軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座023】ライトをどう使う? どう使わない?――2006.9.25



■丹沢大倉尾根の夕陽――2000.12.9
ヤビツ峠から表尾根をたどって塔ノ岳へ。そこから大倉尾根を下る途中で日が落ちた。一日富士山がきれいに見えていた日の最後の美しさ。この日は大倉高原山の家までライトなしで下った。



■山小屋の夕食準備――1997.7.26
愛鷹山の愛鷹山荘に泊まった日。見ているといろいろなライトが登場する。光の使い方が上手になる体験のチャンス。



■北アルプス・蝶ヶ岳の山頂――1999.8.29
高い山に登って山小屋に泊まり、日の出1時間前に出発の態勢をととのえる。その朝が晴れだとわかったら心ウキウキ、山頂に向かう。日が出る前の空の変化はデリケートで美しい。


●発光ダイオードの時代

 登山用ライトは今や発光ダイオード(LED)が完全に主役になってきた。2つの意味で画期的な時代になったと思う。
 ひとつはもちろん、バッテリー消費が少ないこと。従来型の電球のように、熱を出して光に変えるのではなくて、電気エネルギーがダイレクトに光エネルギーに変わる。エネルギー効率が格段にいいのだ。
 以前、どんなライトでも「2時間しか使えない」と私は疑っていた。きちんと実験したわけではないが、使用する電池が大きかろうと、小さかろうと、2時間(から3時間)使うと急激にパワーダウンしてしまうという印象があった。
 私の場合はアルカリ電池を基準にしての話だが、大きな電池を使っているものはそれに応じて明るく、小さな電池のものでもけっきょく2時間は使えるようにできていると考えていた。
 予備の電池をたくさん持てば使用時間はのばせるのだが、もっとパワーのある電池がほしければ、高価なリチウム電池を使うという選択になった。リチウム電池はまた低温に強いので、高価でも使わざるを得ない人も多かったのではないかと思う。
 発光ダイオードは「2時間」という単位ではなく、2週間とか2か月という桁違いの省エネ化を実現してくれたわけだが、商品としてはそんな無駄は許さない。連続使用時間をひと晩か1日程度に押さえて、バッテリーを小さくしている。
 発光ダイオード1個ならボタン電池で十分に使える。だから従来の電球使用と同じバッテリーであれば、発光ダイオードの数を増やして明るくするという選択も可能になる。10個以上を束にしているものがあるということは、10倍以上明るくして、実用的な連続使用時間に押さえているというふうにもいえる。
 発光ダイオードの革命の2つめは、発光部分の耐久性が「ほとんど永久」になったということだ。カタログには「10万時間」などと書いてあるが、パソコンの液晶パネルなどが「2万時間」程度の寿命だから、実用上は永久と考えていい。交通信号だって、球替え業者が不要になったという。
 しかし重要なのは「球切れ」がなくなったということだ。従来型の登山用ライトが「2時間しか使えない」とした中には、電池の消耗のほかに、確率は低いけれど球切れも混じってきた。とくに明るいライトでは、連続使用では「2時間で切れた」といいたくなるものがけっこうあった。予備のバルブが内蔵されているものでないとあっというまにライトそのものがゴミになった。
 要するに、明るいライトにするために、連続点灯時間を短く抑え、電球に高い電圧をかけて切れやすさを容認した、というライトが驚くほど多かった。
 発光ダイオードのライトでは、回路の接続部などに故障があるとしても、光源そのものは雑草のごとくタフになった。


●明るいライトの使い方

 交通信号が順次発光ダイオードに切り替わっているのだから、車のブレーキライトやスモールライト類が発光ダイオードになる日も近いはず。するとバッテリー上がりなどがかなり減る。
 将来ヘッドライトまで発光ダイオードに置き換わるかどうかはわからないが、登山用ヘッドライトにその先駆けがある。
 たとえば登山用ヘッドライトではいま、ハロゲンランプなどの高輝度電球と発光ダイオードのハイブリッドタイプが高性能を競っている。「より明るく」と「より長時間」という2面性を追求したものと、「遠方照射」と「足元照射」という機能分担型とに分かれるようだ。
 じつは私は、山歩きの現場でメンバーのみなさんに対してヘッドライトをアタマにつけることをほとんど認めない。はずして首から下げて、腹の辺りを照らすようにしてもらう。
 なぜか。ヘッドライトをアタマにつけて登山道を歩くと、見たいところへ光が動く。車のヘッドライトは進行方向を向いているが、自転車のライトのように細かく動く。だれかと話すとなると、相手の顔に正面から光を当てることになる。
 そういうせわしない光が列のあちこちからチラチラするのは(私のようにデリケートな人間には)気が狂うような感じがする。
 気が狂うのは勝手だとして、他の人の「見る権利」を邪魔する光になることが私には許せないのだ。
 想像していただきたい。星空を見上げているグループの周囲にサーチライトをもって動き回るヤツがいる、という状況に限りなく近いのだ。
 登山道を進むために光が必要な状態で、おおよそそのために光が投げられているのだから、いくぶんのノイズが混じっていたとしても許せる範囲ではないのか……という反論があると思うが、許せない。許してはいけない事情があるのだ。
 そのことに触れる前に、私が明るいライトをすすめる状況がいくつかある。
 ひとつは女性に。暗い山小屋や、テントで顔の手入れをする女性たちには、特別に明るいライトをすすめたい。ライトを手近なところに置いて光をおおよそ顔に当て、鏡を見ながら細かな作業をするときに、光量は多すぎるということはない。明るければ明るいほど細かなところまで見えてくる。
 もうひとつは本を読んだり細かな文字を書いたりする場合。ヘッドライトをつけても本は読みやすくないはずだ。ライトスタンドとはいわないまでも、上の方から机を照らして、そこに本やノートを広げる工夫が必要になる。
 ヘッドライトはどちらかといえば光を絞って遠くを飛ばそうとしているので、できるだけフラットな光が望ましい。そこで電池式の蛍光ランプや、ガスランタンなどをいろいろ試してみるけれど、帯に短し……ということが多い。明るさは距離の二乗に比例するという法則があるので、距離を離すと極端に暗くなるという宿命があるのでやっかいだ。
 最終的には指先に小さな電球をつけて書く場合にも読む場合にも指先でスキャンしていくのがベストではないかと思ったりする。発光ダイオードには指先ライトとして使えるものがいろいろある。小さな光でも距離が近づけば十分な明るさを獲得できる。
 つまり、日常生活でやっている細かな作業を支える明るさを山で得ようとするとなかなかたいへんだが、自由に使える小さなあかりでできるやり方をうまく見つければ、それはそれでなんとかすむ、ということだ。女性の化粧もけっこう工夫があるようだ。
 暗闇の中でザックを整理するときなどヘッドライトが便利なのだが、ヘッドライトがなかったら目をつぶってやればいい……ともいえる。
 先日、大型テントを使ったが、ガスランタンのガラスのホヤを割ってしまった。しかたなく、天井から発光ダイオードのキーライトのたぐいを3つ、4つぶら下げた。1個は常夜灯としてつけっぱなしにしておいたが、光をずいぶんぜいたくに使ったという気分になった。
 つまり、明るいライトをすすめたいのは、女性の化粧用ぐらい、というのが私の「一般ルート」での登山のライト使用の結論だ。


●価値ある秋の日没後1時間

 かつて、ライトが2時間しか持たないと考えていたときに、どれくらいのスペア電池を用意していたかというと、ワンセットだった。
 ワンセットの意味は、ライト本体に入っている電池が使用前に空になっていた場合を想定してのこと。ザックの中で知らぬ間にスイッチが入ってしまうようなヘマはしないとしても、必要なときに新品の電池に替える余力があるだけで、危機管理能力はかなりアップする。何らかの理由で窮地に陥ったときに、ライトの性能をリセットすることができる。
 したがって、夜の8時間のために2時間×4セットの電池を持つなどとは考えていなかった。連続使用時間が2時間あれば、夜の8時間を行動することができると確信をもっていて、それをくりかえし確かめていた。
 この時期、「秋の日はつるべ落とし」という。昼間は夏の気分なのだが、太陽が傾くに従って秋の時間進行になる。だからあっけなく夜が来る。そういう季節に、下山の最後を日没後に設定する。そして日没後1時間、無灯火でどこまで歩けるかを試みるようにしている。
 ふつう、登山者は日没をライト使用の基準時刻と考えているようだが、日没後30分は無灯火で問題なく歩けるというふうにしたいのだ。
 その時歩いているのが稜線ならなんの問題もないが、下山路はほとんどの場合樹林帯に入っている。すでに薄暮の状態になっていて、道は見えにくい。
 しかしそこで「日没後30分は問題なく歩けます」とわたしはいう。「暗いからライトをつける」という短絡的な行動を縛ることで、得難い能力をゲットすることができるからだ。
 人間の目は視野の中心に高解像度の領域があり、絵画を鑑賞するのに適した色分解能にすぐれた領域がある。そしてその周辺、左右180度オーバーの周辺視野が高感度でモノトーンに近い領域が広がっている。
 その「周辺視野」は映画を最前列で見るようなときには意識できることがあるし、サッカー選手などはうまく利用しているように見えるが、日常生活で意識的に使う機会がほとんどない。
 見ようとして目を向けると明かりを必要とする視野になってしまう。そこで目は前方を向けつつ、足元に意識を集中すると、映像が動いていく。視細胞がまばらにあるのだそうで、動きを感じやすい視野となっている。道がいくつかの明暗のパターンとして流れ始める。
 暗さの中でライトをつけないと、当然瞳は開いている。光を最大限取り入れて、しかも高感度の視細胞で観察している。そういう自覚がほしいのだ。
 暗くなるに従って、当然のことながら目からの情報量は大幅に減少していく。するとどうなるのか。目配りと歩き方が変わる。
 明るいときでも、道をいつもきちんと見ているわけではない。ベテランが風景を楽しみながら足元をきちんと見ているのに対して、初心者は足元に注意を向ければ風景が見えず、風景を見ていると足元がおろそかになる。つまり「見る」ということの技術的違いがそこには大きく存在している。
 あるとき、ベテランの域に入っている女性ふたりが、下りで驚くほど遅い理由を一生懸命考えたことがある。昼間、明るさには問題のない道だったが、雨で岩が濡れていた。
 足元を、1歩、1歩、ていねいに見ているのが原因ではないかと見当がついた。
 前方をパッと見て、おおまかに危険度を判断する。安全ならあとは「足」にまかせればいい。ストックも使っていれば「足」にまかせきれない部分もかなり補ってくれる。
 危険度が高いと思った場合はよく見る必要があるけれど、安全でもきちんと見る……という状態だと、足は常に視覚情報の結果を待って動くしかない。
 視覚情報に頼りすぎるとスピードを阻害する場合があるという結論になった。
 薄暗い登山道をライトなしに歩いてみると、その、視覚情報への依存度の高さが浮き彫りになる。「見えなくなる」ということと、「動けなくなる」ということのリンクの度合いがどんどんはっきりしてしまう。
 視覚情報がどんどん欠落していく状況の中でライトを使わずに歩いていると、足裏の感覚がどんどん鋭敏になっていく。つまずかないように上からそっと足を下ろし、体重をかけたときに危険を感じたら逆モーションで逃れるような、慎重な重心移動が行われる。
 そして、モノクロの粗い画像情報の白い部分や黒い部分が実際には岩なのか窪みなのか、パターン認識に近い状態で学習していく。


●暗さのなかでアシストするライティング

 さて、そういう歩き方になっているときに、満月でもあれば視覚情報はほとんど昼間と同じようなレベルに戻る。曇り空でも、月があれば意外に明るいのだが、新月の夜で、しかも杉林の中だと暗さは十分。闇夜という感じになる。
 つまずくだけなら体験の内側だとして、そのあと転落するような道もある。安全策としてはライトがどうしても必要になってくる。
 そこで……だが、ライトをつけてしまっては元も子もない。ここが肝要なところなのだが、それまでの闇に慣れた目の動きをサポートして、邪魔しないライティングが必要なのだ。
 ほんの一瞬、ライトをつける。するとドキリとするほど明るいはずだ。前方3〜4歩の道の状態が見えるから、危険がありそうなら、またその瞬間につければいい。
 点けたり消したりせずに点ければいいじゃないかと思うかも知れないが、そうすると失うものが大きい。車のヘッドライトのように世界が光と闇に二分されてしまうのだ。
 ライトは明るいのがいいのではない……ということを、登山用品店の店員は絶対にいってくれない。スイッチをこまめにオン/オフできて、持つことに負担のないもの……と捜して、いまは500円以内で買えるボタン電池使用のキーホルダーを使っている。手首からぶら下げたり、服のボタン穴からぶら下げたりして十分な仕事をしてもらっている。
 電球時代にはスイッチのオン/オフでやっていたので「2時間」を「一晩」に引き延ばして使うことも可能になった。下山が遅れて右往左往しながらライトを点けたら、あっというまに電池切れという危険は、暗さに慣れた目をおだやかにサポートするという使い方にすることで避けることができる。
 問題は、登山用ライトのなかで、そういう使い方のしやすいライトがほとんどなかったということだった。私はそのころ、ナショナルの、単3電池2本使用のマッチ箱型の安いポケットライトをスペアライトとして数個ザックに放り込んであった。いまは発光ダイオード1個のキーライトやペンダントライトに切り替わっている。
 私の場合、一般登山道を歩く限り……という条件付きだから、岩場はせいぜいクサリ場まで、藪漕ぎなどはもちろん想定外である。しかし、小さな渡渉のある沢道で、夜、かなり苦労したことがあった。
 そこで確認できたことだが、明るいライトはルートファインディングにはむしろ危険だと思う。わずかな地明かりで「道筋」を見ているあいだはいいのだが、暗くなって道に思えるものはたくさん出てくる。そういうときに明るい光を振り回すと光は影もつくるから、風景をいくらでも作りかえてしまうのだ。
 シマッタと思ったら、まず戻る。それから暗闇の中に「道筋」を感じながら、小さな明かりで足元の小さな踏み跡、踏み傷などをゆっくりとひろっていく。明るければいいというのではない。目に頼るのではなく、登山者の足運びの自然なリズムを崩さないようにして小さな痕跡をたどっていく。
 私はもちろん、数個の予備ライトを常備しているし、明るいものも使えるようにしているけれど、一般登山道で先頭を歩くかぎり、500円弱のキーライトで不自由したことはない。足元は十分に見えるし、道筋もかなり見通せる。
 どうしても両手を開けたいときには、手首にぶら下げたり、服のボタン穴に引っかけたりするけれど、それでも足回りの明かりとしてはかなり使える。キャンプの場合でも、軽く口でかめるので、ヘッドランプ同様の手先の仕事は十分にできる。


●明るければいいというものではない

 私の場合、ライトはふつう手で持って、自然に振りながらときどき点ける(発光ダイオードの場合には発光部を覆ったり、開いたりする)のだが、正直なところ、ヘッドライトは使いたくない。
 明るい光を振り回すからという問題とは別に、ヘッドライトのライティングがどうしても理解できない。
 かつて石原裕次郎が「栄光の5,000km」というサファリラリーの映画を撮ったとき、私はちょうどナイロビにいて、あのときニッサン車で優勝した男のガレージに出入りしていた。東アフリカの道路は、幹線道路でさえ穴があるかもしれないと疑いながら走らなければならなかったが、ダートではなにがあるかわからない。
 ほとんどはただの洗濯板道路なのだが。そのときにどうしたって補助ライトが必要になる。そしてその補助ライトは、必ずドライバーの目線より下につけた。
 ヘッドライトは目より上につける。私は小さなライトを手に持って、ヒザ位置ぐらいから照らしている。さて、どちらが視覚情報として有効だろうか。
 ともかく、山小屋泊まりの時には「日の出1時間前」に私たちは出発したいと思っているのだが、それはライトなしで道が見え、日の出までのすばらしい空のドラマを楽しめるから。
 それなのに、登山者の多くはライトをつけて歩き出す。私たちにとってはもう朝なのに、彼らにはまだ夜らしい。
 お分かりいただけたろうか。私たちにはまだ宵闇の日没後30分(あるいは1時間)は、別の登山者にはすでに夜。
 ライトはただ単に明るさを補助してくれるというだけではない。明るければいいというものでもない。単に明るさを補うだけの単純な道具と考えてほしくない。
 最後に唐突ながら、皆さんは真の闇というのを体験したことがあるだろうか。私はカメラ小僧だったから自宅に暗室もあったし、高校・大学と暗室作業をやっていた。しかし写真用暗室は完全な暗黒とはほど遠い。山で経験する自然の暗さも、完全な暗黒になることはない。深い洞窟でライトを消してしばらくすると、耳や皮膚が急激に鋭敏になる。目の代わりをほかの感覚器官が代用しようとしているらしい。人間の暗さの中での行動能力には自覚できていないものがたくさんある。自分の未知の能力とご対面というおもしろさが闇の中に潜んでる。
 明るくすればいいというものではない。


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