軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座092】アラコキ(アラウンド古希)登山を考える・3――2009.11.25



■御坂山地西端のパノラマ台に登った。素晴らしい秋晴れ、すばらしい冬富士。アラコキのみなさんも(もちろんアラカンのみなさんたちも)飛び上がりたい気分になった。


■高峰高原に連なる水ノ塔山。冬にスノーシューで歩く尾根を紅葉の季節にたどった。山頂にあった大きめの岩に全員が乗れるかどうか。アラコキ世代も何人か混じって。

●装備の点検

 最近、70歳を目前にして山歩きを始めたいという人が私の周りで増えてきた……ということから「アラコキ(アラウンド古希)登山」を考えるようになったのだが、そういう人へのアドバイスは簡単だ。年齢に関係なく、入門編をくぐり抜けてもらえればいい。
 同時に、私のまわりには65歳を超えたあたりから「引退」の時期を考えている人がいる。体力の衰えを痛感するようなバテ方を何度か体験すると、そろそろ引き時かという思いが高まってくるようなのだ。悪いことに、私もそういう場面であまり親切ではないことが多いので、見放されたと思う人もいるだろう。
 10年ほど前、女性会員のひとりが、こんなことをいっていた。
 彼女が参加している別の会のリーダーの男性たちは、ちょっと自信をなくすと、まだ山を歩けるのに引退したがるというのだ。リーダーとしての自信が揺らいできたからといっても、山を歩く楽しみを捨てることはないのに、というのだ。
 若い人たちなら、登山を始めて3〜4年後にはヒマラヤに出かけて行く人がいてもおかしくない。私のまわりでもプロガイドのサポートを受けて、ヨーロッパアルプスで本格的な登山をするというような人が出ている。エベレストを目指すような人はいないが、ひとりぐらいいたっておかしくない。
 歳をとっても、人はけっこう突っ走る。挑戦的な「右肩上がり」の登山にハマる。
 一方で、ある日突然「右肩下がり」になる。老化現象のひとつが顕在化したと考えていい。右肩上がり時代の夢と、現実の肉体がどんどん差を広げていくように思われる。肉体的な不安があっても気持ちとしては「未踏の山」に惹かれている。そういうかたちの背伸びが肉体に無理を強いる。そして無理が明らかになると愕然とする。
 それは大国日本が置かれている今の状況と似ているかも知れない。90兆円規模の国家運営を40兆円規模の歳入で行おうというギャップをどう埋めたらいいのか、内側にいる人間には分からない。知恵を絞って大国であり続けようとするのか、できるだけ有利な条件を選びながら小国への道を探るかで進むべき道は大きくちがってくるというのに。
 それと同様の選択を迫られてくることが「アラコキ」世代の登山者には必ずある。山との関係をどのように組み立て直したらいいのか、あるいはいさぎよくリタイアすべきなのか。
 そういう選択は人生の黄昏にいくつも登場してくるのだと私は思う。……だから、いつかはリタイアする登山において、もうすこし肉体を正面からぶつけて、自分の内側の世界を探ってみていただきたいと考える。
 私がいう「軽登山」では行動領域を「一般登山道」に限定する。そのことで、登山道の難易度よりも肉体をとりまく周囲の環境と対話しやすくなる。夏の暑さにしても冬の寒さにしても、そこに「水」をはさむことによってからだと対話できる。私はだから夏冬全く同じ条件で「東京の水道水」をもって出る。ザックの外側ポケットにさしてある水筒の水は、冬には薄氷が張ったりする。暑さの中で生ぬるい水を飲み、寒さの中で染み渡るような冷たい水を飲むのも、水とカラダとの関係を変えたくないからだ。軽登山では、山の常識としては愚かな試みも、環境と肉体の関係を確かめるためにやってみることは可能だ。
 冬の保温衣類にしても、ヘビーデューティで固めるのではなく、たとえばユニクロのマイクロフリース(今年は薄手の室内着がすばらしくいい)を状況に応じて複数枚重ねることとで環境と肉体とのあいだの断熱バリアを数値的に管理することができる。
 ついでに寒さ、冷たさに関していえば、カラダに悪い影響が出そうなぎりぎりの状態を感知したら、使い捨ての貼るカイロでレスキューする。
 外気温を計りながら自分のカラダが環境にどのように翻弄されるかを「楽しむ」というようなことが「軽登山」では許される。
 熊がいないときに熊よけの鈴を鳴らす愚かさは、山と裸で向き合おうなどとは考えない登山者だという表明だ。確率論的リスクからいえば、万にひとつ遭遇した場合でも、ツキノワグマよりスズメバチのほうが圧倒的に危険だ。恐怖によって覆い隠されている危険に素肌をさらしてみるだけでも、自分の中に眠っている潜在的可能性をひとつひとつ取り出して確認してみるという作業になる。「軽登山」でやれる新しい体験はまだいくつも残っている。
 それをいくつかやってみてから、リタイアしても遅くないという論法で、わたしは引き留めたい。だから、年寄りの冷や水に見えるだろうと思おうけれど、持ち物をオーバークオリティから引きずり出して、軽量コンパクトの方向にすすめ、靴も軽くてしなやかなもの、ザックはカラダフィットするものとして、装備の一新を計ってもらいたい。
 その上で、自分の弱点を確認したら、ひとつひとつ効果的につぶしていく。周囲のみなさんに山の歩き方のリセットをすすめるのはそういうことだ。

●服装の点検

 最近、筋力サポートのタイツをはいている人が多い。安心感ということではいているのだろうが、多くの場合、自分自信の肉体的能力を見えにくくしていると思えてならない。
 もし、ひざや腰などに不安があるのなら、まずはテーピングを試みてみることをすすめたい。なぜなら、自分の肉体に弱点があると感じるなら、それを自分で探し出してみるべきだろう。テーピングはその位置や強さを自由に調節できるので、自分のカラダと時間をかけてじっくりと対話できる。登り・下り・大きな段差・長い距離など、登山道によってさまざまに与えられるストレスがどの部分にどの程度たまってしまうのか、そういう「事実」を確認するということは、自分自身を知るということとほぼ重なってくる。
 カラダにはすばらしい警報装置があちこちに装着されていて、痛みという黄色信号を発してくれるけれど、じつはその前にちょっとした違和感や、痛みの前兆があることもわかってくる。その感度のいいセンサーをどれだけきっちり使えるかで、カラダの特定の場所に集中してくるストレスを事前に解放させることもできるし、痛みが出てしまってから、それをコントロールしつつ散らしていくことも(100%できるとはいえないが)可能だ。
 暑さ寒さや、水分調節も、すべてはカラダの側の問題だから、過剰包装は贅肉となって環境との関係を複雑にする。だから「軽登山」では裸の状態を意識した上で、適当なボリュームのバリアを重ねていきたい。しかもそれをこまめに調節することによって、カラダを「気持ちいい」状態に戻してやる。プラスマイナス・ゼロにセットできるようになったらラッキーだ。環境とカラダの関係に割って入るインターフェースというのはそういうことだといえるだろう。
 だから、肌着はきちんとしたい。その上に着るものは、自由にいろいろ……やってみたい。その結果、自分のカラダがもっている余裕幅が見えてくる。
 これからの冬の季節は、自分のカラダの余裕幅を知る絶好の季節といえる。外側に羽織るものを細かく調節することで、風の冷たさや日だまりの暖かさといろいろと対話できる。
 頭で服装を決めるのではなく。いつも肌着プラスαというシンプルなかたちをベースにすることで、冬の空気とカラダを対話させることができる。
 登山用の衣類は割高に思えることが多いけれど、パンツ、タイツ、シャツ、ソックスあたりはきちんとしたアンダーウエアを一式購入して損にはならない。日常生活で便利な「あたたかい肌着」などに惑わされずに、肌を「湿らさない」だけの肌着をきちんと用意したい。そうすれば、いざというとき使い捨ての貼るカイロをその肌着の上から貼ればいい。どこにどのように貼っても低温やけどの危険はない。貼ったまま山小屋で寝ても、火傷した例はひとつもない。肌のまわりが乾燥しているということが、危険防止に重要な役目をになっている。
 非日常的な環境に身を置いてみることで、自分のカラダがまだ環境適応能力をもっているかどうかを推し量ることができる。アタマとカラダのギャップが調整できる限りにおいて、リタイアする必要はないと考えたい。
 女性のみなさんの多くは、そういう軽登山を日常化することで、無限に続くイメージを保とうとしている……ように見える。


★目次に戻ります
★トップページに戻ります