キヤノン通信――98号 キヤノンの「眼もの」────眼科医療機器の新世紀──2000.4(入稿原稿)


【キヤノン通信 98号 2000.4】

【特集】キヤノンの「眼もの」────眼科医療機器の新世紀


●前史としてのX線カメラ

 キヤノンの前身がカメラメーカーであったことはよく知られているが、もう一本の軸足が医療用機器だった。日本独特の集団検診をキヤノンは会社設立の直後から陰で支え続けてきた。まず、発端のX線カメラについて軽く触れておきたい。
 最初の製品はCX-35。35mmフィルムを使用し、24×25.5mmの画面サイズで50枚撮影できるX線間接撮影カメラ。1941年(昭和16)にまず「海軍型」として完成し、翌年からは陸軍に、あるいは民間にも供給された。
 当時、猛威を振るう肺結核を押さえ込むために、日本で考案されたのがX線胸部集団検診という方法だった。蛍光板上に投影されたX線画像を(直接大判のフィルムで受けるのではなく)35mmカメラで撮影する。この「間接撮影法」は、ドイツのコンタックスやライカといった高級カメラに、F1.5などの大口径レンズをつけて実用化が図られつつあった。
 当時、肺結核の早期診断をもっとも強く求めていたのは、若者たちを長期間集団生活させる軍隊だった。だから、ライカに匹敵するカメラを日本でつくろうというベンチャー企業・精機光学工業(キヤノンの前身)には、早い時期から海軍からの打診があった。
 たまたま友人関係から出資者となった医師の御手洗毅は、しだいにX線間接撮影カメラの開発を望むようになっていた。そして横須賀海軍病院の横倉誠次郎軍医大佐の仕様に基づいて国産の専用カメラをつくることになる。
 ツァイスのゾナー50mm F1.5に代えて、日本光学工業(現在のニコン)から供給されたニッコールレンズを装着したが、42年(昭和17)には独自開発のRセレナー45mm F1.5が標準装備された。これがキヤノンの最初の製品レンズで、RセレナーのRは「レントゲン」を意味している。
 戦時下、高性能の小型カメラは軍用の光学兵器とされ、キヤノンカメラ用のレンズはすべて日本光学工業から供給された。それに対してX線間接撮影カメラ用レンズは日本光学工業からの技術導入によってキヤノンが自社開発することになった。このことが、後にキヤノンカメラ発展の重要な布石となる。
 戦後、キヤノンカメラは疎開して細々と組み立てていた残存部品を生かして再興するが、X線間接撮影用カメラのほうは46年(昭和21)にCX-60が登場する。戦前に開発を完了していた6×6判12枚撮りのカメラで、Rセレナー80mm F2が標準装備されていた。
 現在に至るまで、X線間接撮影カメラに関してはキヤノンのカメラがほぼ100%のシェアをもっている。X線装置の三大メーカー(東芝、日立、島津製作所)と、X線フィルムの三大メーカー(フジ、コダック、コニカ?)に対してカメラを供給しているからである。
 かくして日本国民はだれもが、一度はキヤノンのカメラで胸の内を写し取られるという体験をもつに至るのだが、このX線間接撮影カメラは胃ガンや肺ガンを対象とする集団検診用へと発展し、心臓や脳の血管造影撮影用には大判フィルムを高速に入れ替えるフィルムチェンジャーという装置にも進化する。そして現在はそのデジタル化が進行中。

●24年前の大発明は「無散瞳」の眼底カメラ

 1969年から新たに開発が始まったのが眼底カメラだった。瞳孔の奧をうまく覗くと、眼底に血管が見えている。血管を素通しで見られる唯一の場所が眼底である……ということから、高血圧や動脈硬化の早期発見のために眼底血管のようすを写真に撮りたいという要望が出てきた。
 眼底カメラはすでにあった、ドイツのツアイスがすでに戦前に原型を作り上げ、55年にはストロボ発光による撮影で実用性を高めていた。
 しかし、キヤノンに求められたのはさらに高いハードルを2つ越えることだった。
 ひとつは「無散瞳」。内部を明るくしないと写真は撮れないのに、明るくすると瞳が小さくなって、内部を覗けなくなる。そこで眼底カメラを使うときには散瞳剤を使うのだが、散瞳剤は眼科医が慎重に扱わないと失明の危険も生じるという難しい薬である。
 キヤノンに求められたのは、眼科医ではなく、集団検診の車のなかで技師が操作できるような、簡便で、安全で、それでいて検査能力の高いものであった。
 76年に発売された無散瞳眼底カメラCR-45MNは、薄暗い部屋のなかで自然に開いた瞳孔を刺激しないよう赤外テレビカメラでピント合わせをした後、ストロボ撮影する。散瞳剤を使わずに眼底撮影ができるようになったのだ。散瞳剤が100%安全に使われたとしても、開きっぱなしになった瞳孔が元に戻るまで、長時間動けないのでは集団検診には使えない。これはかなり高いハードルだったがクリアできた。
 しかし、集団検診用だからいくぶん精度が低い……というようなところでキヤノンは手を打たなかった。散瞳剤を使って撮影する従来型の眼底カメラが30度の画角で3〜4枚のつなぎ写真を撮っていたのを、画角45度の広範囲撮影を1枚で済ますことができるようにしたのだった。
 これはその年の「日刊工業新聞十大新製品賞」を受賞したが、社会のニーズにみごとに応えた発明となった。撮影画角は2年後には60度という超広角(狭い画角での拡大撮影も可能)になって、現在まで他社の追随を許していない。
 この集団検診用の無散瞳眼底カメラは眼底検査項目の80%までなら十分なクオリティでおこなえるが、眼科用にはさらに蛍光造影撮影などもできるフル装備のカメラも開発した。
 もちろんカメラ部分もキヤノン的で、現行の最高機種CF-60UVにはEOSのボディを改造した35mmフィルムユニットが用意されて、AE撮影ができる。デジタルデータの取り出しにはデジタルEOS(たとえばEOS D2000)を利用する。胃カメラなどのファイバーカメラや、エコー診断装置のデジタル画像はビデオの静止画レベルでいいのだが、眼底カメラでは出血の最初の一点を見つけられるかが勝負所なので解像力も必要だし、色やコントラストへの要求がかなり高い。デジタルカメラもEOS D2000ぐらいの性能が必要になってくるという。
 当然、これも圧倒的なシェアを保っている――かというと、そうでもないらしい。
「後続の2社に激しく追われています」
 とキヤノン販売・眼科機器販売部の菅野喬さんはいう。集団検診用というジャンルをはみ出して、眼科専用機器になったからである。
「散瞳剤を使う蛍光造影撮影となると、大病院ではフォトグラファーと呼ばれる専門の技師が担当します。そういう専門的な機器に関してはきめ細かい対応のできる専業メーカーにしだいに追いつかれてくる。
 ご存じのように、キヤノンは新しいデバイスの開発には圧倒的なパワーを発揮するので、眼科用の機器でもパイオニアとして最初は100%のシェアでスタートする。その後のフォローに柔軟性を欠くので、専業の小メーカーに追い上げられてしまうんです」
 とはいえ、眼底カメラの開発を発端として、キヤノンは目に深くかかわる医療機器を、眼科用に次々と開発することになる。

●緑内障の早期発見とコンタクトレンズ処方

 1984年に発売したトノメーターは非接触型の眼圧計である。それまでの眼圧計では眼球に重りをのせたり、直接圧力をかけたりしていたのを、空気を噴射して眼球の耐圧力を測定するという新しい方法を開発した。
 なんのためかというと、眼圧が高くなってその圧力で視神経が殺されていく緑内障の早期発見のためだった。
 緑内障は視野の周辺から徐々に中心部に進行してくるので、一般の視力検査などでは発見できない。治療方法がないので進行を早くくい止めることしかない。そういう要請から、キヤノンではアメリカのパテントでライセンス生産を開始したのだった。
 この眼圧計によって緑内障は眼科で初診時にチェックされるという新しい診療形態を生み出した。
「集団検診ではまだですが、最近では人間ドックでも使われるようになりました」
 あるいはもっと身近な存在かもしれないキカイにオートレフ・ケラトメーターというのがある。1980年に発売した眼屈折力測定器のオートレフと、83年の超高速角膜形状測定器のオートケラトメーターを86年に合体させたもので、その2機能合体がキヤノンの新技術であった。これ1台あればコンタクトレンズの処方ができるというもの。
「病院の省スペース、省コスト、省タイムなど、診療の効率化に大きく貢献したのですが、高機能ながら高価格というところで、最近、シェアを3位に落としてしまいました」
 眼圧計も「後続の2社にシェアをとられました」と菅野さんはいうから、小回りの利く専業メーカーとの戦いはなかなか厳しい。

●時代がようやく追いついてきた

 タイガー・ウッズの視力回復手術として注目を集めているレーザー視力回復手術が今年1月から厚生省で認可された。キヤノンはこれにも浅からぬ関係がある。
 角膜にメスを入れて近視・遠視・乱視などの矯正をする手術は、大きく3段階に進歩してきた。70年代に登場したのが放射状角膜切開術(RK)で、角膜にダイヤモンドメスなどを当てて、放射状の切れ込みを入れる。角膜のカーブを緩くすることによって近視をある程度矯正することができるようになったのだった。
 続いて80年代に登場したのがエキシマレーザーを使うレーザー角膜屈折切除術(PRK)で、角膜を薄く削り取ることによって角膜表面の形状を変えて、レンズで矯正した状態を作り上げるというもの。これだと近視だけでなく遠視も乱視もかなり精密に矯正することができるようになった。
 そして、いま話題のレーシック(LASIK)は、角膜上皮の表面をカンナで削るようにして、術後にかぶせる蓋を用意してから、内部をエキシマレーザーで削って角膜の形状を作り替える。PRKでは角膜上皮が再生するまでに感染症の発生が心配されたが、新しいLASIKでは蓋をかぶせて、手術は20分程度で終わる。
 レーザー手術による視力矯正が簡便で安全なものになってきたといえるのだが、80年代後半に日本に入ってきたエキシマレーザー装置を、菅野さんたちは真っ先に導入しようとしていた。
「ところが、ダメになったんです」
 キヤノンには実質的な創業者である御手洗毅の考え方が医療機器に対して強く残っていて、集団検診などの検査装置に関してはきわめて積極的でありながら、手術に直接かかわる器機に関わってはいけないという不文律ができていた。
 それはコンシューマー商品であるカメラを扱うメーカーが、その調子で人命にかかわるキカイまで作れると思うな、といういましめであった。
 眼科手術用のエキシマレーザーは、だから「キヤノンらしくない商品」ということでキャンセルされたのだった。
「角膜内皮を破損すると、もう取り返しがつきません。角膜移植でしか回復できないのです。手術による事故が一時期頻発したので、やっていなくてよかったと思いましたね」
 しかし、そのときに輸入を決めた米国オーブテック社の角膜形状解析装置(オーブスキャン)という装置が、今回認可されたレーザー視力回復手術の安全性を背後で支える役目を果たしている。
 というのは、この装置によってはじめて角膜後面の精密な形状情報を得ることができるようになったからである。角膜全体、すなわち前面、後面、厚みの形状がたった1回の非接触検査で精密なマップとして得られるので、それ以前のように、裏側までの正確な厚みが分からないまま前面から削っていくというような目見当の手術とは比較にならない精密なものになった。
「いまや、これを持たずに手術するのは危険です、というほど重要な存在なんです」
 医療専業メーカーと比べるとキヤノンはいつも消極的に見えるが、医療現場から一歩引いたところで動くことによって、キヤノンとしての役割をきっちり果たそうとしている。
 このレーザーメスを使った角膜手術に関しても、やはり最後のところで腰が引けている。
「メガネやコンタクトレンズを使えば見える目に傷をつけてもいいのか」
 というわけだ。同じ傷をつけるのなら、挿入のし直しのできる眼内レンズによる視力矯正の実用化を待ちたいという気持ちが強いのである。グループ企業のキヤノンスター社が製造しているシリコーン製の折り畳み挿入式眼内レンズは白内障用のものだが、その安全性が十分に証明されつつある。
「じつは、角膜手術の精度は飛躍的に上がりましたが、レーザー光で角膜組織に傷をつけると、長い年月のうちに角膜組織が崩れていくという危険も指摘されています」
 そういう医療の負の部分に対する警戒心を怠るなというのが、御手洗毅の警告だったのではなかろうか。門外漢が調子に乗って、そのようなきわどい領域に踏み込むな――と。

●医療に革命をもたらすかもしれない、すごいキカイです

 角膜手術用の形状解析装置はようやく活躍の場が与えられてビジネスの場に乗ってきた。と思ったら、また、いつになったら売れるかわからないというキカイが登場してきた。名前を「キヤノン眼底血流計」という。
 眼底カメラは眼底に露出して見える血管の状態をくわしく見るための写真を撮影するカメラだった。その血管の血液の流れの状態を見るために開発されたのが眼底血流計で、すでにいろいろなものが出ている。だからそこに「キヤノン」というブランド名がついただけでは新しくもなんともない。
 ところが中身はまったく違う。従来型はあるエリアの血流の多い・少ないを計るだけで、データは相対的なところにとどまっていた。
「なにしろ、眼底の血管は、動きが激しくて、つかまえられなかった」
 というところを、今度のキカイでは、ねらった血管の特定の場所の血管径をμm単位で計測、そこを流れる血液の実際の速度をmm/secで測定できるので、結果として血流量がμl/sec(マイクロリットル/秒)で算出できる。
 手順としては、計りたいポイントを決めたら、「血管オートトラッキング機能」によって、血管が動いても逃さないように2秒間照準を合わせ続ける。その間に2点から弱いレーザービームを照射して、その反射光によって得られるレーザードップラー信号から血流速度を正確に測定する。
 そのトラッキング技術が大技らしい。ミサイル迎撃のための標的捕捉技術まで特許を調べたというオリジナル技術だというのだ。ということは、標的が見サルから血管に変わってはいても同等の技術がつまっているということだ。
「米国の眼科研究施設の基本特許などを使用して開発製品化したものです。最先端の製品だけに、じつは新しい畑を耕すような製品でもあるんです」
 キカイの価値は分かっている。眼底の血管は脳に近い血管であるところから、その正確な血流量が計れるようになったことで、血流量の変化をきわめて精密にチェックすることができる。
「血流の変化は、すなわち酸素供給の量的変化ですから、病理学的にいえば疾患と酸素供給の変化が初めて計れるようになったのです。それによって、現在複数の選択肢のある投薬法や手術法の優劣が、血流の変化という観点からはっきりと出てしまう。医薬品メーカーの治検でのコスト低減も、大いに見込めるのではないかと思うのです」
 菅野さんがいくぶんのんびり構えているのは、前項で紹介した角膜形状解析装置でさえ、エキシマレーザーの角膜手術に必須の器機となるまでに啓蒙型セールスを展開して「3年かかった」という。
 キカイが画期的であればあるほど、地均しが必要になる。そういうキカイをまたひとつ作ってしまった。

●高度な技術を駆使して画像入力装置&ネットワークを作る

 創業精神をいつも振り返りながらビジネスしているのがキヤノンの医療機器部門ということができるだろうが、21世紀に向かって環境が大きく変わろうとしている。
 それは、上を見上げると電子カルテ、足元を見れば画像データの一括管理という医療情報のネットワーク化のなかで、無散瞳眼底カメラは画像入力端末としてかなり優秀なものになっている。放射線科のところにあるキヤノンのデジタルX線カメラも同じ画像入力端末……というふうにボーダレス化が進んでいく。
 予防医学の領域に特異な存在感を示してきたキヤノンの次ぎなる仕事としては、病院内のネットワーク化そのものに、もっと深く関わっていくことになる。それは、たとえばキヤノン製の医療用画像入力端末がある放射線科と眼科と診療所と検診センターと人間ドックともつなぐというときに強力な存在となる。
 あるいは病院内にはキヤノン製の事務機やコンピューター関連機器がたくさん入っていて、病院内にはキヤノンのさまざまなセクションから人が出入りしている。そういうものが扱うデータも一元管理されていくことになる。
 ありとあらゆる情報がデジタル化され、一元化されるとき、キヤノンが医療現場で果たせる役割はかなり大きい。
「同じ病院のなかにキヤノンの点がたくさんあるので、それをひとつずつ線で結んでつなげていくことも課題です」
 眼科器機の営業マンである菅野さんの思考はもちろん、もう眼科という狭い領域に縛られてはいない。眼科医が目の奧で、脳に流れる血流の変化をにらんでいるという時代なのだから。


【特集2】最先端にして最辺境のキヤノン・スピリッツ――中島敏之

●「3か月で先端工場をコピー」という指令

 話を聞きながら、私は『ブワナ・トシの歌』という古い映画を思い出した。京都大学の霊長類研究の最初の拠点づくりの話である。タンガニーカ湖畔にプレハブ基地を建てに行った主人公・トシ旦那と、現地人とのやりとりを書いた同名の本(片寄俊秀著・朝日新聞社・1962年)があり、それを羽仁進が監督として映画化した。主役は渥美清だったはずだ。
 キヤノンスター社の技術者・中島敏之が渥美清に似ているというのではまったくないし、行き先もアメリカで、世界最初の折り畳み挿入式シリコーン眼内レンズ工場を日本に移植するための研修と、シチュエーションはまったく違う。
 それなのに『ブワナ・トシの歌』を思い出したのは、ひとりの技術者が異文化との交流のなかでやった仕事の、大きな実りがそこにはあったからのように思う。
 いま名刺にキヤノンスター・市川事業所の「所長代理」とある中島敏之は37歳。10年あまり前、キヤノンの中央研究所からキヤノン販売に移されて、合弁企業としての工場を立ち上げる技術面を一身に背負わされた。26歳のときである。
「ゴールデンウィークの直前でした。ふだんはほとんど誘ってくれない直属の上司がコーヒーを出してくれて、その話があったんです。キヤノングループが50%出資するシリコーンをベースにした眼内レンズを販売する会社が国内生産を開始するので、アメリカに3か月行って、技術面を全部習得してきて、その会社を立ち上げてほしい、というのです。そのキヤノンスター社に出向するという話でした」
 中島に白羽の矢が立ったのは、彼がシリコーンゴムの次世代レンズの開発プロジェクトに加わった結果、その専門家と目されていたからだった。
 所属は生産技術研究所の試作部門。「いろんなところで開発試作をするときに応援で駆けつける人材バンクみたいなところ」だったという。そのときは中央研究所でとりかかっていたシリコーンゴムの次世代レンズ開発にデバイス開発という立場で参加して「防振プリズムの開発企画を立てて、ようやく軌道に乗りはじめた時期」だった。
 屈折力を自由に変えることのできる夢のレンズは実現にはまだ遠そうだったが、シリコーンゴムの弾性を利用した可変頂角プリズムなら実現できそうだという見通しが出てきたのだった。
「当時30歳前後の先輩の人とふたりで企画書をつくって、所内でプレゼンをやりました。開発テーマとして取り上げられて、半年ほどたったところでした」
 新規テーマを立ち上げて、いよいよそれが事業部での製品開発に展開するという絶好の時期に、その異動話は出たのだった。
 キヤノンが各種撮影用レンズの常識を覆した防振技術はふたつあって、ひとつは中島たちが立ち上げた『バリアングルプリズム』方式、もうひとつはレンズ群の一部の光軸を自由に動かすことによって画面のズレを吸収しようとする『レンズシフト』方式だが、その最初の開発がいよいよ本格的に動き出そうとしていた。
 見ようによっては、……というよりも、どう見てもこれは島流しみたいな話だ。
「次世代レンズのプロジェクトチーフであった尊敬する上司に合弁の契約書を見せて、相談したんです。上司からは<これまで君達の努力も空しく製品化まで達成できず申し訳ないと思う。この事業なら日本に技術を移すという製品化までは見えており、それをまかされるわけだから、始めたばかりのプロジェクトをやらせてあげたいとも思うが、これまでの成果を生かせる新しい事業に挑戦できるチャンスだし、この事業が駄目であっても、キヤノンという会社は器の小さな会社じゃない。心配しないで行って来なさい>……と後押しされるかっこうで、移籍に応じたのです」
 中島が実際にいじっていたシリコーンはゲル状のものだったが、それを機械的に変形させるのには大きなパワーが必要なので、内部にシリコーンゴムの被覆内にシリコーンオイルを入れてみる、というところまではやっていた。その後の製品化ではシリコーンオイルを2枚の光学ガラスと蛇腹状のフィルムで密封するというふうに改良されていく。
 ともかく、「行ってみないか?」という話が、そのまま決まってしまったのだった。ゴールデンウィークが終わり、なんの連絡もないまま引継ぎに追われていると、6月末になって突然、7月1日にキックオフという通知がきた。

●白紙だからよかった?

 行った先はアメリカ西海岸の100人ほどの企業、スターサージカル社だった。現在キヤノンスター社の取締役事業部長となっている上條勇とアパートを借りての共同生活。工場のラインに貼りついて現場研修しながら、開発部門の設計者たちに食い下がって一語、一語、メモを取った。
「製造ラインはルーチンになっているので、その管理背景をいかに理解するかが難しかったですね。開発側の技術者に聞かなければならない」
 中島さんにとって、まったく初めての海外体験だったから、向こうから見れば幼児語をしゃべる若造に過ぎなかったはず。「半端な人間を寄こした」という印象が強かったにちがいない。
 そんななかで、中島はアメリカの技術と技術者に大いに刺激を受けていた。
 同じシリコーンでもこんな作り方があるのかという驚きがあったし、同じ立場の人間のシンプルな考え方に共感もした。
「日本では何事もグループで考え、グループで処理するという傾向があります。向こうでは、守備範囲内なら自由に動けるフィールドが与えられている。だから個の強さが新鮮でしたね。いきいきと見えた。すべてにわたって優れているという風には見えないけれど、自由を与えられるということで育てられている。取り組む姿勢が、私の環境とは違うと思いました」
 ……といっても、それは6月までの中島の環境であって、7月1日以降、キヤノンスター社の技術者としての中島の立場は、会社の技術基盤を全部ひとりで確立するという途方もないものだった。
 しかも、一技術者としても、なかなかのしたたか者であったといわざるを得ない。もともと「アメリカのものをそのまま作る会社とは考えていなかった」のだ。
「日本でメーカーとしてのかたちを作り上げたら、日本独自のものを作り出したい」というもくろみが最初からあったのだ。
 ともかく、丸3か月の技術研修を終えてふたりは帰国。出社すると、その日が関連する医療機器部門の引っ越し日だった。ほとんど無に等しいキヤノンスター社の三田から品川への引っ越しそのものはいいとして、与えられたフロアにクリーンルームを構築し、製造ラインを立ち上げる仕事、すなわち米→日の技術移管の具体的な作業が、中島ひとりに与えられていた。
「孤独でしたよ」というが、まさに無人島に流されたような状態で、作業ラインを一本ずつ立ち上げていったのだった。毎晩終電まで、ひとりでコツコツと組み上げていく日々が続くうち、ポツポツと人が集まりはじめたのだった。
「孤独でしたけれど、悲観的ではなかったですね」
 中島は「レンズを作る工場を作る」のが自分の仕事だというはっきりとした目標はもっていた。しかし、研究所育ちの若い技術者が、全部ひとりでやりきるにはあまりにも大きな仕事ではなかったか。
「研究所といっても、私の専門は試作グループへの応援要員でしたから、開発者というよりもエンジニアとして、要求されたものを何とか作り上げるという経験はいろいろあったのです。だからモノづくりの会社をひとつ立ち上げるチャンスというのは、願ったりかなったりのことでした」

●日本流がアメリカを刺激した

 小規模ながら工場が立ち上がると、すぐに開発の仕事にとりかかった。日本人に合ったレンズ、日本の医療現場に合ったレンズを模索し始めたのだった。
 立ち上がった眼内レンズメーカーとしての動きをもうすこしくわしく説明しておくと、シリコーン製の折り畳み挿入式眼内レンズは本家のアメリカに先駆けて日本で厚生省から承認された。1989年のことである。
 どうしてそうなったかというと、中島さんが技術研修に行った1988年の7月〜9月には、スターサージカル社は従来型のプラスチックレンズを作って食いつなぎながら、新しい折り畳み挿入式レンズの臨床試験に賭けているところだった。
 その当時、日本では輸出黒字を減らすべく、超輸出産業のキヤノンにも政府から輸入拡大の努力を求められていたところから、キヤノン販売には輸入専門の部門も作られていた。
 そうした動きのなかで海外のベンチャー企業の動向に目を向けていたのだが、「ジャパンタイムス」紙に米国の眼内レンズのベンチャー企業が投資を求めているという記事が載った。キヤノン販売が25.65%、キヤノンが24.35%の株式をもち、50%の持ち株でスターサージカル社が経営権を握るという合弁企業の設立は中島さんが技術研修中の1988年の9月だった。
 そして翌年の10月には、本社スターサージカル社の折り畳み挿入式シリコーン眼内レンズが世界に先駆けて日本で正式に承認された。キヤノンスター社は眼内レンズの薬事法による「医療器具輸入販売業取得」をして、販売部隊が動きはじめた。
 販売といっても、直接消費者に売るのと違って、採用してくれる病院・医師を見つけなければならない。従来型の眼内レンズに対してどこがどう優れているのかというアピールをしながら、理解者を増やしていくという地道な努力が求められた。
 眼内レンズは、1949年に英国で実用化されたが、レンズを小さくして、その両脇にメガネのツル状のレンズ固定バネを付けたスリーピース型のものが1977年に発明されて、主流となっていた。
 それに対してスターサージカル社の発明はシリコーンレンズの周囲にはみ出し部を設けて、一体形成ながらスリーピースのバネの役目を果たさせた画期的なものだった。
 ところが、それが、日本ではあまり歓迎されなかった。日本人には炎症が起きやすいのではないかということだった。輸入品ということで本家のアメリカより早く承認されたのに、若干の方向転換を余儀なくされたのだった。
 まずはスターサージカル社製のスリーピースタイプのシリコーン眼内レンズの承認をとった。1990年5月には中島たちがたち上げた眼内レンズ製造工場が完成し、7月には、キヤノンスター社は眼内レンズにおいて「薬事法による医療用具製造業取得」を果たす。販売に続いて、製造もできるようになったのである。
 スターサージカル社は2000年の現在でもワンピース型のシリコーン折り畳み挿入式の眼内レンズで独走している。それに対して従来型のスリーピースタイプを採用したキヤノンスター社はレンズ直径を5.5mmと限界まで小さくして、挿入切開創わずか2.65mmという画期的な縮小化に成功している。日米それぞれに違った道を進んで、それぞれに最先端を死守しているというところがこの合弁企業のいくぶん特殊なところといえる。
 キヤノンスターの社長はスターサージカル社のジョン・ウルフ社長が兼任しているが、キヤノン販売・光機販売事業部本部長の黒田紀夫常務取締役が代表権のある副社長として実務を握っている。日米の動きがそれぞれの市場に対応して違ってきた、ということもあるけれど、じつはその技術開発力において2社はライバル関係にあるという風にもいえる。
 中島の技術者魂が、そのことを決定的にしたのだった。目指した技術改良のポイントは「小切開」だった。従来型の眼内レンズを挿入するには6.5mmから10mmという切開が必要だったが、眼球に作る傷は小さければ小さいほど手術が安全になり、患者の負担が軽くなる。スターサージカル社はそこで「変形可能な眼内レンズ」を開発したのだった。小さく畳み込んで挿入するのだが、その仕掛けに改良の余地は、まだあった。
 数日の入院が必要だった白内障の眼内レンズ挿入を、折り畳み挿入式シリコーンレンズはたった10分の通院手術で終了できるまでにしたが、中島はそれを徹底的に追及したのだった。
 1993年の11月にプラスチック製の注射器状のものが日本で開発された。これによって『AQ-110N』というシリコーン眼内レンズの折りたたみ挿入作業の安全性が飛躍的に高まった。
 スターサージカル社が使っていた挿入器具はチタン製だった。これをはじめ一般的な手術用器具は、繰り返し使用のための洗浄などの煩わしさがともない、感染症などの危険もあった。これらを排除する製品を、どうしても開発したかった。
 精度を高めて、より小さいものを作り上げるという設計思想はキヤノンが世界に誇るものだから、中島の開発力は遺憾なく発揮されたといっていい。世界最小の白内障用眼内レンズAQ-110Nにつけられた「N」はNIPPONバージョンのNだそうだからなかなかたくましい独立精神といっていい。……がしかし、「そのNは個人名のNだと思って内心誇りに思っています」と中島はいう。なかなかの造反精神……かもしれない。

●技術者としての価値観

 キヤノンの医療機器は、これまで「超えてはいけない一線」をしっかりと守ってきた。キヤノンの育ての親というべき御手洗毅が医師(当初国際聖母病院産婦人科部長)であったことから、検査機器には全力を投入するが、治療機器には手を出さない、という不文律ができあがって、現在までしっかりと守られてきた。カラダに傷をつける分野には進出するなという意味である。医療機器メーカーになるのではなく、光学機器メーカーとして、後方から医療現場をサポートすべきである、というのがほとんど社是となっていた。

 その一線を脅かしたのは輸入品のカラーコンタクトレンズだった。キヤノン販売の輸入事業とはいえ、キヤノンが目の中に入れる製品を扱ったというのは周囲ではかなり大きな話題だった。
 そういう流れからすると、老化現象のひとつとされる白内障のこれからの急激な増加に対応するための社会貢献的事業とはいえ、水晶体の内容物を取り去って、そこに人工水晶体として埋め込むレンズを製作し、その手術を普及していくというシゴトは、キヤノンが初めてその一線を越えたものということができる。中島はそういう意味でも異端の技術者という役割を担わされたといっていい。
 ――キヤノンの技術者としてそういう道を歩んだことを、実際はどう考えています? 運が悪かったと思っていませんか? ……と聞いてみた。
 彼はすでに10年間先頭を歩く技術者としてやってきている、という自信をのぞかせながら、きっぱりという。
「お会いする先生方には、最新の技術を追求していらっしゃる著名な方が多いんです。そういう先生方の期待から出る技術的な要求に応えていかなきゃならない。その中には技術者としての私への期待も含まれていると思うのです。
 1988年当時に日赤武蔵野病院の眼科部長だった清水公也先生など、なにも分からない若造を対等に扱って下さった。技術者としてそれに応えるには製品でお返しするしかないと思いました」
 ユーザーの声をあまり聞こうとしないキヤノンの技術体質は「ニーズよりシーズ」などと表現されることが多い。実際多くのキヤノンファンは期待を大きく上回って裏切られる新製品が登場することをひそかに期待する。デバイスの飛躍というような新製品が矢継ぎ早に登場したりするからである。中島はそういう飛躍をもくろむセクションから移籍してきた。「コンシューマー商品でないから逆に、使う立場の先生方のナマの声を聞くことができる」という大きな変化のなかでの新しい仕事であった。
 10年でキヤノンスター社は売り上げ高10億円という当初の目標を達成した。中島はキヤノン販売の課長職になり、対外的には製造現場である市川事業所の「所長代理」となって開発現場から離れた。ひとつの時代が終わったといってもいい。
 ほんとうは、最後まで一技術者でありたかったのではありませんか? と聞いてみた。
「私の、エンジニアとしての最初のイメージは<コーディネーター>でした」と中島はいう。
「研究所時代に尊敬していた上司は、エンジニアが報告したものの裏に隠れたものを指摘し、軌道修正することにすぐれており、私はいつもその痛いところを突かれる立場でしたが、そのせいか、その上司を敬愛し、今もエンジニアとしての理想像です。ですから、一技術者である拘りよりも、そういう<究極のコーディネーター>になりたいと思っていました」
 中島によれば、「開発技術者はセンスを要求される」という。「熱意と意志とセンス」があることで、与えられた課題そのままでなしに、顧客満足度のより大きな製品が生まれてくる。「価値観をハッキリもって、一プロセスごとの質を高めていかないとアウトプットのバリューも上がらない」という。
 こういう技術者を育てたのは、もちろんキヤノンの生産技術研究所であり、中央研究所であった。中島は都立航空工専の機械工学科を出て、20歳でキヤノン株式会社に入社し、23歳でシリコーンという素材と出会った。
「最終学歴はキヤノン大学だったと思います」と中島はいう。「キヤノンって、駆け出しから一人前に扱ってくれるところでした。キヤノン時代の自分は、11年も時計が止まっているので同年代とのつながりはもうほとんどありませんが」
 それに加えてアメリカ流の洗礼があった。
「事前になにも教えてもらえないまま飛び込んだのがよかったと思います。自分なりにあれこれ想像した上で出かけていたら、あんな大きな衝撃は受けなかったと思います。『考えてもいなかったことをやっているアメリカ』でしたから」
 中島は10億円企業のキヤノンスター社においてもすでに心配される大企業病を封じるために、「アメリカにあったような、個を尊重するかたちをとっていきたい」という。
「CANONSTAARのスターはAがひとつ多いので一番星にはなれないでしょうが、キヤノンのスターになりたいと思います」
 中島はキヤノンの辺境にいながら、すごい言葉をさらりと言った。
 そして、中島の言葉のなかには、すでにスターサージカル社への帰属意識はほとんどない。キヤノンという巨像と合弁を組んだスターサージカル社は、その後、技術的な協力関係をほとんど閉じてしまっている。上條と中島が3カ月間ピッタリ貼り付いたのが最初で最後で、その後、本社工場をのぞかせてもらったキヤノンスター社員はほとんどいない。アップルコンピュータ社、精密測定器のザイテグ社などとキヤノンとの過去のつながりを見てみれば、キヤノンという巨像の力を利用するほうが得策ではなかろうかというのが一般的な見解であるはずだが、スターサージカル社には中島のような技術者がゴマンといそうなキヤノンがまるで鬼ヶ島のように映っているのかもしれない。
 21世紀とともに、視度矯正用の眼内レンズ、すなわち眼内コンタクトレンズの時代が来る。中島のようなキヤノン技術者の力がもっと有効に利用されればいいのにと思うのだが……。

■グループ企業――キヤノンスター株式会社

 1988年にアメリカのスターサージカル社とキヤノングループの合弁で設立されたキヤノンスター社は従業員数60名弱で約11億円を売り上げている白内障用折り畳み挿入式眼内レンズ『フォータブルIOL』の製造販売会社である。
 事業企画室長の国谷繁樹によると、1999年度の白内障治療に挿入された眼内レンズは約60万眼だが、そのうち40万眼が折り畳み挿入式になっているという。
 白内障の治療は片目ずつおこなうので、40万眼は40万人分とおおよそ考えていいようだが、そういうマーケットにキヤノンスター社は月産7000枚(年間約8万4000枚)の規模で参入している。
 この分野では世界の3大メーカーが市場を支配しているのでシェアの拡大はなかなか難しいのだが、キヤノンスター社は世界最小の切開創で挿入できる高品質の眼内レンズを独自開発することによって毎年110%から120%という2ケタ成長を続けてきた。
「水晶体にレンズを挿入するために眼球に8mmから10mmもの傷をつけていた時代があるんです。全身麻酔をして、入院が1週間から10日というような手術が、いまでは点眼麻酔でたったの3分から5分。眼帯をせずに帰宅できます。わが社は、白内障手術において、切開創を小さくすることが安全性を高め、品質を高めることだというところを追求して、わずか2.65mmの切開創から、折り畳んだシリコーンレンズをインジェクターで挿入するという方法を確立したのです」
 主要メーカーは、いわば「大手術時代」から眼内レンズを供給してきた老舗だが、最近では新しい折り畳み挿入式の眼内レンズに切り替えてきた。米国ではスターサージカル社、日本ではキヤノンスター社が「変形可能な眼内レンズ」ということで基本特許をもっている。
 手術の軽減がその大きな目的となっているが、それは単に患者の負担を軽減するというだけではない。白内障が病気というより、老化による水晶体の濁りであるところから、手術は社会の高齢化とともに飛躍的に増大していく。手術の軽減は、医師側ではむしろ今後増加する患者数に対応する技術進化という意味で重要になる。
 入院を必要としないという利点だけでない。ある医師は、毎年誕生日に年齢の数とおなじ手術を行っているが、キヤノンスター社の眼内レンズを使用すると、手術はそれほど軽くなる。患者を入院させなくても十分に利益を上げることのできるだけの手術数を確保することが証明されてきた。
 これまで医療機器部門をもちながら治療行為にはかかわらないという基本方針を貫いてきたキヤノングループのなかで、キヤノンスター社が眼内レンズの製造・販売にかかわっていることが奇異に見えたが、老化した目にクリアな視力を取り戻すという社会的貢献はきわめて大きい。結核予防の集団検診用X線カメラから始まって、高血圧・糖尿病など成人病予防の眼底カメラへと展開してきたキヤノンの医療機器の先端部分に、目の老化に対処する白内障手術にかかわる眼内レンズが連なってきたと考えれば、やはりキヤノンらしい分野選択というべきだろう。
 そしてここにきて、キヤノンスター社は新しい大きな動きを見せるらしい。国谷事業企画室長のオフレコの話によると、ここ1、2か月のあいだに、何かがある、という。欧米ではすでに視力矯正用の眼内コンタクトレンズへの動きが急だが、キヤノンスターが現在の技術力でやるべきこともまだたくさんある。進むべき道は用意されているようだ。


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