軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座019】天気予報と山の天気――2006.7.25



■大蔵高丸〜ハマイバ丸の花畑――2001.8.11
大菩薩峠から南に下る長い尾根は標高約1,600mの湯ノ沢峠から表情を一変する。小さな花畑がすこしずつニュアンスを変えながら語りかける。



■白馬岳から槍ヶ岳を望む――2004.7.22
前日、東京から栂池を経て白馬大池山荘に入った。乗鞍岳(標高2,437m)では風雨とも激しくて、明日はどう逃げようかと考えていたが、翌日はこの天気。白馬岳からの展望は唐松岳〜五龍岳〜鹿島槍ヶ岳、はるかに槍ヶ岳と完璧だった。


●天気予報が日本経済に与えている損失

 ……なんていう大仰な見出しをつけているけれど、じつはまちがっている。天気予報ビジネスはまさに日本経済に寄与する形で成立しているというのが正解。その陰で、ごく一部の地域経済に、かなり深刻な経済的損失を与えている……というべきだが、「地方だって日本経済に変わりはないジャン」といいたいほど腹の立つ現場を何回も見ている。
 私は年に100日ほど山に出かける。ほとんどは首都圏周辺の山だが、新幹線や飛行機を使った山もその中に含まれる。
 日程は半年ごとに「第何何曜日シリーズ」として発表してしまうので、天気の動きとは完全に無関係になっている。
 当然、みなさん、出てこないのではないかというような最悪の天気予報のときもある。
 台風の場合は「台風を体験しに行く」という文脈があるので私の特殊な嗜好として除外するとして、どうにも陰鬱な天気予報のときがある。
 天気の「いい」「わるい」の評価基準のあいまいさが問題の根っこにあるので、ここではごく一般的な言葉づかいとしていうが「わるい」にはふたつある。(「いい」というのにも異論はいろいろあるけれど「いい」として)
 たとえば、田宮二郎と勝新太郎のユニークなコンビが暴れまくる大映映画「悪名」(今東光原作)のような「悪」の天気を私は「ドラマチックな天気」だと考えている。雲が飛び、ガスに巻かれ、土砂降りの雨に襲われたりする体験は「カネでは買えない」という経済的な意味で価値がある。
 しとしとと降り続ける雨も、私はしばしば「ラッキー!」と考える。毎年夏に南大菩薩の大蔵高丸あたりを歩いているけれど、13回のうち、一番気に入った花の写真が撮れたのは霧雨の日だ。伊豆の天城山もシャクナゲの時期に過去9回通っているが、富士山の見えない日が、絶対にいい。
 花を見たいなら雨でも霧でもいいけれど、ぜいたくをいえばほんのちょっと太陽の明るみがあるといい。晴れでも曇りでも雨でもいいけれど、凡庸な天気は退屈だ、という意味でなら「ただの雨」は「わるい」天気かと思う。
 しかし、ここで問題にしたいのは天気の鑑賞の問題ではない。実体天気の問題ではなく、予報天気の問題だ。
 予報天気と実体天気には何の関係もない。予測値の幅をどこまで正確に狭められるかという意味では「過去の経験則としてはこうなる可能性がX%」という予報には大きな意味があると思う。なぜなら過去の実体天気の統計的結果の提示だから。
 ところが、ちょっと注意深い人ならすでにお分かりのように週末の天気予報は「わるい」天気から「いい」天気へのシフトという表現が露骨に行われている。
 「わるい」可能性を先行情報として、「いい」方向にシフトしていくのであれば実害はないだとろうというビジネス的判断が商品としての天気予報にあることはミエミエだ。
 で、一般市民は「晴れてよかった」と納得している……として、じつは私もその恩恵にたっぷりと浴している。満員ギュウずめだったはずの山小屋がゆったりのんびりだったり、交通機関がラクラク、スイスイだったりして、ラッキーだったねなどと言い合う経験を何度となくしている。
 それも「わるい」天気の中でなら強がりといわれてもしかたないが、(予報を無視して)来てよかったという好天に恵まれたときのラッキー感は優越感とも背中合わせだ。
 私たちが「わるい」天気予報のおかげでぜいたくな気分を満喫しているとき、その周囲で天気予報を恨んでいる人たちがいる。
 天気が「わるい」ならしかたがない。ところが天気予報が「わるい」ことでキャンセルがくる。以前なら(というより原則論では)直前のキャンセルには相応のキャンセル料が発生するはずなのに、電話予約、インターネット予約の客は電話解約、インターネット解約で軽くすませてしまうというのだ。
 それも、もちろん予報どおりの実体天気であればともかく、実体天気の動くスピードが予報の予測より速い場合には「わるい」あとは「いい」という天気の動きの古典的法則にしたがって好転する。(山岳地帯ではその動きが平地より一歩早いことが多いことに注目しておきたい)
 実体天気は問題なくいいのに、予報天気が悪かったためにドタキャンがあったとしたら、その責任は誰にあるのか。
 ……で、一言加えれば、一般市民向けの天気予報はどう考えても「平地天気」の予報であって、山の天気とは関係がかなり希薄だ。
 降水確率についてはこの講座の第7回「『晴天率』というプレゼント」で触れたので参照していただきたいが、降水確率30%は「予報区内のアメダス観測所毎に予報の的中、不適中を判定し」「10地点のうちの3地点」で予報の時間単位(今日は6時間ごと、明日以降は1日ごと)に1mm以上の降水がある確率のことだという。
 観測拠点がなければ(少なければ)降水確率としてカウントされる確率自体が小さくなってしまう。したがって、予報天気ビジネスが都市部や農村部の平地に向けば向くほど、背後の山岳地帯のウエイトは軽くなる。
 そういう予報天気の空白部に対して「週末の行楽はご注意下さい」などと余分な情報を付け加えるのはどうしてか。天気に「いい」「わるい」があるという態度もいかがなものか。そしてそれを求める一般市民の判断力の喪失。天気に対する自己責任すら放棄して、なにが「自然と親しもう」だ。といいたい。
 2005〜6年の冬は大雪で幕を開けた。ところが長野県の南部では例年にない雪不足、新潟の下越地方も雪は少なかったという。長野県の北部と新潟県の上越〜中越地方に雪は集中的に降ったという。
 浅間山の西どなりに人気の一軒宿・高峰温泉があるが、この冬はすいていた。大雪を敬遠して予約がさっぱりだったという。こちらは雪が少なくて雪遊びにはちょっとがっかり。予報の問題ではないけれど、予報ビジネスにおける風評被害には入るだろう。


●日帰りと縦走登山

 中高年の登山グループが天気予報の降水確率によって行く・行かないを決めているということは、最初に聞いたときにほんとうに驚いた。
 私の場合、カルチャーセンターの登山講座では3か月単位で募集されるのが基本だから、「天気予報に関わりなく実施」という原則が浸透しやすい。あとは最大10年以上という古いみなさんだから、「雨でやめます」などという連絡はない。
 もっともからだに無理をしないように、当日でも連絡なしに欠席できるシステムになっている。集合場所に現れなかったら欠席というルールにしてある。日帰りならタクシーぐらいが人数にかかわってくるもので、山小屋泊まりでも出発時の人数を最終報告すれば問題ない。ホテルや旅館を使う場合でも和室ベースに予約できれば、人数の最終調整はほとんどトラブルを生じない。
 あとは私鉄の特急が全席指定で使いにくいが、さいわいに私鉄の場合、特急だけが際だって早いわけではないので、往路は急行や快速などを利用して計画を立てられる。
 つまり、雨天でも実施としておいて、雨で危険とか、雨ではおもしろくないという場合には、安全でおもしろい方向へ計画をシフトさせればいいのではないかと思う。
 かつて、朝日カルチャーセンター立川で富士山一周の撮影ドライブを計画したことがあったが、台風とぶつかって中止になった。朝日カルチャーセンター千葉でも台風情報によって仙丈ヶ岳を延期したことがある。
 中止を決めたときには参加者の利益も考えている。しかし延期したからといってみなさんの都合が合うことは少なく、行ける人にも、行けない人にも損失が生じる。主宰者側も、行けない人が減る分計画実施の可能性が怪しくなり、改めて実施か中止かの判断を迫られる。延期するにしても中止になるにしても、全員に負担が大きい。
 それ以降、基本的に台風でも中止しないことにした。
 台風が来ると、それが直撃する・しないにかかわらず、私鉄は特急から運休。各駅停車だけ残して非常事態宣言をしてしまう。JRも最近はどこかで雨量計が危険を示すとかんたんに停めてしまう。いったん停めると再開までに時間がかかる。高速道路はだいじょうぶかと思っていたが、あちらも雨量などで機械的に通行止めをするので、高速バスも逃げ腰早く止めてしまう。
 山梨県の人たちは、ほとんどの台風はそれてしまうと思っているが、台風情報からは逃れられない。予報天気で動くものは、山梨県だからといって別扱いしてはくれない。
 台風の時に山に出かけると驚くのは、雨が降ったり風が吹いたりするのは大筋予報のとおりだとして、雨が当たるか、風に吹かれるかは微妙な山ひだのぐあいによる。同時に森林帯などの植生による。台風はテレビを見ているときには現実的だが、直接その道筋に立っても、なかなか実感を得られない。先手を打って台風を見てやろうというのは、なかなか難易度の高いたくらみなのだ。
 予報天気が雨だったら山に行かないというのは、逆にいえば予報天気が雨でなければ山に行くということだ。そういう人は、山に出かけて雨になったらどうするのだろうか。予報天気をあまり信用していない私は、そういう心配をしてしまう。
 雨の日にザックを背負って家を出る、あるいは駅に向かうというところが、山歩きをはじめたばかりの初心者のいちばん気にするところだという。「あの奥さん、こんな日に山へ行くの?」という近所の目にさらされるのをどう避けるかに腐心するという話を何回も聞いている。それが、「いい歳をして、大きなザックを背負って、台風が来るというのに山へ行くなんて」というところまでいく。本人は「冥土のみやげに、台風を見られるなら見てみたい」とケロンとしている。
 山で雨にあいたくないという気持ちは、もちろん不純ではない。素直にそう感じていい。しかし、山で雨に合わないはずはない……というのは、たとえば1週間の縦走登山をやった人なら共通の認識だ。
 山の中で雨に合わないはずはないのだ。……とすれば雨の日に山を歩くときの安全はどのように確保するのか、という技術論が最も重要な課題になる。あるいは百歩譲って雨にあいそうならサッサと逃げるとして、誰がどうそれを見極めるかという高度な技術論に突き当たる。本当の意味で天気予知の能力が問われるからだ。
 私がいうほどに現在の予報天気が信用ならないものではないとしても、お上のいうことをそのまま信じて山登り……みたいだとまずくないですか?
 私は著書『ゼロからの山歩き・もっとゆっくり登りたい』(学習研究社・2003年)で次のように書いている。

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 「予報天気」が「実体天気」とかなりちがうという印象は経済と同じだが、山に行ってから予報になかった雨に遭ったらどうするのだろうか。そういう人たちにとっては、思わぬ雨で道が滑る危険が加わってくるというわけで怖い話になってしまう。
 ところが、雨の日にゆっくり山を歩くという体験をきちんとしておけば、ぬれた道が、じつはそれほどやっかいなものではない、ということがはっきりする。「滑りそう」というのと「滑る」の間にはかなりのギャップがあるからだ。
 頭が滑ると思っているほどには、山道では滑らないのに、予報のなかの雨の匂いにどんどん敏感になっていくというのは、山歩きの危機管理としてはかなりお粗末というしかない。
(中略・1年間雨にたたられたケースを紹介して……)
 そういうときには、ゆっくりでも歩き方というテーマが前面に浮き出てくる。ぬれたクサリ場などでは、慎重にかつ安全に歩く練習がきちんとできる。晴れた日には楽しさを追求し、悪天候の日には危機管理的な行動技術を磨くという二つの面を考えれば、それはそれで価値ある山歩きになっている……と私は考えている。
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 まともな雨具をもたずにすんでいる登山者は、ステテコを手放せない海外旅行者と同じではないかと思う。(ちょっと飛躍かな?)


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