キヤノン通信――72号 知ってて知らないキヤノン・ロゴの話──1997.10(入稿原稿)


【キヤノン通信 72号 1997.10】

【特集】知ってて知らないキヤノン・ロゴの話


●グラフィックデザイナーの重鎮

 その人の名を明かすのはちょっと待っていただいて、現在82歳の現役グラフィックデザイナー「Iさん」としておきたい。
 Iさんが1995年(80歳)にまとめた作品集の中に「私のデザイン最長不倒距離」という一文がある。それによるとIさんの仕事で一番長く続いているのは三共株式会社の医師向けPR誌『ステトスコープ』(聴診器)の表紙デザイン。月刊で43年間続いて500号。「発刊当時38歳だった私は80歳になった」とある。これは1958年にADCを受賞し、1984年にブルノ国際デザインビエンナーレ賞を受賞しているという。
 それに次ぐのがキヤノンのトレードマーク。今回の主要テーマなのでそのまま引用しておくと、「CANONのロゴマークの使用年数40年(1955年ポスターとともにニューヨーク近代美術館に永久保存)。最近CIばやりだが、社名変更のない限り今後も使用される様である。」
 ちなみに第3位は39年目の三菱銀行のカレンダーデザイン。第4位は36年で600冊を数えるカッパノベルスのカバーデザイン。
 じつは「I」さんこと伊藤憲治さんは推理小説のカバーデザインでは現在でもバリバリの第一線。あちこちでその名を目にするはずだ。小松左京の『日本沈没』はデザインがよかったからベストセラーになったという話があるそうだが、元をたどると松本清張が「伊藤憲治さんのカバーだと1〜2割多く売れる」といっていろいろな作家に紹介してくれたことに始まるという。なんと推理小説のカバーデザインが1,000冊を突破しているという。取材中にも森村誠一の新しい本の打ち合わせの電話が入った。
 伊藤憲治さんの活躍についてはあとでまた紹介したいが、じつはキヤノン・トレードマークが伊藤さんによってデザインされたということを知る人が、キヤノングループの内部でも少ないということをある方面から指摘された。
 それが今回の取材の発端だったが、調べていくうちに、単にその経緯が忘れられたというわけではなくて、キヤノン・トレードマークの生まれと育ちには伊藤さんの手を経たという認識を薄くする要因も含まれているということがわかってきた。キヤノンブランド創立時に、すでに「Canon」のロゴタイプは成立していたともいえるからである。と同時に、日本のトップデザイナーであった伊藤憲治さんの手によって、世界に通用し、21世紀にまで通用しそうなきわめて独創的なロゴタイプに生まれ変わる。
 キヤノン・トレードマークは昭和10年(1935)6月26日に商標出願した時点から、すでに62年間脈々と生き続けているともいえるし、ロゴタイプを数多くデザインしてきた伊藤さんの仕事の中でも代表作というべき特別の存在であるという相互に微妙な関係をかかえつつ、驚くほど長寿を全うしてきた――ということが明らかになってきた。伊藤さんの手を経ることでキヤノン・トレードマークがインターナショナルな存在になるという陰にはキヤノンの前田武男元社長の存在も、直接の担当者として浮かび上がってきた。

●キヤノンブランドの確立

 トレードマークに関するキヤノン側の正式の記録は1987年に刊行された『キヤノン史――技術と製品の50年』(50年史)にある。
 それによると、キヤノンの前身精機光学研究所は和製ライカをつくりたいと願ったカメラ少年・吉田五郎の夢の実現であった。1930年代に映画用映写機の修理・改良という事業で成功していた彼は、30歳前後の青年実業家として頻繁に上海を往復して製品の買い付けや部品の調達をしながら、映写機の製造という領域にまで手を広げていた。50年史にはその吉田五郎の言葉が紹介されている。
「しゃくにさわるなあ。日本人はこれもできないのか。どれを見てもそうなんですよ。ライカでもなんでもみんなドイツ人のところに金を持ってっちゃうでしょう。
 何でもいいからバラバラに分解しちゃってね、一つ一つ眺めて見ると、まさかこの中にはダイヤモンドも何も入ってやしないやね。真鍮とアルミと鉄とペルシャゴムなんかでもって合成されてるもの。一つにまとまると、ものすごい高い金で売れるんですよ。それで、そいつがしゃくでね。そして一生懸命バラバラにして眺めて見て、一つずつ日本でつくってみると、できるんですよね。」
 吉田のこの夢を応援したのが義弟の内田三郎だった。内田は1899年(明治32)の生まれで、吉田より1歳年長だが、吉田の妹と結婚していた。東京帝国大学法学部を出て山一証券にいたが、ベンチャービジネスとしての高級カメラ製作に踏み込んでいったのだった。
 その内田三郎が山内証券から引き抜いてきた腹心の部下が前田武男。戦後の1969年にキヤノンカメラ株式会社がキヤノン株式会社になったあと、1974年に御手洗毅を会長として2代目の社長になるが、まずは「吉田の助手兼事務担当」であったという。なお前田社長は在任中の1977年に死去、3代賀来社長となる。
 精機光学研究所が設立されたのが1933年(昭和8)の11月で、翌年になると機械設備も整い、所員も増えていった。設立後約半年後の6月には『アサヒカメラ』に「潜水艦は伊号、飛行機は九二式、カメラはKWANON、皆世界一」という広告が掲載された。カサパF3.5レンズ付きで200円、テッサーF3.5レンズ付きで285円という価格も表示されている。
 1934年(昭和9)11月20日号の『日本写真興業通信』には次のような記事があるという。
「いよいよ本月末第1回製品を市販することとなつた、カメラの生命と見るべきレンズは日本光学工業で製作したF3.5カサパレンズを使用し、自動焦点装置、金属シャッター其の他ライカ・コンタツクスの両カメラより採長補短して両者の市価約550円の半額以下250円で売出す筈で、尚同所の現在能力は1ケ月30台位で、ライカ・コンタツクスと覇を争ふこととなつた。」
 しかし、このKWANON(カンノン)カメラは市販されなかった。
 そこで約1年半後、同じ『日本写真興業通信』の1936年(昭和11年)2月1日号。
「今回突如近江屋写真用品株式会社から発売されるに至つた『ハンザ・キヤノン』は、国産カメラの陋習を打破し、国産品としても斯くの如く優秀なる高級カメラの製作が可能であると云ふことを立證し、吾国精密工業、及光学工業のために萬丈の気を吐いたものと云へるものである。」
「ハンザ・キヤノン」カメラは近江屋写真用品のブランドであるHANSAを頭につけて、販売の独占権をあたえる契約で発売された。精機光学研究所の名前は広告にも載っていないが、CANONブランドは1935年(昭和10)6月26日付けで商標出願されている。出願人は内田三郎で、これが吉田五郎のKWANONから内田三郎のCANONへの変更を確定させている。
 ちなみに精機光学研究所は1936年に目黒区中根に移転して日本精機光学研究所となり、1937年には精機光学工業株式会社となっている。創業者の内田三郎が代表取締役となり、取締役には近江屋写真用品の野呂社長が加わっている。また監査役に顔を出している御手洗毅は婦人科の医師だったが、内田の友人として資金援助をして大口株主となっていた。1938年に内田がシンガポール司政官の民生担当顧問という公用で日本を離れるに当たって御手洗が代表取締役となり、以後会社経営の中心となっていく。
 話を戻すと、「ハンザ・キヤノン」カメラの発売に先立つ1934年(昭和9年)の夏に、内田三郎と腹心の部下・前田武男の2人は日本光学工業を正式に訪ねている。レンズの製造と、ライツの距離計連動機能の特許に抵触しないレンジファインダーの開発・供給を依頼したのである。
 巨大軍需企業であった日本光学工業(現在の株式会社ニコン)と六本木の高級アパートの一室に収まるベンチャー企業との協力が実現した背景には、もちろん必然があった。内田三郎の兄・内田亮之輔が海軍士官で日本光学工業の監督官であったから、同郷の堀豊太郎という人物を弟に紹介したのである。堀豊太郎は日本光学工業の支配人を退いて取締役顧問の地位にあったが、平和品調査を担当して、高級レンズの民生向け転用などを探っていた。軍需不況への対応策として民生品への積極的な進出を考えていた日本光学工業の協力を得られなかったら、キヤノンカメラは誕生しなかったかもしれない。
 そのことを象徴するのが吉田五郎の退所だった。研究所設立からわずか1年後の1934年の秋には精機光学研究所を退いて、京橋に吉田研究所を開き、映画用撮影機材の改良・修理を続けることになる。
 カメラ少年だった吉田五郎のめざしたカメラはどうもあくまでも「和製ライカ」の域にとどまるもののようだったが、ライカの特許に抵触せずにそれを実現するには模倣を超える技術力が必要だったということのようだ。KWANONカメラという吉田五郎の個人的な夢から、日本の最先端技術によってドイツに追いつこうとする内田三郎の起業家精神へと、研究所は大きく飛躍していったようである。CANONというブランドの誕生を50年史はこう書いている。
「内田は、カンノンに代わるブランドとして『キヤノン CANON』を決定した。CANONには判断の基準、聖典等の意味があり、正確を基本とする精密工業の商標にふさわしいものである。その元はカンノンにあることは、発音からも否定できない。
 この名称は昭和10年(1935)6月26日付けで『写真用ノ機器、器具及其ノ各部』を指定商品とする商標出願が行われ、同年9月19日に登録されている。出願人は内田三郎で、登録番号は第278297号である。
 それにしてもカンノンからキヤノンへの交替は語感が似通っているせいか、いかにもスムーズで、第三者にも違和感を与えない。結局、内田のこの決断がブランドの命運を決したといえる。そして初期のCANON文字は内田の山一証券時代の部下であった志村和男がデザインしたが、志村はライカの書き文字風を避け、当時のコンタックスの書体を意識して独特のC書体をつくり出した。」
 このときのロゴタイプはカメラのボディ上部、一般に軍艦部と呼ばれる部分に刻印されることを前提にしているので文字は細い。1935年に商標登録された文字が、彫刻機の原板に彫られるなどして、1937年ごろには彫刻文字として完成していたようである。図版を見ていただくとわかるが、素人目には現在のキヤノン・ロゴの細字というふうに見えるほど、骨格はそのままである。

●ニューヨーク近代美術館に永久保存

 1955年(昭和30)に写真家のエドワード・スタイケンが来日した。いまでは写真家としてよりも、壮大な写真展『ザ・ファミリー・オブ・マン』の企画構成者として知られるが、それはカメラマンを引退した彼が1947年以降ニューヨーク近代美術館の写真部長として企画した多数の写真展の中の、もっとも大規模なものとなった。『ザ・ファミリー・オブ・マン』はちょうどその年にニューヨーク美術館で開催され、日本では翌年3月に日本橋高島屋で開催されるので、その打ち合わせでの来日であったのかもしれない。
 そのスタイケンにデザイナーの伊藤憲治さんは会っている。
「麻布の国際文化会館に呼ばれたんですね。それでキヤノンのポスターを見せたら、このロゴマークには日本の書の精神が入っているといわれてね、ニューヨーク近代美術館の永久保存ポスターになってしまった」
 伊藤憲治さんとキヤノンの関係が始まったのはその前年、1954年のことだった。「前田さんと志村さんと、2人で訪ねてきました。それでロゴマークをつくったら、御手洗社長に呼ばれてね、『顧問を命ず』という紙切れをいただいた。顧問料というようなものはいただかなかったみたいですけどね」
 顧問料がどうなったのか伊藤さんもあまり問題にしていないのは、次々に仕事が発注されたからのようでもある。1956年には『タイム』『ライフ』などへの英文広告のデザインを伊藤さんがやることになり、8月発売になった完全ダイカストボディのキヤノンVT(5T)型カメラを扱っている。
 そのVT型カメラのスマートな箱も伊藤さんのデザインだが、パッケージデザインはその年のキヤノン初の8ミリシネカメラ・8Tから、1961年の大ヒットカメラ・キヤノネットまで続いている。
 要するに、伊藤さんはフリーランスのデザイナーながら、キヤノンのグラフィックデザイン系の仕事を一手に引き受けることになったのだった。それが『顧問を命ず』というお墨付きの意味であったのではないかと考えられる。
 伊藤さんがそのころのことをあまりしっかり覚えていないのは、たぶん本当のことだと思われる。我々の取材に当たって出来事の正確な日付を確認したかったが、ごく簡単な日誌が残っているだけのようだった。
 そこで50年史の方を見てみると、こういう記述になっている。
「現在の書体は戦後になってから志村が前田常務(当時)に推薦した著名なグラフィックデザイナー伊藤憲治が完成したものである。その書体も志村が創出したC文字が基本となっており、創業時代の工夫が現代にまで生きている一例として輝いている。この新しいデザインの商標は昭和30年(1955年)から徐々に使われ出した。」
 つまり伊藤憲治さんに新しいキヤノン・ロゴの依頼をしたのは、最初のロゴをつくった当事者たちだったということになる。
 しかし伊藤さんが、単なるリメークでお茶を濁したという気配はまったくない。そのあたりのことを考えるには、伊藤憲治というデザイナーが当時どのような活躍をしていたかを知っておく方がいい。

●花形デザイナー

 伊藤さんが南方戦線から九死に一生を得て復員したのが1946年6月。31歳のときだった。戦前からすでにデザイナーとしての仕事をしていたが、それは月刊誌『栄養と料理』の表紙デザインであり、中央公論社の書籍ポスターであり、月刊誌『飛行日本』の表紙デザイン、あるいは三越本店の広告デザインや雑誌のカット類であった。
 戦後は『栄養と料理』の表紙デザインが復活するが、1950年から朝日新聞社の『婦人朝日』の表紙デザインがセンセーションを巻き起こした。『伊藤憲治・デザインの華麗多彩』には飯沢匡が一文を寄せている。
「伊藤氏というと私は反射的にピエール・ロワというシュールレアリストの画家を思い出す。この人はキリコと共に超現実派を創造した人でキリコがイタリアからパリに来た時、自家に泊めて助力した。それなのに現在ロワの業績は忘れられてしまっているのには私はたいへん不服で、何とかして復権をと考えている。(中略)伊藤氏は私が『婦人朝日』編集長時代に表紙をお願いしたら写真でロワ風の構成を考えて下さった。私は大いに伊藤氏の才能に感服し、同時にロワ支持者を一人発見した喜びに浸った。」
 このときのロワ風写真というのはカラーフィルムのない時代なのでモノクロ写真に人工着色で印刷したもので、撮影用の小道具類は伊藤さんの手作りのものが多かったという。
 この『婦人朝日』の表紙原画を中心にした個展「伊藤憲治作品展」が1951年の2月に銀座の資生堂ギャラリーで開催されたが、入口に人の列ができる盛況で、それが日本のデザイナーの戦後初めての個展となった。
 写真をグラフィックデザインの基本的なエレメントとして使いこなすのが伊藤憲治さんの主要な作風となっていて、推理小説の表紙デザインは現在でも4×5判のポジフィルムで出稿される。これまではカメラワークとフィルムプロセス上での合成という名人芸で作り上げてきたが、現在ではマッキントッシュ上であらゆることができるようになったので、作品は最初のイメージにうんと近づくようになったという。そういう意味では、伊藤憲治というデザイナーの、写真と一体化したグラフィックデザインはデジタル化したことによってここ数年飛躍しているようである。
 同じ1951年に日本宣伝美術会が発足する。原弘、河野鷹思、橋本徹郎、高橋錦吉、亀倉雄策、早川良雄、山城隆一、栗谷川健一など、草創期のメンバーと親交を結ぶことになり、日宣美展には1970年の解散まで毎年出品する。
 写真でもその年、小西六(現在のコニカ株式会社)とアメリカの『ポピュラーフォトグラフィ』誌共催の日米写真コンテストの広告写真部門で金賞以下12個のメダルを独占し、その賞品群がトラックで届けられたという。
 翌1952年から三共株式会社の医師向けPR誌『ステトスコープ』(聴診器)の表紙デザインが始まり、銀座和光のショーウインドウ・ディスプレイが始まる。和光の仕事について伊藤さんは『伊藤憲治・デザインの華麗多彩』の年譜のところでこう書いている。
「何しろ銀座4丁目の角、日本一の場所で日本一大きいショーウインドウのデザインをする、正にデザイナー冥利につきる仕事だった。しかし施工費は余り掛けられず、お陰で少ない経費で効果を上げるベテランになった。以来8年間、その後も断続的にデザイン。」
 キヤノン・ロゴをデザインした1954年には、ほかにも大日本印刷、文化放送などのロゴタイプをデザインしている。
 しかし華やかな仕事となったのはネオンサインだった。伊藤さんはネオンサインのデザインで一時代を築くことになる。この年の銀座鳩居堂屋上のナショナルの星形ネオン塔はアクリル板で包んだソフトタッチで黛敏郎の曲とシンクロナイズするものだった。
 銀座のネオンだけを取り上げると、1957年の三共のネオン塔は全面間接照明という大胆な手法をとったし、1962年のテイジンのネオンでは乳白色のアクリル板に隠した三原色のネオン管で七色の色彩を演出した。そして1964年に登場したNECのネオンは立方体の3面に合計663個の丸窓を開け、白色ネオン管を入れてスピーディでダイナミックな点滅、という手法をとった。
 こうして数寄屋橋から銀座4丁目を経て、築地まで、ショーウインドウからネオンサインまで一人のデザイナーの作品が並んで、仲間内では「伊藤憲治通り」と呼ばれていた。
 伊藤さんはまた、1954年にアトリエと自宅を四谷に構えたが、雑誌の『建築文化』や『新建築』は「伊藤憲治設計のアトリエとすまい」といった記事を載せている。その新しいアトリエにキヤノンカメラの前田常務と志村和男が訪ねたのだった。
 当時、伊藤憲治さんは「クライアントのトップに会うのがデザインの基本」と考えていて、「ふつうは社長が来た」のだった。時代の寵児だったからというわけではないが、依頼された仕事において自分を通すということが真骨頂であった。だから伊藤憲治というデザイナーに頼めば伊藤憲治流につくられるということが志村和男という人にわからないはずはなかった。
 そのとき、いわゆる「キヤノン文字」で、という注文がつけられたという記憶は伊藤さんにはまったくない。「ロゴには2カ月ほどかかったはずです」と伊藤さんはいうが、それだけ手元で寝かせた結果、志村和男の「キヤノン文字」の骨格をそのままに、インターナショナルなセンスのロゴタイプに作り上げたといえる。今回伊藤さんにそのあたりのことを確かめたが、「キヤノン文字」を踏襲して、なお自分の愛着ある仕事として完成させたことを、現在も誇りに思っているという。

●トレードマークの守護神

 いま、名刺に「総合デザインセンター」という所属を記しているキヤノンの奈良謙さんはデザイン研究所主席で定年を迎えたデザイナー。いまは後進の指導に当たっている。歳は63歳で、Canonブランドより1年早い1934年生まれ。キヤノンカメラへ入社した1961年には、カメラには従来型の「Canonマーク」が彫られていたが、伊藤憲治さんデザインのロゴタイプもすでに使われていたという。
 工業デザイナーとして入社した奈良さんだが、学生時代にアメリカから来たデイブ・チャップマンとジェイ・ダブリンという2人のデザイン研修会に2週間参加していて、コーポレート・アイデンティフィケーション(CI)という概念をたたき込まれていた。
 その奈良さんらしいエピソード。カメラ会社の入社面接で「私、カメラのデザインは苦手です」と言ってしまった。正直といおうか、ケンカ好きといおうか。「おかげでカメラのデザインは1度もまわってこなかった」というラッキーボーイになってしまう。
 じつはこの時期、キヤノンカメラは新しい分野に意欲的に進出していた。1963年には胸部検診用にX線間接撮影用ミラーカメラ(CXM-70)がキヤノンによって国産化される。1964年には世界で最初にテンキーを採用した卓上電子計算機(キヤノーラ130)が登場、「電卓」の先駆けとなる。
 また1965年には、欧米のメーカーに独占されていた16ミリシネカメラに高性能ズームレンズと高精度自動絞り機構を備えたニュース取材用カメラ(スクーピック16)がデビュー。続く1966年には電子複写機開発のEプロジェクトが米国RCA社のパテントによるエレクトロファックス方式ではあったが、最初の高画質乾式複写機(キヤノファックス1000)を製品化する。
 カメラ嫌いの社内デザイナー奈良さんは、これら新分野のデビュー製品を次々とデザインした。なかでも世界最初のテンキー電卓「キヤノーラ130」はキヤノン・トレードマークのポスターに続いてニューヨーク近代美術館に永久保存された。
 奈良さんが入社したころを境に、伊藤憲治さんとキヤノンの関係は疎遠になっていったから、ふたりの出会いは一度もなかった。広告代理店の力が大きくなって、大きな仕事は制作会社に落ちていくような時代になる。伊藤さんのキヤノンの仕事はライトパブリシティに移っていったのだった。キヤノン同様ポスターからパッケージまで一手に引き受けていたアサヒビールの仕事もデザインセンターに移っていった。そういう流れの中で、伊藤さんはあくまでも一デザイナーとしてできる仕事を続けていったのだった。
 1964年の東京オリンピックをはさんで、時代は大きく動いていった。キヤノンカメラ株式会社も、1969年にはキヤノン株式会社となる。
 その大きな転換期に、社内デザイナーの奈良さんは仕事に恵まれた10年を過ごしたわけだが、1971年からは宣伝部に移った。
 当時、伊藤憲治さんのロゴタイプは、もちろんあった。伊藤さんのロゴタイプを再現すべくエンジニアが線を入れた指示書もあった(〓ページ参照)。これは「n」の字の文字幅を1として「Canon」の文字のサイズとバランスを指示したものになっていた。今回伊藤憲治さんに確かめてみると、伊藤さんはデザインしたロゴタイプに指示書をつけて出したというからそれにもとづくものかもしれないが、よくわからない。伊藤さんの倉庫をひっかきまわせば「出てくるはず」ということなので、どうしても明らかにしたいのであれば家捜しすればいい。
 伊藤さんはロゴタイプをつくったが、色は指定しなかった。現在のCIデザインのように、何から何までというのではなくて、商標ひとつのデザインだった。伊藤さんのほうでもトータルデザインというふうにはしなかったが、ロゴタイプの応用例としてポスターを自主制作したのだった。(〓ページ参照)
 ひとつは黄色の地に緑の「C」を大きく取り出して、それを人の目とカメラのレンズに印象づけた上で、「Canon」と「CAMERA」を並べている。「Canon」の「C」は赤、「anon」は黒で「CAMERA」がグレーという色づかいになっている。
 もうひとつは「Canon」ロゴを5つ大胆に並べたもので、「anon」はこちらも黒。アタマの「C」に色がついている。
 5つの「Canon」はそれぞれ役目を持っていて、「C」が赤のものはCAMERA、ブルーがLENS、濃いベージュがFLASH UNIT、黄緑がACCESSORY、そしてグレーがCAMERA CO.,INCとなっている。それは、パッケージデザインに連動する色分けをイメージしているようにも見えるが、あまり厳密ではない。あくまでも自主制作のポスターなのでポスター表現としての色づかいと見るのが妥当だ。
 ともかく、この「KEN.」という書名入りの自主制作ポスターがエドワード・スタイケンによってニューヨーク近代美術館に持ち帰られて、キヤノンのロゴタイプが永久保存されることになったのだ。
 そして1971年、ロゴタイプをひとつポンと与えられただけの宣伝部は、そこに移ってきた奈良さんには居心地の悪い環境に思えた。ロゴタイプはあっても使い方は自由だったから、レインボーカラーにするものもあれば、大文字のC一字でシンボリックに表現しようとするものもあった。
「これはまずい。トレードマークは企業の顔だからハートがなければ、と思いました」
 奈良さんは持ち前の独断専行を発揮する。1972年12月10日付けで、「How to Use Canon Trade Mark」というA4判1枚の文書を英語と日本語でつくってキヤノンの全事業所と各国の主要代理店に送りつけてしまった。宣伝企画課課長代理のときだった。
 奈良さんは穏和な人柄に見えるが、どう考えてもケンカ早い。このときのことをある社内誌にこう書いている。
「当時の宣伝部にはマークの取り扱いに限らず、およそ制作に関するルールがなく、すべて野放しの状態であった。それぞれの人がその時の気分と都合で好きなやり方をしていた。だから色とりどりのキヤノンマークが存在していた。出入りの一流プロダクションでさえも、CIというものには無関心であった。
 宣伝部新参者の私は『いったいこれ、どーなってんの。これはおかしい。まるで三流会社のやり方じゃないか!』
 日に日に怒りとムカツキがこみ上げてきた。そして1日でも早くCIポリシーとしてキヤノンマークの統一をしなくてはならないと決心したのだった。」
 その「How to Use Canon Trade Mark」によって、キヤノン・ロゴは「白地に赤」という新しい決まりを与えられたのである。
「米国での反響が大きかったんです。やっと日本からデザインルールが届いたというわけですね」
 社内では光学系の技術者たちがブルー系の方が認知しやすいという意見を言ってきたそうだが、奈良さんは赤をひとり決めしていた。上司には「日の丸です」といい、あるいは耐久年数の長いネオンサインではキヤノンは赤字を使っているものが多いという調査もした。「赤ちゃんが産まれて最初に認知する色だそうです」と言っていたら、宣伝部では「白地に赤ちゃん」というあだ名がついてしまった。
 白地に赤のキヤノン・トレードマークは海外から一気に普及していったのだったが、この後、奈良さんはキヤノンのロゴタイプの描き方をグリッド表示に改める。看板のような大きな文字を描くときに再現性がいいという。と同時に、Canonの「C」と「a」と「o」の字をベースラインから少しはみ出すまで下げて、ベースラインがそろって見えるように視覚補助を加えた。
 つい最近、奈良さんは伊藤憲治さんに初めて会う機会を得たのでそのことを事後報告したのだが、「よくやってくれました。これでいいんです」という了承を得られたそうで、昔年のつかえがひとつおりたようだったという。
 奈良さんが孤立無援で発作的にやってしまったキヤノン・トレードマークのルールづくりは、今では『キヤノンマークハンドブック』というパンフレットになっている。「キヤノンレッド」とよばれる赤色は、以前はマゼンタ100%+イエロー100%のいわゆるキンアカだったが、現在ではそれにスミ(ブラック)を5%加えるという指示になっている。そして「Canonマークは、原則として白地にキヤノンレッドで表示する」と明記されている。また「Canonマークの周囲には全長の1/10の幅の余白を確保しなければならない」とも明記されて、白地も十分に確保されている。
 その結果、現在ではキヤノンの建物は白が多くなり、購入する車も白が原則というところまで、「白地のキヤノン」という意識が浸透してしまったという。

●キヤノン・トレードマークが生き続けるとき

 キヤノンのシンボルマークが「白地に赤」であるはずなのに、見回すと、その原則から大きくはずれているものがけっこう目につく。じつは『キヤノンマークハンドブック』には「キヤノンレッドが基本」としながら、「無彩色(黒・グレー・白)でも表示できる」という第2原則が付記されている。そしてこの第2原則は製品に付けられる「Canonマーク」ではなかなか重要な役割を果たしているようなのだ。「仕事中に目に入る製品のCanonマークは赤くしない」という原則が立てられているからである。見回してみるとデスクトップにあるキヤノン製品には無彩色の「Canon」が付けられている。
 その原則破りの原則を作ったのも奈良さんだった。宣伝部に10年いて、次にプロダクトイメージ推進室に移る。製品デザインの現場に戻ってみるとデザイナーが100人を越すという大所帯になっていた。だから今度は製品につける「Canonマーク」のデザインマニュアルづくりにとりかかったのだった。
 時代はちょうど、ネームプレートを製品に貼り付ける時代から、ボディに直接シルク印刷という転換期でもあった。デザインの自由度も大きくなってきていた。
 ここでも奈良さんは早技を発揮する。1981〜2年にはマニュアルを作ってしまう。
 最も重要なのはセンター位置の指定。優先順位をZ型で示したが、表示できる面の左上を基本位置にして、やむを得ず動かす場合には右下、左下、右下という優先順位にする。そしてCanonマークと製品名はできるだけ離すということから、左端にマークをおいたら、製品名は右端というぐあい。
 それからマークの大きさは、大型製品には小さめに、小型製品には大きめにという原則から、幅30cm以上の製品には1/10サイズのマーク、幅10-30cmの製品には1/7サイズのマーク、幅10cm以下の製品には1/4.5サイズのマークという目安を立てた。
 そして色だが、床置きで遠くから見るものにはキヤノンレッドのマークを付けるが、デスクトップのものでは目障りにならないために無彩色にする。そして長期間使われるものは小さめに、短期間のパートナーなら大きめにという幅もとる。
 そのようなマニュアルを作ったが、奈良さんも懐は深くなっていたようだ。
「嫌われるマニュアルを作ってもダメなんです。デザイナーは縛られることをいやがるけれど、影響は受けていきます。若い人のデザイン感覚の中に常識としてしみこんでいけば根づくんです」
 奈良さんはキヤノンのトレードマークの、いわば「育ての親」に当たる。キヤノンというカンパニーの顔としてのシンボルマークを整えたのだった。しかし会社を去ろうという現在、規則で縛って「Canonマーク」を守ろうなどとは考えていない。キヤノンという文化基盤がシンボルマークを守っていくからである。そういう意味では、奈良さんが作ったトレードマークに関するマニュアルはシンプルだ。
 奈良さんが伊藤憲治さんに敬意を表しつつ独断でロゴタイプに手を入れたのはベースラインに対する視覚補助。すなわち下端が丸みをもった文字を少し下げることでベースラインを視覚的にそろえるという修正だった。
 その修正は、いわばデザイン理論の進展にともなう調整というべきものであったようだ。伊藤さんがその修正を快く認めたのも、デザイン上の必然というべき作業ととらえていたからである。
 その伊藤さんが、ちょっと奥歯にものがはさまったような口調でこんな風にいう。
「以前のぼくの目には見えなかったけれど、今ごろになるとはっきり見えてくる修正点があるんですがね」
 直したいところがどこなのか、伊藤さんはとうとう明らかにしなかったが、文字のバランスに関する小さな、しかし確固たる修正点があるらしい。
「皆さんにはどこが変わったかわからない直しですがね」
 それがデザインのギリギリのところで見えてくる修正ポイントであるとすれば、もう一点、メディアの変化によって必然的に施さなければいけない修正点もあるという。
「Canon」というロゴタイプが大文字と小文字の組み合わせであるために、「anon」の部分が相対的に小さくなる。テレビ画面などではそのことがデメリットになる場合も多い。編集担当のKさんがすかさず1枚のテレホンカードを取り出した。キヤノン・ウイリアムス時代のF1レースカーのスタビライザーに書かれているのは「canon」マーク。「C」が大きくないから高価な宣伝スペースをめいっぱい使えている。かつてはアタマの「C」1文字をシンボリックに取り出したポスターをつくった伊藤さんが、「Canon」マークを「canon」マークに近づけていくことも必要と考えている。
 トレードマークというものは、シンボルとしての輝きを失わないために、少しずつ時代に合わせて成長していくものでもあるという。そうだとすれば、今後、「Canonマーク」に、見てもわからない程度ながら決定的な修正が施される日が来るかもしれない。トレードマークが長寿を全うするためには、99%の完成度と、1%の時代性とを合わせ持たなければならないのかもしれない――と思った。
 キヤノン・トレードマークは日本人が日本的な感覚で描いた5つのアルファベットの文字列ながら、半世紀を経ていまだにその個性を失っていないし、古くなってもいない。既存の書体を利用したトレードマークが多いなかでは、孤高の輝きを保っている。


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