軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。
【伊藤幸司の軽登山講座088】「遭難」という選択――2009.9.25
■トムラウシ山のロックガーデン。大きな岩が連続するので、健脚なら岩の頭を踏んで歩けるが、疲れてくると体力を消耗する。遭難したグループはここをようやく突破して北沼にたどりついた。
■Sガイドに率いられた10人はてんでんバラバラになり、トムラウシ山を下って前トム平で多くが行動を奪われた。ここがその前トム平で、ロックガーデン同様の大きな岩をたどって歩く部分。
●トムラウシ大遭難のキーポイントは「テント」
今年(2009年)7月15日に私は北アルプスの唐松岳から下って、中央高速バスで新宿に向かっていた。その車中で携帯電話が鳴った。あるテレビ局の報道記者だという。富士山で落石があったので、それについて聞きたいという。5合目で死亡事故があったという。
私はその事件を知らなかった。駐車場で車がつぶされたということを理解できなかったので、当然登山道で死者が出たと思いこんで、白馬岳の大雪渓で数年前に起きた大規模な落石事故のさい、間一発助かったという人を紹介した。
ところが17日には北海道のトムラウシ山での遭難が報じられた。テレビで見ているとしだいに大遭難の様相を呈してきた。落石事故の取材は19日の日曜日分だといっていたので、当然ふっ飛んでしまう。そこで山には全く疎いと思われる女性記者にメールを送った。
そのメールで、トムラウシ山の遭難を見るときにテントがどう使われたかに注目してほしいという1点を強調した。
私の周りには問題の登山専門ツアー会社・アミューズのお得意さんがけっこういる。冬山に参加して、その流れでモンブランに登った人もいる。おおかた好感をもたれていると感じていた。
そのひとりによると、アミューズのガイドは全員が非常用のテントを持参しているという。そういう基本姿勢をもった会社だと私は思っていた。
ともかく、北海道の山を歩くにはテント持参が原則とされている。東北の山だと避難小屋に依存した放浪型登山者が多いようだが、避難小屋の密度が薄い北海道ではいろいろな理由で小屋に泊まれない場合を想定して出かけなければいけない。最低ツェルト(テント型布袋)は持っていたい。
私が最初にトムラウシ山に行った(1989年・朝日カルチャーセンター立川)ときには地元の山岳写真家に声をかけて、帯広畜産大学の学生2人をポーターとして雇うという大名旅行になった。
その後は私流のワンマンシステムとして、毎回6〜7人用テントを自分で携帯している。あるとき、白雲岳避難小屋(収容人員60人)に全員が入れずに、テントが役に立ったが、じつは食事のために全員を詰め込んだら、26人が入れてしまったので驚いた。中央で私がメシを作り、一口ずつ試食するというようなかたちでしか動きがとれなかったが、強風の中、湿った避難小屋を逃れてゆっくりと食事ができたのには正直驚いた。
たとえば10人のグループだったら、混んでいるときには半分入れてもらって半分はテントというような覚悟はしていなければいけない。だからあのグループがどのようなテントをどのように持参して、それをどのように使用したかをきちんと見れば、遭難に当たって彼らがなにを試みたかがかなりはっきり見てとれる……と私は確信していた。
もちろんテレビや新聞ではリーダー3人のうち2人はトムラウシが初体験だったなどと素人判断を前面に出していた。私は3人が全員リーダーだったのか、ひとりがリーダーであとの2人はポーターだったのかを知りたかったが、ニュースからはそれすら見当がつかなかった。
ニュースで判断できたのは、あの日、遭難がとなりの美瑛岳でもあり、またトムラウシ山で別の登山者も遭難したということから、悪天候が大きな要因であったことはまちがいない。遭難の原因が100%あのグループに内在するとはいいきれないと思った。
しかし、死亡がひとり(せめて2人)というのなら、内在する危険に対する対処が遅れて、危険な状態が顕在化したともいえる。しかし18人中8人が死亡するというのは、どこかで安全を守ろうとするタガがゆるんだとしかいいようがない。さらにいえばガイドの1人も死んだという報道があって、なぜか私は愕然とした。自殺行為ではなかったかという疑いも、正直持った。
テントはそのグループの遭難のなかでどう使われたのか。しかしそれに答えてくれる報道はほとんどなかった。
山岳雑誌が出れば、当然そのことがわかるだろうと思っていた。「岳人」と「山と溪谷」が10月号で大きな特集を組んでいたが、私の参考になったのは「岳人」による「事故までの行動概要」だけだった。いろいろな立場の人がいろいろな意見を述べているが、技術論的に遭難に迫ろうというものはほとんどなかった。
さて「岳人」の「事故までの行動概要」によると、問題の7月16日、午前5時30分にヒサゴ沼避難小屋を出たときに「10人用テント、コンロ、ガスカートリッジ、鍋などの山行装備を小屋に置いてツアー一行は出発する」とある。つまり避難小屋に大人数のグループが泊まるために10人用テントは用意されていたけれど、次のグループにそれは引き継がれたというのだ。
そして「12時30分〜13時頃」に「北沼付近でビバークを決めたMガイド、客4人(女性3人・男性1人)のうち、女性客1人がツェルトに入ってからしばらくした後、脈拍が停止する」とある。おそらくMガイド(メインガイドの意味・北海道在住32歳)はツェルトを持っていた。ツェルトは防風に有効なので「客4人」が早めにかぶっていればさらなる事態をくい止めることができたかもしれない。まさにそのように使うためにツェルトは携行される装備だった。
そして「17時00分前」になって「Mガイドが、ツェルト(男性客Aの私物)まで様子を見に行くと、そこに入っていた女性客HとTガイドは絶望的な状況であった」
Tガイド(ツアーチーフガイドという意味らしい)というのは広島在住の61歳で、一般的な憶測としては登山現場はMガイドにまかせ、ツアー責任者としてTガイドは「押さえ」の役目であったのだろう。参加者の多くと顔なじみであったとも考えられる。
これらは頂上手前の北沼周辺での動きなのだが、もう一度動きを振り返ると、10時30分頃に女性客Hが動けなくなって、いろいろ手当をしていたが、全員が寒さの中で待たされたため、「12時30分〜13時頃」にTガイドが付き添って残り(ここで男性客A=69歳の私物であるツェルトが使われたようだ)他のメンバーはMガイドとSガイド(サブガイドの意味・愛知県在住38歳)が率いて前進した。
しかし、すぐに女性客2人が遅れるなどして混乱し、意識不明に陥った女性客1人、歩行困難な女性客2人、介護役として活躍していた男性客AとMガイドがビバークを決定し、残りの10人をSリーダーが率いて下山(山頂迂回のルートで前進)することになった。
つまりTガイド、Mガイドと5人が北沼周辺で(2組に分かれて)ビバーク(緊急露営)に入ったのだ。結果としてこのうちの4人が死亡し、Sガイドと前進した10人のうち4人が死亡した。ちなみに動けなくなって客に置き去りにされたというSガイドは、17日になって倒れているところを登山者に発見され、110番通報によって救助された。
さて状況証拠がもう1点ある。16日の「17時00分前」のMガイドに関する記述だが、最初にビバークした女性客HとTガイドの絶望的な状態を確認したあと、Mガイドは携帯電話が通じる場所を発見して会社に遭難を伝えている。そしてそのとき、道際にデポされていた登山道整備業者のテントを発見「拾ったテントを付き添いで残った男性客Aと立て、お湯を沸かす(それまでは男性客の持参したコンロ類などが使われていた)。その後、介抱されていた女性客1人がいびきをかきはじめるとともに体温が下がってゆき」とある。
この「事故までの行動概要」から読みとれるテントに関わる記述はそれだけなのだが、驚愕の事実がもうひとつある。岩城史枝氏によるこの労作の解説文の中で「歩ける客10名(1時間以上の待機中に低体温症にならなければ歩けるはずだった10名)をつれて下山にかかったサブガイドの荷物には4人用テントが入っていたという」。ガイドはテントを持参にしていたのだ。私の6〜7人用テントに26人が入れたことから類推しても、かなりの人数が風雨を避け、着替えをして、気持ちを落ち着けて次の行動を考えることができたはずだ。
そのテントを使わずに多くの人命を失ったという一点において、危機管理上のガイドの責任は重いといわざるを得ない。
●「遭難」の権利
もちろん、何がどうであれ、事故が起きればリーダーに責任の多くがある。たとえ事故の多くがリーダーの想定外のところに起因するとしても、だ。
だから事故の解明では責任論から入ってはいけない。そのときの現場の状況を正しく認識することは不可能だし、人間の判断や行動に起因する要素を客観的に判断することも複雑すぎて不可能だ。
トムラウシ山遭難の技術的な要点を、テントだけに絞って見てみたわけだが、そのテントをどう使ったか、使おうとしたかにリーダーの意志をくみ取ることで、ずいぶんと多くのことが見えてくる。
リーダーに求められるもっとも重要な判断は危機管理における「遭難」だ。遭難を回避しようという積極的行動と、遭難と判断して人命を守るという守備的行動の分岐点を決めるのはリーダー自身だ。
その日のトムラウシ山は台風に直撃されたほどの局地的悪天候に見舞われていたそうだが、だからどうだと外野席から言っても無駄だ。
リーダー判断の最初の分岐点は出発から約3時間後にロックガーデンに到着したとき。通常は1時間半とされているこの区間に倍の時間がかかったという事実は、リーダーは確認していたはずだ。結果は前進だったとしても、前進と後退の「損得計算」はしていたはずだ。天気が回復するとしても、途中で夕闇につかまるという危険は覚悟しなければいけない。夜になればスピードはがくんと落ちるから、深夜の下山も覚悟しなければいけない、ということは考えなかったはずはない。
次は北沼で徒渉を終えたところで、女性客Hが動けなくなったときだろう。その女性は前日、行動中に何度も吐いていたというから、15人の客がいれば1〜2人は体調不良の人もいるという想定内の危機管理作業が行われたにちがいない。Tガイドが付き添って引き返すとか、ビバーク態勢に入るとか、リーダー判断が求められる場面だ。
ここでグループが1時間半ほど風雨の中で待たされたことが後に起こる大事件の直接的な因子になるのだが、そのときに用いられたツェルトが「男性客Aの私物」だったというところで、事態がすでに異常な軌跡を描き始めていることがわかる。Mガイドはツェルトを持参しており、Sガイドは4人用テントを持っていた。そのどちらも出さずして事に当たったところで、リーダーシップが欠落してしまったと見える。
リーダーに与えられた最大の権利は「遭難」だ。ここでTガイドに女性客Hをまかせて「遭難」と決定すれば、女性客Hの命を守るできるだけの手配をして本体から切り離すことができた。
1時間半の過酷な停滞ののちガイド2人と客14人は行動を再開したが、30分も進まないうちに女性客1人が意識不明となり、女性客2人が歩行困難になった。そこで男性客AとMガイドの5人がビバーク態勢に入ったという。すなわち第二段の遭難宣言だ。
Mガイドは動き回って携帯電話の通じる場所をみつけ、会社に対して遭難を伝えた。そして道際にデポしてあったテントとガスコンロを入手した。前進したSガイドと10人の客は旧軍の敗残兵のような死の行軍に移っていく。
これだけの情報では推理に不安が残るけれど、女性客Hが行動不能になったとき、ツアーリーダーのTガイドがきちんと脱落していれば、状況は大きく変わっていた。当然、テントや食料、保温にかかわる装備など、できるかぎりの態勢を調えて「遭難」させるべきだった。
それなのに「遭難しない努力」をした。その1時間半が大きな悲劇を生んだのだ。
結果論としていっているのではない。15人の客がいたら、1人〜2人の体調不調が出てくるのは想定内だ。天気がよかったり、時間に余裕があったりすればリーダーのワザでなんとか歩かせることは可能だが、すでに条件はあまりにも悪すぎる。山頂をカットして迂回路をとったとしても、時間的にはすでに遭難状態にあったことはリーダーには(認めたくないにしても)分かっていた。
行動不能者が続出し、意識不明者も出たときに、それでも4人用テントがSガイドのザックの中にあったという事実は、3人のリーダーに「遭難の権利」を行使する権限が与えられていなかったかのような印象も与える。客の命に関わる現場で、最低限の危機管理も機能しなかったという印象が残る。
営利を追求するツアー登山がどんなものであってもそれについてはコメントできないし、したくない。しかしガイドに「遭難の権利」が与えられていなければ、それはリーダー足り得ない状況といいたい。命を守るために払う最後の努力が積極的「遭難」だと私は考えているからだ。
しかし「遭難」という言葉は物議をかもす危険があるので、登山用語では一般に「ビバーク」「フォーストビバーク」(いずれも緊急野営の意味)と呼んで、登山者がワザを競うものにもなっている。より安全に、より快適に「遭難する技術」といっていいかと考えている。
経営的な危機管理には無数の考え方と方法論が存在すると思うけれど「遭難の権利」はシンプルに、強固に、リーダーに附属する登山の基本原則だと考えている。
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