテキストが中心ですからね。DP(データプロセッシング)の世界ではグラフィックスを扱うというニーズはまだほとんどなかった。
 それに対してパソコンというとまだマニアのゲーム機という感じでしたから、ビジネスで使えるの? という感じはありましたね。
     *
 じつはこのときLISAを見に行かせられた部下が前田さんといっしょにキヤノン販売に移ってキヤノン販売改造版の日本語マック「ダイナマック」を作ってしまうことになる中川具隆さん(現在、コンピュータビジネスサポートセンター販売企画課課長)だった。パソコンOSがCP/MからMD-DOSに移行する中でNCRブランドのパソコンを開発していた。LISAはその眼前につきつけられたのだった。
     *
 直感で善し悪しを見分けられるコンピューターってなかったと思うんです。そういう意味でLISAは感性にまで訴えかけてきましたよ。
 LISAのグラフィック・ユーザー・インターフェイスっていうのは、「本当に動いてんの?」という感じで、デモだけじゃないのかな? と思いながら触ってみるとちゃんと動いていたのですごい衝撃をうけた。単に薄皮をかぶせているだけじゃなくて、深いところまで一貫している。「あ、ホンモノだな」っていう認識がありましたね。
 それはマッキントッシュでも変わりませんが、作った人の思想が感じられたということです。端的に言うと、理科系のパソコンじゃなくて文化系のパソコンだなと思いました。
 で、これだけのものというのは多分今の日本のレベルでは追いつけないなと思いました。単に石を組み合わせてパソコンを作って、OSを買ってきて載せているっていうレベルしかなかったですから、日本では。独自性はほとんど発揮できない状況になりつつあったのです。
 ですから多少寄り道をして日本語化に時間をかけたとしても、今ある日本のパソコンを完全に凌駕できる。それを確信しましたね。
     *
 上司の前田さんはどうも、中川さんの確信によってアップルのコンピューターに引き寄せられていったようだ。LISAという革命的なキカイに目を向けていった。
 アップルコンピュータは1976年にヒューレットパッカード社の技術者であった26歳のスティーブ・ウォズニアック(Stephen Wozniak)とコンピューターゲームのアタリ社に勤めていた21歳のスティーブ・ジョブズが作った会社で、手作りのボードコンピューター、アップル(Apple I)が100台あまり売れた。
 すぐに開発にとりかかったのは、従来型の「マイコンキット」ではなく、家庭用のカラーテレビに接続すればキーボードからBASIC言語でプログラミングできる世界最初のパーソナルコンピューターだった。1977年4月に発表したこのアップルIIが爆発的に売れて、企業としても急成長、いわゆるパソコン革命を引き起こしたのだった。
 アップル社は続いて1980年にアップルIIIを発売したが、これは完全な失敗作。翌1981年にIBMがパーソナルコンピューターIBM/PCを発売すると、パーソナルコンピューターの主流は一気にIBMとIBMクローン(互換機)に移っていった。(ちなみにこのときIBMに採用されたPC-DOSを互換機メーカーにはMS-DOS=マイクロソフト・ディスクオペレーティングシステムとして出荷してパソコンOSのスタンダードの座を固めたのが1975年設立のマイクロソフト社だった)
 1983年に発売になったアップル社のLISAはLocally Integrated Software Architecture、すなわちオールインワンタイプの統合ソフト搭載マシンとして、とくにエグゼクティブ用ビジネスマシンというコンセプトを強調しながら、IBM/PCに対抗して登場したのだった。商業的にはこれも失敗するが、続くマッキントッシュシリーズのプロトタイプとなる画期的なものであった。
 前田さんはすでに21年間、事務の合理化という視点からコンピューターとかかわってきていた。43歳という年齢でいきついたダウンサイジングの果ての荒波にどのように飛び込んでいくか、選択はなかなかきびしいところにあったのかもしれない。LISAについての印象も、だから若い部下の中川さんとはずいぶん違った。
     *
 最近でいえばマッキントッシュのパフォーマ・シリーズ。あるいはウインドウズで人気のビジネス用統合ソフト。あれがLISAなんです。LISAのは7/7(セブン・スラッシュ・セブン)っていいましたね、ライト(ワープロ)、表計算、ペイント、ドロー、リスト、ターミナル(通信)、プロジェクトの7つが統合されて、プロファイルと呼ぶハードディスクに最初から入っているんです。
 オフィスの中でやるパーソナル・プロダクティビティ、すなわち個人の作業にはソフトが7つあればいいということなんです。汎用機だと必要なたびごとにプログラムを組んでいたのが、パッケージでいいんだということです。ジョブズの2年間にわたるサーベイの結果が7/7だというわけです。そういう割り切りのコンセプトにショックを受けましたね。
 そのころアメリカではロータス1・2・3っていう表計算ソフトがすごく売れていました。パソコンのマーケットが日本より5年ぐらい先という印象でしたかね。
     *
 前田さんはキヤノン販売に新設されたばかりのアップル営業部の部長として迎えられ、退職して別の道を歩もうとしていた中川さんも前田さんに引き抜かれた。1984年の年明け早々から、2人はキヤノン販売でアップルIIeとLISAを売る仕事に放り込まれる。「英語しかしゃべらない」アップルコンピューターを細々と売りながら、「日本語化」という呪文を唱え続けることになる。

【3】「林檎」と言ってくれないか

 アップルコンピュータ社の日本総代理店となったキヤノン販売の最初の仕事はそれまでESDラボラトリーが扱ってきたアップルIIの販売とサービス業務を引き継ぐことであり、1983年12月に発売になったLISAを売ることであった。続いて1994年1月24日にはマッキントッシュ(Macintosh 128k)が世界同時発売となる。これが4月から営業品目に加わってくる。同じ年にアップルIIcという新型機種の発売もあった。
 仕事は順調に拡大――というわけではなかった。なにしろどれも英語しかしゃべらないのだから。中川さんは当時のことをこう語る。
     *
 1月からキヤノン販売に出社することになったのですが、年末にLISAの本体と電話帳みたいな英文のマニュアルが何冊も届いて、出社するまでに全部分かるようにしておけ、といわれました。
 入社当初はそのLISAを売るという仕事だったんですが、これが英語しかしゃべらなくて、252万円という値段。おまけによく故障するというものだったんです。全国で月に20台ぐらいしか売れませんでした。
 LISAだけでは売上も伸びないし、マッキントッシュなるものもなかなか出てこないという時期でした。それと、代理店として取り扱わなくてはいけないアップルII(Apple IIe)も売らなくてはいけないのですが、ゲーム機というようなものを扱う経験がないのでみんなとまどっていたんです。
 ちょうどその時、アップルIIcというポータブルなキカイが出てくるということになりまして、ここらで一丁花火をぶちあげてやろうかという気分でした。キヤノン販売がせっかくディストリビューターになっているのだから、アップルIIcの発売をきっかけに、なんか付加価値をつけられないだろうか、っていうことで。
 ところがアップルIIというのは完全にマニアの世界に入り込んでいた。キヤノン販売の中でアップルIIを扱える人間はいませんから、私が人を拾ってきました。大学生の肩書きは持っていても全然大学に行っていないヤツとか、当時の「アップルIIフリーク」ですね。社内では「アップル坊や」と呼ばれる一団だったんですが、こいつらにアップルIIをやらせようと。
 当時はバイトですが、かれらにアップルIIのサポートをまかせて、アップルIIcの発売にあたってはなんかおまけを作っちゃおうかと。そうやって考えたのが「初めてのアップルキット」で、中身はアップル坊やたちが作ったアドベンチャーゲームソフトと、A&Aという会社に依頼した日本語ワープロソフト、それに豪華装丁の「アップルを取り巻く世界」みたいなソフト紹介の本です。
     *
 そのときのアップル坊やのひとりが現在アップル商品企画課に所属する佐藤嘉弘さん。
「本当に秋葉原で拾われたんですか?」
     *
 初め3人入ったんです。あのころアップルIIのユーザーっていうとほとんどマニアの人ですよね。その連中が秋葉原辺りで結びつきながらいくつかのグループを作っていたという感じかな。
 もちろんアップルIIを仕事に使っている人もいて、オランダ人の新聞記者なんですけどアップルIIeで原稿を書いている人がいたんです。ところが非常にトラブルが多いというんです。正規ユーザーなのにプロテクトのおかげでロードが遅いとか、カスタマイズしにくいとか、すぐに動かなくなるとか、いろいろ使いにくいというので、その人がアップルIIに詳しい連中を何人も呼んできて、自分のソフトをこういうふうにできないかとか、やっていたんです。
 その人はESDラボラトリーで買ったのですが、代理店がキヤノン販売に変わったあと、クレームがたらい回しにされて、キヤノン販売の中川さんのところへいったらしいのです。
 そんなことで中川さんが今度こんなキカイが出ると言ってマッキントッシュ(Macintosh 128k)のデモに来た。そこでぼくらも集まって見せてもらったんです。
 そのときの僕ら全員の意見は「使いものにならない」でした。マウスもかったるいという印象でした。
 いろいろ言っているうちに、アップルIIのほうを手伝ってくれないか? と中川さんに誘われて、バイトでキヤノン販売に通うようになったんですね。
 アップルII担当のコールセンター要員だったわけですけど、すぐにアップルIIcが発売になるんです。それはアップルジャパンが日本語マニュアルをつけて出そうとしていたんですが、それだけじゃ面白くないというんで、「初めてのアップルキット」というのをキヤノン販売でつけようということになったのです。
 そのときバイトでいたぼくら3人が「ドラゴンズ・ケイブ」というアドベンチャーゲームを作ったんです。たしか夏休みもこもって、3カ月ぐらいかけて作りました。
 当時はフロッピーの容量が140キロバイト。そこに200枚以上の絵を入れて、カタカナ表記ながら日本語も出さないといけない。日本では市販のソフトが作られていなかったので、初めてのアップルII用日本語ゲームソフトということになるんです。
     *
 アップル坊やという雰囲気じゃないですね、本格派で。
     *
 ぼくらはいつも中川さんの尻尾みたいにくっついて歩いていたからでしょうね。いま考えても会社内ではおかしな連中だったと思います。
 ぼくらはそれぞれマニアとして得意な分野もあったし、やってみたいと思ったから、今でいうロールプレイングゲームですが、それを作った。大変でしたけれどね。
 じつは1983年に任天堂から発売されたファミリーコンピューターはアップルIIと同じモステクノロジー社の6502というCPUを使っているんです。ゲーム機としては兄弟分なんですね。それにアップルIIのゲームがその後IBM-PCに移植されてパソコンゲームとして発展していくんです。ぼくらはそういう時代にいたんです。
 アップルIIというのはむき出しのコンピューターでDOS(ディスク・オペレーティング・システム)しかない。OSなんてものもないんですから、はまっていくともう開発者になるしかない。それが当時マイコンと呼ばれたキカイのおもしろさだったんです。オールインワンでアプリケーション・ソフトを使わせようとするマッキントッシュとはまったく性格の違うキカイなんです。
     *
 アップルIIをアップル坊やたちにまかせて、中川さんがつぎに挑戦したのは「マッキントッシュの日本語化」。これなくしては、マッキントッシュが日本で商売になる日は来ない。アップルがやってくれないなら自分たちでなんとかマックに日本語をしゃべらせることはできないだろうか――という仕事だった。中川さんのダイナマック作戦――。
     *
 LISAに続いて、いよいよマックの128k(初代マッキントッシュ)が出てきます。価格もLISAよりはずいぶん安くなりました。でも日本語はしゃべらない。ライト(MacWrite)という簡易英文ワープロと、ペイント(MacPaint)という簡易お絵かきソフトがついてはいましたが、売れませんでしたね。月に50台というペースがやっと。
 こんなことをキヤノン販売がやっていてもしょうがないよね、っていうところまで行っていました。アップルIIシリーズもマッキントッシュも「腐ったリンゴ」だなんていって、みんな違う部署に逃げ出したいと、逃げ腰でした。
 そのころ、エルゴソフトという会社がアップルジャパンとキヤノン販売の後ろ盾で日本語ワープロなり、日本語変換のルーチンを開発していまして、だいぶものになってきていた。ただそうした中で、512k(搭載メモリーが512キロバイト)のマック、これを初代の128kマックにたいして太ったマック、ファットマックと呼ぶんですが、ファットマックでも日本語変換のFEP(フロントエンドプロセッサー。かな漢字変換システム)さえ積むメモリーの余裕がないという現実も見えていました。
 日本語化に関してはアップルジャパンなりアップル本社なりに、やってくれ、やってくれといってらちがあかなかったという背景もありまして、じゃあ、自分たちで、やるしかないのかな、やってみようかな、と思い始めたんです。
 その自信の裏付けになったのは「初めてのアップルキット」を若い連中でものづくりをして成功したということでした。ま、できるんじゃないかな、と思って上司に相談したら「勝手にやれば」ということで、とくに開発資金があるということでもなくって、やらせていただいた、というかたちでした。
 昔の技術者仲間のところへ512kのマックと市販本の『インサイドマック』を持ち込んで、「これで解析して、空いているアドレスに漢字ROM積めないか」といって開発費なしでやってしまった。漢字をROM(リードオンリーメモリー)に入れて本体側のメモリーにリンクさせればたった512キロバイトのメモリーをほとんど圧迫しないですむわけです。
 それからかな漢字システムを開発中のエルゴソフトに行って、「EGBridgeはまだ、ファットマックじゃ走らないでしょ、この漢字ROM対応にしてみたら?」といって、これも開発費はゼロ。
 なぜか簡単に日本語が使えるようになってしまったので、「マッキントッシュは日本語をしゃべる」と言っちゃっていいかもしれないと思い始めました。本気で売り物にしてしまっていいのかな、と上司の前田に相談してみると「やれば〜」と。
 結局どうやったかというと、ウチから箱に入ったマッキントッシュの512kを友人の会社に送りつけて、そこで開梱して、シャーシーも開けて、メイン基板を取り外して、モトローラの68000CPUの上に漢字ROMを積んだ基板を2段重ねにしてハンダで直付け。本体の「Macintosh」というネームの下に「DynaMac」という金属プレート付けました。
 それをまたもういっぺんマックの箱に戻して、その箱をさらにひとまわり大きな「ダイナマック」の箱に入れて、エルゴソフトのEGBridge 1.0を同梱。
 この漢字対応マッキントッシュ「ダイナマック」が89万8000円で、ようやく月200台ぐらいまで上がってきました。
     *
 このサードパーティ製のローカル・マッキントッシュのデビュー風景を、先に紹介した斎藤由多加さんは『林檎の樹の下で』で次のように再現しています。
     *
 8月20日、キヤノン販売製の「ダイナマック」はいよいよ発売された。箱はアップル社の段ボールをさらに上から包み込むオリジナルの外装箱で出荷され、価格はベースとなる512キロバイトマッキントッシュの定価よりも8万円高い89万8000円とされた。同梱されたイージーブリッジ(EFBridge)は、追って発売されるエクセル上に漢字を表示できることがすでに確認されている。漢字ROMの搭載は、わずかながらも主メモリ及びディスクにおける作業領域を効率化するだけでなく、処理速度を大きく向上させる結果ももたらしていた。
 アップル事業を始めてからほぼ2年、営業の渡利らはついに腰の重いアップルを差し置き、「プロの事務機屋としての意地を見せる」ときがいよいよ来た実感を噛みしめていた。マッキントッシュが日本のビジネス市場に何とか入って行ける最低限の条件が揃ったのである。
 一方、宣伝を担当する藤木らは、キヤノン販売独自の予算で「日本語ビジネス」というキャッチコピーでのダイナマックの広告を展開した。
 アップルジャパンの社長ロバート・コーリーは、他に例を見ないこのキヤノン製マッキントッシュに好意的ではなかったが、アップル企画部の勢いに押される形で、「アップル社として、サードパーティであるキヤノン販売製のダイナマックを歓迎する」という声明を書面で出し存在を容認した。
 ダイナマックとマッキントッシュとの外見上の違いは、唯一フロントパネルに張られた金属製のネームプレートだけであったが、世界初のローカライズド・マッキントッシュであることを誇らしげにアピールした。キヤノン販売のエネルギーは、まるで堰を切ったようにこのダイナマックに注がれた。
 漢字が使えるソフトは限られていたが、ダイナマックの評判は上々だった。翌9月には、エルゴソフトから初の日本語ワープロソフト「イージーワード(EGWord)」が、10月1日にはエクセル英語版がキヤノン販売から発売され、結果として月の出荷台数はそれまでの4倍近くにまで押し上げられた。社内では並行してマイクロソフトとの「日本語エクセル」の準備が進んでいる。
     *
 この日本語版エクセル――。キヤノン販売のアップル部隊の先頭に立っていた前田さんはいまグループ企業のキヤノテックの社長を兼務しているが、そこには若き日の前田さん(44歳)がマイクロソフト(Microsoft Corp.)のビル・ゲイツ(William H. Gates。28歳)と握手している公式記念写真が飾られている。若き天才との出会いはまさに日本語版エクセルなのだが、この舞台裏でも子分の中川さんが動いていた。
     *
 マックが日本語をしゃべるとしても、いくつかのソフトウエアを日本語で使えなければならないということを痛切に感じまして、ともかく表計算ソフトだろうと思いました。これの日本語化というプロジェクトを起こしまして、ダイナマックを持ってアメリカへ行きました。
 最初に行ったのはロータスさん(Lotus Development Corp.)。ロータスがマッキントッシュ用に作ったJAZZというソフトがLISAに搭載されていた総合ソフトと同じようなコンセプトだったからです。英語用ですけれど表計算とデータベースとワープロが一体になったようなもので、マッキントッシュ初めてのビジネス用アプリケーションということでアメリカではかなりセンセーショナルだったんです。
 で、これ1本持ってくれば日本のビジネスマシンとしても十分だということで、ロータスを訪れましたら、けんもほろろでロータスとしてはマックにビジネスチャンスはないと思っている、ということでした。日本でもロータスの日本法人をつくってMS-DOS上で動くLotus 1-2-3(ロータス・ワン・ツー・スリー)を日本語化するなど忙しい、何を好んでマックの日本語化などやるのか、という感じでまったくとりあってもらえなかった。がっかりしました。
 こりゃー、しょうがいないということで、マッキントッシュ用の表計算を出そうとしていたマイクロソフトへ行ってみたのです。
 エクセル(Microsoft Exel)はすでにβ版(発売直前の試作バージョン)はいろいろなかたちで出回っていましたが、正式版はまだ出ていない段階でした。当時マイクロソフトはマック上で動くマルチプランとかマック上のベーシックは出していましたがエクセルはまだでした。
 で、それを「日本語化してくれませんか?」――うちは日本語のマックをつくりました。で、この上で動く日本語のアプリケーションとしてのエクセルがほしいのですが、「つくっていただけませんか?」という話をしました。
 マイクロソフトは「興味はある」と言うんです。ただ「独占権をやるから○○万ドルコミットしろ」と、コミットしたら「日本語化をさせてやる」という話でした。
 私と輸入課の人間と2人でそこまでいったわけですが、この段階では完全な日本語化ということはこちらも考えていませんで、マニュアルとメニューを日本語化して、あとはFEP(かな漢字変換システム)で対応できるところはやらせて、80%程度の日本語化でいいだろうと考えていたのです。たとえば日本語でのソート(並べ替え)ができなくたっていいとか、円マークでの表示ができないといったところでいいじゃないかということでした。あまり完全な日本語化を求めていたわけではないのです。
 その段階で上司におうかがいをたてて、○○万ドルコミットするから独占販売権と日本語化権をください、ということでいよいよエクセルの日本語化にかかったのです。
 マニュアルの日本語化は外注して、メニューの日本語化は私自身でリソースエディターで全部直して、それでマイクロソフト側に「こういうふうにやります」、マニュアルも版下段階でフィルムを持っていって、メニューの部分のリソースも持っていって、これを組み込んで「日本語エクセルとして出して下さい」という話をしましたら、なぜか向こうの受けがよくて、「ここまでやったんだったら完全なエクセル日本語版にしちゃおうか。でもマイクロソフト側で日本語化だとか、2バイトコードだとかシフトJISなんて分かりゃしないから、「そっちでスペック切ってよ」
 そういういきさつがあって、完全日本語対応のエクセルが出てくるのです。当時はマイクロソフトも意気に感じるという柔軟性があったんです。
 もっともキヤノン販売側でもマックOSだとかC言語とかに対応できる人間はほとんどいなかったので、他の部署からはいっさい手伝ってもらえなくて、今度も勝手にやっていた状態でした。
 エクセルのβ版の評価も中川以下アップル坊や軍団で全部のキーをたたいて、実際に動くか動かないかの検証も全部やりました。
 そのころからアップル社での正規の日本語化「漢字Talk」の話というのが立ち上がってきまして、キヤノン販売が勝手なものを作っているのを許しておけない、製品に関してはアップル社が全部責任を持つんだという話になっていました。
 当時アップル社で日本語化をやっていたのはアップルジャパンに常駐していたジェームス・ヒガという人物と、ケン・クルグラーという技術者の2人で、かれらはキヤノン販売のダイナマックを邪魔するというようなことはなかったけれど、実際にできて売り上げが伸びてくる、エクセルの日本語化も進んでいるということで、かなり神経をとがらせてきまして、最終的にマイクロソフトとキヤノン販売に対して「エクセルをこちら側の漢字OS(漢字Talk)に対応しないで、ダイナマックやEGBridgeだけに対応させるなら、今後一切の技術サポートをしない」と言い出しまして、しかたなく日本語版エクセルを漢字Talkにも対応できるようにしたのです。
 ところがまあ、聞くも涙・語るも涙でして、当時の漢字Talkがひどくて30分ごとに落ちるんです(ハングアップ。本体を再起動させないといけない状態になること)。おまけにそれがβ版。β版のOS(日本語マックOS)上でβ版のアプリケーションを検証するというとんでもない綱渡りでした。
 しかしお陰様で、エクセルの日本語化ができたあたりから販売も本格的になりまして、マッキントッシュも日本語をしゃべるし、日本語ワープロもEGWordが出た、ビジネスアプリとしてエクセルがあるということで、月販500台の線を越えて、以後順調に上向いていったんです。

【4】リンゴにさわるならゼロワン・ショップ

 キヤノン販売という会社の軌跡の中で「アップル」と「ゼロワン」は必然のつながりをもっている。まずは前田さんからの爆弾発言。なぜ爆弾かは同席した広報課長の久喜さんが「オレ、知らなかったなー!」とつぶやいたので分かった。さて、どの部分でしょうか?
     *
 アンテナショップとしてゼロワンショップの1号店がオープンしたのが1984年の5月です。キヤノン販売はセールスチャネルの強化ということを一貫してやってきましたからその延長線上に登場したわけです。そしてゼロワンショップは最初から、「世界のトップブランドを扱う」という方針を立てたのです。
 キヤノンブランドはもちろんですが、マッキントッシュとIBMの3つが最初から大きな柱であったのです。最近はブランドにこだわらない商品も必要に応じて置いてはいますが、キヤノンブランドとアップルブランドは相性がよかった。映像を扱うキヤノン製品と、グラフィカルなイメージを扱うアップルのテクノロジーがうまくかみ合ってゼロワンショップの顔をかたちづくったというわけです。
 それからもうひとつ、キヤノン販売製マッキントッシュの「ダイナマック」と同様に、IBM/PCの日本語版を具体化しつつあったのです。でもこちらのほうはうまくいかなかった。IBMブランドの日本語パソコンがだめになったので、じゃあ互換機でいこう、ということでIBM/PC互換機をキヤノンブランドで出すことになるのです。それがCanon AXi シリーズなんです。
     *
 キヤノン販売が海外からコンピューターを買い始めたのには別の理由があった。それはキヤノン販売という会社が上場企業になるためにどうしてもクリアしなくてはいけないハードルのためだった。詳しくは滝川精一著『起業家スピリット』(日本経営協会総合研究所、1992年3月)に書かれているけれど、要点は次のとおり。
 1977年にキヤノンUSAの社長からキヤノン販売の社長となった滝川さんは、その会社が赤字会社であり、社員の中にキヤノン本社の営業部門から非上場の子会社に切り離されたという不満があることを知って、ひとつの決心をする。「可及的速やかにわが社を一部上場会社にする」ということだった。
 この「上場」という目標に向かってキヤノン販売は全力で走るのだが、第1次5カ年計画として売上を1,000億円に倍増、東証二部上場。続く第2次5カ年計画では売上2,500億円で東証一部上場という目標を掲げて、期間内にそれを達成してしまう。
 じつは問題はその「上場」にあって、グループ内の企業が上場するときには売上高の30%程度が独自の事業によるものでなければならないというガイドラインが設けられていたのだった。キヤノン販売がキヤノンブランドの商品を売っている限りそれはむずかしい。そこでキヤノン販売は名実ともに一部上場企業となるために3つの新規事業を起こすことにしたのだった。
1)既存の販売チャネルで行なえる外国製品の輸入販売事業
2)アプリケーションソフトウエアを中心とするソフトウエアの販売・開発事業
3)顧客情報の把握と、上記の輸入商品、ソフトウエアの直販をおこなうゼロワンショップ事業
 アップルジャパンの初代社長福島正也さんがキヤノン販売の滝川社長を訪ねてきた光景を滝川社長みずからが描いている。『起業家スピリット』からの引用――。
     *
「滝川さん、今度アップルコンピュータ社は本格的な日本進出を決め、アップルコンピュータジャパンを設立して、私が社長に任命されました。私は日本におけるパートナーとして総代理店を決めるため、日本の企業23社を選んで検討した結果、考えられるいろいろな条件からあなたの会社が最適であるという結論に達して販売提携の申し入れにきました」
「わかりました。お引き受けしましょう。契約の詳細はもちろん検討しなければならないでしょうが、とにかくやりましょう」
 一瞬、福島さんはあっけにとられたようである。察するに福島さんは内心「この社長は気は確かかな」と疑ったのではなかろうか。これだけの申し入れを何の調査検討もせずに即答する一部上場企業の社長もいないであろうし、普通の見方からすれば軽率の謗りを免れまい。
     *
 そして、絵解き。
     *
 実は私はこの年の6月、東京証券取引所市場第一部上場を果たしてから、東証からの助言もあった前述の独自事業について考え続けていた。
 ちょうどその時に、輸入事業とソフトウエア事業と独立採算アンテナ・ショップ(ゼロワン・ショップ)事業の、3つの事業すべてに結びつくアップルコンピュータの販売を福島さんが持ち込んできたのである。大袈裟にいうと、福島さんが天からの使いに見えた。
     *
 このあたりのことはすでに「キヤノン通信」35号(1992.5)の「特集=キヤノンのもうひとつの顔・輸入事業」で触れた。
 ゼロワン・ショップについては「キヤノン通信」9号(1989.2)の「特集=ゼロワンショップの実験・5年の成果と今後の展望」に第1号店の新宿店店長の次のような証言がある。
     *
 店にこられたお客さまがパーソナルユースとして買ってくださる。ところがそのあと、思いもかけない大手のユーザーさんとの商談に発展するということが、新宿ではありますね。ショップ販売という形態のおかげで、具体的なニーズのあるお客さまが、あちらから足を運んでくださるわけです。これは訪問販売ではなかなかつかみにくいチャンスです。
 とくにマッキントッシュは、買ってくださったお客さまが口コミで宣伝してくださるので、これは強力です。カバンを持って歩きまわってもアプローチしにくい一部上場企業に口座を開設できたというようなことが多いですね。
     *
 ゼロワン・ショップについてこれくらいの下知識を持っていただいておくと、前田さんの話の続きがわかりやすい。
     *
 結局、アップルがゼロワン・ショップの主要商品になってしまうんです。アップルの吸引力というのはすごいんです。大手町店でマックをさわっていた銀行の人がそれを買って会社に置いて使っていたら、そこから外商が成立したという例が典型的ですね。個人ユーザーから会社ユーザーへとつながっていくことが可能なのは、ゼロワン・ショップの背後には外商担当者がいて店頭販売と訪問販売をミックスした形になっているからです。20億円の契約をしてくれた会社の社長さんがゼロワンフリークだったという話もあります。
     *
 アンテナショップというと聞こえはいいが、既存のディーラールートを無視する直販網の拡大ということで強い抵抗があったのも事実。なにしろ落下傘方式という華やかな方法で一気に全国に100店を開店するというのだから刺激的だった。落下傘方式というのは店長ひとりを送り込んで、現地調達で短期間に開店までこぎつけてしまうという人材育成型突貫工事方式をいう。地元のディーラーが疑いの目をもつのは当然だが、そこは「セールス・イズ・サイエンス」を標榜するキヤノン販売のこと、ディーラーにも必ず利益をもたらすと社長みずからが解いてまわったという経緯があった。前田さんは言う。
     *
 マッキントッシュを売ってもらいたくて、既存の事務機ルートでディーラーさんにいろいろ働きかけたけれどもダメというところで、ゼロワン・ショップがマッキントッシュを売り始めるとディーラーさんたちも分かってくれる。刺激効果が非常に大きかったのです。それとゼロワン・ショップがオープンした地域では従来品目も含めてディーラーさんの売上も伸びている。ゼロワン・ショップが非常に広範な購買意欲を喚起するのに成功したということができるのです。もちろんマッキントッシュの売上も急激に拡大していきました。ゼロワン・ショップのおかげでマッキントッシュは普及の度合いを早めていったということができるのです。

【5】禁断のリンゴと「ナレッジワーカー」の叛乱

 マッキントッシュが草の根増殖していくありさまを、私はアップルコンピュータジャパンの使用事例パンフレットの制作にかかわって、具体的にいろいろ見た経験がある。とくに象徴的だったのはある大手広告代理店の場合。「CASE STUDY [6]――プレゼンテーションで活躍するMacintosh」(1991年7月)からその「草の根」的浸透のようすを引用しておきたい。
     *
「みんなで使えといわれたのなら、私たちのセクションではあまりなじまなかったでしょうね」
 マーケティングプランナーの渋谷さんのいうことには一理ある。誰でも使えるということと、自分の役に立つということは同じではないからだ。プロフェッショナルの道具においては、誰にでも使えるものより、誰かが使いこなしているもののほうが注目度が高くなる。
 そのようなプロフェッショナルたちの気質を見通してのことか、渋谷さんの周辺での電子化は“欲しいものを使ってみなさい”方式がとられた。各部ごとに同じ台数のパソコンが支給されることになったのだが、何を使うかは現場の要望に従うという方法だった。
 そのチャンスに渋谷さんが要求したのはMS-DOSのラップトップパソコンで、ワープロと数表をかなり自在に扱える、あるソフトウエアが強力な戦力になっていた。部内ではほとんどの人がそれを使ってみるまでになっていたたから1人1台の要望はその線に決まりそうだった。
 ところが別の部にマッキントッシュを要求した人がいて、そのため渋谷さんの部にも1台配給されてきた。Macintosh SE というコンパクト機に最高級のレーザープリンター、それに15-6 本のアプリケーションソフトというセット。
 30人ほどの部員が誰も使わないので、渋谷さんが使い始めてみるとなかなかいい。いままで下請けに出していた企画書のレイアウトを含めた入力作業を自分でやってみると、いろんなアイディアがフィードバックされてくることを発見した。
     *
 マッキントッシュが仕事を変え始める。
     *
 マーケティングプランナーは文字と同じぐらいたくさんの数字を書く。数字で語るときには表やグラフの形に“翻訳”するが、数字の資料から意味を読み取るためにも膨大な数字を読む。これまで、マーケティングの調査分析などでは外部の機関の大型コンピュータで処理してもらっていた。仕事を出して、戻ってくるまでに1週間というのが標準的なパターンになっていた。
 ところがマッキントッシュを使ってみると、簡単なものならそれが数分でできてしまう。データを何種類ものグラフにしながら、画面上で描いては消し、消しては描いてと、十分に検討を加えていくことができるのである。データをいろんな角度からの“姿”として見ることがきわめて高度に実現できるではないか。統計グラフの表現力も、これなら格段にアップする。
 数字を自分でいじり、文字も自分でタイプするようになると、もちろん仕事は増えたはずだが、なぜか残業は減ってきた。振り返ってみると、マーケティングプランナーの仕事の9割は、じつは“作業”なのである。企画書を書くために、数値データをグラフ化し、レポートをまとめ、プランを考えてはそれをフローチャート化してみる。そして、企画書の紙面を念頭に置き、もっともプランを反映できるレイアウトを考慮しつつ企画書案にまとめる。もちろんこれも、描いては消しの作業である。
 これまでは外部に出して清書させていた段階の作業にしても、自分でやっていくうちによりよいプランを生み出すための試行錯誤のひとつだという感じになってきた。
 マッキントッシュと対話しながら考えるということは、企画書の材料をブラッシュアップさせていくことにほかならない。やればやっただけ仕事が進むから、残業がなくなるのは不思議ではない。
     *
 そしてオフィスも変わった。
     *
 渋谷さんの部に最初のマッキントッシュが入ってから1年ちょっとで、グループ内のみんなの席にマッキントッシュが並んでしまった。マッキントッシュはネットワーク機能に優れているので、ふつうならこれを生かし、積極的にネットワーク構築してしまうところだが、ここではプリンターの共有化ぐらいでしかこの機能を利用していない。もったいない話である。
 その理由はここの仕事にある。業務の性質上、機密厳守を前提とするため、自由なネットワークでは困るのだ。もし間違って、データが紛れ込んだり、他のところに流用でもされようものなら、そこに生じる損失はネットワーク化によるメリットなどと比較できるものではないからだ。ここでは隣に座っている同僚との間でさえ、データを共有するという必要は、ほとんどない。
 かくして渋谷さんの周囲に短期間に増殖してしまった多くのマッキントッシュは、それぞれが自己完結している。しかし、社内情報やグループ内の管理業務に関しては、積極的にネットワーク化を考えはじめているという。
 すでに1年も使ってみると、プレゼンテーションのさまざまな技術をもっと追求したいという段階にも達してきた。プレゼンテーションのカラー化も大きな課題だ。道具としての能力を、ネットワーク化することで拡大できるという大きな魅力も控えている。ネットワーク環境を広げていけば、社外の協力者との間でチームを組んで、スピーディに仕事を進めることもできる。
 そういう新しい時代に向けて、マッキントッシュはさらに強力な作業支援マシンとなり、プランニングマシンとなる……と、渋谷さんは1年数か月のつき合いから主張する。
     *
 あくまでも道具選びの延長線上でマックと出会った人が、その周囲にマックを広げていく。その伝染力が猛威を振るったのが、32ビットパソコンとなったMacintsh IIシリーズの全盛期。ビジネスマシンとしてディスプレイ一体型のMacintosh SE/30、ハイエンドマシンとしてMacintsh II fx が登場した時期である。日本でもいよいよ「ナレッジワーカー」たちがマックという自分の道具の後ろから叛乱の狼煙を揚げはじめることになる。前田さんの話を聞こう。
     *
 マックが登場したときに「ナレッジワーカーのためのコンピューター」というのがキャッチフレーズでした。knowlege worker ですから「知識労働者」なんでしょうが、ニュアンスはもっと新しい。自分自身のオフィスを構えているようなデザイナー、弁護士、医師、会計士といった人々や企業の企画担当者が、自分で使うパーソナルコンピューターだというんです。そのデザインコンセプトが新しかったですね。
 パーソナル・プロダクトビリティ・ツールとしてオフィスに入りはじめたのはワープロ的なかたちです。スプレッドシートのエクセルがメインだった人もいるでしょうし、ワープロとスプレッドシートをマルチタスク環境で使うというのも常識的なところになりました。
 とくにエクセルでさまざまな数字を管理するようになると、エクセルがきわめて優秀なシミュレーションソフトであることに気づく。どのマネージメントレベルでも有効なシミュレーションが簡単にできるし、そのレポートを作るのも実に簡単。そうやってマックを使う「ナレッジワーカー」たちが企業内に独特のカルチャーを作りはじめるのです。
 それがじつは「ナレッジワーカーの叛乱」を引き起こすのですが、企業内の最も重要な数値データは大型の汎用機に入れられて事務管理が握っている。必要なときにはお願いして出してもらうのだけれど、時間はかかるし、的を射ないことも多い。エクセルでシミュレーションすることによる生産性の向上をマスターコンピューターが阻害しているという認識が高まってくるのです。汎用機と端末の関係はマスター(主人)とスレーブ(奴隷)ですからナレッジワーカーたちはスレーブから流してもらう情報では満足できなくなってくる。そこで「データを自動的に下ろしてもらえないか」という注文が出てくるのです。みずからをクライアント(客)と主張する流れですね。
 日本でちょうどそういう叛乱が起きはじめたときに、米国のトライデータという小さな会社がつくったMML(マイクロ・トゥ・メインフレーム・リンク)ソフトのNetWare1000の国内独占販売権を獲得します。その日本語化によってIBMのメインフレームが維持する基幹LANにマッキントッシュを簡単につなげることができるようになったのです。1989年のことです。
「マッキントッシュがIBM端末のIBM3270にもなります」といえるようになると、企業への一括導入という道が開かれてきたのです。
 劇的な一括導入というのは日産テクニカルセンターです。なにしろここには約3,000台が入って、全部IBMとつながりました。その3,000台のユーザーの2/3が自宅にマックを持っているそうです。多くの人は秋葉原あたりで買っているのでしょうが。
 こういうかたちでマッキントッシュは確実に企業内のナレッジワーカー用マシンとして定着して、今でははるかに自由で高度なLANを組めるようになっています。
     *
 マッキントッシュをIBMにつなげるだけでなく、すべてのコンピューターとつなげるというのがキヤノン販売の基本的な姿勢となったのは、キヤノン販売が日本有数のシステムインテグレーターとして、クレイ・リサーチ社のスーパーコンピューターも売るし、ワークステーションではヒューレット・パッカード社、サン・マイクロシステムズ社、ネクストコンピュータ社、シリコングラフィックス社、IBM社、デジタル・イクイップメント社の製品をとりそろえ、パソコンではIBM社、アップル社、デジタル・イクイップメント社、そしてキヤノン製と、百貨店状態になっていることからしても当然のこと。ネットワーク環境やメールシステムの構築はSI(システムインテグレーション)のいわばカナメであるからだ。キヤノン販売はアップル社のコンピューターを売りながら、それによってSIという領域でも世界の一流ブランドをぜいたくに選択できる特異な位置を占めることになった。このあたりはまだ一般にあまり知られていない次世代キヤノン販売の素顔ののぞく部分である。
 ところで、このレポートの最初のところで、前田さんは「アップルコンピュータに関する日本でのディーラーシェアはキヤノン販売が40-45%」と語っている。日本総代理店という地位から1ディーラーに落とされた結果が、良くも悪くもその数字になっているということなのだが、それでもおよそ2台に1台がキヤノン販売の販売網を通って売られていることになる。本当にそうだろうか? 前田さんに確かめておかなければならない。「なぜ、そんなに売れるのですか?」
     *
 売れる基本はチャネルです。キヤノン販売の販売チャネルは「12艦隊」などと呼ばれていますが、アップルではまずゼロワン・ショップ、それからBC(ビッグカスタマー)と呼んでいる企業ユーザーへの直販があります。でも台数ベースで全体の50%を占めるのは家電・量販店への大卸です。秋葉原などへのルートです。最近ではシステムディーラーへの卸も増えています。国産パソコンメーカー系列のシステムディーラーがキヤノンのプリンターを扱うようになり、さらにアップルもというケースがあります。
     *
 なんのことはない、ゼロワン・ショップでさわって秋葉原で買ったら、やっぱりキヤノン販売の前田さんのところで1台売れたということになりそうなのだ。チャネルを拡大するということに最善の努力をしてきたキヤノン販売の体質の強さが、アップルシェア40-45%という数字に結実しているということらしい。ちなみにキヤノン販売を除いた3大ディーラーは関東電子、ゼロックス、カテナだそうだ。
     *
 企業ユーザーではワンロットが40-50台というものがけっこうあります。さらに日本では1,000台以上というユーザーも多いのです。キヤノン販売の直販で、多かれ少なかれSI事業しての展開ですからサポートがいい。米国ではウインドウズの登場でアップルのブランドイメージが落ちてきたといわれますが、日本ではまだまだブランド・ロイヤルティが高いのです。私たちが頑張って守っていくべきところだと思います。

【6】リンゴはこれから……?

 ここまでで、キヤノン販売とアップルコンピュータの因縁浅からぬ関係は十分におわかりいただけたと思うけれど、米国の波が2-3年後に日本列島にやってくるという経験則からすれば、日本のマッキントッシュ人気もいずれは陰りが出てくるのではないかと考えるのが常識というもの。そこのところを前田さんにズバリと聞いた。
     *
 結論からいいますと、日本のパソコン市場では1社寡占という状態はもうないでしょう。IBM、富士通、NEC、アップルなどがそれぞれ20%あたりを目標に競い合うという状態になると見ています。OSはなんでもよくて、必要な仕事をしてくれてネットワークにつながれば何を使ってもいいわけです。
 ですからアップルは自分の強い部分で生きていけばいいのです。日本ではマックOSがDTPでとったシェアが80%。これが商業印刷の世界でプリプレス(電子製版)を制しつつあります。マッキントッシュが核になってDTPという概念を実現させたその延長が、いまでは商業印刷の領域に完全に食い込んでいるのです。マイクロソフトのウインドウズはビジネスマシンではマックOSと代替できるところまできましたが、その先はまだ当分マックOSの優位が揺らぎそうにありません。
 そしてそのプリプレスの能力が、じつはインターネットに象徴されるマルチメディアのデジタルパブリッシングに大きな影響を与えると見ているのです。インターネットとその先に実現される(インターネット技術による社内情報システムとしての)イントラネットとが急速に立ち上がってきています。そこでもマルチメディアの資質においてマックOSは優勢です。
 そういう実力に加えて、アップルユーザーのブランドロイアリティは日本では非常に高いので、当分は市場のパイが広がりながら、20%前後のシェアを獲得できると見ているのです。
     *
 最後にもうひとつ。かなり大きな地殻変動の報告がある。1996年2月21日の日刊工業新聞に次のような記事があった。いよいよマック・クローンの登場か? というところである。
     *
 米モトローラ(社長ゲイリー・トゥッカー氏)と米アップルコンピュータ(会長ギルバート・アメリオ氏)は20日、マックOSのライセンス取得について合意したと日米同時発表した。
 アップルからモトローラに現行のマックOS「7.5.x」および次期OS「コープランド」のライセンスを提供、モトローラは同OSを搭載したパソコンを自社販売するほかマザーボードをOEM(相手先ブランドによる生産)メーカーに供給する。
 また、モトローラがボード供給先にマックOSのライセンスを提供できるサブライセンス権を初めて盛り込んだ。
 これによりマック互換パソコンのメーカーが急速に拡大するとみられ、経営再建に取り組むアップルは競合企業の登場を覚悟のうえで“マック陣営”のシェア拡大を急ぐ形となった。
 モトローラは、アップル、IBMと共同で提唱したCHRP仕様パソコンを対象に、マックOSとセットの形で完成品やマザーボードを提供する。
 すでに日本、台湾などアジア地域の複数のOEMメーカーと交渉が始まっているという。
 また、モトローラ自社ブランドでもマックOS搭載CHRPパソコンの発売を準備しており、ウインドウズNTサーバとの組み合わせで企業向けにクライアント/サーバシステムを売り込む。
 アップルにとって今回の合意は、ラディウス、パイオニア、デイスターデジタル、パワーコンピューティングに続く5社目のマックOSライセンス先となる。
 従来は印刷向け高性能機種などアップル本体と競合しないライセンス先を選定していた。
 モトローラはサブライセンス権を持つうえボードとセットで供給することから互換機メーカーの拡大につながると見られ、アップルはライセンス戦略を大きく転換した形だ。
     *
「前田さん、マッククローン(互換機)の登場ということはどのように考えていますか?」
     *
 日本ではアップルに対するブランド・ロイヤルティが高いということから、マッククローンは価格が20-30%安くないと競争力を持たないでしょう。
 いずれにしてもアップル社は儲かっていたのでいろいろ手を広げてやっていたのです。アメリカ企業は3カ月ごとにSECに報告してこまかな軌道修正をおこないます。経営的には早め早めに手を打てる。最高経営責任者のアメリオはかなり健全な短期的方策と中期的方策とを発表していますから、アップルは巷でささやかれているほどには危険な状態ではないのです。
 そういうことよりも、開発中の新しいマックOSの「コープランド」がどれだけ先駆的なものになるか、そちらに大きな関心を寄せていただきたいと思います。当然のことながら、アップル社はここしばらく停滞していたOSで、先進性を大きく取り戻す作戦に出ることはまちがいないのです。

【付】Macintsh伸び率グラフのバックグラウンドメッセージ

 アップル販売の部門で生え抜きというとアップル商品企画部のアップル商品企画課長・牛島一嘉さん。なにしろキヤノン販売がアップル社と正式の関係を持つ前に、スモールビジネスコンピューター全般に視野を効かせた偵察隊として動いている。
 1983年の5月に米国のNCC(ナショナル・コンピューター・コンファレンス)に派遣されてアップル社のLisa(リサ)を見たのだが、衝撃を受けたのはコイン1枚で開けられて全部メンテナンスできるという明快なユニット化。帰国すると赤坂のアップルジャパンで存分にさわって、「すごいキカイ。だが売れない」という報告をしている。
 ただ、Lisaの後にもっとコンパクトなものを計画中という情報には注目した。それがMacintoshという名で登場して以来、牛島さんはずっとMacintoshとともにある。
 1ページ下段に掲げたグラフ(省略)は牛島さんの手になるものだが、Macintosh本体の売上台数と、Macintosh関連の売上金額の伸び率を一覧できる。たとえば台数についての具体的な数値は明らかにできないが、当初は国内市場の100%、現在は半分弱を占めているということから、日本におけるMacintosh市場の拡大のようすを表わしているともいえる。
 さすがに前年比200%というような倍々ゲームはないが、1987年は台数で198%、部門売上でも190%という伸び率を示している。また1990年と91年を見ると本体台数でそれぞれ184%、188%という大きな伸びを示しているが、部門売上では167%と140%だから状況がいくらか変わってきたことが分かる。そして現在、1996年の予測値が台数で148%の伸びとある。Macintoshは幾分の変質を内在しながら、まだまだその成長性を弱めていない、というふうに見える。
 牛島さんにはMacintoshの背景を全体的にいろいろ教えていただいたので、ここではその中からグラフの背景となるいくつかの牛島インプレッションをいくぶん筆を加えてまとめておきたい。

 1984年5月よりMacintosh 128kB(英語版)の発売開始。画面表示用としてLisaで初めて搭載されたクイックドロー(ビットマップ表示を可能にするシステム)がMacintoshではもうファームウエア(ハード側に組み込まれたソフトウエア)化されていた。開発期間としても開発能力としてもすごいと感じた。

 1986年下期から日本語OS・漢字Talk1.0を搭載し、MS-Excelを日本語化して出荷。アップルジャパンとキヤノン販売のバックアップで開発されたエルゴソフトの日本語ワープロ「EGWord」(イージーワード)はすでに前年の1985年に発売されており、ジャストシステムの日本語ワープロ「太郎」(後に「一太郎」)とともに日本経済新聞社の年間優秀製品賞を受賞している。日本語システムと日本語ワープロソフト、日本語表計算ソフトがそろって、日本のビジネス市場に導入できるものとなった。これが1987年に対前年比198%と大きく伸びる最大の要因となった。Macintoshが日本のパソコン「マック」になった年。

 1987年にアップル関連の売上が190%という高い伸びを示し、続く88-89-90年でもその伸び率が維持されたのは、高額な商品が売れたということ。1987年上期に発売されたMacintosh IIに始まるIIシリーズが従来のビットマップ表示に加えて「フルカラー表示」を可能にしたため、デザイン処理のできるパソコンとして熱狂的に支持された。フルカラー表示のためには高価な大型カラーモニターとこれまた高価なビデオカードが必要であったために、セット価格は200万円以上にもなった。ソリューションビジネスとしてMacintoshが圧倒的なパワーを発揮したのはこの時期である。

 1990年と91年に本体台数が再び伸び率を上げているが、もうこの時代になると要因はかなり複雑だ。ここではその要因のうち、主なものに触れておきたい。
★現在日本でMacintoshがシェアの8割を押さえているというDTP(本格的な印刷業務に関わるプリプレス分野も含む)のプロフェッショナルな基礎を立ち上げたのがこの時期にあたる。キヤノン販売では1988年の下期にDTPの生みの親ともいえるページレイアウトソフトPageMaker 2.0を日本語化して発売、89年の上期になると、日本語ポストスクリプトを搭載したLaserWriter NTX-Jが登場し、下期には漢字Talk 6.0によって日本語処理が大幅に機能アップした。そして1990年になるとDTP業務に圧倒的なパフォーマンスを発揮するMacintosh IIfx(145万8000円〜)が登場。グラフィック処理に最適な仕様を整えてMacintoshシリーズの頂点を記した。この年、PageMaker 3.0Jの出荷は300%という脅威的なものとなった。Macintoshは日本ではこのハイエンドDTPのシステムをになうものとしていよいよ強力な存在となっている。
★この時期にグラフィック処理ソフトの傑作が2つ登場している。ポストスクリプトというページ記述言語によって出力解像度の選択を自由にしたアドビ社によるものだが、画期的な曲線表現を実現したAdobe Illustratorと写真のレタッチを自由自在にしたAdobe Photoshop。第一線のデザイナーたちがパソコンを導入する大きな動機づけとなったのはこの2つのアプリケーションソフトであったかもしれない。
★90-91年の台数の大幅アップに大きな影響を与えたのは89年に発売されたMacintosh SE/30だった。これは86年のMacintosh Plus、88年のMacintosh SEに続くクラシックタイプのディスプレー一体型だが、32ビットパソコンのMacintosh IIシリーズをコンパクトにまとめあげたもの。小さくして性能が落ちたかといえば逆で、9インチモニターは階調を省いた2値にして表示速度を上げた。メモリーの拡張性も32MBまでと、当時としては軽自動車に大型エンジンを積んだようなハイパワーマシンだったから、ビジネス用のデスクトップマシンとしては理想のものと考えられた。これが数十台、数百台、そして千台規模の一括導入を実現していく。Macintoshがビジネスの最前線に進出していくきっかけとなった名機にしてキヤノン販売がMacintoshを企業ユーザーに売り込む大きな推進力となったもの。
★もうひとつ、1990年に発売されたMacintosh classicが新しいエポックを現出した。家庭で使える低価格機として19万8000円で登場したこのMacintoshは、こどもたちの手に触れるものとなって、教育マシン的資質のよさを順次理解されていくのだが、これはすなわちMacintoshのリンゴがコンシューマーブランドとして日本に浸透する先駆けとなった。1991年からキヤノン販売は秋葉原や日本橋(大阪)に販売ルートを持つ電子機器事業部でMacintoshの販売を本格的に展開するようになる。ゼロワンショップでさわって秋葉原で買ったらやっぱりキヤノン販売から出荷されたもの、という状態が生まれたのはこのときから。キヤノン販売はMacintoshを売りながら、日本的なマーケットを作り上げていくことになる。世界最大のアップルディーラーが日本にあるのは、アップルとキヤノン販売がともにMacintoshによって成長してきたという歴史的必然による。

 90年代のMacintoshは、次の大きな飛躍のために地道なインフラ整備を行なってきた。92年下期に新しいアーキテクチャーのOS・漢字Talk7が登場し、94年上期から登場したPowerPC搭載のPowerMacintoshは95年下期までにほとんどのPowerPC化を完了。パーソナルコンピューターのRISCチップ化という強力なステップアップをおこなった。インフラの大胆な改善がまだ十分にその効果を発揮できていない段階で競争力を失うことがなかったのはきわめて重要なことである。

 このPowerMacintoshの資質が本当に評価される次世代OSのOS8は1977年の夏に英語版が出荷され、続いて日本語バージョンも登場する。OS8では完全なマルチタスクを実現して、アプリケーションのひとつにフォールトがかかっても全体に及ばないというタフネスを身につける。もうひとつバクダンの元になっていたシステム拡張のためのINITもアプリケーションのひとつとして扱うようなシンプルな体質に変わる。

 こうしてMacintoshは繊細さを失わずにタフネスを獲得するのだが、このOS8はパソコンベースの基幹業務処理用OSであるWindowsNTやUNIXコンピューター用のSolaris(ソラリス)といった競合システムと同じ土俵にのっかって、PPCP(パワーPCプラットホーム)の主要OSとして動くようになる。一時的にはマックOSを搭載したMacintosh互換機(マック・クローン)が出回ったりはするにしても、業界標準システムとしてのマックOSはしかるべき分野を占めることになると見る。個々のマシンが大胆に小型化するNC(ネットワークコンピューター)の時代になると、OSのあり方自体が現在とは大きく違うものになる。マックOSのオープン化が2年ぐらい遅かったかなという印象はあるけれど……。

 Macintoshの現行機種の中で、ひょっとするとエポックメイキングとなるのはPerfoma5410/5420のPerfoma5400シリーズではないかと思う。CPUのPowerPCは最初にPowerPC601が出たが、今年中ぐらいには初代の601が消えて第2世代であるPowerPC603とPowerPC604になる。Performa5400シリーズはPowerPC603の機能を本格的に生かせる64ビットバスを採用して、きわめて高速になった。PowerPC601の時代に完全に幕を引くマシンと位置づけられるのではないか。アメリカではこのPerforma5400シリーズと同じアーキテクチャーのPerforma6400がなんとタワー型で登場している。15インチモニター一体型のPerforma5400シリーズとは外観はまったく違うが、内部は兄弟機。Performa5400/6400シリーズは大きな潮流を作り出すかもしれない。


★トップページに戻ります