軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。
【伊藤幸司の軽登山講座003】最初に用意する装備――2005.11.15
私は大学では山岳部ではなく、探検部というところに所属したのだが、新入部員が用意すべき三点セットは、登山靴+キスリング型ザック+寝袋だった。
いま、私は初めて山歩きに参加する人に、次のような三点セットを用意してもらう。
1)はきなれた運動靴(スニーカー、ランニングシューズ、テニスシューズなど)
2)登山用品店(あるいはアウトドア用品店)で売っている肌を乾燥させる(ウイックドライ)タイプの半袖Tシャツ
3)持ち物が全部入るザック。ない場合には登山用品店で容量25リットル以上のデイパックを購入
●なぜ運動靴なのか――まずは歴史から
登山靴にかかわる問題はあらためて取り上げるので、ここでは「あわてて登山靴を買わないで」という範囲で説明しておきたい。
私が大学で探検部に入ったときには、飯田橋にあった登山靴店で登山靴を作れといわれた。高校のワンゲルなどもそこで作っていて、学生なら月賦で買えたのだ。
その夏に3週間ほど知床半島に入ったら、有名な安売り量販店で既成靴を買ってきた部員のはバラバラになってしまった。4年間履けて、しかも最初の靴でドンピシャとはいわないまでも、一応足に合う合理性を求めたら、学生向けの月賦のオーダーメイドに利があったというわけだ。
私は歴史にくわしくないが、登山靴は軍靴にはじまると考えている。岩場に対応するために柔らかな鉄の鋲を靴底に打って、登山靴としての進化を始めた。
登山靴の革命は、たぶん鋲を打つ代わりにゴム底を貼りつけたところからだった。戦後の日本ではイタリア製のビブラムソールが圧倒的で、同じイタリア製のピレリもチョイスできたし、ガリビエールなどという登山靴はオリジナルソールを貼っていたが、どちらも圧倒的な少数派だった。
つまり戦後の登山靴は学生が月賦で買える注文靴も、半月でバラバラになる既成靴も、同じビブラムソールを貼っていて、かかとだけの貼り替えも、全面貼り替えもできたからだれもが比較的いい状態ではき続けることができた。
1956年にはマナスル登山隊のアプローチシューズ(ベースキャンプまでのキャラバン用)として藤倉ゴムのキャラバンシューズが開発された。青や赤のテカテカのナイロン布のキャラバンシューズは現在も売られているから驚くべきロングセラー商品といえるのだが、じつは根本的なところに新旧の違いがある。土踏まずのところにトリコニーと呼ばれる鋲(のまがい物)がついていたのが、今はとられている。1935年にイタリアで誕生したビブラムソールのブロックパターンには細長いクリンカーや丸いムガーなど鋲の配置パターンが頑固に残されているから、あれが全部鉄だったと想像することができる。キャラバンシューズは土踏まずにギザギザの歯をもったトリコニーのまがい物をつけたのだが、それが逆に岩で滑る原因となっていた。悪評があったのだが、ソールが一体形成されていたので長いあいだ直せなかったと、開発者から直接聞いたことがある。すなわちオリジナルソールの軽登山靴というべきものであったのだ。
●軽登山靴という新ジャンル
その後「中高年登山」のブームを支えた軽登山靴ではオリジナルソールが当たり前になった。キャラバンシューズの地位を奪ったのがイタリア製の革靴ザンバラン(フジヤマというモデルに代表された)だった。それから履いたときに軽く感じるドイツ製の革靴ローバが女性に圧倒的な人気を得た。
ソールに共通性がなくなったということは登山靴性能の最も重要なポイントであるフリクション(摩擦係数)に基準がなくなり、軽量化は当然、防水性や耐久性をそれぞれの事情で削り取ることになった。登山靴の防水は表皮にあり、内部の湿度調節には裏側の繊維が使われていたのだが、そういう機能を大幅に削って「軽」登山靴としたのだった。
そして、軽登山靴にはそれまでの登山靴と一線を画する新しい機能があった。平坦な道を楽に歩けるようになったのだ。したがってそれを阻害する機能を登山靴から取り去った。靴底がしならないように入れていた鉄板やプラスチック板がなくなり、つま先で岩場の小さなスタンスに立てることをサポートする足首の固定もゆるくなった。クライミング機能より、ウォーキング機能を高めたというふうにいえるだろう。
――どうだろう、もうお気づきかと思うけれど、いま多くの登山者が履いている登山靴はほとんどが軽登山靴で、トレッキングシューズとかハイキングシューズという呼び名の「軽軽登山靴」とシームレスにつながっている。視野を広げればウォーキングシューズやランニングシューズまでつながってしまうのだ。
●運動靴でフォーシーズン
私の守備範囲は「一般登山道」から(原則として)はずれないので、平坦な道も歩きやすい軽登山靴が上限なのだが、ヒザ関節を徹底的に守るためにはしなやかで、つま先立ちで歩きやすい運動靴(跳んだり、はねたり、走ったりできる靴)をすすめてきた。立場上、私は1足の運動靴(ランニングシューズやバスケットシューズ)で年間約100日(もちろん冬も含めて)通してはいて、はきつぶしている。
まずははきなれた運動靴で、ひもをきちんと締めて、下りでは不安なところでつま先立ちしてみると、重心位置がつま先にあるかぎり驚くほど滑りにくいということに気づくはず。登山靴のブロックパターンが活躍するのは、じつは登山道のほんの限られた条件のときでしかないということを発見する。
最近ではベテランでも運動靴をはいている人が多いので歩き方を観察するといい。そして究極の運動靴派は登山道を走っている人たちだ。アシックスやミズノの国産ランニングシューズで日本人向けに3Eサイズで出しているものなど、価格以上の価値があると感じる。あこがれの登山靴を買うのを止めはしないが、まずは足裏の感覚がシャープな運動靴で歩いてみていただきたい。
あるとき、真冬の北八ヶ岳に出かけるので、スキー用品店で雪用運動靴(スノトレなど)を買うようにと指示出ししたのだが、親切で有名な登山用品店に出かけたひとが50,000円クラスの革の登山靴を買わされてしまった。店の責任として、雪の北八ツに出かけるという初心者に運動靴を売るわけにはいかなかったはず。「スキー用品店に行けといったのに!」……常識はずれと思われる運動靴のフォーシーズン使用についてはいずれまた。でも、だから、山用品店のおやじさんにはいわずに、こっそり履いてきてほしいのだ。
●半袖Tシャツ
米国の巨大繊維会社デュポン社がアクリル繊維の新しい製造法を開発したとかで乾質アクリルと呼んだ繊維が登山に画期的な効用をもたらした。「オーロン」というブランドはデュポン社ではアクリル繊維全般に対してつけているとのことだが、とにかくそれで登山用のTシャツがつくられた。ウイックドライ機能というのだが、ロウソクの芯(ウイック)が浸透圧で液体のロウを吸い上げていくように肌から出た水分を物理的法則によって自動的に吸い上げてくれる。
自然繊維のコットンやウールも湿り気を吸い取ってくれるのだが、それは吸い取り紙のように自分の繊維中に水分を溜め込んでいく。吸湿性はコットンとウールは同等だそうだが、ウールだと、繊維が濡れても、小さな気泡を残しているので保温力がゼロにはならない。そのことによって、冬山では肌着が生死を決めるといわれてきた。
化学繊維は繊維自体には吸湿性がほとんどない。水分は小さな裂け目などを伝って移動して、外部へと排出される。体熱で蒸らして、乾かすというのとは違って、省エネ乾燥システムなので、冬に背中に汗をかいていても、ザックを置いたときに冷たいと感じることがない。
同様の肌着は荷造りひもにされるポリプロピレンやポリ塩化ビニール繊維のクロロファイバーなどでもつくられたが、(乾質アクリルも含めて)いずれも混紡や染色に難があったとかで、しだいにポリエステル繊維(デュポン社のブランド名はダクロン)に取って代わられた。
それ以前はどうしていたかというと、網シャツがあった。コットンでも肌との間に空間を作れば冷たくならないという考えだった。あるいは着替え。テントを張ったら濡れた行動着を脱いで休み、翌日、濡れた行動着に着替えて出発するという2セットで永久運動可能な方法だ。
●なぜ「登山用」をすすめるのか
ともかく、コットンの肌着に親しんできたひとには、化繊の肌着というもの自体に抵抗がある。とくにステテコを愛用しているひとのコットン肌着の習慣を変えるのは、ほぼ絶望的といっていい。だから、とにかく、登山用品店で、定価3,000円前後もするTシャツ1枚を買ってもらう。「魔法の肌着」だということで。
じつはこの「冷えない肌着」は近くのスーパーでも安く買える。冷えないだけでなく、暖かかったり、汗くさくならなかったり、もっと高機能のシャツも多い。しかし、最初の1枚は登山用品店で買っていただきたいのだ。もちろん業界のためなどではなく、登山用は小ロットで高価なだけに、最新機能を投入できる。しかも余分な機能を加えないというシンプルさが残される。基準がわかればあとはいろいろ着比べてみればいい。私はユニクロのものを毎年着ているが、設定が一般スポーツシーンなので、80点というところ。着たままで1泊するとちょっと弱点を見せたりする。
ともかく、夏ものにはコットン、冬ものにはウールを混紡したり、暖かくするために遠赤外線効果などを加えたものは全部避けて、化学繊維100%で、ウイックドライ機能だけを追求したものを肌着として着てほしい。その具体的な効能は、またあらためて説明したい。
●容量25リットル前後のデイパック
初めてのひとが登山用品店に行ってザックを見ると、その巨大なのにビックリしてしまう。だから登山用としての最小サイズを「25リットル」と指定しないと、サブザックにもならない無駄な買い物になってしまう。デイパックでないほうがいいとは思うのだが、山歩きにチャレンジはしたものの、うまくはまらないひともいる。デイパックなら災害時避難用などさまざまな活用チャンスがあるだろう。冬の日帰りでも防寒衣類をぜんぶ押し込むことができるはずだ。
それにしても、ザックも登山用とレジャー用とでは値段がひどくちがう。買わされる方は悩むところだから、「リットル表示のあるものなら」という品質区分をしている。
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