軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座013】「リーダー役」のすすめ――2006.4.25



■北アルプス・燕岳頂上付近――1996.8.24
我が子にこの風景をみせてやりたい。「リーダー役」のひとつの原点がここにある。


●単独行とリーダー役

 この講座の第1回目で(いささか唐突に)「『単独行』のリスクとメリット」について考えた。中高年になってから「山歩き」や「登山」をはじめた人に(かなり共通して)内在する単独行志向と、単独行という方式によって得られる大きな価値について、最初にどうしても触れておきたかった。
 今回はその続きのつもりなので、その最後の一説を、ここで引用しておきたい。

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 「危険な単独行」と見えるのは、たとえばどういうものかというと、平日、玄人好みの山で出会う人たちだ。おそらく周囲の人を誘ってもあまり喜ばないような地味な山に、仕方がないからひとりで来ているという感じ。それに対して「危険の少ない単独行」とは、声をかければついてきたい人がいそうなポピュラーな山の休日登山がその代表。花や景色や温泉など、付加価値の大きいものならさらにいい。
 単独行を最終形と考えずに、「単独偵察行」と考えれば、誰かを連れてきたときの状況を想定しながらリーダー技術を高めていくことにも通じる。自己完結的ではあっても孤独である必要はない。そこに視野の広さが加わっていれば、単独行はハードな側面をもつけれど、単純に危険というものではない……といえる。危険な領域ということを敏感に意識しながら危機管理の能力を磨く最短の道といえる。
 小さな失敗をたくさん経験しておく権利――ということを考えて単独行も視野に入れておいていただきたい、ということだ。
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 孤独を愛するという志向の強い単独行ではなく、「たまたま単独」での偵察行ということになれば、視野がちがってくる。いい山、いいルートだったら、次にはだれかを案内しようという意識があるだけで、観察が客観的になる。視野が広がる。岩場などではっきりと出てくるが、自分の力量ではなくて、連れてくるかもしれないもっとも弱いメンバーの力量をモノサシにして難易度を判断しているにちがいない。
 そこを自分が通過できればOKというのではなくて、はるかにレベルの低い人の目線でそれを観察し、その人に対するサポートを考えながら通過する。本番で通過するというのと、偵察で通過するのとでは、もちろん偵察のほうがはるかに収穫が多いのだ。
 そういう意味で、人を連れてくることがあるかもしれないと考えながら歩くことを強くすすめたい。自分より低い技術レベルで観察するのでその単独行自体の安全性もずっと高くなる。


●リーダー責任にかかわる判断基準

 山におけるチーム登山のリーダーには絶対的な権限と全体的な責任が与えられている。世の中では「……という前提」ということが多いけれど、山では「文字どおりに」という場合が多い。学生の山岳遭難事故で裁判沙汰になるなどもその延長と考えていい。まして社会人の場合にはひとつの事故の裏にはさまざまな責任問題が浮上してくる可能性がある。
 私の場合はボランティアではないのでもっとシビアだが、ひとつ間違えば……という事故が何度かある。痛い思いをする程度の危険に対してはほとんど注意しないけれど、一次的、二次的、三次的に生命にかかわると思われる危険な要素に対しては、徹底的に現場に張り付くことを原則にしている。
 そのとき、メンバーの実力をあまりにも過小評価していたと反省することも多いけれど、そのときの、私の判断が「重大な危険」と判断したのだから、しょうがない。
 車を運転するとき、本当の急ブレーキの踏み方を知って運転しているかどうかは最終的な安全性の確保に大きな問題だが、その手前で、→減速する、→アクセルを離す、→アクセルをゆるめる、→不安な要因を発見する、という何段階もの危機管理手順を踏んでいる。リーダーが責任感を持つということは、最後のリーダー判断のいさぎよさによるのではなくて、危険という潜在要素にたいしてどれだけ細かい判断基準を用意しているかということではないかと思う。
 たとえば、料理人はどうしたって味覚センサーとしての舌の性能が最後には効いてくるにちがいない。私の古い友人が本に載るような蕎麦屋をやっているが、子どものころの味覚体験が生きているのではないかという。人間のセンサーには感度や分解能といった基本性能も重要だが、脳の側に蓄積された判断のためのデータベースのほうがもっと重要かもしれない。
 美術系の人たちと話していると、色の分解能が断然すごい。水平に対する目の厳しさや、大きさのずれに対する検出能力など、まるでスーパーマンのように感じることがある。
 では、登山グループのリーダーが、最終責任者として危険というものにたいしてどれほどの分解能をもって予見(あるいは想像)できているか。
 先ほどの例に続けていえば、ドライバーにおける「→不安な要因を発見する」という初期判断をどのようにおこなっているのだろうか。
 センサーがよくても、それを実行に移すときのアクチュエーターが動かなければ結果はみじめなものになる。しかし、センサー機能は努力することによって一定程度まで向上させることができる。すなわち小さな失敗をたくさん経験することによって「経験則」のレベルを確実に向上させることができる。
 いいリーダーはその危機管理センサーとしての役割によって、まず評価されるべきだというのが私の持論となっている。


●センサーとアクチュエーター

 もし、現実に事故が起きたら、その事故の原因と考えられる事々はいくつも出てくるはずである。
 事故が起きれば、そこには必ず原因がある。そのとき原因として数えられるひとつひとつは、事故が起きない場合にもそこにあって、「たまたま」か「予想どおり」か、事故に直接つながらないだけなのだ。
 いくつもの危険因子が登山道のあちこちに存在するのに事故になったり、ならなかったりするのは、いわば病気と同じだ。空気中には無数の病原菌がいるし、水や食べ物にもいる。しかし病気にならないのは体内に入っても生存できないか、生存できても力を発揮できないから。花粉症だのアトピーだの、アレルギー性の病気の多くは、外界の危険因子が多すぎるということに大きく由来しているはずだ。人によっては空から降り注ぐ紫外線も同様の危険因子になるのだが、それらを避けるとか、それらにうち勝つとかいったって、結局は強弱、バランスの調整にゆだねられるにちがいない。
 山の危険も察知するだけならほとんど無数に存在する。だから経験と技量によって危険因子をせいぜい「障害因子」程度にまで押さえ込もうとするし、岩や滝の登攀では「危険」を前提としたところからの安全対策を施していく。
 谷川岳が800人以上の優秀な登山家の命を奪ってきたのは、圧倒的な危険因子のなかで登攀を成功させようとしたチャレンジの結果だった。危険因子を限りなくゼロにしたい人は、下から見上げるだけにしておくべきだ。
 登山者がセンサー能力を引き上げようとすると、それは同時にアクチュエーター(実行部分)の能力との切磋琢磨を求めることになる。最初に「できない」と考えられていたことができるようになるとセンサーは新しい数値によって動き始める。
 一般のスポーツであれば条件を統一して、記録や勝敗が残るように工夫される。ところが登山では初登(だれが最初に登ったか)以外はきわめてランクの低い記録としかならない。登山道から踏み出さないという私の登山領域は「初登頂」をめざす登山家の行動領域からすればアプローチルートにすぎない。つくられ、整備された道をたどるだけだから、「初登」もへったくりもないわけだ。だから各種の「百名山」を必修単位化することによって「記録」にとどめようとする人も出てくる。コレクションという評価基準の導入だ。
 結果重視の「どこへ登った」ももちろん大きな励みだし、「登れるうちになんとか槍へ」と考えるひとには目標として大いに利用していただきたいが、「リーダー責任」という役割を意識した瞬間から、「どう登るか」という側面が価値を増大させてくる。
 私がこの連載の最初に「単独行」を考え、ここで「リーダー役」を考えるのは、登山者が自分流の歩き方、登り方の限界値を見いだすところまで進化するのに重要な課題ではなかろうかと考えているからだ。
 正規の「リーダー」になるにはまず所属するグループがあって、その中心で働いて、メンバーの信頼を得、志を立てて立候補する……というような社会的活動が求められる。しかし「リーダー役」なら自分ひとりで成立する。もともと単独行そのものにリーダーとメンバー(フォロアー)の両方にまたがるものを要求されている。その中のリーダー的要素を意識することによって、自分自身の能力を内側から向上させる効果を発揮させることになる。たとえば(いささか強引に)リーダーをセンサー能力、メンバーをアクチュエーター能力と考えてみればいい。


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