アフリカ探検学校 1972 ────カメルーン〜ザイール〜ケニア1972.7.29-9.27


●1972年「アムカス探検学校アフリカ」の写真(A班のカメルーンとC班のザイール〜ケニア)をデジタル化しました。押入に放り込んであったのですが、なんとか当時の雰囲気がわかる程度に復元できました。参加されたみなさんには、ご連絡いただければ全写真のデータをCD-ROMでお送りします。さらに大きなプリント用データが必要なら写真番号をお知らせください。ただし画像状態はあまりよくありません。――――2010.3.15 伊藤幸司
●また、当時の日記などをほぼテキスト化できました。参加者みなさんの当時のレポートなど(テキストで)お送りいただければこのページに順次追加させていただきます。お名前の表記などに関しても調整できます。――――2010.11.3 伊藤幸司


◆写真はクリックすると大きくなります
1972アムカス探検学校アフリカ――――写真(1)カメルーン1972.7.29-8.28
1972アムカス探検学校アフリカ――――写真(2)ザイール〜ケニア1972.8.29-9.27
1972アムカス探検学校アフリカ・みなさんの声


アフリカ探検学校1972・リーダーノート+α


7月29日(土)第1日

【伊藤幸司の日記】

●リーダー、集合に遅れる
 アムカスの事務所に寄って、昨夜帰京したアフガニスタン探検学校のリーダー西山さん(西山昭宣・1967−68西部ネパール民族文化調査隊)と神崎さん(神崎宣武・1967−68西部ネパール民族文化調査隊)に旅の様子を聞く。アフガニスタンがおさわりの本場であり、女性の中にはちょっと怖い思いをした人がいたらしいことは、昨夜参加者を車で送る途中に聞いていた。
 実際、初めのころ、女の子ふたりが車に乗せてもらったところ、言葉の通じないせいもあったらしいけれど、思わぬ方向へ連れ去られそうになって、走っている車から飛び降り、ひとりが頭を打って数日寝るという事故があった。
 また、帰京直前になってパスポートなどを盗まれた人が出た。幸いカーブル大使館には西山さんの同級生が居たため、写真を撮り、至急電報を東京に打って、3日ですべての書類を整えたという。役所回りの手順もなかなか大変だったらしく、手順がひとつ違えば、彼女とリーダーのひとりが現地に残ることになり、我々のささやかな事故対策費はゼロになっていたところだったという。

 出発直前にこのふたつのことを聞いたのは、ぼく自身の気持ちを引き締めるうえで貴重だった。が同時に、女性の多いグループをアフリカ狭しと引き連れ、しかもすべての国に日本大使館があるわけでなく、もっと悪いことには、予算を安く見積もりすぎたためにアムカスとしては全く不本意ながら、18名の正規参加者にリーダーはぼくひとりである。何か事故が起こったら小川渉君(1968−69早大探検部ナイル河全域踏査隊)が直ちに飛んでくれるように手はずは整っているものの、ただひとつのミスでこの計画はあらゆる点で無謀と非難されるだろう。
 ぼくが非難されても、もともと吹けば飛ぶような男だから道義的に最善を尽くす以外になすすべき何ものも無いのだが、なによりも18名の参加者に申し訳ない。45万円以上の費用と、42日、あるいは60日の期間を捻出するために、全員が苦しい思いを噛みしめてきたはずである。
 ぼくらのような正体不明の素人集団の頼りない企画に参加しようとする人たちは、例外なく金持ちではなかったし、それぞれ思い切った旅に出る必然を背負っている人たちだった。今回も恐らくそうに違いない。

 西山さんたちと話しながら、今まで何度かのミーティングで説明してきたこと、手渡したプリント類、そして一応確立させた連絡システムとチーム行動の原則論、そんなさまざまなことをチェックして、事務所の藁のはみ出したソファーを立った。
 12時25分。高速道路は渋滞によりいくつかのランプが閉鎖され始めたとカーラジオで聞いていたので、モノレールの時間ぎりぎりまでアムカスに居たのである。8月にセレベスに帰るグループ木子の森本孝さん(立命館探検部OB)が見送ってくれるという。
 13:10 何故か10分も遅れてしまった。「日時の約束を守ることが、ぼくたちのような寄せ集めの素人チームには最も大切なことです。大事な約束はお互いにメモを交わした上で、必ず予備費、予備時間をとってください」と、つい1週間前、ぼくははっきりと確認したし、全員の署名ももらった「確認書」の中でも丸印をつけてある。リーダーが真っ先に違反したのである。

 モノレールの中で、ぼくと森本さんはすでに全員が集まっているかどうか予想しあってみた。毎回ひとりは場所を間違えたりして遅れることがあった。しかし身勝手な言い分だが、ぼくは全員そろっていると半ば信じていた。
 JALの広いカウンターの奥に申し訳程度にエジプト航空の立て札があり、人混みの中に、チラリチラリと知った顔が見えた。
 皆のザックはどこに集めてあるのかな? と経験者面をして探すうちに、中井さん(中井実。早大探検部OBでアムカス探検学校の旅行手配担当。川崎航空サービスに籍を置くフリーランス)が出てきて「最後だぞ、もう全部チェックインしてしまったから、早くしろ!」と学生時代を思わせる恐ろしい眼差し。チェックインの前に分配しようとした一般薬品の扱いに手間取っているうちにザックだけがサッとカウンターの向こう側へ。リーダーがひとり仲間はずれにされたような鮮やかさであった。
 14:45発の飛行機に13時の集合。ぼくは30分の余裕を見て時間を決めていた。ぼくが遅れたのを考慮してもなかなかの手際よさなのに、時間はアッという間に過ぎてしまう。
 待合室でせかされながらコーラを飲み干し、渡航手続き担当の中井さんと最後の打ち合わせを終えると、もう出国手続きの時間である。今度は5分前に赤絨毯の端に立つと、時間通りに全員がそろった。

 全員がそろったかどうか必死に顔と名前を思い浮かべながら、やはり18人は多いなあとつぶやかずにはいられなかった。その代わり、メンバー全員がそのことを強く自覚してくれているのが、今までの1時間ちょっとでありありと感じられたので、以後、人員点呼はできるだけすまいと決心する。
 ぼくが時間に遅れ、その代わりチェックインがあまりにも迅速におこなわれたので、外国製品の携帯出国証明はできていなかった。もとより時計や宝石を持つお大尽がいるはずがないが、フィルムは心配だった。アフリカで2か月旅するとなれば、絶対にコダックの使用が好ましく、全員がその指示に従っていた。ぼくの180本、写真科学生のカメラ君、オットリ君の100本を始めとして、みんな20〜50本は持っている。帰りに税金をかけられるとバカにならぬ金額である。そこで通関テクニックの中で、20本ぐらいはショルダーバッグに入れて機内に持ち込み、残りは紙袋などに包んでさりげなくザックの奥に入れるよう指示している。とにかく今となっては仕方のないことである。
 探検学校カリキュラムの第一科は、図らずもリーダーの側にあった。「時間設定に関しては十分な予備時間を!」

 予想以上に出国通関が厳重で、全員が手荷物を開けられる。ポケットのたくさんついたズボンをはいていた編集氏はそこまで調べられ「ボクは日本で怪しまれる顔なのかなあ」としきりにつぶやく。
 税関、検疫、出国管理、この3つがどこでどうなっているのか混乱している。パスポートを慌てて取り出したり、役人に何か質問されてしどろもどろになったり、そういうお上りさん風景を眺めていると飽きない。
 彼らを、自由に国境を越えて歩けるようにするまでには、出国・入国を何回ぐらい繰り返せばいいのだろうか。リーダーが目に見える活躍のできるのはそういうテクニックの場面だから、今後のスリリングな場面を期待して思わずニヤリとする。全員が手続を終えたところで最初のミーティング。帰りは彼らだけで出入国してくる予定だから、今の手続を簡単に説明して、大ざっぱな流れを頭に入れてもらう。

 見送りの何人かがガラスの向こうに見えたので、全員でそちらに移動。アニメーションディレクターのアニメ氏は個人チケットを持つ準メンバーで、唯一の既婚者。彼の奥さんと風貌に似ずしんみりとした別れ。同じく準メンバーのテーラー氏は六本木の洋服屋さん。彼はハウサ語とスワヒリ語の類似語を探しては「西も東も同じような言葉を話しているぞ。これはおもしろい!」などと独特の鼻を利かせる人だ。途中で参加をとりやめたKUNIKOさんと話そうとして「これはひどい、いやらしいなあ」と会話用の窓をいじっている。小さな穴の開いたプラスチックの丸窓で、ご丁寧に2枚をずらせてはめてある、あれである。液体も粉末も、まず絶対に通せないようになっている。かれはKUNIKOさんをほったらかしにして、怒りと感激に満ちた観察をしている。
 ぼくはといえば、免税のパイプ煙草をしこたま買い占めようと用意してきた千円札何枚かが役立たずになって、空港の売店をさげすみの目で見回していた。

●飛行機は飛び上がった
 15:15 エジプト航空のMS865便は約30分遅れて離陸。バスでかなり遠くの機体まで運ばれたので、見送りの人たちにはどの飛行機かわからなくなったと思われる。緑の線が入った地味なデザインのボーイング707で、テーラー氏はグライダー乗りでもあることから、ここでも主翼の下を覗いて「機体ナンバーがない。どう考えてもおかしいゾ」と考え込んでいる。
 機内は予想通りのいやらしい狭さだ。エコノミーは左右3人掛けの座席が28列。168人である。ぼくらは19〜23列の20座席を占めた。19列目に非常口があるので、そこだけは足を伸ばせる空間があり、他人を立たせなくても通路に出られる。しかし主翼の中心部だから景色は見にくい。
 18名+2名。ぼくらのグループの中で、国際線の経験者は5人。それでも離陸順を待つ間にみんな読書灯をつけたり、風量調節をしたり、なかには肘掛けをはずすことまで知れ渡った。
 ところが Fastn Seat Belt のサインが出ているのでスチュワードに注意されたり、リクライニングを直されたり、テーブルを畳まれたり、やはり基本的なことがらは理解しておきたい。
 みなに救命具の使い方などの説明書を読むようにいおうとしたが、ベルトを締めたときの姿勢の取り方などのパンフレットがない。あちらでもこちらでも頭の禿げかけたアラブおじさんが同じ注意を繰り返しているのを見て、ボクは成り行きに任せた。いずれ滑走体勢にはいるまでには、彼がひとりひとり注意しいていくだろうから。

 ジェット機特有の加速の後、機はフワッとした感じを残して、もう東京湾上空にあった。
 やはり東京はよどんでいた。10分ほどで海が青々と見え始める。船の白い航跡を見つけて、初めて高度感がつかめる。内陸部は厚い雲で覆われ、富士山も見えなかったけれど、眼下の海岸線はよく見える。ただし、それがどこなのか、いつものことながら100万分の1の地図は持ってくるべきだったと思う。みな3人ずつがひとつの窓に顔を集めて夢中である。
 テーラー氏がまたまた彼の力を発揮した。若いスチュワードを腰掛けさせて、アラビア語会話の質問をしている。しばらくしてエジプト航空の有泉さんがやってきて、彼も知っている会話を教えてくれる。すぐにメモが回ってくる。あちこちでカタカナ発音の「サイーダ」「ショクラン」の声が聞こえる。

 機内でのぼくの仕事は、メンバーに対するインタビューである。アフリカのイメージ、アムカスとの出会い、参加を決心するまで、出発前の心理、45万円の重み、今までにした旅……などを聞こうというのである。これはもちろん、ぼくが仕組んだ実験データのひとつになるのだが、それ以上にメンバーの性格などを早くつかむためにも必要だと考えていた。今まで何回かのミーティングがあったとはいえ、ぼくはあくまで全員に向かって平均的な態度で話しかけたに過ぎないし、まだチームワークのできないうちから特定の個人と深く話し合うのは、どうもこだわりがあったのである。
 ぼくたち<18プラス2>がどのような人種かというと、まず大学生が4人。そのうちふたりは写真家の卵である。サラリーマンと呼べるのは3人いて、27〜29歳で、アムカスとしては非常に興味を感じる層である。ただ、3人とも工業デザイナー、編集者、アニメーション・ディレクターで、どちらかというと特殊な分野の人々である。
 それに対してオフィスレディと呼べるのは5人で、他に看護婦さんふたりと芝居の着付け屋さんがいる。稼業の手伝い兼花嫁修業が3人いて、これで18人。あとはテーラー氏と、いっこうに写真を撮らない自称カメラマンのぼく。
 男女の比率では8対12で女性が多い。年齢では20歳と35歳の間で平均25.5歳と出る。
 ぼくたち20人がこれからどこへ行き、何をしようとするのかは、ぼくら自身がよくわからない。ただ、リーダーであるぼくは「アフリカの空気を吸ったんだ」と思ってもらえればいい。

●参加メンバーとの堅苦しい会話
 エジプト航空MS865便は最初の寄港地バンコックに向かって飛んでいる。ようやくのことで、ぼく本来の仕事、機内でのインタビューを開始した

◎ヨシ子さん
 まず、隣に座っているヨシ子さんにいろいろ聞いた。彼女は農獣医学部で食品工学を専攻したという。ロイアル・インター・オーシャンというオランダ客船の一等で、友だちと2人、香港・マカオの卒業記念旅行をしたという。大学1年のときには動植物研究会という大仰な名のクラブで沖縄合宿に参加し、2か月間蝶を追いかけたり、草をむしったりしたそうである。ところがそれも沖縄合宿に参加したいために便宜上入部しただけで、べつに動植物に特別の興味があったわけではないらしい。
 かなり要領のいい人らしく、色気も多い。色気といっても女っぽさのほうではなく、わりと目移りのしやすい人なのだ。「蝶をとろうかな」と言ったかと思うと、今度は「インド洋のセーシェルズ諸島にはモンバサ(ケニア)からいくらぐらいで行くの?」と聞く。弟さんがここ1年ほどヨーロッパを放浪しているとかで、カイロで待ち合わせて、大金を手渡す手はずを整えている。お金持ちのお嬢さんらしいが、化粧もせず、ヒップのあたりがテレンとした乞食スラックスが、また妙に身についた人でもある。
 家が工務店らしく、今までは家業を手伝っていて、今回の旅に関しては父親をつまはじきにしてお母さんから大金をせしめたらしく「お嫁に行くから行かせてよ!」と啖呵を切ったという。

◎ミッキー
 リツコさんとミッキーは高校時代の同級生で、今回の参加者の中ではただひと組の友人である。
 「リツコとは高校時代からどこか、アフリカかアマゾンへ行こうと約束していたの。具体的には昨年の冬から東アフリカへ行こうと計画したワケ。もちろん家族に言っても駄目に決まっているから、既成事実をつくってしまおうというんで、一度は船の予約までしたの。そしたらちょうどアムカスの記事をリツコが見つけたというワケ」
 アフリカへ2人だけで行くなんて、全然不安はなかったのだろうか。
 「全然ないわ。行くんなら初めからアフリカか南米に決めていたから」
 彼女は大きな目をどちらかというとギョロつかせながら、恐ろしい言葉を平気で言う。若い女の子は恐ろしい。4年間で90万円を貯めたというのも、すごい。
 彼女はテレビ局でコマーシャルの時間を計る係であったという。
 「うちの会社は25歳が女子の定年でしょ。会社に2か月の休暇を申請したら、それが認められないんだ。家には1か月の休暇が認められなかったからと言って、ごまかして退職したの。どうせ25歳までしか勤められないんだし。でも4年間が2か月にも値しなかったのはショック。女は消耗品って感じ。男の場合だと1年間休職させることもあるのに。結局開き直って辞めたワ」

◎リツコさん
 「私も退職。会社は2か月の休暇を出して前例を作るのが怖いみたい。でも思ったよりは多く退職金が出たので、ちょっぴり感激した」
 「20日に会社を辞めて、10日近く時間があったけれど、その間に何度も送別会をやってもらったりして、家に帰るたびに行きたくなくなったりしたの」
 彼女は事務機メーカーに勤めて2年目。髪を短くしたら子どもっぽくなっちゃったと言う。さっぱりした性格らしく、まだまだ若い感じ。会社ではかなり可愛がられたのだろう。
 「会社を辞めたのに、社内報に紀行文を書いてくれといわれたし、みんなにお土産も買って行かなくちゃならないし、たいへんだァ。でも送別会のたびにカンパが集まったから仕方ない」
 「私は山とスキーだけが趣味。着るものなんてほとんど金をかけないし、山だって安いものよ。月に2回は行っていたから、ここ半年はそれも少しセーブするのがちょっと苦しかった」
 初めてアムカスに現れたとき、彼女たちはすでに東アフリカに行くと言っていた。いつ頃、どういうタイミングでこれに参加することを決めたのか?
 「あの日、帰り道で即決したの。2人だけで行くと言っても絶対親の反対があったから、こういうグループに参加するんだと言って認めさせなければならなかったから」

◎クリちゃん
 時代劇の衣装会社で着付けをやっているクリちゃんは、裏方のイメージとは違って、なかなか自己主張の強い女の子である。彼女も若い。夢中になると声が甲高くなって、早口になる。前の座席の真ん中に座っているのだが、風景を見ようとして肘掛けをはずし、Fastn Seat Belt の表示も、カーディガンかなにかでごまかして、離陸からずっと身を乗り出して外の風景を見ていたほどの人だ。
 初めに会ったときからアフガニスタンとチリに行ってみたいと言っていた。残念ながらアフガニスタン探検学校の募集が締め切られていたので、やむなくアフリカに参加したようなところがある。しかし見ていると彼女にはむら気なところがあって、口で言うほどに論理的な思考をしているのではなさそうだ。だから初めから、アフリカにでもアフガンにでも、行ければどちらでもよかったのだろうとぼくは勝手に考えていた。
 「みんな会社を辞めた人が多いでしょ。私は辞めたかったけれど、辞めさせてくれないので、3か月の休暇なの。仕事はとてもおもしろいわ。時代劇で役者さんの着付けを手伝うの。公演中は帝劇やコマ劇場なんかに詰めているんだけど、巡業もあるし、それに時代考証を教わりながら衣装を選んだり、時代や階層に合った帯の締め方を勉強できたりで、とてもおもしろい。でもああいう世界は職人的だし、封建的で、対人関係がむつかしいの。社会音痴になるって感じ」
 「今はやりたいことがたくさんあって、何でもやってみたいなあ。今年中には外国へは出たかったし、自分のお金を使うんならアメリカやヨーロッパには行く気がしなかった。アフリカはここが観光地だというようなところじゃないでしょう。流れるままに見てみたいの。アフリカそのものが観光地でしょ」

◎オットリ君
 スカGを乗り回している金持ちのボッチャンらしい。スキーに凝っていると言うから、恐らくロシニョールあたりをはいているのだろう。絵解きは簡単でロシニョールのシャツを好んで着ている。
 彼はもともと全体的に参加したのではない。彼のおじさんというのが一代で会社を興し、馬を10頭近く持っているという豪傑タイプで、アムカスによく飛び込んでくる50歳代のおじさんたちの例に漏れず、気持ちはめっぽう若い。彼はそのおじさんの通訳みたいな役回りで連れて行ってもらうことになっていた。
 ところが主役のおじさんが仕事の都合で参加できなくなり、彼ひとりがやってきた。幸運な人だ。大学の欧州旅行かなにかでロンドンとパリに2か月近くいたこともあったらしいが、芸術系大学の写真科の4年にもかかわらず、写真で金を儲けようなどという狭い了見はもっていない。実にオットリした人だ。
 「スポンサーが消えてから、アフリカに対するイメージがはっきりしてきたみたい。ぼくはあれを見たいとかこれを見たいとかはないんです。しいて言えば地面に立ちたいといった感じかな」
 隅田川からさらに荒川放水路を越えた低地帯の住人で、ぼくの家から車でひと走りのところである。ぼくのよく知っているわりと有名な都立高校の出身なのだが、彼のボンボンムードは、ゼロメートル人のぼくからすればかなり異質である。

◎ボンヤリさん
 オットリ君と同じような意味で目につくのが神田っ子の彼女。
 「わたし頭を使うのは苦手ですけれど、体力には自信があるの。大丈夫かしら」
 テニスとスキーにかなり凝っている。のっぽである。鷹揚なところを通り越して「すいません、ボンヤリしちゃって。わたしってダメなの」
 とにかく、独特のムードをもっている。
 「わたしは新聞で見た瞬間に行くことを決めました。今まで品行方正だったから、お金も両親の説得も確信があったの」
 「文明国以外に行きたいなぁと思ってはいたけれど、アフリカには行けないという感じだったわ」
 彼女にはこの旅の最初の配布資料「アフリカ文献目録――邦文単行本を中心として」のコピー用原稿を書いてもらった。

◎ベビーちゃん
 大学の4年生。文化人類学に興味を持っている心理学専攻。ボンヤリさんとかけあい漫才をして、ずっと笑い転げている。
 「自分しか頼れない旅をしてみたいんだワ。バカさと貧乏ってとこかな。土の匂いの中で自分を見直すのも悪くない。――かっこいいこと言うでしょ。ア・ハ・ハ・ハ」
 「私って、暗示にかかるとスンナリいくみたい。だけど生活の知恵として、今回は逆にうんと悲観的に構えたんだ。ショックを少なくするように。これがテよ。故郷に帰って1週間かかって親を説得させたんだから」
 「前から向後さんの名前や、アムカスの動きは知っていたけれど、本格的に行こうと動き始めたのは5月頃からかな」
 彼女はJAGAというグループの「タンザニアでンジャマ共同体に入ろう」という計画にも顔を出していて、そこでカメラ君とは顔を合わせていた。
 今回の参加者の中には、別の企画に顔を出していた人、アフリカ関係の講演会などに足繁く通っていた人、自分で安いルートを探してみた人など、さすがアフリカに行こうというだけあって活動家が多かったようだ。


7月30日(日)第3日

【伊藤幸司の日記】

●日本人観光旅行団となる
 羽田から22時間の長旅の倦怠を吹き飛ばすように、夜明け前のカイロ空港は紫色の大気に包まれていた。
 カイロ――ぼくのカリキュラムに従えば、ここは入国手続(イミグレーション)の概要を知ってもらう最初の関門である。エジプトでは、空港で1週間の観光ビザを取得できる。日本の「査証ハンドブック」によれば、団体の場合は日本でビザを取っておいた方がよいという注釈がついているが。
 それにかなり厳しいはずの通貨持ち込み申請。この国では闇ドルが少なくとも1.5倍になる。問題の通関(カスタムチェック)。大量のカメラ、フィルムなどがうまく通過するか。
 慣れてしまえば何でもない入国カードでさえ、満足に書けない人が大半のはずだし、英語で質問されても十中八九は聞き取れない人たちだろう。ぼくも英語はからきしダメだけれど、たいていのことは単語をいくつか聞き取って、相手の表情から大方の内容は読みとれる。スマートにやろうとするより、全体のシステムの中で、自分がいまどの部分をやっているのか。自分の側に弱みがあるとしたらどの部分か、それらを大づかみにしていれば、観光客はお客さんであるという恩典を上手く利用できるのである。

 検疫はイエローカードを見せるだけだから難なく通過。そこで入国カードを渡される。ぼくら20人が隅のほうで固まって辞書を片手に四苦八苦している間に、日本から同じ便でやってきた高校地理研究会の先生方はサッと通り過ぎた。機内でもう入国カードの記入を終えているのだ。ぼくたちは名前の書き方、日付や旅行目的や、とにかくすべての項目をどう書けばよいのか大混乱である。すでに日本の出国カードのときに一応の説明はしてあるものの、そんなものは全然頭に残っていない。やはり一度失敗してみないと身につかないものなのだ。
 見るに見かねてエジプト航空の有泉さんが飛んできた。団体のネームリストを渡すとすぐにパスポートと入国カードを集め、一括してイミグレーションに渡す。ぼくらはぞろぞろとカスタムに誘導され、すでに運び込まれているザックを確認してひとまとめにする。
 さあ、いよいよ問題の通関だと思っていると「玄関に出てください」とまたゾロゾロ。2台のバスが横付けされていて、先生方のグループは大きい方にすでに収まっている。ぼくたちを追いかけるようにザックが運ばれてきたのには驚いた。
 エジプト航空の課長さんに挨拶され、その場でグリーンバレー・ツアーのエジプト人や2人の日本人通訳を紹介される。「ムハマッドが今後のすべてをやりますから、何かあったら彼に言ってください」
 快調に飛ばし始めたオンボロバスの中で、ぼくは今の自分の位置をつかもうと、わずか20分ぐらいの出来事を何とか整理しようと焦っていた。定員オーバーで大きいほうのバスに乗せられた3人は「ホテルが違うから向こうの乗用車に移ってください」とまた降ろされた。ぼくはカイロのカリキュラムとして、町に出てから全員で安ホテルを探し歩いてみることを考えていた。――とりあえず、このバスはどこへ行くのだろうか?
 とにかく、ぼくたちは黄色い殺風景な大地を真一文字に走っていた。丘の上の建物から高射砲らしい銃身が突き出ていたりする。この風景もまだ砂漠というのだろうか。
 何となく生活の匂いが濃くなってきた。車が多くなり、沿道の建物の密度が増し、警笛にせかされながらも悠然と道を横切る人たちが目につくようになった。
 市内に入ると荷馬車がはうようにロータリーをまわっていたりする。早朝のカイロ。それでもバスはスピードを落とさず、警笛を鳴らし続けて走り抜ける。
 車が着いたのはナイルの岸辺だった。見上げると10階建ての大ホテルで、へえ、こんなホテルに一度は泊まってみたいなぁ、と思っているうち、突然降りろと言われる。さっき大型バスで「ホテルが違うから」と降ろされたとき「パック旅行の人たちとでは格が違うからなあ!」とちょっぴり差別を感じていた。シェファーズというそのホテルは、どう見ても一流の部類に違いない。ロビーに通されたぼくらは天井の高い品格あるムードの中で、かなりの違和感を感じさせられた。
 「あの先生たちは、ヒルトンあたりへ行ったんだろうか?」
 ここまで来ればもう、成り行きにまかせるしかない。ぼくらについてきたエジプト人と、上智の女学生で2週間前からバイトをしているという女の子に聞いてみても、ムハマッドが来るまで待ってくださいというばかり。
 10階の食堂に通されて朝食。天井はロビーと同じく2階ぶち抜きのような高さで、装飾も古いながら格調を感じさせる。眼下にナイルの流れがあり、ナセル橋の向こうにナイルタワー。シェラトン・ホテルのずっと向こうにピラミッドがうっすらと見える。初めてのカイロながら、今まで走ったバスのルートからすれば、ここはカイロの一等地のはずである。
 ヌビア人と呼ぶにふさわしい黒人のボーイたちは、洗いざらしていささかくたびれてはいるが、これまた風格ある優雅なローブをまとっている。レモンジュース、各種のパン、バターとジャム、それに紅茶。それだけで十分にムードある食事だった。
 食事の途中で役人らしい男が来て、全員のパスポートを返してくれる。7日間のビザが発給されている。別に30何冊かの日本人旅券も持っていたから、あの先生方の分だろう。
 再びロビーに降りた。9時である。部屋が空くまでにまだ少し待ってくれといわれ、街に出るわけにもいかずゴロゴロする。
 テーラー氏は再び大発見をした。添乗員の持っていた新聞の日付が、どう見ても左から右へ1972となっているのだという。
 「あれ、これはおかしいゾ。変だ。アラビア語は右から左へ書くはずなのに」
 すぐにエジプト人に聞く。通訳嬢がいるのでかなり楽。アラビア数字の書き方、読み方は、すぐに全員がメモってしまう。
 次は会話である。機内ですでにいくつかを教わっているから、エジプト人もかなり気をよくしている。外国語はまったくダメというおかあさん(独身です、念のため)は食いつくようにしてかな書きメモをとり続けている。2時間はアッという間に過ぎた。
 途中でムハマッドがちょっと顔を出す。30代に見えるエネルギッシュな男だが、カイロ大学の学生で心理学をやっているという。
 「ぼくらはこんな高いホテルに泊まるつもりはないけれど、いったい誰が金を払うことになっているのか」
 ずっと気になっていたことをしつこく聞いてみる。
 彼はアタッシュケースの中から「AMKAS Tour」というネームのついたファイルを出した。
 「東京からこの書類が来ているので、うちの会社がエアポート to エアポートのサービスをするのです」
 ぼくらはラゴスへの乗り換えでやむなくここで2泊しなくてはならない。ノーマルチケットの客なら当然エジプト航空がホテルを提供してくれる。しかしぼくらは団体チケットの上に、さらにどのような契約になっているのか、じつはよくわからない。
 「ひょっとするとエジプト航空が1泊のカンパニア・アカウントを出すかもしれない」
 出発前に手配担当の中井實さんはそう言っていた。1泊をせしめられるかどうかは、お前さんの腕次第かもしれない……という含みもある。
 半端なホテルならともかく、ぼくらにはどう見たって場違いな高級ホテルだから、エジプト航空がもってくれるかもしれないという気持ちにもなっていた。
 「ホテルはエジプト航空が出してくれるの?」
 ムハマッドは「イエス」と答えて、すぐに続けた。
 「ところで今日の午後と明日で市内観光をしますが、どうなさいますか? 11ドルです。もし希望のコースがあれば言ってください」
 「ぼくたちはお金もないし、勝手にカイロをぶらつくつもりなんだけど」――とは言ってみたものの、そのツアーを断固断る気持ちにもなっていなかった。
 初めて外国の土地に足を踏み入れた人たちが悪名高いこの観光都市で狙い定めたようにカモられるのがちょっと不安だったし、もうひとつ、何人かは絶対にピラミッドへ行くと言い出すだろう。お上りさんが言葉もわからずにノコノコ出かけていったのでは、いくらふんだくられるかわかったものではない。日本人観光客が大挙して押し寄せる場所は、じつはいろいろの小さな危険に満ちている。なにしろその道のプロが手ぐすね引いて待ちかまえているのだから。
 今日のこの豪華なホテルがタダになれば、11ドルは決して高くはない。そんな計算もしてみんなに図ってみた。しかしじつは、ぼく自身、外国でツアーに乗っかったことがない。世界レベルの観光地でツアーに乗ってみたいという気持ちがけっこう強かったのも事実だ。
 みんなの意見は、どうせ帰りにも寄るんだから、今回は市内観光をしておいてもいい、ということになった。10ドルで手を打つ。
 昼食の席待ちで30分遅れ、14:30に表に出た。驚いたことに大小2台のバスが止まっていて、先生方はぼくらの来る間、待たされていたらしい。
 ナセル・モスク、シタデルの城塞、モハメッド・アリ・モスクをまわる。観光地にしては精彩がなく、かといってエジプトの歴史を忍ばせるほどの匂いも残っていない。うるさくつきまとう土産売りは、添乗員がうまく追っぱらってくれる。
 夜、エジプト航空の課長が来た。ホテル代がこちら持ちであると知らされる。エジプト航空とグリーンバレー・ツアーの関係を聞いた後、適当な条件で折り合いをつける。とりあえずアムカスの予備費から1人5ドル分を払い、残金を各人の負担とする。明晩はもっと安いホテルに食事無しで泊まるよう旅行社に指示した。出国までパスポートを預かるというので、まだ誰も換金していないまま集める。


7月31日(月)第3日

【伊藤幸司の日記】

●観光ツアー
 翌7月31日。ツアーはカイロ博物館とピラミッドである。博物館は上野の国立博物館をひとまわり小さくしたくらいで、大方は年代別、テーマ別になっているようである。
 ラムセスの像から始まって、ガイドがアクセントの強い英語でかなり詳しい説明をする。学生通訳の女性はそれらのものにほとんど興味をもっていないし、知識もないから、10分の1もこちらには伝わらない。好みのものを見て回ろうとすると、とたんに「みなさ〜ん、集まってください」とくる。ガイドの英語は有名な名前や年代以外はほとんど理解できなかったけれど、彼の愛国的な口調には迫力があった。
 それでも「村長の像」や「ツタンカーメン」でさえ、何故か偽物くさく見えて仕方なかった。やはりガイドブックを片手にゆっくりと見て回るべきだろう。
 「まるで英語研修会みたいだった。通訳がぼくにもわかるような間違いをするんだから。ロバー(盗人)をロバ(ドンキー)と訳したときには実に愉快だった」
 編集氏は自分の英語のことは棚に上げてこう言った。

 ピラミッド。近づくにつれてどんどん小さく感じられる。それが世界の七不思議といわれるゆえんか。いるいる有名なラクダひきがバスをぐるりと取り囲んでしまう。
 まず、第一ピラミッドの王の墓に入る。背をかがめて狭い石段をどこまでも登る。日本でいえば破壊された観光鍾乳洞といった趣。違うといえば、どこまで行っても涼しくならないこと。墓というのはただの四角な空間、棺だけがあり、ガイドは小さな、ただの窪みの前でなにか一所懸命に説明している。昨日はシタデルで祈りの門というのが、ちょうどこんな気分。胎内くぐりみたいだった。
 外のギラつく太陽の中に出ると、またまたラクダ。モハマッドは「乗りたい人は25ピアストルですから申し出てください」とあらかじめ言っていたが、ぼくらの中に希望者はなく、先生方も乗り気ではないようだ。バスに戻るのを妨害するようなかたちで、腕ずくで引っ張られる人もいる。モハマッドもとうとう怒って、ラクダは完全に中止になった。
 第2ピラミッドには人影がなかった。ぼくらはバスを降りると丘の上に駆け上がり、向こうには何があるかと期待する。でも同じような荒れた土色のうねりが続いているだけ。別に美しい風景ではない。
 いよいよスフインクス。ごちゃごちゃと汚いところになんとなくそれらしいのがある。カメラを向ける気になれないのはピラミッドと同じ。
 「ぼくらのイメージにあるピラミッドやスフィンクスを撮ったカメラマンはたいした腕ですね。ぼくには撮れそうにない。サービス精神がなくては撮れないもの」
 カメラ君がつぶやく。
 ここで人気を集めたのはまとわりつく物売りたち。安っぽいアクセサリーやちゃちな石像を売りつけられるのだが、ボールペンで交換できた。タバコでもいい。売り子によって商売の上手い下手がありありと見えるのでおもしろい。子どもからあめ玉で石のとれたブローチをもらったのがおかあさん。ポンポン値切って「アクセサリー全部で2ドル」なんて喜んでいた人の場合は、目玉商品だけが「全部」から消えていた。見ているだけでとてもおもしろい。

 アル・ハチというレストランでの昼食。シシカバブはなかなかおいしかった。
 「アムカスの連中はみんなうまそうに食べていたでしょう。ところがぼくのテーブルは全部先生たちだったの。こちらは味がよろしくないわね、なんていいながら、ほとんど手をつけないんで、ぼくはおいしいとも言えず、立場をなくしちゃった」
 そのとき先生たちのバスに乗っていたのはカメラ君だ。
 地理研の先生方とはずっと大小2台のバスを連ねてまわっていたので、定員オーバーの3人は交互に大きいバスに乗った。ぼくもそちらに乗ってみると、4年間ヨーロッパを回っているという学生が通訳で、彼はさすがにガイドらしい口ぶりになっている。
 先生方はほとんどが都立高校の地理の先生だそうで、研修旅行的な雰囲気でしきりにメモを取ったりしている。カイロを振り出しにヨーロッパを回るのだそうだ。
 「実際にカイロを回ってみると、教科書の記述とはずいぶん違いますね。やっぱり一度は現地を見ておかなくては……」
 そんな声が聞こえる。
 「すいません、土の家の写真を撮りたいんで、30秒でもいいから止めてくれませんか」
 大変に熱心、といわざるをえない。

●夜のカイロ
 ようやく観光旅行は終わった。先生方の旅行団に加わったつもりになって、ちょっぴりパック旅行の味見をすることができた。
 ともかく、いまのエジプト人は古い時代の遺産を手にしながら、観光化することによってわざわざニセモノくさくしているように思える。国にしても、旅行業者にしても、群がる物売りにしても、もうすこし利口に立ち回らなければ100円の価値を10円で安売りしているような状態だ。旅行会社のやり方にしても、素人細工の泥縄で、これではいくらお上りさんの日本人団体旅行客でも欲求不満にならないわけがない。
 アムカスの連中はいらだち始めている。ところがモハマッドがパスポートを預かったまま、なかなか返してくれないのだ。空港から空港への完全サービスをするにはパスポートの保管は大事なポイントなのだろうが、少なくともそれはぼくたちのシステムとは相容れない。
 「完全に安全を保証するには、行動を完全に縛る以外にありえない」
 探検学校の校長というべき向後元彦さん(東京農業大学探検部創設OB)の言葉を印象的に思い出す。多分グリーンバレー・ツアーは日本流の現地エージェントなのだろう。
 ともかくパスポートがないのでみな一銭も換金していないのだ。グリーンバレーへの支払いもすべてエジプト通貨でしなければならないので、それを理由にパスポートを返してもらう。
 ぼくらがカイロで使った金は、1人分ビザ1.80ポンド、空港税1.00ポンド、観光旅行と昼食7.15ポンド、空港往復2.00ポンド、シェファーズ・ホテル(4食付き)5.70ポンド、カン・エル・カリリ・ホテル(食事なし)1.75ポンドの合計19.40ポンド。1ポンドが470円であるから9,000円ほどだ。5ドルをアムカスで立て替え払いをしても、ぼくらがグリーンバレーに払うべき金は1人あたりビザ・空港税・空港往復などの7ドルと、ホテル代の10ドル、観光と昼食が11ドルの合計28ドルである。5ドルは予備費で立て替えるので、各人23ドルを支払った。2か月の滞在・交通費の1割をたった2日で使ってしまったことになる。
 ぼくらはホテルで換金できるとばかり思っていたが、銀行の窓口のあるホテルでしか扱わないのだ。ナイル・ヒルトン、シェラトン、シェファーズ。時間からいってもこの3つしか開いていない。しかもぼくらは入国時に持ち込み通貨の申請をしていないのだ。パスポートだけで換金できるのはこの中でもシェファーズだけだという。結局、昨日のホテルまでぞろぞろと出かけることになった。
 ぼくらは各人の現地費用はすべて45万円の中から事前に払い戻してあるので、こういうときにはいささか不便である。パスポートをなかなか返してくれなかったのも、一般のツアーでは必要経費はツアーコンダクターが換金して払うためだろう。

 カン・エル・カリリというホテルはじつは先生方が泊まっていたところなのだが、一見してダウンタウンの中級ホテルである。地図を見るとシェファーズまではかなりの距離だし、しかもカイロの道は相当に複雑そうである。歩くのはかなりしんどそうだし、かといってタクシーに乗る金もない。グリーンバレーのバスもすでに帰ってしまっている。幸いぼくが、シェファーズの雑費を払うために換金した残りのコインがわずかに残っていた。ホテルの前の広場がバスステーションになっているし、市内電車も走っているので、それなら利用できそうだ。
 バスの値段を聞いてみると、これがよくわからない。
 「バスにはあまり乗らないほうがいいですよ。もし乗るのなら赤いバスでなく、蒼いバスにしてください」
 事前にそう言われていた。ぼくらはすでに、要注意人物になっているらしい。放っておけば、入口にぶら下がるただ乗りまでやりかねないと思われていたのだろう。

 ぼくは新しい町に着くと、バスや電車のターミナルを地図で確認しておく習慣がついている。そこを基準にして歩けば、タクシーでボラれることなく街を歩けるからだ。シェファーズ・ホテルに行くにはヒルトンホテルの前の大交差点で降りるのがいいと見当をつけていた。あそこはカイロの交通網の中心のひとつに違いないから。
 広場に出て「ヒルトン行きのバスはどれ?」と聞いて回る。ひとりの答えでは絶対に安心できないので、各人それぞれ近くの人に「ヒルトン」と叫ぶ。
 たちまち黒山の人だかりになってしまう。エジプト人たちは「ヒルトンだ」「シェラトンだ」と互いに言い合いを始める。誰かが「シェファーズへ行くのだ」と言ったものだからますます混乱。なぜそうなるのか? 
 そんなつまらぬことを解明するのも旅では意外におもしろい。少なくとも街の人たちのぼくらに対する態度を判断するひとつの材料にはなる。
 エジプト人たちの間で、ヒルトンかシェラトンかで言い争いが続いているが、良く聞いてみると、ぼくらが「ヒルトン」と言うと彼らには「シェラトン」と聞こえるらしい。ぼくがハッと気づいて「ニエル・ヒルトン」(ナイル・ヒルトン)と言うと「ああ、ヘラトンか」とうなずいてくれる。
 ぼくらの騒ぎで出発できないでいたバスの、後ろのバスに乗り込む。走り出すときに、とくに親切にしてくれた人たちに手を振る。昨日、シェファーズ・ホテルから一歩出ると、金をねだる連中がス〜ッと近寄ってきて、何となく嫌な思いをさせられたのに、そんな雰囲気は全くなかった。
 車掌がまわってきたので金を払うと、聞いた値段より安く1.5ピアストル、約7円であった。
 シェファーズ・ホテルのミスル銀行で換金を終えた。
 しかしこのとき、KABATAさんがバスの中でカメラと50ドル入りの財布を盗られたことに気づく。バスは走り出すとすぐに超満員になった。カメラを構えていた彼女は、それをショルダーバッグに入れたのだが、混雑の中で背中のほうに回ってしまったらしい。銀行へ着くとカメラと、それに多分カメラの近くにあったと思われる財布が消えていた。
 貴重品はすべてショルダーバッグに入っているのだから、とくに注意しておく必要があった。届けを出してみようと言っては見たものの、返ってくる見込みはゼロだ。ボンヤリさんが今朝、シェファーズを出るときに置き忘れた度入りのサングラスも結局出なかった。

 夕食代くらいの小遣いを得たぼくたちは、ホテルまで歩きながら帰ることにした。
 喉が渇いているので、マンゴーとレモンのジュースを飲む。完全な生ジュースだが味はまあまあといったところ。1杯20円。ベビーちゃんが3本45円のボールペンを買う。
 次の角で再びジュース屋に入る。1杯7円。氷水の中に赤い果物が溶けているやつで、実にうまい。
 「安いバザールがあるからお連れしましょう」
 そう言いながら寄ってくる男はいたが、街ゆく人たちはぼくらに会釈をしてくれる。なかなか快適な街に見えてくる。立ち食い食堂に押し入って食べている人に値段を聞いてみたり、チャパティづくりの職人が小麦粉を練った固まりをたちまちのうちに風呂敷みたいに敷く。大きく伸ばしてしまう妙技だ。
 クリーニング屋があった。道から石段を数段降りる半地下の仕事場でアイロンを掛けている。電気アイロンもなく、炭火を入れるやつでもなく、コテのように熱して使うものだ。職人たちの動きにつれて入口から顔を突き出した女の子たちが歓声を上げるものだから、彼らはすっかり気をよくして、ブリキの霧吹きで仕事場中に蒸気を振りまく始末。大熱演である。「ショクラン!」(ありがとう)といって引き上げる。
 マーケットに入ってみると、実に清潔である。東南アジアのような野菜くずを踏みつぶした強烈な臭い、神田の青果市場のあの臭いがないのだ。しかも野菜や果物の並べ方も日本の店のようにこぎれいである。西洋ナシをピラミッド形に積み上げたものなどはみごとと言うほかない。
 トマトを1kg買って歩きながら食べる。そのトマトを肉屋のおじさんに洗ってもらった人もいる。残った芯を捨てようとするが、下のたたきはきれいに掃除されている。聞いてみるとそこへ捨てていいとゼスチャーで言ってくれるのだが、申し訳なくて物陰にそっと置いた。

 すでに日はとっぷりと暮れた。カイロの下町は露天の裸電球に輝いて、人通りもぐんと多くなる。日本の縁日を思い出す。
 夜が更けるにしたがって、人の数はますます多くなるようだ。中東戦争以来造られているという防弾壁が、歩道のところどころにあり、それがちょうど茶店だったりすると、路上にまで椅子を持ち出して優雅に水煙草をふかす人々でいっぱい。車道ではライトをつけない車がガンガン走っている。それもまた夜の活気のひとつか。
 初めに抱いたカイロ観光の不安はすっかり消え「アタバのカン・カリリ・ホテル」という名を全員で確認した後はもう、思い思いに歩いた。いざとなればタクシーで帰れるからだ。
 野外スクリーンの映画館の隣が空き地になっていて、そこに人が集まっている。木立の間から見えるのはミュージカルだ。映画を見るとその国の美人、美男子の基準をつかむことができるし、言葉の美しさや音楽まで、多くのことを一度に感じとることができる。はからずもタダでエジプト美人を見せてもらえた。
 ノンビリ君とボンヤリさんは、カイロ大学の学生だという純情そうな学生とたどたどしい英語で話し合っている。そこを中心に黒山の人だかりができている。

 四散した連中が、結局誰ひとりとして車に乗らず、そのかわりまともな食事もとらずにホテルに戻ってきたのは23時ころ。とくにお祭り騒ぎの激しいこのホテルの一画はまだにぎわいの盛りが終わりそうもない。ぼくたちはおかあさんの部屋に集まって、ブドウ酒やら果物やら持ち寄ってそれぞれの体験を話した。
 「戦争中の国だぜ、ここは。これじゃあアラブはイスラエルに絶対勝てっこないよ」
 編集氏が口火を切る。
 デザイナー氏は細工物を見て回った。
 「工業製品にはろくなものがないけれど、職人仕事の飾り物には抜群にいいものがある。あのドア金具は見事だったね。1万円くらいだったけれど、日本だったら大変な値段だ」
 カメラ君はホテルを探してきた。
 「路地裏に入っていったら100円以下のホテルがありましたよ。今度カイロに来るときには、誰かが高いホテルに入って荷物を管理して、あとはあそこを利用すればいいと思います」
 「カイロはいいところだなあ。ここなら金がなくてもけっこう快適に生活できそうだ。街を歩いていても、生活のペースを侵さない空間があるんだなあ。ダメな国だと思うけれど、それなりにしっかりと根付いた文化があるんだなぁ」
 編集氏は日本で忙しい仕事をしていたせいか、しきりにカイロの良さを強調する。
 ばくらは夕方から夜にかけての数時間で、別に何を見たというわけではない。しかし、人の流れの中でカイロの人々のペースに巻き込まれ、街のムードにひたってきた。ただそれだけのことなのにカイロの街に充満するカイロの匂いをかぎ取ったような気がした。そこにはなにか、本物のカイロがあったように思われるのだ。
 昨日、今日と貸し切りバスで回ったカイロはすでに違う世界に思えるだけでなく、○○ランドといったイミテーションのような貧しさだけを思い出す。
 会話はまだまだ続く。
 「路地の奥まで入っていったんだけど、汚物が全然ないの。あれはすごい。落ちているものは紙くずや藁くずが少し。それに馬の糞なんか少しはあったけれど、絶対に汚物はないの。あれだけの人間がいて、そんなこと信じられる?」
 テーラー氏はひどく驚いている。
 「下町人情があるんだな。水パイプを吸っている連中が手招きしてやらせてくれるんだ。いいねえ、この街は。それにすごい美人がいたんだ。デザイナー氏とふたりでドキドキしてしまった。いいねぇ」
 編集氏はここに永住しそうな惚れ込みようだ。
 「でもエッチが多いわよ。何となくからだに触れてくるの。そのうちさりげなくヒップに触ったりして」
 おかあさんが、まんざらでもなさそうないい方をした。
 「おれの英語がちゃんと通じるとわかったね。けっこう自信を持った」
 またまた編集氏が発言して、お開きのムードになった。山盛りの果物くずを片づけ、最後のブドウ酒を分け、ある者は部屋へ、何人かはまた街へと出た。
 ぼくは編集氏とママちゃんを誘って、オレンジジュースを飲みに行った。50円ぐらいでちょっと高いが、大きなオレンジを2つ半、手動の絞り機にかけてコップ一杯のジュースにするのである。砂糖も水も加えず、純粋の100%果汁。たとえ腹をこわしても、飲み続けたいほどのうまさだ。
 そこで編集氏にエジプト式ホットドックを食べさせる。ひき肉をはさんだ中に漬け物の大きな唐辛子を1本入れてかじる。ぼくには好みの味だが、編集氏は複雑な表情であった。
 ジーパンにゴム草履でUSアーミーの布バッグを腰につけたアニメ氏と会う。お茶を飲んで帰ろうと、回り道をする。さすがに24時を過ぎると店も閉めはじめ、スタスタと土地の人間のように歩くアニメ氏に従って、彼の好みの店まで行く。
 男ばかりが集まってカードや、見たこともない不思議なゲームをしている。ここでも水パイプをみんなから飲まされるが、深呼吸で吸い込むのがちょっと怖い。まだ味はわからない。


8月1日(火)第4日

【伊藤幸司の日記】

●サハラ砂漠は雲の下
 8月1日。カイロからラゴスへ向けてサハラの上を飛んだ。朝10時から3時間半の旅。じつはぼくはこの飛行に大きな期待を抱いていた。座席指定ではないので、早く乗り込んで窓際に座るようにみんなに指示する。
 ところが、カイロの薄もやを抜け出れば、あとは黒々とした成層圏の下に、黄色い、果てしない大地が見られるものと思っていたのに、飛ぶほどに霞が濃くなり、とうとう完全に雲の上を飛ぶことになった。砂漠から見上げれば曇天のはずだ。そんな砂漠の風景が現実にあるのだろうか。
 「ああ、分かった」
 テーラー氏はまたなにか大発見をしたらしい。
 「逆転層なんだ。大気は上空にいくほど温度が下がるでしょ。それが夜は地表の温度のほうが下がってしまうから、朝のうちは上昇気流ができなくて、かすんで見えるんじゃないかな」
 なんとなく、そんな気もしてしまう。
 「そういうことに決定しましょう。アムカス流に」
 カメラ君の提案で難問は解決。とにかくサハラ砂漠にも雲のある日はあるのだろう。ひょっとしたら大雨かもしれない。アフリカというところは、ぼくらの常識を超えた何かがある、からだ。
 暇になってしまったので、やりかけの「堅苦しいインタビュー」を再開する。

◎KABATAさんとおねえさま
 2人は最初のミーティングのときから、東アフリカをまわりたいと言って、ぼくのノートにはいつも並べて書かれていた。歳も仕事も住所も、そして出身も違うので、どういう関係なのか、いつも興味をもっていた。
 「アムカスで初めて会ったのよ。2人で何となく意気投合してしまって、いっしょに歩きましょうと話し合ったの」
 おねえさまはほっそりとしたからだつきで、一見神経質そうにも見える。女性参加者を見るときに、ぼくは神経性食欲拒否を一番恐れる。ものが食べられなくなったら、旅では大きなピンチだからである。気が弱くなっているし、体力が弱って来るから病気になる確率も高い。そういう見方から、彼女はぼくの注意をひいていた。
 「自分のお金で旅行するんなら、アフリカと決めていたんです。ひとりではなかなか行けないと思っていたけれど、憧れだけではいつまでたっても実現しないと考えて、準備を始めようとした矢先にこの計画を知ったんです。今まで家業が忙しかったけれど、最近ひまができたので、その意味でもチャンスだったんです」
 「砂漠とサバンナとジャングルを歩いてみたいと前から思っていました」
 落ち着いた話し方をする人である。
 KABATAさんはこういう。
 「昨年のボルネオ探検学校の記事を見て、来年は参加しようと決心しました。会社は7年目だけれど、1か月までなら休暇が認められるけれど、2か月となるとどうしても無理なので退職しました。来年ならもう行けそうもなくなるので、最後のチャンスだと思って……」
 「私の仕事は現金出納だったから、いつお金が動くのか分からず、しかも毎日決算していかなければならないので毎日緊張している部署なんです。3年目くらいで辞めようと思ったけれど、上司からおだてられたりして、女子はやっぱり消耗部品だなと分かりながら、ずっと勤めてきたんです。
 最後の引継のときはミスがなかったけれどずいぶん緊張したので、それを無事に終えたら、ほんとうにホッとしました」
 「親の説得は前から計画預金をしていたので、仕方ないと認めてくれるようです」

●魔のイミグレーション
 雨のラゴス空港。飛行機を降りると、まとわりつくような湿気。「ああ、これが雨季のアフリカだなぁ」
 いよいよお預けになっていた入国手続の本番である。まず入国カードと通貨申告カードを記入する。書式にはカイロで慣れているので、各自バラバラに散って記入している。
 検閲を通って、その先のイミグレーションに行くと、ラゴスで泊まるホテルが記入されていないので、次々と突き返される。ぼくもうかつだったが、アフリカではそんなものは何とかなると思っていたので、資料を全部置いてきてしまった。いずれにしてもラゴスではそのトラブルが当然あるとは知っていたが、どういうふうに解決されるのか知ってもらうつもりだった。
 考えてみれば身勝手な教育方針だが、アフリカの国境を自由に通過できるためには、観光客がどのように扱われるのか、身をもって知ってもらう必要がある。それはこちらに落ち度がなくてもトラブルの起こった場合に必要となる技術である。
 時間をかければ解決するという原則どおり、役人が適当な名前を教えてくれて、ひとりまたひとりと通過し始める。今日は入国手続で時間がかかってもいいつもりなので、ぼくは最後尾で待っている。
 右端のカウンターではラゴスに残留してひとりでニジェールに飛ぶテーラー氏が2日間しかとっていないビザを延長してもらおうとやっきになっている。ワイロを要求されたが、かねてから仕込んでいたハウサ語を使って即座に2週間の入国を認められた。以後、このカウンターでは全員が2週間のスタンプを押されたのだが、もうひとついやな事件が起きた。
 シモヤンが通貨申請カードを記入しているとき、白いガウンの男が近づいてきて、トラベラーチェックの1,000ドルを200ドルと書いた方がいいと教えてくれたのだそうだ。そして弱みにつけ込んで3ドルをとられたのである。
 「なんとなく……言われるとおりにして……弱みができて……それで……払ったんです」
 かれは言語障害のような話し方をする。
 アニメ氏はそれを見ていて、おねえさまと「そんな男に金をやる必要ないよ」と言ったのだが、今度はアニメ氏が隅のほうに連れて行かれたという。
 「なんとなくトラブルを起こされるような気がしたんで、成り行き上2ドルを渡したんです。あいつは実にいやらしい感じだった」
 そしてまたまた、おかあさんが言葉の弱みで金を取られそうになっている。右のカウンターの前である。ぼくが駆けつけて「出さないでいいですよ」と言ったときには、もう男は金を握り、さっとどこかへ消えた。
 ぼくたちはホテル名がないのを突き返されて、かなりの不安に陥っていたのである。そこに得体の知れない男がつけこんで、合計7ドルもの大金をせしめたのである。少なくとも右側のカウンターの役人とは完全にグルであり、疑えば他の役人も黙認、あるいは協力することで仲間なのかもしれない。アフリカでいつも感じることだが、得体の知れぬ人間がこういうところにまで入り込んでいる不思議さである。
 もちろんぼくは最後だから何も言わずにパスポートをポンと出すと、スタンプがポンと押された。カスタム(税関)はほとんどノーチェックで、銀行で各人3〜5ドルの換金をした。

●ラゴスの街へ
 いよいよナイジェリアの首都。さて、タクシーにどうやって分乗しようかと考えていると、バスの運転手と称する男と役人らしい男が来て、ホテルのバウチャーを切ってあるからバスに乗れという。エジプト航空がそのバウチャーを切ったのだと言う。カイロでホテルのトラブルがあったばかりだし、何よりも明日ドゥアラに飛ぶ便はエジプト航空でなく、ナイジェリア航空だ。どう考えてもぼくらのホテル代がタダになるはずはないのだ。
 しかしこのままタクシーの群れの中にゾロゾロと出ていったら、ひと混乱起こるのは目に見えている。バスはと見ればホテルの名のついたマイクロバスだ。「あれをタダで使うだけでも得だ」と、また意地汚い気持ちになる。
 「われわれはホテル代を請求されても金を払う意志はない。それでOK?」
 勝手に念を押してバスに乗る。
 ホテルに着くと、ぼくは早速、宿泊料の確認をした。主人格の女性2人にチケットを見せても、それでもエジプト航空が払うから金の心配はないと言う。ホテルは簡素なものだが、清潔で一歩中に入るとなんとなく東アフリカのホテルの懐かしさがある。英領の国だなあと勝手に感心する。
 ホテルの車でパーム・グローブというところまで送ってもらう。このホテルは空港の近くにあるので、ラゴス島まではかなりの距離だ。
 ぼくたちはそこでバスに乗り換えてラゴスの中心街に向かう。
 車掌がもつ切符切りの機械はダイヤルを合わせてハンドルをぐるりと回すと、いろんなデータの印字されたチケットが出てくる。日本の自動販売機よりはるかにきれいな印刷である。これも東アフリカと同じ。小銭を入れた竹筒形のブリキ缶をカチャカチャと鳴らしながら、巻紙に印刷したチケットを器用にちぎってくれる。タイのバスと好一対の印象的な風景である。
 16時。1時間後に同じティヌブ・スクェアに集合することを決めて散る。文字通り散ってしまった。
 おかあさんなどはバスを降りたとたんに友だちを作ってしまい「スカーフを買ってくるわ!」と叫びながら、女の子の後を追って、小走りに路地裏に消えてしまった。
 バスが数珠つなぎに走っているメインストリート沿いに、お世辞にもきれいとは言えぬ家がごちゃごちゃと並んでいる。ラゴス人が、あるいはまたナイジェリアのお上りさんたちが買うお土産類が並んでいる。その混雑した道をのんびり歩いていくと、いるいる、われらの仲間があちこちで引っかかっている。ミッキーとリツコさんが木の実のネックレスをしきりと値切っている。しかし3ドルしか持っていない彼女たちに買えるはずはない。
 ママちゃんはアフリカ女性を優雅に見せる華やかなスカーフを手にしている。まるで長い黒髪を結い上げているように見せる秘訣は、スカーフの下にかぶる帽子のようなものなのだ。彼女はそのひとつをかぶって、鏡をしげしげと覗き込み、婦長さんに記念写真を撮ってもらい、「サンキュー、バイバイ」とあっさり引き上げる。生き馬の目を抜くラゴスの中心で、売り子嬢もあっけにとられる手際である。
 さらに先では、ショートパンツに白い長めのソックスをはいて熱帯旅行者らしい服装のボンヤリさんが道の真ん中で子どもたちに取り囲まれている。左手に辞書、右手にカメラを持って楽しそうに話しているのである。
 ぼくはある男に歯ごたえのある言葉を浴びせられた。彼は背を擦れ合うような人混みの中で、すれ違いざまにつぶやいたのである。
 「ジャップ! ジャップ! イエロー・ヤンキー!」
 ぼくは最後の言葉が即座に聞き取れなくて、彼と喧嘩する好機を逃した。
 腹を立てたわけではない。彼とわめき合ったらラゴスのインテリーのもつ「何か」が感じとれたと思う。ぼくは英語がろくに話せないのに、彼のような男と論争するのが好きだ。話の内容そのものより、彼らの考え方がよりはっきり解るような気がするからである。
 18:10、ティヌブ・スクェアに全員が集まった。広場の噴水のあたりで異様な連中がたむろしているものだから、学校帰りらしい子どもたちが50人近くも集まってきた。

●ホー・ホー・ホテル来い
 帰路の目標はパーム・グローブ(椰子並木)である。そこは空港方面では重要な停留所らしいと往路の道筋で見当をつけていた。事実「パーム・グローブ」と叫ぶと、ほとんどの人たちが「ああ、分かった」という表情をしてくれる。
 ところがホテルでは「ヤバ」という名前も聞いてあった。これが間違いの元だったらしい。パーム・グローブとヤバの名を一緒に言うと、たちまち情報の混乱が起こってしまった。仕方なくメリーランド・ホテルの名も出す。
 初めての土地で不自由な言葉を操って道を聞くときには、よほど注意しなければならない。とくにアフリカでは地図を読む能力がないのか、あるいは体系的にものを考えるのに慣れていないのか、地図を持ち出して聞いたり、略図を書いてもらったりすると、大きな間違いをすることがある。
 この場合も、地図を広げてパーム・グローブやヤバの位置を指さしてもらおうとすると、とんでもない方向の地名をひとつひとつ読みながら、いつまで経っても目指すところに行かない。しかし、だからといって、彼の言うことが信用できないとは言えない。ここが経験のいるところなのだ。
 ともかく、往きのバスで、テーラー氏がパーム・グローブとヤバへのバスが3番と13番であることを調べていた。あれほどたくさんのバスが走っているのに、どれも満員に近い。かなり強引に乗り込む。
 ラゴス島を出、イド島から大陸側に渡ったところで、運転手や乗客から降りろといわれる。そしてメリーランド・ホテルはあっちだと指さされる。道が違うのかと飛び降りると、今来た道の脇に「メインランド・ホテル」の看板があった。メリーランド・ホテルとはまったく違う。
 じつはこうなのだ。メインランド・ホテルの前を通るこの道をずっと行くと、道は二股に分かれて、それぞれ一方通行の狭い道となる。それが再びひとつになるあたりがヤバ停留所で、しかもヤバという名はこの地区の総称なのである。そこからさらに北に行くとパーム・グローブがあり、道はまた2本に分かれ、左へ行くと空港に至る。
 だからパーム・グローブで「メリーランド・ホテル」と叫べばRの発音がきちんとできていなくても間違いなど起こらなかった。
 6ペンスをただ取りされた感じのぼくらは、仕方なく次のバスを待った。待っても待っても20人が乗れそうな空いたバスはない。どうしようもないので、5ポンドでマイクロバスにぎゅうぎゅう詰めになった。
 ラゴスの交通渋滞はあまりにも有名で、日本を思い出させる。制限時速20マイル(36キロ)の狭い道は、まさにノロノロ運転。ぼくらのマイクロバスは横道から裏道へと入っていく。
 シャフトのあたりからコツ、コツ、コツと規則的な音が聞こえる。運転はじつにていねいで、悪路にさしかかると、まずブレーキを踏んで、ローギアでゆっくりと越えていく。そうでもしなければ定員オーバーのこの車は、スプリングが折れるかもしれない。
 20時、約束の夕食時間に1時間遅れてやっとホテルに着いた……と思ったらそれがまったく別物だった。メリーランドという地区はマンダリンという中華料理屋とネオン輝く教会がはっきり目印になっているのに、一歩入ると木立の中に邸宅が並んでいて、道が複雑にうねっているのだ。どのへんにいて、どちらを向いているのか全然分からなくなってしまう。
 それなのに、どうせ近くだからといって車を返してしまった。そのホテルの女性に案内されて、なおかついくつかの混乱を引き起こしながら歩いていくと、黒々とした木々と草むらの中で、ホタルが飛び交い、虫が鳴き続けていた。ラゴス島のティヌブ・スクェアから何キロだろうか。2時間半もかかって、食堂の最後の客となった。


8月2日(水)第5日

【伊藤幸司の日記】

●再び恐怖のラゴス空港
 滞在2日目は朝からラゴスの街を歩き回った。
 空港までホテルの車では2往復しなければならないので、全員が空港に集まったのは18時すこし前。30分しか時間がないのでチェックインをせかされる。今度は出国カードと、持ち出し通貨の申請である。
 税関に入ると、不思議なことにザックがずらりと並べてある。その前にカウンターがあって、入国時の赤い申請書と、いま書いた青い申請書を集めている。全員がここでひっかかって、また大混乱。今度は入国時のような時間の余裕を見ていないので、ぼくは緊張する。オットリくんはザックを開けて荷物を全部出されているし、アニメ氏は150枚近くの1ドル札を数えられている。
 申告書が乱雑に積み上げられたカウンターで、最終的に3人が足止めされた。おかあさんは餞別の日本円を入国時に申告していなかったのを追求されている。デザイナー氏はドルのつじつまはうまく合わせたのに、気の弱い彼は財布を開けさせられて、中にあった1万円札を見られてしまった。
 「ドルのほかに金を持っていないのかね?」
 敵は1万円札をちらりと見ながらいやらしい言い方をする。
 「私はすべての通貨を申告しました、とここにサインをしている。このYENはどうしてここにあるの?」
 ねちねちと迫ってくる。
 ボンヤリさんは、入国時に申請書類を渡してもらわなかったと勘違いしたほどポーッとしていた。そのときの記入が実際より多かった上に、銀行で換金したときに証明スタンプを押してくれなかったのだ。
 「あなたはブラックマーケットでドルを換えた」
 断定的な口調で決めつけられた。
 役人は3人を早口の英語で追いつめながら、ではどうするのか言おうとしない。
 3人はすでに一言も言える状態ではない。
 今度は助っ人のぼくに、3人がパスしない理由をくどくどと説明する。ぼくはバンコックで10万円もふんだくられた人の話を思い出していた。
 役人が金を要求しているのは明らかだが、こちらがどういう態度をとるべきか慎重に決めなければならない。こんな馬鹿げた厳しさは、ラゴスの役人の印象を決定的に悪くした。ぼくもバカな男だから本当に腹を立て始めていた。
 飛行機に遅れても、空港でのトラブルだからビザの不安はない。ぼく自身の体験のためにも、ひとつ正面から向かってやろうとふと思う。
 なぜなら、丸1日しか滞在していない通過旅行者のグループに対する仕打ちにしては、あまりにも暴力的ではないか。ミスに対して罰金をとるなら早く金額を出せ。
 弱みを握ってねちねちと脅しをかけ「ウィル・ユー・フォロー・ミー?」なんてぼくにはピンとこない言葉を繰り返すなんぞ、腐りきっている。ぼくは腰を落ち着けることにした。
 役人は業を煮やしてデザイナー氏の1万9000円を提出させた。机の中にはドル札がかなり入っている。そこに入れようとするから「ウエイト・ア・モーメント・プリーズ」と言いながら、金額の確認を要求して、ゆっくりと数える。役人はもったいをつけてそれを引き出しに入れる。
 デザイナー氏は日本語までオロオロして「あの金は取られてしまってもいいです。この場が通れれば」などと泣き言を言う。大半の日本人はこの手でうまくやられるのだろう。ぼくは言葉こそ話せないけれど、その代わりトラブルやハプニングがその国の一面を知る絶好の機会だと思っているから、いよいよ冷静になる。自分の置かれている立場を探りながら言葉の弱みを逆に生かそうとする。
 「彼らはオフィスへ行かなければならない」
 そんな脅しに対しては「フイッチ・オフィス?」となに食わぬ顔で聞き返す。
 「ウィル・ユー・フォロー・ミー?」
 またあの言葉だ。今度は「エッ」と聞き取れぬ振りをする。役人の指示を待つ哀れな日本人旅行者なのである。
 ほかの連中はすでに検疫を終え、出国手続きに移っている。ザックはもう運び出されてしまっている。18:40だ。
 この調子だとぼくらだけ残して彼らだけが先に飛んでしまうかもしれない。そうなると今回の最大の難関カメルーンの入国はビザなし、出国チケットなしで、彼らはうまくやれるかどうかと不安にもなる。ジェット機の音がいやに耳にこびりつく。
 手の空いた役人がこちらをのぞきに来る。チャンスとばかりぼくは大きな声で必死に単語を並べる。
 「申告書が正確でなく、私たちにミスのあったのは認めます。でも私たちのほとんどは外国へ出るのが初めてで、しかも英語が十分にできません。そのうえラゴスは1泊だけです。私たちはグループだから、ここで飛行機に乗り遅れるとスケジュールが狂ってしまいます。私たちはいま、いったい何をすればいいのですか?」
 それがどんな意味になっていたかは分からない。とにかく最後の一言を言うために一気に、大声でまくしたてたのである。
 そのとたん「OK、ユー・キャン・ゴー」。
 例のねちねち役人もいままでにないはっきり通る声でぼくらを解放してくれた。デザイナー氏の日本円を再確認して受け取る。
 出国手続きに向かう途中、人の良さそうな役人がデザイナー氏の置き忘れたナイジェリアの1ポンド紙幣を持って追いかけてきたが、ぼくはデザイナー氏に「私のではないと言ってください」と頼んだ。これ以上のトラブルは危険だから。
 待合室に集まったところで、ぼくは緊急のミーティングをした。今回の出入国に関してひととおりのまとめをして、今日これからのカメルーン入国に備えておく必要を痛感したからである。今度は本番、カリキュラムだなどとのんきには構えられない。1か月以上のビザがとれなければ、ぼくらの計画は根本的に崩れてしまうからである。時間がかかる覚悟で構えてもらうこと、ぼくが先頭に立つので、細かな指示に注意することを確認してもらう。

●ラゴスではどうだったか
 夜の短時間の飛行はかえって手持ちぶさたである。ぼくはラゴスの印象を聞いてまわった。
 「ナイジェリアは血走った国ですね」
 これは空港でイヤな思いをさせられたデザイナー氏。
 大半の人は「ペンス恐怖症だった」と通貨の複雑さを嘆いた。東アフリカで旧英領のシリングに慣れているぼくとは違って、1シリングは12ペンス、20シリングが1ポンドの実用的な把握に手間取ったらしい。
 1シリングを50円とし、あとは3ペンス、6ペンスがその1/4、1/2のコインと分かってしまえば何でもないことだ。ただ、来年の正月から始まる新しい通貨制度の先触れとして、1973年製の5コボ、10コボがもう出回っている。10シリングを1ナイラとしてそれを100コボに分けているのだから、これも10コボが1シリング、5コボが1/2シリング、つまり6ペンス貨と同じとつかんでしまえば、日本人の頭ならなんのことはない。
 ただ初心者にしてみれば、カイロのポンド〜ピアストル〜ミリアムとナイジェリアのポンド〜シリング〜ペニーに混乱があったのはやむを得ないだろう。
 「女性上位の国みたい。女性はあごをしゃくり上げてウンというでしょう。街を歩いていてもいかにも女性が強い感じ」
 これはおかあさんの印象。
 食べ物屋、ティールームのたぐいが少なくて苦労したのは全員一致の感想である。
 「ナイジェリアは日本とものすごく似ているんだなあ」と言うのは編集氏。
 「なにしろ派手好き。見栄を張って生きている。着るものにしてもピカピカの車にしても。ライトのつかないバスがどれもこれも扉の側がガクンと傾いて走っているカイロとは全然違う。
 それに本屋が多い。きっと勉強好きの国民だぜ。ナイジェリア人は。そのくせ一歩裏町に入るとドブは臭いし、家は汚いし、とにかく日本を見せられているようだった。ナイジェリアは絶対に発展する国だと思う。少なくともエジプトと比較すれば。
 近づいてくる奴はすぐにものの値段を聞きたがるし、おれと貿易をやろうと言ったバカがいたんだ。日・ナイ貿易だぜ」
 カイロを溺愛する編集氏はラゴスを皮肉な目で見ている。
 「私たちにとっては、バカにされた街ね」と言ったのはミッキーとリツコさんの二人組。
 「英語がダメで、フランス語もダメなのに、どうしてカメルーンに行けるの? って大学生に冷たく言われたの」
 ぼく自身は、ラゴスとナイロビを比べずにはいられなかった。服装も音楽も、サラリーマンの食事風景も、そして図書館で見た学生も、それらは同じ旧英領の大国という理由を越えて、むしろアフリカの画一性を西アフリカでも認めることになるのではないかという一種の恐れであった。

●カメルーン入国
 カメルーンではエジプトと同じように入国地点で10日間の観光ビを取ることが可能だ。そしてそれはさらに1か月の延長まで認められる。しかし厳密にいえば、カメルーンを出国する航空チケットを持っていなければならない。もし持たない場合には居住国の距離によって保証金を積まなければならない。日本は一番高くて13万円と定められている。
 ぼくたちの帰路のチケットはA班がラゴスから、B班がアビジャンから、そして過半数を占めるC班はナイロビからとなっている。その間はチケットに Surface となっている。
 日本でもフランス大使館を通じてビザは取れる。アフリカの場合、大使館のない国は旧宗主国の大使館で代行してくれるのがほとんどの例となっているのだが、一般にアフリカのビザを日本でとるのは、料金と期間と条件すべての点で得策ではない。
 ヨーロッパ経由ならパリやロンドンで取るのがはるかに楽なのだが、ぼくらのような場合にはアフリカに入ってから時間を見つけて先へ先へとビザを取りながら歩いた方がいい。
 たとえば隣の国で申請すると、陸路を旅する人も多いので、チケットなしで1か月とか3か月の長期ビザを出してくれる可能性が高いのだ。ただ、短期旅行者の場合にはひとつのビザのために何日もつぶしたりして、スケジュールの狂う場合があるので注意しなければならない。
 ぼくらの場合には出発までにナイジェリアのビザを押さえるのが精一杯だったし、ナイジェリアで無駄な時間を取られたくなかった。
 正直なところ、カメルーン入国時にグループであれば何とかなるさというぼくの甘い期待もあった。でもやはり不安ではあったし、フランス語でどこまでやれるかも全くといっていいほど自信がなかった。
 20時、ぼくらは暗闇の中に降りた。入国客はぼくら19人(テーラー氏とはラゴスで分かれた)のほかに10人ばかり。入国カードの記入では、フランス語に意欲を燃やしているベビーちゃんが大活躍。職業は全員学生ということにする。エチュディアンとエチュディアント。フランス語の男性名詞、女性名詞にここから悩まされる。やはりホテルの名は未記入。
 今回はぼくとベビーちゃんが先頭を切る。ほかの乗客の後から一番手前の窓口で英語を話してみる。立派な英語が返ってきた。まずひと安心。ここでぼくは例の気持ちだけ先走った大演説をぶつ。
 「私たちは日本人の学生19人のグループです。夏休みの2か月でアフリカをまわっているのですが、カメルーンで40日間を過ごしたいと考えています。
 日本ではカメルーンのことはほとんど知られていませんが、ぼくらは本でカメルーンはアフリカのミニチュアであると読んだので、旅の半分をこの国で過ごしたいのです」
 アフリカのミニチュアと言ったとき、役人が大きく頷いた。しめたと思う。
 役人たちの顔つきは、ラゴスとは全く違う。気のよさそうなおじさんたちで、顔立ちにもおっとりしたところがある。なによりも鼻筋が通っていて、目のかたちも品がいい。
 奥から上役らしい人も出てきてぼくの話を聞いてくれたのだが、何事か話し合うと「9月1日までのビザでよいか?」と思いがけない答え。
 「イエス、ムッシュー」
 たちまち後ろに並んでいた連中を手持ちぶさたの窓口にまわす。「どこへ泊まるのか」と聞かれたので「どんなホテルがあるか知らないので、教えてください」と聞き返すと、しばらく協議した後に Hotel ○○と書くようにと指導された。

 カメルーン。たいした知識も持たず、ただ地図の上で今まで置き忘れられたような国だから絶対に快適な国だと決め込んでいた。それが当たっていたかもしれないとホッとする。
 次は通関である。見ていると役人はかなり細かなところまで見る。ショルダーバッグもザックも進んで開いておくようにとパンフレットで書いたとおり、みんな並んで早く見てくれといった従順な態度である。もちろんフィルムや薬品は雑品のようなかたちで奥の方にさり気なく入れてある。
 役人がショルダーバッグをのぞいて「カメラ」と言っているのが聞こえたから、ぼくはすぐに進み出た。
 「私たちのほとんどは1台ないし2台のカメラを持っています。白黒フィルムとカラーフィルムを入れてあります。日本人はみなカメラ好きだから」
 英語だと白々しい言葉が出てくる。注意しなければならない。
 「ラジオは?」と聞かれた。
 「ラジオは1台もありません。ただ、彼がテープレコーダーを1台持っています」そう言って編集氏を指さした。
 これでOKだろうと、あとは成り行きにまかせる。役人のおじさんはひとり1人ていねいに見て、上の方に入っている袋を開けさせて「これは何か」と聞いたりしているが、あら探しのムードはない。みんな手振り身振りで化粧品だとか腹薬だとか言っている。
 ぼくが初めて通関らしいものに出会ったのはマダガスカルだが、あのときは役人たちがぼくらを取り囲んで、端から端から「これは何か?」と手に取った。フランス語はぼくらを世話してくれた漁業関係の方だけしか話せないし、ぼくらはかなり大量の高価な機材を持っていたので、冷や冷やした思い出がある。あのときもこんなムードだった。ただ、引っかかりそうなものがあまりにも多かったので、錦絵のカレンダーを開けられたときに1枚プレゼントして切り上げた。今回はフィルム以外に不安がないのでもう安心だ。
 さて、3番目はホテルである。時間はすでに21時。表にはタクシーしか止まっていないし、運転手以外に人影もない。荷物をひとまとめにしておいて、ぼくだけが運転手と話す。中の3人が英語が出来て、積極的に話しかけてくる。
 「安いホテルを知っているか?」と3人に聞く。いろんな名前が出たが、その度に値段を聞いて考え込んでいると、だんだん安くなった。結局、ホテル・デュ・ウーリが2人1,500フラン(1フランは約1.3円)で一番安く、街にも近いと知る。
 「1,500フランのホテルまで、車はいくら?」と聞くと、ごたごたした末、1台500フランだという。4人乗りの車だから5台だ。それで手を打つと、まわりにいた運転手がサッと荷物に手をかける。
 みんなに自分の荷物を持つように言って順次車に向かうが、4台はよかったものの、あとの2台がザックを2つずつ積み込んでいる。例の3人がどちらの車にするかと聞いてくるが、答えようがない。「サンク・タクシー」(5台)と5本指を出しているうちに、運転手同士でひと騒ぎあって、抜け目のなさそうな方が落とされた。
 街は暗かったが、田舎っぽいムードの上に、何よりも並木が印象的だ。フランス圏に来た! という感じがした。運転手にさり気なくCFAフランのレートを聞く。こちらのデータとほぼ同じであった。
 ホテルでは宿帳の記入をマネージャーが自分でやろうとするものだから全部終わるのに1時間以上もかかってしまった。


8月3日(木)第6日

【伊藤幸司の日記】

●ドゥアラの散漫な1日
 朝、まだアニメ氏がヤミ換金しているだけなので、全員で隣の食堂に入る。コーヒーと紅茶とフランスパンを頼む。
 トラブルは支払いのときに起きた。全員が2杯ずつ飲んだというのである。カップが11個しかないところへ、19人が押し掛けたものだから、空いたカップを集めては別の人にもってくる。それはレストランにしてみれば大仕事だったにちがいない。でもぼくらは誰も2杯は飲んでいないのだ。
 「ぼくらは19人。カップは11個。ひとり2杯なら使ったカップは38個」
 フランス語で話そうとするほど立場が弱くなってしまう。コムシ、コムサでやることにする。
 全員に座ってもらって、まず11個のカップを配る。次に、来ていない人に手を挙げてもらっている間に、それを1度回収してから再び配る。
 「1杯目終わり。あんたはぼくらが2杯飲んだと言った」
 もう一度11個を配り、引き上げて残りの人に配って、それも引き上げる。
 「2杯目終わり。大仕事だ」
 実際に出し入れの作業を繰り返してみて、彼らの勘違いを訴えようというのである。
 みっともない、稚拙なゼスチャーを繰り返しながら、彼らがぼくらからカモろうとしているのではないことは分かった。
 「4人は2杯飲んだ。……というのでもう打つ手がなくなって、ぼくらは1杯しか飲まない。だがあんたは4杯多く出したという。よし、4杯分はこちらからプレゼントしよう」
 滅茶苦茶なフランス語をうる覚えの単語を並べているのだから、言っている自分でも感情を込められない。どうしても迫力を減ずる。日本語でやったほうがいいくらいだ。
 金を持たぬまま町に出る。閑散とした並木の街だ。銀行が永い昼休みになっているので、海の方へ降りる。ドゥアラ港までくるが船の頭が見えるだけで、すべて壁に囲まれている。昨夜タクシーのおつりをフランでもらっていたのでファミリーサイズのコーラ4本を分けて食堂でねばる。市場で立派なエビが山積みにされているのを見、鉄道の駅に出る。
 換金を終え、ぞろぞろとホテルに帰る途中、ぼくはまたまたミスをしたのに気づく。10ドル替えておこうと言ったのだが、これで2泊分を払うと首都のヤウンデまでの鉄道料金が出ない。とすれば明朝の列車で出発するのは不可能だ。1日がまるまる無駄になってしまう。「夜行で発とう」と即決して、足を速めた。
 ホテルには下痢気味のクリちゃんと、途中ではぐれたアニメ氏、ボンヤリさんが待っていた。荷物だけを運ぶ車を探したがつかまらず、マイクロバスを交渉してみる。黒山の人だかりの中で喧嘩腰でやるのだが、3000フランまでしか落ちない。そんな大金を出してしまうと、全員が列車に乗れるかわからない。今度ばかりはもう逃げの手がないのだ。何人かが駅まで歩こうと言ってくれた。しかし3キロからの道をザックを背負って歩くのはまだ無理のようだ。
 「私たちは自分で背負えるだけの荷物を持ってきたはずでしょ。歩けないなんていえないはずよ」
 今朝からトイレを離れられずにホテルに残っていたクリちゃんが決然と言った。
 計画大変更のミーティングのときの編集氏の言葉と同じように、ギリギリのところでぼくの弱気を助けてくれるのはメンバーの言葉である。本当にうれしかった。歩いてみよう。
 ポカンと取り残された運転手たちやホテルの前庭に集まった人たちを後目に、ぼくたちはよたよたと歩いた。道は遠い。10分も歩くとクリちゃんはもう汗をポタポタたらしている。
 「気分は悪くならない?」「大丈夫です」
 いまにも落としそうなショルダーバッグを誰かが持ってくれた。
 途中、真ん中あたりと思われる街角で一度ザックを下ろさせたが「休むと苦しくなるからこのまま歩きたい」という女性軍の声で、ザックのパッキングをチェックしただけですぐに出発。ちょうどサッカーが終わったところで、群衆の中をかき分けつつ歩くことになった。ただでさえ異様な我々の行進なので彼らの視線が痛いようだ。
 小一時間で約3キロを歩いた。駅に着いたときのすがすがしさ。さっそく1,000フランでパンとジュースを買い、腹だけを満たす。今日はフランスパンを朝・夕合わせて1本ほど食べただけの最悪の日となった。
 1055フランの2等(1等と2等しかない)は超満員であった。もちろん木のシートで、3人+2人掛け。それが4人+3人掛けになったりする。ザックを積み上げてしまってから、半袖シャツ1枚では風邪を引く恐れがあるのに気づく。なにしろガラスのない窓があるのだし、熱帯の夜は思ったより涼しい。飛行機に乗ったときと同じように考える必要がある。
 込んでいて下手に立てばサッとだれかに座られそうな不安がある。列車が走り出してから、ひとりずつ来てもらって、そのたびにザックをひっくり返してセーターやアノラックを出す。
 アフリカ人は大人も子どもも赤ん坊までが強烈に強い。日本の混んだ夜汽車に子どもをぞろぞろひき連れたおばさんを加え、引っ越し荷物のような大きな包みを加え、車内で食べるパンや果物、サトウキビを加えれば、それがまさにカメルーンの2等列車だ。夜中じゅう女をくどく奴がいたり、ワッと湧き上がる合唱、ときには座席を取り合うわめき声も聞こえてくる。明け方近くには椅子の下でニワトリが鳴き始めた。とにかく音と臭いに満ちている夜汽車だった。


8月4日(金)第7日

【伊藤幸司の日記】

●アリ・ババ刑事
 朝のヤウンデ駅に到着すると、すぐにぼくとベビーちゃんで街に出た。小粋でフランス風の制服がよく似合う警官が親切にタクシーを呼んでくれる。ツーリストオフィスで地図とホテル料金のパンフレットを手に入れる。
 戻ってみると、くたびれた服装の若い男が警官と一緒に来てパスポートを見せろと言う。かれはアンスペクトゥール、英語のインスペクターのいやな響きが思い出される。
 19冊のパスポートをかかえて奥まった一室にはいると、3人がかりで氏名、パスポートナンバー、職業、生年月日などを記入する。あり合わせの紙切れにごちゃごちゃと書き込むのがいかにもアフリカ的。職業は全員が数次パスポートなので記載がないのをいいことにすべて学生ということにする。ネームリストは持っているのだが出さぬ方がいいと判断する。大学の専攻を聞かれてちょっととまどう。それよりもアンスペクトゥールにチェックされるのがこの国でどういう意味をもつのか分からないから不気味である。
 「ホテルは?」と聞かれて、調べ上げた名前のうちから街に近く、一番安いオテル・ドゥ・ラ・ペイの名をあげる。アリババと名乗る例の若い制服刑事がホテルまでついていくと言い出す。仕方ないので小型トラックを止めてもらってザックだけを先に運んでもらう。
 道々、彼はアイジョ(アヒジョ)大統領の名をあげて、しきりに称賛する。ぼくらは今、どういう立場におかれているのだろうかと、もう一度朝からの出来事を反芻してみる。
 オテル・ドゥ・ラ・ペイは3部屋しか空いていなかった。ダブルで1900フラン。2人以上は泊められないという。アリババがかなりしつこく交渉してくれる。彼は車をつかまえて、ぼくに乗れという。近くのカジノというホテルでまた交渉。つっけんどんなやせぎすの女が値引き交渉を鼻であしらう。ぼくの出る幕ではないので、アリババの言葉を必死に聞いていると、彼は1人当たりの料金を少しでも安くしようとしつこく迫っている。
 マダムが出てくる間、ロビーでしんみりとした話をする。ありふれたコールテンの上着がフランス製で8,000フラン(1万円弱)、ウールらしいズボンがやはりフランス製で4,000フランだとこぼす。こちらから聞こうにも言葉がないのでただうなずく。時間を気にしながら「これも職務だから……」といったあいまいな言い方をする。
 彼が真剣にぼくらの懐具合を心配してくれているのは明らかだ。しかしまだ、アンスペクトゥールという言葉が大きくのしかかっている。カジノが結局ダメで、アリババもかなり頭に来たらしい。ぼくにしてもできればこの辺で彼と手を切ってしまいたいと思う。道を歩きながらカドー(プレゼント)という言葉をぼくに分からせようとし始めたからだ。
 オテル・ドゥ・ラ・ペイに戻ると、朝から食事もとらずに延々と待たされている18人がホテルの中庭を占拠したかっこうでぐでんとしている。ぼくは再度ホテルの頑固そうなフランスじいさんにアタックする。結局ダブルの部屋に2人以上泊めると警察に挙げられるのだと知る。アリババはポリスではなかったのか?
 そのとき、回教風の白いガウンを着た老人がおれの車に乗れという。本来ならここでアリババと別れてタクシーでホテル探しに飛び出してしまおうと思っていたのだが、アリババに付き添われて古い黒塗りのベンツに乗り込む。
 ごちゃごちゃしたアフリカ人街の中に、シャワーと台所のついたこぎれいな家があった。アラジ・ママ・コラム(アラジはアル・ハジのことでメッカ巡礼者に対する尊称)と名乗るその老人は、商人らしい抜け目なさで1泊9,000フランと、きわどい値段を言う。ホテルの半値である。1か月借りる値段からすればとんでもなく割高だが、ぼくの弱みをグンと突いてきた。アリババ刑事立ち会いのもとに契約書を書かされた。


8月5日(土)第8日

【伊藤幸司の日記】

●日本人と出会う
 土曜日なので、午前中にビザの申請をする。C班はザイール、A・B班はナイジェリア。
 ザイールの大使館はバストスという有名な高級住宅地にあった。ベビーちゃんが交渉係を命じられた。色白のベビーフェースを紅潮させ、両手を突き出してRの発音のたびにからだ全体に力をこめている。
 ビザの申請書はアフリカの国々ではかなり厳密だ。ぼくらはナイジェリアの申請書にサインをしたことはあるが、あとは渡航担当スタッフの中井さんの方でタイプを打ってくれた。ザイールの場合も似たようなもので、A4判のザラ紙にびっしりタイプしてある。フランス語の穴埋め試験のようなものだ。
 上から順に進めていくのだが、まずベビーちゃんが辞書を引き、何を答えるべきかを「マダム・シルブプレ(プリーズ)」と館員に確認して、それからフランス語の綴りをみんなに伝えるのだ。
 2時間もかかって、各自3枚のコピーと3枚の写真を提出できた。即時1か月のビザを出してくれたのだから大成功といえよう。
 さわやかな丘の小道をだらだらと下り、まただらだらと登って街の中心と思われる方向へのんびりと歩いた。歩きながら雑草があまりにものびのびと繁茂しているのにまず驚いた。それがヤウンデ有数の邸宅街を三流別荘地のように感じさせる。
 アフリカで印象的な植物は? と聞かれたら、ぼくは日本の夏草と雰囲気がそっくりの雑草をあげる。バオバブより、テーブルツリーやソーセージの木、桜のように華やかに散るジャカランダ(これはオーストラリアからの輸入だそうだが)より、なんといっても野放図な夏草だ。東アフリカのナイロビやカンパラよりかなり強靱に見えるその草々は、手入れをした痕跡も感じられない。東アフリカでは日がな鎌を振り回していた除草人夫ももちろんいない。
 突然、車の中から東洋人の顔がのぞいた。ぼくは日本と合弁のカカオバターの工場がどこにあるのか調べてこなかったので、日本人は商都ドゥアラにしか居ないのだろうと勝手に決め込んで、皆にもそう言ってきた。みんなが一瞬、声もなく立ちすくんだのは無理もない。
 「コンニチワ」
 列の後ろの方で誰かがあいさつして、それで彼らがSOCACAOの八幡氏と八木氏であることを知った。じつはぼくも驚いたのである。ぼくは外国で東洋人の中に日本人を見つけだすのが得意だというつもりでいた。もちろん顔では判断しきれないので、身のこなしから予測するのだが、おふたりには大変申し訳ないけれど、瞬間的に日本人とは思えなかった。
 それは街で他の3人の方と会ったときにも同じだった。永く日本を離れている人はともかく、八幡氏などはここに来て3か月にしかならないのである。ぼくの自信もかなりいい加減だ。
 「ぼくはびっくりしたよ! 東村山あたりをハイキングしている一団に会ったようで」
 八幡氏は笑った。

 午後、八幡氏がぼくらを訪ねてくれて、いろいろ情報を与えてくださる。
 「ドゥアラでもここでも、ホテル代や交通費が思ったより高いんで、ちょっと憂鬱になっているんです。それにフランス語のハンディキャップがかなり厳しくて、英語の通じる西カメルーンへ逃げようかと思っているんです」
 ぼくの計画では、初めから西カメルーンで村に入る努力をしようと考えていた。しかし北へのサファリを希望する人もかなりいたのである。ここ数日の交渉ごとを振り返ってみて、何人かをフランス語圏に放り出すには、まだ不安があった。そこで全員で旅をしながら順次希望者から別れていくという分散方法もひとつの課題となっていた。
 「どうせカメルーンへ来たんだから、付け足しみたいな西カメルーンより、北へ行きなさいよ。この国の連中はおとなしいからそんなに不安はないよ」
 「ぼくは来たばかりでよく分からないけれど、ちょうど明日、ジェトロの吉田さんがここへ来るから、いろいろ聞いてみたら? 彼はこの国はほとんどまわっているからいい知恵をくれるかもしれないしネ」
 「明日は日曜日でブラブラしていてももったいないからモン・フェベまでハイキングしてみたら? 大統領の別邸もあるし、街全体を見渡せるから」
 八幡氏はぼくらにカツを入れてくれた。


8月6日(日)第9日

【伊藤幸司の日記】

●モン・フェベへのハイキング
 8月6日。ぼくが残って留守番をし、全員がフェベ山を目指した。モン・フェベはヤウンデ郊外の小高い山で、大統領別邸のほか、モン・フェベ・ホテル、モン・フェベ・サファリロッジなどがあって、ヤウンデの名所になっている。
 その道はちょうど、ぼくらの泊まっているカルチェからだらだら登りになっている。皆思い思いに弁当を持ったりして出かけていった。
 最初に返ってきたのはシモヤンであった。彼はフランス人の車に拾われて一気にモン・フェベまで登り、おまけに元のところまで送ってくれたのだという。自称自閉症のシモヤンにしては大成功である。
 日が傾くころ、みんなが帰ってきた。編集氏、アニメ氏、デザイナー氏、カメラ君、オットリ君の男性5人と、おかあさん、ベビーちゃん、ボンヤリさんの馬力組は結局となりの山に登ってしまって、電波塔の下で昼寝をしてきたという。途中バナナを盗もうとして失敗したり、変な洋服屋に会ったり、ヤシ酒をくらったり。ともかくでたらめなハイキングだった。
 そのほかの女性たちはまじめに歩いたようだ。その途中でシモヤンがフランス人とベトナム人とカナダ人の乗った車でサッと追い抜いていったので日本女性の面目丸つぶれといったところ。

●吉田氏とのミーティング
 午後、八幡氏と吉田氏が来られて、かなり詳しい情報を与えてくれた。
 吉田さんは日本人的な背格好で、眼鏡の奥からせわしなく問いかけてくる。20代後半の八幡氏とは歳がひとまわりほど違うとのことだが、やはりバイタリティーのある人だ。
 「また変なところへ来たね。ここは何もないところだよ。でもせっかく来たんだから、何をやりたいかひとりずつ話してくれない?」
おかあさん━━裸族を見たいんです
アニメ氏━━大ジャングルに入りたい
カメラ君━━マムフェあたりに居座って、そこからナイジェリアへ
編集氏━━子供の遊びを見たい。2週間ぐらい小学校に入学したい
デザイナー氏━━サバンナの生活を体験したい
婦長さん━━のんびりした生活をしたい
ボンヤリさん━━ホームヘルパーみたいなかたちで家庭に入れないかしら
 7名だけが意見を述べた。
 「カメルーンでは小型の遠距離バスが主な町の間を走っているから、それを利用して、まず、歩いてみたらどお?」
 吉田さんの意見もまた「やってみなさい」というものであった。
 八幡氏にしろ吉田氏にしろ、ぼくたちはよい人に巡り会ったといえる。アフリカのように旅行者の少ない土地では、そこに住む日本人の方々が何かと親切にしてくれるものだし、うっかりするとぼくたちはその好意にとことん甘えてしまう。そういう場合のけじめは実に難しいものだ。
 たとえば駐在員の方々はその国を旅したとしても、ぼくらのような気ままな貧乏旅行者とは明らかに違うから、実際にぼくらが欲しい情報は得られないことが多い。逆に言えば、ぼくらは十分な予算も持たず言葉も満足に出来ないのに、まるで偉大な冒険者のような口振りで話しているのである。日本人の方々にしてみれば、どんな事件を引き起こすかもしれない要注意人物である。冒険者たちはちょっとした事件で、メンツも何も捨てて、日本人に泣きつく例が多い。
 たまにやってきた同国人だから、ある程度の好意を受けるのはもちろんかまわないと思う。しかしいざ事が起きたときになし崩し的にその混乱に巻き込んでいくような汚い接し方をしてはならないと思う。
 八幡さんと吉田さんはそういう意味で、実にはっきりとものをいってくれる人だった。情報についても、自分で知っていることと、人から聞いたことをはっきり区別して話してくれたし、彼らがぼくに与えてくれる好意の範囲をはっきりとしてくれた。これは一見冷たい言い方になるのだが、じつは大変ありがたいことである。
 ぼくは八幡さんにカメルーン国内での連絡所を引き受けていただき、分散行動をとりやすい態勢をつくることができた。しかもさまざまな情報を与えてくれたにもかかわらず、ぼくらの行動に一言も強制的な指示はされなかった。


8月7日(月)第10日

【伊藤幸司の日記】

●ビザをとる
 午前中に、A・B班はナイジェリアのビザをとる。
 日本では非常に厳しいビザも1か月を即座に出してくれる。特にB班は陸路の入国を認められたので大喜びである。
 A班は9.1までのカメルーンのビザに対して、ラゴスへの飛行機が9.2だから、ビザの延長が必要かどうか、イミグレーションに行って聞いた。
 オフィスの奥に座っている役人は物腰からしてなかなか堂々たる紳士で、立派な英語を話した。その彼が「ファースト・セプテンバー(ここで寝るゼスチャーをして)OK!、2nd September (寝る真似をして、その上で手でそれをうち消して! OK!」と言ったと、帰ってきたオットリ君たちはその有様をユーモラスに繰り返して大いに笑った。
 その役人と話したことのあるぼくは、お互いのトンチンカンなやりとりの様子を一人で想像して、すっかり楽しくなった。あのおじさんに英語を話させず、ゼスチャーをやらせたところなぞ、さすがアムカスのメンバーである。
 C班は予備的に中央アフリカのビザを申請する。カメルーンのドゥアラから飛ぶ代わりに、中央アフリカのバンギまで陸路を行き、船か飛行機でキンシャサに向かうことも考えられるからである。交渉係のベビーちゃんの話では本国照会になるから3日目以降に来るようにとのことだった。それでもビザは2日間しかくれず、入国地点で再申請するようにとのことだった。案外厳しい条件なので、一応保留にしておく。
 午後は何組かに分かれてヤウンデからの遠距離バスの情報を集めることにした。市内にはいくつかのバス、タクシーの溜まりがあって、それぞれの方向への車が集まっている。北へ向かうバス・ステーションはブリクテリー・エストと呼ばれる黒人街にあり、西へのバスはその入口のホテル・オーロールの前にあった。ともにぼくらの宿舎から数分の距離である。

●今後の方針
 各人の情報を総合すると、
(1)北へのバスはヤウンデ→ンガウンデレ→ガルア→マルアが約1,600km、4,800フランで出発は毎日朝7時。(あとになってノートをひっくり返しみて気づいたのだが、シモヤンの情報では各町まで各々1泊で丸3日かかるとなっている。このデータを見過ごしたぼくたちは、バスに乗って初めてスケジュールの大原則を知ったのである)
(2)西へはヤウンデを午前3時に出て、バミリケ地方のバフーサンまで約13時間、1,500フラン。そこからバメンダまでが800フランである。バメンダから西カメルーンへはバスやタクシーが使える。
 このふたつの情報を中心に、各自どう動くかを話し合った。
 ところがここでやっかいな仕事がひとつ入った。昼間家主に言われて全員の名簿とパスポート、職業などを記入したのだが、その家主が再び現れて、警察でパスポートチェックがあるという。とたんにヤウンデ駅からのいやな1日を思い出した。
 家主のベンツで警察へ乗りつけると、日本で言えば吹きさらしのあばら屋にポリスが3人手持ちぶさたのようす。待たされる間の不安は大きい。途中で横柄な態度の上役が入ってきて、3人はかかとを鳴らして敬礼する。そんなささいなことも日記にこまかく記入していくらしい。
 にこやかに、ムッシュ・コミッセールが入ってきた。何となく向こうから会釈してくれたので、こちらもそれに合わせる。奥の一室に入って、彼が相当に偉い人物だと知る。なごやかなムードのうちにパスポートがていねいにチェックされる。じつに、彼は、ヤウンデ駅でぼくらのパスポートをチェックしたおっさんだったのだ。
 昼間のうちに、大蔵省、外務省情報部からイミグレーションまでまわって、A班の連中がこっけいなゼスチャーをやらせたあののおじさんにも会っている。ぼくたちはレセ・パセ(通行証)も写真許可証も必要でなく、パスポートとビザを見せるだけで国内のどこでも歩けると確かめていた。ただ、イミグレーションで何とかメモだけでもいいから署名入りの文書を手に入れようとしたが、それには失敗していた。
 今度こそチャンス! ぼくはムッシュ・コミッセールにたどたどしいフランス語で旅の予定などを話す。一割も通じないが、構わない。最後に、日本へ帰ったら手紙を出したいからとアドレスを聞く。彼は古い名刺をタイプで訂正してぼくにくれた。
 ヤウンデ第二警察署長・ベンジャミン・ンド・エビナ氏であった。サインはないが、いざというときにこれが役に立つだろう。

●再びミーティング
 家に帰ると話はだいぶ進んでいるようだった。
 西カメルーンへは4人が名乗りを上げ、残りは北に向かうようだった。というのは昼のうちに車体のチェックまでしてあって、24人乗りのバスに何人でも乗れることになっていた。西の方は4人しか定員がないというので、なかば物理的にそういうグループ分けになってしまったのである。
 編集氏は小学校に入りたいというし、カメラ君は17日にドゥアラ空港でマリから来るテーラー氏を迎える約束なので、それを機に西アフリカへ向かうことになっていた。クリちゃんは「パーティをいくつにも分けて、同じルートを別々に行ったら、途中で情報交換もできるし、おもしろいじゃない」とわめき出す。
 各人の行動をできるだけ自由にできるような集合体制を決めた。
(1)8.16までにSOCACAO 宛に電報を入れること。内容は日付、居所、氏名、予定の行き先。
(2)8.24までに再び同様の連絡をする。
 これによって事故対策を可能にする。
(3)C班(東アフリカまで行く13人)は8.25夜までにドゥアラのホテルに集合。
(4)A班(まっすぐ帰る3人)は9.2の飛行機なので8.29にドゥアラ集合とし、リーダーはドゥアラにメモを残しておく。
(5)B班(西アフリカへ向かう2人)はすべて個人にまかせ、9.25にカイロに到着できない場合の連絡体制を決めた。何かあればリーダーはすぐにコートジボアールに飛べるようになっている。
 今まではぞろぞろと団体で歩きながら、主に出入国手続や旅のコツなどを知ってもらうように努力してきた。これからはいよいよ本番だ。19人+1の寄せ集め大部隊が、個人とチームの間でどれだけ豊かな旅ができるだろうか。
 西へ向かうボンヤリさんとママちゃんが「あのお、もしいいところがあったら25日の集合を遅らせていいですか? 私たち2人だけで自由に歩いてみたいの」
 こういう発想はうれしいが、同時にリーダーとしてはビシッと締めておかなければならない。
「全員の確認で、個人と団体のけじめを決めたでしょ。たとえ残りたくても25日には絶対に集まってください。それに、あなた方が自由にやっているつもりでも、必ず男性に迷惑をかけているんです。できればアニメ氏やシモヤンの近くで何日か分かれて歩いてみる。そういう心づかいをしてほしいな」
 いつものことだが、大半の女性がどちらにしようかと迷って、ミーティングは延々と続いた。西へのバスは朝3時発、北へは朝6時にバスが迎えにくる。12時をかなりまわったところでシュラフにもぐりこんだ。西の4人は何度もバス停へ出かけて最後の交渉をしているようだった。


8月8日(火)第11日

【伊藤幸司の日記】

●北へ走る・第1日
 05:30に目を覚ますと、例の4人はもういなかった。無事出発したのだろう。
 06時、バスがくる。屋根に荷物を積んでターミナルへ。理由が分からぬままただ待たされるので、食堂に行かせる。ミルクコーヒーとパンと、肉の辛子煮がひとつかみでカフェ・コンプレという。約60円。米にその肉汁をかけたものがリ・サンプル。約90円。リ・サンプルにジャガイモ(ポム・ド・テール)の煮たのがつくと、リ・ポムといって150円ぐらいになる。アフリカ人食堂なのに、値段は安食堂のカレーと同じくらいだ。
 再びバスに乗ってターミナルに戻ると、また待たされる。客が5〜6人乗ってきた。
 07:30になると約束どおり銀行へ行ってもらう。ぼくらはバス代はおろか食費も満足に持っていない。3つの銀行に分かれたのだが、やはり換金は大作業になった。
 まず外貨扱いの窓口に行く。そこで氏名、パスポート、職業、カメルーンの住所を克明に記入した伝票を作り、それに換金額を記入する。ひとり10分はかかる。そしてキャッシュであれ、チェックであれ、事故ナンバーの表と丁寧につけ合わせチェックをするのである。サインしたチェックを渡すと、目の前でサインしなければダメとうるさい。
 次に支払窓口に行く。伝票が回ってくるのを待って、ようやく現金が渡されるのである。そこでは何フラン札を何枚渡したかをグラフに記入していく。とにかく書類作りは厳重をきわめている。植民地時代の名残だろうか。
 その割に、日本では厳しい数字そのものの書き方にはルーズで、書き違いはなぞって直してしまうし、末尾はゼロをいくつでも加えられる。
 そんなことより、ぼくらが気になったのは銀行によって交換レートが違うし、手数料も大幅に違う。ときには担当者によって変わってくることもあるのだ。おおざっぱにいえば1フランが1.3円というところ。
 1時間半もかかってようやく換金が終わった。09時である。運転手や他の乗客に謝ってバスに乗り込んだ。
 さあ、いよいよ出発! と思うとさにあらず。再びターミナルに戻って待たされる。
リツコさん────「ここの人たちは夜も強いし、朝も強いのね」
オットリ君────「だから目が赤いんだ」
編集氏────「昼間ろくな事をやってないじゃないか。全部中途半端なんだよ。それで暮らせるからいいよな」
 09:30、いよいよチケットも切って、今度こそ本当の出発。ここで初めて、中年の貫禄ある運転手が乗り込んできた。乗客はぼくたち15人のほかに軍人夫婦、女性2人、ゴルフクラブをステッキにした小粋なおっちゃん。そして助手席に金持ちらしい男。ぼくらも真ん中のフロントシートを使わせてもらったが、冗談半分に1,000フランの追加だなんていいやがった。後部はタテに3列のベンチになっていて、ルノーのSAVIEM-SG2 というこのマイクロバスでは座ると膝にほとんど余裕がない。助手が2人加わって21人が座ると1列7人、肩と肩をずらせなければ入らない。
 バスは舗装道路を快適に走った。メーターが動かないのではっきりとは分からないが、下り坂では90km/h以上は出ているだろう。アフリカを旅するときに一番気をつけねばならないのは自動車事故である。
 路面が悪いのにスピードを出す。ラテライトと呼ばれる赤土はいったん濡れるとまさに粘土となる。そうでなくとも、ヤギをひいたりするだけでも恐ろしい。
 ぼくは昨日、バスに試乗してみた。ブレーキはかなり甘いが、まずます及第。ハンドルの遊びも正常だし、タイヤもまだ新しい。セルモーターが動かないのはぼくらには関係ないことだ。ただ、運転手だという若い男の技術は要注意だった。もし危険だったら団体の圧力でスピードを落とさせる必要があった。
 しかし、中年の運転手、アラジ・アマドゥの運転を見て、ぼくはひと安心した。大きなカーブではスピードを出していたが、小カーブの前では必ず減速した。コーナリングを見ても、まず完璧である。彼は、たぶん対向車がないだろうといった見込み運転は絶対にしない。
 安心すると眠気が襲ってきた。真ん中のフロントシートだから舟を漕ぎ始めると運転手の方にもたれかかってしまう。何度かこずかれて、ぼくは後部座席に移った。

 車はしばしば止まった。街道沿いの家々が果物やたきぎを道端に置いている。オレンジ、バナナ、サトウキビなどが次々に手に入るので旅はかなり優雅である。優雅なくらいだから距離は意外にかせげない。
 12:40、約3時間走って168kmのナンガ・エボコ。ここで食堂に入って昼食。
 風景はヤウンデを出てからずっとサバンナなのだが、デザイナー氏は期待が大きすぎたのかなかなか認めようとしない。要するに藪の野っ原で、中にテーブルツリーなどが散在している。バオバブはまだ見ない。景色が変化しないものだから、みんな半分は居眠りしている。
 21:45、中央アフリカへの中継地ガルア・ブライに寄る。ここから首都バンギまでは2日、3,000フランだそうだ。闇の中にガソリンスタンドだけが浮かんでいた。
 真夜中の24:30、バスはメイガンガというところに着いた。ここで泊まるという。宿屋が満員だというので、ぼくは怒った。
 「ンガウンデレに着けなかったのはいい。しかしあんたは1人300フランで泊まれるといった。ぼくらはどうすればいいの?」
 バスの運行システムを知らないから、不満はいろいろとあった。それをここでぶつけたのである。いったいどうなるのか分からなかったが、とりあえず寝袋は必要だ。勝手に屋根に上り、シートをはずしてザックを全部降ろしてしまった。
 運転手はどこかへ消えてしまって、助手が動き回っているらしい。ぼくらは南十字星はないかと星空を眺めていた。
 1時間後、ぼくらは泥家の狭い一室に入った。もちろん無料だ。はみ出した何人かは軒下にザックを敷いて寝袋にもぐりこんだ。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.8早朝ヤウンデを発ち、バメンダ泊。


8月9日(水)第12日

【伊藤幸司の日記】

●北へ走る・第2日
 06時に荷物を積み、食堂へ。運転手だけ除いて、全員が集まっている。07:15、出発。運転手がハンドルを握ると出発だということに気づいた。
 町を出るとすぐに警官たちが乗り込んできた。自動小銃やカービン銃が運転席の後に不気味に光る。布袋に包まれているのは軽機関銃か。
 2人ずつ手錠でつながれた男が4人。それに警官が4人。後部シートは29人となった。1列10人である。腰と腰がピッタリついてもまだ後に助手が残っている。走り出すと運転手は急ブレーキを踏み、瞬間いくらか前の方につまったところで助手はさっと腰を下ろす。
 すでに上半身は斜めにしなければどうしようもない。向かい合いの席では膝を重ね合わすこともできない。
 風景は次第に平原になっているのだが、やはり期待ほどの変化はない。果物も少なくなって、車はただ赤い道を走り続けている。
 11時、ンガウンデレ着。他の乗客はさっと降りてしまう。まだ昼前だというのに、今日はここ泊まりだと聞かされる。
 「バカにしやがって!」と再び怒ろうと思っていると、運転手がかわいい女の子を連れてきた。かわいいというか、美人というか、3歳の女の子がぼくのカメラの前でポーズをとるのである。日本のジャリタレなど足元にも及ばない。
 運転手は彼女を抱いて顔をくしゃくしゃにしている。娘だと言われて見れば彼に似ているようにも思う。何よりも奥さんが美人なのだろう。彼はこことヤウンデに2人の妻がいて子どもは合わせて4人だという。アラジとこの辺で呼ばれるのはアル・ハジのことでメッカ詣でをしたモスレムに与えられる敬称だから、彼は金持ちの部類なのだろう。
 「これじゃあ、いくら尻をはたいても今日は出ないな」
 「しょうがない運転手ねぇ」
 とにかく1人300フランの約束を繰り返して2部屋を借りる。
 「1,000フランでもいいけれど、私の意見としては3,000フランを払った方がいいでしょう」
 運転手はそう言う。彼に連れられて奥に入ると、暗い部屋にゴザが1枚敷かれ、老人がふたり、静かに座っていた。
 運転手は入ってすぐひざまずく。長身で白いひげをたくわえた家主はなかなか威厳に満ちた顔立ちをしている。
「サイーダ(こんにちわ)」
 カイロでのアラビア語を使ってみると、これがじつに通じたのである。
 3,000フランを運転手に渡すと、彼はうやうやしく老人に手渡した。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.9-10バメンダ近郊の村バリで2泊。


8月10日(木)第13日

【伊藤幸司の日記】

●ホテル探し────マルア
 17:30、先発した10人(伊藤、オットリ君、婦長さん、ミッキー、リツコさん、ヨシ子さん、KABATAさん、ヨーコさん、クリちゃん、ベビーちゃん)がマルア到着。残りのメンバーを待つため、レストランに入る。
 このレストランは若い男連中がやっているらしいのだが、5〜6人のたむろしている連中の誰と誰がウエイターなのか、見当がつかない。というのは、注文をするたびに違う奴が奥から皿を持ってくるのだが、それが、こちらの望みをまったく無視している。
 18:30、雨雲からポツリ、ポツリと降り始めそうな薄闇の中に、残りの5人(編集氏、デザイナー氏、カメラ君、おかあさん、おねえさま)が到着。

 すっかり暗くなってしまうと、この町がどれほどの規模なのかまったく分からなくなってしまった。立派な並木のこのあたりには街灯がない。どちらを向いても道は闇の中に消えているのだ。
 この町に入る前、かなり前に、小さな飛行場があった。それからだいぶ走って、水たまりだらけのダウンタウンで何人かの客を降ろし、橋を渡って終点だった。もしあの辺に安ホテルがあるのだとすれば雨もよいの暗い道をテクテクと歩くのは無理だ。ぼくは最終的には、このレストランを占領してしまう腹づもりでみんなに言った。
 「ぼくが荷物番をするから、全員で手分けしてホテルを探してください」
 灯もなく、しんと静まりかえった町なのに、レストランの前にだけは子どもやら大人やらが集まっている。
 「安いホテルある?」と聞いてみる。
 「ウィ」という答えは返ってくるのだが、値段のことになるとまったく曖昧である。ホテルリストには1人4,000円のホテルと、たぶん同格だろうが価格表示のないもうひとつしか載っていない。
 とにかく、ぼくはどっかと腰を落ち着けていればいいのだ。レストランをぶんどるにしても、時間はまだ十分にある。
 編集氏が中心になってゾロゾロと出ていった。小さな男の子がホテルに案内するというのである。おかあさん、おねえさま、あとひとり(だれだったか)がタイミングを逸して残った。
 ぼくは並びにあるバーを覗いた。入口のたたきはレストランの土間よりは快適そうだったし、内部はカウンターの周辺がバーらしい雰囲気で奥は倉庫のようにガランとし広かった。ここを分捕る方が快適そうだ。その下ごしらえとして、またホテルを聞いてみた。
 中にいた連中はかなり人相が悪い。少なくともンガンデレで美人、美男に度肝を抜かれた後では、彼らの風体に貴族的なムードを求めるのは無理だろう。しかも何となく目つきが気に入らなかった。しかし彼らはあんがい人の好い世話好きだったようだ。
 「アタンデ・ア・モマン・シルブプレ」と言っていったん戻る。
 ちょうどカメラ君、ベビーちゃんのコンビが帰ってきたところだった。
 人垣の中にいた男の子が、自分の家に来いといったのだそうだ。15人全員が泊まれるし、シャワーもあるという。2人はタダ宿の情報を持ってきたのだった。
 しかし、小学生か中学生にしか見えないその男の子の言うことは、まだアテにできない。
 身のこなし、英語を若干なりとも話すことから家が貧乏ではないようだ。しかし初めて飛び込んだこの町で、複雑な人間関係に盲目的に飛び込むのもまだ危険だ。ともかく、最後の希望として何人かが泊まらせてもらう可能性は出てきた。

 ふたりを連れてもう一度バーに戻って話を再開する。
 話は次第に大きくなり、また表に人垣ができる。モーターバイクに乗った若い2人が案内してくれるという。ちょっと不安でもあったがフランス語のできるベビーちゃんとカメラ君にもう一度出かけてもらうことにした。
 30分ほどで帰ってきた2人はリーダーの決断だけを残すだけに条件を煮詰めてきた。最初に行ったのはバンガローの散在するホテルで、白人たちがバーに集まっていた。値段を聞くと1人3,000円で手も足も出ない。
 それからずっと奥の斑にある同様のホテルを見た。こちらは土壁の中に4つのバンガローとバラック建ての2部屋があるだけで、バラックの方は少々カビ臭いが、バンガローの方はシャワーにベッドひとつ付きで、コンクリートの床に4人は寝られるという。値段は1戸1,000フラン(1,300円)、5人詰めてもいいということだった……とのこと。おまけにタクシーも見つけてくれて、全員を運んでもらうという条件で、1人50フランだという。
 でかしたり、1人200フランでシャワーが使えれば申し分ない。明日になったら別のホテルでも探せばいい。
 ところで、あとの仲間は何をしているのだろう。早くつかまえて彼らの成果も聞き、ホテル探しに終止符を打とうと思う。
 彼らの行った方向へ30分の予定で歩き出したのだが、道は真っ暗、足元が見えないだけでなく、連中が歩いていても、まずは見つからない。すぐに引き返してベビーちゃんたちが乗せてもらったモーターバイクを借りようと、免許証を出して必死の説明。やっと200フランなら、との返事だ。リトルホンダのようなペタル付きでスイッチがない。どうやって始動するのか聞いていると、みなさんが現れた。
 「豪華なホテルでさ、ボーイなんか鼻にもかけない冷たさなんだ」
 「なんだ、ぼくらが行ったホテルだ」とカメラ君。
 「ぼくたち、あそこで大声をあげて値段の交渉をしたから、後から来た別の連中も同じだってすぐ分かったんだ。きっと」

 「さあ、ホテルに行こう」
 集合した仲間に声をかけて、タクシーに荷物を乗せ始めると、積み残しの問題が浮上した。
 「Can you speak english ?」例の小さな男の子がぼくの前に立った。
 「なぜぼくの家に来てくれないの?」
 脇にいた若い男は、たぶん帰ってきたみんなを案内してくれた男だ。
 「ホテルがダメなら、ぼくが民宿を世話します。何人かずつ分かれて来てください」
 男の子はその男につかみかからんばかりに叫び始めた。
 カメラ君の困惑した表情もあった。
 「ぼくはこのグループのリーダーです。好意はどうもありがとう。でも今夜は安いホテルが見つかったから、ぼくたちはまず、そこへ行って、明日また考えてみます。ありがとう」
 私はそういう気持ちを込めて、ゆっくりと英語の単語を並べていった。小さな男の子がかなり短いフランス語に言い直して、それでその場は何とかおさまった。
 世話になった人たちに誰かのボールペンをプレゼントした。関係ない連中の手を引っ込めさせて、最後の便にぼくは乗った。


8月11日(金)第14日

【伊藤幸司の日記】

●小学生ブバ・ワメ君のこと
 朝寝坊する。
 ぼくらが暗闇の中やってきて泊まったロッジは、大粒の砂の上に丸いかやぶき小屋が5つ点在する。土壁で囲まれた狭い土地で、伸び伸びと葉を広げた大木がさわやかな木陰をつくってくれる。
 この町では貸し自転車(1時間30円)、貸しバイク(1時間200円)が広く普及しているという。
 町に出て並木道を歩いていたときに近づいてきたのがブバである。この町で子どもが理由もなく近づいてくればたいていは「ボンジュール・ムッシュ・ドネモア・サン・フラン」(100フラン頂戴)とぼそぼそ言うのが決まりになっている。
 彼は立ち止まったぼくに真正面から話しかけてきた。何と言ったのかはまったく分からない。ただ彼は、ゆっくりとした口調で、自信に満ちた目をしてしきりに訴えているのである。
 「プレ・ブ・コネ・ラングレ?」
 この言葉で、彼が英語を必死にあやつって話そうとしていたことに気づいた。
 彼が話したかったのはこうだ。
 1948年の2フランアルミ貨を持っている。銀行へ行けば1個10フランで換えてくれるんだけれど、あなたは欲しくないか?
 2個出して20フランで換えてくれるとのこと。
 ぼくは彼の利口そうな目を見ながら、またひとりぼくの会いたい子どもが現れたと思った。
 後進国を歩いているときの楽しみのひとつは、彼のような頭の切れる子どもに出会うことだ。彼らと旅行者であるぼくとの出会いはたぶん詐欺師とカモのような関係から始まる。お菓子をくれ、金をくれ、あるいは写真を撮らせて何かをねだるというような子どもではなくて、大のオトナをカモってやろうと向かってくる子どもには、ある種の期待感と興味をもつのである。
 貧しい国の子どもたちは、学校へ行きながらも常に生活の苦労を背負っている。その中で真正面からぶつかってくる奴がいるとき、ぼくはカモにされてもいいと思う。
 結局、ぼくはコイン2つを10フランで買った。
 彼は小学校の8年だというが、手下の1年生と2年生を見比べてみても、どうしても4〜5年くらいにしか見えない。
 道を歩きながら、彼はぼくにいろいろな質問を浴びせてくる。
 「スズキの100cc のオートバイはいくら? ここでは12万フランだけど」
 「自転車は日本ではいくら?」
 ぼくはますます彼が好きになった。
 そのうち彼は町の案内を始めた。あそこにはレスリングの絵を描いた壁がある、とか、あの猫を写真に撮らないのか、とか、あげくにチェスをやっているオトナたちまでが彼のカモになりそうだった。
 ぼくは手下も合わせて3人のチビたちをキャンプに連れてきた。
 キャンプに帰ると、おかあさんがビニールのバレーボールを持っていて、表にいる子どもたちと遊ぼうということになった。もちろんぼくも参加した。
 真っ白なボールが高く飛ぶと小さな子どもたちがワーッと集まってきて、ボールを追って道であろうと庭であろうと、チビッコたちが駆け回る。ところがサッカーが盛んな国だから転がったボールを追いかけ始めるとキックするやらタックルするやら、たいへんな騒ぎである。しまいにはピーナッツ売りのおっさんの商品をひっくり返したりして、大いに汗をかかされた。
 そのうちにバレーボールのトスを上げるおもしろさも分かってきたようで、年長の子ども中でひとりリーダー格が現れてぼくのかわりにボールを押さえてゲームに区切りをつけたり、車がきたら道を空けさせたりするようになった。小さな子どもたちがまだキックしたりするのを見てボールが破れるのを心配している。
 初めの大混乱はこうして統制のとれた集団遊びになっていった。もしぼくが初めのように自分でボールを追いかけて、汗を流しながらルールを押しつけようとしていたら、カメルーンの子どもたちの楽しさはまったく違っていたかもしれない。

●チャド湖を見たい
 夕方、おかあさんが「チャド湖へ行きたい」と言い出した。ひとり旅をするという前提で、言葉のこと、旅の姿勢のことなどきちんと話し合った。
 ぼくが言ったのはつぎのようなことだった。
 あれも見たい、これも見たいと目移りしているみたいだけれど、それだったらカイロのときのツアーとあんまり違うんじゃないですか?
 もし見たいところがあるなら、まず自分で行くことを考えてみてください。
 あなたの場合、言葉が十分に通じなくてもなんとなくまわりで助ける人がいたし、あなたがたとえば何時間かけて聞いてみたいことがあっても、団体の中でなんとなく曖昧にすませてしまうことが多かったはずです。
 まずひとりになって、こちらが弱い立場になってみれば、すべて真剣に準備しなくてはならなくなるし、自分がすっきりしたいところではどれだけでも時間をかけることができるじゃないですか。
 フォール・フォローまでならバスがあることは分かったのだし、ひとりで行ってみたらどうですか。
 言葉だって、あなたの場合はフランス語もアラビア語もまったく同じぐらい初めてなんだから、それならカイロであれだけ勉強したアラビア語を使ったらどうですか。このあたりならアラビア語を話せば必ず通じる人がでてくるから。
 夜、おかあさんはひとり離れてキャンプのボーイや遊びに来た子どもたちをつかまえては「6か国語会話」を使ってフォール・フォローまでの情報を集めていた。たった3時間の間にかなりの言葉を正確な発音で話せるようになった。

 夜、全員で今後の旅の仕方を話した。詳しいメモは残っていないが、大きなテーマは3つだった。
(1)この地域に何日ぐらいいたいか。
(2)村へ入りたい人は、まず1〜2人になって歩いてみて、友だちをつくる。これまではかなり身勝手、強引な旅をして来られたけれど、このままでは村入りは成功しない。まず自分が無力になってみて、初めて相手の立場を考えられるようになる。
(3)見るべきものがあるのかしら? という発想はおかしい。見るべきものは自分で見つけ出してほしい。
 編集氏が意見を加えた。「もっと道に迷ったりしなくちゃ、ひとりで。やはりひとりになって自分流に歩いてみたい」
 ヨーコさんからはこんな話が出た。
 「バレーボールのとき、女の子たちに囲まれて、ショック! 女の子たちが私のことを『ほんとうにマドモアゼルか?』っていうの。胸に手を入れて『ないじゃないか!』って。それから女の子たちに囲まれて髪をいじられた。
 それから、この町にはレンタルバイクがあって、1時間150フランで借りられるということもわかったので、編集氏はさっそくそれを試してみた。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.11バメンダ→マムフェ。シモヤン以下バテたのでホテルで3泊し休養。グレートAIMエンタープライズという名のホテルは汚いが家族的。自炊3食。


8月12日(土)第15日

【伊藤幸司の日記】

●分散活動
 09時、おかあさんはキャンプのピエールに送られてフォール・フォロー行きのバスで出発した。言葉の特訓をしたとはいっても、彼女ひとりでどこまでやれるだろうか。行動派なだけに楽天的にチャド入国をしてしまわないだろうか、など、いろんな不安があった。しかし、そんな彼女をひとりで発たせた最大の理由は、やはり彼女の年齢であったろう。若い女の子だったらぼくも絶対にひとりで行かせはしなかったが、中年に入りかけている彼女となれば、女であることの弱さ、強さは十分に知っているだろう。フォール・フォローからの足取りが追えるようになっているのだから、4日目に帰ってこなかったら、すぐに現場へ向かえばいい。
 彼女は結果がどう出ようと、ここで思い切り自分の力をぶつけてみたほうがいいのだ。ひとりになれば誰でも身の安全には十分すぎるほど気を配るのだから。
 朝のうちにみんな出かけたが、昼ごろに何人かが戻ってきた。
 まず、ヨシ子さんとKABATAさん。
 この2人がどうしてコンビを組んだのかは分からないが、ともかくおねえさん・KABATAさん のラインが崩れたようなのだ。
 「どうでした?」
 彼女たちは並木道の向こう、牧場の近くにある貧しい土づくりの小屋を訪れたという。
 「女の人しかいないんで、村の中を歩いているうち、3人と友だちになって、泊めてくれる? と聞いて OKを取っちゃったの」
 「3時に寝袋を持って行きます。お礼には何を持っていったらいいかしら」
 お礼は何でもいいこと、そのほかに自分が食べたいと思う缶詰をいくつか持っていくことを指示した。缶詰は向こうに渡してしまって、出てくれば食べるし、出てこなければ出された食事を無理矢理にでも食べてくるように言った。彼女たちは一日限りの体験宿泊だから、貧乏な人たちに缶詰を買わせるような負担はさせるべきではない。もしこれが数日以上になるのだったら、「一緒に食べましょう」と出す方がいい。栄養確保のためにも。
 デザイナー氏はいつものホイ・ホイと声をかけたくなるような歩き方で帰ってきた。
 「スケッチしに行ったんですけど、なんとなくマルシェまで行ったので、これを買い込んでしまいました」
 中に十数本の弓の入ったヤギ革張りの矢筒と弓。それに作りたての小刀を見せてくれた。
 編集氏は帰るなりに「ああ、眠くなっちゃった」
 「どこへ行ったんですか?」
 学校で、ちゃんと授業を受けてきたんです。寝不足だから、つらい、つらい。算数以外はチンプンカンプンでしょ。7時半からだからどうしても居眠りが出ちゃって。
 ここの学校ではノートは先生が保管していて、授業中は黒い厚紙にチョークで書いて、何度も使っている。ノートには先生が赤で手本を書いて、毎日帰るまでに清書して提出するらしい。生徒ひとりひとりに対してきめ細かな暖かい味がある。
 休み時間に「青い鳥小鳥」を教えたら、全員で合唱できるまでになっちゃった。愉快、愉快。
 そして結論は「今日は早く寝なくちゃ」

●バイク事故
 まだ13時になる前だった。カメラ君が血相を変えて帰ってきた。ミッキー、ベビーちゃんのお転婆娘2人はカメラ君とバイクでサラクの方向に向かったのである。ガルアに戻る街道を20km 行った最初の町である。広々としたサバンナの道をアクセルいっぱいにふかして飛ばしたかったのだろう。
 「ベビーちゃんが転倒して顔をかなり切ってしまいました。通りがかりの車で近くの村で応急手当をして、ここの病院に運んでもらいました。バイクが1台ガス欠だから、ミッキーが残っています。ぼくは現場に戻ります」
 やったぁ。あれほど注意していた交通事故である。しかも巻き添えではなくて、自分の運転で。ぼくはすぐ、近くでバイクを借りて病院へと走った。
 病院には、たった今、クリちゃんが運び込まれたところらしい。現場にいるはずのミッキーが興奮で目をギラつかせて立っている。
 入口にはランプがゆがんでしまったバイクが1台置いてある。────となるとガス欠のバイクは現場に置いたままか。ミッキーがいないとカメラ君が今度は困る。
「ぼくのバイクでカメラ君のところに帰ってください」
 ぼくは彼女を出してしまってから、シマッタと思った。あれだけショックを受けていたら、二重事故にもなりかねない。
 ベビーちゃんは左上くちびるからほおにかけてグシャッと傷になっている。小柄な白人医師がぼくを表に誘い出して言った。
 「マドモアゼルは2針は縫わなければダメだけれどいいですか? 跡は残ります」
 もちろんぼくはOKした。とにかく傷を早く治さなければ、化膿などしたら目も当てられない。医者がわざわざ顔の心配をしてくれるのだから、丁寧にやってくれるだろう。
 結局3針縫って、大きな絆創膏で止めた。歯も1本折れ、両側の2本が欠けてしまった。
 「歯医者が休暇中だから、歯は治せない。糸は3〜4日で抜けるから、あとはヤウンデで神経を抜いて、東京へ帰ってから差し歯になさい」
 昼休みが遅れてしまった彼はぼくらを彼らの家まで連れて行ってくれた。ぼくは彼の家にあるセカンドカー、VWの軽ジープを見つけたので、仲間が事故の処理に行っているのでそれを手伝うため車を貸してくれないかと頼んだ。
 カメラ君は病院にもキャンプマンにも帰っていなかった。途中バイク屋で値段の交渉をしているオットリ君とヨーコさんがいたので、運転要員としてヨーコさんに同乗してもらう。
 ところが事故現場がどこなのか分からない。彼らは裏山の方(北の方)に行くと言っていたらしいし、その方向で会ったというので、とにかく走り回ってみる。
 むなしくキャンプに戻ると、カメラ君たちは帰っていた。方向は正反対だったし、しかもバイクは初めから2台だったから、人手もいらなかったのだ。
 そこでヨーコさんを看護婦として紹介する意味もあって、再び医者のところに戻る。
 ベビーちゃんはシャワーを借りてこざっぱりしていた。傷には薬をつけず、消毒だけで乾燥させるようにと繰り返し言われた。

 ヨーコさんとオットリ君のコンビは、始め南東の方向に行くつもりだったのが、町を出ないうちにパンクしてしまい。結局、南西の方をまわって帰ったという。
 マルアの地理はじつにややこしい。結局、どの道を、と言えなくて、東南だ、西南だと言うのだが、これはこの町の地理を確実につかむまではいたしかたのないことだった。
 町はカリアオ川の両岸に沿っている。しかもすぐ下流で南に平行してきた主流チャナガ川が合流している。
 ガロアの方から来ると、まず上流でチャナガ川を渡り、両河川の間を下流に向かう。このとき、両側に川があるとは気づかない。
 道はカリアオ川を渡ってバス停のある並木道に出る。この道は今度は上流に向かっていて、2kmほどで増水期には水をかぶってしまうコンクリートの徒渉橋を渡るようになっている。キャンプはそこから500mほどのところなのだ。そしてさらに200mほど先には2つの河川の間を通ってくるガロアからの道があるのだ。この地理感をつかむまでは南に行くと西に出てしまうという変なことになってしまうのである。
 婦長さんとリツコさんは北の山の方へ向かって歩いた。途中でバスに追い越されたときにおかあさんがちぎれんばかりに手を振っていたという。
 「村のお医者さんを見たの。白いガウンを着て、馬に乗って、助手がカバンを持っていたの」
 婦長さんはその堂々とした黒人医師に感銘を覚えたらしい。
 「野っぱらを越えて診察に行くのね」とリツコさん。
 この──彼女たちの見た美しい光景──は、残念だが後でそうではないらしいことを知った。恐らく2人はフルベ族の貴族と奴隷(と呼ばれている従僕)なのだろう。
 おねえさまとクリちゃんも珍しいコンビに思えたが、ふたりは山へ登ろうと、紅茶を前日から用意し、食料も持った。しかし、歩くほどに山が遠ざかるような炎天下の道。結局チョウを追いかけたり昼寝したりという登山隊であった。

【おかあさんの報告】
マルア発10時のプジョータクシー(乗合)でフォール・フローへ。15時到着。
ピエールに聞いていたキャンプマンはひどいところで、そこのパトロンがキャンプマン・フォール・フォローというところに連れて行ってくれた。
チャド湖を見たいと言ったら、フォール・ラミー(チャド共和国)に行かなければならないとのことで、リエントリー(再入国)の申請をする。
ところがフォール・フォローからもフォール・ラミーからもチャド湖へは行けないというのでビザ申請は捨てる。船なら3,000フランで行けると言われたがその後音沙汰なし。


8月13日(日)第16日

【伊藤幸司のメモ】
一日ブラブラ
夜半、すごい雨
23:30、おかあさん帰る

【おかあさんの報告】
フォール・ラミーへの渡しの近くで、ホテルで会った男と出会う。フォール・ラミーに行く途中だから一緒に行こうと誘われる。ビザなしでもいいというので、同行する。
08時、車でフォール・ラミーへ。アダマ氏の親戚の家。街の観光。映画も見る。13時にフォール・フォローへ帰る。
マルアに帰るバスは16時なので、アダマ氏の家に行く。食事をいただく。ヤヤ氏がガロアまで帰るというので彼のタクシーに便乗。しかし帰路は雨のため水浸しで、水に浸かるたびにストップ。それに2回のパンク。23時にマロア帰着。


8月14日(月)第17日

【アムカスへの報告文書】
カメルーン最大の市が立つと人が言うのでマルシェへ。
一部はフランス人医師の家族とフランス人クラブへ行き、水泳、卓球。
編集氏バイクで3回転ぶ。
ヨーコさん日射病のため留守番。夜ナイトクラブでダンス。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.14『積みすぎた箱舟』の舞台、エショビ村に入る。4泊。
登場人物のアンドライアは大人風になってしまってあまり面白くなかったが、欲の深そうな村長はじつにそのとおりで、その村長を女性たちは逆に困らせたというから立派。ジーグラー神父に教えられた湖の島に行く。

【伊藤幸司のメモ】
グランド・マルシェ、カメルーン一大きい
夜ミーティング
トゥモロー・オムレツ、レストランにて
夜ナイトクラブへ

【伊藤幸司のメモ】
水泳、卓球、氷入りコーラ、マルシェへ
関さん日射病、
編集氏、朝ベッドから落ち、オートバイで3回転ぶ
市場でロバ2,000フラン、牛2,000フラン


8月15日(火)第18日

【アムカスへの報告文書】
医師ドクター・アルゼール・ギーの車でモコロ、ルムシキ往復
VWの軽ジープにドクター、奥さん、フランシス(息子?)とベビーちゃん、オットリ君、伊藤の6人。
モコロで若い医師も同型の軽ジープで合流。ルムシキのキャンプマンへ。
食事、9時出発、6時帰着。2人の医師はそれからテニスの試合とか。
金属の前飾りの子どもはキルディ族の中のキャプシキ族

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)──8.15マルア発(バス)、8.18ヤウンデにて1泊、SOCACAOに連絡。

【伊藤幸司のメモ】
朝、カメラ君、デザイナー氏、KABATAさん、おねえさま、ヨシ子さん、クリちゃんの6人、ヤウンデに向け出発。17日にドゥアラにて西アフリカから来る野村氏と会って西カメルーンへ行く予定。
ベビーちゃん、オットリ君、伊藤はフランス人医師の車でナイジェリア国境の山岳観光地ロムシキ往復260km。
日射病のヨーコさんは留守番。
婦長さん、ミッキー、リツコさんは山登り……の意気込みで出発。あまりに強い日差しのため川で遊んで帰る。


8月16日(水)第19日

【アムカスへの報告】
全員ブラブラ過ごす。
ベビーちゃん、婦長さんはドクターの奥さんに家畜市場に誘われる。
その足で病院に寄り、ベビーちゃんは糸を抜く。
伊藤、アムカスへの最初の報告書(18日目まで)を送る。

【伊藤幸司のメモ】
SOCACAOに行動連絡
1日ブラブラ
ベビーちゃん、糸を抜く。
あとはヤウンデで折れた歯の神経を抜けばよい。


8月17日(木)第20日

【アムカスへの報告文書】
チャド湖を見たい編集氏、婦長さん、ミッキー、リツコさんと、もう一度フォール・フローへ行きたいおかあさんがプジョータクシー(乗合)で北へ向かう。

【おかあさんの報告】
15〜16時ごろフォール・フォロー着。すぐにキャンプマン・フォール・フォローへ。
おかあさんが8.13に世話になったアダマ氏がマッカリー氏というコミッセリー・ポリスを紹介してくれ、明日迎えに来るという。

【伊藤幸司のメモ】
ベビーちゃん頭痛激しくドクターにマラリアだと脅される。
ベビーちゃん、関、オットリ君残留


8月18日(金)第21日

【アムカスへの報告文書】
チャド湖組(編集氏、婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)はフォール・フローからシャリ川を丸木舟で渡り、チャド共和国のフォール・ラミーへ。チャド湖までのうまい交通がなく、街をぶらついて引き返す。

【おかあさんの報告】
ホテルのレストランで軍の宴会があり。アダマ氏とマッカリー氏も出席するというのでチャド湖行きの計画はダメに。
しかし、昼ごろ、みんなでバス乗り場にいたときチャド湖までの値段を聞くと1人5,000フランとか。話にならない。
おかあさんは借りていた自転車をホテルに返しに行くとまだみんな帰っていないので、チャド湖へ向かったのかと考えて、アダマ氏の家に行って留守を幸いに昼寝をしていると、夕方7〜8人が帰ってきた。彼らは3〜4時間で値切るがダメだったという。全員で夕食。後ダンスへ行き、ホテルの仲間を誰かが呼んできた。

【アムカスへの報告文書】
伊藤、ヤウンデにて各パーティの動向を把握するためひとりで出発。丸3日間バスの中で生活して、8.21朝ヤウンデ着。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.18エショビからマムフェに帰る。

【伊藤幸司のメモ】
朝銀行で換金の後、ヤウンデ行きバスに乗る。11:00マロア発、16:00ガロア着。
乗り換えて車中一泊、ヒゲをあたってもらう。
夜蚊に悩まされる


8月19日(土)第22日

【アムカスへの報告文書】
チャド湖組──今度はカメルーンの最北端でチャド湖を見ようとするが、タクシーが1人20ドルと言われて、終日値段の交渉に終始する。

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)──8.19朝の列車でドゥアラへ。エデアで事故のため下車。車でドゥアラへ。
*ドゥアラでカメラ君が合流。カメラ君は8.17にドゥアラでマリから戻ってくる野村氏と会う約束だったが、バスの遅れで迎えられなかった。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.19クンバに向かうが倒木やバスの故障で途中1泊。

【おかあさんの報告】
シャリ河の丸木舟で国境を越えてフォール・ラミー(チャド共和国)へ。行き1人50フラン、帰り1人200フラン。
フォール・ラミーでもチャド湖行きは不可ということで、街をぶらついて帰る。入国手続は川の手前で行った。

【伊藤幸司のメモ】
06時より出発準備。10時ガロア、15時ンガウンデレ着


8月20日(日)第23日

【アムカスへの報告文書】
チャド湖組──ワザ地区の軍司令官と友だちになり、有名なワザ国立公園まで彼の車に便乗。雨期のためカモシカぐらいしか見られない。ワザからは3人がおかあさんの友人の車でマルアに向かい、編集氏、ミッキーの2人はあてどなく車を待ち、深夜にマルアに帰着。

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)──8.20 13時の列車でクンバへ。モンテカルロ・ホテルに入る。
最初1部屋4ドル×2人=8ドルだったが、従業員の部屋に通されたら広かったので1ドル×6人=6ドル(ただしホテルで食事をするという条件)となった。
このホテルはクンバの社交場となっていて、バーや娯楽室があり、アメリカ人(平和部隊)やインド人が出入りしていた。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.20クンバにつくとすぐ電報を月曜に打ってもらうよう人に頼んで、やはり『積みすぎた箱舟』の舞台であるバロンド・コトという湖に向かう。そこでも登場人物たちに会う。ママちゃんの本にはサインがいっぱい。

【おかあさんの報告】
朝、キャンプマンで編集氏の隣に泊まっていたワザのチーフがワザに行くというので全員乗せてもらう。ワザでタクシー待ち。食事を済ませたところで車を止めるとアダマ氏の友人の車だった。おかあさん、婦長さん、リツコさんが便乗、編集氏、ミッキーは別の車を見つめてフォール・フローへ帰った。

【伊藤幸司のメモ】
06:50ンガウンデレ発、深夜25:15ヤウンデ着


8月21日(月)第24日

【アムカスへの報告文書】
ヤウンデのSOCACAOにてメンバーからの連絡をチェック。
西カメルーン組──西カメルーンに向かった4人(アニメ氏、シモヤン、ママちゃん、ボンヤリさん)からの電報を見る。8.11にマムフェ発信のもので、8.17にクンバ着の予定。
マルア先発組──8.15にマルアを出た6人(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)は8.18にヤウンデに1泊し、8.19にドゥアラ経由クンバに向かった。
昼、歯の治療のためマルアより飛行機で飛んできたベビーちゃんを迎え、午後国立病院にて神経を抜き、セメントを詰める。あとは傷が完治するのを待って、帰国後の処置。
おかあさんは今日、婦長さん、ミッキー、リツコさんは明日ヤウンデに向けマルアを発つ予定だと知る。

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組──8.21女性4人(おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)はバメンダに向かい、1泊して帰る。その間、男性2人(デザイナー氏、カメラ君)は8.21〜22とクンバで留守番。6人部屋に2人となったら2ドル×2人=4ドル。
じつは8.20に列車の中で出会った見習い教師に会いにミッションスクールへ行ったところ、そこのシスターがバメンダがいいというのですぐに計画を立てた。行きは乗合タクシーで直行。バフーサンの港も見た。クンバへの帰りはローカル・タクシーを4回乗換。

【アムカスへの報告文書】
マルア後発組(婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)──8.21おかあさんがワザから車に乗せてもらった彼女の友人の車にそのまま便乗。フルベ族の上流階級の家々に泊まりながらの豪華な旅が始まる。

【おかあさんの報告】
昨日出会ったアダマ氏の友人・ムハメッド・ブバワの車でガウンデレに向かうがガロアの手前、ギデルで1泊。郡長の友人なので、翌朝の朝食は郡長の家で。ブバワ氏は仕事を終えると態度がていねいになった。カメルーンに住まないかとすすめられた。

【伊藤幸司のメモ】
午前中SOCACAOへ。昼八幡氏と空港にてベビーちゃんを出迎える。豪華なベトナム料理。ホテル・ANROREへ。15時病院へ。2時間で歯は終了。ホテルですべて洗濯。


8月22日(火)第25日

【アムカスへの報告文書】
西カメルーンの4人より「25日にドゥアラに集合できないが心配なく」と、ただそれだけの電報が入る。発信は8.21クンバ。
その直後、同じ8.22クンバ発のデザイナー氏、カメラ君の電報「モンテカルロホテルに滞在中」を受け取る。

【アムカスへの報告文書】
マルア後発組──8.22女性3人(婦長さん、ミッキー、リツコさん)バスでマルア出発。

【おかあさんの報告】
昼ごろからガロアの手前で川止め。15時頃まで待つことになり、レストランへ。いろいろな種族が川止めで集まった。8.22にマロアを発った3人と会う。川を渡って車はまたエンジンストップ。夕方ガロア着。
ブバワ氏の家が小さいのでキャンプマンを1,500フランで決めて3人を迎えたが、3人は値段が高いといって別のホテルへ。夕食はブバワ氏の家でごちそうになる。

【伊藤幸司のメモ】
朝から旅のまとめ。11時に八幡氏、八木氏来られ、アニメ氏の電話伝えられる。14:20八幡さん、カメラ君の電報。
終日机に向かう。
ベビーちゃん換金と食料買い出し。
夕食はオーロールで藤田夫妻が来られ、モンフェベ・マルセイユで話す23:00まで。


8月23日(水)第26日

【アムカスへの報告文書】
何もなし

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組──8.23クンバ郊外の湖で女性3人(おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん)が泳ぐ。だれもいなかったので。それから石けん11個でカヌーに乗った。

【おかあさんの報告】
マロアからガウンデレまでブバワ氏に同行(彼はガウンデレに転勤するところだった)。ホテルが高かったので、彼の友人の家、役人の宿舎で泊まる。

【伊藤幸司のメモ】
朝から旅のまとめ。
15時2人でSOCACAOへ。工場の方にカカオの木から製品まで見る。18まで話し込んで藤田氏夫妻に送られる。グランド・ホテルで話す。19時から21時までの長い夕食。ベビーちゃん心理学などの話。


8月24日(木)第27日

【アムカスへの報告文書】
何もなし

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)──8.24カメルーン山の麓、海岸の町ビクトリアへ行き、アトランチック・ビーチホテルに泊まる。海水プールで泳ぐ。

【アムカスへの報告文書】
マルア後発組(婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)
8.24朝、ガウンデレでおかあさんが3人と合流。バスでヤウンデに向かう。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)
8.24ブエアにて1泊。

【おかあさんの報告】
ガウンデレで3人と一緒になってバスに乗る。

【伊藤幸司のメモ】
SOCACAO に行動連絡。15時地図を買ってSOCACAOへ。連絡なし。メモを残す。17時ホテル。


8月25日(金)第28日

【アムカスへの報告文書】
06時、北からのバス溜まりで8.21、8.22にマルアを出た女性の消息を聞くが、未到着。
ベビーちゃんは25日夜のC班集合に間に合うよう、08時の列車でドゥアラに向かう。
事故発生に備えて国内線飛行機のスケジュールを調べる。

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)
8.25ドゥアラ帰着。

【アムカスへの報告文書】
マルア後発組(婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)
8.25本来なら深夜の1〜2時にヤウンデ到着の予定が、車の故障などで遅れて、08時10分前にヤウンデの手前で再び故障。そこからタクシーを飛ばして08時05分発のドゥアラ行き列車に飛び乗った。車内でベビーちゃんと合流。伊藤に知らせる余裕なく列車は出発した。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)
8.25ドゥアラ着。そのままキンシャサに向かう。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ママちゃん、ボンヤリさん)
8.25の集合を待たずに16:55発の飛行機でキンシャサ(ザイール)に飛んでいた。
「ママちゃん、ボンヤリさん、シモヤン、アニメ氏、の4名、25日2:00pm、ホテル・ドゥ・ウーリ着。会えないので金曜(25日)の16:55の飛行機でキンシャサに向かいます。日本の大使館に連絡をとっておくつもりですが、何分、土地不案内な為、御迷惑のかけっぱなしと思いますが、フショウの息子たちをもったと思ってがまんしてください。できるかぎりキンシャサで会いましょう。シモヤン&アニメ氏」

【おかあさんの報告】
08時の10分前にヤウンデの少し前でバスがエンスト。08時に列車が出るのでタクシーに乗り替えて駅へ。列車に飛び乗った。伊藤リーダーがヤウンデで待っていると聞いて下りようとしたら発車してしまった。
(この報告はザイール河の船旅の中で聞いたのだが)
旅を振り返ってみるとフォール・フォローが一番よかった。
ひとりで行ったとき、こういうところで生活できたらいいなと思った。人が多くない、のどか、会った人たちがよかった。
生活テンポが求めていたものにピッタリ。どうしたらもう一度来ることができるか、そればかり考えている。いまもやはり行きたい。
ほんとによかったのか、もう一度確かめたくて、夜中考えて、朝、みんなと一緒に行くことにしたのだけれど、やはりイメージは壊されなかった。
友だちになったアダマは警察のオフィサーで、新聞記者の友人もいる。私に接した人たちは上流階級の人たちだった。
辞書をひきながらの会話だったけれどフルベ族の彼らが友だちになってくれたのは、やはり私の肌が白かったから。でもただ珍しさだけではなかったと思う。帰ってから手紙で確かめたい。他の人は子どもに見られたかもしれない。私たちのように積極的に行動する女性は彼らの世界にはいないのだろうか。

【伊藤幸司のメモ】
夜C班集合。ホテル・ドゥ・ウーリ。
06時にバス停でチェック。22日に2人がマルアを出たという。21日には2人か。
到着はまだなのでベビーちゃん08時の列車でドゥアラへ向かう。


8月26日(土)第29日

【アムカスへの報告文書】
06時、バス停にて編集氏と会う。彼は8.23にマルアを出発し、女性4人(婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)がガルアを発ったところまでは確認していた。しかも途中で交通事故が起こっていないことは運転手たちが保証してくれた。
私は編集氏と2人で列車に乗り、ドゥアラに向かう。
夜7時、ドゥアラのホテル・ドゥ・ウーリには10人がいた。

◎マルア先発組──マルアから西カメルーンに入った6人(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)の行動は以下のとおり。
8.15 マルア発(バス)、8.18ヤウンデにて1泊、SOCACAOに連絡。
8.19 朝の列車でドゥアラへ。エデアで事故のため下車。車でドゥアラへ。
*ドゥアラでカメラ君が合流。カメラ君は8.17にドゥアラでマリから戻ってくる野村氏と会う約束だったが、バスの遅れで迎えられなかった。
8.20 13時の列車でクンバへ。モンテカルロ・ホテルに入る。
最初1部屋4ドル×2人=8ドルだったが、従業員の部屋に通されたら広かったので1ドル×6人=6ドル(ただしホテルで食事をするという条件)となった。
このホテルはクンバの社交場となっていて、バーや娯楽室があり、アメリカ人(平和部隊)やインド人が出入りしていた。
8.21 女性4人(おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)はバメンダに向かい、1泊して帰る。その間、男性2人(デザイナー氏、カメラ君)は8.21〜22とクンバで留守番。6人部屋に2人となったら2ドル×2人=4ドル。
じつは8.20に列車の中で出会った見習い教師に会いにミッションスクールへ行ったところ、そこのシスターがバメンダがいいというのですぐに計画を立てた。行きは乗合タクシーで直行。バフーサンの港も見た。クンバへの帰りはローカル・タクシーを4回乗換。
8.23 クンバ郊外の湖で女性3人(おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん)が泳ぐ。だれもいなかったので。それから石けん11個でカヌーに乗った。
8.24 カメルーン山の麓、海岸の町ビクトリアへ行き、アトランチック・ビーチホテルに泊まる。海水プールで泳ぐ。
8.25 ドゥアラ帰着。

◎マルア後発組──チャド湖を見に行ったグループの女性4人(婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)の行動。
8.21 おかあさんがワザから車に乗せてもらった彼女の友人の車にそのまま便乗。フルベ族の上流階級の家々に泊まりながらの豪華な旅が始まる。
8.22 女性3人(婦長さん、ミッキー、リツコさん)バスでマルア出発。
8.24 朝、ノガウンデレでおかあさんが3人と合流。バスでヤウンデに向かう。
8.25 本来なら深夜の1〜2時にヤウンデ到着の予定が、車の故障などで遅れて、8時10分前にヤウンデの手前で再び故障。そこからタクシーを飛ばして8時05分発のドゥアラ行き列車に飛び乗った。車内でベビーちゃんと合流。伊藤に知らせる余裕なく列車は出発した。

◎ベビーちゃん──マルアでもヤウンデでもほとんど動けなかったので、この日1泊の予定でヴィクトリアへ向かった。
◎西カメルーンを歩いた問題の4人(アニメ氏、シモヤン、ママちゃん、ボンヤリさん)は8.25の集合を待たずに16:55発の飛行機でキンシャサ(ザイール)に飛んでいた。
「ママちゃん、ボンヤリさん、シモヤン、アニメ氏、の4名、25日2:00pm、ホテル・ドゥ・ウーリ着。会えないので金曜(25日)の16:55の飛行機でキンシャサに向かいます。日本の大使館に連絡をとっておくつもりですが、何分、土地不案内な為、御迷惑のかけっぱなしと思いますが、フショウの息子たちをもったと思ってがまんしてください。できるかぎりキンシャサで会いましょう。シモヤン&アニメ氏」
◎カメルーンから直帰するA班────A班のオットリ君、ヨーコさんの2人は費用の節約のためもあってずっとマルアに滞在しており、8.29のA・B班集合に間に合うよう、25日頃、マルアを発ったはずである。
◎そして編集氏とぼく。
全員の消息が明らかになってきた。

【アムカスへの報告文書】
ベビーちゃん──マルアでもヤウンデでもほとんど動けなかったので、この日1泊の予定でヴィクトリアへ向かった。

【伊藤幸司のメモ】
06時バス停で編集氏と会う。08時の列車で2人ドゥアラへ。
西カメルーンの4人が25日にキンシャサへ向かい、オットリ君、ヨーコさん以外の全員が集合。


8月27日(日)第30日

【アムカスへの報告文書】
日曜のために何もできず、各人おみやげ探しに熱をあげる。
B班のカメラ君、編集氏は9.1までに陸路ナイジェリアに入国して、ビアフラを通ってラゴスに向かうことになる。出発は8.28 13時の列車と決め、A・B班の集合日は解消して、デザイナー氏が8.29までA班の2人を待つことになる。A班は9.2の飛行機でラゴスに向かう予定。
夜、婦長さんの誕生祝いと、A・B・C班のお別れパーティ。ホテルの玄関に車座をつくり、ワインを酌み交わしながら24時まで歌い続けた。

【伊藤幸司のメモ】
夜婦長さんのバースデー。A・B班とのお別れ会。
24時までホテルの前で歌う。酔っぱらいの軍人とトラブル。


8月28日(月)第31日

【アムカスへの報告文書】
午前中にドゥアラ〜キンシャサへの飛行機チケット購入。昼、B班の出発。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
カメルーン
13時 列車でドゥアラ発
16:30 クンバ着。

【伊藤幸司のメモ】
チケット購入。吉田氏にあいさつ。博物館。SOCACAOに電報。
夜、婦長さんの金が盗まれた事件の捜査。


8月29日(火)第32日

【伊藤幸司の日記】

●キンシャサの初日
 早朝、ドゥアラ空港へ。08:30キンシャサ着。UTAはさすがフランスの会社だけあって、エジプト空港とはムードが違う。
 空港から街までタクシーは4ザイール(本当の値段は2ザイール)。
 全員でまず銀行に入る。その間、ホテルと地図を探す。Hotel du Pool が市の中心らしく、しかも安そうなので、ともかく一部屋に全員のザックを入れる。
 昼食と大使館探しが必要なのだが、食堂がまったく見当たらない。
 まず12番のバスに乗ってみる。6月30日通りをまっすぐ進む。ノークラッチの画期的な車のようだが、何しろ古くなっているので、シフトするたびに猛烈なショックがある。
 鉄道線路の終点で降り、バナナやピーナッツを食べる。午前中だけという国立公園事務所をのぞいて、タクシーでレオポルド二世像で落ち会うことにする。小粋で慌て者の運転手のおかげでスタンレー山から市の全景を見られた。
 今は取り外されてしまったレオポルド二世像から、レオポルド二世通りに沿って、ルワンダ大使館をさがしたが、誰もいなかった。
 さらにウガンダ大使館へ。いくつかに分かれて日本大使館、タンザニア大使館などへ。ぼくは港へ。
 港では「マダム」と呼べば分かる発券担当の白人女性と会った。
 キサンガニ行きの船は9.28(昨日)発ったこと。それに8人の旅行者が乗り、うち4人は男女2人ずつの日本人だったと。
 9.30(明日)ポールフランキ行きの船が出て、5日間で着く。そこからカレミエまでは鉄道で5日。
 その後の船はキサンガニ行きが9.11、ポール・フランキ行きが9.6。
 大使館でアニメ氏たちの手紙を受け取る。
 8.28の08:30〜09:00に書かれたもので、9.11までキサンガニ行きの船がないので、8.30のポート・フランキ行きの船に乗る予定とのことであった。これからビザを取りに行くとのことであるが、恐らくビザをとり、チケットを買いに港へ行って、キサンガニ行きの船が出るのを知り、あわてて乗ったのであろう。
 彼らは25日集合の約束を破っているだけに、頼みの船に逃げられた我々は無念。
 夜、伊藤萬(イトマン)の岡さんのアパートで女性軍が料理をし、夜食会。

【アムカスへの報告文書】
ぼくらC班はドゥアラからキンシャサへ飛ぶ。銀行で換金を終えると昼。それから大使館まわりをしたがすべて閉まっていた。
例の4人の手紙を日本大使館で受け取る。8.28の朝には8.30発のポール・フランキ行きの船に乗る予定と書いているが、じつはその日にザイール河本流を遡るキサンガニ行きの船が出ており、港の出札部門の白人マダムの話から、彼らがその船に乗ったことを確かめた。
「一日、一日がとても充実しています。食べものはうまいし、人間はいいし、我々の行く手がすべて開かれているような気がする。じゃ又ね! ママちゃん」
「体力と図々しさで頑張っています。ボンヤリさん」

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
カメルーン
10時 タクシーでクンバ発
16時 バメンダ着。

【伊藤幸司のメモ】
A・B班集合
06:30ドゥアラ発。08:30キンシャサ着。ホテル探し。大使館探し。
夜、イトマンの岡誠氏、幡武氏のアパートで夕食。

【伊藤幸司のメモ】
キンシャサ→キサンガニ 1,734km
キンシャサ発8.28、9.11
1等49.79(2人部屋、食事つき)、2等10.60(6人部屋、食事なし)、3等?


8月30日(水)第33日

【アムカスへの報告文書】
14時までに陸路組はルワンダ、ウガンダ、ケニア、空路組の婦長さん、ミッキー、リツコさんはウガンダ、ケニア、タンザニアのビザをとる。
空路組は9.2の飛行機でウガンダ入りし、ケニア経由でタンザニアのモシに滞在。できればキリマンジャロに登る。
あとの7人は8.31の飛行機でンバンダカに飛べば8.28にキンシャサを出た船をつかまえられることがわかり、18時、滑り込みセーフで飛行機のチケットを買う。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
カメルーン
08時 バメンダ発
14:30 マムフェ着。

【伊藤幸司のメモ】
7人はウガンダ、ルワンダ、ケニアのビザ取得。
3人はウガンダ、ケニア、タンザニアのビザ取得。
夕方、7人は明日ムバンダカに飛ぶことを決定。

【伊藤幸司のメモ】
朝、全員でウガンダ大使館。別れて3人はタンザニア、ケニア、7人はルワンダ、ケニア。
午後4時、エア・ザイールにて国内線の時刻表を調べる。すぐに港に行き、28日発のキサンガニ行きの船をムバンダカでつかまえられるか聞くと、31日の飛行機でなら可能と知る。即時7人を集めてチケットを買う。6時の終業時間ギリギリでセーフ。
3人は土曜日の便でエンテベ(ウガンダ)に飛ぶことになった。


8月31日(木)第34日

【伊藤幸司の日記】

●ジャングルを飛んでいる?
 08:30の飛行機に乗るために06時起き。すぐに車がつかまったので07時に空港に着く。空港の国内線カウンターは大混雑で、アナウンスもなければ表示もない。ただ人々がカウンターに群れをなして各々チケットを振りかざしている。ルムンバシ行きの人々が多いようだが、言葉が分からぬうえに、国内線ではザイール方式に従わなければならないので、不安は大いに高まる。
 「私たちは日本からの7人のグループですが、どこに並べばいいのですか?」
 例によって裏から尋ねてみる。しかし期待したあたたかい反応は得られず、言われたカウンターの前で辛抱強く待つ。
 そろそろムバンダカ方向のチケットの人々が目につくようになってきたのでいっそう緊張する。ここで乗り遅れるようなことになったら、せっかくの大奮闘も水の泡だ。
 今度は人の善さそうな係員を探して、こちらに来るたびに「ムバンダカ・7人!」と繰り返す。
 やっとチェックイン。名簿を覗いたら30人くらいしかいず、しかも我々の名がそれにあったのでひと安心。
 すぐにザックを計量するが、7個のザックだけで140kgをわずかに割るところ。ほぼ20kg平均だ。もし機内持ち込みのバッグまで計られたら、超過料金で泣きの目を見なければならない。国内線ではどちらに振れるかわからない。
 その上、タグがムバンダカではなく、あり合わせの別の行き先のものをボールペンで訂正しているだけだから頼りない。本当に目的地に着くのだろうか。
 600円もの空港税を払っていよいよ飛行機に向かうときには、すべてを運に任せる気持ちだった。国内線の経験はこれが初めてで、しかも国際線のような一定の共通システムがないので大いに緊張させられた。
 時刻表では機種がフレンドシップとなっていたのに、目の前にあったのはDC4であった。先を争って窓際を占める。オンボロバスの風情だが、B707のエコノミー席と較べたら足のあたりには余裕がある。
 オンボロ飛行機にはかなり時間をかけてエンジン回数を上げてから、ようやく滑走に入った。すると意外に短い滑走で離陸したのでひと安心。
 窓にしがみついて下を見るのだが、雲が厚い。しばらくして雲は銀色に輝き始めた。コンゴ河はどこだ、ジャングルはどこだとただひたすら目をこらすうちに雲は切れ始める。しかし今度は上空の薄い雲が太陽を遮って影のないのっぺりとした景観だ。草原性サバンナの緑の中に黒いしみのような模様がしみこんでいる。岩石地帯だろうか。火入れの跡にしてはあまりにも数が多いし、人里からも離れている。
 ジャングルはないか。川筋から低地に沿ったようなかたちで樹幹の重なりが見える。それはいつか写真で見たコンゴの密林の航空写真とそっくりだ。────が、しかしそれはあまりに部分的で川辺の林といった感じに過ぎない。
 森林とサバンナの境界がじつにみごとに引かれているのには驚いたが、とにかく草原と森林と黒い大地のせせこましいモザイクがただ性急に繰り返されるだけである。
 コンゴ河はないのか。いつまで経っても細い蛇行しか見えないので、地図を広げてみた。そこでぼくは大失敗に気づいた。この飛行ルートからすれば、河は左手にあるはずだし、それに対岸はコンゴ・ブラザビルだから、向こう側を飛ぶはずはない。ぼくは左側に席をとらなければならなかったのだ。
 コンゴ河も大密林も見られず、しかも写真一枚撮れる光線状態にもならずに、約800kmを2時間で飛んでムバンダカ上空に来た。
 高度を下げながらコンゴ本流を飛び越えて旋回する。何本もの支流がめちゃくちゃに蛇行し、ささやかな森とありふれたサバンナだけがずっと続いている。その中で本流だけはさすがに大河の風格をそなえている。これから何日かこの河を遡るのだ。
 船は午後に着くと聞いていたから、できるだけ早く港へ向かいたかった。ところがここでも身分証明(ぼくたちはパスポート)と検疫がだらだらと続く。種痘の道具が机の上に放り出してあるから、その検査なのだろう。気ぜわしく荷物の到着を確かめるが、まだ誰も受け取っていない。
 いよいよ手続が終わって待合室に飛んでいくと、荷物は飛行機の下にあって誰も気に留めていないようだ。目を凝らすととにかくザックらしいものが7つそこにあった。冷たいコーラを飲みながらあきらめて待つ。

●港のあたりで
 1時間もして、ようやく荷物が来る。幸いぼくらの分は裏口からさっとタクシーに積めたので、逃げるように港へ向かう。町の周囲の住宅街は垣根囲いのなかにわら屋根の家があり、庭にはニワトリが餌をあさっている。のんびりした好ましいムードだ。
 中心街からすぐに河岸の港に出る。オフィスに飛び込むと船は明日だという。すでに港の人からもそう聞いていたのでだめ押しの確認だ。とにかく2等のチケットを切ってもらう。
 銀行が閉まっていてお金がギリギリなので、1km以上離れたホテル・ボロジャワに決める。鍵もまともにかからぬようなボロホテルだが、1人700円というのは物価高のザイールでは格安といえよう。トイレは悪臭に充ち、洗面台は配水管が切れているが、それくらいはガマンしよう。
 土地の連中がみんなシノワ(中国人)のところへ行けというので、さり気なくそのあたりに出かけてみる。あわよくば夕食にありつけるかもしれない。
 すると背が低く、それにもまして足が短く、それでいてガッチリした体格の人に出会った。まったく日本人と区別がつかない。
 4人の人が台湾からの技術援助でここに農園を開いているのだそうだ。日本語を話せるというあとの3人が不在で、ぼくらはビールをいただきながら、フランス語と英語と漢字でしばらく話しをする。さっと切り上げるのが礼儀である。
 さて、夕食に困った。レストランの少ないザイールの例にもれず、ここでもアフリカ人食堂はもちろん、高級レストランもまず見当たらない。食料品店を覗いてみるが、安くて腹に溜まりそうなものはない。結局港の近くで露店のおばさんからパンと煮魚を買ってわびしく食べるのだろうか。
 レストラン・ポール・ノール(北極レストラン)の張り紙の「午後5時30分より」という文字に賭けて、とにかく待ってみることにする。「顧客の要望により」という記述が気になったが、誰に聞いてもそこ以外に食事のできそうなところはない。
 待つ間に、ぼくはライターの石を探してインド人の店を飛び回ったのだ、そこでヤミドルのルートを見つけた。
 この町には赤い柱や緑の壁の商店が多く、ちょっと中国風でもあって、いままでの町とはいささか趣が違っていた。これがほとんどインド人の店なのだ。
 どの店でもインド人は英語を話す。すっかり東アフリカに来たような気になってしまう。その一軒で青い目のインド人がぼくにささやいた。
 「近くロンドンに行くのだけれど、ドルはありませんか。1ドル75マクタで買いましょう」
 ザイールの通貨管理が厳しいので20〜30ドルしかないけれど考えてみようと言って引き返した。
 調べてみると130ドルを隠し金として持ち込んでいた。現地通貨は1人1,000円ぐらいしか持っていないので、ここでヤミを使ってもいいと判断して引き返す。
 「100ドル紙幣と10ドル紙幣があるけれど、100ドル紙幣なら1ドル80マクタにならないか?」
 彼はそれに乗らない。「10ドル紙幣でけっこう」と言って、10ドル札10枚を受け取った。前に、大きい札を望んだ中国人がいたので言ってみたのだ。しかしもともと100ドル紙幣はいまのぼくには大きすぎるので、改めてそれを渡す。メンバー6人に10ドル分(公定の15ドル分)ずつ分けて当座の費用は確保できた。

 北極レストランの食事は高かったけれど満足だった。900円のディナーは、まずスープがたっぷりと来た。肉は外見に似ずやわらかで、これも十分に量があってパンとバターのお代わりまで来た。女性たちはエア・ザイールの座席にあった例の紙袋を出してパンを入れる。肉サンドもいくつか出来たようである。

【アムカスへの報告文書】
早朝、ムバンダカに飛ぶ。おかあさん、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん、ベビーちゃん、そして伊藤。ザイール河はさすがに雄大。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ザイール
エア・ザイールでキンシャサ〜エンテベ(ウガンダ)のチケット購入。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
カメルーン
マムフェ→エコク(国境の町)

【伊藤幸司のメモ】
06時起きで空港へ。09時発、11時ムバンダカ着。ホテル・ボロジャワに泊まる。
夕方台湾農場へ。夕食は北極レストラン。


9月1日(金)第35日

【伊藤幸司の日記】

●2等船客の現実
 朝、海岸の趣のあるヤシの並木道を港まで行進。14〜15歳にしかみられない女の子たち(じつは10歳以上サバを読まれているわけだが)が大きなザックを背負って歩くのはかなりの見ものだったに違いない。
 港でひたすら船を待つ。おかあさんはじっとしているのが苦痛らしく、ヨシ子さんの釣り糸を持って子どもたちと魚とりに熱中する。体長3cmほどの獲物とオタマジャクシを2匹ずつ。
 18時入港と分かったので、知り合いになったベルギー人マダムを頼って教会に行く。一部屋を空けてくれたので、各自手紙を書く。北極レストランへ出かけたお金持ちもいたけれど、たいていは昨夜のサンドイッチで飢えをしのぐ。とにかくアフリカに来てから毎日1食半が平均した食事量になっている。質となったら1食分にも満たないだろう。

 夕方、18時ちょっと前、ちょうど落日の中に期待をこめた船は来た。思いのほか大きい、というより、長い。車を積んだ先端の甲板は黒人でいっぱい。次の2階建ての客船は1等だろうか。
 ぼくたちは物陰に隠れて船が接岸するのを見る。客船の3階にのっぽとちびの女の子がいる。ノンビリさんとママちゃんだ。向こうはこちらの姿にまったく気づかない。目が悪いせいもあるかもしれないが、ぼくらが居ようとは思ってもいないからだろう。2人の男性の姿はない。
 接岸と同時に、ぼくらは彼女たちの前に出現する。2等だという薄汚れた客室からアニメ氏とシモヤンが来た。油とアンモニアの臭いにのってやってきたという感じ。真っ黒な顔をしている。
 「集合日の約束を破ったでしょう。それで叱りに来たんだ!」
 シモヤンは逃げ腰で頭をかいた。
 まず2等船室に入ってみるが船員らしい男を捜しても見当たらないし、このままでは部屋割りもないままうやむやになりそうなのでアニメ氏に相談する。
 「ぼくも2等の船員が誰なのか分からないんです。空いているところへどんどん入ってしまえばいいらしい。とにかく1部屋あるから荷物を入れて!」
 彼らも彼女らもじつは2等の同じ部屋の住人であった。6人部屋と聞いていたのに4人部屋。そこに新たに7個のザックを入れる。彼らは留守番以外は甲板や1等で寝ているというから何とかなるだろう。
 「気持ちだけは1等なの」
 ママちゃんはこざっぱりした服装でそういう。どう見ても1等船客だ。
 1等は食事付き98ドル、2等は食事がなくて21ドルといのがキンシャサ〜キサンガニの料金で、さらに3等もあると聞いていた。2等船客は1等の食事も食べられるというので、1日1食ぐらいは高いのをがまんして食べるつもりでいた。
 「とんでもない、ぼくらもそう聞いていたけれど、1等も食事はつかないんです。売店でパンや魚の唐揚げなんかを売るからそれを食べているんです」
 ぼくはコンデンスミルクとパンをすこし買い込んではいたけれど、船をまわってみるとろくなものがないので、あわてて600円もパンを仕入れた。大小のフランスパンが20本ほどになった。
 洗面所の水はタラタラしか出ないし、おまけに油が浮いている。
 「夕方ビールやジュースを売り出すので、それを飲んでいる」とアニメ氏はいう。
 おかあさんが気を利かせてポリタンに水を汲んでくる。舌にまきつくような、ちょっと癖のあるムバンダカの水だが、ここでは頼りになる。
 部屋の直前にあるラウドスピーカーから雑音だらけのコンゴミュージックががなり始めた。ボリュームいっぱいである。
 「これが朝から夜中の1時ごろまでガンガン鳴るんだからたまらない」という。
 とにかく4人部屋に女性6人が寝て、ぼくは1等の甲板の寝心地を確かめる。怪しげな水でジメジメしたトイレの前の青いシュラフはシモヤンのものだそうだ。
 「どうも1等で寝るのは気がひけるから……」
 アンモニア臭のなかで寝るなどぼくには絶対にできない芸当だと舌を巻く。
 シモヤンに連れられてキャプテンに会う。腹の突き出たいかにも人の好いおじさんで、1等の2階の一番手前の部屋である。
 「私はセカンド・キャプテンだから、ファースト・キャプテンに聞いてみて、ここのデッキを自由に使っていい」
 彼はやさしいフランス語とこっけいな身振りで好意的に言ってくれた。
 「もうひとりの船長は渋い顔をした人だから、この話はこのままにしておいた方がいい」
 シモヤンの言葉にぼくも賛成。事実、1等デッキにはシュラフが干してあるくらいだから、なし崩し的に潜り込んだ方がいいだろう。

【アムカスへの報告文書】
夕方6時、思ったより巨大な船が入港。例の4人の顔が見えるが、向こうはこちらに気づかない。
彼ら4人の部屋に全員の荷物を入れる。チケットの検査も部屋割りも全くない。彼らにならって一等の甲板も自由に使うことにする。

◎西カメルーンを歩いた4人の足跡
8.8 早朝ヤウンデを発ち、バメンダ泊。
8.9-10 バメンダ近郊の村バリで2泊。
8.11 バメンダ→マムフェ。シモヤン以下バテたのでホテルで3泊し休養。グレートAIMエンタープライズという名のホテルは汚いが家族的。自炊3食。
8.14 『積みすぎた箱舟』の舞台、エショビ村に入る。4泊。
登場人物のアンドライアは大人風になってしまってあまり面白くなかったが、欲の深そうな村長はじつにそのとおりで、その村長を女性たちは逆に困らせたというから立派。ジーグラー神父に教えられた湖の島に行く。
8.18 エショビからマムフェに帰る。
8.19 クンバに向かうが倒木やバスの故障で途中1泊。
8.20 クンバにつくとすぐ電報を月曜に打ってもらうよう人に頼んで、やはり『積みすぎた箱舟』の舞台であるバロンド・コトという湖に向かう。そこでも登場人物たちに会う。ママちゃんの本にはサインがいっぱい。
8.24 ブエアにて1泊。
8.25 ドゥアラ着。そのままキンシャサに向かう。
彼らは行動範囲が狭いことと、かなり居候的な生活・自炊生活が送れたことで、キンシャサ到着時点までに使った費用は飛行機運賃120ドルを含めて250ドル前後。北部まで往復4,000〜5,000kmのバス旅行をした人たちより確実に100ドルは安く上げた。

朝港へ。しばらくして入港は18時とわかり、教会に部屋を借りる。
1730ごろKILI号入港。2等はものすごい混乱で部屋がどうなっているのか。アニメ氏たちの部屋に荷物を入れる。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ザイール
16時ホテルを出て、イトマンの岡さんの家に行く。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア入国。
08:20 イコム→エヌグ


9月2日(土)第36日

【伊藤幸司の日記】

●活気ムンムンの2等客船
 船はムバンダカで接続し直した。2等船のボンバンディ号の左舷に小型の客船ロケレ号をつけ、それを機関つきの1等船キリ号が押していくのである。
 1等はエンジンの響きでいかにも船旅のムードがある。川風は埃も塩分もなく爽快。人声もほとんど聞こえず静かである。
 2等船に渡ると、とたんに喧噪と臭いが襲ってくる。2階のサロンのラウドスピーカーがその中心だ。狭い通路はどこでも人であふれているから、行き交う人々を見ているだけで飽きない。
 ザイール人の女性たちはサロン姿が一般的だ。頭じゅうに小さな三つ編みをつくって、それを黒い紐で巻き上げ、ニョキニョキと枯れ枝のように伸ばしている。それにもいろんなスタイルがあるらしく、20cmほども伸びたのを頭の上でひとつにまとめているもの、平行な櫛目を何本も入れたトウモロコシ畑型など。若い娘たちはまだ髪が伸びていないので、それなりに娘らしい髪になっている。縄のれんをだらしなく垂らしたようなものもある。
 いずれにしても都会で見かけるようなアフロスタイルはひとりもいない。髪型でその人の社会的な地位とか、部族が分かるのかもしれないと思う。
 男たちは、その服装を見ていると飽きることがない。一応ズボンにシャツという世界的なスタイルなのだが、あり合わせの工夫がすべて成功しているように思う。なにしろ足が長くてヒップがプリッと上がっているのだから、それだけで体型自体が華麗なのだ。
 さすがにパンタロン(フランス語ではスボンのことだが、例のラッパ型のもの)が多い。それも端布で裾を広げたモノやら、膝で別布を継ぎ足したものなど、日本のデザイナーをうならせる着こなしである。
 キルティングの女性用ナイトガウンを着た奴がいた。色あせ、裾はボロボロになっているが、それさえもサマになっている。
 破れズボンの上からショートパンツをはくのも流行と見える。帽子もベレー、カンカン帽、船員帽までさまざまだ。破れセーターまでがファッションの中で光っているのだから幸せな連中だ。飛行機族がダブダブのフラノの背広を汗をふきふき着込んでいるのよりは生き生きと自由の匂いに充ちている。
 とにかく2等は活気にあふれている。缶詰、魚、パン、タバコ、石けん、古着、ノート、ペン……、ありとあらゆる品物が船内のわずかな場所を見つけては広げられている。めちゃくちゃな混乱の中で、ぼくは船がゆらりとも揺れないのに気づく。

●ザイール河の光景
 時速3〜4kmと目測したザイール河の流れは幅2kmから4kmの河幅いっぱいに押し出すように流れているのだ。波もほとんどない。次々に流れてくる浮き草のかたまりが船の波でぐらりと揺れてすぐに後方に消え去る。
 次から次へと現れる丸木のカヌーは河岸沿いを遡っているから、当然そこに流れの反流池帯があるのだろうが、それさえも目では見えないほどにザイール河は全面に押し出すように流れている。
 今は雨期で水位が高いのかもしれないが、岸辺は水際ぎりぎりまで緑が生い茂っているのに、水中に没した木が見当たらない。ナイル河の上流部、ビクトリアナイルでは年間の水位変化が1mほどであったが、このザイール河では水位の変化が小さいのかもしれないと思う。不思議なことにナイル河ではどこにでも見られるパピルスが全然ない。
 生い茂る緑はジャングルか? 30mほども岸に近寄っても、それは恐ろしさのない森だ。樹高は2階の屋根ほどだから、せいぜい10m。タブの木のような葉がただびっしりと重なっている。ほとんどは雨雲の垂れ込める空と茶色の河面の世界である。
 「双眼鏡で見るとジャングルみたいな風景だわ」
 KABATAさんが言った。
 ぼくらは例外なくターザンのジャングルを求めてアフリカや南米、東南アジアへ出かけていく。しかしそんなイメージは本物のジャングルの中では味わえない。失望した目でもう一度ターザンを見るとそれはまさにコンゴの川岸やヤウンデの農業林なのだ。
 この長大な河船は時速10kmぐらいで悠然とザイール河を遡り続けている。その船に、あらゆるところからカヌーが接舷してくる。体長150cmもある大ナマズや、真っ黒な薫製魚を持って。2匹のサルも売りに出されていたし、30cmほどのワニも1匹見た。
 それらはこの船ですぐに売りに出され、彼らはビールや、なにがしかの雑貨を手に入れて、また船を離れていく。昼も夜も、夜も昼も、とにかくカヌーはどこからともなく現れ、どこへともなく消え去っていく。
 いくばくかの金を手に入れるためのその仕事は、あまりにも危険に満ちている。とくに接舷と離舷の瞬間はむずかしい。
 何艘ものカヌーが転覆したが、波間にただよう人とカヌーとパドルのあたりにパンや衣類がつかず離れずに浮いて、そのままどんどん後へ置き去りにされる。彼らはカヌーを起こし、水をかい出してなんとか村へ帰るだろう。だが週に1度か、月に2度の商売はまさに水の泡だ。後からあわてて飛び込んでカヌーを追った男たちは、金を受け取る余裕があったのだろうか。ビールを飲み込んだ河はそれでも静かに流れ続けている。
 ぼくらは船の旅でどんな動物を見たか? というのは、かなり重要な問題だと思うのだが、じつは魚と鳥以外には、甲板で売られていた生きた小さなワニと、薫製にされたサル2匹しか見ていない。この旅の最初からでも、家畜以外に野生動物のたぐいは一匹も見ていないのではないだろうか。このままでは、ワニもカバもその姿を見ることは絶望的だという感じがする。
 かつてビクトリアナイルを300kmほどボートで下ったとき、巨大なナイルパーチ(淡水スズキ)を釣り上げたりしたけれど、保護区以外で見た動物はワニらしい影を1回。それからパピルスの茂みでカバの声を聞いただけ。ルワンダのカリシンビという山ではダカーという小型カモシカの肉を夕食として食べたけれど、それはガイド役の猟師と猟犬がいたからのこと。
 もしアフリカで野生動物を見たかったら、ぼくらのような旅をしてはならない。そのかわり、アフリカにいるんだと感じたいなら、時間をかけ、金をかけずに歩いてみるのが一番いい。際限もなく続く単調な風景の中に身を置いてこそ、ぼくらはアフリカの大気を吸った気持ちになる。
 夕方から空はいよいよ低く厚く垂れこめてきた。ベビーちゃんが雨女のせいか、ぼくたちは青空のアフリカにあまり恵まれていない。飛行機で飛んだサハラ砂漠までが雲の下だった。
 ぼくは最後尾の屋根に上った。突風が吹く。スコールの垂れ幕がほの白い西の空に落ちている。
 河面と、河岸の緑と、そして空と雲とがしだいに闇に溶け込んでいく。船のサーチライトが左右に強烈な光を放つころ、とうとう雷光が走り始めた。
 音はない。一瞬、巨木の影が浮かび、空と雲が分離する。雷光はほとんど連続的にあらゆる方向に輝き、ときおり頭上を覆うように鋭い光線が走った。戦場の中を突き進んでいるような興奮。偉大なザイール河の恐ろしくも華麗な夜。船はあくまで静かに走り続け、サーチライトの光の中に白い矢印が浮かんでは消えていた。

【アムカスへの報告文書】
3隻の平底船をつなげた長いキリ号は昼夜を分かたず進む。両岸からカヌーが現れては魚を売って雑貨を買い入れていく。魚の中ではナマズが多く、体長150cmに達するものなどはさすが大ザイール河である。くだものもサルの肉も、すぐに売り出され、売り切れる。500人以上の人たちがともかくも生きているのである。
ただ、ザイール河の水はよくない。ナイル河のうす緑色の水とは違って、いかにも熱帯の川らしくかなり濁った茶色である。しかもそれに油が浮いている。
2等の食堂兼サロンでは一日中コンゴ・ミュージック(アフリカン・ミュージック)がガンガンと響き、人々は飲料水がわりのビールをラッパ飲みする。
夜、雷光が船のまわりで華々しくきらめき、コンゴの恐ろしくも素晴らしい夜にしてくれた。
一番安い両切りタバコのベルガ。3年前のルワンダを思い出させるこのタバコはやはりうまい。本当にうまいのダ。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ザイール→ウガンダ
05時に空港に向かう。
10:30 エンテベ空港着。荷物がナイロビまでいってしまい戻るまで5時間かかった。
天気は快晴、ヴィクトリア湖は海。
エクアトリア・ホテル泊まり。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
エヌグ滞在

【伊藤幸司のメモ】
夜、雷光
アムカスへ9.1までのレポート(no.2)

【伊藤幸司のメモ】
夕方、雲は低くたちこめ、突風が吹き始めた。川面と河岸の茂みと、空と雲がしだいに溶けあって船は闇の中へと進んでいく。
船のサーチライトが右に左に動き始めるころ、雷光が激しく光り始めた。
音はない。雲の向こう側がパッと明るくなる。暗黒の中に巨木の影が浮かび、空と雲が一瞬分離する。
雷光はほとんど連続的に、船のあらゆる方向に輝き、ときおり頭上にはっきりと光線が走るのを見た。
最後部のデッキにひとりで座っていると、まるで戦場をくぐり抜けているような恐ろしさに包まれる。
2等客船の喧噪はまったくない。ただ2隻の船を押しているエンジンの唸りだけが力強く伝わってくる。
偉大なるコンゴ河(ザイール河)の素晴らしくも恐ろしい夜。岸辺の小さな赤い灯の向こうに真昼のような閃光。
船はあくまで静かに進んでいく。サーチライトの光の中に白い矢印が浮かび、闇の中に消えていく。
この素晴らしい夜。やはり何艘ものカヌーが船に接舷しては離れていく。わずかな魚と雑貨の交換にしてはあまりにも危険な仕事。昼間見た転覆事故をまざまざと思い出しながら、生きることの厳しさを感じる。
ほとんど家影を見ない河岸に、確実に人が住んでいるのを知ったのは、次々に出現し、寄っては離れていく粗末な丸木舟だった。


9月3日(日)第37日

【伊藤幸司の日記】

●露店で買えるもの、売れるもの
 ポリタンの水もきれ、パンもなくなった。真剣に買い出しを考えなくてはならない。
 07時ごろ、売店でミルクティを売り出す。コップ1杯30円。それを並んで買う。次にパン(30円)と魚(一切れ30円)が出て、午後には肉(一切れ180円)も出る。
 ピーナッツ以外は非常に高い。しかもうっかりすると売り切れになる。甲板に出た露店では雑貨のほかに薫製魚、唐揚げの魚(一切れ60円)などもある。
 しかも主食類はすぐに売りきれるので、まったく不安だ。しかも水が油臭い。午後から売り始めるビールを飲むわけだが、アルコールに弱いぼくなどはジュースを買い入れるのにかなり苦労をする。ビールが90円、ジュースが70円である。
 この船ではちょっと上品に構えたらたちまち空腹と飢餓に襲われる。1等船客は付属の調理場で適当に料理をしているのだが、これも薫製魚を水で戻し、イモの類を煮るようなアフリカン・クッキングである。
 はからずも日本人11人、英国人2人、アメリカ女性1人という外国人旅行者はすべて2等船客だ。ところがボンヤリさんとママちゃんは1等船客のマドモアゼルと友人になってしまって、彼女の食客という感じ。夜も空いたベッドを使っている。彼女は一見してお嬢さんタイプ。キンシャサ大学で科学を学んでいるそうだが、親は裁判官、フィアンセがベルギーに留学中で近いうちに彼女も後を追うという。18歳である。

 11時ごろ、前甲板でクリちゃん、ヨシ子さんが不要の小物を売りに出した。要するに露店を開いたのだ。おかあさんがそれに加勢すると、たちまち黒山の人だかり。約30分で、250K、約1,500円の売り上げをものにした。
T字型のカミソリ────5K×6本
ブルーのワイシャツ────70K
粉シャンプー────5K
牛乳石けん────10K
金メッキの鎖────10K
香水(北海道のスズラン)────40K
化粧水の小瓶────30K
カーテン地────20K
ブラウス────30K

 船長から英国人を通じて注意が来た。
 「1等と2等の間を行き来するのは危険だから、白人客はどちらかに居所を決めてあまり出歩かないように」
 非常にありがたい忠告であった。クリちゃんとKABATAさんはすでに1等甲板に専用ベッドを出してもらっているから、2等船室の部屋には2人が寝るだけで、夜はほとんどが1等で過ごすことになる。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ウガンダ
ヴィクトリア湖でタクシーを待たせて昼寝。
18時 ナイロビ行きバス出発。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
06:45エヌグ→20:30ポート・ハーコート。鉄道で。

【伊藤幸司のメモ】
船はただ走り続けている。


9月4日(月)第38日

【伊藤幸司の日記】

●船上のフツーの日
 09時リサラに入港。なだらかな斜面に瀟洒な家が並んでいる。美しい町。この町は中央アフリカからキサンガニに抜ける道路の中継地でもある。
 かなりの人が下船。港の鉄条網の向こうにはオレンジやサトウキビ、ちまきのような餅、パンなどを売る人々が詰めかけている。貨物船が1隻停泊しているからだろうか、クレーンを使って陸揚げするのは大型のトラックだけである。14時ごろ出港。
 2等客船の夜は楽しい。例のラウドスピーカーの音楽でみんなが踊り始める。ビールが飛ぶように売れ、すごい熱気である。ここ数日の恒例としてヒッピー風の英国人教師とおかあさんが1曲踊る。するとみんなテーブルの上にまで鈴なりになって熱演を見守るのである。終わると大歓声と拍手。そして足を踏みならし、口笛が飛ぶ。
 一軒無秩序な群衆だが、そこに厳然たる秩序があるのに気づくのはこういう機会である。もうこの船では置き忘れたモノもまずなくならないし、いやな思いをすることもまずないだろう。初めは陰険に見えた売店のマダムも、毎朝挨拶する仲間になってしまった。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
08時ナイロビ着。アベイ・ホテル泊。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
ポート・ハーコート滞在。

【伊藤幸司のメモ】
昼、リサラ入港


9月5日(火)第39日

【伊藤幸司の日記】

●船上のフツーでない日
 早朝までブンバに停泊していたことを知らされた。
 朝食のときにシモヤンがパリッとしたカラーシャツは1等のマドモアゼルからのプレゼントだと知る。彼は自閉症だといいながら、とにかくモテる。カメルーンでも神父の前であやうく結婚させられそうになったという。
 とにかく18歳の、フィアンセのあるマドモアゼルがリサラで荷物だけ降ろして、自分はブンバまで乗ってきたのである。
 その意味がはっきりした。淡い恋を振りまいて旅する男、彼は幸せだ。ザイールにもひとり、ジャポネに特別な好意を感じ続けるであろう人間を残したのだ。

 生きたナマズが入荷した。体長20cmほどの小モノだが、ボンヤリさんが物々交換で手に入れたという。なんと50匹。それを1等の調理場を占領してケチャップ煮。丸のままだから髭もそのままついている。白米の上にのせて、リ・ポワソンというわけだ。例の4人はガツガツと食べた。
 ぼくの方の上品な女性たちにはあまり受けがよくなく、おねえさまあたりは「姿を見ただけで食べられないわ、私はもういいから、どなたか食べてくださらない?」
 たしかにグロテスクで生臭さもあるが、生きているのをアニメ氏やシモヤンが割いたばかりだから新鮮で身が締まっている。男連中は夕食と夜食を存分に食べた。

 夜、今晩はみんなで踊ることにする。おかあさんはおめかしして「ワタシ男性とじゃなきゃいやよ」
 ちびのママちゃんはなかなかの踊り手で、モンキーダンスの名手のようである。相手のペースにうまく合わせて大喝采を浴びている。
 アフリカを旅していながら依然太り気味のクリちゃんはピチピチと踊る。もうちょっとウェストが締まれば申し分ない。KABATAさんやヨシ子までが加わり、国辱的な日本人デーとなった。ふだんワイワイと騒ぐベビーちゃんは風邪気味と称して部屋に引っ込んでいる。いざというときに、現れない人だ。写真係のぼくもマドモアゼル? を押しつけられて2曲踊らされた。
 「今日はぼくも踊るぞ」なんて言っていたアニメ氏がただビールを煽っている。
 「一丁、やりましょうよ」「おお、やろう」
 なんと彼は阿波踊りをやり始めた。ムードとしてはドジョウすくいだが、おかあさんとぼくが脇役につく。すっかりノッたアニメ氏はマジックインキで髭まで描く大サービス。200人からの観衆がテーブルの上にまで立ち上がって大喝采。英国人のヒッピー教師も今日ばかりは隅の方で見物にまわっていた。

【東アフリカからの手紙】
9.5付けの東アフリカ3人組(婦長さん+リツコさん+ミッキー)の置き手紙(ナイロビにて)
皆様、お疲れ様でした。ようこそNAIROBIへ。
コンゴ川はどうでしたか。スタンレー山から見た様な素晴らしい落日を毎日見ながら来たのですか。
国境ではどうでしたか。無事すんなり行けるかどうか三人で心配していました。
こちらはまずまず予定通りです。ただ AIR ZAIRE がドジで間抜けでトンマなために、荷物だけ NAIROBI に飛んでしまうというアクシデントがありましたが、5時間待って、無事手元に戻って来ました。
とにかく、9月2日は KAMPALA の EQUATORIA HOTEL に一泊しました。3日、ビクトリア湖で一日遊び(抜群にきれいだった!)18時発の NAIROBI 行きバスに乗りました。国境もすんなり通って、4日08時 NAIROBI に着きました。
これからの予定は6日に鉄道かバスでキリマンジャロに向かい、一週間ぐらい MOSHI にいるつもりです。
天候によっては長びくかもしれませんが。帰る途中で MOMBASA に4、5日寄る予定です。NAIROBI には20日までには帰ります。(あくまで予定。一日ぐらい長びいても心配しないで下さい)
残り少ない旅を楽しんで下さい。
我々も頑張るどお!!

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
10時にサラーマ・ホテルに移り、大使館へ。平井宅に呼ばれる。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
11:30 ポート・ハーコート→13:30オウェリ。

【伊藤幸司のメモ】
夜、??に停泊していて早朝出港。シモヤンはマドモアゼルからオープンシャツをプレゼントされる。
夜、ダンスパーティに全員で繰り出す。アニメ氏の阿波踊り。ナマズ料理。


9月6日(水)第40日

【伊藤幸司のメモ】
河岸の村が、多くなり、立派になってきた。網を干している漁村も今日初めて見えだした。キサンガニまでの道路が通じているのだろうか。
カヌーは相変わらず丸木舟ばかりだが、せまい浜にたくさん並べてあって、子どもたちが水泳に興じている。元気な連中は船まで泳いで来ては、再び河に飛び込んで帰っていく。カヌーに乗った女の子たちも服を着たまま河に飛び込んで陽気な騒ぎがしばらく続く。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア→タンザニア
08:30 モシ(タンザニア)に向かう。
夕方、キボ・ホテル着。三食お茶つき、毛皮の毛布。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
オウェリ→オニシャ→ベニンシティ。

【伊藤幸司のメモ】
3度ほど小さな町に停泊。河岸の村が多くなる。子どもたちが抜き手で船に泳ぎ着いてくる。
夜、激しい雷雨。1等にいた5人は操舵室見学。


9月7日(木)第41日

【伊藤幸司のメモ】
08時にCVZのオフィスに行き、チケットを買えるまでとにかく待つ。
例によって昨日のイミグレーションの役人がぼくらのパスポートをチェック。バスに乗るすべての人の身分証明書をチェックするのである。
ベビーちゃんとクリちゃんが換金に行ったのはよいが、2時間経っても帰ってこない。キサンガニの銀行をたらい回しにされた後、ピープル銀行の白人デスクのところでようやく済ませることが出来たという。
11時、いよいよバスに乗り込むに当たって、ぼくらは向かい合わせの席をまず与えられた。ちょっとひけめを感じたが、そのまま居直る。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
タンザニア
モシ滞在。
夕方、ボランティアに会う。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
ベニンシティ滞在。

【伊藤幸司のメモ】
09時キサンガニ着(時差1時間)
16時ホテル・オリンピア


9月8日(金)第42日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
タンザニア
モシのボランティアの家に移る。
キリマンジャロを見る。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
ベニンシティ→イフェ。

【伊藤幸司のメモ】
08時CVZへ。11時バス発。
21:15 ニアニア着。
18:00〜18:30 バフワセンデ。雨の中、レストランでおかあさん、ボンヤリさん、ママちゃん、ベビーちゃん、男3人(アニメ氏、シモヤン、伊藤)眠る。


9月9日(土)第43日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
タンザニア
モシで遊ぶ。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
イフェ博物館。
13時 イフェ→14:40 イバダン。

【伊藤幸司のメモ】
06:30発。
09:00〜09:30 スタシオン・デ・レプル
12:50〜14:00 マムバサ
17:50 コマンダ着。


9月10日(日)第44日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
タンザニア→ケニア
09:30 バスで出発。ケニアに戻る。
18:00 モンバサ着。コラルディン・ホテルに泊まる。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
13:15 イバダン→15:30ラゴス。

【伊藤幸司のメモ】
06:30 コマンダ発。
20:20 ブテンボ着。ホテル・オアシス


9月11日(月)第45日

【東京からの手紙】
9.11付けのオットリ君からの手紙
A班の3人(オットリ君、デザイナー氏、ヨーコさん)と野村は無事に9月9日13:30に羽田に着きました。
野村はボンベイから乗り込んで来ました。
カイロではまたしてもグリーン・バレーの人がいて、例のとおり楽々と入国しましたが、強引に押しまくられてナイトツアーをすることになってしまいました。6エジプト・ポンドで食事付きのショーを見ました。
9月27日には羽田に迎えに行くとお伝え下さい。
それからカイロ空港の1ポンドの印紙は使えませんでしたから。
お元気で旅をお続け下さい。
みなさんによろしく!

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
モンバサ滞在。
渡部、熱を出す。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
ラゴス滞在。

【伊藤幸司のメモ】
18:30 ブテンボ発
20時ごろ 雨に濡れる
乗客のインド人2人はベンツに拾われて先へ
22:30〜25:00 インド人の家にて夕食


9月12日(火)第46日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
モンバサ滞在。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ラゴス(ナイジェリア)→アッカ(ガーナ)。

【伊藤幸司のメモ】
03時〜06時 仮眠
ヴィルンガ国立公園を通過
13時 ルツル着


9月13日(水)第47日

【伊藤幸司のメモ】
アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃんはウガンダに向かう。
キソロ着。湖の村に行くがまったく受け入れられず、そのまま夜行バスに乗る。
翌朝カンパラ着。エクアトリア・ホテル

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
モンバサ滞在。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ガーナ
アッカ滞在。

【伊藤幸司のメモ】
11:30 ルツル発
16:15 ゴマ着
17:00 ルワンダ入国。Hotel Regina
キンシャサからルワンダ国境まで1人150ドル


9月14日(木)第48日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
モンバサ滞在。

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
アクラ→アコソンボ→アクラ。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
編集氏と別れて
ガーナ
アッカ→ケープコースト

【伊藤幸司のメモ】
09:30 ギセニ発。Chanyica 経由でウガンダ入国、キソロ着。
トラベラーズ・レスト泊


9月15日(金)第49日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
モンバサ滞在。

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
06:00 アクラ→翌06:00 タマル。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
ケープコースト滞在。町を歩く。

【伊藤幸司のメモ】
12:30 キソロ発。
15:30 カバレ。
銀行閉まりKABATAさんのみ30ドル換金。
ヨシ子さん、KABATAさんがホテル・ラチキを発見


9月16日(土)第50日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
09:00 乗合タクシーでモンバサ出発。
15:30 ナイロビ着。

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
06:00 タマル着。北部の町タマル滞在。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
14時 ケープコースト→18:30 クマシ。バスで。

【伊藤幸司のメモ】
07:45 カバレ。
14:00 カセセ。
タクシーでエリザベスNPへ。


9月17日(日)第51日

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
タマル滞在。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
クマシ滞在。

【伊藤幸司のメモ】
午前中エリザベスNP。
13時カセセ発。
14:30 フォート・ポータル。
21:00 夜行バスでフォート・ポータル出発。次々に警察の検問。
21:30 軍隊の検問にあい、一時拘束。ヨシ子さんが軍隊によって軽傷。幸いバスに戻り、カンパラに向かう。


9月18日(月)第52日

【カンパラ中央警察に届けられた・金医師からの手紙】
9.18午後2時付け、カンパラ日本人会の特別会員・金忠雄医師からカンパラ中央警察に差し入れられた手紙
伊藤様
 大変でしたね。どうぞ御心配なく。署長にも会って話をしてありますが、時期が悪いので、もう少ししんぼうして下さい。日本人会会長も骨を折って居りますから、ご安心下さい。
 午后後にはキャビネット会議により見通しがつくとのことです。午后にはずっと外で待って居りますが、もし釈放後私が外に居なかったらすぐ連絡下さい。
 ホテルはゴルフクラブの前に新しくできたフェアウェイ・ホテルというのがありますから、そこに落ち着くのがよいでしょう。
 昨日の未明からタンザニア軍がマサカ南方の国境から侵入しているので非常状態です。マサカ南方18哩に迫ったそうです。
 皆様なるたけ反抗をせずに、当たらずさわらず無事に過ごして下さい。白人が沢山収容される理由は、今この戦争のあとおしを英国がしているという放送が大きな原因だろうと思います。
 ではあしからず。おそまつながらさし入れもので元気をつけ、あとは坐って充分に休息して下さい。
 では又。

9.18
【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
タマル滞在。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
クマシ滞在。

【伊藤幸司のメモ】
06時、警察の検問でおかあさん、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん、ベビーちゃん、伊藤の7人全員が警察車両でカンパラへ。
08時、カンパラ中央警察署の留置場へ。多数の白人といっしょになる。
17時に開放されフェアウェイ・ホテルへ。


9月19日(火)第53日

【伊藤幸司のメモ】
9.19?
在ケニア日本大使館・三等書記官清水氏がホテルに残した名刺のメモ
明朝時間があればグランド・ホテル(124号室)に8時〜9時の間に御連絡下さい。現在カンパラに来ております。

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
タマル→クマシ。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
08:00 クマシ→15:00 アクラ。3等列車。

【伊藤幸司のメモ】
チケット購入。4人のチェック。午後買い物。
夜、金先生43歳の誕生日。


9月20日(水)第54日

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
クマシ滞在。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
アクラ滞在。

【伊藤幸司のメモ】
昼、エンテベに向かう。
22時スピーク・ホテル へ。


9月21日(木)第55日

【伊藤幸司のメモ】
朝、再びエンテベへ。09:25発。
ナイロビ着。プラムス・ホテル。
夕方から夜、婦長さんグループと話す。

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
クマシ→アクラ。
カメラ君とホテルで会う

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
アクラ→テマ→アコソンボ→アクラ。
編集氏とホテルで会う。

【伊藤幸司のメモ】
3人組2組はモンバサ、4人組はアンボセリ(1人400シリング?)
ミッキー、病院で薬をもらう。


9月22日(金)第56日

【ナイロビ22日共同通信発の新聞記事(たぶん産経新聞から)】 *こわかったウガンダ旅行 *兵隊に連行されたり、殴られたり *日本人一行、やっと脱出  内戦状態がまだくすぶり続けていいるウガンダから、このほど初めて日本人の旅行者の一団がナイロビに脱出してきた。旅行会社アムカス探検学校(東京千代田区神田松永町、近鉄ビル内)に参加して、アフリカ大陸を横断中だった女性六人で、引率の伊藤幸司さん(東京葛飾区東立石一)は二十二日、次のように語った。  一、ザイールからルワンダ経由で十七日ウガンダに入り、クイーン・エリザベス国立公園を観光中、事件を知った。フォートポータルに出て、食堂で食事中、いつのまにかウガンダ兵に食堂を取囲まれ、現地軍の本部へ連れて行かれた。その際ほとんどの人がこづかれたり、けられたりした。  一、夜まで取り調べられたあと、カンパラへ向かったが、途中で八回も軍警の検問にあった。深夜ある山奥の兵舎へ連行されて調べられた時は全くこわかった。  一、在留邦人の努力で夕方、釈放され、話していると、ひと足先にカンパラ入りしていた他のグループの波多正美さん(東京・杉並区)が、市内で軍隊に取囲まれ、めちゃめちゃに殴られたといわれた。あとで会ってみると顔中がはれあがっていた。
【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ガーナ
アクラ→レゴン。野口英世の像。
レゴン→アクラ。

【伊藤幸司のメモ】
リコンファームでフライト変更を知る。
婦長さんグループのみ飛ぶことになる。夜彼女らの部屋に集まる。プラムス・ホテル


9月23日(土)第57日

【伊藤幸司のメモ】
09:45 婦長さんグループ発。
夕方、全員ナイロビ。
21時ミーティング。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
アクラ(ガーナ)→アビジャン(コートジボアール)。

【伊藤幸司のメモ】
? 23:45ナイロビ発→04:45カイロ着


9月24日(日)第58日

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
コートジボアール
アビジャン滞在。


9月25日(月)第59日

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
アビジャン(コートジボアール)→カイロ(エジプト)。

【伊藤幸司のメモ】
18:05 B班カイロ着


9月26日(火)第60日

【伊藤幸司のメモ】
10:00 カイロ発


9月27日(水)第61日

【帰国を伝える新聞記事(タラップを下りる写真付き。新聞社不明のスクラップから】 *「生きた心地しなかった」 *ウガンダサッ出の旅行団帰る  内戦状態のウガンダで「スパイ容疑」で現地政府軍に連行された日本人旅行グループ十五人が、二十七日午後二時二十分、羽田着のエジプト航空機で無事帰国した。  この人たちは東京・神田松永町の旅行グループ「アムカス探検学校」のメンバー。リーダーの伊藤幸司さん(27)の話によると─。  エジプトのカイロから三つのパーティーにわかれてアフリカ大陸横断を試みた伊藤さんと女性六人のパーティは、九月十七日午後、コンゴ国境に近いウガンダのフォート・ポータルで食事中、突然着剣したウガンダ兵に取り囲まれ、司令部への連行を命じられた。  「内戦」を知らなかった一行がビックリしていると、兵隊から銃でこづかれた。荷物を取りに食堂にかけ戻ろうとした女性などは、逃走と誤解されて顔を殴られる乱暴を受けた。  司令部では、日本人旅行客と判って二十四時間ぶりに「釈放」されたが、首都カンパラでも中央警察に連行される騒ぎがあった。いずれも「スパイ容疑」で、カンパラでは別のパーティーの仲間が殴られていた。  伊藤さんのパーティーの田中宏子さん(24)は「ウガンダ兵が、わたしたちを取り囲み、銃の安全弁をガチャガチャとはずしたときは、生きた心地がしなかった。言葉も事態もまるでわからないので、ウロウロしているとこづかれた」と、心配顔で出迎えた家族たちに、当時の恐怖を語っていた。


付記

【伊藤幸司の日記 7.29から】

 アフリカというところは、広大な砂漠やサバンナやジャングルが果てしなく続いているのだが、じつは日本人のイメージに合うそれらの光景はごく一部に過ぎない。石油がなければ他に使い道のないやせた岩の小山や、動物の影ひとつ見出せぬ、つまらぬ緑のうねりをこれでもか、これでもかと突き進んだ者だけが、より素晴らしい<アフリカ>を見ることができるのである。
「まったく、限度というものを知らないよな! アフリカという奴は!」
 こう何度もつぶやいた後に、初めてアフリカに触れることができたのではないか? と思うようになる。
 人類の最古の歴史が発見されているのに、現代の最も新しい国々がひしめき合うアフリカ。
 ほんの数種類にしか識別できないアフリカ人たちが、厳密には1,000以上の部族に分類できるというアフリカ。
 時速100キロで突っ走る街道から5キロも入れば1時間に4キロも進めない大自然のアフリカ。
 とにかくアフリカでは性急な期待は確実に裏切られる。

 もしアフリカを観光旅行として見たいのなら、アルジェリアの大砂丘や東アフリカのナショナルパーク、ギニア湾岸の密林を、イチ、ニ、サンと飛び歩けばいい。足を踏み入れるや帰路を心配するような砂山や、カバが芋を洗うように集まってぼくらをニタリと見てくれるナイル河の流れに沿って、絵葉書が真実であることを自分の目で確かめることができるからだ。
 だが、アフリカの旅はそれを見たから終わるというものではないとぼくは信じる。しいていえば疑問ばかりが積み重なってくるような旅のできる土地だ。アフリカ人の肌が黒いというのに、よく見れば白から褐色を経て純黒まで千差万別だし、それでもやはりすべてが黒だ。黒は黒だといいながら、同時に黒で白だともいえそうなそんな不思議さ。何ひとつ確信をもって語れなくなったとき、ぼくらはアフリカにいたんだなと信じられるような気になる。

 とにかくぼくは、カメルーンという国を第一目標とした。理由はない。しいて理由を挙げれば、別に特徴のない国で、動物も見られそうもないし、民族的に特異なものもない。何もなさそうだからこそ選んだといえる。おまけに言葉はフランス語だ。わからないついでに言葉までわからなければより徹底しているというものだ。
 ただ、地図の上で見る限り、ギニア湾の一番奥にあって、チャド湖を頂点とするおむすび型の国で、広さは日本よりちょっと広い。1か月をこの国で過ごせば、まず絶対に「アフリカへ行った!」と胸を張れるようなチンチクリンの国だ。
 一般的な読み物で日本語なっているものを挙げれば、旧英領・西カメルーンに動物を集めに行った学者の素晴らしく楽しい本「積みすぎた箱船」、アンドレ・ジイドの「コンゴ紀行」の続編「チャド湖の帰り」、最近訳本の出たミッシェル・レリスの「幻のアフリカ I」、日本人のものでは兼高かおるの「世界の旅・アフリカ」、NHK取材班による「アフリカを行く」あたりだろう。

 西アフリカの最高峰・カメルーン山のある国として、また現役の学生遠征隊としては最も遠いアフリカになるこのカメルーンという国に以前から若干の興味は持っていたものの、昨年ガイドブック(中央公論社版「世界の旅・8・アフリカ」)の仕事をしてアフリカ各地の事情を調べていくうちに、やはりカメルーンに行きたいと思うようになっていた。コンゴ水系とチャド湖水系、それにニジェール河との分岐になるこの国から西へと足を向ければかなりおもしろそうだ、と密かに思っていた。
 アムカス探検学校の第1回目でボルネオをマネージメントしたとき、すでに次はアフリカをやらせてもらうつもりでいた。校長先生ともいうべき向後さんに、マドリッドからカメルーン沖のサンタ・イザベルまで奇妙に安い飛行機があることを教えられて、可能性はぐんと高まった。もうカメルーンでなくてはならない。
 ぼくにとって、カメルーンでなくてはならなくとも、アフリカに夢を抱いている不特定の参加者にとっては、カメルーンなどまったく初めて聞く名前のはずだ。どういうふうに彼らをたぶらかせてその目をカメルーンに向けさせるか? その作戦を半年間あたためたわけである。

 ぼくがひねた大学生として、取り残した最後の授業で野沢にスキーに行っている間に朝日新聞の東京版に小さな記事が載った。帰ってみると30人以上の問い合わせがあった。直ちにひとりずつ呼びつける。アフリカくんだりに出かけたいと思うほどの人ならば、ぼくらのところまで来るぐらいの熱心さがなくては困るし、ぼくらとしても経費をかけずに計画を進めていくためにはその方法が最も効率的だと考えていた。
 呼びつけられた人たちにぼくは何を言ったか!
「カメルーンに関する資料はほとんどないんです。ぼくも知らないんで、まず行ってみなければどうしようもありませんね」
「動物を見たいのなら、まず駄目でしょう。東アフリカ以外のナショナルパークは乱獲されて、金をかけても見られないかもしれないから。ともかく8〜9月のカメルーンは雨季の真っ最中だから、ワザ・ナショナルパークに行っても、動物は散ってしまっているはずです」
「45万円以上もかけるのは、ぼく自身高い旅行だと思うんです。だからよく考えて決定してください」
 本当に、本当に、こういう言葉を繰り返した。ぼくはウソはつきたくなかったし、ウソで人を集めても現地でそれを裏切ったら絶対の悪人だ。その上ウソにつられてくるような人はぼくら素人の手には負えない。何よりも全員のチームワークがあって初めて不可能が可能になる。ぼくらは「老若男女、年齢、経験の有無は問わない」といいながらも、こうしてある種のフィルターで選抜しているのである。

 今回の参加メンバーのうち、13人はこうして決定に至った。ラジオで聞いて即日神戸から電話をくれた人もいるし、以前からアムカスの活動を少しは耳にしていていつか参加しようと思っていた人もいる。週刊誌に流れた記事で参加した人もいる。
 ある輸出組合に勤めるママちゃんが正月をはさんでの1か月間、ネパールヒマラヤの全域をマウンテン・フライト(フリーの氷河学者・五百沢智也さんの氷河調査を、乗客を確保してサポート)し、エベレストの麓まで女の子2人で弥次喜多道中したけれど、それ以外にアムカスとの関わりをもっていた人はいない。しかも友達連れでやってきたのはリツコさんと美紀子さんの2人だけで、彼女たちは2人だけで東アフリカをまわろうと、すでに船まで予約していた実行派である。
 彼らのほとんどは友だちにも、家族にも話さずに参加を決めてしまったようだ。周囲の承諾を得るのはそれから。ともかく一般的にいえば「大金を払って、何をわざわざアフリカくんだりへ行こうというのか」というおかしな連中なのだろう。しかも頼りない得体の知れない「あるく・みる・きく・アメーバ集団=アムカス」の口車に乗って。

 ぼくは結局60人以上の人たちと話し合い、手紙を出し合ったことになる。そして費用が高いので今回はどうしても参加できないという人、知るのが遅かったので長い休暇をとれそうにないといって残念がった人が大半だった。そういう人たちには費用でも期間でも、ちょっと大きすぎる計画なのである。
 ぼくは物理的な条件で参加をとりやめる人たちの声を聞きながら、常にある種の罪悪感を感じていた。でも、これは探検学校としてもかなり思い切った実験なんだ、と思い直すことにしていた。

 ぼくらが最初に探検学校にとりかかったとき、いわゆる一般社会人が、どれくらいの費用で、どれくらいの期間なら参加できるのかまったくわからなかった。しかも最初は是非成功させねばならない。そこで昨年8月のボルネオ探検学校では2週間・22万円、20名に対して3名のリーダーをつけるという原則を立てて発表した。それが33名プラスリーダー5名の大遠征となったのは予期しない大成功だったし、パッケージ旅行のツアー・コンダクターに過ぎないと覚悟していたぼく自身が、その旅の予想以上の楽しさにひたることができた。
 ぼくらが遠征隊だとか探検隊だとか称してギラギラした眼で歩くのとはまったく違った別の楽しさがそこにはあった。たとえば女性といっしょにいるだけで、家の中にさらりと招き入れられてしまうのだ。大学の探検部や山岳部で遠征経験のある若手OBが主体のリーダーたちは例外なくそれを感じ、探検学校はその後「25万円1か月」という規模にエスカレートしていった。
 その経緯からして、かなり長期間で、かなり高度なもくろみをやりたいという欲求が出てきた。ぼくにしてみれば、それは当然アフリカであったわけだ。
 考えてみれば10人のグループでリーダーがひとりつけば、航空運賃の割引などを上手く利用して、各人の負担は10%以下でプラスマイナス・ゼロの予算が立てられる。これはアムカス流のどんぶり勘定なのだが、リーダーは予算内の行動をとるから、お金のない人はリーダーと同じ行動をしていれば当初予算以外に自分のお金をもたずに、一切の費用をまかなえるはず。なにか不足の事故が起きたら……、そのときは学生遠征隊の場合と同じように、何とか金をかき集めて、最終的にはその当事者に返済してもらうしかない。
「最大45万円の赤字だね。参加者が5人なら20万円の赤字か。やってみたらいいじゃないか」
 向後さんはいつものさりげない調子でぼくをたきつける。要するに何事もやってみなければわからないし、やってみれば誰でも一所懸命にやるのだし、不思議に運が開けるものだ。

 ぼくは「1か月30万円台」で様々な可能性を探ったが、往復の交通費だけでどうしても33万円はかかってしまう。1か月の滞在費は生活費、行動費をあわせて200ドル=6万円は必要だろう。もし物価が高ければあまり動かずに村に入り込んでいればいい。けっきょく45万円という予算を立てた。予算が高い。というのは30日=45万円だと1日あたり1万5000円の計算だ。これはどうしてもぼく自身納得がいかない。
 そこでパリ〜マドリッド経由の航空チケットが1年間有効で、しかも個人チケットであることから「現地解散・西アフリカを自由に歩いてもよいし、ヨーロッパを見てもよい」とした。期間が長くなれば滞在費が増えるけれど、1日当たりの費用は確実に安くなる。しかも予算に見合った日数だけ、各自自由に居残れるというのは個人チケットの最大のありがたみである。
 すると5人の女性が、東アフリカを回り、さらに北上してカイロからパリに出るという大計画を練り始めた。キリマンジャロやナショナルパークの誘惑を絶ちがたいらしい。いささかあわてたぼくは、陸路をたどることの困難さを訴え、飛行機を最小限使った場合の予算をいろいろ提示することによって、とにかく物理的に難しいことを分かってもらおうとした。

 アニメ氏は奥さんを放ったらかしにして半年くらいは歩きたいという。カメルーンでは飲んだくれてゴリラを見たいという彼は、とにかく死にそうもない男だ。彼はとぼけた表情の中にもかなり繊細な神経をもった人らしく、人の好い穏やかさとともに、自分の考えをがむしゃらに通すような世界観をもっているようでもある。彼は地面をはいずって、東アフリカから北アフリカへ、のそのそと歩きたいという。彼なら知らない強みで、押し切ってしまうように思える。
 テーラー氏はなぜかマリ共和国にこだわっている。以前ソ連をまわったことがあり、それ以降の3年はアフリカの旅を夢見てかなりの資料も集めているらしい。いわく「マリは共産圏としてどうしても行きたいんです。そしてタンザニアもまた東の社会主義国として比較してみたいんだ。今までやってきたスワヒリ語を使えるしね」。彼は西アフリカの有名言語のひとつハウサ語の会話テープを見つけてきた。
 西アフリカをまわりたいと初めから言っていたのは写真を専攻しているアフロルックのカメラ君である。東アフリカの希望者が多い中で、必死に西アフリカの多様性を強調し続けて孤軍奮闘。いかにも世話好きな学生といった感じで、地図のコピーやら、パスポート写真の撮影やらを引き受けてくれた。
 デザイナー氏はどこに惹かれてアフリカに行きたいのかはっきり言ってくれなかったが「行けるか行けないかは課長の胸下三寸というところですね。最後手段をちらつかせながら、とにかく上手く作戦を進めなくっちゃ」とサラリーマンの弱みを訴える。

 3月中旬には主力メンバーのほとんどと面接を終え、4月15日に第1回のミーティング。説明会と称してミッシュランの400万分の1の大地図を3枚壁に貼ってアフリカのイメージを盛り上げる作戦である。一方的に喋り続けることで、分からないながらも各人の欲求をチラリとくすぐる方法をとった。
 5月13日に第2回のミーティング。そろそろメンバーが固まってきていて今回は個人の希望を探りながら、それぞれの希望ルートを語ってもらおうというのである。いくつかのグループができはじめた。
 そして6月24日。第3回目で最初の難関に直面した。7月下旬の安い航空ルートが予約のウエイティングをかけられたまま、なかなかOKにならなかった。それが20名の団体となると、今後キャンセル待ちをしてもラッシュ時期のためほとんど可能性のないことを知らされた。

 このルート(アエロフロート・ソ連航空)がIATA(国際航空運送協会)に未加盟で思い切った安い値段で商売していることは、もう一般に広く知れ渡っているため、ぼくらの指定した便には150名ものウエイティングがかかっているのだという。「安いルートは商売の上で、もうひとつ頼り切れない不安があるんだ」と繰り返しつぶやいていた中井氏の心配が現実のものになった。
 ぼくらは3〜4社の見積もりを資料として、10人以上の団体割引でこの危機を乗り越えることになった。かなり重苦しいミーティングだった。夕方から終電ぎりぎりの11時まで、様々な角度から検討しあってルートとパーティ分けをした。何よりも痛かったのは、2か月以内10人以上のGV10という団体割引の条件に従わなければならないことだ。大きな夢を描いていた何人かは、期間の点で大きな譲歩をしてもらわなくてはならなくなった。その代わり、個人の希望ルートに従って、できるだけ細かなところから大きなグループにまとめるようにした。
 隣に座っている中井氏が「またしてもアムカス流の素人くさいスケジュールを立てているな」と渋い顔をしているのがよくわかる。
 「とにかく10人以上が往復同じ飛行機を使わなければ、60万円以上のノーマル運賃を払うことになるのですから、よく考えてください」
 中井氏はぼくらの計画が空中分解するのを心配してくれる。中井氏は周囲から「近江商人」といわれる商売人だが、探検部では1年後輩としてかなり近い関係にあった。近畿日本ツーリストの社長室に所属する研究所に出入りしながら、外部の中井氏に旅行手配を頼んでいるのは、キックバックといわれる利益をすべて(かどうかはわからないが)はき出してもらうためだった。
 結局30日の希望者はうまく40日までの休暇がとれそうなので期間を延長して欲しいということになりA班となった。西アフリカの希望者はカメラ君ひとりで「ぼくは行けるのかなあ」と不安顔である彼を一応B班とする。
 テーラー氏とアニメ氏は成り行き上個人のチケットを買うことでパーティから離れた。残る人たちは大半が女性だが、その中で5人はあくまで東アフリカ回りを希望。C班とした。残りの人たちは当惑しながら、ぐずぐずしている。当たり前だ。こんなミーティングをしなければならないのは、あくまでもリーダーの準備ミスなのだから。

 結局すべてのパーティが10名に満たないムードがはっきりしてきたので、ぼくはリーダーの役割で大きな譲歩をすべき時になった。
「とにかく10人のパーティができないと、ぼくらは出発できないことは明らかです。何しろ出発まで1か月しかありません。いずれも10人になりそうな人数ではないけれど、そこをあえて10人にするために、リーダーはカメルーンで1か月の旅をした後、東へのルート、つまりC班にしたがうことにします。その分の費用はできるだけ飛行機を使わない走り抜けルートで、45万円プラス200ドル、つまり51万円ですべてまかなえるルートを責任をもって歩きます。
 初めから東アフリカを歩きたい人は日数の点でもコンゴを横切るのは無理だから、直接飛んでください。航空運賃と観光費用でさらに200ドル以上はアップするでしょう。リーダーが費用の点で責任をもつことで、あとの人がC班に参加されるよう提案します」

 出版社に勤める編集氏が決定的な援護をしてくれた。
 「ぼくは、じつをいうと半ばフリーの身になったんです。カメルーンに2か月ぎりぎりまで居たいから、2か月間のB班に参加したいけれど、もしC班が集まらなければ、そちらに参加してもいいですよ」
 うれしかった。そういう言葉をかけてもらわずには済まないほどにぼくは哀れな立場にあっただけに、この一言は嬉しかった。
 それからはなし崩し的なスピードで、C班12人が決定し、編集氏もまた予定通りB班に参加できそうなところでミーティングを終えた。
 ネパール探検学校のとき、例のインパ戦争のため飛行機が飛ぶか飛ばないかわからず、出発4日前のミーティングで「行けなくなったとしても、ほかにどうするというあてもなし、出発の可能性が出るまでとにかく待ちましょう」と決定した、やはりひどくしんどいミーティングを思い出していた。
 7月22日。出発前1週間の最終ミーティング。いよいよ通関や出入国手続のパンフを渡して、技術面での説明をする。

 こうして4か月間の後に、ぼくらはとうとう日本を脱出したのである。予算はうんと苦しくなって、リーダーはひとりしか出せないし、リーダーの手元に残った予備費はわずか85ドル。アムカスでかき集めた事故対策費やぼく個人の金を合わせて1300ドル。それに、絶対に手をつけないアムカスの事故基金が100万円残っている。必要があれば小川君が1週間以内に日本を発てるだろうし。とにかく旅は始まったのだ。

【計画書────たぶん1972年3月】
AMKAS探検学校─―アフリカ あるく・みる・きく

カメルーンの村と小さな町(A班・42日・45万円)
そして……西へ! 東へ!(B/C班・60日・45万円プラス18日間の行動費)

もう忘れてしまったけれど……
こどものころ
ぼくらは偉大な探検家だった
豊かな行動力と
鋭敏な感覚をもった
探検家だった
あのころの みずみずしい心は?
旅に出よう!
遠い遙かな土地へ
大自然と見知らぬ人々のただ中へ
そして
人間であることを厳しく問われる旅へ

ギニア湾の際奥「ハート・オブ・アフリカ」と呼ぶにふさわしいカメルーンを歩きます。カメルーン山(4,070m)からコンゴ盆地につづく熱帯雨林、中央部の高原サバンナ、北のはずれは砂漠に追いつめられたチャド湖。純朴で陽気な人びとと、にくめない小悪党の中で、私たちはどんな足跡を残すのでしょうか。

マネージメント・リーダー
伊藤幸司(カメラマン)早大探検部OB

7.29 東京発─―カイロ、ラゴス1泊─―8.ドゥアラ着
A班 カメルーンの村へ、町へ、奥地へ
   9.6ラゴス発─―カイロ2泊─―9.9帰国
B班 A班から分かれて西へ。変化に富んだ西アフリカ諸国を歩く
   9.25アビジャン発─―カイロ1泊─―9.27帰国
C班 A班から分かれて東へ。密林のコンゴ盆地を抜けて東アフリカへ
   9.23ナイロビ発─―カイロ2泊─―

[I]スケジュール(予定)
7.25 Yokyo → Paris
7.29 Madrid → Douala
現地活動:カメルーン山とジャングル、北部サバンナ、近隣諸国、etc. フィールドとテーマは各自十分に練り上げて下さい
8.23-26 Fernand Poo 島にて全員による報告・討論。解散
8.26 Santa Isabel → Madrid(アフリカ残留者を除く)
8.28 Paris → Tokyo(8.29)

[II]
1.リーダーは世話役ではありません。他人まかせという人はご遠慮下さい
2.自然と生活の中にとびこんで、自分の足と目と耳で何かを発見したいという人を期待します
3.老若男女、経験の有無は問いません
4.募集は10名以上。多数の場合はリーダーを増やします

リーダー:伊藤幸司
早大探検部OB、カメラマン
1968-69 早大ナイル河全域踏査隊
1971 第1回探検学校・ボルネオ(マネージメントリーダー)

入手しやすく読んでおくとよい本
1.「積みすぎた箱舟」暮しの手帖社(必読)
2.「探検と冒険 1」朝日新聞社
3.「黒アフリカ史」AAA選書・理論社
AMKAS事務局には邦文雑誌のコピーがファイルされています

[III]費用と手続き
1.申込金 4万円。残額払込は6月末日迄
2.探検学校費用45万円に含まれるもの
 往復の航空運賃+解散(8.26)までの標準活動費用+AMKAS側諸費用
3.含まれないもの
 旅券・ビザ印紙代、注射代、手続料、I.R.C.航空使用税、解散後の行動費用、個人的な費用(特殊な行動・土産・酒・タバコ・特別食など)
4.手続に必要なもの
 写真10枚以上(5×5cmパスポート写真)、印鑑(使用中でないもの)、戸籍抄本1通(パスポート所持者は不要)

[IV]問い合わせ・申し込み
101東京都千代田区神田松永町19-2近鉄ビル
日本観光文化研究所 AMKAS探検学校
電話03-255-7111 内線274(担当伊藤)
東京近県の方は極力来室願います
日本観光文化研究所(国内)及び AMKAS(国外)の旅の資料・情報はどなたでも利用できます(観光地情報などの一般的なものはありません)
手続代行:中井実(早大探検部OB・川崎航空サービス)


【最初の計画書────たぶん1972年3月】
AMKAS探検学校
赤道アフリカ・カメルーン
期間:1972年7月25日〜8月29日(アフリカ・ヨーロッパの自由行動期限は1973年7月24日)
費用:45万円(往復航空運賃+33日間の行動費+探検学校諸費用)

もう忘れてしまったけれど……
子供の頃────ぼくらは偉大な探検家だった
鋭敏な感覚と豊かな行動力をもった探検家だった
あんころのみずみずしい心と大きく開いた目は?
────いつの間に消え去ったのか
旅に出よう! 遠い遙かな土地へ
大自然と見知らぬ人々のただ中へ
そして、人間であることを厳しく問われる旅へ
旅する人と人、旅する人とその土地に住む人とを結びつけ、より個性的な旅を啓発する<運動集団>────それがアムカスです

[I]スケジュール(予定)
7.25 Yokyo → Paris
7.29 Madrid → Douala
現地活動:カメルーン山とジャングル、北部サバンナ、近隣諸国、etc. フィールドとテーマは各自十分に練り上げて下さい
8.23-26 Fernand Poo 島にて全員による報告・討論。解散
8.26 Santa Isabel → Madrid(アフリカ残留者を除く)
8.28 Paris → Tokyo(8.29)

[II]
1.リーダーは世話役ではありません。他人まかせという人はご遠慮下さい
2.自然と生活の中にとびこんで、自分の足と目と耳で何かを発見したいという人を期待します
3.老若男女、経験の有無は問いません
4.募集は10名以上。多数の場合はリーダーを増やします

リーダー:伊藤幸司
早大探検部OB、カメラマン
1968-69 早大ナイル河全域踏査隊
1971 第1回探検学校・ボルネオ(マネージメントリーダー)

入手しやすく読んでおくとよい本
1.「積みすぎた箱舟」暮しの手帖社(必読)
2.「探検と冒険 1」朝日新聞社
3.「黒アフリカ史」AAA選書・理論社
AMKAS事務局には邦文雑誌のコピーがファイルされています

[III]費用と手続き
1.申込金 4万円。残額払込は6月末日迄
2.探検学校費用45万円に含まれるもの
 往復の航空運賃+解散(8.26)までの標準活動費用+AMKAS側諸費用
3.含まれないもの
 旅券・ビザ印紙代、注射代、手続料、I.R.C.航空使用税、解散後の行動費用、個人的な費用(特殊な行動・土産・酒・タバコ・特別食など)
4.手続に必要なもの
 写真10枚以上(5×5cmパスポート写真)、印鑑(使用中でないもの)、戸籍抄本1通(パスポート所持者は不要)

[IV]問い合わせ・申し込み
101東京都千代田区神田松永町19-2近鉄ビル
日本観光文化研究所 AMKAS探検学校
電話03-255-7111 内線274(担当伊藤)
東京近県の方は極力来室願います
日本観光文化研究所(国内)及び AMKAS(国外)の旅の資料・情報はどなたでも利用できます(観光地情報などの一般的なものはありません)
手続代行:中井実(早大探検部OB・川崎航空サービス)

【伊藤幸司による注記】
 AMKAS(あるくみるきくアメーバ集団)の創設者・向後元彦(東京農大探検部創設者)が赤道アフリカのスペイン領サンタ・イザベル島フェルナンド・ポーへ、マドリッドから格安の国内線が飛んでいるということを発見した。
 AMKAS探検学校は、当時近畿日本ツーリストの社長室に所属していた日本観光文化研究所(所長宮本常一)にたむろしていた大学山岳部・探検部の若手OBたちがリーダーになって旅の実験をしようというもの。1971年夏の北ボルネオが第1回、ネパール・氷河調査フライトが第2回、1972年には第3回のコモドオオトカゲの小スンダ列島とこの第4回赤道アフリカ・カメルーンと続く。
 アエロフロート(ソ連国営航空)+スペイン国内線というアイディアは実現しなかったが、カメルーンという知識もなく、言葉(ほとんどがフランス語)も通じにくい国への旅は、退職覚悟の人たちの迫力もあり、実現に向けて進んでいった。けっきょく、リーダーは伊藤ひとりしか出せなかったけれど。


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