キヤノン通信――76号 キヤノンの医療機器部門にメスを入れる────眼内レンズ──1998.3(入稿原稿)
【キヤノン通信 76号 1998.3】
【特集】キヤノンの医療機器部門にメスを入れる────眼内レンズ
●キヤノングループが越えた一線──戦後を支えた医療機器部門
キヤノンがカメラメーカーであることを知らない人はいないだろうが、キヤノンという会社のバックボーンとなってきたのが医療用の光学機器だったということを知っている人はそう多くない。
ご存じのようにキヤノン(前身の精機光学工業)は60年前にドイツのライカを目標にしたカメラメーカーとして産声を上げた。ニコンの前身の日本光学工業からレンズの供給を受けて完成したカメラは、海軍や陸軍の制式カメラとされるほどの高精度ではあったけれど、カメラ1台で企業として発展できたわけではなかった。
戦前から戦中にかけての特別な時代であったからではあるが、キヤノンが自前でレンズを開発したのはその和製ライカのためではなくて、肺結核の早期発見のための胸部X線カメラ用としてだった。
じつはX線間接撮影による胸部集団検診という方式は日本が世界に先駆けて実現したものだった。1935年(昭10)に東北帝国大学の古賀良彦助教授が考えたのは蛍光板上のX線像を35mmカメラによって撮影するという方法で、それが「X線間接撮影方式」と命名された。
この方式が成功するには明るいレンズが必要だったため、当初はコンタックスやライカなどドイツの高級カメラを利用するしかなかった。そこにライカに匹敵するカメラを製造できるベンチャー企業が登場したのだった。最初の受注である海軍型X線間接撮影装置が1940年(昭15)の年末に完成した段階ではツアイスのゾナー50mm F1.5やニッコールの50mmレンズが装着されたというが、翌年の年末にはキヤノンの最初のレンズ、Rセレナー45mm F1.5が完成した。
かくして海軍や陸軍の徴兵検査にキヤノンの35mmm判間接撮影カメラセットが使われるようになり、戦後はそれが結核予防法にもとづく胸部集団検診へとつらなっていく。
創業期の経営陣のなかで医師の御手洗毅が積極的に推進したのがこのX線間接撮影用カメラの開発・生産であったが、これがキヤノンの技術と設備を戦後にまで温存させる重要な柱となったのだった。
そういう経緯からキヤノングループ内では医療機器部門が背骨のごとく存在するということになってきたのだが、じつはそこには大きな歯止めがかかっていた。
戦後、「キヤノンカメラ」を「キヤノン」という世界企業へと発展させた御手洗社長が医療機器部門の治療分野への進出を許さなかったのである。したがってキヤノンは医療診断領域においてのみ自分の役割を果たすという不文律が出来上がった。人の生き死に直接関係する医療機器ではなく、あくまでも精密光学機器としての領分を守るべしという「一線」だった。
キヤノンのX線間接撮影カメラは戦後、結核予防運動に呼応して小型化と自動化を進めていったが、それはさらにX線被爆量の少ないミラーカメラへと進化していく。そして1960年代になると結核に代わって胃ガンが集団検診の対象としてクローズアップされてくる。キヤノンはそこで胃集団検診専用のX線間接撮影ミラーカメラを開発、集団検診用光学機器の開発を受け持つという特殊な位置を獲得していった。
胃ガン検診用カメラととともに成人病の予防に必要とされたのは眼底カメラだった。眼底血管を撮影することによって高血圧や動脈硬化の診断に有効であるとされたからである。
眼底カメラはすでにあったが、瞳孔の外側から照明光を入れても閉じないように、散瞳剤を点眼して瞳孔を開きっぱなしにしなければならなかった。しかし散瞳剤を使用すると、半日程度瞳孔が正常に機能しないためにまぶしくて、日常生活にもさしつかえるほどだった。集団検診用として、散瞳剤を使用しない眼底カメラが求められていたのである。
キヤノンが開発したのは、暗い部屋で瞳孔が自然に開いた状態のところを赤外テレビカメラでピント合わせをして、ストロボ光で撮影するという方式のものであった。さらに従来は3〜4コマの撮影を必要としたところを、広角レンズによって1コマで眼底部分をカバーできるようにした。
これはキヤノンの技術力を医療機器に惜しみなく投入したことによって実現した画期的な発明として1976年度の「日刊工業新聞十大新製品賞」を受賞したのである。
……と、ここまでの流れは1本ピ〜ンと筋が通っているのだが、その流れに異変が生じたのは貿易黒字を減らすための「製品輸入拡大」の大号令が下った1980年代後半のことだった。日本の輸出入の不均衡の元凶とされる50社を日本経済新聞は「トヨタ自動車、日産自動車、松下電器産業、日立製作所、新日本製鉄、三菱重工業、キヤノンなど」(1989.11.20)と書いたけれど、昨日の優良企業が、今日は貿易黒字肥大症の責任企業と名指しされたのだった。その50社は日本の輸出総額の60%を占め、輸入は20%強でしかない。そういう数値をもとにして、政府はそれらの企業に製品・部品の輸入を倍増することを求めたのだった。
そういう大波のなかでキヤノン販売が輸入を開始したのが米国の代表的なコンタクトレンズメーカー、ウェスリー・ジェッセン社のデュラソフトカラーだった。1989年12月のことである。
このカラーソフトコンタクトは通常の視力補正用ソフトコンタクトレンズのようにも使えるが、虹彩欠損や角膜瘢痕眼の人には朗報だった。日本にはない、そういう特殊なコンタクトレンズを輸入したのは、もちろん「製品輸入」の一環ではあったが、無散瞳眼底カメラの販売を通じて形づくられてきた眼科医との関係のなかでキヤノンとして扱えるものを探していたからだった。
そしてここでキヤノンは医療機器に対する伝統的な「一線」を越えた。胸の中を覗き、胃の中を覗き、目の中を覗く機械はつくってきたが、とうとう体内に入り込むところまできた。目の中に入れるレンズを扱うことになったからである。
キヤノンはカメラからはじまって、つねに目のアシストという役目を自覚してきた。複写機もプリンターも「写真画質」にこだわることで圧倒的な高品質を実現してきたが、発想がつねに目の位置にあったからだ。
ビデオカメラや一眼レフカメラに搭載されている視線入力システムも、眼球の動きを監視して、その目が見ているのはどこかをキカイに判断させる。さらには視線の動きでファインダー上のスイッチをON/OFFすることもできるまでにしている。そういう技術は「目のなかには絶対に踏み込まない」という抑制が、かえってユニークな発想のもとになっているように見える。
コンタクトレンズは、目のなかに入ったとはいえないかもしれないが、眼球に接触するところまで踏み込んでしまったのだった。
しかしそれは、あくまでも製品輸入だからということもできた。ところがである、ほとんど同時期にキヤノングループは白内障で目が見えなくなった人のための眼内レンズの開発にとりかかったのである。アメリカのスターサージカルというベンチャー企業との合弁で設立されたキヤノンスターという会社がその舞台だが、そこには体内に一歩踏み込んだキヤノン精神の横溢がみごとに見られる。
スターサージカルという米国の会社の名前を発見したのはキヤノン販売の小林浩志輸入部長(当時)だった。ジャパンタイムスにパートナーを探しているという記事があって、すぐそれに反応したのだった。
白羽の矢が立ったのはキヤノンのカメラ部門で海外でのカメラ修理、顧客サービスに経験の深かった上条勇課長(当時)だった。内容は「キヤノンスター社を作れ」ということと「スターサージカル社がつぶれそうだから、とりあえず行け!」ということだったという。1988年のことである。いま、キヤノンスター社の取締事業部長となっているご当人の上条さんにいろいろ聞いてみた。
●つぶれそうだから行け!
スターサージカル社は眼科医だったジョン・ウルフ社長が考案したソフトレンズを小さく丸めて水晶体に挿入するという小切開技術とその挿入方法で基本特許をとっていたが、製品としてはまだFDA(米国食品医薬品局)の認可がとれていなかった。資金協力的な意味も含めて日本にパートナーを求めていたのだった。
キヤノン側はどうだったか。医療分野でいくつかの検査機器を提供しているといっても、技術革新の激しい分野であるだけに散発的な開発ではどうしても後手に回る。「映像と情報のシステムインテグレーター」という目標を掲げたキヤノン販売としては医療関係機器においてもシステムインテグレーションという観点からの積極的な姿勢が求められていた。
メーカーであるキヤノンはどうだったか。
「キヤノンでも眼内レンズに注目して、すでに各国の特許も調べていたそうです。キヤノン販売からの動きが先になっただけだったともいえますね」
当時、キヤノンの中央研究所では、後に手ブレ防止機能を実現することになるシリコンレンズの素材の研究を進めていたが、開発段階の素材に眼内レンズに適したものが発見されていたのである。
そういういくつかのきっかけが重なって、眼内レンズがキヤノンの新しい技術目標として立ちあらわれてきたのだった。水晶体に小さな穴を開けて、超音波でかき回して白濁した内容物を吸引し、そこに丸めたレンズを挿入する。術後の縫合も不要なので切開傷による水晶体のゆがみなども生じない。なによりも手術時間が画期的に短縮されるので、老齢化社会で今後増大の一途をたどる需要をカバーすることができる。
白内障は、以前はほとんどものが見えなくなるまで待って水晶体を丸ごと摘出、牛乳瓶の底のような分厚いレンズで水晶体の仕事を代替させるしかなかった。しかし水晶体の嚢内の白濁部分だけをとって眼内レンズを入れるという手術法が確立して、恐れる必要のない病気になってきた。
老人性の白内障はむしろ老眼と同じ老化現象と考えていいのである。目の老化だから、高齢化が進むに従って白内障は身近なものになってきたといえる。60歳で60%、80歳では80%が白内障といわれるが、50歳代で65%、65歳以上では95%以上の人に白内障の混濁が発生しているという。
数字に幅があるのには理由がある。老化による水晶体の汚濁は周辺部から起こるので、視覚障害が起こるまでに時間がかかるというのがそのひとつ。もうひとつは、視力が低下してきたとき、日常生活がなんとか可能な0.1の視力に落ちるまで我慢するというのがかつては一般的な基準だったが、現在ではテレビを見て新聞を読むためには0.4の視力は必要とされる。さらに車の運転に必要な0.7の視力まで確保したいという要求も当然のこととして出てくる。どのあたりまでの視力低下をもって手術適期とするかもまた、考え方にずいぶん大きな開きがあるからである。高齢化社会になって白内障の発症が増えるのと平行して、手術して直るものなら直したいという要求のレベルも大きく変化しつつあるというわけである。
眼内レンズといっても1986年に日本で認可されたのはアクリル素材のかたい眼内レンズで、この場合には水晶体嚢をほぼ半周切り開く必要があった。最後に縫合するので入院が必要で、そのため手術に量的な限界があった。
スターサージカル社が考えたのは切開の傷口を小さくして麻酔を局部的な点眼ですまし、入院の必要性をなくすことだった。そこで小さく入れると大きく広がるソフト眼内レンズの開発にとりかかったのだった。
1988年9月にスターサージカル社とキヤノングループとで50%ずつ出資したキヤノンスター社が設立される。正確にいうとキヤノン販売が25.65%、キヤノンが24.35%という持ち株比率になっている。前後して上条さんが3カ月にわたる米国出張。スターサージカル社の製造現場からの報告によって、キヤノンスター社の立ち上げは準備されていった。
●小切開手術への挑戦
眼内レンズは光学部の直径が6mm前後あった。最近では実用上は5.5mmでいいというのがキヤノンスターの結論となっており、5.0mmにまで小さくしているメーカーもある。暗いところで瞳孔が開いたときに、どれくらいの瞳径が必要かということだが、双眼鏡では7mmといわれてきた。しかし眼内レンズでは6mm以下でも問題ないというのが常識となっている。
ともかく、それは、直径6mmのレンズを入れるには6mm以上の切開が必要だということを意味している。直径5mmのレンズなら5mm以上切るというわけだ。数字は小さいが、水晶体のほぼ半周にわたる切開が必要ということになる。
それに対してソフト眼内レンズは丸めて挿入するので、切開創はおよそ半分にできる。そのことをインジェクター(挿入具)を利用することによって簡単・確実に実現しようとしたのだった。1991年には3.9mmの切開が必要だったが、現在では直径5.5mmのレンズを2.65mmの切開によって挿入し、手術は10分以内、1時間後には完全に社会復帰できるというレベルになっている。ひとりの医師が1日に40例以上の手術をこなす例も出ている。ソフト眼内レンズは、メガネをひとつ作るより簡単に白内障を直してしまうのである。
「ソフト眼内レンズにも保険がきくようになったので、これからは普及にはずみがつくでしょう」
上条さんの言葉には自信がみなぎっているが、それはキヤノンスター社がソフト眼内レンズの歴史を作ってきたという自負のようだ。
というのは、スターサージカル社のシリコーン眼内レンズを最初に承認したのは日本の厚生省で、1989年のことだった。一体形成型のこのレンズはいまや世界の標準となりつつあるが、日本ではまだ時期尚早ということで、別の、ハードタイプと同じスリーピース構造の眼内レンズを販売してきた。スリーピースというのはレンズ部の両側にメガネのツルのような位置固定用のヒゲを出しているタイプである。そして10年、ようやく昨年、グローバルスタンダードとして一体形成タイプのレンズを再発売したのだった。
その間の10年、キヤノンスター社は何をしてきたか。スリーピース構造のソフト眼内レンズにさまざまな改良を加えた上、独自開発のディスポーザブル挿入器具を完成させた。スターサージカル社のものはチタン合金で作ったかなり高価なものであったので、手術数を増やしていくと挿入器具の洗浄・滅菌にも手間がかかり、そろえる数もかなりの数になる。1日の手術件数をできるだけ多くしたいという社会的要求に応えるためには、安価で安全な1回限定使用の器具が必要だと考えられたのだった。その考え方はスターサージカル社の製品にも生かされるようになってきた。
あるいは最初、スターサージカル社の製造環境はあまりよくなかった。キヤノンは半導体製造装置を扱っているので品質の向上にはクリーンルームが必要という考え方が根づいている。体内に半永久的に埋め込むものだけに、オーバークオリティでもいいから、半導体と同レベルのクリーンルーム環境で作ろうというのは最初からの姿勢だった。キヤノン的な姿勢であったといっていい。そのこともスターサージカル社に影響を与えている。
「そのあたりがジョイントベンチャーのよさではないでしょうか」
上条さんはいう。
10周年を期して、UVカット機能付きのレンズも発売した。人間の目は紫外線を角膜で6割カットし、残りを水晶体でカットして網膜まで到達させないようにしている。人工水晶体となる眼内レンズにUVカット機能を持たせるのは重要な技術課題であった。
そしていま、「自然な色に見えるレンズ」を目標に、人間の水晶体により近い見え方の眼内レンズの開発をすすめている。
●キヤノンより、キヤノン的
キヤノンスター社はいまでも、社員が約50名で売り上げが約6億円という小さな会社だが、1988年に設立すると、3年目で累積赤字をゼロにしたという。キヤノングループのなかで、小さいがキラリと光る存在である。
それはまず「やるのなら、ほかがやっていないものをやる」というキヤノン的な価値判断によって設立されたことにはじまる。だから「カメラ屋」の上条さんが眼内レンズを担当させられたときにも上司の言葉は簡単だった。
「新しいことをやるときには、最初はゼロだよ」
まったく新しい仕事だから、それぞれの分野のエキスパートを社内・社外をとわずに一本釣りでかき集めながら、走ってきた。親会社にあたるキヤノン販売に薬事の専門家と営業のエキスパートを出向させて、眼内レンズの営業部隊を編成している。
上条さんはキヤノンがアメリカで直販体制を整えた時期にカメラのサービス部隊の構築に奔走していた。ベストセラーとなったコンピューターカメラAE-1の発売時にはカナダにいて、初期故障の応対に翻弄されていた。
そういう体験が生きたのは「クレームをその場で解決すること」であり、「指摘されたことを守る」ということであった。ただしカメラの場合には故障率という計り方ができたが、眼内レンズはひとつのクレームがつねに100%であるということが重圧となって、眠れない日があったという。キヤノンスター社はやはり「一線」を踏み越えたのだった。
大局的にいえば、キヤノングループとしては眼内レンズという分野でいいものが作れるかどうか3年ほどかけてやってみようという判断だったが、その3年で累損を解消して自立できた上に、10年間で手術は50万人を越えた。
「最初の5年間はものが作れるかどうか、先生方に支持されるかどうかが課題だったのに、次の5年で眼内レンズ全体のシェアで10%までのびたのです。シェアが20%までいったら、新しいことをやれると考えているのです」
白内障手術を簡単なものにすることが、本格的な高齢者社会に貢献できる大きな仕事となりつつある。そしてその成功が、キヤノン販売の医療機器部門の黒字転換の大きな力ともなったのだった。
「医学って、挑戦しないと何もできない。キヤノンの冠の下ですから慎重にやっていますが、大胆にやることも必要なんです」
じつは昨年の10月、日本臨床眼科学会のでキヤノンスター社創立10周年記念のイブニングセミナーを開催した。700人を超える出席者の注目を集めたのはアルゼンチンから招いた著名な眼科医の〓〓先生の視力矯正用眼内レンズの臨床報告だった。
白内障を解消する眼内レンズは凸レンズだが、凹レンズを角膜と虹彩の間、あるいは虹彩と水晶体との間に挿入することで強度の近視や乱視を効果的に矯正することができる。スターサージカル社が基本特許を持ち、キヤノンスター社が高度な製造技術を確立したソフト眼内レンズなら注射針をさす程度の極小切開ですむので、術後の切開創から乱視が発生するというような危険なしに、視度矯正用の凹レンズを挿入できる。アルゼンチンではすでにその方式が多数おこなわれているのである。
ソフト眼内レンズの生体内での安定性と挿入の容易さとが、これからの可能性を大きく予感させる講演であったという。
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