軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座021】「勇気ある撤退」について――2006.8.25



■丹沢・木ノ又大日付近の稜線で午後7時――1998.8.16
お盆休みに、オープン参加の納涼沢登りを丹沢でやった。水無川源流の木ノ又大日沢を楽しく登った。ところが小さな子どもも参加していたことから時間がかかった。稜線の木ノ又小屋のところに出たのが午後7時。夕景がきれいなこの写真だ。そこから車を置いた戸沢出合に着いたのが午前0時。小さな子のけなげながんばりでなんとか下りきった。



■佐渡・金北山直下の雪渓で――2006.5.10
前日はアオネバ登山口から登ってシラネアオイとカタクリの大群落を堪能、この日は沢口登山道を登ってカタクリとオオミスミソウに感嘆の声を上げ続けたのだが、最後のところに想定外の大雪渓が残っていた。軽アイゼンの用意が少なく、かろうじて突破。計画を変更してすなおに下った。


●丹沢・大山三峰山で

 1995年の秋に私は自分ひとりですべてをコントロールする完全ワンマンシステムの山歩きの講習会を発足した。
 中高年登山のハシリの時期に朝日カルチャーセンター横浜で始まった登山講座(講師5人)に地図担当として呼ばれたのが「登山」とか「山歩き」にかかわった最初だった。
 大学では探検部に所属していたので登山はトレーニングの基本項目ではあったけれど、私はあまり好きではなかった。山派、海派、民族派、生物派などが混在していて、統一したベースがあるわけではなく、「山師」という意味に近い探検家の卵たちは自分自身の自由なルールを模索していた。
 有名な話がある。国立民族学博物館の初代館長で京都大学山岳部では今西錦司の直系の弟子だった梅棹忠夫さんが大阪市立大学の教授だったときに、インドシナ半島に学術調査隊を組織した。
 民族学を中心に、教授、助教授クラスがチームを組んだ本格的な学術調査ではあったのだが、探検的発想の象徴的出来事がそこでおきた。
 政治的に入りにくかったメコン川流域を広域に調査するために、どうしても強力な四輪駆動車が必要だった。
 必要だから用意した。しかし、隊員のだれもが自動車運転免許というものを持っていなかった。当然、運転を習って、ライセンスをとらなければいいけない。
 ……というわけで、出発前に車を1台つぶしている。
 冒険は危険を肉体のすぐ近くで感じながら行動するのが基本と考えられている。だから徒手空拳という印象のチャレンジが多い。修行僧のような人物が多い。
 探検は、19世紀の華々しい地理的探検の時代に明らかなように、「帰ってナンボ」の企てだった。軍事的成果だったり、国威発揚だったり、ニューススクープだったり、学術展示品の強引な発見・収集だったりしたが、いずれもその時代に評価されなければ失敗だった。
 冒険はときに芸術的ではあるが、探検は壮大さが強調されるプロジェクト、実現可能な夢の企画、黄金の輝きを感じさせるビジネスといった側面が強い。だから失敗するときにはもろい。
 私の所属した早大探検部での最大のプロジェクトは、東西冷戦下でのベーリング海峡徒歩横断計画だった。
 ロバート・ケネディが大隈会館で講演したのを機に、マクナマラ国防長官に手紙を出したところ、米国側は協力を惜しまないという返事が来た。ソ連側はなしのつぶてだったが、計画は急展開したのだった。
 私などは朝日新聞に大きく載ったこの計画を見て、探検部というものがあることを初めて知った。
 その計画はもろくもつぶれて、遠征隊が残した借金を返すために私など新入部員は徹夜の土方バイトをかなりさせられた。余った装備類は当時ツケで買える最高級品ばかりだったが、部内バーゲンでずいぶん買わされた。
 そういう被害者だから告発もできるわけだが、そのときの隊長(いろいろな経緯で留守番役となった)は朝日新聞記者から鎌倉市長となる竹内謙、現場に行った行動隊長が直木賞作家となる西木正明、二次隊として現地で越冬したのが、やはり直木賞作家となる船戸与一だった。
 東京オリンピックの時代の、学生による壮大なる夢の企画はアメリカ側からソ連領を眺める以上のものにはならなかったが、言い方を変えれば3人の偉大な「山師」を育てたといえる。
 さて本題。私が50歳を超えてはじめて「途中で逃げない」ことを誓って始めたのがその山歩きのワンマン講習会だったが、3回目の丹沢・大山三峰山に多くの人を募った。
 そうしたら、登山道の途中に大きな看板があって危険な個所があるので「引き返す勇気をもちましょう」というような文言が書かれていた。ちなみにその看板は10年経ったいまでもきちんと残っている。
 じつはそれに先だって、参加者のひとりが自発的に偵察に出てくれた。ところがその看板があり、その先に崩落地形でザレた道が滑りやすく危険な場所があったので引き返してきた。
 通常の山の会なら、責任をもつリーダーは偵察をしなくては、と考えるはずである。ところが私は「偵察はしない」ということを原則と考えていた。大山三峰山が初心者には危険な個所のある山だということはガイドブックなどでなんとなくわかっていたけれど、初心者が入り込む山だということも感じていた。看板はつまりそのあいまいさを「危険」なほうへひと振りしようというものだった。


●「引き返す勇気」とはなんだろう

 さて「引き返すかどうか」だが、私には「前進する勇気」という意味はわかるけれど、「引き返す勇気」という概念がない。引き返すべきと判断したら、勇気もなにも関係なしに引き返すべきだと考えている。
 問題はたぶん、深いところでは「恐怖」と「危険」の境界域にあるのだと思う。「引き返す勇気」というのは私には「恐怖」の領域に感応する判断のように思われる。
 わかりやすい例かどうか、車の運転を例にとろう。
 林道を走っていくと道がだんだん悪くなって、向こうから車が出てくる気配がない。いずれ引き返さなくてはいけないだろうと思い始めると、引き返すタイミングのことばかり考えている自分を発見する。
 行き止まりを覚悟で走り込んだ道ならば、「行けるところまで行く」というのが当初の目的ではなかったか。道が悪くて走れないとか、藪がひどくなって車体をこするとか、具体的な阻害条件が出てきたら、それが「行けるところまで」ではないのか。もちろん帰りの時間や燃料がかかわってくる場合もあるだろう。
 じつはもうひとつ、心理的に大きなプレッシャーを与えるのが「Uターンできる場所」だ。この先にUターンできる場所があるかどうか、という見えない敵をかかえると、敵はどんどん大きくなる。進むのもやっとの道に、Uターンできる場所が見つかる確率はどんどん小さくなってくる。
 そこで、「Uターンできる場所があるはずだ」と考えるのは楽天的すぎる。前進にも支障が出てきた道にUターンなどというスペースの余裕を期待しているわけだから。
 だから私は判断の基準をあくまでも「前進する勇気」だけに限定したいのだ。
 もしUターンが必要なら、自分がどの道幅ならUターンできるか知っていなければならない。その道幅が確保できている間は「GO」だが、できない道幅なら「最後のGO」サインからどれだけ進んでいるかを確認しながら「GO区間」を伸ばすかたちで前進することになる。
 しかし、前進できた道なら、絶対にバック(リバース)できるという自信さえあれば、何の問題もなく行けるところまで行けばいい。
 そのとき私が用心するのは、バックで戻るとなると時間がかかる。どれほど時間がかかっても安全に脱出するためには、後方を照らす補助のライトがあったほうがいい。非常時の安全確保にはきわめて重要なものとなる。そうなれば、夜になってもあわてずに、のろのろと後退すればいい。
 要するに、車では、前進できた道は確実に後退できるという技術がベーシックなものであって、前進より後退に時間がかかるとすれば、最悪の場合の時間と労力を逆算しながら前進するというのが基本的な行動管理ということになる。
 さて、こういう状況で「引き返す勇気」は何によって生ずるのだろうか。


●引き返す条件

 私は「偵察をしない」といったが、それは偵察と本番はまったく別物という認識があるからだ。偵察をして一定の「安全」を確認してもそれは本番での「安全」を担保するはずはなく、それでは偵察は本番とどう違うのかと考えると私にはわけがわからなくなる。
 昔、何かの仕事で植村直己さんを訪ねたことがあった。日本山岳会隊でのエベレスト登頂が終わって、文藝春秋社に泊まり込んでいたときではなかったかと思う。簡単なお使い仕事が終わって、個人的な質問をした。ちょうど法政大学の探検部が最上川の川下りで死亡事故を起こした後だった。アマゾン河を下った植村さんに「事故防止のマニュアルを作ろうと思っているんです」といったのだ。
 答えは想定外のものだった。「マニュアルをつくっても事故はなくならない」というのだ。「行動はすべて本番でなければいけない」というのが植村さんの本意。マニュアルごときで事故の芽をすべてつぶせるなどと考えるほうが危険思想だというのだ。
 偵察と本番のあやうい関係については感じていたが、それがマニュアル不要にまでつながるとは考えてもいなかった。以来、私は徹底的に本番主義なのだ。
 本番主義は、簡単にいえばぶっつけ本番。徒手空拳という意味だ。なんの下準備もなく、情報もないまま山に入っていくということをベースと考える。
 識者が「無謀」と考える状態だ。
 これは旅行で考えるとわかりやすい。東西冷戦時代には警察や軍隊によるスパイ容疑には細心の注意を払わなければならなかったが、世界はあんがい安定していた。地球が時計表示で破滅まであと数分とか数秒という危険なときに、もっとも平和的繁栄を謳歌していた日本のように、大きな危険の中に奇妙な安定が存在していた。
 その時代でも、危険な場所はたくさんあった。大都市の裏町の安宿などは現地の同胞にいわせればもっとも危険な場所だったし、観光地の中級より上のホテルで日本人観光客の泊まるところは、ひとり旅の人間にはすごく危険な匂いがした。うぶな日本人旅行者をねらうプロがうようよしているように見えたものだ。
 世界を歩けば危険はいくらでもあるのだが、最後には、地元の人の反応を素直に受け止めることで、自分におよぶ危険があるかないかを察知する努力がもっとも重要だと思うようになる。その反応は、もちろんジーパンをはいた場合と、ネクタイを締めた場合とでは全く違う。
 もう一例、1974年にカナダからアラスカへユーコン河を3,000kmカヌーで下ったが、その最初、カナダユーコン準州の州都ホワイトホースで銃を持つべきかどうか大激論したことがあった。
 ホワイトホースのキャンプ場で準備していると、やってくる連中がみな、グリズリーベアだの、オオカミだのの危険を心配してくれた。
 銃を持つか持たないか、持つなら何にすべきか激論したのだが、私の主張をとりあえず通して、通過する村々で猟師が銃を持てといったら、そこで分けてもらって、撃ち方もみっちり教えてもらおうということでスタートした。
 結果的に、3か月の間、だれからも丸腰の不安を指摘されたことはない。……ないわけではない。カヌーをもやうときにはビーバーにロープをかじられても流されないように注意しろと教わった。
 情報は東京とホワイトホースではあまり違わなかった。ホワイトホースは夏には南の都市から大勢の労働者と放浪者が集まってくる。野獣に対する恐怖の大きさは変わらない。
 日本の登山者がツキノワグマを本当に怖がって鈴を鳴らしている滑稽さと同じことだ。鈴を鳴らすようにすることは、もちろんいいことだ。うかつに登山者に見られたら、危険な山だとか騒がれて駆除される危険がある。自然保護的にいえば、無知な登山者にクマの姿を見られないようにすべきなのだ。
 また本題にもどすと、まったく無知な状態で山に入ることを前進とすると、安全管理の一番の基礎は行き止まったら引き返す技術があるかどうかだ。
 そう考えると、登りながら「下りだとたいへんだね」とかその逆を感じている登山者ほど危険な存在はない。登ったところは下れる、下ったところは登れるということを基本技術としない限り、行き止まりから脱出できない。
 どこを「行き止まり」とするかは自分自身で判断する。他人から見ればなんであそこで? という場所で行き止まっても、かまわないのだ。
 それを、しばしば、「初級ルートだから」とか「上級ルートだから」という自分にはまったく関係のない基準によって判断しようとすると、いつかその情報によって裏切られる。
 しかし「行き止まり」を的確に見つけることがはたして自分自身にできるかどうか?
 的確になど判断できるわけはない。いつの場合でも正解はない(結果を正解にする行動はありうるけれど)。
 ではどうすればいいのか。
 工学設計の姿勢にフェイルセーフという考え方がある。なにかひとつ不具合が出てもそれを補う回路を用意するなど、二重、三重の安全性を備えることだ。
 山の中での「行き止まり」は、たとえば登攀不能な絶壁がそそりたっているというようなイメージがすぐに浮かぶが、そういうことは基本的に想定外だ。一般登山道を歩く限り、むずかしいか、やさしいかしかない。ホリエモンの名文句「想定内」を活用させてもらえば、想定内が続く限り「安全」なのだ。
 しかし想定外に属するものがいくつか重なってくる場合がある。
 初歩的なところでいえば、地図を持っていない、ガイドブックを読んでいない、雨具がないのに雨模様になってきた、疲れたメンバーがいる、水が心細い、いやなクサリ場がでてきた、そして時間が押している……などなど。
 想定外として数えるには小さなことかもしれないが、そのひとつひとつをきちんと数え上げているうちに、「あとひとつ重なったら余裕幅がなくなる」という一線が見えてくる。
 もちろん人によってその見え方は違うから、行動の最終決断をするリーダーの場合であって、口うるさい小姑や、経験豊富と自他共に認める先輩ではなく、リーダー自身の「余裕幅」だ。
 そこのところがはっきりしてくると、「想定外」がもうひとつ重なったところで、自動的に引き返すことになる。なぜそうなったかの反省は下山してからゆっくりやればいい。たいてい、チームの基本的な問題が洗いざらい飛び出してくる。
 「引き返す勇気」というのはしたがって、危険(技術力と対応する)より恐怖(想像力に属する)に基づく判断としかいいようがない。クマのいないところで鈴を鳴らす滑稽さは、それが恐怖に由来するからだ。そして恐怖ほど「突撃する勇気」と直結しやすいのではないかと思う。
 誰がなんといおうと進むも退くも自分で決める。その頑固さによってしか自己責任ということは考えられない。
 それよりもまず、自分の実力を現場で確認しながら成長するという着実な進化を自分のものにしたい。
 判断を誤らないということはありえない。たくさんの失敗を余裕幅のなかで経験する権利をリーダー(や単独行者)はもっていて、周囲に見えるか見えないかの小さな失敗によって賢くなっていくのだと私は考えている。
 「引き返す勇気」や「勇気ある撤退」など、百害あって一利なしだと、大山三峰山で看板を見るたびに思い直している。


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