伊藤幸司(いとう・こうじ)の仕事歴



■1945年生まれ。早稲田大学文学部哲学科社会学専修卒。大学時代は探検部・写真部に所属。フリーランス・エディター&ライター。「糸の会・がんばらない山歩き&発見写真旅」を主宰。

●雑誌のライターとしてはカメラ系、電気・電子機器系のルポが中心。
●編集者としては写真集・ビジュアル系の企画・編集が多い。
●単行本としてまとまるものはアウトドア系、とくに登山に関わるもの。
●1984年から中高年登山の指導にかかわり、1995年から「糸の会」を主宰。
●2012年から「発見写真旅」を[見る目を磨くプログラム]として、
●2017年からは「山旅図鑑」を[できればフォトエッセイ的行動記録]として、
試行錯誤しながら展開中


■著作一覧
1980.8──『地図を歩く手帳』──山と溪谷社
1980.12──『富士山・地図を手に』──東京新聞出版局(雑誌「岳人」連載)
1982.5──『旅の目カメラの眼』──トラベルジャーナル新書
1983.7──『アウトドア事典』──主婦と生活社(編著)
1984.1──『カメラマン手帳』──朝日新聞社(編著)
1985.12──『歩く本』──日本実業出版社
1987.5──『初めての山歩き』──主婦と生活社
1990.7──『トレーニング不要! おじさんの登山術』──朝日新聞社(編著)
1992.3──『新版・カメラマン手帳』──朝日新聞社(編著)
1997.7──『自然と遊ぶ・中高年の山歩きガイド』──成美堂出版
1998.7──『がんばらない山歩き』──講談社
1999.5──『新版・初めての山歩き』──主婦と生活社
2001.3──『宮本常一、アフリカとアジアを歩く』──岩波現代文庫(共著)
2002.4──『日本百名山ビジュアル登山ガイド』(上下巻)──朝日新聞社(共著)
2003.7──『ゼロからの山歩き もっとゆっくり登りたい』──学習研究社
2005.3──『宮本常一 写真・日記集成』(全2巻・別巻1)──毎日新聞社(編著)
2005.11──『日本365名山・毎日が山歩き』──NECビッグローブ(ネット企画として連載開始)
2007.8──『山の道、山の花』──晩聲社
2009.4──『軽登山を楽しむ──山の道、山の風』──晩聲社
2010.8──『東京発 ドラマチックハイキング』──スタジオ タック クリエイティブ
2011.7──『ロープとひもの結び方入門』──新人物往来社
2012.7──『山歩図鑑』──晩聲社(iPhone用アプリとして刊行開始)


■1984年から中高年登山の指導にたずさわる。
朝日カルチャーセンター横浜(講師5人)――1983.11〜1995.9――40期
朝日カルチャーセンター立川(富士山/北海道シリーズ)――1986.6〜1989.7――6回
八王子そごう友の会――1992.6〜2001.7――53回
東急セミナーBE(第1期)――1994.10〜1995.9――36回うち実技12回
東急セミナーBE(第2期)――1996.10〜1999.6――33回
東武カルチュアスクール――2000.4〜2005.3――60回
朝日カルチャーセンター千葉――1996.4〜2010.9――385回
糸の会――1995.11〜2022.12現在――1,250回(ただし中止を含む)
*1995年に私的な山歩き講習会「糸の会」を創設して、ワンマンのコーチング・システムで現在に至る。
*「月イチ」登山と「運動靴+ダブルストック使用」に重点を置き「トレーニングは不要」という原則。
*「一般登山道」をはずれない「軽登山」……という技術領域で活動を続けてきました。


■足跡をまとめてみれば……



*『1968〜1969 早稲田大学 第一次ナイル河全域踏査隊・報告書』(早稲田大学探検部・1970.6)

●大学在学中に探検部と写真部に在籍。3年の夏に探検部の韓国合宿。

●その後、ナイル河遠征の計画にたずさわり、3年の秋から隊を編成。出発準備に1年をかけて4年生の秋に装備・技術担当の副隊長で出発。
ボートでの川下りはウガンダからスーダンへの入国ができずに中止。
隊を2つに分けて1隊は現地交通で地中海までナイルの流れに沿って下り、もう1隊は源流部での調査活動をおこなった。遠征期間は全7カ月。持ち出し外貨1人500ドルの時代。
帰国後、約1年かけて独力で報告書づくり。本づくりのおもしろさを知った。

★1968.10.5〜1969.7.7_ナイル河_new 〈早稲田大学第一次ナイル河全域踏査隊〉




*「あるくみるきく=62号 特集■探検学校」(日本観光文化研究所・1972.4)
*「レジャーアサヒ」(12号・1973.1)「観光団体旅行の新手[アフリカ探検学校]」

●大学6年目の1970年に、「AMKAS=あるくみるきくアメーバ集団」の創設に参加。全国の大学山岳部・探検部の若手OBが集まり、資料収集活動や情報センター活動をおこなう。そのとき以来の仲間が、現在各方面で活躍している。
当時の環境について簡単に述べておくと、日本ツーリストという会社に遡る。大蔵官僚だった馬場勇さんが1950年に設立した日本ツーリストが55年に近畿日本航空観光と合併して近畿日本ツーリストとなった。馬場勇さんはすでに日本ツーリスト時代に修学旅行専用列車を走らせるなど団体営業を中心とした攻めの経営を展開し、城山三郎の小説『臨3311に乗れ』のモデルともなった。
近畿日本ツーリスト副社長のまま1974年に没するが、民俗学者の宮本常一と出会うのは近畿日本ツーリスト十周年記念事業のひとつとして観光に関する研究所の設置を考えていたときだった。1966年4月に社長室に「日本観光文化研究所」が設立され、所長宮本常一、事務局長・宮本千晴(いずれも非常勤嘱託契約)。近畿日本ツーリスト協定旅館連盟と修学旅行担当の学校教師を中心的な購読者とするPR誌「あるくみるきく」を発刊した。
宮本常一の膨大な人脈と、長男・宮本千晴の大学山岳部に起因する人脈とで、研究所は常勤研究員をおかないまま「歩かせるが食わせない」という方針で多くの若いフィールドワーカーにチャンスを与え続け、23年後に幕を閉じた。
私企業の中に設けられた治外法権的巣窟(たとえばあむかす探検学校にかかわる渡航手続きは近畿日本ツーリストではなく、早大探検部OBの中井実さん=川崎航空サービス、が担当)のイメージをひとことでいえば渋沢敬三がポケットマネーで維持した民族・民俗研究所「アチックミュージアム」を、宮本常一は馬場勇さんをパトロンとすることで「日本観光文化研究所」で継承した。アチックミュージアムの研究員は全員が大学教授になったが、日本観光文化研究所で長期的なフィールドワークを展開した若者たち(多くは武蔵野美術大学で宮本常一に人生を狂わされた)から何人もの大学教授が生まれている。渋沢敬三という恩師に対する宮本常一の恩返しというふうに見ると、日本観光文化研究所はユニークな教育機関というふうにも理解されるかもしれない。

●「あむかす」では海外遠征技術の実験ツアーとして、一般募集による探検学校もおこなった。これは海外遠征から帰った探検部・山岳部の若手OBが海外旅行未経験者を「1日10ドル」の予算で旅に連れ出すという企画。1971年から翌年にかけて集中的に6本の企画を実施したが、私はその1回目と6回目を担当。
1971年夏、第1回の北ボルネオでマネージメントリーダー。
1972年夏には第6回カメルーン探検学校をひとりで実施。20人の参加者に中央アフリカのカメルーンでまず40日間の現地トレーニングをして分散。本隊を引率してコンゴ川を遡り、ナイロビから帰国。

★1971.8.1-30_北ボルネオ_new 〈アムカス探検学校(第1回)〉
★1971.9_ビルマ(ミャンマー)一人旅_new
参考■アフリカ探検学校 1972 ────カメルーン〜ザイール〜ケニア1972.7.29-9.27
★1972.7.29-8.28_カメルーン_new 〈アムカス探検学校〉
★1972.8.29-9.27_ザイール〜ケニア_new 〈アムカス探検学校〉




*『世界の旅=第8巻・アフリカ』(中央公論社・1971.7)

●中央公論で出版された「世界の旅」(全15巻)は本格的な海外ガイドシリーズのハシリで、「第8巻・アフリカ」(1971.7)が1巻独立して企画された。
そこで赤道アフリカ諸国を担当。英仏語のガイドブックを辞書片手に読みながら、けっこう怪しいガイドを展開した。





*『山溪カラーデラックス・素晴らしき地球──冒険の記録』(山と溪谷社・1974.6)

●1973年の2〜6月に横浜ドリームランドで「探検と冒険博」が開催された。東京ディズニーランドの登場で危機感を募らせた横浜ドリームランドの企画担当者で登山家の原田達也さんが持ち込んだ企画とか。
主催を朝日新聞社とし、監修者に加納一郎、梅棹忠夫、樋口啓二、村山雅美、吉沢一郎という豪華メンバーを揃えたのは上智大学探検部OB系の編集プロダクション「ぐるーぷ・ぱあめ」の礒貝浩さんのマネージメント力による。私は展示品集め係としてそれに参加。植村直己さんのエベレストの石が展示中に紛失するという事件が起きた以外、博覧会はおおむね成功裏に終了。
そのときに作ったパンフレット「ぼくら地球を愛してる」をスプリングボードにして生まれたのが、『山溪カラーデラックス・素晴らしき地球──冒険の記録』(山と溪谷社・1974.6)。
その写真収集では京都大学の梅棹忠夫研究室に1週間通って京都大学山岳部・探検部関係の写真を集めさせていただいたりした。



*「アサヒグラフ ユーコン河をカヌーで下る──3000キロ・源流から河口まで」(朝日新聞社・1974.11.22号)
*「あるくみるきく=96号 特集■ユーコンを下る」(日本観光文化研究所・1975.2)

●1974年の6月から9月にかけて、北米ユーコン川をカナディアンカヌーで下った。
探検部の後輩・坂野皓(故人)のドキュメンタリー・ディレクター第一作の雇われ船頭として声がかかった。
そのレポートはアサヒグラフ(1974.11.22号)に「ユーコン河をカヌーで下る──3000キロ・源流から河口まで」。
当時編集などにたずさわっていた近畿日本ツーリスト日本観光文化研究所のPR誌「あるくみるきく」では1975年2月号で「特集・ユーコンを下る」をまとめた。
そして1975.1.21にはNHK教育テレビの「みんなの科学」で「ユーコンを下る」に出演。

★1974.6-9_ユーコン河 3,000km_new 〈カナダ→アメリカ〉




*『あむかす:旅のメモシリーズ No.510 AMKAS…アムカス…あむかす──1969から1974.4』(日本観光文化研究所・1979.12)

●1974年ごろから「あむかす・旅のメモシリーズ」という手書きのガイド(報告書の下原稿)をつくりはじめる。デュプロ印刷でわら半紙二つ折り、ホッチキス止めという手作り本。
1975年11月にそれが縮刷版(200部刊行)となって、旅から帰った人が、つぎに出る人のために書き残す赤表紙のミニ本(B6判)として発展。「400字原稿50枚以上」(50ページ以上)とすることで国会図書館への納本を可能にした。
紀伊國屋書店(新宿本店)とマップハウス(渋谷パルコ、のちに三省堂本店)に永く置かれ、1987年12月までに89冊出た。
参考■あむかす・旅のメモシリーズ 全リスト
参考■あむかす:旅のメモシリーズ No.510   AMKAS…アムカス…あむかす 1969から1974.4





*『あるくみるきく=107号 特集■宮本常一・東アフリカをあるく』(日本観光文化研究所・1976.1)

●1975年の夏に第8回の「あむかす・東アフリカ探検学校」を実施した。日本を歩き続けた民俗学者・宮本常一先生の最初の海外旅行を弟子たちでプレゼントしようと企画したもの。探検学校を開催して、フリーチケットを捻出した。
私はそのマネージメントリーダーであり、案内役として晩年の先生を小型バイクの後ろに乗せて、サバンナの道をよたよたと走ったりした。
このころ、宮本先生が所長をしていた日本観光文化研究所(あむかす事務局はそこにあった)が編集・発行していた近畿日本ツーリストのPR誌「あるくみるきく」で長い原稿を書かせてもらって、原稿を書くことが好きになってきた。一時期はその編集長役もやらされた。
学問の弟子ではないが、大きな人物とはじめて出会った感じがした。
参考■「あるくみるきく」107号(1976.1)「特集=宮本常一・東アフリカをあるく」誌面
この本文(先生の「なぜアフリカへ来たのか」と、私のメモを整理した「宮本先生とあるいた44日間」)は2001年3月に岩波書店から刊行された岩波現代文庫の『宮本常一、アフリカとアジアを歩く』に全文再録されている。
参考■1975宮本常一・東アフリカをあるく────写真(1)ケニア1975.7.20-7.26
参考■1975宮本常一・東アフリカをあるく────写真(2)タンザニア1975.7.26-8.10
参考■1975宮本常一・東アフリカをあるく────写真(3)ケニア1975.8.10-8.27

★1975宮本常一・東アフリカをあるくnew



*『あるくみるきく=123号 特集■40人の出会ったインド亜大陸』(日本観光文化研究所・1977.5)

●1976年の秋には打ち止めの探検学校ということで第10回の「アムカス探検学校・インド亜大陸」。「100のテーマで 100のルートで 100の体験がひとつに……」とうたって、最終的に40人。
マネージメントリーダーを担当したが「次にはひとりで歩けるようになるための旅の学校」がこれで終わる。
このまとめは「あるくみるきく」1977年5月号の「特集=40人の出会ったインド亜大陸」で。



●1976年夏、定期航空路開設直前のサイパンに近畿日本ツーリストはチャーター機5機を飛ばしたが、その受け入れイベントの「サイパン・サンフラワー村」を企画・実施した。
仲間2人と1カ月滞在して早朝から深夜までの遊ばせ役。台風の日がつらかった。



*『別冊山と溪谷・ロビンソンクルーソーの生活技術』(山と溪谷社・1978.3)

●1978年3月に山と溪谷社から出た『別冊山と溪谷・ロビンソンクルーソーの生活技術』は、じつは関野吉晴さんの次の探検により多くの資金を提供しようという編集者・阿部正恒さんが考え出した奥の一手。単行本の印税より2万部発行のムック本で原稿料を払う方が金額が大きくなるから。
編集は野地耕治さん、デザインは三村淳さんというその後の「関野組」がここから始まる。私はこの別冊を「雑誌」にするための著者群としていくつかの名前でページを埋めた。
私の仕事の中心は「ロビンソン事典──図説・古代人に学ぶ衣・食・住のすべて」で、そのために「平凡社世界大百科事典」「Encyclopaedia Britannica」「Encyclopedia Americana」を中古で一気に備え、「家をつくる」「火をおこす」「採集する」「生活用具をつくる」「衣料をつくる」「弓矢をつくる」「獲物をとる」「魚をとる」「料理する」「畑をつくる」「酒宴をひらく」「遊ぶ」「筏をつくる」「旅だつ」という本文の項目立てに対応する技術を拾い上げた。





*「アサヒグラフ」連載「インド周遊記」(全7回)――1979.6-8

●1978年の秋から冬にかけてインド・パキスタンに70日ほどの新婚(?) 旅行。パキスタンに行くのに、わずかな飛行機代を節約してカルカッタで下りたため、インド横断に1カ月もかかってしまった。
村を歩き、機織りを見て、その日その日を足まかせ、風まかせ。子どもも宿った。
帰って「アサヒグラフ」で7回の連載。6.22号から 1.一国一城のあるじたち、2.二等列車に自由あり、3.二億頭の牛の群れ、4.サリーを着た女たち、5.清浄感ただよう泥壁の村、6.重厚な石の肌あい、7.花火で迎えるハレの日(8.3号)まで。
映画用のカラーネガフィルム(100フィート巻きを約20本に切ってパトローネ詰め)で撮影して映画の現像所でテスト現像時に流してもらい、カラーラッシュをとって入稿。「アサヒグラフ」のB4見開きサイズで使用できるという格安材料での画期的な結果を証明した。
特筆すべきは、裸電球1灯の街にたたずむ牛の姿をとらえた写真。ネガ→ポジ方式の露出不足写真は、暗部の情報が驚くほどうまく再現できるということを発見した。
参考■アサヒグラフ「インド周遊記」(全7回)――1979.6-8

★1978「インド周遊」とナーンプル村_new



*「グリーン・パワー」(森林文化協会・1979〜83)

●1979年から83年にかけて朝日新聞・森林文化協会の機関誌「グリーン・パワー」で取材をする。日本を見たいという気持ちを満たしてくれる人々と出会った。
石鎚山の「押しかけ番人」、兵庫県自然教室の仲間たち、パン会社と山梨県中富町の仲間たち・ふるさとに桜祭、6年目の草刈り十字軍、野菜がつなぐ38戸と1144世帯、伊勢神宮・木村政生さん、武蔵野の自然・石山礼蔵さん、瓢湖・吉川繁男さん、ミツバチの旅路五十年・肥後さん一家、伊豆諸島御蔵島・広瀬芳則さん・知幸さん、よみがえれ・ギフチョウ、間伐小径木の商品化を試みる・高知県、天神崎買い取り運動六年の軌跡、鹿児島県の榎本朝明さんと「蝶の会」、千葉県立行徳野鳥観察舎・蓮尾さん夫妻、ある盲人の「福祉の森」づくり・柳井市。





*「地平線放送だより 第1号」(1980.3)

●1979年秋に地平線会議が誕生。「あむかす」の運動が新展開するという要素があったため、創設の1年間は留守番電話の応答機能をつかった全国ネット&24時間対応の「地平線放送」を担当する。
これはある日、NHKテレビのニュースに登場したとたん、電話局の交換機がパンク寸前になった事件によってとん挫。交換機がステッブ・バイ・ステップ型で、もちろんダイヤルQ2のような便利な仕掛けもなかった時代。





*『地図を歩く手帳』(山と溪谷社・1980.8)

●1980年の夏に、山と溪谷社の山溪手帳シリーズの1冊として『地図を歩く手帳』が出る。編集の仕事を5冊受けたが、その1冊を書くことに。これが初めての自著。





*『富士山・地図を手に』(東京新聞出版局・1980.12)

●年末には「岳人」に16回にわたって連載していた「5万分の1地形図『富士山』を歩く」が本になった。編集もレイアウトもみなやらせてもらい、原稿も完全に清書しなおした。たっぷり時間をかけて活版印刷の『富士山・地図を手に』は完成した。





*『オートバイツーリング』(成美堂出版・1982.8)

●1982年に、オートバイで世界を走ってきた仲間の『賀曽利隆のオートバイ・ツーリング』という本の編集をしたのだが、独立直後の鈴木一誌というブックデザイナーから来た仕事。
鈴木一誌さんとはその後、1993年に朝日新聞社の「アサヒカメラ教室」編集、1985年に「旅別冊」の「地図」「花」「鉄道」、1989-90年にNHK出版の「NHK大形ドキュメンタリー・北極圏」(全6巻)の写真編集などをおこない、1996年以来私の山歩き講座「糸の会」にかれが参加、1998年の『がんばらない山歩き』(講談社)、2007年の『山の道、山の花』(晩聲社)、2009年の『軽登山を楽しむ──山の道、山の風』(晩聲社)で装丁・デザインを担当していただいた。





*『ダイヤモンド・ボックス』(月刊・ダイヤモンド社・写真は1987.6=86号)

●1982年からダイヤモンド社「ダイヤモンドBOX」でカメラ、OA機器、文具、アウトドア用品などのライターとしてかなり広範な仕事をさせていただく。それが休刊となる1992年まで続く。





*『旅の目カメラの眼』(トラベルジャーナル新書・1982.5)

●1982年5月には「トラベルジャーナル新書」が創刊され、旅行学入門シリーズの5冊目として『旅の目カメラの眼』が出る。旅の写真論だが、これがきっかけとなって1983年からの朝日新聞社での「アサヒカメラ教室」の企画・編集につながっていく。



*『サバイバル読本』(主婦と生活社・1982)*ただしこれは1999年発行の「新版」のもの
*『アウトドア事典』(主婦と生活社・1983.7)
*『初めての山歩き』(主婦と生活社・1987.5)

●1982年に主婦と生活社から『サバイバル読本』が出たが、それは探検部の現役が手分けして書きたいということではじまった企画。GOサインを出す役として監修ということになった。
それがきっかけで翌年1983年7月には『アウトドア事典』の編著者となり、1987年5月には『初めての山歩き』が出た。この『初めての山歩き』は書店での棚ぞろえにも恵まれてロングセラーとなり、1999年に改訂。



*『カメラマン手帳』(朝日新聞社・1984.1)
*『新版・カメラマン手帳』(朝日新聞社・1992.3)

●1983年は編集者として大きな2つの仕事にべったりはりついていたが、どちらも年末にひっくり返った。ひとつは朝日新聞で「アサヒカメラ教室」というシリーズ本の編集をすすめていて、取りつぶし。平凡社では大事典の地名項目写真を集めるプロジェクトを組んでいたが、これも出版環境の変化から取りつぶし。
仕事が頓挫すると一緒にやってくれている仲間の生活にもかかわってくる。苦い思いをダブルで経験した。
なお朝日新聞での仕事は、翌年元旦付けで別巻の『カメラマン手帳』だけが出た。ミノルタα-7000 というカメラの登場前夜、カメラ業界がどん底の時期であった。
この『カメラマン手帳』は1992年3月に『新版・カメラマン手帳』としてパソコン上のデータベースを駆使して改版された。





*『富士山』(ファナック株式会社・1984.11)

●朝日新聞社での仕事が頓挫して生活苦に陥っていた仲間のひとりが、当時工業用ロボットで世界の先端企業とされたファナック株式会社の贈答用写真集を受注。忍野に本社・工場を移転するのを機に、外国からの賓客に贈るものという企画。
1984年11月に完成したFANUCのプライベート豪華写真集『富士山』は、のちに富士山の写真で第一人者となる大山行男さんのデビュー作の直前に、空撮以外は彼の未発表写真で構成。写真の世界で画商的な試みをしていた安村浩さん(故人)とのがっぷり四つの仕事となった。





*『トレーニング不要! おじさんの登山術』(朝日新聞社・1990.7)

●1983年から、朝日カルチャーセンター横浜の「山登りの手帳・40歳からの登山入門教室」の地図担当講師となる。これは1995年まで40回おこなわれ、長谷川恒夫、大宮求、根岸知、大蔵喜福、中山茂樹さんらの登山家と仕事をする。1990年に朝日新聞社から出た『トレーニング不要! おじさんの登山術』はこの講座の体験から生まれたもの。





*『オペレーションローリー・公式パンフレット』(オペレーションローリー・日本委員会・1984)

●1984年から4年間、英国のチャールズ皇太子が提唱者となった世界規模の探検学校「オペレーション・ローリー」(ウォールター・ローリー卿記念大作戦)の日本委員会実行委員として派遣隊員の選出と国内訓練を担当。
17歳から24歳の男女を3カ月間、参加4,000人規模で「探検ごっこ」させるというもの。体験時間は延べ1,000年分となる。日本からは90人を世界各地に送り出し、1987年には120人(日本人参加者20人)規模の日本フェイズもおこなった。
これに参加した若者たちはその後グローバルな活動を続けているが、比較的早く知られるようになったのは平野裕加里(元CBCアナウンサー)、桃井和馬(フォトジャーナリスト)、高野孝子(早稲田大学客員准教授)など。スポンサーは日本電装、仕掛人は電通。





*『旅別冊 愛蔵版no.1 特集=地図……夢・謎・愉しみ』(日本交通公社・1984.12)
*『旅別冊 愛蔵版no.2 特集=花……情熱・神秘・驚異』(日本交通公社・1985.4)
*『旅別冊 愛蔵版no.3 特集=鉄道……追憶・熱狂・冒険』(日本交通公社・1985.8)

●日本交通公社の「旅」の前編集長・藤原進さんがどうしてもつくりたかったという愛蔵版の別冊をデザイナーの鈴木一誌さんが受注。
私は岡村隆さん(編集プロダクション「見聞録」を主宰。のちに東海大学系月刊誌「望星」編集長)と編集を担当。





*『歩く本』(日本実業出版社・1985.12)

●1985年12月に日本実業出版社から『歩く本』が出た。この本は、タイトルのおかげか図書館に入ったものがかなりあり、文献データベースなどでも見つかりやすいため、マスコミからの問い合わせが多かった。
1991年からテレビ朝日の深夜番組でアウトドアのミニ番組をつくるきっかけもこの本だった。



●1986年から89年にかけては朝日カルチャーセンター立川で、1987年に富士山、88年に大雪山、89年にトムラウシの各登山講座をおこなった。



*『ふるさと日本列島』(全8巻・毎日新聞社・1986〜87)
*『街道紀行』(全6巻・毎日新聞社・1990〜91)
*『シリーズ日本の大自然』(全28巻・毎日新聞社・1993〜95)

●1986年から87年にかけて毎日新聞社の自然景観写真シリーズ「ふるさと日本列島」(全8巻)の写真編集を担当。
続いて1990年から91年にかけての人文景観写真シリーズ「街道紀行」(全6巻)の写真編集を担当。
1993年から95年にかけて全28巻刊行された1冊1国立公園の写真集「シリーズ日本の大自然」(写真=森田敏隆)では巻末ルポ「国立公園物語」を担当。全28カ所の国立公園を、2泊3日で約1,000km走り回るというカミカゼ的取材を敢行した。
参考■国立公園物語(全28回)



●1987年に当時流行っていたのでしょうか、東京郊外のいくつかの市から立て続けに「青年講座」としてのアウトドア企画の依頼があったのです。東大和市、田無市、小平市と隣接する3つの市から次々に、ということでしたからきっと担当者レベルで情報共有があったのではないかと思うのですが、田無市の、中込美代子さんという人が担当した「サバイバル スピリッツ ”87」は私自身の体験としても人生の中心に置きたいものになりました。 ●西武新宿線田無駅の周辺に住む「青年」というと、都市部の企業に勤める人が多いのだそうで、そういう人たちを軽く結びつける公民館運動としての「青年講座」があるという感じでした。中込さんの周囲にはまさにそういう若い男女が集まっていて「青春時代」をかたちづくっていたようです。そのことは自主的につくられた報告書(写真欄に載せました)を見ていただければわかります。金曜日の仕事が終わってから集合し、駅前のコンビニで買い出しをして、西武線の最終便で秩父へと向かったのです。金曜日の夜は秩父市中心街の橋の下でごろ寝、翌日は「秩父から奥多摩へ」と向かう途上でビバーク。奥多摩の山稜を超えることができずに「敗退」したのです。30℃という真夏の市街地から一歩樹林に入れば、そこには寒さに震える夜があったのです。

★1987ゴミ袋キャンプ秩父_new(田無市青年講座)

*『OA探検術』(ダイヤモンド社・1990.12)
*『キヤノン通信大全』(全2巻・キヤノン販売広報部・1995.12)

●1988年からはキヤノン販売広報部がマスコミ向けに発信する情報誌「キヤノン通信」の執筆・編集をはじめたが、その後各領域のフリーランスライターが集められてチームを組んだ。
毎年8〜10冊を制作し、2001.10までに111号を発行。以後インターネット版に移行。
1990年12月にダイヤモンド社から刊行された『OA探検術』は「キヤノン通信」チームによる対外活動のひとつ。
1995年12月には100号記念として『キヤノン通信大全』(外伝+写本)をA4版・背幅72mmという非常識ともいうべき豪華本として製作した。





*『オートメカニック』(内外出版社・写真は1988.11)

●自動車1台丸ごととなるとむつかしいが、切り刻めばなんとかなるだろうというので1988年11月から89年8月にかけて「オートメカニック」誌で「伊藤幸司のパーツうんちく学」を連載(全13回)。
そのテーマは、1.タイヤ、2.ワックス、3.バッテリー、4.ヘッドランプ、5.オイル、6.スパークプラグ、7.ヘッドガスケット、8.点火装置、9.コンピューター、10.オイルフィルター、11.ボルト&ナット、12.ガソリン、13.ペイント。
参考■オートメカニック・パーツうんちく学――1988.11〜1989.11





*『朝日ハンディガイド・ふれあいの「首都圏自然歩道」』(朝日新聞社・1989.4)

●平成元年3月に整備完了となった環境庁「首都圏自然歩道=関東ふれあいの道」(全1,667km)の実地踏破ガイドを企画したのは朝日新聞出版局の大峡弘通さん。1都6県のうち埼玉・群馬・栃木・茨城の4県を担当したので、もとより自分で歩く余裕はなく、数人の仲間に踏破メンバーになってもらい、ワゴン車にテントを積み、宅配便のように各登山口に送っては、回収するという毎日。私はドライバーのほか、設営・調理(?)、データ収集ということで約10日の取材合宿を終えた。
整備完了と同時に出版ということで工事中のルートもあったが、ミニユンボなど機械力で林道工事と同様に造った道は、ひと夏過ぎると雑草が生い茂って埋没してしまうという例を多く見た。





*『ビバビデオ』(玄光社「ビデオSALON」別冊・写真は1990.1=創刊号)

●1990年からは玄光社の「ビデオサロン」別冊として発刊された「ビバ・ビデオ」に創刊号から参加。「ダイヤモンドBOX」誌の仕事のお陰か、まったくの初顔で「メカニズム初歩の初歩--女性・初心者のためのメカ音痴撲滅講座--ビデオ撮影A to Z」という大きな記事を書かせてもらった。1991年3月からは「VIDEO DETECTIVE File」というかたちになって、バッテリー、ファジービデオ、ズームレンズ、テープ、防水カメラ、ツインカメラ、三脚、3CCDカメラ、二次電池など10回連載。
その連載取材で面白かったのは、業務用ビデオカメラをつくっている松下通信工業と家庭用3CCDカメラを量産している松下電器産業の技術者が同席したときのこと。レンズを通ってきた光を3色に分けるダイクロイックプリズムの作り方で、両者お互いの意見交換の場になってしまった。





*『自然と遊ぶ・中高年の山歩きガイド』(成美堂出版・1997.7)

●1997.7に成美堂出版から出た『自然と遊ぶ・中高年の山歩きガイド』は、編集プロダクションが間に入ってつくられたので、見開きごとに魅力的な見出しが立って、イラストもふんだんに用意された。割り切りのいい手慣れた構成になっている。
材料は、1994.10〜1995.9の12か月間の東急セミナーBEの講義資料が中心となっていて、初めて「登山靴より運動靴」という宣言をし、ダブルストックをすすめている。登山道の「1時間モデル」を4つ積み上げれば北アルプスにも登れるという大風呂敷もここから。
東急セミナーBEでの登山講座は「初めての山歩き──運動靴できちんと歩くことから」として、1回の登山実技に対して前後2回の教室での講義をつけたもの。依頼を受けたとき、カルチャーセンターでは3か月単位でものを考えるということを知らなかった(朝日カルチャーセンター横浜では3か月に1回、5人の講師の教室とそれに対する実技という公開講座のかたちだった)ので、月ごとの単発企画を3セット繰り返すものと早トチリして、オリエンテーションと反省会で実技をはさんだ。
ところが参加者は3か月で9回の講座料(29,160円)を払うということがわかり、あわてて6回の集中講座と3回の実技登山としてカリキュラムを組み直した。それだけならよかったが、その3か月セットが1年間続くということになり、かつ第一期の参加者30人の3分の1が4セットを連続受講するという予想外の展開に。つまりその人たちには12回の実技登山に24回の教室というヘビーな企画になってしまった。
企画を途中で変えることも考えたけれど、途中から入ってくる人もいるので、けっきょく同じ企画を4セット通すことにして、しかもダブり感を少なくするように努力した。そのときの資料が『自然と遊ぶ・中高年の山歩きガイド』の骨格になっている。
残念ながら本はあまり売れなかったけれど、私にとってはエポックメーキングな本となった。
ちなみに東急セミナーBEの登山講座は1年で突然終了。親会社の東急電鉄法務部の危機管理調査が死亡事故の場合の保険金額を大きくできない点を指摘したことによる。路頭に迷う受講生を引き受けるべく、急遽自前の登山講座を設けることとしその説明会で、ある参加者から「糸の会」(itoの会)という名が提案された。
つけ加えると講座担当者の意地もあって、1年後に「ネイチャートレッキング──『関東ふれあいの道』を歩く」と看板のみ掛け替えて復活した。
参考■糸の会設立案内 ………1995.10.30
参考■糸の会設立案内2 ………1995.11.1



●1991年から翌年にかけて、テレビ朝日の深夜番組「プレステージ」中のミニ情報番組でアウトドアシリーズを企画+出演で10回(10カ月)つづけた。当時アシスタントディレクターだった栗田郁也さん入魂のデビュー作。
一部で有名になった「ゴミ袋キャンプ」が第1回、以下新幹線+バス+タクシー+ヒッチハイク+宅配便利用の「MTBツーリング」、川の流れに身をゆだねる「ボディラフティング」、トランクひとつで2人の夜を実現する「豪華オートキャンプ術」、30分以上歩かないと入れない湯の宿を東北自動車道沿いにたずねる「徒歩温泉郷」、ポンコツ車でクラッシュ続出の激しいバトルを繰り広げる安価かつ安全な「軽自動車6時間耐久オフロードレース」、真冬に沖縄の島一周に挑戦した「海のピクニック」、雪の山中で「ゴミ袋キャンプ・冬版」、スキー場でスキーをはかずに新雪を遊び尽くす「雪上遊戯」、山小屋を楽しむ入門編「冬の北八ヶ岳縦走」。



*「ネイチャーパイロット」(VOL.1 集英社・1993.12)
*「ネイチャーパイロット」(VOL.2 集英社・1994.4)
*「ネイチャーパイロット」(VOL.3 集英社・1994.11)

●1993-94年には集英社の隔週刊コミック誌「スーパージャンプ」でアウトドア企画「ネイチャーパイロット」を連載。漫画家・天沼俊さんと編集者と3人でさまざまな思いつき企画を29回にわたって実験した。これが順次単行本になって3巻になった。
テーマは、夜景ドライブ、MTB、登山、たき火、コンビニ野外パーティ、磯遊び、ビーチコウミング、浜辺の料理、ボディラフティング、富士山大沢下り、パラグライダー、七輪バーベQ、マツタケ狩り、カナディアンカヌー、ロープワーク、薫製作り、「冬桜」お花見忘年会、ウインターオートキャンプ、お手製露天風呂、雪遊び、XCスキー、ワカサギの氷穴釣り、「春」を感じるアウトドア、お手軽キャンプ、野外炊飯、ボルタリング、古式泳法、男海女、乗馬。





*『がんばらない山歩き』(講談社・1998.7)

●1995年から、東急セミナーの受講者を第一期会員にして伊藤幸司の実験+取材型山歩き講座「糸の会」が発足。現在に続いている。1998年の『がんばらない山歩き』は糸の会の最初の1年間の試行錯誤がベースとなっている。
なお『がんばらない山歩き』は佐野眞一さんの大宅壮一ノンフィクション賞受賞に若干の関係があった。
大学のクラス(早大第一文学部哲学科社会学専修、約120名)で祝おうという話があったらしい。私はクラス会などいっさいの集まりに参加しない隠遁生活をしていたのだが、その本『旅する巨人──宮本常一と渋沢敬三』では取材を受けていたこともあって、佐野眞一さんから「出ない?」という電話をもらった。
その会で以前平凡社にいた鷲巣俊子さんと話し合う機会があって、講談社に企画を出してみるということになった。
ちょうどその頃「糸の会」での完全ワンマン指導実験で試みていたことがいろいろあったので、さっそく企画書を出すと、それを受け取った編集者が写真の中にデザイナーの鈴木一誌さんを見つけて、話はとんとん拍子に進んでしまった。
この本はそれから執筆を開始したのでずいぶん時間がかかったけれど、大枠を鈴木一誌さんが決め、私が勝手に原稿を書くという野放図なつくりになった。



●1996年4月から、“山ナシ県”の千葉県では最初の登山教室ということで朝日カルチャーセンター千葉で平日の講座がはじまる。これは3カ月で講義3回+実技3回というかたちではじまったが、次第に変形し、最終的には講義1回+実技5回+公開実技(小屋泊り)1回という構造に到達。1998年4月からは「初級」「中級」「小屋泊り」の3部構成となり、毎月1回の実技のみ、というシンプルな構成になった。
1996年には東急セミナーBEでも新講座がはじまったが、こちらは平日の超入門講座。午前10時ごろ山手線駅集合で午後4時ごろ下山(現地解散)という「10-16時の山歩き」を試行錯誤。





*『アサヒグラフ[増刊]フランスW杯1998 ポケットガイド』(朝日新聞社・1998.6.1)

●1998年のゴールデンウィークには、連日朝日新聞出版局に詰めていた。大学写真部の同期で当時出版写真部長だった白谷達也さんから「パソコンでデータ管理できるよね」と呼び出されたのがサッカーワールドカップ・フランス大会に向けて「アサヒグラフ」が増刊する『ワールドカップ・ポケット版』の編集だった。
朝日新聞社内でも3〜4冊作られるというワールドカップ本の1冊で、写真エージェントによってかき集められる各国チームの選手写真から最終メンバーを予想しつつ選手名鑑をつくるというもの。いろいろ考えてみるとサッカー関係者はすでにどこかの仕事にかかわっていてどうにもならない。
それじゃあということで清水出身のフリーライター夏目利明さんに声を掛けたら、かれが一流の海外サッカー通で、最終的なナショナルチームメンバーをうまく絞り込みながら組み立ててくれた。わたしはとなりでハサミを持って、写真の切り貼り役。





*「アサヒグラフ」巻頭カラー特集「秋の一日 山歩き」(朝日新聞社・1998.10.30号)

●1998年には山歩き講座のなかで撮りためた写真から秋の山を選んで「アサヒグラフ」(10月30日号)の巻頭特集「秋の1日山歩き」となった。
以前、ユーコン川下りのときに表紙になる可能性があったのに、アンディ・ウォーホルにとられた。今回は初めて表紙まで飾れたけれど、中学時代から憧れだったB4判のアサヒグラフではなくなっていた。
参考■アサヒグラフ 巻頭カラー特集「秋の一日 山歩き」――1998.10.30



*「週刊ダイヤモンド」連載「BackOfficeが変えてゆく情報システム・全国探訪」(ダイヤモンド社・1998.2.7号)
*「Apple Computer CASE STUDY <事例集>[1]」(アップル コンピュータ ジャパン・1991)

●1998年の2月から6月に「週刊ダイヤモンド」のタイアップ連載記事として、マイクロソフトの「バックオフィス」(PCサーバーシステム&アプリケーションセット)導入例を取材。NECテクノサービス、指宿市保健センター、三木特種製紙(愛媛県)、野外科学株式会社(札幌)、焼津医師会、宮崎県こども療養センター、沖縄・ミハマセブンプレックス、電制(札幌)、唐津市役所など、日本各地、それも意図的にローカルなものに焦点を当てて取材した。
取材先は日本のごくごく平均的なものといえるが、それだけに地元のコンピューター販売会社がウインドウズNTで稼働するPCサーバーの爆発的な普及を支えているようすがはっきりと見えてきた。マイクロソフトもそれによって、野放図に導入されてきたビジネスユースのパソコンをサーバーとつなぎ、システム全体を把握するメリットを得ることができる。
振り返ると1991年には、アップルジャパンのパンフレット制作で、滋賀医科大学、東京女子医科大学、電通、博報堂、東京国際大学、明星小学校などにマッキントッシュ・パソコンが草の根的に浸透していく事例を取材した。時代は怒涛のように流れている。





*「新版・初めての山歩き」(主婦と生活社・1999.5)

●1999年5月に主婦と生活社から『新版 初めての山歩き』。これは1987年に出た『初めての山歩きの』改訂版で、本文イラストはほとんどそのままにして、脚注を全面的に改めた。





*「毎日カメラ読本」(毎日新聞社・1999.8〜2002.11)

●私がカメラマン志望になったのは中学生のときに「カメラ毎日」のコンテストに入賞したことによる。高校時代には写真部に所属し、「高校の部」の常連となってついその気になった。
そのカメラ雑誌御三家のひとつ「カメラ毎日」が休刊になり、ムックとして細々と生きていたが、大学写真部同期の平嶋彰彦さんが出版写真部長からビジュアル編集室長に動く過程で最初に登場した仕事がその「カメラ毎日」の尻尾の編集だった。
名前を「毎日カメラ読本」としたが、その編集に参加するとともに巻末連載「カタログ探検紀行」として、1.カメラバッグ、2.運台、3.写真用額縁、4.カラーポジの整理システム、5.交換レンズ開発の考え方、6.コシナはなぜフォクトレンダーなのか、7.プリンターはどのように「写真」を考えているのか、8.写真フィルターの進化、9.CCDとの格闘現場、10.CCDとの格闘現場・続を執筆した。(1999.7-2002.9)
参考■毎日カメラ読本――カタログ探検紀行





*「週刊日本百名山」(全50巻・朝日新聞社・2001.1〜12)

●2000年になると朝日新聞社の週刊百科のミニバージョン(50冊)で「日本百名山」をすることになり、なぜかそのガイド記事執筆がまわってきた。
当時深田久弥の『百名山』の登頂経験は約2/3という事実を隠したわけではなく、初心者向けガイドとして机上プランを考えるということなら……というあいまいさで、決まったらしい。私が考案した○◇印のシミュレーションマップも消化不良の状態ながら毎回使ってもらった。





*『世界遺産』(全12巻・毎日新聞社・2002.2)

●毎日新聞社ではビジュアル編集室長となった平嶋彰彦さんのところに「世界遺産」の豪華写真集が作れないかという話が下りてきた。毎日新聞社はかつて豪華本企画の先頭を走っていた。なかでも『国宝』と『御物』(宮内庁所管の宝物)が直販システムによって20年にわたって売れ続けているというところから新しいシリーズとして『世界遺産』が企画されたのだった。
世界遺産は年々登録されつつあって1,000か所程度までになるということと、ワンチャンスの特撮ではとてもとらえられないものも多く、集め写真で構成する……という、豪華本には決定的なハンディをどう克服するかというところから始めた。
最終的に全12巻(おまけビデオ付きで約18万円)という超重量級豪華本を刊行することができた。編集は1999年から始まり、刊行完結は2002.2であった。
B4判の豪華写真集というのはすでに書店に置けるサイズではなくなっていたし、バブルがはじけて以降、ある宗教団体以外に豪華本の需要はないという時代錯誤的製作だったが、額面で年間10億円を売り上げるという直販システムが健在だった。凸版印刷での最後の名人芸という製版技術に、編集スタッフ全員がしばしば驚かされたりもした。





*『ゼロからの山歩き もっとゆっくり歩きたい』(学習研究社・2003.7)1,200円(絶版)

●学研スポーツブックスとして「ゼロからの――」シリーズがあるのだが、スポーツ雑誌編集部デスクの柿本徹夫さんがその担当として、山歩きの本をつくりたいといってきたのが2001年10月。それから細く長くやりとりを続けてできあがったのが『ゼロからの山歩き もっとゆっくり歩きたい』(2003.7)だった。
カルチャーセンター的山歩き講座を続けながらすこしずつ進めてきた技術論がゆっくりと書く本の内容を変えていく。



*『宮本常一 写真・日記集成』(全2巻・別巻1──毎日新聞社・2005.3)60,000円(税込み)。
*「民俗学者宮本常一の写真・昭和30年代の日本」(毎日新聞夕刊・連載14回・2004.1.10〜2005.3.26)

●2001年の夏から準備が進められてきたのが2005年3月に毎日新聞社で刊行されることになった『宮本常一 写真・日記集成』(全2巻・別巻1)。
亡くなって20年以上になる民俗学者宮本常一先生の未整理だった写真(昭和30〜56年)をまとめる作業が進むうちに、未発表の日記(昭和20-56年)も出てきて、それもすべて翻刻することになった。毎日新聞社の平嶋彰彦さんが写真によって宮本常一と向かい合い、詩人の中村鐵太郎さんが日記によって宮本常一と向かい合うという真剣勝負をわきでたっぷり観戦というのが私の役目となった。
写真集は結局セットで6万円と高価なものになったので、広報的意味を込めて、2004年1月から2005年3月にかけて毎日新聞夕刊紙上で月1回「民俗学者宮本常一の写真・昭和30年代の日本」を連載した。



●2005年にキヤノン販売の広報部長だった藤森元友之さんからおもしろい話がきた。インターネットプロバイダーのNECビッグローブがステーション50という中高年向けのサイトをつくるにあって小学館に協力を求めてきたという。「おとなのたまり場ボンビバン」(bon vivant=人生楽しむ派)の第1チャンネルとして「日本365名山・毎日が山歩き」を連載。これはサイトが終了する2010年末まで113回を数えた。
001大山、002奥久慈・男体山、003金時山、004塔ノ岳、005筑波山、006上高地、007北八ヶ岳、008幕山、009雲取山、010高川山、011笠山、012両神山、013高松山、014宮之浦岳、015天城山、016那須岳、017白山、018黒檜岳、019唐松岳、020槍ヶ岳、021御嶽山、022尾瀬、023栗駒山、024大菩薩嶺、025桜山、026神山、027安達太良山、028蔵王、029美ヶ原、030開聞岳、031三ツ峠山、032八甲田山、033守屋山、034鋸山2.25、035嵩山、036丹沢三峰尾根、037鼻曲山、038荒船山、039会津駒ヶ岳、040大岳山、041赤岳、042パノラマ台、043北岳、044白馬岳、045金峰山、046西穂高岳、047妙高山+火打山、048瑞牆山、049石割山、050二子山、051霧島山、052高尾山、053十二ヶ岳、054丹沢縦走、055赤城山、056高峰高原、057沼津アルプス、058佐渡・ドンデン高原、059岩戸山、060吾妻耶山、061秋田駒ヶ岳、062子持山、063巻機山、064乾徳山、065鳳凰三山、066菜畑山、067甲斐・駒ヶ岳、068大蔵高丸、069至仏山、070四阿山、071木曽・駒ヶ岳、072御岳山、073岩殿山、074北高尾山稜、075水沢山、076行道山、077入笠山、078日和田山、079稲含山、080元清澄山、081三毳山、082高尾山、083浅間尾根、084岩山、085面白山、086磐梯山、087高山、088大雪山、089北岳、090燕岳、091妙法ヶ岳、092仙丈ヶ岳、093谷川岳、094火打山、095古賀志山、096天狗山、097甲武信ヶ岳、098羅漢寺山、099高水三山、100明神ヶ岳、101大小山、102伊予ヶ岳、103鹿倉山、104川苔山、105八風山、106笠取山、107鹿島槍ヶ岳、108棒ノ嶺、109燧ヶ岳、110武甲山、111仏果山、112三筋山、113足和田山、





*『山の道、山の花』(晩聲社・2007.8)1,850円。電子版450円。

●2006年の初めだったと思うけれど、デザイナーの鈴木一誌さんと晩聲社をたずねた。晩聲社といえば名編集者の和多田進さん(後に「週刊金曜日」初代編集長)が精力的に問題作を世に送った出版社だが、それが尹(ゆん)隆道・成(そん)美子ご夫妻の手に渡って、古い資産を継承しつつ、新しい方向に踏み出そうとしている時期だった。若いころから和多田さんとたくさんの仕事をしてきた鈴木さんが、デザイナーという立場から広範なアドバイスをしているようだった。
尹(ゆん)さんは日大芸術学部出身で大島渚組の主要な俳優であり、映画「絞死刑」で主役を演じている。奥さんの成(そん)さんには『チンジャラ激戦中』(文藝春秋社・1995)という本がある。在日韓国人の青年部で活躍したふたりが、すすめられてパチンコ店経営に乗り出した奮闘記であり、その延長戦上に「出版」という活動が掲げられたという印象だった。
そのとき私は山で撮った写真をザックいっぱい持参した。尹(ゆん)さんが子どもを山に遊ばせたころを懐かしがってくれ、本をつくるということがその場で決まった。
そして2007年の春、おおまかな姿が立ち現れたときに尹(ゆん)さんが発したのは「えっ? 花の本?」
じつは2006年中に、1995年から山で撮った写真を全部見直して「山」「花」「光景」として見出しの立つものに細分類していった。そうしてみると「花」に類するものを最初にまとめてしまわないと、とうてい1冊に組み立てられないと思ったので「花」でまとめてしまったという次第。私はそういう説明をして、2冊目を「光景」の写真で組み立てるのを了解していただいた。そういう経緯で2007年8月に刊行されたのが『山の道、山の花』だった。
目次立ては、春──1アカヤシオ、2スミレ、3カタクリ、4シラネアオイ、5ニリンソウ、6サクラソウ、7ミズバショウとザゼンソウ、8チゴユリ、9ヤマブキ、10サクラ、初夏──11エンレイソウとキヌガサソウ、12クリンソウ、13シャクナゲ、14シロヤシオ、15ズミ、16ヤマボウシ、17キバナノアツモリソウ、18アセビ、19オオカメノキ、20ミツバツツジ、21ヤマツツジ、夏・高山──22ヤグルマソウ、23シモツケソウ、24アヤメ、25コマクサ、26ツリフネソウとキツリフネ、27オカトラノオとヤマトラノオ、28トリカブト、29コバイケイソウとその仲間、30オオバギボウシ、31レンゲショウマ、32イワカガミ、33マツムシソウ、34マムシグサ、35ホトトギス、36紅葉、37キノコ、冬──38冬桜、39シモバシラ、40霧氷、41ウメ。





*『軽登山を楽しむ 山の道、山の風』(晩聲社・2009.4)1,600円。電子版450円。

●2冊目は「山の道、山の風」というタイトルで考えていたけれど、鈴木さんの強い希望で主題をはっきり打ち出した。2009年4月に刊行なったのは『軽登山を楽しむ 山の道、山の風』。
目次立ては、【春】1春の道、2春の花、3芽吹き、4木の花、5カエル、6木の肖像、7山里、8残雪/雪渓、【夏】9夏の道、10自然林、11人工林、12休憩、13滝、14川、15橋、16池・湖、17海、18シカ・サル・クマ、19チョウ、20雨、21雲、【高山】22朝の光、23山頂で、24ブロッケンの妖怪、25お花畑、26ライチョウ/カモシカ、27山小屋、28避難小屋/テント、29槍ヶ岳、【秋】30秋の道、31実り、32虫、33岩のかたち、34岩場、35クサリ場、36信仰のしるし、【冬】37冬の道、38雪遊び、39下界の風景、40夕、41鳥、42富士山、43宿、44湯。





*『東京発 ドラマチックハイキング』(スタジオ タック クリエイティブ・2010.8)1,200円。

●2009年12月に、スタジオ タック クリエイティブという会社の若い編集者(大島晃さん)から突然電話があった。山歩きの実用書を制作したいという打診だった。
若い編集者から飛び込みの話があったら基本的に乗ると決めているので、さっそく会った。話の筋はあまりよく分からなかったが、先方も分からない状況であるはずなので、丸ごと自由に料理してもらうという方向に振ってみた。山の名前を出してもらって、それにかかわる写真データをすべて渡して、自由にレイアウトしてもらうことにした。
結果的にいうと目次は【人気の定番山】高尾山、筑波山、【東京から通うハイキング山】赤岳、赤城山、天城山、岩山、岩殿山、大蔵高丸、御岳山(秩父御岳山)、尾瀬、雲取山、高山、大菩薩嶺、谷川岳、天狗山、水沢山となり、レイアウトに従って文章を後入れした。
山の並びはなんとアイウエオ順。前書きに「伊藤さんが提唱する軽登山=ハイキング」などという大胆な記述もあるけれど、CDジャケットサイズでタイトルを『東京発 ドラマチックハイキング』としたあたりのセンスはなかなかのもの。そして一度私の登山講座に参加した若いデザイナー(三嘴翔さん)もかなり楽しんでいたように思われ、女性の評判がすこぶるいい。出版社というより編集プロダクションという感じの会社だが、スタッフが全員参加で短期決戦型の仕事をするというパワーがこの小さな本に結実したという感じがする。





*『ロープとひもの結び方入門』(関野吉晴監修・新人物往来社・2011.7)900円。

●命にかかわる重要な局面で、あくまでも最後の最後の危機管理用としてロープを使おうと考えてきた結果、命を守る最後の砦としてのロープの結びは「二重8の字結び」と「プルージック・ループ」に尽きるというふうに考えるに至りました。その2つをどのように組み合わせて活用するかは「技術」ではなくて「知恵」です。(「はじめに」から)





*『山歩図鑑001 金北山』(晩聲社・2012.7)iPhone用アプリ・85円。

●NECビッグローブで連載していた「日本365名山・毎日が山歩き」をスマートフォン用のアプリとして販売したいという話が出てきた。いったいどんなものになるのかと思っていたら、昔の出版業界のようにデザイナーと直接やりとりするのが難しいまま進んでいくと、自動処理のできない部分が多くてしだいに空中分解状態に。
現在の出版業界ならデザイナーと編集責任者が基本方針を決めて、著者と担当編集者とで材料の整理をするというのが常識だと思うのだが、材料を丸ごとプロダクションに投げるという感じ。しかもできるだけ自動処理させようとしているので、かえってやっかいな状態になるようだ。
2011年の末に、スマホ用アプリではいろいろ販売実績のある晩聲社の成 美子さんに相談すると専門家に声をかけて検討会を開いてくれた。デザインはもちろん鈴木一誌さん。紙媒体からスマホ用アプリなどデジタル出版に移行するにはどういうステップがあるのかという現状を知りたかった。
プログラミングに手を加えればやれることはほとんど無限にあるけれど、じつはスマートフォンやタブレットの画面サイズや解像度などにそれぞれどう対応するのかというような統一的な基本スペックもよくわからない。今後どう動くかもわからないということがわかってきた。開発途上なのだ。
こちらの個々の要望を満たすような受け皿を作ろうとすると新しいプログラミングが必要となって大きなお金がかかる。ところが一番シンプルな方法では、たとえばiPhone(当時はiPhone4)では解像度326ppiで幅24cm×高さ36cmのjpeg画像を入れれば拡大率約5倍の電子画像として扱ってもらえるということがわかってきた。文字も画像に組みこまれてしまうのでかなり大きな問題ではあるけれど、そのシンプルさにひかれはじめた。
電子書籍全般にいえることだが、スマホ用アプリとしての電子書籍は「売れない」というのが業界の常識になっている。その「売れない」も「売れ行きが悪い」というレベルではなく、ある出版社では発売したシリーズ全体で月に「ひと桁」というような売れなさなのだ。私が育ってきた出版業界のフリーランスだって、成功するのはほんの一握り、一時期ちょっと食えるというフリーが圧倒的多数。だから「売れない」ということには驚かなかった。
それよりも、1974年から1987年にかけて89冊を刊行した「あむかす・旅のメモシリーズ」の再来だと思った。それは旅(海外の冒険旅行など)から帰った仲間にA4版のコクヨの400字詰め原稿用紙にレポートを自由に書いてもらい、それをそのままB6判に縮小コピー。それをA3判のコピー用紙に貼り込んで簡易印刷で「50ページ以上」の本にした。その「50ページ」には大きな意味があって、どんな内容でも原稿用紙50枚以上書ける内容なら無条件に信用する、ということと、50ページ以上あれば書籍として認められ、国会図書館に永久保存されるという点。
外国で「赤本」を見て自分も書きたいという人が多く、紀伊國屋書店本店(新宿)には10年以上棚を1列もらって、私自身が納品と書棚整理をした。それほどたくさん売れていたわけはないけれど、当時日本で一番書棚確保が難しいといわれ、本の売れ行き情報ではまず紀伊國屋書店といわれたその本店に幅1mほどのスペースを確保できたのは、多分……外国帰りの若い旅行者たちが「赤い表紙の旅のガイドはどこですか?」などと印象に残る問い合わせをしてくれたからではないかと思う。
いままさにそれを再開できるというふうに私は考えた。ある1日の登山を20枚の写真とiMap(伊藤式登山シミュレーションマップ)でレポートして可能な最低販売価格にすると決めた。
私自身がAdobe illustrator で内容を階層分けにして作り、それをjpeg画像として送り出すので、作業の90%以上が手の内で行える。しかも将来のもっと複雑なプログラムに対しても材料の部分は完全に対応できる。
自分でほとんど完結できるので、その作業を余暇でやれるか、作業分の時間給をなんとか売り上げられれば、作り続けることができる。1,400回に近づいている登山講習会から100本は間違いなく作れ、路線に間違いがなければ200本も軽くクリアできると踏んだのだった。
*001金北山(5月10日)
*002天城山(5月19日)
*003那須岳(5月27日)
*004屋久島(6月1日)
*005黒檜岳(6月9日)
*006富士山(8月15日)★無料
*007鳳凰三山(7月12日)
*008西穂高岳(9月26日)
*009鹿島槍ヶ岳(7月20日)
*010高尾山(12月20日)★無料
*011赤城山(2月21日)
*012守屋山(12月14日)
*013石割山(1月26日)
*014安達太良山(1月24日)
*015蔵王(3月9日)★無料
*016美ヶ原(2月11日)
*017北八ヶ岳(1月23日)
*018国上山(4月12日)★無料
*019ドンデン山(5月10日)
*020筑波山(4月5日)
*021両神山(5月10日)
*022男体山(4月15日)
*023笠山(4月15日)
*024子の権現(3月22日)
*025子持山(5月25日)
*026浅間嶺(4月18日)
*027巻機山(5月9日)
*028御前山(4月26日)★無料
*029伊豆ヶ岳(5月10日)
*030高水三山(5月17日)
参考■伊藤幸司の「山歩 san-po 図鑑」――サンプル画像



●2012年4月から新しく「発見写真旅」を始めた。もう登り下りのある山道は歩きたくないという人向けに平坦なハイキングを試みてみたのだが、じつはあまりおもしろくない。そこで日本が世界に誇る渓流の道や、小京都などと称される街並み、あるいは東京の繁華街……をもっと楽しく歩きたい。
メンバーの中で進路決定権をもつ先導役を交代しながらみんなで同じ行動を共有……しながら「見たもの」を競い合う写真バトル。見たものを撮るという大原則にしたがい、自分の写真を伊藤が提案する「10秒ルール」できちんと見ることで、写真から自分を発見することもできるはず。これをなんとか「写真の力」として実証したいと考えるようになってきた。
1982年に『旅の目カメラの眼』(トラベルジャーナル新書)を書いているが、じつはそこにスタート地点を置いて、もう一度本気で「写真の力」を証明したいと考え始めた。
参考■山旅図鑑(発見写真旅)


●2018年11月からは毎回の山の【速報】というかたちにして、シンプルな写真アルバムというかたちでみなさんに見ていただけるシリーズをはじめました。その理由を正直にいえば、自分の写真の1枚1枚ときちんと向き合って、それに自分なりの文章(キャプション)を加えて、一歩でも二歩でも「フォトエッセイ」に近づけたい、と考えていたのでは、その間に新たに撮った写真のデッドストックがどんどん積み重なっていく、という危機感に襲われて、いわば写真だけの粗選びですむ展示法を【速報】として開始したのです。
●2020年1月からは、デジタルカメラが記録してくれる撮影時刻によって、参加者全員の写真を行動順にきちんと並べて一体化できるようになりました。ただ、すべての写真を、撮影時刻の記録が消されない状態で送ってもらうとなると、うまく行かないケースも続出。「みんなで気軽に参加」というのはなかなか簡単にいきませんでしたが、旅の写真は撮影順に並べることで、個々の説明がなくても現場体験をかなり豊富に記録してくれるということがわかりました。
●そして2022年からは、私が行動経路をこまかく記録することで行動全体の時間的な記録と、写真の中の位置を示す標識類や特徴的な出現物によって、行動全体の動きをかなり具体的に再現することができるようになりました。それが「時系列速報写真」です。さらに「1時間ごと」の見出しを加えることで、私たちの「山歩き」は「10分ごとにおもしろい」という意外な発見の糸口も与えてくれました。
参考■写真アルバム(時系列速報写真&全写真リスト)


●ちなみに、糸の会は1995年10月に発足して2022年末にトータルナンバーが1,250を超えていますが、2019年からのコロナ禍では中止も多く、そのような中止分も含まれています。でもこの27年間に、実施回数は確実に1,200回を超えています。
●糸の会設立のきっかけは1994年10月から突如始まった「東急セミナーBE」での登山講座が2年目に入る直前、これまた突然に東急本社法務部からの命令で取り潰しになったことです。要は、スキーなどのスポーツ講座では傷害保険の金額を掛け金でかなり自由に調整できるのに「登山」となるとその死亡保険金額が「100万円」「200万円」を超えることがほとんど不可能で、死亡事故が生じたときの危機管理的障害として見過ごせない、ということでした。これには講座担当の三好律子さんも激しく抵抗して、受講者に対する2年目の講座を「有志」で行うことをバックアップしてくれたのです。加えて翌年には「登山ではない」として私がガイドブック編集に携わった「関東ふれあいの道」での「ハイキング」として新しい講座を立ち上げることにもなりました。
参考■糸の会設立案内………1995.10.30
参考■糸の会設立案内2………1995.11.1

●じつは私は1983年から(これも突然)朝日カルチャーセンター横浜での「中高年登山講座」で5人の講師陣の末席で「地図」を担当、1995年まで37回の実技にも参加させていただきました。当時はフリーライターとして雑誌での仕事が多く夜中仕事して昼まで寝ているという不健康な生活でしたから、実技はいやいやながらのお付き合いでしたが、実技講師は一流の登山家たちでしたから、その人たちが慣れない「超初心者」の指導に苦労するのを間近で見せていただくうちに「あむかす探検学校」の延長線上での「探検部的登山講習」のアイディアがいろいろ出てきたのだと思います。すると突然の電話で東急セミナーで自分勝手流の登山講座をやらせていただけることになったのです。
*東急セミナーBE……1994〜1999(45回)
*朝日カルチャーセンター千葉……1996〜2011(399回)
*東武カルチュアスクール……2000〜2005(60回)
*八王子そごう友の会……1996〜2001(37回)
●1996年4月から、“山ナシ県”の千葉県で最初の登山教室ということで朝日カルチャーセンター千葉で平日の講座がはじまりました。これは3カ月で講義3回+実技3回というかたちではじまったのですが、次第に変形し、最終的には講義1回+実技5回+公開実技(小屋泊り)1回という構造に到達。1998年4月からは「初級」「中級」「小屋泊り」の3部構成となり、毎月1回の実技のみ、というシンプルな構成になりました。
1996年には東急セミナーBEでも新講座がはじまりましたが、こちらは平日の超入門講座。午前10時ごろ山手線駅集合で午後4時ごろ下山(現地解散)という「10-16時の山歩き」を試行錯誤しました。


●1979年に発足した地平線会議では「あむかす」の運動の延長線と考えて、1年間、留守番電話の応答機能をつかった「全国ネットで24時間対応?」の「地平線放送」というのを青柳正一さんの事務所の応答専用電話をハイジャックさせていただき、丸山純さんたちと行く人・来る人へのミニインタビューなどを流しました。提唱者の江本嘉伸さんはまだ読売新聞の現役記者でしたから「地平線通信」という月報も印刷・発送担当の三輪主彦さんのグループと連携して続けていました。
でも、私は急激に出版業界での浮草稼業に入り込んで疎遠になっていきました。ところが、なぜか、2019年11月に第487回の地平線会議報告会で「山旅を“量”で残す」という報告をさせていただきました。
「山旅を“量”で残す」(Web版)
私はすでに記憶力の減退が激しいので、固有名詞などは今確認できていても、次の瞬間には記憶から飛んでいるかもしれにという恐怖から、かなり密な原稿を用意したのです。それがほぼこの「Web版」です。
それ以前、確か2010年12月24日には「宇宙にひとつだけの輝くゴミ」というタイトルで「あむかす旅のメモシリーズ」について語ったことがありました。月刊「地平線通信」でその案内を担当している長野亮之介さんは次のように書いてくれました。
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35年前から12年に渡って刊行された“あむかす旅のメモシリーズ”という本がありました。B6版、最低50ページ以上。各巻全ページが著者の手描き原版を元に印刷され、世界各地が舞台のユニークな日本人の旅の記録を世に発表したのです。ちなみに、最終第89巻の著者は金井シゲさんでした。赤い表紙が印象的なこのシリーズを企画・編集したのが伊藤幸司さん。
「社会的には価値が認められにくい行動でも本人にとってはキラキラと輝く宝石みたいなものですよね。その光を発信しておけば、いつか、どこかで、誰かを照らすかもしれない。メモシリーズはその精神で続けていたし、地平線会議の大きな柱もそこだったんだよ」。
伊藤さんは地平線会議の趣意書を起草した当人でもあります。ワールド・ワイド・ウェブが発達し、情報発信も検索も自在な今、輝くゴミをどんどん発信すべきだと伊藤さんは言います。本業のライター、編集者業と平行し、近年は山岳ガイドとしても膨大な記録を発信している伊藤さんに、記録と情報の扱い方と、伊藤流発信術を語って頂きます。お楽しみに!
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そのときにはたしか大量のプリントをつなぎ合わせた長大な巻紙を床にはわせたと思います。
それに続く「山旅を“量”で残す」も「質よりも、まずは量」という私の主張でした。
●じつはカメラマン志望だった私が早稲田大学写真部で決意したことのひとつが「傑作を求めない写真」でした。同期の写真部員たちは主要な新聞社に入って報道カメラマンとなり、最後にはそれぞれの新聞社で写真部と編集部をつなぎ合わせる役目を背負うようになるのですが、学生時代には三里塚闘争(成田空港建設反対運動)に加わるなどして、部室ではほとんど書きものをしていたように記憶します。
朝日新聞の白谷達也さんと毎日新聞の平島彰彦さんとはずいぶんいろいろな仕事をすることになりましたが「撮ってしまった写真に責任をもつ」という大原則に加えて「撮れなかった失敗作にこだわらない奴は伸びない」というふたりの意見は以後私の写真を支えてきました。
2019年から始まる新型コロナ禍で身動きがとれなくなったのをいいことに、私は身辺整理をしつつ、「撮ってしまった写真」との関係をもう一度見直しながら「輝くゴミ」として拾い集めていく作業をのんびりとすすめてきたのです。


●いま、私がここで試みているのは「山旅を“量”で残す」具体的な方法のひとつですです。私は写真編集者としての仕事もしましたから、有名写真家の取材もしました。すると、その人が亡くなると、写真はたちまちその「社会的役割」を減少させていくんですね。私は後に宮本常一先生の「10万点」という写真を整理するというプロジェクトに関わりましたが、写真が撮影順に保存されていることと、行動を記録した日記、さらにその行動によって書かれた原稿があることで写真がその価値をかなりのところまで保持できるという画期的な成果を得ることができました
*『宮本常一 写真・日記集成』(全2巻・別巻1──毎日新聞社・2005.3)60,000円(税込)。
要するに、写真に最低限「年月日時」と「行動記録(場所や目的)」があれば、その写真の「社会的な価値」をある程度判断することが可能なのです。デジタルカメラが出現する前、ニュース写真には「撮影日時」と「撮影場所」のメモが不可欠でした。
●私は半世紀前に、スティーブ・ジョブスたちが実現してくれた「WYSWYG」(見たまま出力画面)やDTP(デスクトップ・パブリッシング)の恩恵を受けながら旅や探検の記録を「もっと自由に」「もっと詳しく」残していくことを考えていたのです。そしていま……、ですが、インターネット環境は(日本人ではとても考えつかなかった)広大な記録空間と多彩な検索能力をそなえて私たちのデスクトップ(あるいは手の平)にあるのです。
じつはツイッターを使ってみたのですが、ひとりの枠内ではたかが1,000点の写真しか扱ってくれません(アメリカ流の発想じゃないね)。ところが私が半世紀前の「ワープロ文書」そのままのシステムで続けてきた素朴なHTML(ハイパーテキスト・マークアップ・ランゲージ)のページでは、手元のパソコンにしろ、Webサーバーにしろ、とんでもない量の写真を軽々と扱ってくれるのです。
ですから私はいま、1本で1,000点規模の長大な写真レポートをつくろうとしていますし、「山旅図鑑」では写真とキャプションをセットにすることで「写真を文字検索でリストアップ」できるシステムにしたいと考えているのです。
私はWeb環境を、知的財産を個人個人が永久保存できる、信頼できる保管庫としてもっと活用できるようになってほしいと願っています。
「質は量のなかにあるんだ!」派を半世紀続けているのはそういうところなんです。

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