軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座018】水と水分。持ち方、飲み方――2006.7.10



■絶好の休み場――2004.8.24
乾徳山(2,031m)の中腹・扇平に大きな石がひとつある。月見石というのだそうだが、富士見石でもある。展望絶佳のこの石では長い休憩をとってのんびりと休みたい。弁当と飲み物をゆっくりと味わいながら。



■山頂でかき氷――1996.7.13
場所は箱根外輪山の明神ヶ岳(1,169m)。2リットルのPETボトルを凍らせて、断熱のキャンプマットで密封しつつ3重に包んだら、ほとんど溶けなかった。完全に凍らせてそこに水を入れて冷水を供給するほうが効率がいい。



■リラックスできる休憩――1999.7.21
ただの労務管理的休憩ではなく、身も心もリラックスできる休憩場所をみつけたら、存分に楽しみたい。これは湯河原の幕山(626m)山頂。真夏にたっぷり汗をかいて、温泉に浸かる心地よさは、また格別。


●夏の水分補給をどうするか

 昔なら「水筒」といえばすんだのに、いまでは古すぎて山道具としては一般名詞と受け取ってもらえなくなった。ポリタン(ポリエチレンタンク)も同様だろうか。
 それについては後で触れるとして、これからの季節、山登りの明暗をわけるのが水といっていい。
 私のようにギャラをいただいてみなさんを山へお連れするという立場でいちばん恥ずかしい失敗は熱中症だと考えている。
 登山であれば行動中の転倒・転落事故が当然考えられる。岩稜では落雷の危険も大きい。人によってはクマに襲われる危険もありそうだが、私ならスズメバチのほうが数百倍恐ろしい。
 そういうもろもろの危険にはいくら責任ある立場でも情状酌量の余地がある。危険をゼロにしたければ自由を100%縛らなくては……などという強弁もときに成り立つかもしれない。
 しかし、夏に多い熱中症と、冬に多い低体温症とは本人の気づかぬままに進行して、非常に高い確率で死に至る危険がある。仕事として同行している以上、だれかにそのような危険が迫ったら責任を感じなければいけないと考えている。
 ……で、とくに、夏に向かうこれからの時期、水分補給という日常とはいくぶんちがう行動技術が重要になってくる。
 昔「水を飲むとバテる」とか「強いヤツは水を飲まない」といわれたことの誤りは今では完全に常識となっている。水は飲まなければいけないのだ。
 なんのために飲むのかといえば、体内でさまざまな仕事をして出ていく水分のマイナス分を補給するために飲むのである。
 暑い季節になると体温を上昇させないように水を冷却水として使用する。汗となって蒸散するときに気化熱によってできるだけ効率よく体温を下げようとする。
 家庭の冷房と同じで、夏になると冷房のためのエネルギー消費が増大する。家庭の場合は電気代や水道代となるわけだが、山歩きではそれが「水」になる。
 誤解が生じやすいのはここのところだ。体温が上昇したら危険だが、それまでは大丈夫かと思ってしまう。気分が悪くなったり、顔がほてったり、力が出なくなったりしたときにはもうよほどの幸運がなければ体温は下げられない。
 山の中で熱中症によって動けなくなった人が出たとする。体温を計ればおそらく40度C前後だろう。それが43度Cあたりまで上昇すれば死に至る。水を飲ませようが、外からぶっかけようが、頭を上げようが下げようが、どうにもならないといわれる。救急車で病院に搬送して、救急医療にゆだねるとしても、助からないかもしれないという。
 暑いの寒いの、という前に、水分の現象による血液濃度の上昇というところに危機管理の要点があるということを知っていなければいけないのだ。
 血液がサラサラか、ドロドロかなんてもちろんわからない。わからないのに管理することなんてできるのか。
 じつは人間のからだの複雑な動きを円滑に維持しようとするときには、ほとんどすべてリモートコントロールによっておこなっている。肩たたきもお灸も、ビタミン注射も、痛み止めも、ほとんどが当てずっぽうかもしれないリモートコントロールといっていい。
 血液濃度と、最後の段階の体温調節を水分補給によって行おうと考えるのだ。
 私の場合は次のような手順を踏む。まず、水分補給が不足しないように、休憩ごとにザックを置いて、水を一口飲んでもらう。いらなければ一口でいいし、ほしければ二口でも三口でもご自由に、という立場をとる。
 その中でがぶ飲みするような人がいたら注目する。つまり一口の水ががぶ飲みの水になったら、理由は何かわからないが注意信号と考える。
 身体が欲しているから水を飲むわけで、たくさん飲むにはそれだけの理由があると考える。
 「水を飲むからバテる」のではなく、身体の調子が悪いから大量の水を飲みたくなると考える。単なるバテだとして、もがけばもがくほど、周囲の人より激しい運動をしてしまうので、大量の冷却水が必要になる……というのなら歩き方の問題だ。運動強度が上がらないような歩き方をしてもらってようすを見る。
 それでもだめなようなら、休憩時に長い話などして時間を引き延ばしてみる。その人がそれによって回復の兆しを見せるのか。
 しかしそれでもだめな場合、状況は深刻になりつつあると考える。空身になって歩いてもらったり、予定のルートを変更して車の通る道までできるだけうまく逃げることなど考え始める。
 そんなとき、顔が赤くなって嘔吐したり、逆に顔面蒼白になってめまいがしたりするとなると、以前日射病とか熱射病と呼ばれた症状の発症と考える。すでに40%が死亡に至るかもしれない危険な状態になっている。ヘリでも呼ばなければ間に合わないかもしれない。
 そういうシナリオを描きつつ、その人の回復のチャンスをつくろうと努力する。
 熱中症には血液濃度が上がるというイメージに加えて、体温調節中枢の失調というむずかしい領域もかかわってくる。だからそのはるか手前、身体が水分を欲し、それに必要量を供給してやれるときの健康状態が崩れる兆候をできるだけ見逃さないようにしなければならない。
 非日常的な行動領域にあるみなさんを日常的な状態で観察できる私の役目は大きいのだ。
 水分の補給は、だから杓子定規で考えてはならない。ほしいだけ摂取するという大原則をいかに維持するかが重要なのだ。


●2リットルをどうもつか

 梅雨どきから夏の初めにかけて、メンバー全員が水をがぶ飲みするような日がときどきある。からだがまだ暑さに慣れていないときに、猛暑の山歩きをさせられたというような日だ。蒸して暑いという日かもしれない。
 個人個人の体調ではなくて、みんなが同時に異常という場合だってあるのだ。だからとりあえず、水は飲みたいだけ飲んでみる。
 そのことを実現するために、まずトイレの保証をしておかなければならない。トイレを我慢するために水を飲まないというのには環境に配慮して身体をいじめるという怖さがある。頭がからだをそこまで鈍感に支配できるということが恐ろしいのだけれど。
 だから山中にトイレがあればもちろん逃さないが、山中でトイレのできそうな場所をつねに考え、女性の場合は使用ペーパーの持ち帰りを厳守する。
 それから、もちろん、水をたっぷりもっていること。
 通常、人間のからだは1日に約2.5リットルの水分を必要とするのだそうだ。暑い日中にそれなりの運動をするわけだから、1リットルは必要だということがわかる。人によってはそれでも足りない。そこで真夏には「1.5リットル以上、できれば2リットル」というのが私のアドバイスとなる。
 2リットルはPETボトルでいえば500ミリリットルの飲料が4本。1本を常用として、2本目が予備。そこまではまちがいなく消費するので、3本目を非常用と考えてみる。そして4本目がスペシャルドリンク。こうすると自分が水分をどのように消費しているかが把握しやすい。
 PETボトルで換算したが、たしかにPETボトルは軽くて便利だ。とくに汗で消失するナトリウムやカリウムなどのミネラルを補給したり、吸収をよくするためのスポーツドリンクを選り取り見取りできるのはうれしい。しかし「水筒」としては脆弱な構造なので、ザック内で破裂したりする危険は考えておかなければならない。
 現実はどのようになっているかというと、私の場合はもっともシンプルだ。夏も冬も持つのは普通の水道水。ザックの外ポケットに500ミリリットルのナルゲンボトル(米国ナルジェ社のプラスチックボトル)をもち、ザック内に1リットルのエバニュー社のポリカーボネートボトルを放り込んである。合計1.5リットルだが、じつはザック内にはチーム全体の非常用水を2リットル以上持っているので、必要ならそれを取り崩すことができる。冬のスノートレッキングでマイナス10度Cという場合もあるので、ボトル内に氷が張ることはあるけれど、外気にさらした500ミリリットルが凍りついたということは経験がない。行動時間が限られているからだ。
 多くのメンバーは保温水筒を常備している。四季を通じて暖かい飲み物を飲めるようにしている。お茶やコーヒーを入れている人もあるけれど、白湯を入れて、スープやインスタントコーヒー、インスタント緑茶、抹茶など臨機応変に利用できるようにしている人もいる。満タンの状態がいちばん保温性がいいので、食事のときに最初に使って、残りは適当に、という考え方が合理的だ。
 スペシャルドリンクとしてはまた、夏は冷たい飲み物に絶大な価値がある。そこで飲み物やゼリー状の携行食を冷凍して、くだものなどといっしょに保冷袋に入れておくと、さまざまな冷たい飲み物や食べ物を楽しむことができる。保冷については「潜熱の利用」というあまり理解されない科学的大原則があるのだが、それはまた別の機会に。
 温かい飲み物は「夏でもからだにやさしい」とみなさんはいう。冷たい飲み物は夏の山ではそれだけで甘露だし、吸収性もいいといわれる。
 それに常用の(短い休憩時間にも取り出して一口飲める)水(やスポーツドリンク)が500ミリリットル+αあれば、1.5リットル〜2リットルの、かなりぜいたくな水分摂取が可能になる。
 ところで、以前なら山には水が満ちあふれていた。地図に「水場」とないところでも、「三尺流れれば元の水」という大原則が信じられた。
 今だってそういう山歩きをしている人は多いだろうが、日帰りの人はまるで軍隊のように自己完結型の行動になってきている。そしてそれは、たぶん正しい。山の上に何があり、なにか薬品が撒かれていないか。信用できない世の中になっている。
 だから山歩きの行動中に摂取する水分はすべて携行するという前提で考えてきた。
 しかし、水分摂取ということでは、その前後の問題もある。たとえば小屋泊まりなどの場合、朝食をとってから出かけるときと、出かけてから朝食をとるときとでは水分の必要摂取量がかなり違うという実感がある。
 水分は、必ずしも水として飲むとは限らない。みそ汁、お茶などは限りなく水だけれど、食べ物にも水分は含まれている。そういう朝食分の水分を持って出るとなると単純に1食分をプラスする必要がある。
 あるいは、下山が遅れて暗くなり、さらに終電に間に合うかどうかというような状況になった場合を考えると、通常は夕食時に補給される水分も持参していなければならないということになる。
 先に述べた「経験的に1.5リットル〜2リットル」という量には予備的なものも含んでいるつもりだが、朝食分や夕食分まで含んでいるとはいえない。
 だから、ある日、なぜか水分が不足する可能性が出てきたとしたら、その大きな危険を避けるために、山中で水を飲むとか、補給するという可能性をリーダーは考えておかなければならない。
 私はリーダーたらんとする人に、夏が始まるこの季節には4リットルから6リットルの予備の水を持つことを提案したいが、それは水だけにとどまらない問題なので機会があったら語りたい。


●携行ボトル

 今回この原稿を書くので調べてみたら、一世を風靡したフランスのグランテトラやドイツのマルキルのアルミ水筒は、いまやかなりマイナーな存在になっているらしい。
 元祖はどうもマルキルのようで、アルミ水筒の内側に特殊なコーティングがなされていて、酒などを入れても飲み物の味が変わらない。マルキルの発明といわれるのは針金細工の口金で、ワンタッチ式のビアボトル・ロッキングシステムという名前。ビールの口金に由来するようだ。軽い力で密封できるが、扱いが悪いためかザックの中で口金が開いてしまったという事故を何回か目撃した。
 アルミ水筒という雰囲気ではなくアルミボトルと呼ばれるものの代表にスイスのシグがある。スペインにはラーケンというのもある。
 ねじ込み式の口金を採用して、ガソリンやアルコールなど燃料ボトルとして使われるだけの安全性を保っている。そのねじ込み式口金に円い孔があいているのは、そこに棒を入れて強く閉めたりゆるめたりできるほかに、指を入れたり、ロープを通したりしてぶら下げられる用意で、それだけ頑丈につくられている。
 しかし、アルミの水筒にはもうひとつ大きな役目があって、軍隊式の水筒はたき火で水を煮沸できるということが命に関わる場合がある。登山用ではほとんど考えなくていいけれど。
 グランテトラやシグボトルが華々しく登場する前、私たちは水も燃料もポリタンで携行した。今もほとんどそのままの「エバニューのポリタン」だった。
 しかしポリタンには独特の臭いがある。……当然、化学物質の何かが溶出しているわけで、使いながらときおりいやな思いをしたものだ。
 だから入れたものの味が変わらない特殊コーティング処理をしたアルミ水筒が爆発的に売れたのだろう。
 いまはどうか。日本のエバニューが化学安定性の高いポリカーボネートのボトルを用意してくれて、状況はかなり改善された。米国からはナルゲンボトルが入ってきた。「レキサンボトル」と呼ばれているのはポリカーボネート製だが、もともと学術研究用高級プラスチックボトルに始まるという。画期的な機能はパッキン(パッキングリング)を使わないで、ねじ込みキャップそのものに密封機能を持たせたことだ。パッキンを変えなくても使い続けることができる。
 また、水を凍らせて保冷剤兼用とする場合には米国カスケードデザインの折り畳み式(というかフレキシブルタイプ)のプラティパスがある。ふくれあがった氷が容器を破壊するという事故は起こらない。
 そして忘れていけないのはPETボトルだ。ポリエチレンテレフタレート樹脂は透明で酸素を通しにくいので中味が酸化しにくい。おまけに2リットル入り容器でも80gという圧倒的な軽さだ。
 出がけにミネラルウォーターやスポーツドリンク、健康ジュースなどを適量購入して、常用の水筒や携行ボトルを持っていない人も多い。
 しかし、そろそろその弱点も知っておかなければならない。PETボトルには炭酸飲料用の耐圧型と、85度Cの加熱殺菌に耐える耐熱型、それから耐熱も耐圧も考えない一般用とがあるという。
 さらに重要なのは酸やアルカリに対する耐性がほとんどないこと。食酢程度までが許されるという。アルコール飲料の場合は耐有機溶剤性というのだそうだが、焼酎用のPETボトルが限界とか。
 圧力や温度に弱いということは忘れてはいけないのではないか。
 そこで私の提案だが、休憩ごとに口に含む水についてはPETボトル飲料か、500〜750ミリリットルの透明ボトルをお勧めする。飲んだ水の減り方が見えることで、水分摂取による当日の体調や環境変化が読みとれる可能性があるから。
 その時期に特別に「おいしい」と思う「湯」や「冷水」を500ミリリットル程度、いろいろ工夫してもつことをお勧めする。たとえばどこかで抹茶を入れ、和菓子をいただくというぜいたくまで考えていただきたい。
 そしてザックの底に放り込んでおいても安心な携行容器(ポリタンやその進化タイプ)に予備の水を入れておく。浄水器を通さない水道水であれば、入れっぱなしで数ヶ月はもつので、もっぱら私はそうしている。


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