軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座060】リーダー私論――2008.7.10



■大山三峰山――1999.9.22
濡れた木の橋は登山道ではもっとも危険な存在だ。参加者を「危険」と「恐怖」の2つのモノサシで見ると、技術レベルがよくわかる。



■谷川岳西黒尾根――2002.9.14
岩場ではダブルストックは危険といわれるが、危険度を段階的に管理できるのと、内在する危険を外から見やすいので私は積極的に使用する。


●何のためのリーダーか

 気のあった仲間と山に行くのは楽しい。その楽しさをまちがいなく現実のものとするのに、世話役的リーダーや教官的リーダー、あるいはボディガード的リーダーなどが必要になってくる。地方の登山グループでは配車系リーダーというのも必要なのかもしれない。
 学生時代の記憶でいえば、山岳部、ワンゲルなどでは、リーダー、サブリーダー、装備係、食料係、渉外係など、責任と役割を分担していた。
 一度冬のカナダで、小さな町の小さなグループのスノー・ピクニックに飛び入り参加したが、そこではリーダーとメンバーしかいなかった。参加者各人は食料まで自分の分を自分で持ってきたので、リーダーは全体のプランニングとその指揮だけをまかされていた。自立したメンバーの集合という想定だった。
 私はいま、参加者のみなさんからお金をいただいて講習会という名目の登山をしている。サブリーダーもアシスタントも置かないという完全なワンマンリーダー制でこの十数年に1,000回以上の登山を実施してきた。
 責任はどういう角度から見ても100パーセント私にある。権限も100パーセントあるけれど、責任を問われる事故が私の視野のなかで起こるとは限らない。事故は危険を予感させない想定外の場所と条件で起こることが多いからだ。100パーセントの責任とは、そういう想定外の出来事まで含めて適応されることになる。
 私の場合、メンバーは自立した参加者とはいえない。私が教育的リーダーを務めているわけだから、参加者に未熟さや欠点があるのは前提条件となっている。
 原則的にいえばそうなるのだが、じつはメンバーのほとんどは自立している。私とすでに100回以上とか200回以上行動しているみなさんは、逆に私のいい部分も悪い部分も全部お見通しだ。かたちは「生徒」でも「保護者」であったりする。
 私はだから、まだつきあいの浅い何人かの参加者とのあいだで、リーダーとメンバーという関係を築いていけばいいことになる。
 参加者が多くて登山道に長い列ができているときにも、私はまだ関係の薄い数人の参加者とのあいだで関係を構築していればいい……ということが多い。それは登山ガイドと登山者のダイレクトな契約関係に近いものかもしれない。
 逆におつきあいの永いみなさんには、自立した参加者となっていただいているわけで、私はそれを(先ほどちょっと紹介した)カナダでのピクニック体験と重ねている。一人歩きできるひとたちが(何らかの理由でお金を払って)私の企画に参加してくださるとなると、私はその登山を仕切るだけでなく、つきあいの永い人ともどこかの側面でコーチングという関係を持ち続けたい。外科手術みたいな派手なコーチングもあれば、健康診断みたいなコーチングもあるという考え方だ。
 これは登山におけるリーダーの考え方としてはきわめて例外的なものだということはわかっている。なによりもまず、私は「軽登山」を掲げていて、一般登山道(一般ルート)からは基本的に逸脱しない。だから登山技術として高みを目指すという要素はきわめて希薄で、超マンネリ化を恐れていない。
 私自身の関心としては、ゲレンデとしての登山道で、参加者みなさんにできるだけ生身の体験をしてもらうという方向に特化している。「内なる探検」などと説明するが、多くのひとの驚くほどの超ワンパターンの行動や思考を解きほぐすのが、じつは登山道上での私の重要な仕事となっている。
 私が歩き方そのものや、ダブルストックの使い方に細かくこだわるのは、登山技術というよりも個人個人の頭とからだの硬直した関係をなんとかほぐしたいと考えることに発している。私の登山技術に関する指導がときどき「非常識」といわれるのはそういう動機による。
 私は、自分がリーダー的資質を十分に備えているとは考えていないが、登山の技術者としては独自の領域を開拓していると考えている。しかも中高年登山に関わった1983年以来、25年間も少しずつ進化し続けていると自負している。行動領域は登山道に限定するが、あらゆる環境の中でいかに歩くか……をテーマにし続けてきた。
 開発途上の技術者だから間違いもある。みなさんそれも十分承知の上で、おつきあいくださっている。だから……登山におけるリーダーがギリギリの対応を迫られるような場面(あるいはその入り口付近)に遭遇したときには、それも体験のひとつとして余裕を持って見守ろうという保護者的メンバーの目を強く感じる。私はメンバーのみなさんに日々リーダー養成されているというのが本当のところかもしれない。


●リーダーの2つのタイプ

 私は自分自身がリーダー的資質にあふれているとはとても思えないので、本当の修羅場に遭遇したとき、自分が果たしてリーダーとしてきちんとした行動をとることができるか、はなはだ自信がない。
 だからすこしは考えるのだが、若い頃、英国流のリーダー論などを仲間と語り合った遠い記憶のなかに、忘れられない言葉がある。リーダーには全く違う2つのタイプがあるというのだ。
 ひとつは、最良の道を考えて、考えて、考え抜いて実行に移すリーダー。もうひとつは、一度決めたら、どのような障害が現れようと、目的に向かって道を切り開くリーダー。
 もちろん私はそのどちらでもないけれど、自分の中に半端に存在するその2つの性格を、できるだけうまく組み合わせていきたいと考えてきた。
 私は完全なワンマンプレーだから半端であろうがなかろうが自己完結的に決着させることができるが、グループになるとそうはいかない。3人以上からグループは成立するというけれど、そのリーダーはグループによってもまれ、共有のリーダー像に近づいていくということが多いのではなかろうか。運命共同体に対して責任を持つことになれば……だが。
 あるいは創設者が断然優れたリーダー……という例も多いだろう。その場合にはサブリーダーはリーダーの教えを受け継ぎ、かつ発展させることを求められる。
 じつはリーダーということを考える場合、リーダー候補としてのサブリーダーを不可欠のものとして考えなければいけない。そのためには、リーダーたるべき理論と技術が共有されるかたちになる。それぞれのグループ独自のものとして「文化」が構築されていく。
 リーダーという場合、通常はそういうリーダー&サブリーダー制のことになる。ひとりの人間が、「我こそ100%リーダーだ」と宣言すれば専制君主と非難されるだろう。あるいは「君は100%リーダーだ」といわれても、実際には前リーダー、元リーダーたち長老の前で、サブリーダーをやっているのにすぎない場合もあるだろう。
 そういう奥深い問題について私がなにかいえる立場とは思わないが、プロジェクトごとのリーダーに関しては100%の権限と、100%の責任を合わせ持った特命全権リーダーとすることを強く提案したい。
 この講座の第1回を『「単独行」のリスクとメリット』としたけれど、全権を委任されたうえで、失敗の権利をもつことが、登山道での行動技術を磨く上でどれほど効果的か訴えたつもりだ。
 登山の常識には古い言い伝えがたくさんある。「健脚になりたかったら水を飲むな」といわれた時代の常識が、現在までそのまま生き残っていることが多い。山のグループの中心的存在が、圧倒的な権限を維持するために古い常識を説いていると思われる場面を見ることが多い。
 私が正しいといいたいのではない。私はたくさんのドジを踏みつつ、リーダーとしてお金をいただいてきた。失敗する権利がリーダーにないと、リーダーは「定石」の選択しか許されないことになる。
 だから山の現場では成功も失敗もすべてリーダーにまかせて完結させ、反省が必要なら下山後にやればいい。リーダー個人のリーダー論と、グループのリーダー論がぶつかるのは下界での話にしたい。
 山の中では全権を与えたリーダーに命を預けるのが「常識」だ。全員の命が風前の灯火となるようなことは、失敗経験豊富なリーダーならたぶん避けられると私は考える。
 飛行機の事故や大工場の事故でも、大事故の前にはかならず小事故が起こるといわれる。山の事故もまた小さい失敗のところで予兆を感じ取るセンサー感度がじつは安全にもっとも有効な装置だと信じている。
 リーダーは小さな失敗をセンサーで計りつつ、大きな失敗を回避する役目をになっている存在と考えていただきたいのだ。考え抜いて行動しようが、圧倒的な突破力で目的に向かおうが、センサーとアクチュエーターのコントロールはどちらにも必要なはずだ。


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