軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座085】理想のズボン――2009.8.10



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■ニッカーボッカーズが似合う人。登山靴もビムラムソールを張った本格登山靴で、なじみ具合からみてかなり歩いたと思われる。ただし、高齢の人には重い靴は明らかにハンディになる。



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■奥武蔵の蕨山で。ほとんどのみなさんが、軽い靴とほぼ理想の登山用ズボンをはいている。洗ってすぐに乾くだけでなく、アイロンかけも必要ない。しわにもなりにくいので、旅行用、日常用としても重宝する。


●ニッカーボッカーズ

 最近、かなりお歳の女性が入門クラスに入ってきた。革の山靴をはいて、ニッカーボッカーズでビシッと決めている。ひざ下までの純毛の七分ズボンの裾をピチッと締めて、その下はロングストッキング。かなり山を歩いていた人であることにまちがいない。
 ところがお歳のせいだと思うが、体が山にうまく合わない。ちょっと苦しいのだ。
 そうなると、山靴がいかにも重い。ニッカーボッカーズも重厚というより、重々しい。
 そこでまず山靴を軽い靴に変えてみてもらった。するとなんと地下足袋を買ってこられた。
 ニッカーボッカーズと地下足袋というのは、じつはミスマッチではない。最近では下火になったが日本の山では沢登りが独特の位置を占めていた。地下足袋にわらじというのがその定番になっていた。そういう時代のひとだから、ニッカーボッカーズに地下足袋は似合っても、私がいう「運動靴」のほうがミスマッチだと考えたのだろう。
 私は「ニッカーボッカー」といっていたし「ニッカーズボン」と呼んでいた人もいたと思うが、ニッカーボッカーズは18世紀のニューヨークで、ある作家のペンネームからオランダ移民がニッカーボッカーと呼ばれるようになり、かれらがはいていたひざ下の半ズボンがニッカーボッカーズとなったという。いまでも現役で見られるのは野球だろう。ゴルフだとちょっとクラシックという印象になる。かつては旅行着、仕事着としてもポピュラーだったようだが、登山用のニッカーボッカーズもいまやクラシックスタイルといっていいだろう。
 私が大学で探検部に入ったのは昭和40年(1965)だが、私の周りではニッカーボッカーズ派とスキーで流行していたトレンカータイプ派に分かれていた。トレンカーというのは正式にはなんというのか知らないが、長いズボンの裾が足裏までまわっているタイプで、私たちは学生ズボンにゴムひもをつけてトレンカーに早変わりさせたりした。
 なんでニッカーボッカーズかというと、ひざ周りの動きを阻害しない。それに対してトレンカーは足を長く見せる。野球でも限りなくトレンカーというべきユニフォームも多い。ON時代の王と長島が同じユニフォームにもかかわらず、トレンカー派とニッカーボッカーズ派に分かれて見えたのは私だけだろうか。
 もちろん登山に普通のズボンもはいた。ほとんどは問題ないのだが、段差の大きな登りになったり、こちらがバテたりするとひざがズボンに引っかかる感じがし始める。ひざ下でズボンを縛って、日本武尊のようなスタイルにしたくなる。ニッカーボッカーズが登山用ズボンとして機能的に優れていることがよくわかる。
 じつは登山にジーンズをはくのは最悪のケースだということはよく知られている。厚手の木綿なのでいったん濡れると乾かずに体熱を奪うというだけでなく、生地がごわごわにこわばって歩きにくい。疲れる原因になる。ところが、ジーンズでけっこういけるのは綾織りになっていいるため、いくらか伸縮性があるからだ。そこのところが平織りの綿のズボンより動きやすいと感じる原因になっている。考えてみればアフリカの4,500m級の山も、東南アジアの4,000m級の山も、登ったときにはジーンズだった。最近では伸縮性のある糸を織り込んだジーンズも多いので、そういう意味では意外にはきやすいものになっている。
 京都大学系のサル学者たちのフィールドワークでは作業ズボンが定番になっているというが、安くて丈夫でポケットいっぱいというのに加えて、ポリエステル混紡や、速乾性のあるものなどこちらも素材革命が進んでいるので実用的には相当高いレベルの作業性を実現している。東北の山ではゴム長靴がいいという人が多いが、そういう人には作業ズボンがベストフィットかもしれない。
 もうひとつのベストフィットはジャージー。英国のジャージー島の漁師の作業着に始まるというが、学校の体育着として定着しているトレーニングパンツは(私の年代の「トレパン」は白い綿のズボンだったが)伸縮性のあるジャージー布で作られていることから、一般に「ジャージー」と呼ばれている。綿やウールもあったそうだが、いまではポリエステルが基本で、軽くて丈夫で、動きやすい。登山用として申し分のない性能をそなえている。


●理想のズボン

 高緯度に住む欧米人はアウトドアに半ズボンを用いるケースが多い。寒い中でも日光浴ができる体になっているからだろうか、かなり冷たい風の中でも平気で半ズボンで過ごしている。半ズボンだとひざ周りの動きを阻害することがないので、どんな素材でどのように作ろうと機能的には問題ない。
 最近、スポーツタイツ(筋力サポートタイツとでもいうべきだろうか)をはく人がふえてきたので、日本にも半ズボンファッションが広がりつつあるようだが、足を外部からサポートするというタイツのことに関してはここでは触れない。私の周囲にもずいぶん多いが「不安解消」のためにはいている人が多いのは事実で、自分の肉体ときちんと向き合うためには、とりあえず鎧ははずしたほうがいいと思っている。恐怖に起因する仮想敵はどんどん強力になっていくので、過剰防衛になりかねない。
 いま登山用品店に行くと、ポリエステルに少量のポリウレタンを混紡した薄手のズボンが基本になっている。ナイロン主体のものや、綿主体、ウールを混紡したもの、そしてもちろん綿系のものもあるけれど、ポリエステルの速乾性ズボンにポリウレタンによる伸縮性を加えたものを基準にして見比べるとわかりやすい。
 繊維そのものに吸湿性がなく、水分は毛細管現象でどんどん排出してくれる。だから雨の中でどんなに濡れても、濡れるそばから乾いていく。
 つまり濡れても体に与えるダメージがあまりない。濡らさないように気をつける必要がないので、雨露や夜露の草をかき分けて進むようなときにもまったく躊躇しなくていい。抜け出ればすぐに乾いてしまうのだ。
 そうなるとカサも有効だ。カサをさして歩いているとズボンの裾が濡れるけれど、そういうことを恐れる必要がまったくない。
 ただ、強い雨だったり、長い時間雨に当たっていると、ザックの背中から回り込んでくる水が、腰のアタリから侵入してくる。そこで私は最近、古い雨具を切った半ズボンをはいている。あるいは簡便な巻きスカートでもいいと思うが、ポケットの中身とパンツが濡れないようにしておくと、ズボンの濡れは本当に気にしなくてよくなる。
 上半身だって背中にはザックを背負っているのだから、カサをさせばほとんど問題ない。カサをさせない状況でも、簡単な雨合羽で肩から胸を濡らさないように気をつければいい。
 夏の山歩きのほとんどは、上下の雨具をビシッと着ることなくすますことができる。
 濡れてもいいズボンは、もはや雨具のひとつの考え方といっていい。しかも伸縮性が大きいのでひざに引っかかるような気配もない。
 そこで梅雨時から紅葉の前までは、できるだけ薄手のズボンをすすめたい。安ければなお結構。登山用のズボンの見えにくい長所は尻の部分にある。日常着のズボンだと、なにかの拍子に尻の縫い目がビリッと裂ける危険がある。登山用のズボンならそういう不安は考えなくていいはずだ。
 昔は夏のズボンと冬のズボンは明らかに違ったが、現在ではズボンは夏冬同じものでもいいと考えておきたい。冬にはアンダータイツで保温調節をし、防風、防水はレインウェアを外界に対するバリアスーツとして着ることになる。ズボンそのものに大きな役割を与える必要はあまりない。
 しかし、同じ作りの登山ズボンの黒とカーキ色をはき比べてみると、夏には黒は日差しを受けて明らかに熱くなった。スズメバチ対策なども勘案すれば夏には黒系は避けた方が賢いだろう。
 冬にはいていたミズノのブレスサーモのズボンをはいたら、梅雨前に、すでに暑くてかなわないと感じた日があった。保温機能が確実に効いている。
 だから冬には冬用のあったかいズボンがほしいともいえるけれど、マイナス10度Cぐらいの稜線を歩く程度なら、ズボンの保温に頼る必要はあまりない。保温用のタイツの能力がすごいので「一番薄いのを買ってください」とわざわざ注意しなければいけないほど。
 それでも寒さに負けそうなときには、適材適所に「貼るカイロ」を投入する。とくに高齢者の場合には保温より加温のほうが有効だ。
 実際に私の周りには、1本の登山用ズボンでオールシーズン通している人が多い。実用上は、ほとんど「理想のズボン」となっている。


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