あむかす:旅のメモシリーズ No.510
AMKAS…アムカス…あむかす 1969から1974.4
あむかす:旅のメモシリーズ No.510
AMKAS…アムカス…あむかす 1969から1974.4
まとめ:伊藤幸司(1976.12発行)
■第1期=AMKAS時代────1
●あるく・みる・きく・アメーバ集団
「アメーバと呼ばれるちっちゃな度物をご存知でしょう。ひとつの個体がゆらゆらと動いていたと思ったら、いつの間にかふたつに分かれていました。よく調べてみると、いずれも個体として完全な機能と、同一の性格をもっているのです。……やがて分裂を重ねて、ある空間をおおいつくしてゆきました。
奇妙な話からはじめましたが、私はこの小生物の生態に、組織の理想像を見いだしたのです」
こんな書き出しの小文が日本観光文化研究所の小冊子「あるく・みる・きく」にのったのは1969年11月であった。
「私たちが真の旅をさぐり、実践していく仲間の集まりを考えたとき、まず頭に浮かんだのは組織の問題でした。アメーバのごとき組織です」
東京農業大学に探検部を創設し、学生探検家たちの全国的な組織づくりに奔走してきた向後元彦の、新たなうんどうのノロシはこうしてあげられたのである。
翌年3月号では、京都大学山岳部出身の宮木靖雅が読者のひとりとして援護射撃をおこなっている。
「さあ皆さん、アメーバ活動を開始しましょう。向後氏のアメーバの理念論のなかにおける活動というのは、旅のもついろいろな側面、徒歩旅行、河下り、民族調査、ひとり旅……というようなさまざまな方面でそれぞれ一匹のアメーバをつくり、その活動を活発におこない、さらにそこから新しいアメーバを分裂させるというもので、これこそアメーバ理論の中核をなすものです」
このころ向後のまわりには京都から引き抜かれた立命館大探検部出身の森本孝や、向後とともに星野紀夫を隊長とする「中央アジア探検隊」に参加した早大探検部出身の二名(ふたな)良日などがいて、新しいうんどうの準備は着々と進められていた。
そして1970年7月号の「あるく・みつ・きく」誌上で《動アメーバうんどう》が正式に提唱された。
***
……動的人間=動人────この激動の現代に対処するために、否もっと基本的な「生きている」生々しい自覚をもつために、私たちは《動く》人間、動人とならねばなりません。《動く》の第一歩は「旅」が効果的です。
「旅」とは、古典的旅だけでなく、あらゆる手段を駆使した、あらゆる目的の《人間の移動》の総称です。「旅」は強烈な原体験を生じ、魂を激しくゆさぶるはずです。そのゆさぶりの中には、自己の生き方の反省も、自己をとりまく社会の批判も……さまざまなことがあるでしょう。
《動き》はさらに発展します。「旅」の成果は、自己の内面にも組み込まれ、さらに社会をより人間的にする《動き》にまでなっていきます。甘くセンチメンタルな、逃避的なにおいのする旅人でなく、現代社会を力強く生きる《動人》こそ、新しい人間像ではないでしょうか。
……発展的分裂と有機的結合の原理をもった《動アメーバうんどう》は、集権的な長もいなければ、タテの組織もない、いわば全開放(組織)の形をとります。個々のアメーバは、おのれの欲するところにしたがって動き、必要に応じて自発的なプロジェクトをつくったり、テーマ別、地域別の小組織が生まれたりします。上意下達のないこと、つまり自主的な動きだけが、このうんどうの組織理論となっています。
……これまでに述べられたことは、しょせん「絵に描いたモチ」にしかすぎません。《動アメーバうんどう》もまた、動き出さねば、何ら価値のないものです。目標は遠くはるかですが、まず「あるく・みる・きく」からもひとつのスタートをはじめます。
「あるく・みる・きく・アメーバ集団」(通称AMKAS)が事務局を日本観光文化研究所に置いて活動をはじめます。
***
日本観光文化研究所は、近畿日本ツーリストがその収益の一部を社会に還元し、あわせて「旅とは何か」「旅はどうあるべきか」を自由な立場から研究・実践してもらおうと設立した機関である。日本の偉大な旅人のひとりである宮本常一のもとに、国内をさまざまな視点をもってほっつき歩いている旅人間たちが集まっていた。
徹底的に歩くことで自分の眼を大きく見開こうとする若い貧しい旅人間たちに対して、研究所はほとつの原則をもっていた。
「ここ(研究所)で食おうとは思うな。なけなしの金をつぎこんで頑張っている多くの仲間が、こことのかかわりで、すこしでも永く深く旅を続けられるようにしようじゃないか」
この了解点は、苦しい旅の人生を生きてきた宮本常一の足跡をふりかえってみるなら、研究所のもっとも妥当な方針であることは明らかだ。そしてこのようなバックボーンが、上下関係や意地きたない利権関係でかたまりがちなこの種の組織において「一国一城の主」たちが有機的に結合する優れたサロンをつくりあげていた。
向後のいうアメーバ組織は、すでに研究所のなかに無意識のまま存在していたのだ。
AMKASは大学探検部流の行動技術論を武器として《海外旅行》にきりこんでいくうんどうでもあった。
1964年の「海外渡航の自由化」は、幕末の日本開国に対して日本人開国ともいうべき歴史の転換点であった。その前夜から法の目をたくみにくぐりぬけて世界の現実を自分の眼で見ようとした大学探検部のエネルギーは、1960年代には大きな足跡を積みあげていた。石毛直道のような行動学者や本多勝一のようなジャーナリストが続々と育っていった。そして何よりも新たな世代の行動人間が探検部やその周囲から生まれていった。
しかし残念なことに、大学探検部は1970代を目前にして「探検」すなわち「学術探検」という語義の固定化の重圧のなかで苦悩しはじめたのである。
向後、宮木、そして日本観光文化研究所事務局長の宮本千晴らは「たんけん」をめざす若者たちが本来的にもっているロマンに満ちた行動力を重視していた。彼らは「アクト・タンク」(シンク・タンクに対する行動者集団:ACT TANK)の構想をもって《動アメーバうんどう》を提唱したのである。彼らを含めて9つの大学から有能なメンバーを結集した南極の最高峰ヴィンソン・マシッフ遠征計画は、全員の人生を大きく狂わしたままでつぶれたが、その後、この計画からいくつものアクト・タンク活動がつづくことになるのである。
行動人間の結集が彼らの目標の右足とするなら、左足は「地球を教科書とする旅人」の結集である。
海外へ旅立つ日本人の数がどれほど膨大なものになっても、日本観光文化研究所にコネクトしている旅人間たちのレベルに達する世界旅行者はまだ少ない。民俗学の運動が多くの優れた旅人をからだで知った旅人間たちを育てる。探検志向の学生たちの真の期待を「旅」という観点からとらえなおし、あわせて莫大なエネルギーを放出しつつある「世界旅行者」にヒッチハイク教科書とはちがった方法論を提示していこうというのが、AMKASであった。
■第1期=AMKAS時代────2
●たんけん会議
1970年6月に、白馬山麓の法政大学山荘において3日間にわたる「たんけん会議」がひらかれた。全国各地から集まった大学探検部のOBや現役は60余名、全国的なひろがりをもった「たんけん族」の会合としてははじめてのものだった。その詳細は、向後元彦が「現代の探検」創刊号(山と渓谷社)にまとめている。
会議は参加者全員によって選ばれた8つのテーマに分かれてパネル・ディスカッションからはじまった。
1)社会人としての探検と活動
2)企業と探検
3)探検をジャーナリズム
4)探検学校設立
5)たんけん族の結集をうながすには
6)探検未来論
7)自然と人間と社会
8)探検にかわる言葉
白熱した討論が深夜までつづいた。しかし過去に何度となく盛りあがっては消えた「探検部連盟」や「探検協会」設立の動きとはちがって、各人の《原体験》から「たんけん」をとらえなおしてみようとする方向で討議は進んだ。
それはこの会議の主催が《動アメーバうんどう》であったことによる。しかし同時に、会議に際して立命館大学探検部の創設メンバー・杉山洋らが予告版を出した「新聞:探検サロン(東京)」の名が示すように、権威主義的な中央集権組織を拒否して、各地に並列的なグループの誕生を願う考え方が強く意識されていた。
30代に足をつっこんだ探検部創設メンバーたちの「探検サロンTOKYO」もこの会議の開催に大きな役割をはたしていた。
向後は会議の報告をつぎのようにまとめている。
……語りに語り、飲みに飲んだ「たんけん会議」は終わった。この会合をもった意義を、いま云々することはできない。それは、今後ここに集まった個人個人が。この集まりをいかに生かしていくかで評価されるだろう。
……探検は両刃の剣である。使い方次第で、いかなる結果もひきだせる。探検をより人間的な社会の創造に役立てていくことこそ、現代の探検ではなかろうか。私たちは認識も新たに、現代の「探検」をつくりだしていきたい。
■第1期=AMKAS時代────3
●たんけんおじさんキャラバン隊:タッピー
「たんけん会議」の討論の中で「たんけん族の結集をうながすには」と「探検学校設立」のふたつのパネルから具体的な行動が提案された。《探検おじさんキャラバン隊》である。
たんけん族の社会還元活動として、たんけんのロマンを育んでくれた自分たちの子ども時代に向けたタッピーうんどうである。
タッピーとはタンケンとイッピー(あるいはヒッピー)の結合語。具体的には、強烈な原体験を背負いこんでたんけんから帰った仲間が、全国の子どもたちにスライドを見せ、熱っぽく語りかけていこうというものだ。同時にキャラバン隊と現地での受け入れ隊員とで、各地に「たんけんサロン」を残し、たんけん族のコミュニケーションのパイプをはりめぐらせていく。
オンボロ車に夢のせて
町から町へ、村から村へ
げんとうおじさんやってきた
そしてぼくらは
たんけんサロンをのこす
町に、村に
連絡人として東京では森本孝、大阪では松井鴻が立候補した。そしてただちに下記の仲間が体験談や労力の提供者としてタッピー・アクトタンクに登録された。
向後元彦(東京農大OB)、向後紀代美(東大大学院)、川瀬浩邦(早大OB)、平靖夫(法政大)、鄭仁和(上智大)、伊藤幸司(早大OB)、森本孝(立命館大OB)、西山昭宣(早大OB)、星野紀夫(東海大OB)、滝田真砂子(学習院OB)、馬場彰夫(京都芸大OB)、松井鴻(東京農大OB)、岡田真樹(立命館OB)、上村大八郎(東大)、野地耕治(上智大OB)、上幸雄(早大OB)、石田恵津子(法政大)、柳本治美(お茶の水大OB)、阿部正恒(山と渓谷社)、森國興(日大OB)、成田佳紀(横浜市大)、杉山治(探検サロン新聞)、田中俊夫(法政大)、関野吉晴(一橋大)、藤本久男(法政大)、佐藤彰芳(専修大)、増永憲彦(法政大)、菊池正志(日大)、向後利彦(信州大OB)、関根倫夫(信州大OB)、有川英夫(東大)
タッピーの最初のキャラバンは7月にまず信州・佐久へと出発した。マネージャー・森本孝、ラップランドのスライド・鄭仁和、ナイル河下りの8ミリ映画・伊藤幸司。3人を迎えたのは信州大山岳部の向後利彦と探検部の関根倫雄だった。そのときの体験は伊藤が「現代の探検」2号にまとめている。
東京からのキャラバンは銚子、仙台、横浜へと続いたが、大阪ではすこし違う方向へと発展していった。
たんけん会議の直後に大阪でつくられたサロンには関西の私立大学の探検部の若手OBたちが結集した。かれらは丹後半島の過疎集落「木子」(きご)で一軒の空き家を借り受け、ワラぶきのこの農家をベースとして「ぐるーぷ・木子」が生まれた。
かれら8人のタッピーたちがはじめて木子に入ったのは1970年11月22日であった。それ以後のぐるーぷ・木子の動きは、松井鴻が「あるく・みる・きく」1972年4月号に書いている。
***
関西在住の8人の単細胞動物タッピー族は、ワラぶき屋根、イロリの火、それを取り囲む大自然といった過疎地独特な雰囲気のなかで、関東のタッピー族と同じく、情熱的でロマンチックな話にふけっていたわけです。
ヒマラヤ・洞窟の世界・海・熱帯のジャングル……と《夢をのこした》ところのことを。
また幼いころにもっていた未知の世界のことを、子どものころ駆け回った山や川の話を、朝早い太陽を追って木の芽や草の香りのする山へ登ったり、泥んこになって洞窟へ入ったりして毎日遊んだころのことを……。夜の明けるのを忘れて語りあったりしました。
こうして木子の根城に集まることが重なっていくうちに、私たちはこの木子という環境のなかで、本来の遊びをやろうと思うようになりました。未知の世界への素朴な憧れをどうしても忘れることができず、いまもそのロマンを自ら行おうと努力を続けている私たちにとって、現代の文明が、もともと自然と素直にありのままに関わり合うことを喜んだはずの「遊び」だから、いたるところで肉体を切り離してしまっていることは恐怖でした。なんとか冷たい機械に遊ばされそうになっていることに抵抗したいと思いました。
私たち以上に現代文明のなかにがっしりとらえられた現代っ子は「自然」とどう「遊ぶ」のだろうか。いや、私たち自身が自然をバックにどれだけ遊び得るのか。同じ場でたがいにどれだけ主体性をもった「遊び」ができるのか。こういうことを確かめてみたくなったのです。
もはや「子どもたちにファンタジックな夢を植えよう」というのではありません。子どもと共通の場を通じて、ファンタジックな夢をつくろうという試みでした。
***
林間学校ではなく、1週間大自然の中で自由気ままに子どもたちを解放する「探検ごっこ」は、1971年8月2日から、小学5〜6年29名を集めて行われた。
ぐるーぷ・木子のメンバーも、たんけんとは縁のない若者たちで「数十人」としか言いようのない大きなサロンとなっていた。
探検ごっこはその後も関西各地で続き、翌1972年8月にはミクロネシアのヤップ島にまで足をのばした。リーダーは岡田貞樹以下7名(各自14万円の参加費を払う)、参加した小・中学生は17名(12歳以下は8万円)、5日の旅であった。
ぐるーぷ・木子からは若者を対象としたアドベンチャースクールも生まれた。大脇武昭を中心とするこのグループは、1972年8月に沖縄西表島(13名)と台湾蘭嶼(6名)の二つのパーティを送り出した。
そして翌1973年夏にはインドネシア・スラウェシ島(セレベス)へ出た。
探検ごっこが探検おじさんキャラバン隊の関西版とすれば、アドベンチャースクールはアムカス探検学校に対応するものであった。ぐるーぷ・木子はその後もあむかすと深く結ばれて活動している。
■第1期=AMKAS時代────4
●AMKASファイリング・データ────雑誌からの資料
《動アメーバうんどう》開始の準備に向後元彦のまわりに集まったのは、森本孝(立命館大)、二名良日(早大)、平靖夫(法政大)などだった。
そして《たんけん会議》が行われ、日本観光文化研究所に事務局を置いてAMKAS(あるく・みる・きくアメーバ集団)が動き始めると、新たなメンバーが加わった。いずれも海外遠征を目指すものや、遠征から帰って新たなステップを踏み出そうとするものたちだ。
AMKASの最初のプロジェクトに参加したのは次のメンバーである。青木憲一(故人・法政大山岳部)、朝日奈大作(東大)、石井一郎(東京農大)、伊藤幸司(早大)、岡村隆(法政大)、小川渉(早大)、木村妙子(東京女子大)、向後元彦(東京農大)、武内良子(東京女子大)、津田邦宏(早大アジア学会)、原好子(早大)、森本孝(立命館)。
AMKASは新しいたんけんをめざし、同時にあらゆる旅人間に対してインフォメーション・センターとして機能しようとしていた。
当時研究所にあった資料は、ほとんどが国内のものであり、世界レベルで利用するものはほとんどなかった。
本を買い集めるには莫大な金と収蔵スペースが必要になる。第一そういうやり方は多くの研究施設や個人でやっている。まだ誰もやっていない方法はないか?
AMKASでは、雑誌のバックナンバーから資料となる記事をゼロックスでコピーし、それを地域別にファイルする方法を選んだ。
はっきり言って、商業雑誌の誌面を限定された記事では、資料価値はかなり低い。しかし逆の見方をすれば、その時期にもっとも目立つ活動を紹介しようと務めるのが雑誌である。それをたどれば、誰が、いつ、どんな行動をしたか? アウトラインは押さえられる。単行本にならなかったものもフォローできる。
十分に書き込むことが難しい細かな点を知りたければ、著者に直接問い合わせてみればよい。具体的な疑問をもって、真剣にお願いすれば、多くの人が可能な限り協力してくれるはずではないか。そこに旅人と旅人とをつなぐ絆が生まれる。
ファイリングのシステムについては、図書館学専攻の朝日奈がさまざまな方法を検討した。そして国別分類を基本とすることになった。
採集の範囲は、日本語で書かれたすべての雑誌で、創刊号から1970年12月までとした。どの雑誌を担当し、その中からどの記事をコピーするかは各人に任された。やりたいものをやる、それが良い結果を生むことは明らかだった。
1970年8月から12月までの作業で、下記の範囲を収録した。
1)月刊アフリカ(アフリカ協会)
創刊(1961.6)から1970.12まで
2)アフリカ研究(日本アフリカ学会)
創刊(1964.12)から9号(1969.11)まで
3)旅(日本交通公社)
1巻7号(1924)から1968.12まで
4)世界の旅(修道社)
創刊(1959.8)から33号(1962.4)まで
5)世界の秘境(双葉社)
創刊(1962.4)から92号(1970.8)まで
6)山と溪谷(山と溪谷社)
創刊(1930.5)から379号(1970.5)まで
7)岳人(東京中日新聞)
161号(1961.9)から281号(1970.11)まで
8)地理(古今書院)
創刊(1959)から1970まで
9)民族学研究(誠文堂新光社)
創刊(1935)から25巻4号(1961.9)まで
10)海外市場(日本貿易振興会)
創刊から1970まで
11)科学朝日(朝日新聞社)
創刊(1942)から1970.6まで
12)昆虫と自然(ニューサイエンス社)
創刊(1966)から5巻12号(1970)まで
図書館や編集部からお借りしたこれら雑誌のコピーは、たちまち5,000項目を超えた。小さな研究所だから、たちまちファイリング・スペースがなくなった。
仕事はまとめの方向に進めざるをえなかった。これらすべてをカードに登録したのである。
カード化の方式についてはちょっとした発見があった。
同じ著者でも、雑誌によって扱い方が違ってくる。同じ雑誌でも書き方を変える場合もある。そういう違いが、肩書きの付け方から類推できる場合がある。著者をフォローするデータとしても、肩書きは記事内で記されたとおりに書き加えることにした。
雑誌のタイトルからは、記事の内容を推し量れない場合が多い。当然のこととして、内容の要約を付記する案が出た。しかしそれは手間がかかるし、担当者によって基準が変わる。この問題は小見出しをすべて書きとることで解決した。慣れてくると、記事の範囲や内容の深さまで、かなりのレベルで推測できるのである。
こうしてつくられたカードを原稿として、『インド亜大陸』と『アフリカ』の2冊がAMKASレポート(出版シリーズ)としてまとめられた。他の地域はまだ、まとめるだけの量と質が確保されていない。
AMKASファイリング・データは、持ち出しは禁止だが、自由に利用してもらえる。希望があれば、ゼロックス(実費)をとることも可能である。諸条件が整えば、さらに整備・拡張したい部門である。
なお、断片的なデータもファイルしている。これはあむかすを拠点に活動している仲間が貴重な資料をコピーして入れたり、余分のパンフレット類を持ち寄ったりしている。遠征計画書などもここに入れている。利用だけでなく、資料の提供(コピーします)にもご協力ください。
また地図は、英国のGSGS 100万分の1シリーズが絶版が多くなったため、米国のUSAF エアロノーティカル・チャート(100万分の1)をほぼ世界全域にわたってファイルしてある。(日本国内は5万と20万)
そのほか系統的に集めているものとしては大学探検部の部報、報告書などがある。純粋な登山は別として、たんけん的なレポートがあれば是非ファイルさせていただきたい。(要返却のものはコピーをとります)
■第1期=AMKAS時代────5
●AMKASレポート────出版シリーズ
たんけん会議の盛り上がりの中から、大学探検部の活動をまとめようというプロジェクトが生まれた。AMKASがそれを受けて、平靖夫が担当することになった。
かれは当時60校近くに増えていた探検部に調査カードを発送し、北海道と関西で協力依頼を兼ねた面接調査をすすめた。
日本の真の開国ともいうべき1964年の海外渡航の自由化。それに先駆けて活動を開始した大学探検部は、1960年代を通じて、海外活動の急先鋒であった。その軌跡調べは、日本人の海外旅行史の上でかなり大きなウエイトを占めるはずだ。
しかし、たかだか10数年の歴史を掘り返すだけでも、その種の調査活動は膨大な金と労力を必要とする。
このプロジェクトをきっかけにして、AMKASが日本観光文化研究所のワク内で行う「調査」と「出版」のあり方に根本的な検討を加えることになった。
そして1971年から、タイプオフセット・B5判・500部発行の出版シリーズ「AMKASレポート」をスタートさせることになった。
以後3年の間に5冊が刊行された。
No.1『資料目録・インド亜大陸』(400円)
向後元彦・石井一郎編
No.2『イスラーム世界のふたつの割礼』(500円)
法政大学モルディブ諸島探検隊
早稲田大学第二次ナイル河全域踏査隊
No.3『資料目録・アフリカ』(600円)
伊藤幸司・小川渉編
No.4『戦後学生探検活動史』(600円)
平靖夫・岡村隆編
No.5『ウンダンウンダン──ボルネオ・モモグン族の祭りと儀式』(500円)
東京農業大学探検部 下元豊・塩原正
No.6としては第1回アムカス探検学校・ボルネオのリーダーレポートを予定していた。しかし編集の最終段階で伊藤が原稿を紛失するという事故が起こって、未完のまま消えた。
資料目録や学生探検史はAMKASが日本観光文化研究所の調査研究プロジェクトとして行ったものの報告である。
AMKASレポートの本来の目的は「ふたつの割礼」や「ウンダンウンダン」で試みた「創造的な旅をする人々すべての発表の場」としての出版にあった。
100部の別刷り(表紙刷り替え可)で原稿料に変えたから、制作実費は500部が順調にはけていけば回収できる。「わずかな回転資金でシリーズは続いていく」……という判断はちょっと甘かった。
制作テンポの極端な間延びも、このプロジェクトにブレーキをかけた。著作者も制作者もともに若い行動人である。旅にも出るし、生活費も稼がねばならない。作業は停滞しがちになり、活字化の重圧と発行の義務感ばかりが募っていった。
そして、シリーズが拡充されない限り、新たな販路は開かれない。情熱で支えるには難しいところに落ち込んでいってしまった。
AMKASレポートの「発表の場」を再検討し、規模をぐんと縮小したのが、1974年4月からオープンした「あむかす・旅のメモシリーズ」である。
なお、AMKASレポートは各号ともまだ在庫が残っています。
■第2期=アムカス時代────1
●アムカス集会
1970年を「AMKAS(あるく・みる・きくアメーバ集団)時代」と呼ぶことにしよう。日本観光文化研究所が月刊誌「あるく・みる・きく」の発行と並行してすすめた《動アメーバうんどう》の実験期間だったともいえる。AMKASは「たんけん」と「旅」のかかわりの中から、新しい方向を探ったのだ。
向後元彦は1971年の初めに、一家四人でミクロネシアを歩いた。ポナペ島を中心とした1か月の旅の間に、かれはAMKASの次のステップを模索していた。
1971年と1972年の活動は、たんけん族が一般の人たちに具体的な呼びかけをおこなった「アムカス時代」としてくくることができる。
「アムカス カオとカオ──旅や探検のお話・スライド・雑談」が月例の集会として始められた。当時「あるく・みる・きく」では「私の旅」というシリーズが好評のうちに続いていたが、かれら著者たちをサロンに迎えて、生の声で語ってもらおうというのが発想点だった。
「身分相応のおやつ」を参加料として一般に開放した集い「アムカス集会」は、毎月1回、土曜日の午後に、近畿日本ツーリストの会議室で開かれた。マネージメントは石井一郎(東京農大探検部OB)が担当し、かれがインドへ去った後は曽我礼子(トラベル・ライター)が引き継いだ。
第1回(3月)「砂漠の旅」
坂本地人(東海大アラビア半島縦断隊)
柳本治美(東大アフガン農村調査隊)
第2回(4月)「8,000mの世界)
加納厳(日本山岳会エベレスト隊)
松沢憲夫(在ネパール大使館)
第3回(5月)「なんにもない島」
向後元彦(ポナペ家族旅行)
宮本正史(東大パラオ諸島海洋生物調査隊)
第4回(6月)「アフリカの人と自然」
戸谷洋(都立大教授・ケニア山)
伊藤幸司・小川渉(早大ナイル河下り)
賀曽利隆(アフリカ・オートバイ旅行)
第5回(7月)「氷とカリブーとエスキモー」
宮本千晴(東海大カナダ北極圏調査隊)
(特)伊藤碩男(アイヌの結婚式に招かれて・16mm映画とお話)
第6回(8月)────中止
第7回(9月)「ボルネオ探検学校報告会」
第8回(10月)「ネパール」
五百沢智也(東海支部マカルー隊科学班・氷河調査)
田村善次郎(武蔵野美大西部ネパール民族文化調査隊)
向後元彦(東京農大ネパール調査隊)
第9回(11月)「小スンダ列島」
吉本忍(京都芸大探検部・織物と染色)
アムカス集会はここで一度中断し、1972年秋から新たなかたちで始まる。
■第2期=アムカス時代────2
●アムカス探検学校
***
おかしな連中が、妙なことを始めた。アムカス探検学校だってさ。いったい何だい? 探検が学校で学べるの?
たんけん(探検・探険)──未知のところを、危険を冒して実地にさぐり調べること(岩渕悦太郎・国語事典)
さっぱり訳が分からない。分厚い辞書をひいてみても、分からないのは大同小異。「未知」とは誰にとって「未知」なのか。危険ってどんな危険なのか。……しかしともかく、惹かれるコトバだ。幼いころの夢がある。
東京は秋葉原、そのビルの中の小さな部屋。そこでぼくたちは夢を見る。
「ナイル河をさかのぼって、コンゴ河を下る。いいな。河をつないでアフリカ横断ができる」
「ニューギニアで1年ばかり暮らさないか。将来百姓をやってみたいんだ」
壁には大きな世界地図があって、あちこちに赤い印がついている。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、南北アメリカ……、この部屋に出入りしていた連中が、いまその場所に行って、必死になにかやっている。
そう、そんな旅を、ぼくらがしてきたような旅を、もっと多くの人たちにやってもらいたい。せめてきっかけを手伝おう。(「あるく・みる・きく」1972年4月号・特集探検学校)
***
探検学校は、やる側のさまざまな夢をこめて、とりあえず入門コースとして始められた。《たんけん》の技術が一般の人たちにどれだけ通用するか、その実験も含めて……。
【第1回】ボルネオ(サバ)
1971年8月1日から 15日間(A)
1971年8月15日から 15日間(B)
参加メンバー:33名(男14、女19)
参加費21万8000円(現地滞在費を含む)
個人IT割引期間内での残留、帰路の自由行動が認められた。
リーダー:伊藤幸司(マネージメント、マトンゴン村班、第2次キナバル登山班)、神崎宣武(テノム農村班)、三輪主彦(キナバル登山班)、曽我礼子(第2次マトンゴン村班)
【第2回】ネパール・ヒマラヤ
1971年12月25日から 26日間
参加メンバー:31名(男18、女13)
参加費21万6000円(17日間の分散行動費用は別)個体IT割引。
ヒマラヤ・マウンテンフライト──カンテェンジュンガからアピまでを見る4時間半のフライト料金は別会計で1人100ドル。
リーダー:小川渉(マネージメント)、五百沢智也(氷河調査)、田村善次郎(民具調査)
この計画は国際水文学10カ年計画の氷河地図作りの中で、ヒマラヤ地区だけがブランクになっている、という話から始まった。
それなら探検学校で手伝えないか。参加者は金を出しあって飛行機を飛ばし、ネパールヒマラヤ全域を空から楽しむ。その記録写真が氷河地図となって、学問にもネパールにも役に立って面白いじゃないか。
だが仲間不足で延期。バングラデシュ戦争。……やっと実現した正月元旦のネパールヒマラヤ全域飛行は素晴らしいの一語につきた。それからなんと、2〜3名ずつ9つにも分かれて、それぞれヒマラヤトレッキングやインド旅行へと旅立っていった。
【第3回】小スンダ列島に沿って
1971年12月26日から 17日間(A)
1971年12月26日から 28日間(B)
参加メンバー:19名(男4、女15)
参加費:25万円(17日の滞在費を含む)
リーダー:武蔵野良治(マネージメント)、向後元彦、向後紀代美
あらかじめ予定表が組まれた旅は「旅」ではない。とはいえ、現地での交通事情の悪さは想像以上のものであった。探検学校の22名はバリ島デンパサールで8日間の足止めをくらう。予定は変更され、どうしても染色を調べたい3名だけがチモール島へ。そしてロンボク島で先帰りの9名が別れて、10名は「東へ、東へ」と向かった。帆船に乗って。
この旅の詳細は、向後紀代美著『エミちゃんの世界探検』(毎日新聞社)に書かれている。またs1〜3回の探検学校を特集した「あるく・みる・きく」(No.62)はまだ在庫が残っている(100円)。
【第4回】アフガン・イラン
1972年7月3日から 26日間
参加メンバー:14名(男6、女8)
参加費:21万円(イラン班のテヘラン〜カーブル飛行機代は別)
リーダー:岡村隆(マネージメント)、西山昭宣、神崎宣武(イラン班)
バザールからバザールへ、隊商のように旅をして、悠久の自然と人と旅の歴史を実感したい。一隊はカーブルから北に向かってヒンズークシの山なみの向こうに広がるクンドゥーズの平原へ、もう一隊は東に走ってペルシャの古いバザールを点々……。
【第5回】小スンダ列島へふたたび
1972年7月23日から 15日間
参加メンバー:10名(男7、女3)
参加費:22万円(現地滞在費を含む)
リーダー:武蔵野良治(マネージメント)、小川渉
どうしてもカバーしきれなかった小スンダの島々の素晴らしさに再度挑戦。武蔵野リーダーが念願のコモド・ドラゴンと対面。小川リーダーはロンボク島のビンジャニ火山に魅せられた。
【第6回】アフリカ・カメルーン
1972年7月29日から 42日間(A)
1972年7月29日から 60日間(B)
参加メンバー:19名(男7、女12)
参加費:45万円(A班は滞在費も含む。B班はさらに200ドルの滞在・行動費と100ドルの予備費を加える)
リーダー:伊藤幸司(マネージメント)
知られざる国、中央アフリカのカメルーンへ。ことば(仏語)も通ぜず、観光地もないこの国へ、初めて外国に出る人たちを1か月放り出したらどうなるか? そして西へ東へ気ままに進む。11名の女性はコンゴ河をさかのぼり、戦乱のウガンダを抜けて、とうとう赤道アフリカを横断してしまった。
【第7回】パプア・ニューギニア
1972年12月26日から 37日間
参加メンバー:5名(男1、女4)
リーダー:青柳正一(マネージメント、トロブリアンド島滞在)、宮本千晴(ウィルヘルム山、ギルウェ山登山)
参加者が少なかったので、じっくりと旅を楽しむことができた。トロブリアンド島では土地の人たちに迷惑をかけることなく、1か月たった10ドルで生活できた。宮本千晴は仲間が北極圏で遭難したため、ネパール(第2回)と2次小スンダ列島(第5回)の参加を断念していた。ボルネオには参加メンバー(生徒)だった青柳正一が成長して、これで事務局サイドでのリーダー体験は一巡した。
2年間に7隊、130名の参加者とのべ18名のリーダーを送り出して、アムカス探検学校は休止した。いまだに参加希望の問い合わせが舞い込むし、参加メンバーからの再開要請もある。探検学校の門を叩いた人たちの総数は500名に近いのである。
探検学校を支えたものは何だったのか。「正直にそのまま言えば、やりたいからやった。ただそれだけのことだ」と向後・宮本は書いている。「ぼくらは旅の中で成長してきた。ぼくらの世界観は旅のなかで培われたような気がする」という意識から生まれた一方的なおせっかいだった。
いってみればオトナ向けのタッピー。理想としては探検部や山岳部などの組織を離れて「海外遠征」することだった。その入門コースとして、大学探検部の新入生トレーニングのレベルで企画を立てた。
参加資格は「老若男女、経験の有無は問わないが、他人まかせの人はお断り」とした。リーダー費用は原則として参加者負担とした(団体割引を最大限利用して、各人の必要経費に5〜10%上積みした程度だった)が、基本的には金儲けではないサロン活動と考えていた。だからリーダーは参加者を「お客」とは見ず、問い合わせから参加決定までの期間はできるだけ突き放すことにした。
万一、事故が起こった場合には、責任はとれないことも明言した。
「……結局リーダーも探検学校も本当には責任をとれません。理由はふたつ。探検学校はいわばサロンです。組織でも金儲けでもありません。だから参加者を「お客」とは見ていません。といっても言い出しっぺとしての、仲間としての道義的責任は最大の努力で果たすつもりです。
第2にもっと決定的な理由は、いやしくも自主的な旅を目指す以上、身分、財産、生命に関する責任は、自分以外にとりようがないと考えるからです。逆に言えば、完全な保証は完全に行動をしばる以外できなくなるのです。統計的に危険はきわめて小さいものですが、やりたいことをやりたいものは自分で保険を掛けてからやるのが作法と思います」
ちなみに、日本の旅行代理店が募集するツアーの責任範囲は「信頼できる航空会社」と「信頼できる現地旅行者・交通機関」を選ぶことで、ほとんどなくなってしまう。
計画はどのようなかたちで生まれたのか。
「いまのところ全く自然発生的です。アムカスの誰かが『夏にニューギニアに行こう。マネージャーを引き受ける』と言い出して、安くやれる方法が見つかれば、計画は動き出します。もちろんかれが適役か否か、そのテーマがいいか否かは、今のところ中核の何人かが検討しています。
その他のリーダー(現地の事情に詳しい人とか、各分野の専門家)も希望者から。こんな風だし、商売にするつもりもなく、その能力もありませんから、残念ながら先々のことは見当がつきません」
こんなところがアムカス探検学校の共通の原則だった。
そして7回の体験からいえることのいくつかは……。
たとえば「結局僕たちは連れて行かれたのではない」というタイトルで、ボルネオ参加者のひとり、青柳正一が書いている。(「あるく・みる・きく」)
「……探検学校参加者の主流を占める人たちというのは、男女ともに《28歳、独身、勤め人》という世代に代表される。この人たちは、旅行費はほとんど自分もちである。6対4ぐらいで女性が多く、20歳前後の人、30歳過ぎの人というのは少ない。
ひとつの理由は経済的なものがあろう。20歳前後の参加者は、すべて親のスネをかじっている。30歳過ぎの人には金があってもそんな余裕はなかなか作れないのかもしれない。その代わり40歳過ぎの人が、1〜2人、探検学校のどの回にも参加している。
そうするとやはり、主流を占める世代というのは、会社勤めをして、いくらかまとまった金ができて、このぐらいなら使ってしまっても大丈夫という人、高校を出て10年、大学を出て5〜6年の、28〜29歳独身という条件をもつ人たち、ということになる。
そして、そういう条件をもつ世代の参加者たちというのは、自分のこれから先のことについて、もう一度考えなくてはならない時期にさしかかってきているのではないか、ともいえるだろう。
……そういうときに《老若男女、経験の有無は問わないが、他人まかせの方はご遠慮ください。20人以上は連れて行かない》探検学校というものが、舌足らずの小さな新聞記事となって、自分の眼の前に現れたのである。
そこにはかなり強い、それでいて取り付きやすそうな《ぬけだし》の匂いがあった。旅に出たいと思っている──行かざるを得ない理由のある──人にとって、その小さな記事は、重要な意味を持つ出合いであったにちがいない。参加する直接の動機はさまざまである。ある人は会社から与えられた自己啓発休暇を利用して、自分を試してみたいと思った。すっかり仕事を頭から追い払うために海外を選んだ人もある。《探検》やキナバル登山にひそかに胸を躍らせた人もある。
だがもっと多かったのは、より内面的な動機である。
《嫁ももらわにゃ、あれもせにゃ、これもせにゃって、まわりからせっつかれる》状態に踏ん切りをつけたいと期するものがある。
《とにかく友だちと離れたかった。新しい友だちを見つけたいなんて気もあった》人もある。ある人は、行きの飛行機の上で、辞表を書いて、帰ってきてから会社をやめたという。
生まれ故郷のボルネオに行くことは、小さい頃からの夢であったという病身の女性は、病気であることを他の参加者にも隠し、医者にもだまって参加した。
こういう目に見えない重みを語ることもなく、参加した人たちのほとんどは友だちを誘うでもなく、誰にも黙って参加を決意している。
こういったさまざまな必然性をもった参加者にとっては、探検学校というのは、その意図はどうであれ、しょせん、安く、ちょっと変わった外国に行くという《場をあたえる》セット旅行でしかない。その他はきわめてあいまいだし、組織としても帰ってきた時点で解散になる。
しかし、行かざるを得ない人たちにとっては、それだけでもよいのだ。参加者は勝手に歩き回ったし、見てくるものもさまざまであった。そして一人ひとりのもっている──他人にはとても伝えられないほどの──さまざまに思い《過去と未来への思い》を背負い、その人なりに現地にのめり込んでいった。……
リーダーの側はどうだったか。《探検学校への参加は、一度だけでけっこうです》と題する向後元彦の分の中にこんな一節がある。
ボルネオ探検学校からみんな日焼けして元気そうに帰ってきた。さっそくリーダーのIにたずねてみる。
《うん。すごく楽しかった。こんな経験は初めてだけど、とにかく楽しかった》
KにもMにもSにも聞いてみたが、同じく《楽しかった》であった。
そんなはずはない。あんなに大勢、しかも初めて海外に行く連中を引き連れて行ったんだ。他人の世話ばかりで、自分のしたいこともできなかったのではないか。リーダーが4人もそろって《楽しかった》なんて……。
学生時代の合宿を思い起こす。人数が多くなるほど《個》が殺される。本質とは何のかかわりあいもない人間関係などに気を使って、本当に自分がやりたいことができなくなるのだ。楽しい旅をしたければ、ひとり、多くても3〜4人に限る、とぼくは思っていた。
……小スンダ列島からの帰国後、ぼくも同じ質問を受ける。
《旅はどうだった?》
《うん。すごく楽しかった。本当に楽しかったんだ》
なぜ楽しいのか、と質問されると困ってしまう。しかし、自分の心を分析してみると、様々な要因があって初めて《楽しく》なることがわかる。よい仲間というのも、大きな要員だ。
……小学校の遠足。そういえば探検学校にはしばらく忘れていたあの楽しさがあった。これは3回の探検学校に共通していえそうだ。初めて顔を合わせたメンバーでこうなるとは……。チームワーク論として非常に興味深い。
《楽しさ》の要因の中には《困難を乗り越えてやりとげた》という満足感も見逃せない。ネパールでは自発的に2〜3人のグループに分かれて、なんと9パーティにも分散したという。ほとんどのメンバーはヒマラヤはおろか、外国にも初めて。それがよくもまあ……。
リーダーが《楽しかった》のは、個々のメンバーがその旅にかけた期待にいくらでも応えることができたという満足にもよる。伊藤幸司はボルネオでの体験をこんな風に書いている。
……ポヌダァンでマガハウという祭りのあることは着いた日に聞いていた。6月に死んだ人の葬式なのだが、米の収穫が終わり、タパイ(酒)ができるのを待って、豚を殺して大宴会を催すのだ。
しかしポヌダァンがどこにあるのかは分からなかった。男たちに聞いても、山のほうを指さして「サァナ(あっち)」と言うだけだ。それだからこそ、知らない土地に飛び込んで、緊張度の高い旅をしたいと考えていたAさんが、真っ先に飛びついたのだ。
三日後──まずN君がもどってきた。もともと彼は口数が少ない。そのかれが二日二晩ぶっ通しで行われたマガハウの様子を熱っぽく話してくれた。
それはけっして華やかなものでなく、塩味の焼肉、白飯、タパイ、それだけがふんだんにあった。ロングハウスにすし詰めの人々が、飲んでは歌い、食べては踊る。それがとりとめもなく続いたという。
「あの祭りを見ただけで十分です。なにを見てもあれほどじゃないと思う。ボルネオに来てよかった。……言葉を勉強したい。帰ったらやることがいっぱいあるような気がするし」
ぼくはそれ以上聞こうとはしなかった。話せば話すだけ何かを失っていくような生々しいショック。それがありありと感じられたからだ。かれは帰りの飛行機の中で、会社に出す辞表を書いた。
ひとりでさらに二日間の村歩きをして帰ったAさんは、ゴモン部落で村人たちと冗談を言い合っているぼくらに、言葉のコンプレックスを感じたという。かれはいわば言葉のない世界を歩き、意志を通じさせるため遮二無二笑顔と単語を並べてきたに違いない。だがかれは、この短い時間でみごとに燃焼する旅をしたのだ。この一〇年、猛烈に働いてきたに違いない営業マンが、この旅に賭けたもの、それはぼくなどの想像も及ばないものだったろう。
「すべてを忘れて、ただ夢中に生きてみたいんです」
かれは最初からの希望を、きわめてポジティブな旅で表現してくれた。
といっても、そういうがむしゃらな体当たりだけが新しい世界を開いたわけではない。むしろ無邪気で素直な女性たちの受け入れられ方の早いのに舌を巻いた。
「マンデー! マンデー!」
二日目の夕方、ふたりの女性は女たちの叫び声に連れ出された。マンデーとはマレー語で水浴のこと。緑に濁った減水期の川から帰ると、サロンを胸で止めただけの立派なルングス族になっていた。
彼女たちは、自分では気づいていなかったけれど、この着いて早々のマンデーで、もう三か月も調査を続けている下元君たちがどうしても踏み込めないのは女の世界だった。
……女性の強みはこれだけではない。初めての社会に入っていくときに、男だけのパーティで味わう侵入者のいやなイメージがない。女性たちは母親や娘たちとすぐに結ばれた。すると必然的に家の中に招き入れられてしまうのである。冒険や探検とは全く無縁であった女性たちが、アッという間に村の生活に溶け込んでしまったのは、予想を裏切られたことながらうれしかった。
……村入りに先立って、ぼくは全員に、村の人たちの好意は大いに受けていいが、お金を渡すことだけは禁止すると言った。少なくとも、金で好意を買う態度は捨てて欲しかった。マトンゴンが開け始めているとはいえ、彼らの考え方として、客から金を受けるどんな理由もないからだ。
みんな、あれほどの好意を受けながら、それだけのお返しをしていないのではないかと感じているらしい。女性たちがおしゃまなヌリアンやその妹に作ってやったピンクのワンピースも、ちっぽけなお礼に過ぎないのだ。今ごろ、ゴモンのほとんどの家には、カラーの記念写真や美しいカレンダーがいっぱい飾られていることだろう。
ある日、盛装した女たちが集まった。記念写真の後で、か細い鼻笛の音に合わせて、素朴な即興歌が続いた……。
あなたは日本からやってきた
すぐに帰ってしまうけれど
この歌をおみやげに持っていってください
私はあまり上手に歌えないけれど
日本に帰ったらこの歌を聞いて
私のことを思いだしてください
……たった2週間の観光旅行ではあったけれど、そこには確実に33通りの旅があった。もっと主体性のないように見えた青柳君が、帰国後250枚のインタビュー・レポートをまとめた。参加者の旅の背景を探ろうとしたものだが、すべての人にあの旅への必然性があったことを明らかにしている。……
アムカス探検学校をやってみての発見のひとつは「パッケージ旅行」と「ひとり旅」のあいだの空間に膨大な旅行希望者がいるということだ。かれらは手とり足とりで見せてもらう「観光」は望まない。そして旅人同士の新たな出会いに期待している。
残念なことに、このぜいたくな希望を満たしてくれる旅行会社の企画はまだない。旅をできるかぎり「快適」なものとし、金で買えるたぐいの「サービス」をふんだんに盛り込むことを要求するのが現在の「お客」だからである。
1971年のボルネオと、年末から1月にかけてのネパール、小スンダの合わせて3回の経験で、探検学校を期待する人たちの層がはっきりと浮かび上がってきた。
1972年には、新たな実験企画が並んだ。アフガンの計画は、もともと春のシーズンを狙ったものだ。そして希望者の多いアジアハイウェイ沿いの地域に、今後、より安く、より自由に出ていく方法を探ってみた。
2回目の小スンダ列島は、同じ地域に繰り返し出かけることで、リーダー側での調査活動を進めることができないだろうか。また、遠征計画を進めている人がリーダーとなることで、お互い協力し合うことはできないかという狙いがあった。
そしてアフリカの場合は、未知のフィールドでのひと月の旅で一人歩きできる技術を伝え、あとは自由に散ってもらう。基本とする期間は2か月で、それ以上1年までの行動チャンスを確保する、という考えからスタートした(最終的には、2か月以内に限定された団体割引を利用することになった)。
このようなエスカレーションは、アムカスがサロンであったからできたのであろう。と同時に、リーダーのフレッシュな情熱を支えるための必然だったともいえる。
参加する側もまた、変化していった。2週間だったボルネオでは、そのほとんどは休暇を取っての参加であり、多くの人は一時の「ぬけだし」の中で旅を味わっていた。それに対してアフリカの場合は、42日間のA班に参加した2人を除いて、会社勤めの全員が退職を余儀なくされた。そして退職組の約半数は、帰国後の1年半の間に、再び長い旅に出た。
探検学校で結ばれたカップルが2組。現地で心惹かれた男性のもとに飛び込んでいった人もいる。
「帰った時点できれいさっぱり解散する」という原則は初めからある。しかし同じ釜のメシを食った130名の仲間の「その後」は重くのしかかり始めている。そしてリーダーにも、探検学校は「新たな行動」への刺激を与えたようである。
探検学校再開の要望があるにもかかわらず動き出さない原因は、どうもこのあたりにありそうだ。
■第3期=あむかす時代────1
●あむかす集会
1972年10月に、久々のアムカス集会が開かれた。「探検学校を振り返る」というテーマで、過去6回のまとめが行われた。
このころ、アムカスではヤングパワーが台頭していた。2度目の大旅行(『極限の旅』山と溪谷社)から帰った賀曽利隆や、探検学校リーダーへと成長した青柳正一、それに小川渉を加えて、1年間継続する「自然を見る目を養う会」が提案された。
賀曽利は「ひらがなの《あむかす》のほうがいいよ」と独り決めしてゴム印を作った。
「あむかす集会」はかつてのアムカス集会のサロン活動とは趣を変え、専門的な知識を持った人たちを講師として招き、自然の見方を様々な角度から学ぼうというものであった。
第1回(1972年11月) 火山
諏訪之瀬島……青木章(立正大探検部)
ビンジャニ火山……小川渉(小スンダ列島探検学校)
三原山火孔……恵谷治(早大探検部OB)
第2回(1973年2月) 山
東京から見えた山……横山厚夫
第3回(1973年3月) 地底
日本の洞穴……徳富一光(洞穴写真家)
第4回(1973年4月) 世界のチョウ
上村大八郎(東大探検部OB)
野外集会……奥多摩・古里
*この回から、翌日曜日に現場で実地説明を受ける「野外集会」も行うことになった。講師は同一。
第5回(1973年5月) 日本の植物帯
講師・小野幹夫(都立大)
野外集会……富士山
第6回(1973年6月) 日本列島の動きと岩石
講師・堀信行(都立大)
野外集会……城ヶ島
第7回(1973年7月) 夏休み野外大集会
講師・戸谷洋(都立大)
講師・川田潤(日本野鳥の会)
*戸隠高原の山荘に42名が集結。3日間にわたって「地図の作り方」と「野鳥の見方」を学んだ。
第8回(1973年8月) サンゴ礁
講師・堀信行(都立大)
*この回は野外集会に代わって「上野原めちゃくちゃ歩き」が行われた。また、8月中には賀曽利を中心として「山手線一周」と「東海自然歩道偵察」があった。後者は、賀曽利が3度目の旅から帰る1975年夏に80日間の踏破計画が確定した。
第9回(1973年9月) 秋の渡り鳥
講師・川田潤(日本野鳥の会)
野外集会……上総一ノ宮
第10回(1973年10月) 日本の氷河地形
講師・小畴尚(明大)
野外集会……木曽駒ヶ岳・千畳敷
第11回(1973年11月) 航空写真から集落を見ると
講師・宮本常一(武蔵野美大)
野外集会……奥三河月部落(1泊)
現地講師・鈴木富美夫
*花祭りにも参加した
第12回(1973年11月) 丹沢でシカを見る
講師・鎌田哲男(東京動物園協会)
野外集会……丹沢ヤビツ峠(1泊)
あむかす集会は、講師への薄謝と参加者への連絡通品費を日本観光文化研究所の援助をあおぐことで始まった。アムカス時代のマスコミ偏重の反省から出たものである。参加費はアムカス集会と同じく「身分相応のおやつ」である。
そして第7回の頃から、参加者とは別にあむかす集会出資者を募ることとし、年間出資1口500円を運営費に充てることにした。集会参加は従来どおり自由だが、連絡の義務を出資者の範囲に絞ることになった。
払込は現金であむかす宛て送付のほか、銀行振込(武蔵野銀行・普通・332-9・あむかす集会)、郵便振替(東京149154・あむかす集会)も利用できる。
12回続いた「自然を見る目を養うシリーズ」は終わった。小川渉が就職し、賀曽利隆が旅に出たため、後半の運営は青柳正一を中心として行われた。
そして1974年2月からは「眼でみる世界の気候景観」というテーマの6回連続の新シリーズが始まった。都立大の戸谷洋教授を中心とする地理学の研究者の方々によるもので、予定は「世界の気候」「極地」「寒帯」「温帯」「乾燥帯」「熱帯」。
第1回(1974年2月) 総論・世界の気候区分
講師・野上和郎(都立大)
第2回(1974年3月) 氷河地帯がやってくる?
講師・野上道男(都立大)
野外……筑波山
ここまでがすでに終わった。
■第3期=あむかす時代────2
●アムカスからあむかすへ
アムカス時代、つまりアムカス探検学校を中核に活動した1971年と1972年を支えたのは、日本観光文化研究所(近畿日本ツーリスト非常勤嘱託)の3人であった。アムカスの仲間から「中年子持ち連盟」と呼ばれたかれらは、
(1)向後元彦(「あるく・みる・きく」友の会担当)
学生探検を代表する人物のひとりで、遠征経験だけでもネパール、北ボルネオ、ヒンズークシ、中央アジアの4回、ほとんど出ずっぱりの10年を過ごしてきた。とくに企画力に優れ、かれ独特の組織力は、若い連中から「向後教」と呼ばれる強力なものだった。「山」と「探検」の分野で、きわめて多くの仲間をもっていた。
(2)西山昭宣(日本観光文化研究所事務局担当)
早大アジア学会の出身者で、先輩には在ネパール大使館にもぐりこんだ神原達、松沢憲夫がおり、田村善次郎(民族学)、黒田信一郎(人類学)らの西部ネパール民族文化調査隊に参加した。その後、万博ネパール館の準備局長? 日本観光文化研究所の事務長に引き出され、東洋史の修士課程は5年に延びた。神原が早大探検部の創設メンバーの一人であるところから、学生時代から各大学探検部とのコネクションを持っていた。理解力と記憶力に優れ、常に裏方として動いてくれた。
(3)宮本千晴(「あるく・みる・きく」発行担当)
都立大学山岳部時代にヒマラヤ遠征。現役時代から探検部と接触して、山岳部をきわめて探検部に近いものにした。都立大学大学院の地理学は向後らとの南極計画で中断し、以後日本観光文化研究所には創設から参加。アムカス時代には「東海大カナダ北極圏5カ年計画」の中心人物となっていて、深く関わることはなかった。しかし向後をロンドン滞在中から口説いて引き込んだ張本人である。無類の好人物であるとともに、世間離れした凝り性でもある。つねに「原点」を失わないかれが、「日本観光文化研究所」に多くの優れた同人たちをつなぎとめ、日本にまれな素晴らしいサロンを生み出したといっても過言でない。「原点」から踏み外す部分に対してはきわめて強力なブレーキをかけて再検討を要求する。
この3人の連係プレーがアムカスを支え、そこに多くの同人、仲間、先輩、、後輩、アルバイト志願者、居候、参加者……などが集まった。
しかし1973年春に西山が高校教師となって去り、続いて向後も南極時代の仲間との新しい事業のために韓国に渡った。宮本が事務局長となり、日本観光文化研究所とアムカスとの合同化が決定された。
このころのアムカスの活動は「あむかす集会」だけになっていた。アムカスが使う予算は1年以上も前から、他の協力プロジェクトと同程度、あるいは以下になっていた。
手探りで誕生から確立までの活動をしてきたAMKAS〜アムカスは、日本観光文化研究所とコネクトしている若い研究グループと同じレベルで「存続」する時代に入った。
宮本の「原則」に従えば、サロンとしての「あむかす」があり、その中から具体的なプロジェクトが提案された場合、日本観光文化研究所(近畿日本ツーリストからある程度の独立性をもった研究施設)のかかわるべき内容なら応援し、そうでなければ同人レベルで進めていくということになる。
企画優先で進まざるを得なかった「組織としてのアムカス」は終わり、優れた旅人間や、旅と少なからずかかわる分野の研究者との関わりを旨としてきた日本観光文化研究所で「旅の仕方を具体的に考える」分野、「世界レベルで知識や経験を積みあげる」分野を「あむかす」と呼ぶようになったのである。
1973年秋、相変わらず研究所に出入りしていた数人の「あむかす」メンバー(宮本も含む、ただしあむかすでは組織的な役割分担はない)のあいだで、ふたつのプロジェクトが具体化していった。「あむかすフォトアルバム」と「あむかす旅のメモシリーズ」である。
■第3期=あむかす時代────3
●あむかすフォトアルバム
「あむかすフォトアルバム」が1972年中に何冊か作られていた。B4判の台紙に白黒写真を貼り、タイプで打った説明をつけ、かなりきちんとしたもののシリーズを考えていた。
研究所には白黒とカラーあわせて15万枚ほどの写真がストックされている。調査や取材のおりに撮り溜めたもので、これらの写真は時とともに資料性を増してきている。だが、海外のものはほとんどない。
あむかすフォトアルバムの狙いは、旅から帰った人に1部だけコピーを取らせてもらい、資料として誰にでも見てもらえるようにすることだった。しかしこのシリーズには、AMKASレポート(出版シリーズ)と同じ落とし穴があった。きれいに、立派に作りたいという製作担当者(編集者)の意欲ばかりが先行して、完成までに膨大な時間がかかることになった。数が増えなければ、資料としての価値は相乗効果を上げない。
「あむかすフォトアルバム」はその反省からの再出発だ。美的なまとまりは一切省いて、安く簡単に作れるものにした。
(1)撮影者と製作者(別人であること)で、1テーマ約200枚の写真を選ぶ。美的なものにこだわらず、両者のいずれかが興味をもった写真を重点的に入れる。
(2)サイズはサービスサイズか手札判。
(3)B5判26穴のルーズリーフ用紙に片面貼り。1ページに平均2枚の写真を貼って用紙は約100枚とする。それをバインダーに入れる。(B6判に1枚ずつカード式に貼るほうが手間は少ないが、利用方法がいろいろ考えられる優れた面が逆に「閲覧」以外に使いたくなる危険となる)
(4)撮影者は、すべての写真に1行以上のコメントをつける。
(5)タイトル記入などで、完成。
撮影者に対するお礼は2万円。その範囲は
(1)日本観光文化研究所に保管し、自由閲覧するための写真提供(製作費用は研究所負担)。
(2)製作担当者とともに写真セレクト。
(3)焼き上がったところで、貼り込みのための順序指定。
(4)すべての写真にコメントをつける。
2万円はけっして十分なお礼とはいえない。だから「この次にはもっとしっかりものを見たい」と思う人と、「個人の体験を、なんとか共通の場に定着できないものだろうか」と考えるあむかすとの、お互いに価値を見いだせる行為にしたい。
旅から帰ると、写真のほとんどはたいして活用されないままに眠ってしまう。自分の撮った写真と正面から取り組んでみる体験は、おそらく新たな発見を生むだろう。
さまざまな土地の、あるいはさまざまな人が撮った同じ地域の写真が並ぶと、そこから妙な発見があるかもしれない。いずれにしても、写真は文字で書かれた資料とは別の、貴重な「旅の資料」となる。アルバムを利用し利用される仲間として、協力いただきたい。
まだ、撮影者には記入すべきデータはどんどん補充してもらいたいし、見た人で気づいたことがあったら、反対ページの余白に署名入りで書いて欲しい。
もうひとつ大事なこと。
写真を後でフォローしていくという意味では、カラースライド(トランスファレンシー、あるいはリバーサル)が一番難しい。放っておけば7〜8年でほとんどカビにやられてしまうし、変色がひどくなる。スライドプロジェクターにかけて見る機会はだいたい数回だし、雑誌などで使われても、それは決まった数コマに限られる。
それでも、あむかすに出入りする仲間はほとんどカラースライド用のフィルムを使っている。フォトアルバムでは、等倍接写でこれをコピーし、まとめることにも重点を置いている。原稿として売れれば売れるだけ、傷んだり、なくなったりしていくものだから、できるだけ早い機会にコピーするようすすめている。
活版ページの白黒写真としては、このコピーがネガがずいぶん利用された。おまけにアルバムは所蔵写真の見本としての役割も果たす。いままで「探検写真エージェント」のアイディアがいろんな人から出された。あむかすでは、コピーを揃えることで、少しでも多くの仲間の写真が利用され、発表の場が増え、おまけに懐が潤えば、と考えている。
そのレベルのアルバムは、資料としての価値でも、かなり期待できるのである。
いまのところ、コピーした白黒ネガは原則として研究所で保管(撮影者以外の無断使用は禁止)することで、同意を得られた近い仲間を対象としている。
ただ、ペンタックス用の接写用具(レンズ付き)は、どなたにも利用していただける。カメラはTTLのペンタックスSPかES IIを持参してほしい。
1974年4月現在、完成、あるいは製作中のものは約30冊。近日中に本格的にオープンする予定でいる。(現在でもご覧いただけます)
【1】竹細工をたずねる(1)────工藤員功
【2】竹細工をたずねる(2)────工藤員功
【3】イラク・ミュージアム────伊藤幸司
【4】パプア・ニューギニア────宮本千晴
【5】タール砂漠────岩渕英司
【6】セレベス・トラジャ族:建築と墓────森本孝
【7】セレベス・トラジャ族:生活────森本孝
【8】セレベス・トラジャ族:葬式────森本孝
【9】セレベス大案内────森本孝
【10】トロブリアンド島────青柳正一
【11】故・越智研一郎:洞穴写真────日本ケイビング協会
【12】故・越智研一郎:洞穴写真────越智研一郎
【13】インド北部・クルー谷:パルチャン村と移牧────成田義宏
【14】インド北部・クルー谷:祭り────成田義宏
【15】アマゾン源流・カンパ族────関野吉晴
【16】アフガン〜イラン:こわす・つくる────アフガン探検学校
【17】アフガン〜イラン:つくる────アフガン探検学校
【18】アフガン〜イラン:うる────アフガン探検学校
【19】アフガン〜イラン:たてる(アフガン)────アフガン探検学校
【20】アフガン〜イラン:たてる(イラン)────アフガン探検学校
【21】アフガン〜イラン:人・子供────アフガン探検学校
【22】アフガン〜イラン:うつる────アフガン探検学校
【23】アフガン〜イラン:そしてひろがる────アフガン探検学校
【24】会津・針生の木地製作────須藤護
【25】モルディブ諸島────岡村隆
【26】アフガン北部────岡村隆
【27】セイロンの仏教遺跡────岡村隆
【28】日本の鍾乳洞────徳富一光
このほか無ナンバーで製作進行中のもの。
◎マレー半島・パハン河流域────立命館大学探検部
◎北ボルネオ・サバ────森恵美
◎スーダン南部────大阪市大探検部
◎エチオピア────大阪市大探検部
◎カリマンタン────関西大学探検部
◎東北のワラ人形────神野善治
■第3期=あむかす時代────4
●あむかす・旅のメモシリーズ
あむかす・旅のメモシリーズは「体験にもとづいた旅のアドバイス」が基本である。平たくいえば「旅人から旅人へ手渡される旅行技術書」だ。しかし技術的なガイドだけを集めていっても、ろくなものは出てこないだろうし、役にも立たない。本当に価値のある旅のガイドは、誰がどこで、どんな体験をどこまで積みあげたか、ということだろう。
「かれ」の体験は私が求めるものとは違う。「かれ」のような旅をしたいが、私が行きたいのは別の土地だ。こういう人たちがある種の出会いを感じるようなガイドブックは、まだ日本にはない。
アムカス時代に「旅の情報伝達」のシステムを考えたことがあった。しかし、知らない地域のことを答えるための膨大な準備は、体験者のひと言で水泡に帰すことが多い。
これは至極当然のことで、自分の目で見ることが、他のどんな方法よりはるかに重みをもっているからこそ、私たちは旅に惹かれるのだ。
体験者に直接話してもらえるような仕組みも実験してみた。問題がふたつあった。ひとつは、体験者をわざわざわずらわせるにはあまりにも漠然とした質問者が多いこと。もうひとつは、会話というのは1回限りのもので、かなりの時間とエネルギーが使われても、次の人にはほとんど何も残されない。もともと会話にはそれほど高いレベルのデータを含むことは無理なのだろう。
一般論。やはりこれが一番無難だ。不特定多数を相手とするガイドブックや、旅行代理店のインフォメーション・サービスがこの方法をとるのは当然のことである。
しかし、あむかすが対象とするのは、一般論で片づけられるような旅人ではない。「個性的な旅をしよう」と呼びかける以上、個別的で例外的な旅であってほしい。
アムカス時代は企画優先でさまざまな実験を試みる必要があったから、アムカスのほうでグッと範囲を絞り、「ぼくらと遊びたい人、この指に止まれ!」と呼びかけていった。それがアムカス探検学校であり、アムカス集会であった。その結果、新たな仲間のネームカードが500枚ほど増えた。しかしそのほとんどは、東京を中心として関東地方に限られてしまった。
これから「あむかす」が働きかけていこうとするのは、日本全国に散らばる特定多数の旅人間である。向後らが敷いたレールを、起点の「動アメーバの理念」にまで戻ってみたら、もっとたくさんの人間を乗せて、ゆっくりと、各地の仲間と歩調を合わせて進む鈍行列車を走らせたくなった。もちろんレールはすでに同じ理念に向かって敷かれているし、周囲の風景はますます魅力的だ。
あむかす列車の燃料は日本観光文化研究所が、公共性のある範囲に限って出してくれる。運転手や車掌は、その時々にあむかすサロンに出入りしている連中が志願する。運行に必要な最低限の労働(たとえばメモシリーズの製作マネージメントや、フォトアルバムの編集手間)には、わずかながら報酬が出る。
この列車には誰でも自由に乗り降りできる。乗り降りしていくうちに、レールはさらに延びていく。
あむかす列車のサービスはよくない。運転手や車掌も生活のための仕事をもっているし、相変わらず長い旅に出たいのである。停車時間も長いだろうし、速度も一定でない。
ただひとつ確かなことは、この列車を走らせたいと思う人が、かなりたくさんいることである。
「あむかすフォトアルバム」は、資料性に重点を置いたもので、基本的には「AMKAS ファイリングデータ」と同じく、日本観光文化研究所の資料収集活動一環といえる。
「あむかす集会」は東京・秋葉原に足を運べる人たちとの交歓の場であり、先輩たちの体験を聞く集いである。
「あむかす・旅のメモシリーズ」は、日本中に散らばる旅人間たちが、自分と最も近い仲間を見つけ出すための「旅人の名刺」として、まず機能する。「体験にもとづいた旅のアドバイス」には、もちろん技術的なガイドが含まれているだろう。しかしそれだけではない。
行動記録として書き込まれている旅の体験の内容を探ってみれば、もっとくわしく書いてほしいところが出てくるだろう。アドバイスのしかたの中には、かれが他人に伝えておきたいと自負する部分が見てとれるだろう。
それらのことごとを、続いてどんどんメモしてもらう。たとえきちんとまとまらなくても、そういう部分が本当のガイダンスの役割を果たすはずだ。別の誰かが新たなメモで、それを補っていく。
みんなが、身近な仲間に話したいことを文字にしていく。手書きの原稿をそのままデュプロ印刷にかけて、30部のメモシリーズとなる。わら半紙にホッチキス止めという粗末なものだが、それはきっと、旅人と旅人との思わぬ出会いを生むだろう。
そういう出会いを求める人が、それぞれ30人だけ出現すれば、著者へのお礼、製作労賃、そして材料費の全額が日本観光文化研究所にペイバックされる。そこまでうまく動いていけば、各地のサークルで同様の《うんどう》が生まれ、進んでいくだろう。楽天的にいえば、メモシリーズは永久に自転していくことになる。
そしてもっとだいじなことが定着していく。それは「個の体験が、どうしたら共通の場に蓄積できるか」というあむかすの行動目標のひとつの成功であり、同時に、かつて多くに人たちを野外に引きずり込んだ「博物学」や「地理学」のように、「たんけん学」とでも呼びたい新しいアマチュア行動が、ごく一般的な人たちに広がっていく。多くの人たちが、より深く、より自由に旅する時代が、もう直前にひかえている。1974年4月、すべての日本人に海外渡航の自由が認められて、ちょうど10年になる。
★「あむかす・旅のメモシリーズ」のリストとして、No.0「あむかす・旅のメモシリーズ案内──読み方と書き方」が用意されています。無料(ただし送料55円)
■あむかす・旅のメモシリーズ(赤表紙)──発行リスト
だれでも書ける「手書き」のガイド……B6判(縮刷版、200部印刷)
*省略*
■あむかす・旅のメモシリーズ(黄表紙)
宮本常一・連続講座「旅人たちの歴史」
優れた旅人の足跡をたどりながら、民衆の生活と文化をさぐる。紀行文の、きわめてユニークな読解講座のテープ起こし。
【総論】──??の旅にふれる
551 第1回=1973.6.4────250円
【第一部】──野田泉光院『日本九峰修業日記』
552 第2回=1973.7.2────250円
553 第3回=1973.9.3────250円
554 第4回=1973.10.1────250円
555 第5回=1973.11.5────250円
556 第6回=1973.12.2────250円
557 第7回=1974.2.11────250円
558 第8回=1974.3.4────250円
■あむかす・旅のメモシリーズ(デュプロ版)──発行リスト
B4判コピー紙二つ折り、手書き、ホッチキス止め……B5判(30部作成)
*粗末なものです。手にとってご覧下さい。
01 アフリカ関係文献目録/あむかす探検学校────200円
02 アフガニスタン/伊藤幸司────150円
03 北アフリカ横断旅行メモ/曽我礼子────200円
04 ネオ・メラネシア語入門(上)/宮本千晴────300円
05 ネオ・メラネシア語入門(下)/宮本千晴────300円
06 ネパールからアフガン、ソ連(1)/猪爪範子────200円
07 パプア・ニューギニア/宮本千晴────200円
08 ネパールからアフガン、ソ連(2)/猪爪範子────350円
09 インド洋・モルディブ諸島(1)/岡村隆────250円
10 アメリカ・カナダの旅/侭田邦子────150円
11 アフリカ大陸・西から東へ/野村実────250円
12 インド洋・モルディブ諸島(2)/岡村隆────250円
13 ビルマ・マンダレー案内/伊藤幸司────250円
14 モルディブ諸島の言葉入門/岡村隆────200円
15 セイロンのジャングル(上)/岡村隆────250円
16 セイロンのジャングル(中)/岡村隆────200円
17 セイロンのジャングル(下)/岡村隆────200円
18 ボンベイからラメシュアラム/岡村隆────200円
19 韓国一周メモ/梅原芳子────200円
20 サバ・サラワク文献目録/沢田久────200円
21 セイロン・密林の遺跡(1)/岡村隆────200円
22 セイロン・密林の遺跡(2)/岡村隆────200円
23 セイロン・密林の遺跡(3)/岡村隆────200円
24 セイロン・密林の遺跡(4)/岡村隆────250円
25 イラン・バス旅行/伊藤幸司────300円
26 ケニア滞在メモ(上)/伊藤碩男────150円
27 ケニア滞在メモ(下)/伊藤碩男────250円
28 ソ連邦の旅/野村実────250円
29 YMCA発行のビルマ案内/伊藤幸司────250円
30 シンハリー語初歩会話(1)/岡村隆────250円
31 シンハリー語初歩会話(2)/岡村隆────250円
32 ビルマ国内の航空路線/伊藤幸司────200円
33 AMKAS・アムカス・あむかす/伊藤幸司────100円
34 赤道アフリカ3カ国/宮本真知子────150円
35 極西モロッコ・日の沈む国/成川順────300円
36 韓国在韓日本婦人を訪ねて/鈴木智子・荒川節子────400円
37 安上り情報・アジアの空と海/深井聰男────150円
38 タイ…THAILAND/深井聰男────250円
39 ロンドン…LONDON/深井聰男────300円
40 カナダ北極圏での事故を防ぐために(上)────300円
41 カナダ北極圏での事故を防ぐために(下)────400円
42 サバ(北ボルネオ)ガイド/沢田久────250円
43 香港…HONGKONG/深井聰男────150円
44 中近東の旅/伊地知隆────250円
45 北インドの旅/伊地知隆────250円
46 漆芸品に出合ったときのために/森田洋子────150円
47 トルコからネパールまで/宮本さゆみ────250円
*絶版が多くなっています。ぜひ一度手にとって……
■日本観光文化研究所/あむかす の出版物
◎「あるく・みる・きく」
月刊・各号特集 1967年3月創刊────年間購読1500円
◎アムカス・レポート
『資料目録・インド亜大陸』/向後元彦・石井一郎────400円
『イスラーム世界のふたつの割礼』/法大・早大探検部────500円
『資料目録・アフリカ』/伊藤幸司・小川渉────600円
『戦後学生探検活動史』/平靖夫・岡村隆────600円
『ボルネオ・モモグン族の祭りとと儀式』/下元豊・塩原正────500円
『セイロン島の密林遺跡/法大探検部────1000円
◎宮本常一編著・日本の旅研究シリーズ(社会思想社/八坂書房)────各400円
『日本の宿』『旅の発見』『旅の風俗』『庶民の旅』『大名の旅』『伊勢神宮』『海と日本人』『山の道』『河の道』
◎日本観光文化研究所 企画・編集「日本に生きる」(国土社)全20巻・各巻1500円
◎日本観光文化研究所「民具収蔵リスト」
第1巻=1972.10.31現在────1000円
第2巻=1973.12.1現在────1000円
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