軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座040】山に「歩かされない」――2007.6.10



■南アルプス・荒川岳への登り――2001.9.22
南アルプスに入って3日目。千枚小屋から千枚岳(2,880m)に登った。この日は東岳(3,141m)を経て荒川小屋まで。手前に私のグループ。向こうの稜線にもう1パーティ。



■北アルプス・白馬岳からの下り――1996.7.28
白馬岳山頂の白馬山荘を出て白馬大池へと下る。にぎやかな北アルプスの稜線は登り・下り双方向の登山者であふれている。


●「歩き方」の問題点

 最近、下りでバテる人の状態をくわしく観察する機会があった。
 まず、登りでバテるのはエンジンの吹かしすぎで、ギアの選択がまちがっているだけ。歩き方の基本がわからないだけのことだ。
 下りで膝に痛みがくるのも基礎的な問題だ。負荷の絶対量が問題だと思う人が多いけれど、その前にひざ関節を守るために筋力を使っているかが問題なのだ。着地の瞬間に重心が前(つま先側)にあるか、後(かかと側)にあるかと深くリンクしている。重心がかかと側にある場合は、筋力がひざを守る態勢から完全にはずれている。
 ここで語りたいのはそれとはちがう。下りでバテてしまうのだ。
 下りでスピードが落ちるケースは過去に何度か体験している。初心者が恐怖感のある下りで極端に遅くなるのは正常な状態だが、あまり恐怖を感じない下りで、とくにベテランの女性に出現する確率の高い症状だ。
 それもここでのテーマではないので簡単に解説しておくと、目配りに問題がある。慎重な歩き方が固定化されて、次の1歩を目で確認している。石橋を叩いて渡るのはいいけれど、足の1歩ごとに司令官の脳が着地命令を出しているのでは仕事が全然進まない。車の運転と同じで、スピードを出すときには視覚センサーとしての目はできるだけ遠くを監視いていなければならない。
 そのことを強制的にわかってもらうために、年に1度か2度は日没後に無灯火で下山するような機会をつくる。視覚センサーとしての目の役割が軽くなると、足を接触型センサーとして活用しなければならなくなる。足で探りながら歩くわけだ。加えて、司令官としての脳は情報の量と質が激減した視覚を補うために、視細胞の高感度領域からできる限りの情報を取り出そうとする。暗号を解読するような作業が行われる。
 つまり数歩先までを一瞥して、問題がなければ現場の足に判断をゆだねて目は周囲の風景などを楽しめばいいのだ。問題があればもちろん全神経を集中させる。
 ベテランになればなるほど慎重さが身についてくる。100%の安全を求めるようになる。歩き方がていねいになるのはいいが、ていねいになりすぎると高速道路を徐行するようなことになる。自分たちだけで歩いていると気づかないていねいさがそこに出てくる。
 じつはそのようなケースのすべてと通底しているといえばいえるのだが、自分のリズムを見つけていないひとがいる。「歩かされている」状態のまま規模の大きな山まできてしまう。成りゆき主義では破綻する……というケースだった。


●下りで壊れる

 ガイドブックのコースタイムをいろいろ見比べてみると、登りに対して下りのコースタイムが70%程度というのが多いはずだ。だから逆に上り下りに時間差があまりない部分や、下りが登りの50%にも短縮される部分が要チェックとなる。
 私のシミュレーションマップでいえば高度差50mごとに並べている赤○が重なりあっているような急斜面や、隣りと同じ標高であることをあらわす破線の赤○が連続する平坦な尾根がそれと重なる。あるいはまた岩場のクサリ場や沢筋の道など現地を見てみないとどんな状況なのかわからないという場所はいろいろある。道の付け方によって歩きやすさや危険度は大きく変わる。
 1日の行程が5時間であれ、10時間であれ、全体のなかで「どう歩くか」という試行錯誤がいつもある。うまくいく場合もあれば、歯車が食い違うこともある。山との対話の調子を見ながら、その日の「全体」をできるだけ心地よく、ドラマチックに展開したいと考える。
 登りは「息切れしない程度」という運動強度の基準が周知されているので説明はしやすい。「そうはいっても息切れはするし、汗もかく」というがんばり場面をどうやりくりするかをみなさんそれぞれに試みている。
 絶対的にパワー不足であれば「ずれ下がる」。つまりズルズルと遅れていく。その人の脚力に対してペースが速すぎるということでもあるのだが、その遅れ方を見てみると習慣性の遅れもある。
 止まって休んで元気になって挽回しようとする人がいる。歩いているときが働いているとき、止まっているときが休んでいるときという単純な二者択一原理によって救われようとしている。歩いているときにも働いている筋肉と休んでいる筋肉が同居しているので、歩きながら筋肉を休ませることが可能……だということを理解してくれない。
 つまり、自分のいちばん心地よいリズムで、メリハリよく歩いているときには「ウォーキング・ハイ」いう状態の入口にいる。このまま永遠に歩き続けていけそうな気分になっていれば、まさにその状態かと思う。
 歩いてみて、疲れたら休む、という二分法では、自分のリズムが生まれない。
 登りでは「リズム」ということや「メリハリ」ということが実感されやすいのだが、下りではそれがなかなかむずかしい。
 よく、初心者が始めての山でひざをガタガタにしてしまう。下りが速すぎるのだ。
 熟練者のなかには下りは退屈だからできるだけ短時間に下ってしまいたいと考えている人が多い。いったんそういう気持ちになると「飛ぶように下る」ことがまさに爽快感となってくる。
 大きな山に登れたら、即、大きな下りが待っている。登りの能力を高めるのはあまり難しいと考えていないのだが、下りの能力を高めるためには、毎回の山歩きの2時間とか3時間の下り道で、地道にじっくりとひざまわりの筋力を鍛えていかないといけない。たぶんトレーニングジムでやるには難しいトレーニングが、山の下りに効果的にできるのだ。
 私はだから、下りでは積極的に筋肉痛が起きるように歩いて欲しいと考えている。関節を痛めずに関節まわりの筋力を鍛えるにはそういう考え方が不可欠だと思っている。
 ところがそこでも、自分なりの歩きの基準がつかめられない人がいる。自分の心地よいリズムを基準にしながら、全体の速度とどう折り合いをつけていくかということから脱落して、休み休みついてくることになる。
 その人をきっちり監視しながら「歩きながら休む」ことと、「筋力を使って下る」ことを指導したところ、「非常に疲れた」とのことだった。エネルギーを搾り取られたにちがいない。同じ日、年齢でも体力でも経験でもその人に追いつかない別の人は、子どもの気分にもどってとっても楽しかったという。
 その人の楽しいリズムがどういうものかは他人にはわからないが、歩く快感を早く感じて、その幅をゆっくりと広げていくという考え方はだいじではないかと思う。
 行き当たりバッタリの結果オーライではなく、下りの歩きのリズムとメリハリで自分自身を早く見つけて欲しいのだ。それと周囲の人の歩き方とをすりあわせながら調節幅を広げていく。
 山に歩かされているのではなく、山を自分のリズムで歩くという基準値をはやく見つけて欲しいということに気づかされた。だから下りでは、ゆっくり下ったり、飛ぶように下ったり、いろいろなリズムを組み合わせてみるのが「お勉強」としてはだいじなのかなと考えている。


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