軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座039】山小屋泊まりの基本――2007.5.25



■白馬山荘と村営頂上宿舎――1996.7.28
朝日の当たる白馬岳山頂から振り返ると、画面左右いっぱに伸びているのが1,500人収容の白馬山荘、その向こうに村営頂上宿舎がある。



■奥多摩三条ノ湯――2006.12.23
飛龍山に登るのに、三条ノ湯に泊まった。若旦那の木下さんがたまたま手に入ったというシカ肉を宿泊客全員に焼いてくれた。



■南アルプス・赤石岳山頂――2001.9.23
避難小屋のこのトイレはカートリッジ式で、ヘリで運べるようになっている。


●白馬岳での経験

 すでに絶版になってしまったが1998年に講談社から出した『がんばらない山歩き』という本に、「山小屋の社会学」という一章をもうけた。
 そこでも取り上げたのだが、私が、山小屋がおもしろいと思ったきっかけは白馬岳(しろうまだけ)の白馬山荘(はくばさんそう)での一夜だった。
 それは1996年7月27日(土)。7月下旬の週末は当時、1年でいちばん山小屋が混む日とされていた。その特異日にあえて一番人気というべき白馬岳を選んで、18人という少なからぬ人数で登っていったのだ。
 白馬岳山頂直下には1,500人収容の白馬山荘と、1,000人収容の村営頂上宿舎とがある。合わせて2,500人という巨大な「小屋」が用意されているわけだ。おそらく満員……ということはわかっていたから、予約なし、どちらに泊まるかも現地で右往左往して決めるとしておいた。
 その2,500人がどれほど大きな数字かというと、当時、富士山全体に約50の山小屋があって、その最大収容人数は1万人に近かった。山小屋関係者に聞いてみると「え? あそこがこんなに大きいの?」というほどふくらんだ数字になっていたのはまちがいない。富士山では今年(2007年)、山小屋の収容人員を削減して快適さをアピールするというから、合計人数は1万人を大きく割り込むことになるだろう。
 ……で、白馬岳だが、最も混雑する日だけに、白馬の大雪渓から渋滞だった。その大行列の監視にあたっていたグリーンパトロールの人によると、午前11時に登山者は宿泊定員の2,500人を突破、夕方までの合計は5,000人をオーバーしそう、とのことだった。
 白馬山荘の受付にようやく並んだ。山小屋の混み具合は、普通、宿泊人数では見当がつかない。混めば食堂だって寝室スペースに変わるからだ。慣れた人はだから食事回数を見る。それを「○回戦」というのだが、行列のほとんど最後尾を登ってきた私たちの夕食は「8回戦」午後9時50分からの夕食と示されていた。
 じつは受付は個人個人でやると決めておいた。18人で申し込むとその日は布団5枚の配分しか受けられない。1畳に2人(JIS規格によるテントの就寝スペースがその由来ではないかと思う)が定員なので、倍の人数が泊まるとなれば1畳に4人のはず。受付にそのことがズバリ! 表示されていた。
 「本日の予想 畳1枚に4人以上 皆様でうまく協力しあって下さい。よろしくお願いします」
 もちろん、どうしたら「うまく協力」できるのかは書いてないし、客の前面に出ているのは全部ミエミエのアルバイト。しかも仕事に夢中みたい。相談できる環境はどこにもない。一夜、巨大山小屋は無法地帯と化すのである。
 個人客として受付をすますことと、じつはとなりに豪華レストランがあるということをみなさんには伝えてあったのだが、2番目のアドバイスはうまく理解されなかった。
 私だけは夕食を無しにして、レストランに行くことにした。ほかのみなさんは9時50分まで夕食を待つか、夕食を捨てて、レストランで食事するということになった。
 レストランは、たまたまオープン直前にテレビの取材で練習用の客となったことがある。行ってみるとガラガラだ。なぜならほぼ全員が夕食付きで泊まっている。ビールかコーヒー以外の人はそう多くはないようだ。
 かわいそうだったのは事前に宿泊クーポンを購入してきた人たち。食事の取り止めができないで、歯ぎしりしていた。アルバイト相手だかららちがあかない。
 部屋はどうなったか。私の隣の部屋は悲惨だった。ひとグループで個室のように占拠したまではよかったが、布団1枚に3人ならなんとか寝られるとして4人はもともと不可能だ。しかも部屋が狭かった。足が伸びないらしい。1泊9,000円を支払って奴隷船での大西洋横断航海を体験している。もちろんそのようすが覗けるのだが、うめき声だかため息だかも漏れてくる。
 私の部屋でももちろん一波乱あった。はじき出される人と、早々に逃げ出す人とがいて、1畳3人程度の限界値まで下がっていた。私は何もせずに与えられた場所でじっとしていただけのことだが。
 なぜそうなるのかというと、慣れた人が布団をくすねて廊下に出る。はみ出た人も廊下に出る。山小屋は廊下や空きスペースの管理をしないから「うまく協力」しあって館内の人口密度は均一に向かう。
 悲惨なのは同一グループで「1畳4人」と指示された人たちだ。だれかが棄民政策なり植民地獲得に乗り出さないと、苦しみを平等に味わう一夜になる。
 1泊9,000円も出して、これが山小屋でなかったら暴動が起きるところだ。9,000円で定員の2倍の3,000人が泊まっているとして、一夜の売り上げは3,000万円に近い。昔、山小屋の主人はザックに札束を詰めて山を下ったというが、いまはヘリだから、まっ、いいか。
 富士山の山小屋はまた違うおもしろさがあって興味が尽きない。……が、それはいつかまた。


●食事に不満が出ない理由

 昔、私は金を出して山小屋に泊まるなど考えられなかった。いまもそういう考え方の人は多くて、山小屋の近くのキャンプサイトでだいたい1人500円程度の幕営料を支払って泊まっている。
 はっきりいって、寝心地はテントの方がいい。定員制だし、きちんとしたマットを敷けば小石がザラザラというところでも問題ない。
 昔は加えて、山小屋の飯がひどかった。私にはほとんど体験がないけれど、まずい米にまずいカレーと決まっていた。
 いまはどうか。じつはそういうところもある……はずだから、よほどのことがないかぎり人気の小屋に泊まる。人気があるということは、中高年に文句の出ない飯を出してくれるということと同義なのだ。
 厳密にいえば料理に力を入れている小屋と、そうでない小屋はある。しかしまず飯がちゃんと炊けている。大型の圧力釜を使っている。それからレトルト食品や冷凍食品を利用しているのでおかずのベースもきちんとしている。町のおじちゃん・おばちゃんがやっている食堂ではなくて、ファミリーレストランに近い厨房システムをとっていると考えていい。だから生鮮食品を出せるかどうかが競い合う課題となっていたりもする。
 昔はすべてを人間が運び上げた。根本的な運搬能力に限りがあった。そのため、繁忙期には荷揚げが間に合わない。ランプの小屋で、冷蔵庫も冷凍庫もなかったから備蓄できるものに限りがあった。客もその環境に我慢しなければならなかった。
 そういう背景に山小屋のちょっとした悪意が加わる例もあったという。飯をちょっとまずく炊くのだという。とうぜんカレーだって手抜きをする。その結果、客が持ち上げた米(米持参が原則だった時代がある)をかついで下ろすことになる。山小屋で米がとれたというのだそうだ。仙丈ヶ岳の馬の背ヒュッテでお代わり禁止のカレーを食べていると半世紀逆戻りした気分になる。
 山小屋への物資の空輸を最初におこなったのは北アルプスの三俣山荘だったと主人の伊藤正一さんは著書に書いている。五合飯を食らう強力(人夫)が悪天候で停滞したら、運んできた食料がどんどん減っていったという。
 客が多いときほど物資が不足するという山小屋の環境が一変したのはヘリコプターでの物資輸送が始まってからだ。必要ならどんどん運べばいい。発電機も回せるし、さらに24時間運転も可能になった。北アルプスの唐松岳頂上山荘のように生ビールを凍らしたジョッキで出してくれるというサービスも可能になった。
 ヘリコプターによって山小屋は完全に貨幣経済に組み込まれたのだ。客さえ来れば何でもできる、という下地はできた。
 じつはいいところの山小屋はほとんどが国有地に立っており、国立公園の保護区になっていたりする。だから完全な自由主義経済というわけではないが、三俣山荘の伊藤さんは売り上げの一定比率をマージンとしてよこせという林野庁と対立してきた。20年間におよぶ裁判は2003年に伊藤さんの敗訴で決着したが、国の側が何でもありの経済活動を認めたともいえる。
 山小屋が占有する特別なロケーションにも付加価値があるというのが林野庁の収益方式地代の主要な根拠だそうだが、北アルプス燕岳(つばくろだけ)の燕山荘(えんざんそう)のように、標高2,700mのコーヒーラウンジは魅力的だ。穂高(ほたか)連峰を見上げる涸沢の涸沢ヒュッテではビーフステーキも出すホテル並みのレストランにもしたいという話を聞いたことがある。山小屋のホテル化は個室があって、特別室があって、というかたちで大きく変貌する機運を内在させている。
 ともかく、ヘリ空輸している山小屋であれば、ファミリーレストランがそこにあると考えていい。そうでない小さな山小屋で人気があるとすれば、オーナーシェフのレストランと考えていい。好みに合うかどうかは別として、この12年間にたぶん300日近く山小屋に泊まっていると思うが、参加者のみなさんも含めて、予備のおかずなど用意する必要はまったくなかった。「おいしい」と思って食べられる食事もほぼ100%といっていい。もちろんこちらが健康かつ空腹だからでもあるけれど。


●トイレが心配

 山小屋に慣れない人にとっては、トイレも大きな問題だ。
 まず第一に、いったん外へ出ないと行けないトイレがある。夜中に必ずトイレにいく人たちにとっては、そっと抜け出て、寝ている人たちを踏みつけずに表に出て、天気にかかわらずトイレにたどり着いて用を足すというのは大仕事だ。
 だから外に出ないですませられる宿泊者専用トイレをもっていることがスタンダードになってきた。気配りのいい山小屋では、深夜トイレに行く高齢者のために、階段まわりの常夜灯を明るくしている。
 バイオトイレは特殊なバクテリアに糞を分解させる。そのために紙を捨てさせない。そういうトイレのところは、ほったらかしの共同便所という雰囲気とは一線を画して、一般に清潔に保たれている。
 北アルプスの奥穂高岳(おくほたかだけ)にある穂高岳山荘(ほだかだけさんそう)では小屋の居住区域につながるトイレに換気扇で負圧をつくっているという。単純に臭いを外へ出すというのではなく、居住区から空気を呼び込む。完璧に臭いを追い出している。すきま風を容認する建物では実現できない完璧さだ。
 トイレはとにかくきれいになった。発電機が24時間回るようにならなければウォッシュレットは無理だろうが、紙はどこでも備えられている。ときどき、古いタイプのトイレがあるけれど、山でのトイレの問題は山小屋だけではないので、やはりなにがしかのハードルであることはまちがいない。心配は残念ながら残るので、あとは楽天的に考えることができる人かどうか。トイレの不安よりもっと大きな価値を山に感じるかどうかだろう。
 トイレについていろいろ見ていくと、バイオ式があり、順次埋め立て式があり、垂れ流し式があり、水洗式があり……とじつに多彩だ。バイオ式でもいろいろある。そして最終形として空輸式というのがある。南アルプス赤石岳の山頂にある赤石避難小屋のトイレはカセット式で空輸する。南アルプス甲斐駒ヶ岳の仙水小屋のトイレは水分は水洗式で固形物は空輸するという。
 そういうトイレ問題を見ていくうちに、世界遺産候補の富士山ほど解決の簡単な山はないと思うのだがいかがだろうか。夏のたった2か月のためのバイオ公衆トイレはなんともグロテスクだ。税金だか補助金だかの垂れ流しのように見える。
 富士山の荷揚げはブルドーザーだ。「ブル道」というのがあるのをご存じだろう。怪我人をそのブルドーザーで下ろしたことがあるが、荷揚げもすれば荷下げもする。バキュームブルを1台動かせば富士山の山小屋のトイレ問題は簡単に解決する……と私は思うのだが。


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