軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座006】登山を4次元で考える――2006.1.10


●スタート時間

 登山がほかのスポーツのように計量化しにくいのは、地形的な変化に加えて、時間の変化が大きくかぶさってくるからではないだろうか。陸上の棒高跳びやスキーのジャンプ競技ではコーチが風の吹き方を見ながらスタートするタイミングを判断している。登山でも時間の流れ方によって難易度が大きく変わる。
 山では常識として、「早出、早着」というのがある。朝はできるだけ早く出発して、できるだけ早く行程を終えて下山するという常識の人が多いので、山手線駅8時集合、あるいは9時集合という私たちは登りはじめから下山の人たちと交錯することが多い。そしてけっこうバカにされる。
 なぜ集合が遅いかという背景には地理的条件がからんでいる。私の会の参加者には朝日カルチャーセンター横浜と千葉、そごう八王子友の会からのみなさんが三角形の外郭域にあり、中心部に東急セミナーBE、東武カルチュアスクールからのみなさんがいる。とくに千葉からのみなさんの中には、JR千葉駅からさらに小1時間という人もいる。
 千葉からのみなさんに対しては、最も早い列車を千葉発6:38のあずさ3号としている。これは新宿が7:30の中央本線特急・南小谷行きなので、中央本線周辺の山はこれが定番となっている。
 ところがじつは、渋谷の東急セミナーBEや池袋の東武カルチュアスクールでは目安を9時集合とした。山手線駅9時ごろの集合ではラッシュのピークに巻き込まれてかえって困るという意見が出るけれど入門編の「9時集合」という目安は押し通している。
 ……なぜか。山歩きを始めたばかりのみなさん、とくに主婦のみなさんは、出かける日が思いのほか忙しいのだ。子どものころの遠足前夜のようなウキウキ感とコマゴマとした準備になかなか眠れないのだそうだが、もちろんそれだけではない。自分の遊びのために家族に迷惑をかけられないということで、前夜に翌日の夕食を準備したり、朝食や弁当のやりくりをしたりしていると「寝る暇がない」のだそうだ。
 そこで家族の朝食が終わってから出かけられるように設定した。本人にとって山歩きが「月イチ」の重要なものとなれば、その日に出かけることが結果として家族全員のハッピーにつながるという表現もだいじになるし、あるいは強引に家族に「月イチ」のあきらめを納得させる必要もある。「早く帰る」といっていた人が「きちっと食事して帰ります」というようになったら、山歩きの家庭内環境が整ってきたと判断できる。
 私がすすめる「月イチ」の軽い山歩きは、月替わりのカレンダーにひとつ○がつくだけなのに、その○がその月の中心になってくる。近づくに従って体調の管理を考え、家族のようすにも観察の目をひからせ、親や親戚に大きな異変が起きないようにと軽く祈る。日々が流れていくなかで、それに棹さす○になる……らしい。
 私は原則としてトレーニングを禁じているので、「月イチ」の軽い山歩きは運動効果としてはほとんど期待できないはずなのに、驚くほどその人の生活を変え、肉体を変えていくのは間違いない。生活に張りを見つけ、筋肉を刺激するだけで人間は生き返るという感じがする。
 山歩きのスタート時間が何時であるかは、じつはあまり意味がなくて、何時にするかをきちんと考え、日常の生活の中に小さなくさびを打ち込むということに、登山の4次元効果が期待できるということは10年やってきて痛感している。


●じつは下山を夕方にしたい

 「早出、早着」という常識をちょっと横目で見ながら、遅出にしていると、昼頃にもう山を下ってくる人たちの時間の豊饒感はもちろんわかる。小屋泊まりの翌日にそういう下り方をすると1日がなんと長く感じられることかと思う。
 けれども、私はむしろ積極的にたそがれ時に下山するというあたりにスケジュールのスタンダードを設定している。
 車を運転する人は日が沈むころ、ライトをつけようかどうしようかと思う時間帯が1日のうちでかなり際だって特別なものだと感じているのではないだろうか。少なくともドラマチックな時間帯で、事故もまた起きやすい。
 山歩きも全く同様ドラマチックで、移り変わる風景は、1秒、1秒、メリハリのある展開をしてくれることが多い。そしてもちろん夕闇との競走ということにもなり、突然の思わぬ出来事によって事故も当然起きやすい。
 山という自然が1日という時間枠の中でいちばん激しく変化するのは日の出前の1時間と日の入り前後の1時間ではないかと思う。太陽のライティングシステムが1日をどう見せてくれるかと考えてみればすぐにわかることだ。私はみなさんからお金をいただいて山を案内するという役だから、そういうドラマチックな演出を無視するわけにはとうていいかない。
 小屋泊まりでは「日の出の1時間前」を出発時刻と決める場合が多い。日帰りでは、だから、どちらかといえば出発を遅らせて、日の入りの前後1時間をうまく山歩きのスケジュールに組み込みたいという姿勢でいる。
 すなわち「暗くなってから山を下りる」ということを計画として容認している。山の常識としては危険思想といわれるかもしれないが、私は山歩きの演出家として、非常に重要なポイントと考えている。


●目を開かせたい

 さらに過激といわれそうだが、秋口には、「秋の日はつるべ落とし」ということをうまく体験できるように仕組む。下山途中に暗くなるように時間を調整するのだ。明るいうちに下りきれなくて、ライトを出さないと歩けない……と一般に考えられる状態で、ライトをつけずにどこまで下れるか体験してもらうのだ。
 これはもちろん、日没のドラマをたっぷり体験してもらう演出ではあるのだが、その先には、人間の目が暗さにどこまで対応できるかということを実験してもらう。
 通常、山歩きでは目からの情報を圧倒的に重要視する。目で見て、頭で判断して手足を動かしているので、経験の幅の小さい人は当然経験則が貧弱になっている。しかし人生経験という総体にはだれも自信の裏付けがあるので、結果として貧弱な経験則で突撃していくことになる。
 そこでたとえば目からの情報を極端に絞ってしまうとどうなるか。人間の目は単純なレンズと想像以上に高機能のイメージセンサー(網膜)でできていて、視野の中心に超高画素、中央部に色彩重視の高階調画素、その外側に超高感度の(ほぼ)白黒画素を配して、活字の1文字から左右180度の「背中に目」状況にまで対応している。最新のビデオカメラやデジタルカメラの「電子ズーム」に似た構造だが、網膜上で画素を構成する視細胞の密度にはまだとうてい追いついていない。
 暗くなると見たいところを直接見ようとしても見えなくなる。周辺視野でものを見るという日常生活ではあまり使わない使い方を試みて、パターン的に得られた情報、たとえば道の白いものと黒いものが石なのか、水たまりなのか、突起なのか、窪みなのか、あるいは何でもないちょっとした陰影なのかをパターン認識として取り込んでいく。危険な歩き方……ではあるが、そこですばらしい体験ができる。
 目からの情報が極端に少なくなったらどうするか? つま先で路面を探りながら歩いていく。ドロボーさんが抜き足、差し足で安全かつ確実に前進しようとする歩き方を山道で体験する。……それがいいのだ。つま先歩きによって重心が前に出て、センサーになったつま先に全神経を集中して、触覚から得た情報を蓄積しながら前進していく。
 ……と書くと難しそうだが、難しいのは視覚情報を閉ざされた混乱によるもので、じつは人間の目は相当暗くなっても使えるということもわかってくる。ライトをつけてしまえば周囲は闇だが、つけなければ山の夜道をなんとか歩ける程度の視力は持っている。月でも出ればすばらしい照明だ。
 肉体の眠っている能力でいちばんわかりやすいのがこの暗視野能力ともいえる。自分の経験域が想像以上に狭いということがわかれば、賢い頭なら反省して、肉体各所の潜在能力をよみがえらせ、全身をセンサー化して力の衰えを総合力で補うという行動力再生工場化をめざすことになるかと思う。
 頭をCPU(中央演算処理装置)とし、からだ全体をセンサーとアクチュエーター(駆動部)としてフル動員できる状態にすると、総合的な行動能力は飛躍的に向上する。浅はかな頭で考えて筋力トレーニングする自己満足よりも、山と直接向き合って総合力で向上しようという姿勢のほうを私は評価する。筋力には限界があるけれど、脳力には限界がない。いったん受け皿をつくれば、自習効果でみなさん成長していく。
 「早立、早着」はじつは標高2,500m以上の森林限界の上の世界での常識ではないかと思う。午後に発生する雷の危険を避けるという意味で、私も優先順位を一番にもってくる。雷は時速40kmで突進してくる暴走車というイメージだから当たれば命に関わるし、いざこちらに向かってきたら逃げようにも逃げられない。夏の日本アルプスの縦走路では「早立、早着」でありたいし、冬であれば雪崩の危険をさけるにも「早立、早着」は必須の条件となる。
 問題は、早く下山しさえすれば安全という一面的な信仰の場合で、山から4次元的な複雑さを排除しようというのなら、それは同時に、4次元的な奥深さを切り捨てていることにもなりかねない。


●天気も4次元の目で

 天気についてはここでは詳しく書く余裕がないけれど、最近の天気予報はまったくお粗末になってしまった。
 テレビやパソコンで衛星からの雲のようすを見ることができるので現在までの天気状況はすばらしくよくわかる。気圧配置図の等圧線もコンピューターで書かれているためか精密な地形図のように確信を持って引かれている。
 ところがテレビなどで天気予報を聞くと、週末は明らかに悪い方に強調される。「山や海へのお出かけは控えて」などというから山の天気に責任をもっているかというと、ぜ〜んぜんそんなことはない。天気予報はあくまでも人が住む平地のためで、それも雨が降るか降らないかというところに関心の中心がある。
 週末の「お出かけ」が天気予報のおかげで大量のドタキャンを生んでいて、私のように天気予報は実体天気とはまったく別と考えていると、観光地がすいていて、しかも絶好の天気ということをかなりの確率で体験する。
 台風の日も交通が途絶えなければ出かけるが、そういう体験をすると天気の予報と実体とが(控えめに「山においては」と言っておくとして)どれほど隔離していることが多いかを体験できる。台風のときなど、そのフロントラインのいちばんひどい状況ばかりを中継しているので、日本中がそうなる危険を感じさせるが、たとえば山梨県の人たちは「こっちへくることはあまりないから」とのんびり構えている。登山者はとうぜん山梨の人ではないから台風が自分を襲ってきた場合を想定している。
 ごく初歩的な一般論として、台風は日本列島に上陸する前と後とでは状況ががらりと変わる。変わらない場合には特異な台風ということになる。……ということは山歩きのための天気予報で必要なのは上陸後の予報なのだが、気象庁はなかなかそれを予報してくれない。予報なしに現状ばかりが情報として流されている。
 私は山で台風を体験することに大きな価値を感じているが、それは天気の変化を時間の推移とともに体験できるからだ。ふつうの台風なら山の樹林帯で接近遭遇しても、豪雨という以上のものではない。これが新宿だったらビル風でたいへんだろうなと思うほど森はやさしく包んでくれる。
 天気が動いているという認識があれば、「いい天気」と「悪い天気」があるとして、それが週末にかかってくるかどうかは、予想するスピードによるという余裕幅を加えて考えられる。ところがさらに、天気の動きは大気の流体力学によるものだから、川の流れが強弱いろいろあるように、ある場所で強くなる場合と、弱くなる場合とがある。天気予報が結果としてストライクだとしても、早い遅い、強い弱いの幅によってストライクゾーンを広く見ておかなければいけない。そして山の天気はストライクゾーンから地理的にすこしはずれている場合が多いのだ。
 天気のいい・悪いが、雨が降る・降らないと同義なら降水確率という不思議な数字に価値があるとしても、天気がゆるやかな波として感じられたら、波の間にただようように天気を迎えることになる。いい空はいい天気とはかぎらないし、いい雲もいい天気とは重ならない場合がある。私はいい天気よりむしろドラマチックな天気を山で体験したい。すると屋久島で「あそこで雨が降ってよかったね」というところまでみなさん成長してくる。


●季節も4次元

 私の山歩き講座は12か月同じ日程で山に出かける。入門編で「冬はお休み」というひとがいるとまわりのひとが必死で引き留める。太平洋岸では冬晴れが続く。雑木林は葉を落として周囲の風景がよく見える。北風がビュンビュン吹いているのに、山の斜面では驚くほど風が弱く、日だまりハイクで遠赤外線効果のポカポカ気分のことが多い。「いちばん寒いのは家を出るときよ」というわけだ。
 樹林の中の雪道は基本的に雪崩の危険がない。滑落の危険も少ない(ルートによってあるかもしれないので要注意。場合によっては引き返すことも選択肢に入れておく)。スノートレッキングとか、スノーハイキングと呼ばれる領域を樹林帯と考えて、滑落停止のためのピッケルでなく、バランス保持のためのダブルストックで歩く範囲としたい。
 さらに、もっと「冬ならでは」の体験として、以前はクロスカントリースキーやテレマークスキーで樹林帯の処女雪を歩き回った。いまは初体験者でもスキーの最上級ゲレンデ周辺の樹林帯を歩き回れるスノーシュー(西洋かんじき)を集中的に利用している。八甲田山や蔵王など、第一級の冬の山を観光とスキーのちょうど中間で、雪と遊ぶことができるようになっている。
 1年を大きく2つに分けて、新緑〜盛夏〜紅葉までのスリーシーズンと、それ以外の「冬」をシームレスにつなげて山歩きを楽しんでいただきたい。


★目次に戻ります
★トップページに戻ります