キヤノン通信――107号 世界初の「DOレンズ」とは何か?────積層型回折光学素子──2001.4(入稿原稿)


【キヤノン通信 107号 2001.4】

【特集】世界初の「DOレンズ」とは何か?────積層型回折光学素子


 すでに前世紀に属することだが、2000年の9月4日にキヤノンは新しいレンズ技術を発表した。世界で初めて「撮影レンズ用の積層型回折光学素子を開発した」というのである。同月25日からドイツのケルンで開かれるフォトキナ2000に参考出品する試作レンズ「EF400mm F4 DO IS USM」の存在が明らかにされたのだった。  で、この「キヤノン通信」の月例編集会議でその話題が出たのだが、だれもそのレンズの「世界初」の意味するところを言い当てることができなかった。そもそも「回折光学素子」とは何ぞや? というあたりで推理の糸はプツンと切れた。  かといって、取材してみようというほどの関心もまだなかった。あんがい細々とした部分的改良策という程度のものかもしれないという認識しかなかったということになる。  11月に開催された CANON EXPO 2000 @TOKYO にそのレンズは展示されたが、そこで聞き捨てならない一言を耳にした。「望遠系の色収差はもとより、広角系の色収差もとれます」というのだ。どうもただねらぬ実力を秘めているらしい……ということで、くわしい話を聞かせてもらうことにした。  結論から言っておきたいのだが、取材というかレクチャーというか、話を聞いてから改めてニュースリリースを読み返してみると、そこに書かれていることをなぞってもらったという以上のところまでは、取材者の知識レベルが及ばなかった。しかしこの技術が21世紀のレンズを大きく変えるということは確信できた。屈折光学系の撮影レンズに回折光学系が組み込まれることでレンズの大革命が始まるようなのだ。 ●色収差が消えてしまう  レンズというと、これまでは光の屈折(と反射)の法則に従って作られてきた。屈折光学系というのだそうだが、性質の違うふたつの透明物質のなめらかな境界面で光は反射し、あるいは屈折するという原理から、レンズは光を意図的に屈折させてゆがみのない画像を取り出そうとしてきた。  しかし、理想のレンズというのはどこにも存在しない。収差と呼ばれる像のボケ、変形、にじみ……などの欠点が構造的に存在して、どれかを抑え込もうとしてレンズ構成を変えるごとに、そこから新たな収差が発生してくるというのだ。レンズ枚数が多くなるということは、新しい収差を発生させながら古い収差を封じ込めようとしている悪戦苦闘を物語っているともいえる。  だからレンズ設計には無数のバリエーションがあるというのが常識で、どの収差をどの程度残しながら、総合力としてのレンズ性能を高めていくかが設計者の腕の見せどころになっているという。  その収差の多くは、レンズの中心を通る光軸に対して斜めに入ってくる光にズレが生じるというものだが、光軸に平行に入ってくる光も1点に収束しない場合がある。たとえば球面収差は、レンズが球面である場合にレンズ中央を通る光と、レンズ周辺部を通る光との間にズレが生じるもの。これは最近、非球面レンズの普及によって大幅に低減されるようになった。  もうひとつ、構造的な収差として色収差がある。特定の波長の光だけなら問題ないのだが、可視光線は紫(青)から赤までの波長の違う光の混合になっている。プリズムを通すと虹が見えるわけだが、レンズも実は複合的なプリズムと言ってよく、光線を七色の帯に拡散してしまう性質をもっている。本来なら1点に収束させたい光を手前から青→緑→赤という順に焦点を結ばせてしまう。  この色収差は焦点距離の長いレンズほど大きく現れてくるので、低分散と呼ばれる性質を持つ蛍石やUDレンズなどを加えることによって色収差を取り去ろうとしてきた。プロが使う大口径の超望遠レンズなどでは高価な低分散ガラスをふんだんに使うことで、驚くほどシャープな映像をとらえることができるようになっている。スポーツ写真やファッション写真をその種の大口径・超望遠レンズがすっかり変えてしまったのはご存じのとおり。  ……というわけで、「色収差を蛍石レンズ以上に補正することができます」とはいえ、これまで「撮影レンズへの応用は困難」と考えられていたという回折光学素子とやらを使ったといわれても、その価値がピンとこなかった。  ところが、色収差のことをあまり問題にしない広角レンズに対しても、回折光学を加えることで色収差をさらに厳密に除去することが可能……というレベルの新しい技術なのだそうだ。  しかも平たく言ってしまえば型押しでパカパカ作ることのできるプラスチックレンズの類を従来の屈折レンズ系にはさむだけのこと、それで色収差をほぼ完全に除去できるだけでなく、屈折光学的性能として非球面レンズの役割も同時に受け持つことができるという。な〜んだ、夢のレンズじゃないか。 ●色収差をとる方法  まずは「回折光学素子による色収差補正の原理」【省略】をごらんいただきたい。「屈折光学素子」と書いてある従来型のレンズでは青→緑→赤という波長の順に結像するところで、「回折光学素子」では赤→緑→青という逆の結像順になる。そこでその両方を合体させると色収差が打ち消し合って消えてしまうというのだ。  試作した400mm F4 DO IS USM レンズの場合が「回折光学素子を用いた色消しの実際」【省略】にまとめられている。  この場合は最初に従来型の400mm F4レンズがあり、すでに十分な色収差の補正がなされていた。  しかし従来型の設計手法でコンパクト化しようとする場合にはレンズの屈折力を強めていくので、色収差が急激に悪化して、とくに青が大きくズレていってしまう。一番手前で焦点を結んでいた青がいちばん遠くに移動するというような大きな崩れが生じてくるのだ。  そこで回折光学系を組み込むのを前提にしたコンパクト化では、低分散ガラスを凸レンズに使っていた従来型の手法を凹レンズにするなどして、色収差の大きさにはいっさい気を使わずに青→緑→赤という順序とその間隔の規則性だけを実現しておく。  そのレンズ系の一部を回折光学系と差し替えると色収差がみごとに打ち消されるというのだ。なぜか? 回折素子による色収差の補正は、回折格子と呼ばれるもののピッチ(密度)を変えることで補正量を自由に変化させることができるという。ただし赤→緑→青という色収差の並び順とその波長に支配された間隔は動かないので、屈折光学系のほうで色収差の順序と間隔を整えておく必要がある……ということなのだ。  つまり、これまでのように凸レンズで生じた色収差を凹レンズで消していくというようななだめすかすような手法ではなく、色収差の性格だけ整えてあれば大きさはどれほどでも一発で相殺できる、というのである。 ●回折光学系とはどういうこと?  今回キヤノンで開発されたのは「積層型回折光学素子の概略図」【省略】に描かれている。高さ約8μmの鋸歯状回折格子というのが同心円上に並べられた一種のプラスチックレンズで、それを2枚向かい合わせに置いてある。空気間隔が約1.5μmに固定されるように、前後のガラスレンズを基板として張り付けた上で組み立てられている。  回折というのは、かつて光が波動であることを証明する重要な現象であったようだが、シロウトの一般常識とはなかなかなじまない。「鋸歯状回折格子」というのは位相型回折格子と呼ばれるものだそうで。これは百科事典ではエシェレット格子とも説明されている。  回折というのは、大海に向けて小さな水路をもった港に波が入ってくると、水路を抜けた波が背後にまで回り込むという現象のことだそうで、光の場合、透明の板に細い溝を細かな間隔で並べていくと溝のところは光が拡散して通過せず、溝と溝の間がスリット状に光を通して回折を起こすという。そのスリットの間隔と波の波長によって光は規則正しく、かつ多方向に進んでいくのだが、波長に幅のある自然光をひとつの方向に集めるために材質と形状のちがう2枚の鋸歯型解析格子を接近させて重ねることで可能にしたのだという。  CDやDVDの記録面には細い溝が多数切ってあるので一種の反射型回折格子になっている。虹色に光っているのは波長ごとに違う方向に進む光があるということなのだが、その回折光をきちんとひとつにまとめ、さらに波長によるズレの大きさをコントロールすることに成功したのだ。  すでに特許が申請されているというから堂々たる発明ということになるが、その発明者はコアテクノロジー開発本部のオプティクス技術研究所主任研究員の中井武彦。大学で応用物理を学んだ頃から回折がメインテーマであったというから、夢が花開いたということになる。  回折光学素子はかつて複写機でRGBのセンサーに色を分けるという使い方を実用化したことがあるのだそうだが、そのときの設計環境がそのまま今回の撮影レンズ用の開発に生かされたという。  単一の波長ではCDドライブとDVDドライブの切り替えのできる多焦点レンズなどで実用化されているが、波長の幅の大きい可視光域全体を相手にした例はなかった。しかし、もし回折光学系のレンズができれば、レンズはきわめて薄くなり、軽くなり、色収差に関してはほぼ完璧に決着をつけられる。  巨大な蛍石を必要とする大口径の超望遠レンズに対してもコンパクト化が計れ、素材はきわめて安価になる。ただし金型が高価なのでロットが大きければ……安くなる。  できれば素晴らしいが、できなくてもおかしくない、というリスクのあるこの研究に中井が没頭できたのには、キヤノンでのレンズ開発の環境の変化があった。1980年代に光学設計部隊は各事業所に所属していたが、90年代になってレンズ設計センターにまとまった。「せっかく集まったのだから、統一的なことをやりたいね」という機運が盛り上がってきたのだという。  そこにトップからの理解も得られた。「5年とか10年とか期間を区切ってやりなさい」ということで、かなり自由な研究環境が整った。  複写機・事務機の分野からやってきた中井と、レンズ開発センターの主任研究員の小川秀樹が強力なコンビネーションを発揮する。 「回折光学素子が使えると、望遠レンズのコンパクト化という方法へも、超高画質化にも進めます」と小川はいう。  さらに「レンズ枚数の削減」や「安価なガラス素材の採用」などで軽量化やローコスト化もはかることができる。  そこでまず、超望遠レンズとしてプロが一線で使う400mmレンズの画期的なコンパクト化を小川は狙うことにした。従来の400mm F4に対して、重さが1,930gで36%減、全長が26%減の317mmにまとまった。プロ用のレンズとしての十分な耐久力も確保して、この上半期中には発売される。  性能を同等にした場合の小型軽量化にこれだけの効果を与える回折光学素子にはもうひとつくふうがある。今回の試作では直径100mmのものを作ったのだが、鋸歯型の格子を同心円上に155本並べている。単純平均すると0.6mmほどの間隔だが、最小ピッチは0.156mmまでせばまる。そういうピッチの変化によって、回折光学系のレンズでありながら屈折光学系の非球面レンズの役割も果たすように作られた。  そのための精度がマイクロメートル(1/1000mm)以下であるため、キヤノンでは金型を自社で作ったが、その金型を作る工作機械もまた自社製の最先端のものを使用したという。  特許の壁をくぐり抜けて世界のどこかで同様の回折光学素子が作られたとして、「精度的に当分どこも追いつけないでしょう」と小川は語る。直径10kmの円の円周で新聞紙1枚程度の誤差しか許されない工作精度の金型によって、あっちこっちに散らばりたがる回折光をほとんどロスせずにうまく束ねて、ほとんどすべての光を撮影光として利用できるところまで作り上げたのだ。  今回のレンズは十分に大きなレンズをコンパクトにするために100mmという直径のものにしたが、金型さえ作ればもっと大きなものでも作れるし、小さい方では直径1mm程度のものまで可能という。あらゆる収差に対してシビアなデジタルカメラ用のレンズを画期的な性能に引き上げる可能性も十分に秘めているようなのだ。  それにしても、新しい400mm F4レンズは豪華絢爛といっていい。回折光学を意味するDO(Diffractive Optics)に加えて、光軸を意図的にブラすという従来の光学設計手法では禁じてとされてきた手法によって手ブレを吸収するIS(Image Stabilizer)が搭載され、さらにキャノンが世界で初めて実用化に成功した超音波モーターのUSM(Ultra-Sonic Motor)が自動化をになっている。キヤノンのハイテクレンズの象徴として、今やデビュー直前ということになる。

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