【撮影】10時36分=伊藤 幸司=007
10時00分に大月駅を出た富士急行線の鈍行列車は、10時32分に三つ峠駅を出ました。次の寿駅が10時37分ですから、その間に見えた富士山、というわけですが「沿線で最高の富士山展望地点です」というアナウンスがありました。つまりみんなが一斉に撮った車窓越しの富士山の1枚ということです。でも、ここで私がおすすめしたいのは、できれば三つ峠駅で下車して、桂川公園をブラブラしながら見るという富士山。その富士山がどんなふうに見えるかは2022年5月3日の「倉見山」でご覧いただけます。富士急行は次の電車までにゆっくり歩かせてもらえるという途中下車対応の運行になっていますしね。桂川公園はたぶんこの写真の左端あたりにあります。
【撮影】10時40分=伊藤 幸司=009
トップハム・ハット卿といういうんですってね。初めてお会いしました。富士急行の鈍行列車内で。「きかんしゃトーマス」を見ている小さな孫がいるというのに、知らんかった、ですからね。このおじさんの体が左右に生き別れになるところまでは、見ませんでした。
【撮影】10時43分=伊藤 幸司=011
ここは下吉田駅です。富士急行のいろんな電車の展示場みたいになっていますが、元はといえば外国人旅行者が五重塔と桜と富士山という三点セットの展望を徒歩10分で見られるということを発見した最寄り駅。今では待合室もホーム上の休憩室も富士急行の駅とは信じられない洗練されたデザインです。新倉山(あらくらやま)浅間神社の背後にある新倉山浅間公園が24時間・無料で開放されていることにくわえ、当初は日本人がほとんど知らない新名所としてSNSで全世界に広がったようですね。
糸の会では2020.4.5に新倉山浅間公園から背後の尾根(みなさんよくご存知の)まで登って、河口湖へと下っています。
【撮影】10時44分=伊藤 幸司=012
この富士山を「歩いて10分」後背の斜面からゆっくり眺められるというわけです。富士山から北風がビュンビュン吹き下ろす厳冬には、ガラス張りの休憩室でひと列車遅らせてみるという手もありそうですね。はて、富士急行さんは休憩室に暖房を入れてくれていますかね。
【撮影】10時47分=伊藤 幸司=014
列車は富士山を進行左側に見せながら富士吉田市の市街へと進んでいきます。「富士吉田」という駅が「富士山」に変わって、いろんなことで山名と地域名と駅名との関係が微妙に混乱している感じがします。
この富士急行線は富士山麓電気鉄道が正式名称のようですが、富士登山のための馬車鉄道に始まって、1929年に電気鉄道となって、ウィキペディアによると「これにより2時間かかっていた大月 - 富士吉田間の所要時間は1時間以下にと大幅に短縮され、富士山麓は東京からの日帰り観光圏内となった。」とのこと。2023年12月5日に私たちが乗ったこの電車は大月〜富士山間が47分でしたけれどね。ちなみに距離は「23.6km」だそうです。
【撮影】10時49分=伊藤 幸司=015
富士山駅には富士山がありました。ホームの中で一番いい場所に椅子が固定されていて、富士山とご対面、という仕掛けです。
直前に左手にあった富士山が、ここでは右手にあるのですが、ご存知のように列車はここでスイッチバックして河口湖駅へと向かいます。なぜスイッチバックするのかというと、河口湖線は1950年に新設された支線なのです。ではそれまではどうだったか? ウィキペディアによると、「都留馬車鉄道は一時籠坂峠に至るまでの路線を有しており、明治から大正期まではそこから東海道線(今の御殿場線)御殿場駅前までを結んでいた御殿場馬車鉄道と連絡していたこともあった。」と。
【撮影】11時22分=伊藤 幸司=024
富士山駅は標高約800m、タクシーは20分弱で標高約950mまで一気に登って、富士吉田市の大明見地区にある不動湯で下車。この先も林道は続いて標高約1,120mのゲートまでは一般車で入れるのですが、タクシーはいやがりました。
タクシーを登山に利用するときにはタクシー会社や、ドライバーによってガンガン行ってくれる場合とだめな場合があるのです。なによりもまず林道を知っているドライバーでないと無理は聞いてくれません。さらに腕に自信があって、泥はねぐらいはあってもかまわない、というような無頼派? あるいは登山者を常連客にして単価の高い仕事をしたいというスペシャリスト、そういうドライバーは個人的に横に繋がっていて、北アルプスなどでの大仕事だと仲間を集めてくれたりもするのです。
ただ、今回は往路のため、というより、日没と絡む下山時に、往路の客だといくぶんか無理がいえるという伏線として頼んでいたので、無理は言いませんでした。電車のなかで人数と時間が確定してから電話したのですが、2台になるかもと思っていたら、待っていたのはハイエースワゴンでしたから、帰路を「大月駅直行」と期待しての配車はまちがいのないところ。私の電話番号で初めての客ではないとわかったはずです。「大月駅直行」の可能性のある登山グループと見てのことだと思いますが、ただ今回は、こちら側にそうならない可能性も大きかったので、下山後に関する話はせずに下車しました。
【撮影】11時25分=伊藤 幸司=025
不動湯の屋根越しに富士山が見えました。だいたいいつも、富士急行線できれいに見えた富士山が、山に入る時刻になると頭に雲がかかってくる、という例は多いのです。背景が青空でも。今日はかなりの曇天でしたが、山頂付近でチャラチャラする雲がありませんでした。
【撮影】11時27分=伊藤 幸司=028
道はすぐに二股になっていて、わたしたちは「車両通行止」の方に進みました。標識には「杓子山 至」と「ログハウス 至」があって、左手に伸びる林道をすこし進んで「ログハウスコース」と名付けられたもう1本の道が伸びているのですが、そちらは通行禁止になっているという大きな地図(コースタイム写真029参照)もありました。
【撮影】11時33分=伊藤 幸司=032
この道は、紙に印刷された地形図(1/25,000)にはまったく出ていません。デジタルの国土地理院地図だとありますね。ここで小さい沢を渡って右にギュインと曲がっていくように描かれています。ただし左上方に行く道は描かれていません。
じつは白い立て札と黄色い「保安林」の標識のあいだ、手前の木に半分隠された標識に「杓子山 至→」と書かれているのです。(コースタイム写真033参照)
登山道が林道や林道跡に出たときには、私はかなり神経質に目印をさがします。確信がもてるまでは引き返すという選択肢を消さないようにしています。つまり「偵察モード」で歩くのです。
【撮影】11時42分=伊藤 幸司=037
この分岐も地理院の電子地図には出ています。左が「杓子山」で右は「鳥居北峠中道コース」。
【撮影】11時43分=伊藤 幸司=038
ここが標高約1,050mの登山道入り口。林道を左に進むとログハウスを経て不動湯に戻るのだと思います。こちらのルート案内図では問題なく戻れるようですが、不動湯の分岐のところにあった同類の登山ルート図では「通行止区間」があって、抜け出られないように描かれていました。山で見る「注意表示」に関しては、クマの出没状況なども含めて「いつ?」の情報かがあいまいなことが多いので要注意です。でも「必要なら行ってみる」「だめなら戻ってくる」という覚悟があれば大きな問題にはならないはずです。
【撮影】11時43分=伊藤 幸司=040
登山ルートがかなり細かく描かれていて、現在地は上下中央、左右は右から1/3あたり。のちに問題になる高座山からの下山路も描かれていますが「知っているルートの確認」以上のことはちょっとむずかしいかも。
【撮影】11時51分=伊藤 幸司=044
登山道を登り始めて8分ほどで休憩。私の温度計はまだ7.5℃でしたし、林道歩きが登山道に変わったので、運動による汗ばみがあれば、早めに服を調整すべきです。温かい服装から「寒くない服装」への転換、ということになります。ウインドブレーカだと風を通すか、遮断するか、で一段階の調節が可能です。
あと、この段階で重要なのは気温10℃を境にして手袋が必要になります。風がなければ我慢できるとしても、一瞬にして指先が凍えることにもなりかねません。指先が冷たい状態で5℃を割ると、指先でおこなういろいろな作業がおっくうになって、行動全体の安全性の低下につながる危険が出てきます。もし適切な手袋がない場合は「ハンドウォーマー」として(貼るタイプでない)使い捨てカイロなどをポケットなどに入れるべきです。
【撮影】11時57分=伊藤 幸司=047
ススキが出てきました。予定では今日の下りの最後にはかつて茅場だったススキの斜面を一気に下ります。
【撮影】11時59分=伊藤 幸司=049
不動湯のところから車で登れる林道は、ここまでです。いわゆる「ゲート」、国土地理院のデジタル地図で見ると標高約1,120mですかね。
【撮影】12時11分=伊藤 幸司=066
このマークはありがたいと思いました。稜線を歩いているときならともかく、林道では気づかずに通り過ぎてしまうキケンが「大」ですね。歩くので精一杯というのならしょうがないとしても、みなさん話に夢中で道標も確認せずにどんどん行ってしまうというようなこともありますから、振り向かないと見えないというような「ビュー」の「ポイント」をこんなふうに教えてくれるのは、ありがたいことだと思いました。
【撮影】12時11分=伊藤 幸司=067
「あれ」が見える、見えない、というだけではなく、その舞台装置も、なかなかのものでした。記憶に残る、っていうやつですね。
【撮影】12時11分=伊藤 幸司=068
富士山としてはのっぺりした顔つきですが、初冬の雪が登山道を浮かび上がらせてくれました。
【撮影】12時12分=伊藤 幸司=069
超望遠にすると、吉田口登山道が浮かび上がってきました。夏の夜に登山者のヘッドライトが点々と連なって浮かび上がらせるあの登山道を、降り始めの雪が浮かび上がらせてくれた、というわけです。
まずは鋭角的なギザギザが見えますが、これは登山道ではありません。「下山道」として利用されていますが、ブル道。ブルドーザーで、かつては山頂の測候所へ資材や生活用品を運び上げるために開かれた輸送路。現在は山小屋への補給路となっています。
では登山道はどこかというと、画面中央のなんとなくゴシャゴシャといろんな直線が入り混じっているところが六合目〜七合目で、山頂の中央部へと小さなジグザグで一気に登っていくのが、八合目から九合目を経て山頂(久須志神社)に至る道です。
【撮影】12時12分=伊藤 幸司=070
画面をもうちょっと広げてみると、規則性のあるジグザグ道が五合目ラインの樹林帯(黒い部分)に近づいたところで右に長く伸びています。その道は吉田口登山道に、たしか六合目で合流し、さらに場面右下端の先で富士スバルライン終点の五合目となります。
【撮影】12時12分=伊藤 幸司=071
そこで今度は目一杯望遠にしてみると(コースタイム写真は基本的にノートリミングです)画面右端のジグザグが微妙に変化して、その途中、途中に、「屋根」らしきものがあちこちに見えています。
この写真ではそこまでが限界ですが、一般に「吉田口登山道」と呼ばれているのは「県道・富士上吉田線」で静岡県との間で所有権の定まっていない八合目以上まで「県道」としているのは若干勇み足なのですが、1985年に「富士山・全案内」(朝日新聞社)というムックの取材で1/2,500の工事図面を入手したことから、富士山の登山道が「30度の傾斜面に約20度のジグザグ道」として整備されたということを確認できたのです。それが私の「標準的登山道」と合致し、「平地を時速4km」で歩くエネルギーで登山道を「時速1km(高度差300m)」で歩く、歩き方として定着したのです。
【撮影】12時16分=伊藤 幸司=076
砂防ダム、といっていいのでしょうか。木材を使っているのはあくまでも表面だけで、構造材ではないのでしょうが、なんとなく、突然ガバッと崩れてきそうな顔つきではありますね。こういう涸れ沢が山肌のシワごとにあって、豪雨のときには突如暴れだすかもしれません。登山道は足場を整える程度で通行可能になりますが、林道となると大掛かりな工事が必要になり、近年、どんどん通行止めが増えています。なんだかこれ、気安く「面白いね!」といえませんでした。
【撮影】12時19分=伊藤 幸司=078
歩きだしてからちょうど1時間。前方に今回の目的地が見えてきました。出発地点が標高約950m、あそこが標高1,598mですから標高差約650m。私たちはまだ林道をトコトコと歩いています。
【撮影】12時33分=伊藤 幸司=088
「杓子山沢コース2」という道標に従って林道を離れるとこの道に出ました。蛇行する林道をショートカットする道は下にもありましたが、そのときには踏み込みませんでした。今回は(10分交代で)先頭にいた人がこちらの道を選んだのですが、さすがに林道歩きは退屈になってきたということでしょう。
林道は私にはいざというときのエスケープに重要な存在ですが、メンバーのみなさんには不評です。だから下山時に林道に出る場合にも、1時間を越えないように気をつけます。なぜか? 足に負担がかかるからです。おしゃべりしながらダラダラと歩いたりすると、だれかがその危険を感じるはずです。だから(足を守るために)早足で歩いてもらったりします。私たちの多くは、不整地の登山道をていねいに歩くことが足に優しいと感じていますら。
【撮影】12時33分=伊藤 幸司=089
あちこちに、ベビーサイズの霜柱が立っていました。
【撮影】12時37分=伊藤 幸司=091
「杓子山沢コース2」はジャスト10分の距離でした。
【撮影】12時38分=伊藤 幸司=092
突如この赤い実が登場しました。歩きながら1枚撮っただけでした。葉がなくて枝ぶりも特殊なので帰って調べればすぐわかるだろうと思っていました。結論は簡単だったみたいですが、ここから杓子山に登ってここまで戻ってくるぐらいの時間がかかりました。
まずはグーグル・レンズで画像検索してみると「ナナカマド、センダン、オオカメノキ……」と出てきました。ナナカマドはいろいろ見ていますが、葉がついていないものを見た記憶がありません。枝ぶりなどで他の候補ではしっくりしないので、今度はごく基本的に「小さな赤い木の実」で画像検索してみました。するとカマカツとナナカマドが出てきたのです。
このあたりで、そのどちらかに絞ってしまえ、と決心して、この写真に近い状態の写真を探しました。するとこちらの写真にアップがないので、せめて実がつく枝のようすなど知りたいのに、それがありません。オリジナル画像で拡大して見ると、いくぶんかナナカマドみたいでした。でもこういう、丸裸の状態になるのでしょうか。
「季節の木」によると「10月、次第に葉が紅葉を始め、秋を彩る。10月も終わりになると、葉が散った後も木々には赤い実が残り、晩秋の面影を演出する。」とありました。それでとりあえず手打ちかな、と。
【撮影】12時39分=伊藤 幸司=094
ここですでに南アルプスが見えました。白根三山ですね。山の写真は山頂で撮っていますから、ここでは見えた! というだけの証拠写真。
【撮影】12時40分=伊藤 幸司=096
そうそう、富士急ハイランドは見る角度で大きく変わるかもしれませんから、出しておきます。
【撮影】12時44分=伊藤 幸司=103
大榷首(おおざす)峠で15分休憩しました。風がなかったので、ゆっくりとエネルギー補給をしました。前方に人工的な四角いものが見えますが、忍野スカイスポーツ倶楽部のハンググライダーのカタパルトがあって、その専用トイレです。これまでなら離陸用の斜面の向こうに富士山を見ながらの休憩という場面でしたが、今回参加のみなさん、ここに来たことがあるはずなのに、ピンとこない感じでした。
【撮影】12時58分=伊藤 幸司=108
杓子山への登山道が、標高約1,330mの大榷首(おおざす)峠から始まりました。あと270mほどの登りにすぎません。
【撮影】13時05分=伊藤 幸司=114
登山道はけっこう荒れています。しかしまだ道筋をたどれるという状態なので、この段階で「水切り」を考えて水流を左右に散らせば、寿命を伸ばすことは可能ではないかと思います。私たちはダブルストックで登りのパワーと下りのスピードを大幅にアップさせてもらっているので、たどれる限り道筋を歩こうとしていますが、建設的な手を加えると逆に破壊された「道路」となってとてもとても、歩けなくなって踏み跡道が左右に散っていたりします。登山者が踏むことで登山道をすこしでも維持していくという歩き方がうまく生きるといいのですけれど。
【撮影】13時05分=伊藤 幸司=115
登りでのダブルストックの使い方がいくぶんかわかりやすく撮れました。一般に理解されている「杖の延長」の場合だと、バランスアシストのために前方、しかもそれを視野の中で使います。が、私が主張してきたのは、エネルギーの3/4を使う体の持ち上げというパワーアシストのために、足元(理想としては軸足のかかと)から真上に持ち上げてほしいのです。この場面では段差がちょうどパワーアシストをしやすい感じで、みなさん脚力を腕力でアシストしている感じがありますね。
【撮影】13時08分=伊藤 幸司=118
平坦な道だとストックはバランスアシストとしても、パワーアシストとしてもほとんど使う必要がないので、みなさん「使っているふり」をして、不要な荷物を持ち歩くという不快感に陥らないようにしています。
日本ではLEKIのウオーキング・ストックが輸入された四半世紀前から、なぜか「杖」「2本杖」という理解で使われてきました。この中の何人かのみなさんは、「なんで2本も杖を使って?」という罵声を浴びせられたりしてきましたが、この写真を見ていただければ、スキーストックと同じ使い方じゃないですか。ノルディック・ウォーキングポールなどという顔つきの違うストックとも実は同じ。雪の斜面で、みなさんがスキーはいているとしてみれば、後ろから押し上げる力が軽く使われていることがわかるかと思います。こうしたほうが、無用の道具を「持って運ぶ」よりうんと合理的なことも。ちなみに、急な下りでのダブルストックの使い方も、まったくスキーストックといっしょです。指導的な登山の専門家たちがこれをどうしてスキーストックと同じ使い方をしてこなかったのか……25年間もですよ、不思議です。
【撮影】13時14分=伊藤 幸司=120
じつはこういうところで、ダブルストックは使う人の能力を強力にサポートしてくれます。従来型のベテラン登山者だったら、周囲の木をうまく利用して腕でバランスやらパワーをアシストして、ヒョイ、ヒョイと登ろうとするのでしょうが。
【撮影】13時23分=伊藤 幸司=127
スキーだと、この斜面をまっすぐ登ろうとするととてつもなく苦しくなります。シールなどという滑り止めを滑走面につけないと無理、か、板をハの字にひらいたり、スキー板を水平にして雪面に階段を作るように登ることになりますね。登山では、これくらいからさらに急な登りで、ダブルストックが有効な道具になります。
なお、登山用のストックを、杖の仲間と見ている人は「登りでは短く、下りでは長く」などと指導しているみたいですが、まったく意味がわかりません。それとベルトにきちんと手を通すと、転落などしたときに凶器になるのでやめなさいとか。転落事故を起こすことを使用範囲の中に想定して使われているストックの不幸なこと! 私たちは高山帯の岩の縦走路で、谷側の手が1m伸びたことによる安全性の拡大の恩恵をどれだけ受けたことか。とくに女性は、岩場の下りで男性のベテラン登山者と同等の能力をゲットすることができました。
岩稜の縦走路で転落などの事故を防ぐためにこのストックを使うときには、最後の頼りは超硬合金の刃の岩に対する食い込み力です。それが命を守ってくれるというふうに感じます。
【撮影】13時36分=伊藤 幸司=140
山頂直下になると土留の階段になりました。以前はこれがないために、下りが難易度の高い急斜面となっていました。幸いなことに、この土留は破損が大きくありません。よくみると斜面を巻いているので、雨水は登山道を横切って流れるからでしょう。
【撮影】13時40分=伊藤 幸司=146
そうです。以前はここの下りが大騒ぎでした。いまもロープがあるということは、これでも大騒ぎする人がいるんでしょうね。
【撮影】13時42分=伊藤 幸司=148
杓子山(標高1,598m)の山頂は気温4℃でした。幸いなことに風がなかったので15分ほど滞在することができました。
【撮影】13時42分=伊藤 幸司=150
富士急行線・富士山駅のある富士吉田の市街が西側に広がっていました。画面右手から下ってきて市街地に伸びた尾根は三ツ峠山からの尾根で、最初の高まりのあたりが天上山(カチカチ山)で河口湖へと下るロープウェイがあります。
その向こうに伸びる黒い山並みは御坂山地。背後に長く続いているのは南アルプスです。もちろん、富士山は画面左に裾野だけ。
【撮影】13時43分=伊藤 幸司=152
御坂山地の向こうに連なる雪山は南アルプス。画面右端の(甲斐)駒ヶ岳、から白さが目立つ北岳、間ノ岳、農鳥岳の白根三山。
【撮影】13時43分=伊藤 幸司=154
南アルプスの駒ヶ岳(通称甲斐駒。標高2,967m)です。左斜面に小さく盛り上がっているのが摩利支天。摩利支天の奥に見えているのが仙丈ヶ岳(標高3,033m)です。駒ヶ岳の右奥に見えている尖った山は鋸岳(標高2,685m)
【撮影】13時43分=伊藤 幸司=155
これは駒ヶ岳〜北岳の手前にある鳳凰三山。右端にあるのが有名なランドマークとなっている地蔵岳(標高2,764m)のオベリスク、左にたどって最高峰の観音岳(標高2,841m)、そこから一気に下る感じで、かろうじて地蔵岳よりちょっと高いだけの薬師岳(標高2,780m)
【撮影】13時43分=伊藤 幸司=156
駒ヶ岳や鳳凰三山の左側にそびえる白い山が北岳(標高3,193m)と間ノ岳(標高3,190m)です。この写真ではたった3mの違いには見えません。雲も右肩上がりですから、正式な写真とするときには絵柄に合わせて水平を調整しなければいけないでしょう。
北岳の、左側の斜面が有名な「北岳バットレス」で岡田さんのブログを検索するといろいろありますね。
【撮影】13時44分=伊藤 幸司=161
これは右から荒川三山の(東岳・悪沢岳・標高3,141m)、中岳(標高3,083m)、前岳(標高3,068m)と、その左に続く赤石岳(3,120m)があって、少し離れて聖岳(標高3,013m)、さらに画面左端にかろうじて見えかかっているのが光岳(てかりだけ・2,591m)ですね。
曇り空だけれど透明度の高い風景です。ちなみに場面右下に富士急ハイランドが見えています。
【撮影】13時44分=伊藤 幸司=162
荒川三山ですね。この山は糸の会で1回だけ登っています。2001年9月20-24日に椹島(さわらじま)ロッジから千枚小屋、荒川小屋、赤石小屋と3泊して椹島に戻ったのですが、手前の森林限界あたりに千枚小屋があり、写真左下の画面外に荒川小屋がありました。
千枚小屋を出た朝、一人の人が稜線の道からスポン、と落ちて消えました。命にかかわる急斜面でしたが、まだ森林限界を抜けきっていなかったので、木に引っかかって事なきをえたのです。
なんで? こんなところで? という場所でしたが、いろいろ話し合っているうちに直接の原因と思われることが明らかになりました。睡眠導入剤です。聞いてみると女性のみなさんは山小屋で眠れないことを心配してほとんどが服用しているとのこと。その影響が朝のうち、出ることがあるそうなのです。私は当時「眠れなくても横になっていれば体は休める」とか「夜が際限なく続いて地獄をみたような感じでなければ、睡眠はとれているのでだいじょうぶ」などと言っていました。「私のいびきでみなさんの睡眠を邪魔していた、かもしれない」ということも、あったかもしれません。苦情としてはっきり耳にしたことはありません、でしたが。
それにしても、うまく引っかからなかったら、大変なことになっていた斜面でした。
【撮影】13時44分=伊藤 幸司=163
荒川三山の左手に接続する赤石岳です。これも2001年9月のこと、荒川三山の3,000m級の山頂から約400m下って荒川小屋で一泊、山小屋が撤収前だというので食べ放題の食事でしたね。翌日登り返して、この写真の右側のピーク、標高3,081mの小赤岳から、左側のピークに向かい、標高3,121mの赤石岳に着いたのは10時10分でした。その日は快晴・無風、北アルプス全山から南は浜名湖まで見えたので、1時間の昼寝休憩とし、さらに30分伸ばしました。その日は(小赤石岳との間の鞍部から)のんびり下って標高約2,500m(つまり森林限界)の赤石小屋で3泊目。翌日椹島ロッジに下って、帰京しました。
赤石岳にはもう一度登っています。2016年7月19-21日でしたね。現在も糸の会の主力メンバーとなっているみなさんが参加されていますが、じつは今回(すなわちこの2023年12月5日の杓子山)と同様、計画段階に無理がありました。登山口の椹島に2泊しないと赤石岳には登れないのです、しかし私たち(平均年齢67歳の7名、うち男性2名)では、それにもう1泊加えないと行けないのです。4泊なら荒川岳〜赤石岳の縦走ができるのに、赤石岳だけをなんとか2泊でできないかと考えたのです。
椹島ロッジは特殊東海製紙の特殊東海フォレストという会社が経営する山小屋群の中心施設で、そこへ行く送迎バスは予約制で1日3〜4便。静岡駅からタクシーで約3時間の畑薙第一ダムで乗り継ぐしかありません。その、帰路の最終便が14時00分椹島ロッジ→15時00分畑薙第一ダムだという制約の重さに気づかぬまま、計画は進行し、期待をいだいた参加者が集まったというわけです。
標高1,123mの椹島ロッジを出たのは2日目の06時00分。11時15分には標高約2,550mの赤石小屋に着いたのです。はっきりわかりませんが、この写真では写真中心点の黒い三角形のアタマあたりではないかと思います。計画ではこの日ここに泊まって、翌朝午前3時に出発し、3時間で山頂に着き、この小屋までの下りも3時間としておいて、ここからの下り(登り時間の4時間半に5時間15分かかったので)を「4時間半(短縮可能かと思います)」として13時30分に椹島ロッジ着としたのです。
糸の会のペース計算では、標準的な登山道を「時速1km(高度差300m)」で歩くパワーで計算しています。登りで「4時間半」とした予定が「5時間15分」かかったのですから、「下りで短縮可能」という余裕が脆弱になり、14時00分の送迎バスに(乗れないかどうかはともかく)乗り遅れないように急がないといけないわけで、早朝からひと山登った後で「急ぐ」となると事故の危険が高くなるというリーダーとしての不安が急に高まったのです。
そこで、なんと、赤石小屋の方に赤石岳避難小屋(夏季営業中)に連絡してもらって、一気に登頂すべく計画を変更したのです。赤石小屋を12時に発って、16時25分に山頂の赤石岳避難小屋に到着、翌朝05時10分に出発し、標高差2,000mを下って12時30分に椹島ロッジに帰着したのです。休憩も含めて7時間20分、ダブルストックのおかげで全員、疲労以上のものはありませんでしたが、糸の会の登りの標準時間でした。(ごくろうさまでした。が、この杓子山でこの後発生する下山ルート変更と根っこはひとつかな? と写真を見ながら思い出しました。)
【撮影】13時44分=伊藤 幸司=165
これは聖岳(標高3,013m)です。右端にちょこんと顔を出しているのは兎岳(標高2,818m)のようです。
【撮影】13時44分=伊藤 幸司=166
聖岳からすこし離れて、光岳(てかりだけ・2,591m)も見えていました。糸の会では2007年9月21-23日に登っていますが、南アルプスの奥深さをたっぷり味わう山でしたね。
【撮影】13時45分=伊藤 幸司=169
この時間になって、富士山の頂上に雲がかかり始めました。標高4,000m付近の風が富士山との関係で作り出す雲なので、次々に生まれては消えるという生き物です。午後になるとこの雲が生まれやすいのと、晴れた日には太陽が上って、ライティングの角度によって富士山の顔つきがぼんやりとしてしまいます。あとはたぶん、夕方にむかってどうなるか、でしょう。
【撮影】13時45分=伊藤 幸司=171
このファナック株式会社の、黄色い新社屋群の完成時(1984年)に私は贈答用豪華アルバムの作成にかかわり、後に富士山写真家としてデビューする大山行男さんの、デビュー直前の未発表写真だけで1冊をまとめました。
「山旅図鑑」の「伊藤 幸司の仕事歴」の1984年のところにあります。
ちなみにウィキペディアによると———ファナックの強みは高い技術力にあり、従業員の3分の1近くがエンジニアとして働いています。 『壊れない・壊れる前に知らせる・壊れてもすぐ直せる』をモットーに、工作機械用CNC装置という製品は世界シェア50%、国内では70%を占めています。 そしてファナックのもう一つの特徴が、技術力を武器にした高い利益率です。———
【撮影】13時45分=伊藤 幸司=172
山頂からだと、山中湖が見えました。手前側の尾根が石割山からホテルマウント富士へと下るルート、向こう岸は鉄砲木の頭から三国山〜大洞山を経て籠坂峠バス停へと下るルートですね。右奥に見えているのは愛鷹山。最高峰は越前岳(標高=1,504m)で左側にそびえているのが愛鷹山峰(標高=1,188m)。
【撮影】13時46分=伊藤 幸司=173
これはホテルマウント富士。前の東京オリンピックの前年に富士急行社長の堀内光雄が建てた力作ホテル。その「コンセプト」によると「富士山を見るために建てられた」ホテルで、———1983年には富士山を背にした当ホテルの写真が、国際旅行誌「ジャパン・ビジターズガイド」の表紙を飾ったことで、外国人観光客からの注目を集めることとなりました。———とのこと。ウィキペディアによると———山の上にまで至る道路を敷設するには1,400mの長さが必要となり、費用だけで当時の金額で1億5000万円かかったと言い、水も全部下から上げなければならないなど「一見無謀な計画で」あったという。———
ところが近年「ホテルマウント富士・東急ハーベストクラブ山中湖マウント富士」という名称で「東急ハーヴェストクラブの利用対象ホテル」とされているけれど、その具体的な関係は、私にはわかりません。
【撮影】13時48分=伊藤 幸司=178
この山頂は、いい季節に富士山を眺めながらのティーパーティなんか、いいですね。以前、山頂で鍋物をやったりしましたが、自分なりに一番気に入っていたのは高級干物のバーベキューでした。
【撮影】13時49分=伊藤 幸司=182
これは奥多摩三山のひとつ、大岳山(標高1,266m)ですね。奥多摩駅まで続く尾根が左に伸びていて、そこに見える小さな突起が鋸山(標高1,109m)になります。
【撮影】13時49分=伊藤 幸司=183
写真右側の大岳山(標高1,266m)と比べると一列後ろに下がってしかも高い、東京都の最高峰・雲取山(標高2,017m)が画面中央の左側にあって、それが奥多摩最西端の山。その雲取山が山梨県の奥秩父山塊の始まりとすれば左に連なっているのが飛龍山(大洞山・標高2,077m)となります。
【撮影】13時50分=伊藤 幸司=187
これが杓子山の山頂風景です。登り始めがほんど標高1,000mでしたから、標高差600mは日帰りの山としては小ぶりですね。標準的な登山道では2時間です。私たちでも2時間ちょっとでここに立ちました。失敗といえばこの日も午後になると富士山の山頂にまとわりつく雲が出てきてしまったこと。曇り空で雲のかかった富士山では、価値が半減……でした。
【撮影】13時52分=伊藤 幸司=189
ともかく、記念写真だけは撮りました。冴えない写真と見えるかと思いますが、糸の会の記念写真では晴れたら顔が真っ黒、顔が写ったら富士山は空の中、ということが多いんですね。私はカメラに任せていて、うまく撮ろうというサービス精神がないのでまずいのですが、諦めていただいています。すみません。
【撮影】13時57分=伊藤 幸司=192
この下りはこの小さな山の最大の贈り物、でした。以前は。靴底のブロックパターンで滑りを止めよう、などとすると、必然的に重心が後ろに下がって、いわば「へっぴり腰」の方向にズレ下がるのです。ですからそこで私は「つま先立ちで、平行棒に立つように」とか、「バレリーナになったつもりで」とか、「スキップする気分で」とか、さらには「雪道を歩く感じで」などなど、思いつくさまざまな表現をしたつもりですが、わたしがいう「運動靴」でないとそれはむずかしく、したがって登山靴やハイキングシューズでなく、跳んだりはねたりできる「運動靴」で指示されたとおりに参加した、騙されやすい人でないと、その呪文はかならずしも有効ではなかったかもしれません。ダブルストックを使うようになって「深い前傾姿勢」がとれるようになると、簡単に、驚くほど、下りの能力がアップしたのです。……残念ながら、そのドキドキするような「やっかいな下り」は階段状になってストックなしでもトントントンと下れるようになりました。
【撮影】13時57分=伊藤 幸司=195
いま最後尾についているYさんは、1年以上のブランクを経て参加。もともと足に不安があって、かつストックもあまり信じていない。前の方の人と比べると後傾姿勢、すなわちへっぴり腰ですね。司令塔の頭が身の安全を考えて「滑らないように、転ばないように」と司令すると、どんどん転びやすくなるというのは初心者のスキーと同じこと。かなり恐怖感のあるところで「エイ! ヤ!」とやってみて司令官のアタマを叩き直す体験を一回しないと(……しているはずですけれどね)、直りません。アタマが「身の安全」を考えて、命令していることなのですから、外部からのことばだけではだめですね。
【撮影】13時59分=伊藤 幸司=197
リーダーとして最後尾を歩くようになって、いろいろなことが見えるようになりました。大きな段差のところをどうクリアしようとするか、ロープがあったとき、それにどれだけ安心? を託そうとしているか、スピードはどうか、などなど。
【撮影】14時13分=伊藤 幸司=202
丹沢や奥多摩の山を歩いていると雷鳴と似た砲撃練習の音が聞こえたりしますが、富士山の山麓には2つの軍事訓練場があって、ここで見えているのは北富士演習場。山梨県の富士吉田市、忍野村、山中湖村の1市2か村にまたがっています。もうひとつは東富士演習場で、静岡県の御殿場市、小山町、裾野市にまたがっています。
この写真の枯れ草色の広大な空間が北富士演習場で、陸上自衛隊(富士訓練センター)とアメリカ海兵隊(キャンプ富士)の実弾射撃訓練が行われていて、その音が(たぶん)20kmぐらい離れた山の中でも聞こえるというわけです。その手前に忍野八海などという有名観光地があるのですが、その忍野村には前の東京オリンピックのころ「忍草母の会」というのがあって、夫が出稼ぎに出た後の、富士山麓への「入会(いりあい)権」を巡る実力闘争を続けていたのです。
東富士演習場は静岡県にあって国有地でしたからそういう問題は起こらなかったのですが、山梨県は明治維新によって全県的な「入会権問題」が発生したのです。徳川政権下であいまいに認められていた「入会権」が御料地として皇室財産になったとき、突然立ち入り禁止になってしまったのです。地元住民が利用しつつ管理してきた「入会地」が。
その結果、山梨県は全県的な運動を展開して、1911年(明治44)に皇室から「下賜」されて県内の主要な森林は「恩賜県有林」となったのです。……が、その「入会権」を軍事演習場でさらに主張した運動となり、飛び交う砲弾と女性たちの姿は新聞でも大きく取り上げられました。
【撮影】14時14分=伊藤 幸司=205
このように、足場が安定していて傾斜がそれほどきつくない場合には、ストックを予備的に動かしながら、スピードを上げることができます。赤石岳で標高2,000mを一気に下ったときなど、全体でいえばこういう場面で足に負担をかけない歩き方がうまくできた、ということができます。疲労はあったのもの、下山後に故障というべきものがなかったのは、私達自身、驚きでした。
【撮影】14時29分=伊藤 幸司=216
大榷首(おおざす)峠まで下ってきました。ここにあった立て札には「忍野スカイスポーツ倶楽部 ハンググライダー離陸場」とありました。それによると
———子供から高齢者の方迄誰もが気軽に飛行することができる全国的にも珍しい2人乗りのハンググライダースクールとして、県内外からも注目を集めています。
離陸台の標高は1350m、着陸地点はここより南に1800m、高度差360mです。穏やかな南風であれば約5分のフライトになりますが、上昇気流に乗れば1000m以上上昇し、1〜2時間以上飛行することができます。
当倶楽部は会員制となっておりますが、教官と一緒に飛ぶ2人乗り体験飛行も毎日受け付けておりますので、フライト希望の方はお気軽にお申込みください。全くの初心者でも、4歳以上であれば誰でもフライトすることができます。———
赤い吹き流しが水平に伸びていますが、吹き流しは英語でウィンドソックスというみたいですね。飛行場仕様のものは角度によっておおよその風速がわかるそうで、30度の角度だと3m/秒、水平に90度まで上がれば10m/秒以上。この日わたしたちはあまり風を感じませんでしたが、10m/秒以上の風が離陸ポイントのここには吹いていたのですかね。
【撮影】14時31分=伊藤 幸司=219
12時40分からのんびりと15分休憩した大榷首(おおざす)峠にまた戻ってきました。ハンググライダーのカタパルトは左手に、不動湯から上がってきた道は右手から。私たちは正面の道を辿って高座山たか(ざすやま)へと向かいます。
【撮影】14時43分=伊藤 幸司=230
稜線は、こんなふうに歩きやすい道になっていれば時速2kmという目安で歩けます。
【撮影】14時47分=伊藤 幸司=230
時速2kmで歩ける道は、4分後には足元に注意が必要な下りになりました。
登山道がハイキングルートと違うのは、変化ですかね。数分後には全く違う世界に入り込んだ気分になったりします。ここにはイノシシの「掘り返し」がありました。
その「掘り返し」について、今回、これまでの理解がひっくり返るレポートに気が付きました。『森林ジャーナリストの「思いつき」ブログ』の
「イノシシの掘り返し法則」です。これは私自身の浅はかさを反省しつつ、結局2015年4月15日の全文を紹介させていただきます。(スミマセン、田中淳夫さま。「静岡大学探検部卒業!」だそうですね)
———
今や生駒山は、どこを歩いてもイノシシの痕跡に出会う。
足跡やぬた場、そして糞などもあるが、一番目立つのは掘り返しだ。ようするに地面を掘り返しているのである。これが半端ではなく、山道をズタズタにしているところも少なくないし、そうでなくても、あまりの勤勉な掘り返し仕事に、大変な熱意を感じてしまう。
実は、この掘り返しの理由は、いまだにはっきりしないそうだ。
一時は、ミミズが好物なので、ミミズを探すためと言われたが、実験してみると、意外やそんなにミミズを好んで食べるわけではないそうだ。もちろん餌、それも貴重な動物性タンパク質だから、掘っていてミミズが出てきたら食べるようだが、餌として与えてもあんまり食べない、そしてミミズの横の土を掘り返す……という現象もあるとか。
ほかにどんな理由があるだろうか。木の根を食べる……という考えも浮かんだ。実際、クズの繁茂で、デンプンを溜め込んだ葛根が増殖しているが、それを好んで食べるのは事実だ。
しかし、これまた掘り返している場所を見ると、クズがあるところばかりではない。そんなに木の根があるわけではないし、どんな木の根も食べられるわけでもない。
もしかして、土そのものが美味しいのかもしれない。土の中の塩分を求めている可能性もあるが……。
1日6時間もひたすら地面を掘り返していたという観察もある。となると、目的などなくて、地面を掘るのが趣味というか、本能的な習性なのかもしれない。イノシシは地面を掘って快感を得ている! とかなんとか。プチプチをつぶすことに生きがいを感じている人もいるように。
そんな掘り返しだらけの山を歩いていると、たまに不思議なことに気づく。
【Photo】
こんな感じ。この山道は、ずっと掘り返しが続いていたが、ここでピタリと終わっていた。
そうなると、逆に「なぜ? なぜ掘るのを止めたの?」と考えてしまった。
そこで観察してみると、掘り返しのある場所は、意外や道が多くて、道から少し離れた林床はあまり目立たないことに気づいた。土質はほぼ同じである。むしろ落葉が積もって、ふかふかの腐葉土で掘り返しやすそうなのだが。
そして、道でも土が堅くしまった中央部分は避けて、側部が多い。やはり掘りやすいところを選んでいるのか。
あまり人が通らない道の場合は、中央も含めて全面を掘り返していた。
また道がなくても、樹間が空いていて、広場になっているところは狙っている。芝生も好きだ。
斜面は苦手?らしい。できるだけ平坦なところ。土は、やっぱり黒いふかふか森林土が多いように思える。だが、真砂土のところもあったなあ。
まだまだデータとしては少なすぎるが(そもそも記録を付けているわけではなく、私の感覚的記憶に頼っているのだが)、イノシシの掘り返しの好きな場所や条件を絞り込んで行けば、新たな生態がわかるかもしれない。
もしかして、上記の写真のように、唐突に掘り返しを止めたのは、ここから先は土質が変わっているのかもしれないなあ。
———
【撮影】14時50分=伊藤 幸司=241
この道は、富士山に向かって伸びています。でもまだ、いくつかの波乱万丈はありそうな気配です。何度か通った道ですが、記憶がほどんどないですね、大榷首(おおざす)峠と高座山(たかざすやま)との間、約1kmは。
【撮影】14時52分=伊藤 幸司=242
先頭の人がちょっと迷って、それから消去法でこのルートをとりました。よく見れば青い服の人の右肩の上あたりにピンクのテープがありましたね。
【撮影】14時52分=伊藤 幸司=243
難易度が高いわけではありませんが、この日の道筋では木の根を踏んで歩くというのは初めてでした。
【撮影】14時54分=伊藤 幸司=247
結局、岩山ひとつを正直に登って正直に降りたということになります。ストックがないとこの下りなどはなかなか厄介ですね。そういうルートだったっけ、と考えましたが、やはり記憶にありません。
【撮影】15時01分=伊藤 幸司=249
展望が開けたかと思ったら、高圧送電線の鉄塔がありました。しかもその土台部はかなり下の方にあるみたい。送電線は(全部ではありませんが)地形図に載っています。樹林で見通しのよくない低山では、地図で正しい位置を確認できる貴重な存在です。計画ルートを書き込んだ2万5000分の1地形図で見ると大榷首(おおざす)峠と高座山(たかざすやま)とのほぼ中間という感じですね。
【撮影】15時02分=伊藤 幸司=252
この尾根道で最初の展望……ですが、鉄塔と富士山とががっちり重なっていました。鉄塔の右側にあるピークが高座山(たかざすやま)ということになります。大榷首(おおざす)峠からここまでに30分かかっていますから、ここから30分、つまり15時30分ごろに高座山という見当です。
【撮影】15時05分=伊藤 幸司=256
送電線の鉄塔は、国土地理院のデジタル地図で詳しく調べると標高約1,300mのところにあって、小さなアップダウンののち標高1,286mの無名峰を越えて、いったん下り、標高約1,250mから標高1,304mの高座山へと登り返すのです。手元の地形図と新しい国土地理院のデジタル地図ではルート情報としての「1m未満の道路記号」がかなり大幅に違っています。しかもそのどちらが現実的に正しいかは一概にいえないと思っています。登山道の多くは「踏み跡道」からすれ違い可能なハイキングルートまでに及んでいて、その取捨選択にけっこうなバラツキがあると感じます。
ちょっと違う例ですが、たとえばこの送電線鉄塔でも、地形図の登山者には噴飯ものの問題が生じています。「一般社団法人環境金融研究機構」に
「電子地形図:送電線消える 電力10社、情報拒否 「テロ対策」、登山不便に(毎日新聞)」が紹介されています。
———地形図の電子情報化に伴い、国土地理院が電力会社10社に送電線や鉄塔の位置について情報提供を求めたところ、全社がテロなど安全上の問題を理由に提供を拒否し、送電線などの表記が最新の電子地形図から消えたことが分かった。送電線の記載は、登山などで現在地を確認する際に利用されており、日本地理学会などは掲載の継続を求めている。【中西拓司】———というのです。
さらに———上越教育大の志村喬准教授(地理教育学)は「送電線や鉄塔の記載は、登山などの際に現在地を確認するのに役立つ。地理や地図学習の大きな障害になる恐れもある」と指摘。日本国際地図学会評議員の田代博・筑波大付高教諭は「ネット上ではより詳細な航空写真が公開されており、時代錯誤も甚だしい。あまりにも秘密主義すぎるのではないか」と話す。———
じつは私は1988年からダイヤモンド社の「BOX」という雑誌の編集部で5年ほど、東京電力のイベント用冊子のために、かなり自由な取材企画もやらせてもらいました。もともと「原発以外ならなんでもいいです」ということでしたが、「送電線ツアー」もだめでしたね、内部的に。そのような「情報戦略」が国土地理院に対しても主張されるようになったということでしょう。
この送電線鉄塔は地形図上にきちんと乗っていて、西に伸びる高座山への登山道は紙の地形図にも電子地図にも載っていました。問題は南に下る「1m未満の道路記号」ですが、紙の地形図にはなく、電子地図には新たに描かれた、と(帰宅してから)わかりました。現場で私は南に下る道を地図上で確認できなかったので、派手につけられたピンクテープにしたがって下りはじめてしまった先頭部隊を大声で呼び戻して、改めて高座山を目指したのです。
【撮影】15時10分=伊藤 幸司=257
送電線鉄塔の下に着くと、先頭の人たちの姿が見えない。進行方向左手に道があって大きなピンクテープが複数見えていたので、たぶんそちらかと思って大声で呼ぶと、戻ってきました。杓子山から高座山へと続く縦走路から左へ下ろうとしていたのです。東京電力の巡視路としては立派な道に見えたので、ちょっと不思議な気持ちで、この「←天竜南線 129号に至る」という立派な標識を写真に撮っておきました。
後でこの場所に関わる文章をネット上で見つけました。「等高線の狭間から」の
「杓子山 2011.10.23」によると、その人は不動湯の先にくるまを置いて、杓子山から鹿留山へと登り、引き換えして大榷首(おおざす)峠から高座山(たかざすやま)までいったものの、引き換えしてこの標識のところから、巡視路を北へ(この標識の矢印の反対方向)下って車に戻ったそうです。
念のためにここで引用しておくと、高座山で突如引き返そうと思ったのですね。
———このまま下って登山道に沿って進もうかと思ったが、どうにも先ほどの巡視路が気になった。紹介や道標が無い場所はギャンブルだが、まま百戦錬磨。行ってみよう。僅か1分ほどの滞在時間で踵を返す。賑やかだった杓子山側に対し、大権首峠を挟んでのこちらは好対照。でもこの静けさが嬉しい。
アップダウンしながら往路を戻り、鉄塔の下に到着。さて下ろうかと思うが、やはりやや躊躇したくなる状況。迷っても登り返せば登山道があるわけで、色んな想定をして突っ込んでゆく。
最初は九十九折。それが終わる頃に黒いプラスチックの階段が見えてくる。ただしそのほとんどが崩壊状態で、足を乗せられるものは無かった。途中で道形も無くなり、地形を見ながらルートファインディングしながら降りて行く。
西側に小尾根があり、途中でそちらに進む獣道もあったり、踏み跡らしき筋が残る場所もある。もう一つ、谷の東側にはU字の樋は続いていた。ここにこれを設置する意味が判らなかったが、登下行にはこれに倣って進めば迷う事はないかもしれない。
そして谷を降りきると、「昭和59年の復旧治山工事」の標識が立っていた。その先に進むと堰堤の並ぶ沢があり、今は流れの無いその沢を渡ると、右岸側に道が走っていた。途中で押し出しがあり僅かに塞がれているが、障害となる箇所はこの一箇所。
伝って出た先は、往路に見た登山道案内がある標識看板の場所であった。この場所から僅かに下るとゲートであり、巡視路を下山に選んだ事は、結果オーライとなった。———
ながい引用になりましたが、あとで、その理由がわかります。
【撮影】15時11分=伊藤 幸司=259
送電線鉄塔から高座山(たかざすやま)の登り口までは、計画書の地形図では大きな高低差は感じられなかったのですが、こんな岩っぽい道になったのですね。
【撮影】15時14分=伊藤 幸司=266
登ればすぐに下るという、律儀な岩山超えになりました。
【撮影】15時38分=伊藤 幸司=273
じつは15時14分(前の写真)に下ったところを24分後に登り返しているところです。その24分間に、足に痙攣を発した人が出て、私は送電線鉄塔まで戻ることにしたのです。
そのとき、一番大きな理由として考えたのは日没時刻です。計画書には必ず日没時刻を書き添えていますが、この日の山梨県の日没時刻は16時32分でした。日没後30分(同時に日の出前30分)は無灯火で歩くというのが糸の会の基本です。あと30分あれば高座山の向こう側の急斜面をダブルストックで通過して、あとは暮れゆく富士山に向かって茅場(ススキなど藁屋根材料を準備した共有地)の道を下ればいいし、もちろん全員がライトはもっていますから、夕闇にまかれても問題はありません。……しかし、足に異変を抱えた人がいるということは、さらに何かが起こる危険を想定せざるを得ず、時間経過にどんどん押し込まれていくという悪循環も想定しなければなりません。
そういうときに、さっき送電線鉄塔のところで見た「天竜南線」という名の巡視路でした。手元の地形図によれば、あの道は緩やかな植林帯の斜面を下って、どこかで里道から上ってくる何本かの林道の先端に出るはずです。地形的にそこまでは推理できていました。
あとはその道が電力会社のプロたちだけの、通常は登山者に開放していないルートのはずなのに、ここでは、どう見ても入り口のピンクリボンが手招きしていて、分岐する道筋も、私たちの10分交代制のトップが手招きされてしまったようなオープンな雰囲気でした。登山ルートとしての道標や、小さなメモなどはないものの、出口のない道だとは思われず、かつ足に負担のかかる岩場の上り下りからは逃れられる可能性が高いと見たのです。
そして、標高約1,250mから標高約950mまで、標高差約300mを、広大な人工林の中の道で下れるはず、と判断したのです。もちろん、私にはこの道を見てみたいという好奇心が大きく湧き上がってもいたのです。
【撮影】15時39分=伊藤 幸司=276
15時14分に下った急斜面を25分後に登り返している状況です。私の(結果によっては)無謀な計画変更に、みなさん黙って従ってくれます。面白がってくれる人たちが残っているということだと思いますが、私の方でもシロウトっぽい登山講座を細く、永く続けるために守ってきた密かなルールがあります。それは「影のリーダーを作らないこと」。
もともとカルチャーセンターの登山講座に参加されたみなさんの上級プランとして糸の会は必要とされたのですが、カルチャーセンターの登山講座というものに参加する人たちは基本的に「ひとり」でした。一人で入った人たちが結局25年も続くような仲間になっていくというところに私はいたわけですが、中には2人、3人で参加する人や、夫婦での参加もありました。しかし私は(申し訳ないと思いつつ)なんとなくそっけない対応をしてきたと思います。
一人ひとりで参加して、山での(ほとんどは「山だけ」での)仲間となるチームが、サービス精神のない私(客商売に向いていないんですね。「ありがとう」の一言もいえない)には、周りの誰かに影響力を発揮しようとする人の動きは敏感に見えてきます。私は山岳部ではありませんでしたが、登山チームにはリーダーと、サブリーダーが必要で、さらに影のリーダーがいることが多い、という体験をしてきました。昔英国の探検論で「すべてのメンバーが相互に関係し会える人数は最大7人」というようなことを知りました。それでサブリーダーをもたずに、ワンマンチームとしていろいろなことをやってみたい、と考えたのです。チームの中で「多数決」という動きがあると、それに私は敏感になるという基本姿勢を保って四半世紀をすごしてきたというのが(たぶん初めて明らかにする)「糸の会登山コーチングシステム」の根幹の部分です。
そういう全責任者の考えはともかく、78歳という私が、ほぼ同年齢の皆さんと「軽い山」を歩いていて、こんな状況になるのは、社会通念から言えばけしからぬこと、だと考えたりもしながら、それでもこの状況で未知の方法で脱出しなければならないという「チャンス」に嬉々とした気持ちもありました。あの道の謎を解いてみたい、このチャンスに。
【撮影】15時40分=伊藤 幸司=278
ようやく、送電線鉄塔のところまで戻ってきました。16時32分の日没時刻に私たちがどのような場所にいるか、が、今日最大のトライアル。ここでアタマを完全に切り替えました。
【撮影】15時42分=伊藤 幸司=281
地形図の等高線からはとても想像できない下りが最後に、ありました。もちろんさっき登ったところですし、下りでもみなさんが危険を感じるところではありませんでしたが、こういう破調はもうない、はず。
【撮影】15時45分=伊藤 幸司=285
これが高圧送電線鉄塔からおおよそ南東方向へと下る「巡視路」です。派手なピンクテープがかなりこまかな間隔でつけられ、道標がないだけで、堂々たる登山道という顔つきでした。さっき、見た目だけでこちらに誘導されてしまった「10分交代」のリーダーを責められない部分もあるなと思いました。
【撮影】15時47分=伊藤 幸司=288
なんとまあ、土留めの階段まであるじゃないですか。ひょっとすると大榷首(おおざす)峠のパラグライダーとの関係もあるかな、と思ったりしました。これが「登山道でない」というのはかなり不思議です。
【撮影】15時52分=伊藤 幸司=290
でも道は標高1,250mあたりでしばらく斜面をトラバースしました。派手なピンクテープが転々とついているので、不安感はなくなりました。どこへ導かれていくのかは、まったく見当がつきませんが。
【撮影】15時54分=伊藤 幸司=294
地形図では標高2,250mからいよいよ下りになります。
【撮影】15時56分=伊藤 幸司=295
そして私たちは高圧送電線の下を下っているとわかるのです。ここでまた足に異変を訴える人が出ました。
【撮影】16時05分=伊藤 幸司=298
地形図の等高線ではそれほどの急斜面とは思えませんでしたが、落ち葉の積もった斜面を直滑降。ピンクテープもありますし、画面下の中央には土留めの階段の杭のアタマが見えています。ここで、日没対策として足に異常を感じた人のザックを私が持ちました。日没まで30分を切りました。
【撮影】16時16分=伊藤 幸司=300
荒れた道ですね。暗くなるとこういうところで道を外しておおごとになるはずです。ここではまだ、画面中央の奥(青い服の人のザックの右あたり)に、(オリジナル画像だとはっきり)ピンクリボンが見えています。
【撮影】16時20分=伊藤 幸司=302
次の鉄塔が現れました。上に送電線が見えていますが、いずれ一番低いところまでいくと、その先は向こうの山まで登っていく、とわかります。
【撮影】16時21分=伊藤 幸司=303
だんだん送電線ルートの最低地点に近づいているはずです。道はまだ「道」の状態を保っているので、どこかで里に下る道、と出会わなければなりません。日没まであと10分ほど。日没後30分は無灯火で歩けますから、焦ってはいませんが、日没後の行動は時間が計算できにくくなります。
【撮影】16時24分=伊藤 幸司=305
林業関係の記号としては初めて見るようなものでした。でもここにもピンクテープがあって、道は植林地帯に下っていく、というような感じがしました。正直なところ、シロウト相手のマーキングですね。意味はわかりませんが。
【撮影】16時30分=伊藤 幸司=306
このテープだらけの場所でとりあえず5分休憩。たぶんこれで危機脱出ではあるのでしょうが、転ぶ危険など、想定外の事故も起こりやすくなります。まずは「腹ごしらえ」というような場面ではありませんが、水分と糖分は行動力を蘇らせてくれます。ほぼ、ジャスト、日没時刻ですから、これからの30分の体験は貴重です。……という気持ちであれば、大きな問題は起きないでしょう。要は、これからは林道歩きです。
【撮影】16時36分=伊藤 幸司=307
歩き始めるとまさに夕闇。なんでもかんでも適当に撮ってくれる私のカメラも、いかにも薄暗い雰囲気で撮ってくれました。
【撮影】16時43分=伊藤 幸司=308
歩きだして約10分、左右から林道が合流して、路面の状態がよくなって、日没後30分どころか、1時間近くまで無灯火で歩ける道になりました。もちろんそこまでやせ我慢して無灯火を続ける必要はありませんけれど。
この地点は持っていた地形図では道筋だけは予想できていましたが、国土地理院の電子地図で見ると標高約1,040mのところにこの交差点が描かれていますね。
【撮影】16時56分=伊藤 幸司=310
標高約970mで人家が登場。大きな建物と広いグラウンドがあったのでなんだろう? と思いましたが、その道筋にこのハンググライダーがありました。「忍野スカイスポーツ倶楽部」の着陸地点のようです。野球のネットのようなものが張られていましたが、最悪の場合の着陸時に突っ込める安全設備かもしれないなぁと思いました。
【撮影】19時17分=伊藤 幸司=311
いつもは河口湖駅から帰路につくのが通常なので、河口湖ロイヤルホテル「開運の湯」を利用することが多いのですが、最近はそこが宿泊客(もちろん外国人)であふれるような状態になって、河口湖駅前の河口湖ステーションインを利用する場面も増えそうです。
帰路の確保ということでは富士急ハイランドも電車と高速バスのターミナルになっているので、今回はふじやま温泉がどんなふうになっているか知りたくて、最初から予定していたのです。近年、富士山は驚くほど多方面からの高速バスがやってくるので、便利といえば便利です。河口湖駅だと高速バス専用の窓口があるので乗れる乗れないがすぐにわかりますが、ここではどうなのか、というあたりに関心がありました。
通常ならものすごく便利なターミナルともいえるのですが、糸の会の特殊性なところは朝日カルチャーセンター千葉で1996〜2011年に行った399回(中止も含む)の講座の出身者が多いので、千葉発06時38分のJR中央本線特急・あずさ3号/富士回遊3号が中央線/中央本線方面の計画の定番となってきたのです。ところがそれが常に満席で、未着席特急券で乗っても、ほとんど座るチャンスがありません。JRの特急乗り放題のジャパン・レイルウェイパスの外国人旅行者がドドッと乗り込んでくる印象です。加えてその時間帯の、大月駅に停車するほかの特急もなくなったので、今回は8時半大月到着の時間帯を10時大月着と1時間半ほど計画を後ろにずらしてみたのです。小さい山なのに日没につかまるというような計画になったのも、そういう経緯があったからです。
そして岐路。富士急行で大月に行くのなら問題ないのですが、高速バスも空席を待っている外国人旅行者が多くて、以前のように「ひとりぐらいなら」という甘い予想ができなくなりつつあります。(先日の鼻曲山の帰途、軽井沢駅から渋谷行きの高速バスは日本人のみ数人でしたけれど)
……というわけで、ふじやま温泉でゆっくり入浴・食事をしながら帰路のことを考える、という方式を今回試みたいと思っていたのですが、メンバーの中には忍野タクシーで「富士急行に各人1,000円払うんなら、タクシーでびゅ〜んと行ったほうが楽デスヨ」という誘いに乗ってジャンボタクシーやら小型バスやらを利用した体験がありましたから、今回は7人でジャンボという微妙な人数にも関わらず、ふじやま温泉到着以前に「湯上がりに高速道路で大月駅へ」という方針が決まりました。
ふじやま温泉は、空いていてゆっくりできましたが、それ以上のものではないかもしれません、でしたね。
【撮影】20時30分=伊藤 幸司=312
ふじやま温泉から大月駅は、電車で約1時間のところ、タクシーでは30分弱でした。特急かいじで帰る人と、快速東京行きの人とがここでサヨウナラ。