軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座076】山と「そば」――2009.3.10



■筑波のゐだ――2005.2.19
古い民家の建材で建てた家は重厚だ。自然木のテーブルにガラス板をのせ、そこに大柄の器でそばは供される。鴨肉の焼き方をご主人がていねいに教えてくれる。



■松本の女鳥羽そば――2009.2.10
蔵造りの概観はデコレーションという感じがしたが、店内に入ると清潔感のある美しさが支配していた。石臼挽きのそばにも通底する芸術的な香りがある。


 私はかならずしもそば好き、そば通ではないけれど、山を下ったときの風呂と食事の選択では、やはりそば店を優先的に探したい。
 若い人たちならラーメンや中華、パスタや各種エスニック料理などから選ぶかもしれないけれど、平均年齢が60歳代となるとやはり和食系。その延長にそばがある。
 和食系の問題は、どの町、村にも宴会や法事のできる料亭があって、そういうところは建物も庭もそれなりのものだから行ってみる価値はある。泊まりがけで遠くに行くときには視野に入ってくるのだが、突然訪れて一品料理を気軽に頼める気の利いた店となると別のラインで探さなくてはならなくなる。
 トンカツだとか天丼といえば打率は高くなるが「安くてうまい」というどこにでもある店になりかねない。あるいは有名なチェーン店が推薦される。
 そば屋だって危険がある。一度ある日帰り温泉施設で、食事は周辺の店から出前をとるというシステムになっていた。危険球だと思われるものがふたつあって、ひとつは山国の安いにぎり寿司。もうひとつは町のふつうのそば屋の出前。どちらもリスクが前面に出てしまったが、悲惨だったのはそばのほうで、つまんだら全部いっしょに持ち上がった。
 だから私は、そば選びの基準を一茶庵創始者の片倉康雄に始まる脱サラ蕎麦打ち職人の店を基準にしている。私の古い友人が片倉の高名な弟子のところで修業した脱サラ組で、蓼科に店を開いてガイドブックに載るようになっている。そのそばを基準にするつもりでいろいろ食べ始めたのがきっかけだった。そしてそばでは、1,000円前後の値段で、思わぬ満足感を得られるということも多い。記憶に残る食事としての確率はなかなかいい。それと、私などは「大もり2枚」とかいって、普段は敬遠している満腹感を楽しんだりしている。
 そばを食べに行くのではなくて、下山後のプランの中にそばのリストをいくつか入れて、スケジュールの流れの中で、できれば行く、という程度だが、それでも十数年で千回以上山に行けばそば屋に入る回数も多い。行きたいと思っていたそば屋に行けるチャンスも少なくない。ここではそういうなかで記憶に残るそば屋を何軒か紹介しておきたい。


●筑波山

 超初心者が山のサイズを体験するのに、筑波山は絶妙な山だが、下ったらほとんど必ず、ゐだに寄る。筑波神社からまっすぐ南に下る古い参道の脇にあるので、タクシーを呼んだ方がいい。
 つけそば(1,350円)がいわゆるせいろで、ここ独特のものは鴨汁そば(2,000円)。「よく噛んで食べてください」という堅いそばに決定的な個性がある。鴨汁そばを頼むと鴨肉のあぶり方をご主人がみずから手ほどきしてくれるなど、記憶に残る店となる。好き嫌いはいろいろあるとしても、記憶に残るそばであることはまちがいない。
 発端は、最初に筑波山を企画したとき、電力会社で高圧送電線の保守をしている人が会員にいて、茨城県担当でそば好きの仲間が新しい店を発見したと教えてくれたことによる。以来ずいぶん訪ねているが、いつもリセットした感じで、堅いそばの味わいを堪能している。
*ゐだ(029-850-8082)11:00〜19:30、木曜定休。建物も、庭も、器も、みなご主人の趣味といえる。


●秩父

 そばどころの秩父にはたくさんのそば屋があって私などには甲乙付けがたいし、それぞれ違いがあっておもしろい。西武秩父駅の駅前にあったそば福は池袋行き特急の最終便まで店を開けていてくれたのでずいぶん利用させてもらった。その店が閉じられて、いま代わりに利用しているのは駅から見て左手にすこし奥まった和味処(なごみどころ)えん。そばやでもあるが、夜は酒と旨いもの、という店になる。営業は夜10時までなので、電車があるうちはやっているという安心感に加えて、きちんとした秩父品質のそばを食べさせてくれる。
*和味処えん(0494-22-2818)11:30〜14:00/17:00〜22:00、木曜定休。

 秩父が初めてという人が多い場合には秩父神社並びの武蔵屋に行くことが多い。秩父鉄道の秩父駅で降りて秩父神社にお参りするなどして観光気分に切り替わる。午後7時までやっているというのが秩父では遅いほうなので、その営業時間に助けられることが多い。食べ終わったら古い商店街のタイル張りの道をたどって、御花畑駅から西武秩父駅へとのんびり歩ける。秩父鉄道の秩父駅から西武線の西武秩父駅まで歩くので、秩父の中心街を見た気分になる。
*武蔵屋(0494-23-1818)11:00〜19:00、火曜定休。

 うんと遅くまでということでは、秩父神社正面右手の路地を数軒入ったところにあるそば処・入船がいざというときの押さえになる。しかもこの店は昭和初期に秩父銘仙の買い継ぎ問屋として建てられた木造2階建てで、国の登録有形文化財に指定されているという。実際にはそんな由緒ある建物とは気づかないけれど。
*そば処・入船(0494-24-5691)11:30〜14:30/18:00〜23:30(そばが無くなり次第終了)、水曜定休。

 西武秩父駅を出て大通りを右手に行くと手打ちそば・こいけがある。私の登山講座に参加していたそば好きが足繁く通ったというけれど、午後3時には終わってしまうのでなかなか行けなかった。1泊2日の両神山の往き道にこいけでそばを食べる計画にした。しかしそばだけに特化したシンプルさは、そばの味だけを求めるのではない私たちには、あまり記憶に残らなかったようだ。秩父にはやなぎ屋という老舗もあるが、こちらも時間的に行けた試しがない。
*手打ちそば・こいけ(0494-22-1610)11:00〜15:00、火曜・水曜定休。
*やなぎや(0494-22-1646)11:00〜16:30(売り切れ次第終了)、金曜・月2回木曜定休。


●松本

 松本で登山者が多いのはこばやし駅前店。駅を出て、左に延びる細い道を10軒ぐらい行ったところにある。列車待ちの限られた時間で食べられる。そこで食べるそばは、女鳥羽川を渡って松本城の方にすこし行った旧商店街にどっしりと構えているまつもと本店から運ばれている。本店では井戸水を使ってそばを打っていると聞いた。
 以前、山の仕事をしていた仲間が、救急救命の仕事で全国を飛び回っているところ、そのこばやし本店でバッタリ出会ったことがある。そば好きが、松本に来るたびに夕食としている……というような、特別な構えのない、主食としてのそばというふうに思える。
*こばやし本店(0263-32-1298)11:00〜20:00、無休。
*こばやし駅前店(0263-36-1555)11:00〜20:00、無休。

 当初、松本ではもとき開智店に通った。吟醸造りという上品な更級で、地元のタクシー運転手によれば「女子どものたべもの」だそうだが、日本酒をちびりちびりとやりながらそばを楽しむという人にはいたく好評だった。ちょっとした料理も、そば屋の上品さを崩さなかった。
*もとき開智店(0263-36-3410)11:00〜15:00/17:30〜20:00、火曜定休。

 しかし最近は女鳥羽川に沿った女鳥羽そばに通っている。女将さんが嫁なのか家付きの娘なのかわからないが、品のいい民芸調の店内に、かなりセンスのいい花が生けられている。そばはすべて松本産で、店内の石臼で挽いている挽きぐるみ(全層粉)だという。そのそば粉ならではのそばうす焼きが話の種。
*女鳥羽そば(0263-35-8502)11:00〜19:00、水曜+第3火曜定休。


●越後湯沢

 上越の山を歩くと、上越新幹線の越後湯沢駅を利用することが多い。駅から徒歩1分という感じの中野屋はほぼ定番という存在となっている。越後そばというべき「へぎそば」はつなぎに布海苔(ふのり)を使って「ツルリとした喉ごしの良さと独特のコシの強さ」を出していて、それを「へぎ」と呼ぶ箱に盛る。山形の「板そば」と同様のネーミングだ。
 とくにへぎそばだからというより、自然にす〜っと食べられるおだやかなそばという感じが誰にも好まれて「また行きたい」という人が多いのだ。頑固一徹、いろいろなこだわりがあるようだが、特別な気負いを感じさせることなくたっぷりと食べたいというそばになっている。
*中野屋湯沢本店(025-784-3720)11:00〜20:00、木曜定休。


●水上

 上越の山を群馬県側に下ると、水上温泉から上越新幹線・上毛高原駅に出るということがある。水上温泉は紅葉シーズンなどにはどこも満室になるなど営業努力が報われている気配がある。その水上温泉街の最奥にまるよしというそば屋がある。温泉街にはたいていすし屋とそば屋があって、その、ごくありふれたそば屋にしか見えないのだが、水上で食事をする時間になると、どうしてもまるよしに電話をかけてしまう。
 名前を名乗っているわけでないし、特別な会話をしたわけでもないけれど、家族経営のそば屋の、ほんわりと心あたたまる感じが、いつもする。
 じつはここのそば、かなりうまいのではないかと疑って?いる。特別キリリとくる味でもないし、印象に残るメニューがあるわけでもないのだが、ひょっとすると飽きないそばというようなおだやかな名品なのではないかと疑って?いる。
 私にはそばの味を客観的に評価する能力がないのだが、いつもこの店を出るときには、なんにもないけど、ホッ!というような気分になるから不思議なのだ。
 ひょっとすると、かなりすごいそばを、老夫婦がにこにこ笑いながら作っているということかもしれないと疑って?いる。町のそば屋のごくありふれた健全な姿が、この店にあるのではないかと疑って?いる。
*まるよし(0278-72-3736)11:00〜15:00/17:00〜19:30(週末は17:00〜20:00)、木曜定休。


●甲府

いままで甲府でこれはというそば屋をみつけていなかった。夜叉神峠からの帰り、桃ノ木温泉でいい湯につかって、タクシーで真一文字に甲府まで飛ばすことになったのだが、甲府で用意しているいくつかの食事場所が時間の関係と、メンバーの顔ぶれから、つぎつぎにはじかれた。しかたなく、リストだけもっていた手打ちそば奥村本店というのに予約を入れた。
 甲府の中心街のひとつだろうか、大きなアーケード街の脇にあって、周囲には老舗らしい食べもの屋が何軒もあった。あとで知ったのだが創業350年という甲府で一番古いそば屋だとか。代々伝わる秘伝はそば粉10に対して小麦粉を1とする「外一そば」だそうで、要するに二八そばよりそば粉が多め……ということかも。十割そばが一般的になると、どうなのだろうか。
 私はそこで特別な粉を使っているという値段がほぼ二倍のそばを頼んだけれど、そこで新発見。ここのそばは太さがバラバラ。そろわないというよりも、そろえないという意志のあるバラバラなのだ。そばの太さは茹で時間と関わるので、そろえるのが基本だろうが、それをあえてバラバラにしている。そしてそれが、私にはとても新鮮に感じられた。そばつゆとの関係が、なんだか陰影に富んでいたように思われる。たった1回の体験での紹介だが、ただものではない、という気がした。
*手打ちそば奥村本店(055-233-3340)11:30〜21:00(日曜は20:00まで)水曜定休。


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