軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座058】台風を見に行く――2008.6.10



■台風に追い返される――2005.9.7
清里から県界尾根で赤岳に登ろうとしたけれど、台風に追い返された。さて、今晩はどこで、どう……という心配は不要。台風情報で観光業界は閑古鳥になっているから。



■伯耆・大山の山頂で――2003.6.18
日本海を進む台風が刻一刻と近づいている。風が次第に強くなる。風雲急を告げるという雰囲気だ。風通しのいい山頂部から、なんとかして樹林帯へと逃げ込みたい……と思いつつ「チーズ!」


●実体天気という考え方

 1995年に自分流の登山講習会を始めたときから、ひとつだけ決めておいたことがある。天気予報に邪魔されないということだ。
 「予報天気」と「実体天気」についての考え方についてはすでに述べた(講座19・天気予報と山の天気)が、台風のときこそ山で「実体天気」と遭遇するということが、お金をいただいて積極的にやるべき仕事ではないかと思っている。
 簡単にいえば「台風でも中止しない」ということなのだが、べつに特攻隊的精神でやっているわけではない。日帰り登山を基準に山を見ている人に、「縦走登山」という視点から山歩きを体験してもらいたいという価値(バリエーション)の提供を心がけているだけだ。
 たとえば1週間の縦走登山とするとする。1日、2日なら天気の「いい」「悪い」に一喜一憂してもいいが、1週間となると晴れもあれば雨もある、風だって吹くかも知れない。
 山歩きでは、地形的に険しいところに大きな魅力が隠されている。天気にだって、険しい天気ならではのドラマチックな魅力がある。凡庸な晴れより、波瀾万丈のドラマチックな天気のほうが面白いという考え方には自信を持っている。カメラマンの目で見ればすぐにわかるが、山の風景を彩るのは空ではなく雲なのだ。雲が主役と考えれば、天気は晴れから雨まで、全域に守備範囲を広げておきたい。
 もうひとつ、山では通過予定ルートに1か所でも自分の能力を超える部分があれば引き返さなくてはならない。危機管理的な観点からすれば、雨になったときに道が難易度をどれほど高くするかということには常に注意深くなければならない。
 だからクサリ場を通過するごとに体験を蓄積させていくのと同様に、悪天候というものも、できるだけたくさんクリアしていきたい。そういう意味で、台風のときの山の体験は、天気に関する多くの体験を一度にまとめて味わわせてもらえる絶好のチャンスと考えられるのだ。


●台風の日の、失敗・成功

 台風を見に行くというのはじつに不埒な精神と見られているような感じがする。ところがそれは天気予報がニュースの主役に躍り出て、日本全国民に指導力を発揮させようとする戦時統制のような空気の中で感じるにすぎない。
 山に入ると、台風と自分たちとの関係は風の強まりや黒雲の飛び方で推理するしかないのだが、そのことよりも圧倒的に、樹林帯の中にいる間はよほどのことでもないかぎりカサ1本でもしのげるほどのやさしさに包まれていると感じる。もちろん森がうなり声を上げているので、その森を外から見れば嵐の森にちがいないが、中に入ってしまえば静かなものだ。「こんなときに新宿を歩いたら大変だよね」などとビル風の怖さを語り合ったりする。
 台風は、原則として、上陸すると予報値がほとんど参考にならない。進行方向の右手と左手とでも状況は大きく変わる。直撃されたからといって、最悪の状態になるとは限らなくて、台風が引き連れている雨雲の影響のほうが圧倒的に大きいということが多い。
 6月下旬の安達太良山で台風の直撃を受けたことがある。刻一刻と近づいてくる中を、沢沿いのルートで登ったのだが、そのときは粋がってカサ1本で押し通した。翌日残念だったのは台風一過の晴天なのに、頂上だけは小さな厚い雲に取り巻かれていたことだ。
 8月の上州・武尊山のときは、湯ノ小屋温泉に泊まった夜に、ほぼ真上を台風は通過していった。しめた台風一過の晴天だと喜んだが、翌日は稜線を歩いている間中、雲の中。下ったら晴れていた。
 9月に八ヶ岳の赤岳に登ろうとしたときには、登りで台風の接近とぶつかって、樹林帯から上に抜け出ることができなかった。引き返そうと決めて歩き出したら、いま登ってきた登山道が、すでに川になっていた。
 8月の富士山では、台風の最接近は午後になるということで、8合目の小屋に泊まっていたけれど、早めに下山してしまった。
 7月下旬の剱岳では、剱御前小屋に泊まった夜に台風がすぐわきを通っていった。小屋が揺れて、浮き上がる気配がしたと眠れなかった人がいっていた。もちろん翌日の晴天を期待したが、嵐はなぜかもう1日続いた。
 スカッとした台風一過の晴天率が低いのは私の不徳の致すところだが、本物の台風とナマに向き合っていると、予報台風は日本全土を総攻撃するUFOのような存在に見える。そんなとき、山梨県の多くの人は、日本中が台風に狂乱しているというのに「たぶんこっちにはこないから」としごく冷静だ。
 さて、台風を見に行く際の大きな問題は帰ってこられる保証がないということだ。
 6月に伯耆・大山に登った日は、山頂で台風の再接近とぶつかった。下って温泉に浸かりながら空を見ると、飛行機が飛んでいた。帰れるねといいながら空港に行くと、飛行機は着陸せずに引き返してしまったという。私たちは右往左往したあげく、翌朝に東京に着く夜行の高速バスで帰京した。
 10月に鬼怒川温泉から鶏頂山に登った日は台風が関東地方を直撃するという予報だった。山は穏やかな霧雨で、山頂では一瞬霧が晴れたし、日も差した。しかし下ると、首都圏の私鉄はバタバタと特急の運行をとりやめていた。最近では天気予報によってダイヤをどんどん戦時モードに切り替えてしまうので、帰りを急がなくてはいけなくなる。
 8月に御坂山地の黒岳にレンゲショウマを見に行ったときには参加者はわずかひとり、石和温泉から芦川町の奥までタクシーに乗ったら、嵐の山に向かう男女ふたりを大いに怪しんでいる気配だった。中央本線が相模湖の雨量ですぐに止まるので、帰れなくなる心配があって、早々に下ったが、山はただの雨の山だった。
 北岳に登るつもりが、中央本線が不通になり、夜叉神峠の先も通行止めになっていると現地のタクシー運転手情報があった。ようやく開通ということで八ヶ岳に方向転回しようとしたらまた不通に。しょうがないから尾瀬に転戦しようと思った矢先に、鳩待峠への道が崩壊したと知らせが入った。私たちは10人以上いたけれど、朝新宿駅で集合して、午後までJR構内にいて130円程度の切符で計画を取りやめた。
 台風に限らないが、予報天気が悪いとドタキャンが保証されるというふうに、最近では常識として考えられているらしい。そのお陰で、私たちは最悪の予報天気のとき、最高のサービスをうけることができ、しばしば最高の実体天気に恵まれる。
 機会があるごとに繰り返しいうけれど「お出かけにはご注意ください」などという予報をする人は、ドタキャン被害者からの損害賠償請求に対する保険をかける程度の責任は持たなくてはいけないだろう。すくなくとも、いろいろな天気のいい面、悪い面を広く一般に体験してもらうような努力も、プロとしてメシの種にする以上必要なことではないかと思われる。
 台風を見に行くということは、実体天気と向かい合うということにおいて、非常にわかりやすい。平地の市民生活のための「降水確率」で山の天気を占うのなら、私たちのように、参加メンバーのメンツで天気を占った方が明快だ。天気に対する結果責任の所在もはっきりするし。


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