軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座081】山用双眼鏡――2009.6.10



■1990年代のカタログにあったツァイスのデザインセレクションシリーズ。左が4倍(4×12・43,000円)、右が6倍(6×18・43,000円)。最短焦点距離は4倍が1m、6倍が2m。



■キヤノンの防振双眼10倍(10×30・65,000円)
単3電池を2本入れて、ボディ上部のボタンを押すとバリアングルプリズムが屈折角を変化させて手振れを吸収し、画面がなめらかに揺れる。10倍以上の高倍率双眼鏡を手持ちで使用できるようにした画期的なシリーズの普及版。左はグリニッシュ・ダークグレー、右はブルー。


●6倍と10倍はどちらがよく見えるか

 10年ぐらい前になるだろうか。コンタックスカメラをつくっていた京セラがツァイスの双眼鏡の輸入事業をしていた。
 ご存じとは思うが、コンタックスカメラはカールツァイス社のブランドで、ヤシカ〜京セラがカメラをつくるようになってからも、レンズはもちろんツァイスだった。そのツァイスは近代双眼鏡の元祖というべき光学メーカーの老舗。そのツァイスにデザインセレクションと呼ぶ女性的なデザインのシリーズがあったので、皆さんに宣伝し、その結果、ふたりが6倍(6×18)を買ったのだった。
 本当はそのシリーズの4倍(4×12)を薦めたかったのだが、買った人の周囲に双眼鏡に興味を持っている人がいて「4倍じゃ役に立たない」などといわれるとやっかいなので、6倍で妥協したのだ。
 なぜそんなことをしたのかというと、当時私が登山者が持つ双眼鏡は何がいいか、かなり真剣に考えていたからだ。
 当時私が持っていたのはドイツのシュタイナー社の6倍(6×30)とキヤノンの防振双眼鏡の10倍(10×30)だった。それと新しく買った人のツァイスの6倍とを山で実際に見比べてみたかったのだ。
 自分で買えばいいじゃないかといわれそうだが、ツァイスの6倍は普及版とはいえ43,000円。私のシュタイナーの6倍は66,000円、キヤノンの防振10倍は65,000円という値段だ。登山の必携アイテムではないので高額な装備といえる。
 双眼鏡といえば倍率のスタンダードは8倍と10倍。バードウォッチングではニコンの8倍(8×30・57,000円)が長い間スタンダードの地位を築いてきたのではないだろうか。そしてバードウォッチャーの垂涎の的はツァイスの10倍(10×40・現在は10×42で269,850円)となっている。
 ハイレベルのバードウォッチャーにツァイスの10倍(10×40)を見せてもらったことがあるが、樹陰で光と陰が交錯するような場面や薄暮の樹林でその価値がわかるという。
 また最近はクリスタルグラスのスワロフスキーの関連会社スワロフスキー・オプティックの双眼鏡に熱烈なファンがいる。ツァイス以上という人もいるが、10倍(10×42・262,500円)は価格的にもツァイスと堂々と競り合っている。
 さて、6倍以下の双眼鏡がほとんど見られないのは、日本では倍率が高い方が偉いと考えられているからだ。じつは、6倍以下になると「遠くのもの」はほとんどピント合わせが必要ない。これはスポーツグラスとして重要な要素で、サッカー観戦ならベストフィットといっていい。オペラグラスとしても低倍率が有利で、じつは4倍あたりがベストだと思うのだが、6倍でもそれに準じる。
 じつはサッカー観戦と観劇では、鑑賞距離というものがおのずから違ってくる。競馬場では遠くの馬をできる限り引き寄せて詳しく見たいという高倍率型の使い方をするのだろうが、球回しを追うサッカーではスピード感を失いたくない。観劇でも役者の顔ばかりをアップするような見方をすると、臨場感においてマイナスという場合も多い。
 双眼鏡がなぜ両眼で見るのかというと「大きく見る」というだけでないことは自明のことだ。立体感をブローアップするという効果、すなわち臨場感の拡大というふうに理解するのが合理的だ。そして臨場感は「視野の広さ」とリンクする。
 じつは高価な双眼鏡は肉眼にストレスを与えないためにさまざまな努力をしている。肉眼より大きく見るという倍率がその基本にあるけれど、視野角というのも重要だし、めがねを使用している人には接眼レンズから離れても視野がけられないアイポイント距離というのも重要だ。倍率表示には原則的に対物レンズ径がセットになっているのだが、6×30と8×40とは接眼レンズにできる瞳径が5mmで同じ。人間の瞳が直径5mm以下の明るさなら双眼鏡が明るさの邪魔をしないという数値だ。
 船で使われる双眼鏡のスタンダードは7倍(7×50)とされてきたが、瞳径が7mmあると人間が暗さの中で瞳を開いた状態でストレスを与えないとされる。船では、じつは水平線が意外に近いので、高倍率の双眼鏡だからよく見えるということになならない。夜間でも肉眼よりよく見えるというために瞳径7mmが重要なのだ。
 ドイツの双眼鏡では「薄暮係数」というのを使っている。瞳径が7mmなくても倍率が大きければ見え方が補われる。対物レンズの倍率×有効径の平方根がその薄暗いときの見え方になるのだが、6×30は約13、8×40は約18と見える領域が広がってくる。
 しかし実際にはレンズそのもののシャープさだとか、視野全体にわたる均一性とか、レンズの透過率を高めた光のロスの低減だとか、もっと重要なのは両眼に入る映像の精度の高い一致がどこまで保たれているかという基本品質に大きな幅がある。
 たとえば日本のメーカーの1万円程度の双眼鏡にしばしば見られるので驚いてしまうのだが。片目で見るとどちらもよく見えるのに、両目で見るとどうしても画像が一致しないという光軸の狂いがあんがい平気で放置されている。
 さてそれで、キヤノンの防振10倍(10×30)とツァイスの6倍(6×18)とを山で見比べて見た結果はどうだったかというと、ツァイスに軍配を上げざるをえなかった。


●汎用双眼鏡の、もうひとつのかたち

 キヤノンの防振10倍は12倍(12×36・10,000円)、15倍(15×45・現在は15×50で169,000円)に続く普及版。取材した技術者によれば、キヤノンが開発したプリズム式手振れ防止システムで双眼鏡に革命を起こそうと、35ミリ一眼レフ用交換レンズEFシリーズのレンズを装着した双眼鏡というコンセプトで開発したという。
 もちろんターゲットはツァイスの10倍(10×40)だった。分解しても特別なものは見つからなかったが、製品のクオリティは高いと感じた。EFレンズを2本並べて双眼鏡としても、レンズコーティングの色合いが左右でバラついて見えるとか、左右の光軸をピタッと一致させるという簡単なはずの基本技術に想像以上の精度と強度を要求されたという。
 防振システムは倍率が10倍を越えると必須だ。ブレることによって画質が低下するわけだから、手持ちでは使えない。三脚につけるという不自由なかたちになる。
 当時ツァイスが採用していた防振方式は光学系をヤジロベーのように吊り下げたメカニカルな方式で20倍(20×60・750,000円)。それに対してフジノンは電気式のジャイロモーターによって飛行機や艦船からのブレも吸収してしまうというハードボイルドたっちの12倍(12×40・498,000円)だった。いずれも軍用、警察用といった特殊用途だったから、民生用のキヤノンの防振システムは画期的だった。
 そのブレない10倍よりポケットタイプの6倍のほうが「よく見えた」のはどうしてか。
 山の稜線を見ると、木々がその稜線を形作っている。空と接する輪郭のところで、ツァイスのほうがにじまないのだ。倍率が低いのに、質感描写が優れているという印象なのだ。大きく見えるのではなく、情報量が多いという印象。
 キヤノンの10倍だって驚くほどシャープなのだが、風景が広がっていくと捕らえきれなくなってしまうということがわかった。
 山では広大な風景に感動することが多い。紅葉の山で、1枚の葉をクローズアップして見るのなら当然キヤノンの10倍の方が有利だろう。しかし紅葉の山肌に目を向ければ、錦秋の鮮やかさそのものを何倍かに拡大してくれるのはツァイスのほうだ、と感じた。
 のちにキヤノンの10倍と、ツァイスの傑作単眼鏡3倍(3×12、ただし倍率は最短距離で5倍まで移動・56,900円)とを比べたが3倍と10倍でも勝負がつかない感じだった。
 3×12の単眼鏡がなぜ傑作かというと、望遠ルーペという発想なのだ。わかりやすくいうと美術館用ルーペ。鑑賞距離から近づけないところで細かな部分を引き寄せて見る決定版とされている。最短焦点距離は30cmで、鏡銅を回してピントを近づけていくと倍率は自動的に無限遠の3倍から5倍へと変化していく。つまり倍率が変化するほどピント幅を広くとっているということになる。
 じつは私が推薦したツァイスのポケット双眼鏡は4倍(4×12)が最短1mまで、6倍(6×18)が最短2mまでピントが合う。言い換えれば美術館ルーペ型双眼鏡なのだ。同じシリーズに単眼鏡もあって4倍(4×12・33,000円)も6倍(6×18・36,000円)も最短焦点距離は30cmとなっていた。
 私流にいえば美術館ルーペ〜オペラグラス〜スポーツグラス〜風景双眼鏡という領域をカバーするには倍率は4〜6倍が妥当なのだ。4倍という倍率はずいぶん低いように感じられるが、肉眼で見ている状態を、あきらかにかさ上げしてくれる。
 射出瞳径については1969年にツァイスが発売した折り畳み式ポケット双眼鏡が8倍(8×20・90,300円)と10倍(10×25・96,600円)だった。
 人間の瞳は暗いところで直径7mmに広がり、明るいところでは直径3mmに絞られるという。だから射出瞳径が3mmの双眼鏡はまぶしい明るさの時以外は肉眼より暗く見えるというハンディを背負う。ところがツァイスはその常識を覆して射出瞳径2.5mmで「十分に明るい」というポケット双眼鏡を誕生させたのだった。私が薦めた4倍、6倍シリーズは射出瞳径3mmで、比較したキヤノンの10倍と同クラスということができる。
 ニコンには低倍率の双眼鏡があるけれど、本気でつくったものとは思えないことが多い。ツァイスのその4倍、6倍の双眼鏡も現在では買えないように思う。どう考えても売れなかったにちがいない。
 しかし、一家に1台、4〜6倍で高品質の汎用双眼鏡があると、双眼鏡の本当のよさがわかってもらえると思う。そういう気持ちで双眼鏡売り場をのぞいてみるのだが、低倍率双眼鏡はいかにも安物で、大きくは見えるけれど、臨場感が増幅されるという感じはなかなか味わえない。
 現実的な選択としては、6倍以下の単眼鏡を1本買ってみるほうがいいかもしれないと思う。単眼鏡だとレンズは「よく見える」感じがする。1万円で、とりあえず満足できるのではないかと思う。
 コンパクトなので、登山道をはずさずに花を見るというような望遠ルーペとして使うことで、十分に価値を発揮してくれるはずだ。お金のある人にはぜひ、ツァイスの3倍(3×12)単眼鏡を買ってみていただいたいけれど……。
 キヤノンの防振10倍(10×30)を最初にのぞいたとき、目の前の林が絵画的な遠近感で迫ってきた。肉眼で見たのとは全く違う印象の風景が飛び込んできたのだった。
 10倍という倍率は想像以上に光景を拡大し、引き寄せてくれるが、それよりも圧縮された遠近感が、新しい映像を見せてくれているという印象の方が大きかった。
 双眼鏡売り場でいろいろな双眼鏡をのぞいてみて、単に大きく見えるとか、シャープだとかというのではなく、刺激的な新しい光景を見せてくれるかどうかで判断すると、きちんとつくられた双眼鏡かどうかの最初の選択を誤ることはないと思う。安かろう悪かろうという双眼鏡は「大きく見える」という以上の感激は用意されていないからだ。

*双眼鏡の価格は、現在販売されているものはその価格とし、ないものについては当時の価格とした。双眼鏡は同じ型番でもモデルチェンジしていることがあり、価格も変わるので、いずれも目安とお考えいただきたい。


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