軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座097】水について(4)非常用の水――2010.4.12
*このシリーズは全6回で、(1)飲み方、2)暖かい水、(3)冷たい水、(4)非常用の水、(5)山の水、(6)スポーツドリンク、(7)運び方――となります。

好みの飲み物を工夫するという考え方の前に、単なる水分という考え方があります。その「普通の水」はさらに危機管理用としての応用力もそなえています。



■奥多摩三山のひとつ御前山(1,405m)の登り途中。カタクリが終わって新緑の季節だ。休憩ごとの水分補給をルーチン化するとメンバーの小さな不調に気づきやすい――――2003.5.14



■北アルプス・西穂独標(2,701m)の山頂。ここまでは誰でも登れるので、西穂高岳への最終ゲートという雰囲気が漂う。リーダーがお茶など沸かすとポイントを稼げる場面。――――2004.9.15


●私は「東京の水道水」派

 私は、初めておつきあいする人にはペットボトルのミネラルウォーターを中心に1リットル以上(夏なら1.5リットル以上)用意することを指示します。
 なぜ、ペットボトルなのかというと、飲んだ水の量が見えるからです。どんなふうに飲むとどのくらい飲むことになるのか。そんな単純なことさえ最初はわからないからです。
 ではなぜミネラルウォーターなのかというと、できれば「普通の水」としたいことに対する妥協点です。多くの人はスポーツドリンクのほうがいいのではないかとか、アミノ酸飲料や野菜ジュースがいいのではないか、あるいはお茶が欲しくなるのではないかとか、いろいろ考えるはずなので「飲み物」と「水分」とを切り分けたいと考えているからです。
 ベテランの人たちは飲み物に対して、かなり手をかけています。温かい飲み物に関しては「熱い」か「暖かい」か温度管理が重要ですし、冷たい飲み物も冷たい食べ物とセットで考えていて、冷えたフルーツなどが周囲の皆さんに振る舞われたりします。
 そういうことは承知の上で、私は一年中、真夏の低山でも厳冬期の雪山でも、純粋な水道水一本で通しています。
 そこまでやせ我慢する必要はありませんが、できるだけ「普通の水」にして、それが自分のカラダにどのように吸収されていくのか、カラダの意見をきちんと聞いて欲しいのです。スポーツドリンクがいいかといえば、もちろんいいでしょう。でもそれはまだアタマがいいと考えている段階で、カラダがやはりいいと思うかは別の話です。カラダに「普通の水」を与えた後で、ほかのいろいろなパワーウォーターをテストしてみるならいいとして、スペシャルドリンクを勝手に選んでほしくないのです。


●医療用としての水

 「普通の水」にはもうひとつ別の意味があります。100%果汁のジュースを頭に振りかけることができるでしょうか。
 水の役割は飲むだけではありません。夏にもっとも危険なのは樹林帯ではスズメバチ、高山帯では雷です……が、ありとあらゆる場所で起こりうる危険といえば熱中症です。いずれも死に至る危険として考えなければなりません。登山道で熊さんと遭遇するかどうかというようなロマンチックな危険とはレベルが全く違います。
 その熱中症は山の中で発症したらその時点で「死亡率」が即座に立ち上がってくるような恐ろしさがあります。その日、なにか通常とは違う感じがしたら、とりあえずアタマに水を振りかけてみるというようなパフォーマンスが重要になります。メンバーに対するリーダーの役割は、じつはそういうところにあると考えます。
 カラダの深部体温がたった1度C上下するだけでカラダに変調が現れるといいますし、3度も上下すると、どちらに触れても命にかかわります。夏なら全身に水を振りかけるなど、ありとあらゆる手段を講じる必要が出てくるかもしれません。火事の初期消火のような水の使い方に対しても「普通の水」は有効なのです。
 もっとはっきり医薬品としての水です。転んだり、落ちたりしたとき、擦過傷が問題になります。たいていの人は消毒薬だとか絆創膏を取り出します。日赤の救急法の指導員と仕事をしていて日本でもはっきりと指導されていると知ったのですが、たとえば土のついた傷口に薬を塗るのは、破傷風という観点からすれば自殺行為かもしれないのです。破傷風菌は土の中なら、どこにでもいると考えるべきだといいます。そして嫌気性の細菌なので、空気を遮断すると元気になります。消毒薬と呼ばれるものがその効果を存分に発揮すればいいのですが、傷口にふたをして嫌気性の細菌に活動の場を与えるような役割を果たしてしまう恐れもあるというのです。たちまち破傷風にかかる危険が出てきます。
 破傷風のワクチン接種は1968年以来三種混合接種によって行われるようになったので、日本国内での年間の患者数が千数百人から数十人に激減し、死亡率も約8割から5割以下へと激減したといいます。しかし土壌中に広く分布し、小さな傷口からでも侵入し、3日から3週間の潜伏期間を経て全身に広がると、ある日突然呼吸筋の麻痺によって窒息死するなど、恐ろしい感染症には違いないのです。とくに山中での擦過傷においては。
 そこで、土で汚れた傷口はすぐに洗い流して、一度乾燥させ、そのあと初めて通常の傷の処理を行うということが重要です。
 じつはマムシなどの蛇毒も、傷口付近に残っている毒を一刻も早く洗い流すのが先決で、次に毒液吸い出し器(ポイズンリムーバー)などを使うのが正解。ナイフで傷口を広げるなどというのは素人だましの売文的解決法というべきです。入ってしまった毒は全身にまわらないように止血などで時間稼ぎしながら病院に急ぐしかないのです。


●リーダーに提案

 私はリーダーやリーダー役や、世話人型リーダー、あるいはリーダーとメンバーを一人二役の単独行……などのみなさんに、非常用の水を3リットル(できれば6リットル)持つことを強くすすめたいと思います。
 携行すべき非常用の水自体は、1リットルもあればそれなりの仕事をしてくれます。メンバーの中に水が足りなくなった人が出ても、やりくりの仕方によってはそうとう有効に使えます。
 ではなぜ、さらに水を持つのかというと、リーダーとしての覚悟を水の重さで表現してみていただきたいという提案です。
 私が若い頃、強化訓練と称して新人に水や石を持たせることが一般的でした。リーダーは小さなサブザックひとつで(十分な思考能力を確保するという名目で)目を光らせているという構図です。シゴキ事件という死亡事故が起きて大きな話題になった時期でもありました。私が所属した探検部は(大学によって異なりますが)体育会系と文化系の混在するクラブなので、シゴキ系の部員と反シゴキ系の部員との対立があったように思います。
 いま、私がリーダーのみなさんに対して提案したいのは、だれかを連れて行く立場になったとき、いちばん弱いメンバーの気持ちをすこしでも理解する姿勢を持ちたいということです。一種の重しとして「3リットルの水」あるいは「6リットルの水」を加えて欲しいのです。
 強化訓練の重しと同じと考える人もいるでしょうが、私は違った方向から見ています。3kgのウエートを加えると、当然肉体的負担を感じます。初心者の立場をすこし理解できるので、ペースメークにやさしさが出てきます。そしてそこから、歩き方やナビゲーションに関する新しいアイディアが生まれてくる可能性があるはずなのです。
 ではなぜ「6リットル」もおすすめなのかというと、リーダーとして「プラス6kg」を持つということは、もしなにか非常事態に遭遇したときには、だれかのザック(その目安を6kgと考えています)を持つことができるという安全保障としての「6リットル」です。水はいつでも捨てられます。
 しかし通常、6kg前後の荷物を背負っている場合、ジャストフィットのザックは20リットル前後です。軽登山のみなさんの持ち物の比重はだいたい0.3と見積もれるからです。しかしさらに6kgのザックを併せ持つとなると40リットル前後のザックがジャストフィットとなります。つまりメンバーのみなさんのザックより20リットル前後大型のザックを(できれば)リーダーのみなさんには持ってもらいたいと私は提案しているのです。ちなみに私は100リットルのザックを常用しており、6リットル級のザックなら2つは完全に内部に収容できます。
 じつはだれかを助けるためではありません。なにかの事情でスケジュールが押して、下山後から帰宅までの予定が大幅に遅れそうなときなど、リーダーとしてのスケジュール管理の手法として、一番遅いペースの人のザックを持たせてもらうという手段を準備しておきたいのです。
 私はすでに老境ですからそこまでで手を打っていますが、本来ならいざというときにはだれかを担ぎおろす能力をそなえているかが、問われるわけです。担ぎおろす能力が持てないなら、その手前で、なんとか自力で下山してもらう手法をできるだけたくさん用意しておきたいという危機管理の一例を「非常用の水」に重ねているわけです。そしてザックの底に放り込んでおく非常用の水は、数か月放置しても腐らない「水道水」がベストなのです。


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